久し振りに、鍋島藩の武士道本「葉隠」の中から現代人にも大きな示唆を与えてくれる言葉を選んで紹介しよう。世界中でわが国ほど宗教性の低い国民は珍しいと言われる。数多くの仏教があるが、仏教典の中身を知っている人自体が殆どいない。何故なら「ナムアミダブツ、南無阿弥陀仏」とか「ナンミョウホウレンゲキョウ、南無妙法蓮華経」と6文字か7文字の言葉を唱えれば極楽へ行けるという極めてアバウトな宗教であるから、仏教の教えが社会の倫理観や価値観として根付く筈がないのである。キリスト教やイスラム教のようには生活の中に根付いていないのだから、勿論、私自身も全く知らない。
善悪を抜きにして生活の規範になっていると思われる宗教を強いて挙げれば、極く一部の人たちだけの生活信条となっている妙な新興宗教くらいなものだろう。ところが大多数の欧米人の価値観や倫理観の基礎となっているのはキリスト教であり、同じようにイスラム教に至っては世界中の国々に散らばった多くの信者が敬虔にアラーの神を崇め、そしてそれらの宗教が社会規範となり価値観となって日々の生活の中に生きている。
ところが、わが国の国民にもそれらの宗教に似た独自の厳しい倫理観や価値観が根付いて、社会規範となっているものがある。しかし、外国人の目には、これが何なのか、不思議に映るらしい。それについて「武士道」を著した新渡戸稲造が次のように述べている。何故に日本には宗教が根付かなかったかについてはここでは触れないが、「日本人の厳しい倫理観が何処から来ているのか」について、欧米人から尋ねられた彼は、一瞬、腕を組んで考えてから『日本には武士道というものがある』と答えたらしい。
至言である。確かに日本人の心には、今も尚、武士道の「恥の精神」が祖先から連綿と受け継がれて来ている。「武士に二言(にごん)なし」、「武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」、「武士は相身(あいみ)互い」、「武士は二君に見(まみ)えず」などといった言葉が、謂わばある面では規範として生活の中に生きていることを見ても分かる。武士階級とは最も遠い存在であった商人の心の中にさえ「士魂商才」という言葉があるくらいである。
武士には、高潔な人格と高邁な思想が求められ、戦の無い平和な時代になっても武士はそれを実践して来た。従って、武士は最上級のインテリ階級に属していたのである。その武士が、最も軽蔑するのは「卑しい心」であり「約束を破ること」であり「恩義を忘れぬ心」であり「冷静を欠くこと」であり「利害で判断が変わること」などであった。これらが全て「恥を知る」という精神である。この延長線上に武士の潔さを象徴する「切腹」という美学的行為があったのである。
武士階級は全国民の10%に満たないくらいしかいなかったらしいが、「恥の精神」がそれだけの存在感を示し、一般民衆の共感を得て現在まで引き継がれて来ているのは特筆に価するだろう。では、武士は他人とはどのような付き合い方をしていたのだろうか。
武士の価値観の極限に「切腹」という行為があるように、自らに対しては極めて厳しく、他人に対しては寛容と対等の精神をもって接している。「どんな人間にも学ぶべき点がある」とか「成り上がり者と見下すな」と相手を一人前に評価しながら、インテリ階級である自らを謙譲している。そして、人と付き合う際には「徒(いたずら)に狎(な)れに陥るな」と戒め、「言動に気を付け」て「常に初対面のつつましさで付き合うべし」と君子の如水の交わりを勧め、小人の如醴(れい:甘酒のこと)の交わりにならないよう警告している。
また、「『切れ者は、驕りやすい』傾向があるので注意しろ」という言葉は、相手に「この人はやり手だ」と印象付けようとするパフォーマンスの強い人が多い現代人への警鐘である。そして、「過ちの一つもない人間は信用出来ない。これは欠点を隠しているのだ」と完璧な人間なんている筈がないと看破している。完璧な人間はむしろ用心して疑ってかかるべきなのである。
人には欠点はあるものだと肯定した上で、人に接しなければならないと教えているのである。予め、欠点を欠点として認めていれば、欠点は気にならなくなる。気にならないから、腹も立たなくなるという訳である。