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 自立(2009.10.21)
 越後路(2009.8.17〜19)
 夏休み(2009.7.31)
 赤城の子守唄(2009.6.13)
 7回忌(2009.5.10)
 卒園そして入学(2009.3.20)
 Happy Birthday(2009.1.16)
 新たな年を迎えて(2009.1.9)
 幼稚園最後のお遊戯会(2008.12.6)
 七五三(2008.11.23)
 十三夜(2008.10.14)
運動会(2008.9.21&10.4)
 津南の夏(2008.7.27〜30)
 5年が過ぎて(2008.6.13)
 シドニーへの旅W(2008.3.27〜29)
 シドニーへの旅V(2008.3.26)
 シドニーへの旅U(2008.3.25)
 シドニーへの旅T(2008.3.24)
 紙一重(2008.1.31)
 厳冬の房総へ(2008.1.12)
 二人の母さん(2007.11.24)
 鎌倉・光明寺での法事(2007.11.3)
新たな家族(2007.8.8)
北の大地2007C(2007.7.26・27)
 北の大地2007B(2007.7.24・25)
 北の大地2007A(2007.7.23)
 北の大地2007@(2007.7.22)
 パパの日(2007.6.17)
 ファイナル・レクチャー(2007.4.26)
 惹き逢わせ(2007.4.21)
 入 学(2007.4.10)
 卒園まぢか(2007.3.9)
 もうすぐ春ですね2006.2.21)
4歳(2007.1.16)

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 自 立

 午前6時半ごろ、電話のベルが鳴っています。こんな朝早く誰だろう。すると娘が
「お父さん、K君からだよ」と受話器を手渡してきました。
「お早う、どうしたの?。どこから・・・」
「お母さんの携帯からです。専門学校の入学試験合格しました!」
 弾んだK君の声が飛び込んできました。
 彼とは彼が小学5年生のとき、学童野球の指導を依頼されたのを機に知り合いました。
 控えめで、自己主張の苦手な子でしたが、ピッチャーがやりたいというので一から手ほどきした一人でした。
 私の家から西に11キロも離れた所に住んでいますが、そのころから一人自転車で通ってきてました。
 以来、何かにつけ相談にのったり、話し相手になってきました。
「小山ボーイズ」の初代キャプテンを務め、強豪「青藍泰斗高校」に進学し3年間野球に専念しました。最後の大会にもベンチ入りし、甲子園を目指しましたが、準決勝で名門「作新学院高校」に敗れ夢も潰えました。それでも、彼は完全燃焼した高校野球に悔いはなさそうです。進路は彼なりに悩み、考えた末、医療福祉専門学校に進み理学療法士を目指すことにしたのです。
 これまで何度か相談を受けた際、私の野球塾の先輩で、東京の専門学校に通い今春柔道整骨師の国家試験に合格し、埼玉県富士見市の整骨院に就職したS君を紹介しました。S君も親身になってアドバイスしてくれたことでしょう。
 S君は、お盆で帰京したとき
「今からお邪魔していいですか。鷺谷さんの家のマウンドは、僕のふる里です。落ち着くんです・・・」
 間もなくやってきたS君は、見るからに逞しく、見違えるほどです。
 新宿の学校にやってきたという水泳界のカリスマメダリスト、北島康介とのツーショットを嬉しそうに見せてくれました。
 暫く談笑した後、懐かしそうにマウンドに上がり、感触を確かめるように数十球の投げ込みに心地よさそうな汗を流しました。
 S君は9月の5連休にも姿を見せ、再びマウンドの土を確かめていました。
 自宅のマウンドから巣立っていった子供たちの数は数えきれません。
 今、秋のリーグ戦を戦っている法政大学のキャプテン・石川修平君も、彼が中学2年生の秋から通ってきていました。
 小山西高校で、投手から捕手にコンバートされ見事開花した選手です。真面目でひたむきな彼の努力が、ここまで花開いたのでしょう。

 月曜日の夕刻には、近隣の小学生が野球塾にやってきます。還暦野球のチームメート・川村さんのサポートをいただいて、めきめき上達しています。そのなかに小学一年生の野球小僧が加わっていますが、それに刺激されたのか、下の孫も一緒に練習しています。
 先日の運動会では、見事な俊足を披露し周囲を驚かせました。足が速いことはどんなスポーツをやるにしても、大変な財産です。
 孫の成長にどこまで付き合えるか分かりませんが、身体の動く限り頑張っていきたいと思ってます。


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 越後路 

 お盆も終わり、夏休みも残り少なくなってきました。
 孫たちの今夏のリクエストは、プール遊びと魚釣りのできる山間の温泉地です。
 以前、数回訪れたことのある新潟県津南町のレジャーランド「ニューグリンピア」を打診したところ、「今年はそこでないとこがいい」との返答でした。
 愛犬「ほく」のほか、最近ウサギとハムスターを飼い始めたので、「ほく」はドッグサロンに預け、ウサギとハムスターは妻の妹にお願いすることにしました。
 ネットで検索したところ、湯沢町に格好のプール付きホテル「エンゼルグランディア越後中里」が見つかり、早速、連泊の予約をいれました。
 17日は朝から好天に恵まれ、絶好の行楽日和です。午前9時半ころ家を出発し、1時間も走ると、北関東道の桐生太田ICに着きました。北関東道から関越道に入り湯沢ICを降りたのが12時を少し回ったころでした。
 そこから5分も走ったところに、「湯沢高原アルプの里」という景勝地があります。
 166人乗りのロープウエイで7分間の空中散歩が楽しめます。アルプの里には「マウンテンゴーカート」や「サマーボブスレー」などのレジャー施設で遊んだり、四季折々の花が眺められる「ロックガーデン」があります。
 展望レストラン「エーデルワイス」で昼食を摂り、高原の初秋にしては暑さの残るなか、ゴーカートでコースを一周したり、フラワーガーデンを散策し、16時を過ぎたころホテルにチェックインしました。
 ホテルは夏休みの思い出づくりの観光客で賑わっていました。予約したファミリータイプの部屋は、和室が2部屋と広いリビングがついています。また、オール電化のキッチンまで設けられていて、家族連れにはうってつけの環境でした。
 休む間もなく、娘は孫たちにせがまれ、ホテルのプールに連れ出されました。
 食事は、レストラン「谷川岳」と「八海山」でのバイキングで、メニューも多く雰囲気にも満足できました。二人の孫も、広い会場を右往左往しながら、自ら料理を選び美味しそうに頬張っていました。
 生ビールの酔いもありましたが、成長した姿を再確認し、目頭があつくなってきました。

 翌18日の午前中は、湯沢中央公園にある「レジャープール・オーロラ」で、インドアとアウトドアの流れるプールで過ごすことにしました。カナズチの私には最も苦手なジャンルです。孫との約束もあって、しぶしぶ水着に着替え室内のプールに入りました。室内は温水で流れに任せて歩いていれば結構心地いいものです。しばらくして、スライダーで下ってみたいと言われ(小学2年生以下は保護者が子どもをかかて滑ることになっていて)、なすがまま滑降したところ、かなりスピードもでて初体験の私にはスリル満点でした。
 室外プールは水温も低く、とても入水していられません。プールサイドのベンチで孫たちの泳ぎや滑りを眺めていました。
 午後は、「雲洞庵」と「愛・天地人博」を観ることにし、途中、お蕎麦屋さんで、当地名産のへきそばを食べました。小学1年生の孫は、そばが大好きですが、この日もボリュームたっぷりの天そば一人前を平らげました。
 NHKの大河ドラマ「天地人」で、すっかり人気を博している越後路は、天地人の幟旗があちこちに立てられていて目をひきました。
 南魚沼市にある「雲洞庵」は、上杉景勝と直井兼続が幼少期に学んだ寺として知られ、大河ドラマの放映で更に加熱され多くの観光客が訪れています。
 南魚沼市役所の北側に「愛・天地人博」の特設コーナーが設けられ、大河ドラマの撮影秘話などが紹介されていました。
 19日は、お土産を買い求めてから、孫たちとの約束どおり、「湯沢フイッシングパーク」にでかけました。
 ここも多くの観光客で溢れ、釣り糸が隣の釣り糸とからんでしまいそうです。
 釣りざお1本が2000円、8匹までは無料ですが、8匹を超えると1匹300円の追加料金がとられるとの説明でした。このほか、えさ代が別料金です。さぞ、釣れるんではないかと期待していましたら、2本のさおで釣れたのはたった1匹でした。ただし、1本で2匹までは保障してくれて、さおを返す時に魚をいただけます。
 不満そうな孫たちをつかみどりコーナーに連れて行き、ここでは、予め放流してくれた魚を全てすくいあげ悦に入っていました。
 日に日に成長を続ける孫との今夏の思い出、いつまで覚えていてくれるでしょうか。
 心満たされ、明日への糧となってくれることを願うばかりです。

