以久遠氏の Beauty,Business & Favorites       旅紀行     VOL. 59 / 2003.10.15

箱根湯本温泉、「吉池旅館」  

 箱根は富士山麓の山と思っている人が多い。そのせいか、大抵の人たちが静岡県だと思っているが、富士山とは30km以上も離れた箱根山というれっきとした神奈川県唯一の活火山で、主峰神山は1438mの高さがある。富士火山帯に属し、頂上近くの火口原の火口(カルデラ)湖の芦ノ湖が有名である。芦ノ湖の周りには沢山の名門ゴルフ場がある。

 芦ノ湖遊覧船乗り場近くの箱根街道には昔のままに保存された石畳の旧道と、陽も差さないように鬱蒼と繁った杉並木の東海道がある。雲助が徘徊し、徳川幕府が「入り鉄砲と出女」を厳しく改めたところである。その関所も再建されているが、建物の意外な小ささに驚かされる。建物の中には武家女の人形と改め役の役人の人形が置かれて「改め」風景を見ることが出来る。

 「箱根八里」と言われるように神奈川県側の湯本から静岡県側の三島までくねくねと曲がりくねった国道一号線は大体40Kmくらいの距離がある。「越すに越されぬ箱根山」と歌われた胸突き八丁の山道は急峻で険しく、箱根峠まで殆ど下りの無い上り坂で、箱根湯本はその山道の神奈川県側の入り口にあたる。小田原から直線で10kmのところにある最高地点の箱根峠の高度は810mであるから、1km毎に80m登る計算になる。

 箱根の山間の谷間を殆ど国道一号線に添うようにして清流早川が流れており、国道一号線を登って行くと右側に、山の急峻な傾斜地にしがみつくようにして小田急線の湯本駅がある。早川とは、箱根山の北側から流れている早川と南側から流れている須雲川が箱根湯本で合流して早川となり、小田原城の南の海へ注いでいる清流渓谷で、夜になると箱根湯本の温泉街に早川のせせらぎが聞こえるような静寂が訪れる。

 道路の両脇に小さなお土産店の建ち並ぶ国道一号線を200mばかり登ると、数十年前から全く変わらぬ古ぼけて褪せた「湯本温泉郷」と書かれた看板が見えて来る。その看板の下を左へ入る。車がやっと擦れ違えるくらいの細い路地で、曲がった直ぐのところに須雲川に掛かった鄙(ひな)びた橋がある。

 その橋の脇には、知る人ぞ知る「自然薯(じねんじょ)蕎麦」という田舎家造りの蕎麦屋さんがある。お客さんが10数人も入れば満杯になる小さな店だが、11時を過ぎると店の前に行列が出来るほど繁盛している。私はこの蕎麦が好きで三回ほど入ったことがあるが、腰の強い独特の蕎麦は好みが分かれるかも知れない。

 蕎麦屋さんの前を通り過ぎた突き当たりに和式旅館の「吉池」がある。敷地も一万坪くらいの広さがあり、箱根山の緩やかな起伏を巧みに利用した自然のままの庭園が如何にも贅沢で素晴らしい。「吉池」は、御徒町にある日本一の魚の売り場を持つ庶民的なファミリーデパート「吉池」と同じグループらしいが、旅館「吉池」は庶民感覚とは程遠い豪壮なホテルである。湯本は勿論のこと、箱根でも高級旅館のうちに入る。

 一泊数万円もするホテルなので個人ではなかなか泊まれないが、箱根に来てコーヒーが飲みたくなったときはいつも吉池旅館のロビーに行くことにしている。箱根湯本の近くには駐車場のある喫茶店が一軒も無いのである。玄関を入った正面にロビーがあり、ロビーの前には錦鯉が悠揚と泳いでいる池がある。池の周りにあしらわれた巨岩が鬱蒼とした木々に見事に調和して気持ちが安らぐ。ロビーのソファーに腰を下ろしてコーヒーを啜りつつ、巨岩と池の芸術を愛でながらのんびりと一時を過ごすのは実にいいものである。

 昔、ある団体の理事をしていた頃、年末の理事会は毎年吉池旅館で開かれていたので、三、四回、泊まったことがある。奥の庭には池のように広く、水泳が出来るくらいの深さがある巨大な露天風呂がいくつもある。鬱蒼とした森の中の広々とした天然温泉の露天風呂で、他のお客さんを気にせずにゆっくり寛げて実に気持ちが良い。

 敷地の広さにも驚くが、調度品も豪華である。由緒のありそうな旅館だと思ったらその筈で、もともとは三菱財閥の岩崎家の別荘だったものだそうである。道理で豪快で贅沢な訳が納得できた。三菱財閥の創始者岩崎弥太郎・小弥太親子の別荘として有名なものは今は美術館となっている静嘉堂(せいかどう)文庫だろう。ここは三個しか残っていない国宝曜変天目茶碗の一つを所蔵していることでも有名である。

 広大な屋敷跡である静嘉堂文庫美術館は世田谷区岡本のごみごみした住宅街の中の、一際小高い丘の上にある。しかしその小高い丘の一区画だけは樹木が鬱蒼と繁った別世界である。森の中に造られた林道のような緩やかな上り坂の道をかなり走って、やっと赤煉瓦造りの美術館の玄関前の車寄せに出る。古色蒼然として浮世離れした佇まいであるが、この箱根湯本の「吉池」も負けず劣らず浮世を忘れさせてくれる。


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