靖国神社参拝論議毎年、8月15日の終戦記念日が近づくと必ず閣僚の靖国参拝の論議が姦(かしま)しくなる。毎年、毎年、同じように繰り返され、同じように蒸し返されるばかりで、全く進展しないこの問題ほど非建設的で不毛の議論に思えるものはない。
大臣が靖国神社を8月15日にお参りすれば国際的な政治問題になるから、今年もそれを避けて塩川大臣や鴻池大臣は8月11日や13日にお参りするのだと言う。小泉首相にいたっては8月にお参りすれば問題になるから、既に1月にお参りを済ませたと自慢たらしくシャーシャーと言っているが、思考のポイントがずれていやしないか?靖国神社に祀られた戦争犯罪人を国家元首や国家を代表する者が参拝するところに問題がある訳で、靖国神社や終戦記念日である15日というのが問題ではない筈である。
どういう思いでお参りしているかという「思い」が問題なのであって、「いつ」お参りするかというのが問題なのではない。また、お参りの仕方についても一考を要するのではないか?一般の参拝客は本殿の前に設えられた賽銭箱の前でお参りしているにもかかわらず、大臣たちは何様かといった顔付きで本殿へ上って拝殿の中でお参りしているではないか。内閣の構成員である大臣だから昇殿が出来ていることについては議論の余地はない。
私人であることを主張したいのであるなら、せめて先ずは一般人と同様に本殿前の玉砂利に並んでお参りをすべきだろう。このような体裁に拘っているようでは、私人であるか公人であるかを論じること自体が不毛である。大体、「…だから…する」という発想は形式に拘る人たちにしばしば見られるパターンであるが、それにしても「1月だからよい」や「11日だから問題ない」などといった発想は目先の小手先事にしか見えない。この程度の発想しか湧かないというのは寂しいものである。
8月15日には戦争犠牲者の追悼集会が武道館において内閣主催で行なわれている。これには天皇陛下と皇后陛下も出席され、堂々とお言葉を述べられる。勿論、小泉首相も出席して追悼演説をする。この戦争犠牲者の中には戦争犯罪人も含まれているものと思うが、何故、この追悼集会は国際問題、というより中国側は政治問題としないのだろうか?こちらの方が余程政治的な匂いがする。
宗教と近代の政治とは本来相容れないものである。靖国神社に遺骨が納められているところに問題の原点があるように思う。靖国神社と切り離して新しい慰霊の施設を作ってはどうかという議論もなされているが、一方では靖国神社に納められた遺骨を奪還しようという動きもあるやに聞く。元来、犠牲者を弔うために、遺骨や宗教が必要だろうか?私は不要と思う。
歴史を紐解いてみると、軍神として祀られている人たちの神社というものもある。原宿の東郷神社は東郷平八郎元帥を祀ったものであるし、赤坂の乃木神社は乃木希典将軍を祀ったものである。職業軍人から見れば、日露戦争の殊勲者が神様として祀られ、太平洋戦争の軍人は犯罪者として裁かれることには納得が行くまい。何故なら、どちらも国家のために奉仕し、国家意思の発露であることには違いないからである。
彼らは日露戦争の時代の人たちであるが、中国の論法から言えば、これらの軍神を祀った神社を宗教法人として国家が認めたことについても異論を唱えなければなるまい。そうでなければ、趣旨に一貫性がない。さもないと、靖国神社参拝だけに難癖を付ける中国は内政干渉と言われても仕方あるまい。
第二次世界大戦終了後、ドイツではこの問題について「ナチが戦争を惹き起こした張本人であり、国民はその犠牲者である」という考え方を採用してケリを付けているらしい。ユダヤ人とユダヤ系ドイツ国民とをホロコーストに送って大量殺人を行なったヒットラーを戦争犯罪人ではないと擁護する人がいる筈もなく、そういう意味ではヒットラーのドイツと東条英機ら軍部の日本を一緒に論じることは適当ではない。
靖国参拝の趣意が、戦争犠牲者を悼むものなのか、戦争協力者への顕彰なのかによって靖国神社の是非が問われている訳であるが、神社という宗教観と戦争を指令した戦争犯罪者を祀っているところに議論が分かれる原因がありそうである。