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 夏休み 

 7月17日は1学期の終業式で、8月27日までの40日余り、長い長い夏休みが始まりました。
 かれこれ10数年前から、気分転換を兼ね県北へ湧水を汲みに行っています。
 ミネラルがバランスよく含まれた湧水は、コーヒーやご飯の味なども格段に美味しく感じられ、以来、切らさず愛飲しています。
 塩谷町の尚仁沢は全国名水百選に認定され有名ですが、そのあまり、混雑したり取水口から車までの距離があって、作業も難儀します。最初は尚仁沢に通っていましたが、ある時、矢板市の知人から寺山ダムの傍にある湧水を薦められました。そこは、道路わきから何ケ所も豊富な水が湧き出ていて、圧巻です。また、車を横付けで取水できるのも、とても便利です。
 遠く県外ナンバーの車も珍しくありません。途中のりんご団地や、四季折々の風景には心癒され、格好のドライブスポットになっているのでしょう。
 いつもは妻と二人でしばしのドライブを楽しんでいますが、今回は、久しぶりに家族揃って(出かける前夜、孫娘の友だちがお泊りしたので、その友だちも加わって)出かけることにしました。
 ドライブの道すがら、あちこち寄り道しては、味調べをしてお勧め店を探索していました。
 その中に、4号国道から片岡駅に向かって左折し、駅を過ぎて踏み切りを渡って間もなく、新幹線の橋脚をくぐった右手に「ささ」という和食の店があります。大小の宴会などを営んでいる日本料理屋さんですが、昼限定のランチがお勧めです。味はもとよりボリュームも充分で、格安です。
 途中、「氏家ミュージアム」で「ふしぎ科学展」を見学し、「ささ」に寄って昼食を摂ることにしました。
 私と妻それに娘は「ミックスフライ定食」を、子どもたち3人は「ロースカツ定食」を注文しました。子供たちは、やわらかなロースカツを「おいしい!」を連発してほお張っていましたが、さすがに半分でギブアップでした。
 水を汲み山を下ってくると、帰り道、矢板の天然温泉「城の湯」の傍を通ります。孫たちとの約束どおり、しばし温泉に浸かってくつろぐことにしました。さすがに平日のせいか、入浴する客はまばらでした。かけながし独特の湯の香りと、肌がすべるような感じがする名湯で、とてもリラックスできます。
 上のお姉ちゃん(小学3年生)は、夏休みのお手伝いを「お皿洗い」ときめました。下の男の子(小学1年生)は、「それならぼく、お皿はこび」ときめました。食事が済むと、二人揃って台所当番をしています。ときどきパスすることもありますが、日々成長する孫たちが逞しく見えました。

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 赤城の子守唄 

 6月13日は娘婿の6回目の命日です。6年の月日が過ぎ去っても、悲しみはぬぐいきれません。むしろ、無念さがつのり娘や孫たちへの不憫な思いが増すばかりです。
 2年前、娘の友人から譲り受けた中型犬(シェルティ:名前をほくと言います)の散歩は、いつのまにか私の日課になっていました。シェルティはコリー系の牧羊犬で、走るのが大好きです。というより、徒歩での散歩ではストレスが溜まってしまうようです。従って、私が自転車で伴走しての散歩(?)を朝晩くりかえしています。雨の日も風の日も2キロのコースを走っているうち、結構、自分のトレーニングに役立っていることに気づきました。時折、下の孫を後ろに乗せて走ったりしていますが、負荷がかかればかかるほど、トレーニングになっていると考え変に納得しています。
 今年の命日は土曜日で、早起きが習慣づいた孫が「「ぼくも行く!」と自転車の後ろに飛び乗りました。早朝の心地よい風をきりながら、いつものコースをいつものように会話をはずませながら走っていました。すると突然
「おとうさん、おとうさんはぼくが大学生になるまでしままいで(死なないで)ね!」と言います。
「なんで、どうしたの・・・」
「だって、おとうさんが死んじゃったら、ぼくつまんないもの・・・」
「うん、分かった!。絶対死なないから」
「約束だよ!」
 この日連れ立って墓参りにいくことになっていたので、こんな会話になったのでしょう。

 6年前、この子は私の腕の中にすっぽり隠れてしまうくらいの乳飲み子でした。2歳上のお姉ちゃんには「パパはお月様に行ったんだよ」と言い聞かせていましたので、月夜には表に出て月を眺めていました。そして、乳飲み子を抱きながらきまって「赤城の子守唄」を口ずさんでいました。
 
 坊や男児だ ねんねしな
 親がないとて 泣くものか
 お月さまさえ ただひとり
 泣かずにいるから ねんねしな     

 今でもこの曲を耳にすると、瞼があつくなります。また、孫の前で口ずさんだりすると孫もメロデーについてきます。「赤城の子守唄」は、二人の思い出の曲になっています。

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 7回忌 

 4月9日、晴れ渡った空から暖かな春の日差しが燦燦と降りそそいでいました。
 いつもの年なら、とうに散っていたであろうに、満開の桜もこの日の入学式を祝っているかのようでした。そう、下の孫がピカピカの1年生となって小学校の門をくぐったのです。全校で130名余りの小規模校ですが、小規模校ならではの演出に感動しました。私はこの小学校の後援会長を仰せつかって4年目になりますが、こうした学校行事で挨拶や祝辞を依頼されます。孫の記念すべき入学式で、心の中では孫に言い聞かせるように祝辞を述べました。
「・・・みなさんが生まれてきたのには2つのわけがあります。1つは、一人でも多くの人の役に立つため。もう1つは、みなさんを生んでくれたお父さん・お母さんを喜ばせることです。・・・」
 いつかこの言葉を理解し、生を授かったことに感謝できるような人生であってくれることを祈りながら。

 それから一月あまり経った、5月10日、娘婿の7回忌の法要が茨城県境町の「吉祥院」でとり行われました。6月13日でまる6年が経過します。両家の兄弟など近親者だけが集った営みでしたが、住職も娘婿と親しかったこともあり、読経後も思い出話があとをたたず、改めて早すぎた旅立ちに無念をかくせませんでした。法要の読経が終わるとお寺をあとにして、国道354沿線にある菩提寺(吉祥院別墓地)で焼香しました。
 国立小山高専を卒業後、お父さん・お兄さんが経営する外車の自動車整備工場に加わって、頼れる技術者として活躍し、幸せな生活(住居を新築中だったり、待望の男児が生まれたり)の真っ只中での、夢想だにしなかった突然死でした。
 墓参がすむと、古河市庁舎に隣接する割烹「丘里古河店」で追悼食事会になりました。お父さんの挨拶は、過ぎた時間では拭いきれない新たな悲しみとなって、途中、幾度となく声をつまらせていました。私にも一言お話しいただいてから、献杯の発声をお願いしますとご指名があり挨拶させていただきました。「・・津君(娘婿)の姿こそ見えませんが、私はいつも傍にいてくれると信じています。・・」3年前、ラスベガスを旅したときの「深夜のドアロック事件」と、グランドキャニオンで撮った娘親子の写真に写った謎の影のことをお話しました。
 それと、最近、下の子がつぶやいた一言「優香(姉のことをこう呼びます)はいいよな。パパとお話したんだから(ビデオの映像を思い出したのでしょう)。ビデオなんかじゃなくて、パパの本当の声がききたいよ」を紹介し、娘婿が無事十三仏の教えに導かれて、立派な仏様となるようお祈りし献杯しました。

 
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 卒園そして入学 

 3月20日、孫が3年間通いなれた「おおや幼稚園」を卒園しました。持ち帰ったアルバムを眺めると、様々な思いがよぎってきました。生後5ヶ月で父に急逝され、私の家族の一員となって、お姉ちゃんとともに、優しく素直な子に育っています。二人の成長の記録として、毎月、二人の写真を挿入したカレンダーを作り続けていますが、時折、これまでのカレンダーを眺めると、その成長振りがうかがえます。卒園記念に家族旅行を提案すると、孫たちは、2006年に行ったことのある「海温泉」がいいとリクエストしてきました。


