著者:半藤一利。文春文庫。作品一覧へ
01年刊行、03年文庫化。
タイトルの意味する日は、無論1941年12月8日のことですね(笑)。 1941年11月26日、米国は日本に「ハル・ノート」を通告、 日米の外交交渉は熾烈を究め、遂に運命の日、12月8日に辿りつく。 その時々刻刻の変化を東京、ワシントン、ホノルル、マレー半島に 追いながら、日米開戦に至ったまでの詳細を書き綴った本。
体米英開戦の報に絶望的になったり、亡命したくなったり、 あるいはその愚劣さに憤怒を感じたりした人びとは、当時はそれほどいなかった。 その朝の大人たちは口数は少なかったが、みんな眼をかがやかしていた。 国際緊張による重圧感に押しつぶされ、八方塞がりに締めつけられていた ような状態から解放され、むしろ晴れ晴れとした爽快さのなかに、 ほとんどの日本人はあったのである。
日本が大戦争に突入し三年半以上を戦いつづけたのは、 結局において、日本人がこれを支持したからである。 上層部が企んだことに国民が否応なしに狩り出された、というのは、 誰かに都合のいい神話でしかない。 あるいは、戦後日本人が目をつぶって そう考えることにした心理的欺瞞にすぎないのだ。それにしても「歴史」とは不思議なものだと思う。 わずか50年ほど前のことなのに、既に史料間に矛盾が 生じているという。 例えば、米国の国策が「暫定協定案」から「ハル・ノート」に 突然に変更されたいきさつをハル自身の『回想録』で説明しているが、 チャーチルの電報が送られてきた時刻とかハルの部下たちの証言など、 いろいろな証言や記録を時間的にならべてみると つじつまの合わないことが続出してくる、という。
記録によれば、この日、真珠湾に碇泊していた九十四隻の艦艇が装備していた 対空砲火の総数は八百四十二門という。 これらがすべて応戦したわけではないが、とにかく全力をつくして 日本の攻撃機めがけて発砲した。 その総砲弾数は二十八万四千四百発余にのぼった。 その大半の二十七万発以上が機銃であったという。
これ、よく数えたものだと思うわ(~_~;、ご苦労さん。 でもさ、こういう数字っていったい誰がどうやって集めてくるのだろう(・_・?。