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「臨機応変」という四文字熟語を口語体に言い換えれば「出たとこ勝負」という言葉になる。「出たとこ勝負」という言葉はどこかに投げやり的な無責任さを感じさせるが、「臨機応変」という言葉からは五感を研いで油断なく身構えている姿が浮かんで来る。意味はそのまま「機に臨み、変に応じて、適宜な手段を施すこと」ということであるが、不測の事態を自然流で受け止める兵法家の不断の心構えであろうか。
維新前夜、最後の将軍である徳川慶喜が江戸城を無血開城して王政復古をする腹を固めた時のことである。慶喜は無我無私の幕臣である山岡鉄舟を呼んで、駿府まで上って来ていた官軍の総大将西郷隆盛に会って王政復古についての方法を折衝するよう命じた。命を受けた山岡は、西郷に会う前に幕府軍の総大将である勝海舟の肚(はら)を確認するために勝宅を訪ねる。その時、勝海舟から「何か策はあるのか?」と問われて「臨機応変は胸中にあり」と答えたそうである。
山岡鉄舟は従者一人だけを連れて駿府の敵陣奥深くまで乗り込み、西郷隆盛と直談判をすることになるが、暗殺が日常茶飯事に行なわれていた暗黒時代に山岡鉄舟が駿府の敵陣の中を堂々と往来する様は、海舟をして「坦途広路(平坦な広い道)を往くが如く、真に臨機応変のところ、ほとほと感心なるものだ」と感嘆せしめたという。こうして鉄舟は、「無血開城談判の図」という絵にもなっている、五反田の薩摩屋敷内において勝海舟と西郷隆盛の無血開城の会談をまとめたのである。後に勝海舟はこの時のことを思い出し、「山岡は作戦計画はなさずして、作戦計画が出来ているのだからなぁ」と感心したらしい。さすがは兵法の達人である。
後日、西郷隆盛が勝海舟に「あの人(山岡)は、何分にも腑(ふ)の脱けた人でござる」と評したらしい。海舟が「それはどういう意味だ?」と問うたのに、「生命も名も金もいらぬ人は、始末に困る」と西郷が答えたという有名な逸話が残っている。維新後、井上馨が勅使として山岡宅を訪れ、無血開城の立て役者である山岡鉄舟に勲章を贈ろうとした際に、山岡から「いやしくも臣民としてなすべき仕事をしたまでだ。そのためには相当の衣食費を賜っておる。何ぞ別に勲章を受くべき理由はあるまい」と拒絶され、勲章が欲しくて堪らない井上馨が困ったという話をしているのである。
幕末、山岡鉄舟が駿府の官軍宿に赴いて西郷隆盛と面談する際に、何が起こるか予断を許さないような状況の中にもかかわらず、何が起こっても対処できる覚悟と自信と構えが出来ていたからこそ「臨機応変」が出来たのである。いちいち「こうなったら、こうしよう。ああなったら、ああしよう」などと想定問答集みたいなものを作って対処するようではこうは行かぬ。概して、予想もしないことが起きることの方が多いからである。臨機応変とは正確なアドリブ行動であって、残念ながらマニュアル人間にはこのような芸当は出来ない。
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