 「海温泉」とは、千葉県九十九里にある国民宿舎「サンライズ九十九里」のことで、3年前に訪れたときからそう呼んでいます。国民宿舎というイメージより、高級リゾートホテルの印象が強く、併設されている「温水プール」も人気で、孫たちもお目当ての一つでした。
 孫娘の修業日の翌日・25日から連泊の予約をとり、東北道から東関東道路をを経て宿舎に着いたのが15時少し前でした。一休みすると、娘親子は早速プールで楽しんでいました。
 翌日は、車で20分ほど北上したところにある「蓮沼海浜公園」で、日本一長い距離を走るミニトレーンやゴーカードなどで遊び時の過ぎるのも忘れてしまったほどです。昼食を摂ってから、再びプール館に行き、無邪気にはしゃぎまわる孫の相手をしていました。ただし、かなづちの私はただひたすらプールのなかを歩き回るだけでした。

 もっと泊まっていきたいとねだる孫たちをなだめて、帰り道は成田の「航空科学博物館」を見学しました。3年前も立ち寄ったところで、孫たちは、そのときの様子を鮮明に覚えていました。
 4月9日は、いよいよピカピカの1年生になります。今でも何のためらいもなく私のことを「お父さん」と呼び、実の父子のようなやりとりが続いています。上の子は3年生になりますが、「おやじくん」と呼ぶようになりました。いつか、下の子が「お父さん」と呼んだときに
「お父さんじゃないよ。パパは正昭だろう!」ととがめていました。すると、
「僕パパは嫌いだ!。だって、僕があかちゃんのときに死んじゃって顔もわかんないよ。おとうが僕のパパだよ」言い返していました。


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 Happy Birthday 

 娘の長男(下の孫)は、私の誕生日が出産予定日でした。それを妻から聞かされたときは、人の縁の摩訶不思議を痛感したものです。ところが、孫は予定より2週間ほど前に産声をあげました。初めての男の子の誕生に、娘婿もことのほか喜んでいました。父親とはたった5ヶ月の暮らしでしたが、その孫も1月16日、6度目の誕生日を迎えました。
 バースデープレゼントのリクエストをたずねると、遠慮がちに「じてんしゃ」でした。2台目の自転車もやや小さくなって、物足りなくなってきたのでしょう。早速、お店に連れて行き、お目当ての6段ギア付き自転車をプレゼントしました。
 得意そうにギアを入れ替え、庭を走りまわったり、暖かい日には、犬の伴走にもついてきます。
 
 ささやかなファミリー誕生会は、バースデーケーキを差し入れにやってきた妻の妹夫婦を加えて、千葉の甥からプレゼントされた高級和牛ステーキパーティーでした。滅多に口にできないとろけるような舌触りは、メモリアルなひと時に色を添えてくれました。もう数ヶ月でランドセルを背負い、小学校の門をくぐっていきます。何のためらいも無く私を「お父さん」と呼び続けています。さすがにお姉ちゃんは、「お父さん」とは呼びにくそうで「おやじ君」になっています。

 最近、庭の野球練習場にあるバッティングゲージを、サッカーのゴールに見立ててゴール遊びをしています。孫娘のお友達も参加して人気です。そんなある日、6歳になった孫が、ティ−バッティングをしたいと言い出しました。私のバットを短く持って半分位はバットに当てるのです。
 翌日、スポーツ店で、ジュニア用バットとグローブを買い与えると、目を輝かせていました。
 これまで幾度となく「野球をやろうよ」と言っても頑なに拒み続けていたのに、何の心境の変化なのでしょう。嬉しい変化です。

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 新たな年を迎えて 

 世界経済が低迷する中で、新たな年を迎えることになりました。明けても暮れても暗いニュースが飛び交い、先の見えない時代に突入してしまいました。こんなときこそ、世界各国が知恵を出し、協調してこの難局を打破してほしいものです。
 今年もどうぞよろしくお願いします。

 年も押し迫ったある日、ある方からこのページのことでアドバイスを頂きました。二人の孫のリアルな描写に対する忠告でもあります。あらいざらい公開することが、果たして当事者の利益になるかどうか心配してのことです。不特定多数の目に触れ、様々な受け取り方があることは承知しています。
 このところ、HP更新の気力も萎え、迷い悩んだ挙句、そうしたアドバイスもありがたく念頭に置きながら、ページ開設の初心に帰ることにしました。
 即ち、このページは、吾が人生で遭遇した感動的なできごとを公開することで、一人でも多くの人々に生きる意義や、勇気を抱いていただけたらと発起したものです。
 加えて、娘婿の急死により、当時、2歳の女の児と、生後5ヶ月の男の児を抱え途方にくれていた娘親子を引き取り一緒に暮らすことになった事情があります。
 パパの顔も声も姿も、全く記憶を持たない不憫な孫たちが、どのように育ち成長したか、その記録を残してあげよう、そう思うようになりました。この子達の成長(自立の度合い)に合わせ、内容も変わってくるでしょう。
 このHPに、多くの方が興味を持たれ、感想を聞かされたり、エールを戴いていることにも、背中を押されている感を抱いています。

 昨年11月30日に、四国(愛媛県)にお住まいのある女性からメールをいただきました。その女性は、私の3冊目の著書「白い投手板」を購読され、その中に高知商業高校時代に2年連続して甲子園で活躍した投手のことを紹介しました。後に法政大学、三菱自動車川崎の投手としても大活躍した方ですが、小山市に転居されてから同じチームでプレーするようになりました。ところが、肝臓がんであっという間に他界してしまったのですが、亡くなったことを私のHPで、知りメールをくださったのです。
 メールによると、数十年前、甲子園で松山商業高校と高知商業高校が対戦し、その試合で高知商業のエースだった中沢一彦投手が、とても爽やかで今でもそのときのことを覚えているそうです。
 遠く四国に住む野球ファン、それも女性と知り会えたのもこのHPのお蔭かもしれません。
 メールを戴いているうちに、その方も4歳の時にお父さんと死別され、お母さん一人の手で育てられ今は看護師をなさっているそうです。
 私のHPにアクセスし、不遇の孫の父親代わりとして頑張っている私の、野球人とは異なった一面を垣間見、自身の境遇とオーバーラップしていたのかも知れません。
 私は昨年春、ちょっとした事故がきっかけで、高血圧の治療を始め毎朝1錠服用しています。妻はかなり前から糖尿病予備軍で定期的に検査加療中です。そんな二人に共通のサプリとして「柚エキス」がいいと奨められ、自家製の柚ジュースを飲み始めました。それから数日たった12月31日、前述の愛媛の読者から、高知県馬路村の特産「ゆずジュース」が送られてきました。彼女は、私たち夫婦の健康状態について全く知りません。看護師をなさっている方からの、想わぬプレゼントにびっくりしています。これまでも、幾度となくこうした不思議な体験をしてきました。
「人生は出会いの旅」を改めて実感しました。

 
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 幼稚園最後のお遊戯会 

 前日とはうって変わって、12月6日はこの時期には珍しく、朝から暖かな陽が差し込んでいました。隼人(下の孫)にとっては、幼稚園最後のお遊戯会です。運動会が終わってからの2ヶ月間、先生達の熱心な指導の成果を発揮するメイン行事でもあります。40数名の園児が通う小規模でアットホームな幼稚園ですが、お父さん・お母さんは勿論、おじいちゃん・おばあちゃんたちも足を運んで、会場は溢れんばかりです。娘は早朝、ビデオ撮影スポットや観覧場所を確保に行ってきましたが、既に数組の保護者が駆けつけていたそうです。
 定刻9時に演技が始まり、私はビデオと写真撮影に専念することになりました。
 この幼稚園は、以前から、ハーモニカ演奏に特徴がありしられていましたが、最近は、メローディオンにも力をいれ、それぞれのクラスの演奏が披露されました。
 一年一年、成長が著しく、逞しさが感じられました。フィナーレは、にじぐみ(年長組)男児による恒例の「白虎隊」の演舞です。

