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うおりゃ☆ワシが「自由煩悩党総裁」、電脳和尚だ。 呵々、あらかじめ見せしめに羽交い締めされた使命の者よ。 感傷的干渉の浮遊的富裕とオサラバする時だぜ。 欠け出す前に幸福をkeepして駈け出す前に降伏するつもりか? 利口に丸めた背中の隅で、唐獅子牡丹が泣いてるぜ。 勝機は shocking、解脱は get out。 ミギを向いてもサヨクを見ても、馬鹿と阿呆のマイムマイムさ。 燃料は、念の量だ。思いの度合いで勝負を決めろ♪ さて今回は特別企画ということで、仏教復興運動の現場からの レポート第五弾だ。マスコミが報じない事実をお伝えしよう。 本文にある赤い括弧付き数字は現地で撮影しきた写真にリンク している。クリックすると別ウインドゥが開くので、ぜひ見てくれ。 てなわけで「義理人情☆泥んこ菩薩道」の始まりだッ! |
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近頃あちこちで耳にする言葉に、「共生」がある。きわめて不快な響きだ。 LOHASに通じる大名の道楽じみたその御題目は、満ち足りたサロンに流れる貴族趣味のBGM、もしくは 火も血も刀も無縁な安全地帯で吟じられる宮廷詩のようである。これを崇め奉る奴らが共産主義者くずれの 自称リベラル連中というのはお笑い種で済むとしても、 このような曖昧模糊たる理念に飛びつく心根が加速 してゆけば、やがていつか粛清の奔流に豹変してしまうことを、21世紀の我等は歴史経験として知っている。 共生は、自己犠牲無くして断じてあり得ない。 みずからを大所高所に置き、余暇を哀れみに充てるが如きはもっとも卑しむべき振る舞いであり、人を人とも 思わぬ点に於いて、独裁者が気紛れにやる慈善事業に等しい。無論、何もしないより数段マシだが。 自己犠牲を厭う知恵者が、共生、という美辞で身を守ろうとするのだ。所詮、自分を飾りたいだけのエゴで。 火と血と刀、これを仏教では『三途』と呼ぶ。 三途の川に飛び込む覚悟もないままで、“共に生きる”ことなど 出来ようはずもない。仲良しゴッコを人助けにされては、閻魔大王も舌を抜く作業で腱鞘炎になるだろう。 ここに、真の意味で自己犠牲を実践し、共生を貫徹している日本人がいる。 そのひとの名は、佐々井秀嶺(ささいしゅうれい)。 四十有余年、灼熱のインドに暮らし、犬猫以下に虐げられた被差別大衆と起居を共にし、時には血を吐き、 時には弾圧の猛火をくぐり、また時には凶刃を払い退けて生き抜いた、佐々井秀嶺。 日本国籍はとっくに喪失、今はインドの市民権を得て、満身創痍の老躯を熱き義侠心で奮い起こし、仏教の ふるさとに再び人間解放の法灯をともすべく、名もなき民衆の先頭に立って邁進している。 「いやぁ実は、今年の正月の説法で、“仏教復興のためならいつだって腕の一本ぐらいくれてやるッ” なんて みんなの前で勇ましく啖呵を切っちまったもんだから、ほれ、このとおりですわ」 佐々井師が豪快に笑う。差し出された右手には、肘から腕にかけて、ケロイド状の火傷の痕が生々しい。 「この辺から水が出るんだよ、ぴゅっと。膿もたまってるしねぇ。まだ肘も曲がらんしなぁ」 そう言いながら、またニカッと笑う。 去る四月、アンベードカル博士聖誕祭の行進を先導した際、手に持った 松明がすべって煮えたぎる油を右腕に浴びた。袈裟は燃え上がり、側に居たインド僧ダンマボディ師が身を 挺して救出。その時、ダンマボディ師も深い火傷を負った。 「今年は、仏教徒による平和人権団体『ALL INDIA DHAMMA SENA(全印度法兵軍)』がいよいよ活動を 開始するという、記念すべき年だからな。へこたれちゃおれんよ、ぐわっはっははは☆」 七十二歳の誕生日を目前に控えた佐々井秀嶺師は、焼けただれた腕を振り上げて、心意気を示した。 2007年8月28日。インド中南部マハーラーシュトラ州ナグプール近郊のマンセル。 (1) (2) 龍樹連峰の裾に広がる沃野万里の大平原で、釈尊以来絶えて久しかった仏教精神による社会運動団体が ついに復活した。「全印度法兵軍」と佐々井師が訳したその団体は、在家信者を中心に、非暴力を旨として 差別撤廃、少数派権利擁護、自由・博愛・平等の実現を目指す、ダンマ(正法)のセーナ(義兵)である。 30日の佐々井師の誕生会を結願日として三日間、法兵軍幹部会および発足宣言、加えて集中講義が開催 された。インド各地から参集した僧俗が、雨期後半の蒸し熱い中、口角泡を飛ばしつつ、長時間にわたって 熱い志をぶつけ合った。