以久遠氏の Beauty,Business & Favorites 食紀行 VOL-06 / 1999.3.1号
湯島天神前、手打ち古式蕎麦JR御茶ノ水駅を東口に降り、聖橋(ひじりばし)を渡ると湯島聖堂の脇に出る。湯島聖堂の塀に沿って北へ歩いて行くと神田明神のある蔵前橋通りに出る。神田明神の方へ曲がらず、そのまま横切って真っ直ぐ何処までも行くと、学業の神様菅原道真と白梅で有名な湯島天神にぶつかる。その向こうは上野の不忍池(しのばずのいけ)である。
その湯島天神の手前に「三組坂上」という小さな交叉点がある。その交叉点の直ぐ近く、湯島天神に向かって右側に、折角の食欲を奪うような真っ黒い蕎麦を食べさせてくれる「手打ち古式蕎麦」という、店名らしからぬ名前の蕎麦屋さんがある。風情のある構えの小さな店で、一間間口の開き戸を開けると、テーブルは5卓か6卓しかない。お客が10人も入れば、歩くことも容易でないくらいの、それ程に狭小な店である。と書くと、「な〜んだ、そんな蕎麦屋ならどこにでもあるよ」と思われるかも知れない。
ところが、どっこい、そうは問屋が卸さないのである。実は、この「手打ち古式蕎麦」という店の「古式蕎麦」というのがユニークで実に美味いのである。古式蕎麦というのは、見かけは烏賊(いか)スミのスパゲッティとよく似ていて真っ黒い色をしている。一見しただけでは食欲が減退するような代物である。これまで数人連れて行ったことがあるが、中には真っ黒い蕎麦を見ただけで「私は普通のザル蕎麦にするよ」とスゴスゴと引き下がった者もいるくらいである。
一見、ゲテモノっぽい色をしているが、食べてみると独特な香りがあって、これが実に美味い。もり蕎麦は、そこらの蕎麦屋では500円前後が通り相場だが、「手打ち古式蕎麦」の真っ黒い古式もり蕎麦は一人前900円もする。そういう意味では滅茶苦茶に高いと言えるが、更科蕎麦の大盛りの比ではなく、竹ざるに山盛りで出て来るので量を見れば納得する。むしろ安いと言えるかも知れない。
タレが独特で、古式蕎麦には大根下しが相性がよいらしい。ピリ辛の大量の大根下しに、好みに合わせて醤油を垂らすだけの簡単なタレだが、古式蕎麦の香味に大根のピリッとした辛さがすこぶる合っている。大根おろしが大好物である私は初めて食べた時に一遍でファンになった。しかし、蕎麦粉作りも大変だが、商売とは言え、ピリ辛の大根を探すのも大変だろうと思った。
麺類で香りを大事にするのは、蕎麦だけだそうである。そう言えば、うどんも素麺も味はあるが、香りはない。この蕎麦の香りは、蕎麦の実の甘皮の部分に含まれているそうである。甘皮とは、栗の実では渋皮と言われている部分で、この甘皮を蕎麦粉に混ぜることによって、蕎麦の色が黒くなるのだそうである。従って、蕎麦の色が白くなればなるほど香りが少なくなるということになる。
しかし、甘皮が入っている蕎麦は、香りが良くなるかわりに、食感がモソモソ、ボソボソとした感じになりやすく、美味しい麺を作るのが非常に難しいらしい。従って、食感がよくて、美味しい「古式蕎麦」が作れる職人さんは、全国でも数人しかいないそうである。その数人の中の一人が「手打ち古式蕎麦」の主人である。蕎麦が好きな人なら、一度は訪問する価値のある希少価値の店である。