 白虎隊に扮したあどけない園児たちの演舞には感動しました。ファインダーを覗き孫の姿を追い続けていた私の目は、次第に焦点を失い、胸にこみ上げてくる熱い思いを抑えることができませんでした。
 この場にパパがいたら、どんなに喜んでくれたことでしょう。
「お父さん、白虎隊はお遊戯会のお楽しみだよ!」と言っていた孫も、私ではなく、全く記憶にないパパに見てもらいたかったに違いありません。
 娘婿のご両親も、遠路駆けつけてくれましたが、同じ思いで見つめていたことでしょう。
 お姉ちゃんは、とっても頑張り屋で、学校から帰宅すると先ず宿題を済ませます。最近は太り気味の体型を気遣ってか、グラウンドで一輪車に興じています。
 火曜日は英語、水曜日に習字、金曜日がピアノのレッスンです。また、暇さえあれば、マンガチックなお人形さんを描きまくっています。下の子もお姉ちゃんの影響を受けたのでしょう「ぼく、スイミングへ行く」と言い出し、月曜日を楽しみにまっているようです。
「野球やろう」と誘っても
「ぼく野球はやんないよ」と、全く興味を示してくれません。
 なんでもいい。自分が一生続けられる、得意なものを見つけて欲しいと願っています。


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七五三

 11月23日は、恒例行事・村の鎮守の祭りが行われました。豊年を祝い、大過なく去っていく一年を神に感謝する、伝統行事です。神官の唱える祝詞や太鼓の音が鎮守の森に響き渡り、厳粛な雰囲気に包まれます。氏子の役員が神殿に座し神事が終わると、来春小学校に入学する子どもたちの成長と息災を祈ってお払いが行われました。来春、自治会から入学する子どもは7名です。それぞれお母さんに付き添われて、神殿に上がり神妙な面持ちで頭を垂れていました。その中に、勿論、七五三を迎えた私の孫もいます。
 親戚の子が着用したダブルのスーツが、とても似合っていました。お払いが済むと、今度は、子ども相撲が行われました。初めは入学児童、次いで学年ごとに取り組みます。勝った子も敗れた子も、賞金を手に笑みを浮かべていました。


 途中、娘婿のご両親が到着し、微笑ましい行事に参加してくれました。
 神社での行事が無事終了したのは12時少し前でした。
 自宅に戻って小休止したあと、予約しておいたすし屋(仁兵衛寿司)さんで、ささやかな七五三のお祝いをしました。仁兵衛寿司は新鮮な食材とオリジナルメニューが気に入って、時々利用させてもらっています。
 女将さんが、弟と小中学校の同級生で、親しみの持てるお店です。また、息子さんが私の母校「小山高」の野球部で活躍していたこともあり、なおさらです。

「津君が亡くなって5年5ヶ月ですね。早いものですね・・。隼人は生まれて5ヶ月でしたから、ほとんど父親との生活を知らないし・・・、ここにパパがいたら、どんなに喜んだでしょうね。」つい、そんなことを口走ってしまいました。
 傍で聞いていた女将さんは、事情を知って涙ぐんでしまいました。
「そう・・、私も子どもを亡くしてるんですよ。この気持ちは、亡くしたものでなければ分かりませんよね・・お母さん。」七五三のお祝いがいつの間にか激励会になっていました。

 七五三を迎え来月は満6歳になる孫は、今もどこ憚ることなく私のことを「お父さん」と呼んでいます。先日、幼稚園から「なまえをかこう」というプリントを持ってきました。
「じぶんのなまえ」欄には「はやと、はやと」、「おとうさんのなまえ」欄には私の名「たかし、たかし」が、「おかあさんのなまえ」欄には「ともみ、ともみ」と書かれていました。ところが、一夜明けプリントを見てみると、おとうさんのなまえが、娘婿の「まさあき」に書き換えられていました。
 孫娘がプリントに気付き、書き換えてしまったのです。それに激怒した孫は、お姉ちゃんに噛みついていました。
「なんで、かきかえたんだよ!。まさあきはしんじゃって、いないじゃん。せんせいも、たかしでいいっていったんだから、もとにもどしてよ!」
 姉弟の言い合いを、複雑な思いで見つめていました。


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 十三夜 

 9月14日の夜、満月が雲に見え隠れしていました。この月を見るたびに切ない思いに吸い込まれます。息絶えた娘婿が横たわる救急治療室から、異様な様子に興奮を隠せない2歳の孫娘をかかえ外へ出て、「ゆうちゃんのパパは、あのお月様へいっちゃったんだよ」と言い聞かせました。あの時生後5ヶ月だった弟がもの心ついてくると、私が孫娘に話して聞かせたように言い含めていました。あるとき、満月を見つけると、二人で外に出ると「パパ!」と大声で叫んでいました。
 10月14日は十三夜です。満月とはいかないまでも、煌々と輝いていました。
 廊下には、小さなテーブルの上にススキや柿、だんご、ご飯、けんちん汁などが供えられています。
 その膳の前で、二人の孫が私の太ももを枕にして、月を眺めていました。
「このご飯、パパが食べるの?、どうやって食べるの?」
 矢つぎばやに質問してきます。上の子は大分疑っていますが、それでも、本当にパパに食べさせたいと思っているようです。
「パパとはお話できないけど、ゆうちゃんやはやちゃんの言ってることは、全部、パパには聞こえているんだよ。今だってお月様から二人を見てるんだ。大きくなったな・・、そして、二人ともおりこうだね・・」って。
「はやちゃんは、お父さんの子になれてよかったかい」と尋ねると
「うん、よかったよ。お父さんが死んじゃっても、また、ぼくを生んでね」すかさず、そんな言葉が返ってきました。

 昭和33年ごろブラジルへ移民した友人がいます。その当時日本は、景気も低迷し就職難でした。それに反し、南米は天国のようなふれ込みで、移民を募っていました。「あるぜんちな丸」という移民船が横浜埠頭を離れたときは、友人とは今生の別れと覚悟したくらいです。
 天国とは大違いで、彼は苦労に苦労を重ね、菊の栽培で成功し生活の基盤を確立しました。
 これまで何度か帰国し、旧交を温めました。昨年の夏もふらっと帰ってきて、親しかった友人3人と食事会をして、元気にブラジルに帰って行きました。そのとき
「俺も、今回が最後かもな・・。このごろ足腰が弱ってきて・・」彼にしては珍しく弱気を吐いていました。それが、現実となってしまったのです。
 21日の朝、彼の実家の甥から「ブラジルの叔父さんが病死した」という連絡を受けました。
「俺の生きてるうちに、一度、ブラジルに来いよ」と言い続けていた彼との約束は叶いませんでした。
また彼は以前
「寂しいときは、月をみてるよ。月はどこからでもみられる。同じ月がみられる」ぽつんと呟きました。今度は、お月様から見守ってください。心からご冥福を祈ります。


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 運動会 

 9月20日(土)に予定されていた地元小学校(小山市立大谷南小学校)の秋季大運動会は、台風13号の影響で21日に延期されました。孫娘が迎える小学校2度目の運動会です。幼稚園年長組の頃から太りぎみの孫娘は、運動が苦手になってきたようで、気乗りしない様子で登校していきました。私は後援会長を仰せつかって3年目になりますが、毎回、自分の野球大会と重なって、祝辞を述べるとそそくさと会場を後にしていました。今回は、その心配もなくゆっくり観覧することができました。
 小規模校という事情もあり、児童の参加するプログラムはとても豊富です。
 応援合戦や大南体操、紅白リレーなど、大きな身体を目いっぱい弾ませ、孫娘は精一杯の演技を見せてくれました。不安定な天候を考慮し、いくつかのプログラムを飛ばして、漸く運動会が幕を閉じるのを待っていたかのように、雨脚が速くなって来ました。
 それから2週後の10月4日(土)、快晴に恵まれて大谷幼稚園の運動会が開かれました。娘は5時起きして、観覧席の場所取りに出かけました。その慌しい行事も今年が最後になります。
 年長さんになってますます逞しくなった孫も、来年は小学生になります。パパと暮らしたのはたったの5ヶ月。3年前、未就園児が招かれ、親子で踊るプログラムがあります。
「お父さん(私のこと)と出るの」という孫の意見を尊重し、私が手を引いて入場門に向かいました。ところが、孫は終始私に抱きついて離れませんでした。それも、私たちだけでした。そんな内気だった孫が、開会式では、競技上の注意を堂々と述べていました。

 途中、娘婿のお母さん、妻の妹、それに娘の竹馬の友・緑ちゃん親子が応援にやってきました。
 狭い運動場は、沢山の観覧者で溢れ、一大イベントに花を添えてくれました。
 ハーモニカ演奏が大谷幼稚園の特徴ですが、クラス別にたどたどしくも見事に演奏していました。
 年長組みの最大の見せ場は、ハッピを纏い掛け声も勇ましい「よさこい」でした。
 望遠レンズを装着したカメラは、孫の姿を追いかけてはシャッターを押し続けていましたが、過ぎていった5年の歳月が走馬灯のようによぎり、ファインダーに捉えらえていた孫の姿が霞んでいき、やがて、視界から消えていきました。