佐々井師は微笑みながらその様子を見守っていた。 (3) (4) (5) 8月30日早朝。ナグプール市内インドゥラ寺。 印度仏教会の本部を兼ねたこの寺は、佐々井師が住職を務める根本道場だ。京都南禅寺富士玄峰老師の 資金援助で建立された。今朝は、近郷近在に住む一般信者たちによる佐々井 “Bhante-Ji ”(バンテ・ジー。 お坊さま、お上人さま、といった意味)を囲んでの、お誕生会、である。 (6) (7) (8) 華やかなサリーでおめかしした女性や子供たちで本堂内が埋め尽くされる。演壇にはバースデイ・ケーキが 飾られ、佐々井師がナイフを入れて、代表信者に分け与える。お返しに佐々井師も口にするのだが、なにせ 一人対多数である。さすがに甘党の佐々井師も早々と降参した。ちなみにインドのお菓子は凄まじく甘い。 激辛カレー文化の反動であろうが、万事ほどほどを良しとする和食文化とはまったく正反対で、油断してると 攻撃的な甘さに頭痛を起こすことさえある。もしかすると、ブッダが『中道』を説いた理由は、案外、日常的な インド人の生活実感に基づいたものなのかも知れない。 (9) (10) (11) 続いて、今年から仏教徒子弟の教材として新たに寄贈されたパソコンの御披露目。佐々井師は壁書に設定 された自分の写真を見て、おおいに照れまくっていた。 「こりゃまいったなあ」 (12) 供養花を捧げる信者がひとりずつ佐々井師を拝礼し、誕生会は盛況のうちにお開きとなった。 (13) (14) インドの民衆は、本当に心の底から Sasai Bhante-Ji のことが、大好きなのだ。 マンセルでの集中講義を終えた30日夜。ナグプール市の公会堂で、誕生記念式典が催された。 (15) 「今夜は舞台にのるから、ちゃんとしとかなくちゃな」 (16) きれいに頭髪と不精髭を剃り上げ、真新しい袈裟をまとった佐々井師は、やはり威風堂々としている。 ゲスト出演の流行歌手が佐々井讃歌を唄い、来賓の挨拶が次々に続く。式もたけなわ、一般信者が舞台へ 上がり、佐々井師の足に額を付けて伏し拝む。どの顔もみな、はち切れんばかりの喜びに溢れていた。 彼らは何故これほどまでに、この異邦人を敬愛しているのだろうか。 (17) 近代合理主義に骨の髄まで侵された者の眼には、或いは迷信と映るかも知れない。実際、彼らの中には、 「Sasai Bhante-Ji に御祓いをしてもらったら病気が治った」 などと、まことしやかに語る人々もいる。 もし本当にそんな超能力があるのなら、とっくに自分の火傷を治して いるはずだし、佐々井師本人も、“拝み屋扱いは迷惑千万”と、きっぱり否定している。しかし、思慕の情とは 本来、不合理の産物に他ならない。 カリスマが示した深い愛情が、信者の目からすれば神々しく感じられ、 その人物によって導かれた精神の解放が『プラシーボ効果』を引き起こし、傷や病いを好転させることならば 科学的にも充分あり得る話だ。肝心なのは、彼らを惹きつけてやまぬ佐々井師の人柄である。 (18) ひとは、皆のために危険を省みぬ心熱き人物を見れば、同じく危険を省みず熱い誠を尽くすものだ。 インド民衆が佐々井師に抱く思いは、佐々井師の情念と「無私の歩み」に応えたものである。 現在、インド仏教徒は日本国民の総数と同じくらい存在するが、人口爆発国インドでは、まだまだ少数派と 言わざるを得ない。 圧倒的多数派を占めるのはヒンドゥー教徒。しかも、冷戦崩壊後の民族主義台頭により 右派勢力が日を追って増大し続け、 また高位カーストに属する都市部の富裕層にとってヒンドゥー教こそが 現在の幸福を保証(前世で徳行を積んだ功徳で身分の高い金持ちの血統に生まれた・・・等)してくれる宗教として、 愛国心=ヒンドゥー教、という偏った思潮が社会に闇をもたらしている。これがIT大国の、本当の姿だ。 そのため、カースト制度を否定し平等を説く仏教は、彼ら多数派にとって非国民、獅子心中の虫。ましてや、 仏教徒はヒンドゥー教の教義では神から見放された不可触民だ。そんな中で、指導者たる佐々井師のことを つけ狙う狂信的な Anti-Buddhist もいるのである。 今では高齢のゆえもあり、身辺を屈強な空手の達人が警護しているが、かつては佐々井師みずからが懐に 護身刀を忍ばせていたこともあったという。 「あの頃は、白刃を月にかざして “♪赤城の山も〜” とやった、国定忠治の心境だったよ。ぐわっははは☆」 祝祭の高揚感も落ち着いた数日後の朝、佐々井師からお呼びが掛かった。 