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 津南の夏 

 7月19日から長い夏休みに入りました。その日、猛暑の中「還暦野球茨城県西大会」が行われ、1試合目は3番ファストで先発出場し、2試合目は先発完投しました。
 夕方から、幼稚園の夕涼み会が開かれ参加しましたが、流石にへとへとの一日でした。孫にとっては最後の夕涼み会になります。それぞれの装いをまとった園児たちによる、おみこし担ぎ、アンパンマン踊りなどが披露され、フィナーレは数々の花火の打ち上げで幕を閉じました。
 途中から、妻の妹と姪夫婦が立ち寄り、ファミリックな盛り上がりに驚嘆したり、その雰囲気を楽しんでいました。
 それから1週間後の27日、楽しみにしていた夏休み家族旅行に出かけました。孫たちのリクエストは、これまでも訪れたことのある「ニュー・グリンピア津南」です。
 初日は、「渋川スカイランドパーク」に直行し、園内の遊具でエンジョイしました。3時を廻った頃、にわかに空が曇りだし雨が落ちてきました。急いで車に飛び乗って、その日の宿「ホテルきむら」に向かいました。
 貸切風呂付きの家族プランを予約し、17時からの45分間が割り当てられていました。
 フロントで風呂の鍵を受け取り、屋根付きの露天風呂に行ってみましたが、降りしきる雨と、時折、すさまじい稲光が辺りを照らし、とても湯に浸かっていられる状況ではありませんでした。
 夜は部屋食で、ゆったり会席料理を楽しむことができました。
 翌日は、徐々に天気が回復し青空が覘いてきました。
 夏休みに入る前、孫娘が学校から「おもちゃと自動車人形博物館」のチケットを頂いてきました。その博物館は渋川にあることから、見学して行くことにしました。
 昭和初期からの珍しいおもちゃや人形、外国の人形、それに、懐かしい自動車が数多く陳列され楽しませてくれました。
 
「ニュー・グリンピア津南」のチェックインタイムに合わせ、高速道にはのらず国道17号を北上しのんびりドライブしました。途中石打の蕎麦屋さんで昼食を摂ることにしました。孫娘は「とろろ蕎麦」が好物で、下の子も「もり蕎麦」が大好きです。この辺りは「へき蕎麦」が名物のようで、時々看板を見かけました。
 前回(一昨年)訪れたときは、豪雨の後で国道353号が通行止めで、十日町から入りました。津南は今回で3回目になります。辺りには、清津峡や中津川渓谷・秋山峡の秘境や、名水百選の龍ヶ窪など自然がいっぱいです。「ニュー・グリーンピア津南」の魅力は、広大な敷地と充実した遊空間です。
 チェックインし小休憩すると、娘親子は早速、屋内外にある温水プールに向かいました。プールで2時間余りも遊んだでしょうか、部屋に戻ると、今度は温泉です。
 食事は夕・朝とも2階にある「ペガサス」でのバイキングです。豊富なメニューで大いに満足できます。2日目は、朝食が済むと「お父さん、プールに行こう」とせがまれます。かなづちの私は大のプール嫌いですが、勇気をだして入ることにしました。
 プールの後は夏限定のにじ鱒つり場で魚つり体験をし、ゴーカートやローラーリュージュなどの乗り物で楽しい一日を過ごしまた。
 3日目は、関越道の沼田ICを降りて、片品渓谷から日光経由で帰宅する予定でした。ところが、上の子が明け方から発熱し顔を真っ赤にして、「頭と咽が痛い」と訴えています。幸い高熱には至らず、朝食もおかゆを口にすることができました。持参した熱さましを飲ませ、身支度をしチェックアウトすると、関越道を走らせ帰路につきました。シートを倒し横になっていた孫娘は、次第に熱も下がって谷川岳SAで休憩したときは、すっかり元気を取り戻していました。
 
 5歳になった下の子は、パパの話題になると決まって言います。
「ぼく、パパだいきらい。だって、パパはぼくが生まれたら死んじゃったんだもん。」と。
 この不憫な二人の孫の心の空洞は、永遠にふさぐことはできないでしょう。
 でも、周りの人たちにどんなに愛され育ったかを知ったとき、決して不幸な人生でないことを自覚してくれるでしょう。今はそれを信じて時間を共有していきたいと思っています。
 
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 5年が過ぎて 

 2003年6月13日の金曜日、悪夢の出来事(娘婿の急逝)から5年の歳月が過ぎ去っていきました。命日は、あの日と同じ金曜日でした。娘と下の子と私の三人で墓参すると、お墓に娘婿のお母さんが詣でていました。上の子は、前の晩から発熱し、学校も休んで床に伏していましたので、妻と家に残ることになりました。帰り道、仏壇に焼香し5年の思いを報告し、娘親子の行く末を見守ってくれるよう念じてきました。
 あの時2歳だった上の女の子は、小学2年生になりました。夕餉のあと、突然倒れた父親の一部始終を、隣で見詰めていたのがこの子でした。本当に辛い思いをさせてしまいました。この頃、毎月のように発熱し、心配しています。主治医は「扁桃腺が弱く、そのための熱ですよ。」と診断していますが、顔を真っ赤にし横たわっている孫娘を見るにつけ、心いためています。
 
 父の日の数日前、私が起床するのを待っていたかのように、下の子が飛びついてきました。
「どうしたの?。だっこしてもらいたいんだろう・・」
「ちがうよ、父の日がくるんで、お父さんの顔をかくんだ。ほら、顔を良く見せてよ。」と言うと、私の顔を指でなぞっていきます。
 今年も、この子達にとって、堪えがたき辛い日がやってきます。上の子は徐々に様子が理解できてきたようで、私を呼ぶのにも変化がでてきました。「お父さん」より「おとう」の回数が増えています。「おじい」になる日も遠くないでしょう。
 幼稚園でかきあげた私の似顔絵には、「おとうさん、やきゅうがんばってね」の添え書きがありました。幼い目からも、日頃の暮らしぶりを見すかれていたようです。

 この子は、幼児にはめずらしく、野菜が好物で羨ましいほどです。レタス、トマト、キャベツ、ブロッコリーなど美味しそうに食べています。
 先日、夕食にでたキュウリのあさ漬けをバリバリとほおばんでいました。最後の一切れを、私と孫の箸が同時に伸びてキュウリの上で止まりました。
「ごめん!、隼ちゃん食べて!。」と言うと
「いい、お父さん食べて!。隼ちゃんは、いっぱい食べたし、隼ちゃんにはしょっぱすぎるから・・お父さん食べて・」と言い張ります。
 普段も随所に大人顔負けの気配りや、優しさを感じていましたが、この夜は泣かされました。
 このまま、成長してくれたらと念じずにいられません。
 
 14日(土)は、父の日にちなんでのミニ運動会が幼稚園で開かれました。年長さんの孫にとっては、最後のミニ運動会です。この日の注目は「親子おんぶ競争」で、昨年は惜しくも2位に終わっています。今年は孫も気合が入っていて、「お父さん頑張れよ!。1位になると大きなメダルがもらえるんだから・・」と、数日前からはっぱかけられていました。無事、予選は通過したものの、またまた結果は2位で期待を裏切ってしまいましたが、「いいよ、いいよ、お父さん頑張ったんだから。」と慰められてしまいました。15日の父の日は、ごほうびに県南体育館の北にある「小山総合公園」に連れ出し、自転車乗りやザリガニつりなど、楽しいひと時を過ごしました。


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 シドニーへの旅W 

 オーストラリアの人口は約2,100万人で、シドニーは430万人を超える人々が住んでいるオーストラリア最大の都市です。ここは、オーストラリアで最初にヨーロッパから移民者が訪れた場所であり、オーストラリアの歴史は、まさにこの街から始まったといえるでしょう。
 世界三大美港の一つに数えられる「シドニーハーバー」をはじめ、オーストラリアのランドマークとも言うべき「オペラハウス」や「ハーバーブリッジ」など、観光名所は枚挙がありません。
 シドニー観光3日目は、南半球で一番高い(地上305m)と言われる「シドニータワー」や、「クイーン・ビクトリア・ビルディング」、「タロンガ動物園」を見学することになっています。
 地上250mにある「シドニータワー」の展望デッキから、シドニーの街並みが360度眺めることができます。
 シドニーの中心、シティ地区にあるクイーン・ビクトリア・ビルディング(QVB)は、今から一世紀以上前に建てられた、歴史と風格が漂う重厚な建物です。このころ既にエレベーターは設置されていたのですね。クラッシクでゆったりした動きは、ある種の風格さへ感じます。中世をドラマッチクに表現したからくり時計も逸品でした。
 昼食は、ダーリング・ハーバーとチャイナ・タウンに程近い場所にある本格的な広東風中国料理レストラン「ザ・リーガル・レストラン」に案内されました。
 この店では、100種類以上のメニューを誇る飲茶(やむちゃ)が楽しめます。また、水槽にはロブスター、カニ、エビ、季節の魚などが泳ぎ、その中から好みのシーフードを選んで、好みの味つけで調理してくれます。飲茶は初めての体験でしたが、中国語で「茶を飲みながら、中華饅頭・ギョーザ・シューマイ・冷菜などの点心類をとる中国風の軽い食事」という意味だそうですが、軽食どころか、充分お腹を満たす食事でした。食事の後は、一路「タロンガ動物園」に向かいました。「タロンガ」とは、アボリジニ語で「海が見える景色」という意味だそうです。その名のとおり、海の見渡せる自然動物園は、カンガルー、コアラ、エミュー、ワラビ、象、キリンなどの動物たちと至近距離で触れあえます。孫たちはインコー(?)の前でくぎづけになり、「ハゥワー・ユー」とか「グッバイ」と話しかけ、インコーから何やら返答を得て大喜びしていました。
 タロンガ動物園を後にしたバスは、マンリービーチに移動し南太平洋の美しい海辺を散策しました。マンリービーチからジェットフェリーに乗り、30分ほどでサーキュラ・キーに着きました。サーキュラキーのフェリー乗り場の周辺にはアボリジニの人たちが歴史的な楽器「ディジュリドゥー」を演奏していて、幻想的な世界に誘ってくれます。
 ディナーは、100年以上もの歴史を誇る海辺のレストラン「ドイルズ本店」で、沈む夕日を眺めながら、エキゾチックな雰囲気を満喫してのリッチなものでした。現地の人々は屋外のテーブルで、のんびり夕餉を楽しんでいます。そこへ、結婚式を挙げたカップルと参列者がとおりかかり、周囲の人々から盛んな祝福を受けていました。陽の落ちた砂浜で、こんな光景に出会えたことも、印象深く記憶に残ることでしょう。

 4日目は、歴史的建造物が多く残るシドニーの中でも、ひときわ美しい聖メリー大聖堂を見学しました。ハイド・パークの東側に建つカトリック寺院で、ゴシック建築の装飾とステンドグラスが美しい大聖堂です。

 海外旅行の楽しみの一つは、やはり、ショッピングのようです。
DFSDuty Free
Shoppers:免税店)の開店が待ちきれないようにお店に入り、思い思いのお土産を買いこんでいました。
 シドニー最後のランチは、日本人が経営する「四季」で、寿司、天ぷら、そばなどをオーダーし、久しぶりに純和食の食感を楽しみました。
 ところが、私はランチ後気分が優れなくなり、ホテルに送ってもらい一人寂しくリタイアしてしまいました。午後の市内観光の後、シェラトンで鉄板焼き(オージービーフやロブスター)の豪華ディナーで、その日のスケジュールは終わりましたが、私の胃には無関係で、楽しそうな話を聞かされただけでした。
 幸い翌朝には体調は回復し、朝のバイキングも普段どおり摂ることができ、シドニー空港に向かうことができました。下の孫はシドニーがことのほか気に入ってか、「あと1000日、ここにいたい」と言っていました。
 数え切れないほどの思い出を満載したJAL772便は、定刻10時40分、シドニー国際空港を飛び立ちました。

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シドニーへの旅V

 今日は、2000年11月に世界遺産に指定された「ブルーマウンテンズ」と「フェザーデール動物園」などを観光することになっています。
 ブルーマウンテンズ国立公園は、シドニーの西方約100km、バスで1時間少々走ったところにあります。車内でガイドのTさんが、流暢かつユーモラスに説明してくれました。
 ブルーマウンテンズのネーミングは、よくコーヒーの原産地と間違われるそうですが、そうではなく、標高1500mほどの丘陵地帯にユーカリの樹海が広がっていて、ユーカリの木に含まれている油分が揮発し、青いフィルターがかかっているように見えることから、名づけられたそうです。国立公園の面積は佐賀県よりも広いといいますから、想像してみて下さい。
 スタンダードなコースになっているエコーポイントから、奇岩スリーシスターズや遥かに広がるブルーマウンテンズの絶景に吐息をもらしていました。
 三つの頂が聳え立つ奇岩スリーシスターズは、原住民アボリジニの伝説によると、
「3姉妹と祈祷師の父親が平和に暮らしていたが、ある日魔物が娘たちを襲いにきたので娘たちを岩にして隠してしまったそうです。すると、魔物は怒り父親を襲い始めました。父親もコトドリに変身し岩穴へ逃げ込みましたが、父親も娘たちも二度と人間に戻ることができなかった」と言います。

 エコーポイントから更に10分ほどバスを走らせたところに「シーニックワールド」があります。ここの目玉は何と言っても「ギネスブック」にも載っているという「トロッコ」です。そして雄大な景色を見れる「スカイウェイ」。ブルーマウンテンズを堪能できるアトラクションスポットでした。
「トロッコ」は、元々炭鉱で石炭を運ぶために使われていたもので、最大52度もある急傾斜の全長650mを一機に滑車していきま・・・と言うよりも落ちていく感じです。頭の上は金網が張ってあり、カメラや帽子が吹き飛ばされないよう、しっかり手すりに掴まっていました。「トロッコ」とは言うものの遊園地の乗り物並みにスリルがあり、ときおり「きゃ〜」と歓声があがるほどです。

 ブルーマウンテンズを後にして、途中、屋外のレストランで昼食を摂りました。
 木立の下でテーブルを囲みながらの食事も乙なものです。五段重ねのサンドイッチやパスタ、ボリュームたっぷりのサラダなど、やはり、日本とはスケールが違います。食事中、生い茂った木をを見上げると、珍しい鳥たちが、奇声をあげ飛び交っていました。
 
 午後は、この国の私立動物園としては最大規模で、オーストラリアの動物コレクションを誇っている「フェザーデール動物園」に向かいました。
 手付かずの自然が残る園内には、コアラやウォンバット、カンガルー、ワラビー、エミュ、ディンゴ、クロコダイル、タスマニアン・デビル、コビトペンギン、そしていろんな種類の現地の鳥などが生息しています。自由に走りまわっているカンガルーや、コアラに触れることができ、子どもたちはおおはしゃぎでした。
 シドニー市内に戻る途中、2000年に開催されたシドニーオリンピック会場を見物しました。
 高橋尚子選手が、マラソンで金メタルを獲得したときのゴールになったところで、ランナー誘導用の青いラインが鮮明に残っています。この日は、イースター祭が開かれていて、大勢の人で賑わっていました。会場の広場に、ボランティアでで参加した人たちの氏名が、円筒形のモニュメントにアルファベッド順に刻まれていましたが、尊い奉仕の精神を永遠に讃えているのでしょうね。
        
 2回目の晩餐は、軍港の反対側にある海辺のレストランで、オージービーフをメインデッシにした豪華なものでした。日本で口にするオージービーフとは、一味違って、高級和牛と遜色ありません。
 血糖値などが気になる高齢者には、カロリーオーバーが心配です。

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 シドニーへの旅U 

 シャングリラホテルのエグゼクタブスイートは、世界遺産「オペラハウス」やシドニーのシンボル「ハーバーブリッジ」が直ぐ近くに眺望できる絶好のロケーションにありました。バスに浸りながら見るシドニー港や街の夜景は絶景の一言に尽きます。
 ホテルで一息入れてから、チャーターバスに乗り、オーストラリアで最初の食事(昼食)を摂るため、ウォーターフロントレストランに向かいました。
 レストランは、港の倉庫を改造して作られたそうで、シドニー湾に面し、向かいにはオペラハウスが見渡せます。海を眺めながら、次々と運ばれてくるシーフードに舌鼓をうつ、こんな雰囲気は日本では味わったことがありません。昼食が済むと、向かい側のオペラハウスを見学することにしました。シドニーオリンピックの年、2000年に世界遺産に指定された文化施設でお馴染みです。
 ロビーと売店を覘いて外に出ると、シドニーでは珍しい雨が落ちていました。年間をとおしても殆ど雨は降らないそうで、空気が乾燥しています。日本では、見かけられませんが、こちらでは多くの人が、外に出るときには水の入ったペットボトルを携帯しています。