「私が若いころ断食で籠もった洞窟に連れてってあげよう」 期待に胸が弾む。インド仏教会の公用車に乗せてもらい、一路、バダラワティ洞窟を目指す。 所要時間はナグプール市から片道三時間半程。視界の果てまで広がる地平線を、快適に突っ走って行く。 今を去ること三十数年前の、1970年。日本中が戦後復興の象徴というべき大阪万国博覧会の乱痴気騒ぎに 熱狂していた頃、遠く離れた南天竺で、青年僧佐々井秀嶺は大きな壁に直面していた。 官憲がビザ期限の延長を拒否して国外強制退去をちらつかせ、また若さゆえ仏教徒との間に無用な誤解や 軋轢も生まれ、それに加え、悶々とした「性」の悩みをも抱え込んで、佐々井青年は途方に暮れていた。 「なんでこの俺がインドから追い出されなきゃいけないんだ。 龍樹菩薩の夢の御告げを信じて今日まで命を 賭けてやって来たんだ。俺に、“汝速やかに南天龍宮城へ行け” と告げたのは、ナーガールジュナ(龍樹)が 化身したアンベードカル博士だぞ。インド人じゃないか。それなのに、インドの役所が退去しろ送還だ、とは めちゃくちゃではないか。こうなったら、直に仏に聞いてやる。ビザなんて知ったことか」 (19) どっちが滅茶苦茶なのかよく分からないが、佐々井青年は今一度、龍樹菩薩に問いをぶつける決心をした。 「今日から十五日間、食事はもちろん水も飲まん。断食断水だ。やると言ったら必ずやるッ」 泣いて反対する信者たちの目をくらまし、バダラワティ洞窟に参籠した。 (20) 一週間後、血を吐いて昏倒。それでも医者の手当てを寄せ付けず、初志貫徹。ついに十五日目を迎えた。 「看ていた医者が、“どうしてまだ死なんのだ?” と首を傾げとったそうだよ。付き添っていた仏教徒の話では すでに私の体から死臭が漂っていた、と言うんだな。無茶をしたもんだ、ぐわっははは☆」 その後、強制送還問題はなぜか一時的に棚上げされたのだから、それなりの霊験はあった、ということか。 バダラワティ洞窟は天然の岩山をストゥーパ(仏塔)に見立て、内部をくり抜いた石窟寺院であった。 今は草木に覆われているが、かつては壮麗な伽藍だったことが偲ばれる。 (21) (22) お碗を伏せた形状の小山に人工の石窟が掘られ、正面中央の本堂と、その入口左右に対面するようにして 小堂がふたつ設けられている。それぞれ奥の突き当たりに仏像が刻まれ、紀元七世紀頃の作と思われる。 各石窟には瞑想室や寝室などが整っているが、彫刻技術の稚拙さから察するに、多分ここは経済力豊かな 王族が寄進した寺院ではなく、篤信家や僧侶らによる素人作業で造営されたものと推測される。 計三体の御本尊はどこか日本の円空仏にも似て、ユーモラスであった。 (23) (24) (25) 「ここに、こうして座って、断食を始めたんだよ。奇妙な蛇も出て来たりして、よく生き延びれたもんだよなぁ」 石窟の一角に腰を下ろし、佐々井師は往時を再現してくれた。 (26) 近年、わが国の或る既成仏教宗派に籍を置く某インド人僧が、日本国内で自伝を出版した。 その人物はかつて幼少のみぎり、佐々井師が後見人となりインド仏教徒協会が公式派遣僧の資格を与えて 日本へ修行留学させた者だ。ところが、長じてのち彼は、同胞を悪しざまに罵るようになり、インドと仏教徒の 全体を見下して、「日本が一番。自分が所属する△△宗こそは真の仏教だ」などと、恥も外聞もなく公言する ようになった。所詮、彼を取り巻いている連中は、お釈迦さまの国から来た本場のお坊さん、というイメージを ただ持て囃しているだけに過ぎない。良識ある日本人ならば、ふるさとを悪く言うような奴は信用できない、と まともに取り合うわけがない。しかも彼が出した書物には、なんと、佐々井のサの字も出て来ないのだ。 「なぁに。嵐も笑顔で受けて立たにゃ、漢(おとこ)が廃るってもんだ。ぐわっははは☆」 佐々井師は、利に与しない。情に立つ人間である。それゆえ、インドの虐げられた人々は『大衆の本能』で 真の味方を見分け、Sasai Bhante-Ji と共に生きることを、共生の道を、選び取ったのである。 菩薩。 梵語:ボーディ・サットヴァ=Bodhi Sattva の略。 Bodhiは菩提、悟りの意味。Sattvaは有情(うじょう)と訳され、“情に生きる者”、を表す。 誕生会に参集した仏教徒に目を細めながら、佐々井秀嶺師は呟いていた。 「このひとたちが私を慕ってくれる。こんな名誉なことがあるかね。それだけで充分だよ」 |
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