 オペラハウスを後にして、次は、カモノハシをはじめ1万1500以上ものオーストラリアの海洋生物が大集合しているという「シドニー水族館」に案内してもらいました。海底トンネルからサメの生態系が観察でき、一昨年、旭山動物園で見たパフォーマンスが重なってきました。
 夜は和風レストランで大きなロブスターの刺身など、オオストラリアならではの料理を腹いっぱい頬張って、ホテルに戻りました。
 ホテルの30階に「エグゼクティブラウンジ」があり、くつろぐことができるので、しばし談笑しながらシドニーの夜景を眺めてから、ベッドに横になりました。

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シドニーへの旅T

 一昨年秋、突然、ラスベガスへの豪華な旅の招待が舞い込んできました。正に、夢のようなひと時で、今でも、あのときの光景が鮮明に蘇ってきます。
 去年11月、鎌倉光明寺での法要の後、新宿のハイアットホテルでの夕食会のおり、姪が
「尚伯父さん、来年、マカオにいきましょうね。兄によく話しておきましたから・・」と声をかけてきました。それから一月ほど経ったある日、甥がやってきて、具体的にプランを練ることになりました。マカオは、「ウイーンラスベガス」に続いて建設したカジノホテルが営業を開始し、中国を初め東南アジアの客足が多く、盛況のようです。義弟はゲーム機の製造メーカーから、徐々にカジノホテル経営へシフトしているのでしょうか、そんな感じがしています。
「今回は、マカオでなくても構わないので、希望があたら何なりとおっしゃってください。」とのことで、孫娘の学校のことを考慮すると、春休みを利用しての期間となると、夏から秋に入る豪州がいいのではということになりました。
 同行する妹が、東京都美術館で開催する書展に出展し、30日に行われるレセプションに出席する都合もあり、孫娘の24日の修業式が終わった後出発して、29日に帰国する日程に決まりました。幼児を連れ添っての海外旅行となると、適当な日程ですし、旅先での移動は抑えて、拠点に連泊し周辺の観光を楽しむのがベターです。そうした配慮もあって、シドニーに4連泊のデティールが練られました。

 3月24日15時前、自宅の庭に成田直行のチャーターバスが迎えにきました。
 途中2箇所で同行する姉夫婦と妹を乗せて、18時半ころ成田空港第2ターミナル出発ロビーに到着しました。
 そこには既に、今回は調整がつかず同行できない甥が見送りにきていました。また、ラスベガスで大変お世話になった旅行会社「Tオービット」のH社長が出迎えてくれました。今回も、一切のサポートをしてくれるため社長自ら添乗してくれます。間もなく、姪も合流し、出発手続きに入ります。またまたビジネシートを用意してくれ、JALのエグゼクティブラウンジでくつろぐことができました。そこでは、生ビールやジュース、ケーキなど自由に口にすることができます。
 軽く食事を摂って、成田発21時25分JAL771の搭乗を待っていました。
 予定通り離陸した771便は、9時間30分のフライトを終え、現地時間(時差は1時間、但し、このときはサマータイムを適用しているため、日本より2時間早い。)8時55分、シドニー(キングスフォード・スミス)国際空港に着陸しました。
 空港には、「Tオービット社」の現地責任者と、日本人ガイドが待ち受けていて、チャーターバスに案内してくれました。薄手の長袖シャツか半そでシャツがちょうどよい気候で、湿度が低くとても爽やかな感じがしました。
 バスは一路、宿泊拠点となる「Shanguri−La(シャングリラ)ホテルシドニー」に向かい、しばしくつろぐことになりました。シャングリラホテルは、以前は「全日空ホテルシドニー」だったそうです。


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 紙一重 

 1月26日(土)18時から小山グランドホテルにおいて、小山ボーイズの第三期生卆団式が行われました。小山に中学生硬式野球クラブを創部して3年目、春の全国大会に続いて夏の全国大会にも出場し、ベスト8に輝きました。彼らは、小山ボーイズの輝かしい歴史の扉を開いてくれました。
 この間、飯田代表をはじめ保護者・関係者の皆さんのご支援と、新島監督・コーチ陣の昼夜を分かたぬ指導の賜物と、改めて敬意と感謝を捧げたいと思います。
 式の冒頭で、顧問の私は、卒団生に「送る言葉」を述べることになりました。
 栞に記述足りなかったことと前置きして、紙一重の話をしました。
 一つ目は、「鍛錬と故障」は紙一重です。
 鍛えるためにといって、あらゆるプログラムに全力投入したら、限りある心身のどこかに故障をもたらすことになります。また、故障が怖いからといって、常に手抜きをすると鍛錬になりません。「いい加減(自分に合ったトレーニングコントロール)」を身につけることが肝要です。
 二つ目は、「ファインプレーとラフプレー」は紙一重です。例えば、意表をついて走塁を企てたとします。セーフになれば好走、アウトになれば暴走です。これは、瞬時の判断と機敏な動きを身につけることを示唆しています。
 三つ目は、「自信と慢心」は紙一重です。自信とは、磨かれた技術と精神力の上に築かれたものです。たまたま起きた幸運なプレーを、自分は上手いんだと錯覚し慢心すると、決して成長はありません。いつまでも、どこまでも謙虚に研究・探求を続けてください。
 そして、今までもこれからも好きな野球が続けられたのは、保護者や指導者、関係者の皆さんの支えがあったからということを、生涯忘れないでください。そんな人間に育ってください。
 以上のような要旨の話をさせていただきました。
 翌日、ホームグランドのK社の球場に着くなり、選手のお母さんたちから声をかけられ、
「夕べはありがとうございました。お話を聞いて目からうろこでした。急いでメモを取ったのですが、これで、よかったですよね・・」と紙一重のメモを差し出されました。
 下手な話を真剣に聞いてくれたんだなと、照れくさいやら嬉しいやら、一瞬戸惑ったほどです。

 昨年12月の初め、友人が脳出血で入院したという知らせが入ってきました。
 元気印の女性リーダーとして活躍し、町のカリスマ的存在だった彼女が、病気など全く無縁な存在と思っていましたので、ショックでした。
 友人からの一本の電話が奇跡を起こし、ほぼ快復しています。
 まさに、紙一重で人生をやり直すことができたのです。
 社会にまだまだ必要な人だからと、神様がこの世に留めてくれたのでしょう。

 1月31日は、私のXX目の誕生日です。
 朝起きるなり5歳になった孫が
「お父さん、いくつになったの?」と問いかけてきました。
 1月16日、その子の誕生祝をした際、
「今度はお父さんだね・・」と話していたのを覚えていたのでしょう。
 午後3時過ぎ、いつものように幼稚園に迎えに行った帰りの車中で、孫が言いました。
「お父さん、隼ちゃんはお父さんにお手紙書くからね。」
「なんて書くの?」
「あのね、お父さん、いつも隼ちゃんをやさしくしてくれて、ありがとう。それから、いつも楽しいところへいっぱい連れて行ってくれて、ありがとうって書くの・・」
 やっと、自分の名前が書けるようになったばかりなのに、それでも、私に手紙を書いて、それをバースディプレゼントにしようと思ったのでしょうね。
 形には残りませんでしたが、私にとっては最高のプレゼントでした。


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 厳冬の房総へ

 あっという間に1年が過ぎ、新しい年を迎えたと思ったら、1月も半ばにさしかかってきました。
 今年も充実した年でありますよう、年頭に当たり心から念じています。

 昨年12月の三連休に、久しぶりに家族旅行に出かけようと、候補地選びをしていたら、宿泊施設がどこも満室で、一月先送りすることにしました。子どもたちのリクエストは、千葉県富津市にある「マザー牧場」周辺です。
 早速、ネットで宿探しをしたら、マザー牧場と鴨川シーワールドのチケットがセットになっているホテルの宿泊プランが見つかりました。
 鴨川シーワールドまで車で10分、マザー牧場までは約1時間の所にある、鴨川の「ホテルグリーンプラザ」です。
 1月12日からの三連休に、房総の海辺で太平洋の雄大な景観を楽しんで来ることにしました。
 待ち望んでいた1月12日がやってきました。前日までは、小春日和を思わせる穏やかな日が続いていましたが、出発の日は生憎小雨混じりの底冷えのする天候でした。東北自動車道から横羽線に入り、アクアラインを経由して、12時少し過ぎに「グリーンプラザ」に着きました。
 途中、海ほたるで休憩をとると、海に囲まれたサービスエリアの風景に孫たちは興奮気味でした。
 ホテルのフロントで鴨川シーワールドのチケットを受け取り、入園すると間もなく、オーシャンスタジアムでシャチのスーパーアトラクションが始まりました。シャチとトレーナーのダイナミックなパフォーマンスは見ごたえがありました。
 それにしても、外房の暖気の期待は見事にはずれ、傘をさしての屋外ショーの見物はこたえました。
 
 翌日は、マザー牧場でファームツアーに参加して、動物たちと触れ合ったり、乗馬や遊具で楽しみました。この日も、とても房総とは思えない寒さで、防寒着に帽子までかぶって、必死の寒さ対策です。
 それでも子どもたちは、元気にはしゃぎ廻っていました。
「アグロド−ム」で、「シープショー」と題する羊の毛刈りを見物しました。100sはあろうかと思われる羊が、オーストラリア人(?)の見事な手さばきによって、あっという間に丸裸にされました。 午後4時過ぎ、雄大な牧場を後にしてホテルに向かいました。途中、多くの参拝者が訪れることで有名な、真言宗智山派鹿野山神野寺に詣で、5時半ごろホテルに到着しました。
 ゆったり湯につかってから、豊富な食材が並んだバイキングを頬張って、夕餉のひと時を楽しみました。
 3日目も、相変わらず厳しい寒さに包まれていました。鯛の浦で遊覧船に乗り、天然の鯛が散布された餌を目がけ飛び上がる様子を見物しました。駐車場の上手にある誕生寺は、日蓮聖人降誕の地として尊ばれています。境内には露天商が並ぶほどの賑わいをみせ、多くの参拝者が列をなしていました。
 九十九里の海辺を北上すると、2年前宿泊した「サンライズ九十九里」が左手に見えてきました。
 孫たちも懐かしそうに眺め「また来たいな・・・」と呟いていました。
 今回の旅は、天候には恵まれませんでしたが、厳しい寒さを体感する度に、きっと、厳寒の房総の旅を思い出すに違いありません。

 私は信条の一つとして、一日一日を大切に充実した時間を過ごすことを心がけています。その延長に、これからの一年一年がどんなに大切な時間か認識しています。願わくばあと15年、人生が続けられたらと思っています。15年が経てば、父の感触も、匂いも、なにもかも記憶のかけらさえない持たない下の子が、二十歳を迎えています。そのとき、上の子は22歳、順調に行けば大学4年生で、将来が見えている年齢です。先日、夕食時に下の子をひざの上に抱え(夕食はいつもこんな姿勢です。)
「隼ちゃん、お父さんは隼ちゃんが20歳になるまで頑張って、隼ちゃんたちを守っていくからね。隼ちゃんの20歳の誕生日には、お父さんと乾杯してお歌を唄おうね・・」
「うん、分かった!。隼ちゃん、お酒飲んでいいの?」嬉しそうに微笑んでいました。  


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二人の母さん

 去る11月21日の読売新聞朝刊に、全国小・中学校作文コンクール小学校高学年の部で、栃木県特選作品に輝いた足利市立御厨小5年・笠原大聖君の作品が掲載されました。笠原君を生んでくれたお母さんは、笠原君が1歳9ヶ月のとき27歳という若さで病死したそうです。その後、笠原君はばあちゃんに育てられますが、そのばあちゃんをもう一人の母さんと位置づけています。お母さんが、余命短い病床の中で必死に生きようとし、笠原君にあらん限りの愛情を注いだ様子を日記に記しました。作文は、そのお母さんの残した日記をもとに綴られ、素直に成長している様が手に取るように分かりました。
 文字を追い続けていた私の視野は次第に霞み、温かいものが頬を滑り落ちていきました。
 作文には、笠原君の率直な心の叫びが描写されていますが、中でも終盤に綴られているくだりには、心をゆさぶられました。
  ・・・たまに「一度でいいから母さんに会ってみたい」と思うことがあるけれど、死んでしまったので会えません。会えるのは、写真の母さんとビデオの中の母さんだけです。
 ぼくは毎日登下校のときに、母さんの眠っている墓地の前を通ります。だから、毎朝お墓の前に来ると、心の中で、「母さんいって来ます。」と言います。帰りには、「母さんただいま。」と言います。母さんの返事はないけれど、きっとぼくの心の声は母さんにとどいていると思います。ぼくは、早く死んでしまった母さんの分まで、いろいろなことに頑張っていきたいです。
 ばあちゃんは、いまだに右うでがよく上がりません。台所仕事をするときは、いつも腰を曲げ、両ひじを流し台につけて作業をしています。それでも、「大くんが二十歳になるまでは頑張らなくちゃね・」と言います。ばあちゃんが少しでも長生きできるように、できるかぎり家の役に立つことをして、できるかぎり自分でできることは自分でやっていきたいです。
 ぼくを生んでくれ、ガンと闘いながらも、ぼくの成長を温かく見守ってくれた母さん。
 ガンになりながらも、ぼくの成長を見守り続けているばあちゃん。
 二人とも、ぼくにとって、かけがえのないとってもとっても大切な母さんです。そして、大・大・大〜好きな二人の母さんです。
 と結ばれています。
 父と母の違いこそあれ、今、私たちじいちゃん・ばあちゃんに育てられている二人の孫と重ねない訳にはいきません。
 笠原君のように優しく素直に成長し、いつか、笠原君と同じような思いにひたれる日がくることを念じるばかりです。
 なお、この作品は、後日行われた中央審査会で見事入選されました。

 御厨小学校の近くにある島田町で、お好み焼き「巳乃吉」を経営しているご夫婦がいらっしゃいます。今から十年ほど前、奥さんの秋草調子さんと知り合いました。秋草さんは90年代、近隣の外国人労働者をサポートし、日本のお母さんとして慕われていました。その体験を綴った「変だよニッポン人」という著書を下野新聞から出版し脚光を浴びました。俳優の片岡鶴太郎さんとも交流があって、お店には鶴太郎さんの絵が飾ってあります。
 時折、お店に伺っては、落ち着いた雰囲気のなかで、自慢のお好み焼きに舌鼓をうっています。
 娘が婚約中に相手を伴ってお邪魔したり、娘婿が亡くなった後、幼い孫たちを連れ添って伺ったりしては、温かいおもてなしを頂きました。
 連休の中日(11月24日)、久しぶりにお邪魔しました。
 相変わらずお店は繁盛し、家族連れで賑わっていました。 
 店内に入った私たちを目にした秋草さんは、大きな目を更に大きくして、
 「わあ!、鷺谷さん、いらっしゃい!、びっくりした、ようこそいらっしゃい・・」
 大きくなった孫たちの成長ぶりにも、目をみはっていました。
 鉄板を囲み、お好み焼きを焼きながら、楽しそうに頬張っている孫たちの満足そうな顔。
 充分膨らんだお腹をなでながら、別れを惜しみつつ「巳乃吉」を後にしました 
  
 帰路、寄り道をして「どまんなかたぬま道の駅」のイルミネーションを見ていくことにしました。
 見事なイルミネーションは、しばし幻想的な世界に誘ってくれました。おそらく、道の駅の営業方針にはマッチしないであろうサービスを、こんな形で提供してくれる「どまんなかたぬま道の駅」のオーナーに感謝します。
 







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鎌倉・光明寺での法事

 10月の初め、亡き妹の夫から墓所改修開眼法要の案内が届きました。
 私より二学年年下の妹は、私が高校進学したため、経済的に恵まれなかった家庭の事情で、中学を卒ると電気メーカーに就職をし、私の授業料を応援してくれました。
 私が高校を卒業し就職すると、「あとは頼んだね。今度は自分がやりたいことがあるんで・・」と言うと、退職金を持って上京し、タイプライターの専門学校に入学、国家試験に合格するとある企業に就職しました。
 そこで出会った彼と結婚しました。式も挙げられない状況だった二人の出発、あれから40年、妹の選んだ人は、今や日本を代表するアミューズメント業界の社長として君臨しています。
 夫を支え家庭を守り、子育てに専念した56年の人生は、波乱万丈そのものでした。しかし、今になって、妹の目の確かさを知らされています。優しく人間が大好きだった妹は、他人の不幸を自分のことのように心痛めては、できる限りのことをしていました。せめて、あと数年生きていたら、それを自分の目で確かめることができたでしょうに。
 妹が大好きだった、海辺にある浄土宗本山・光明寺に墓所が確保でき、一周忌には、洋風の蘭をあしらった素敵な墓石が建立されました。それから3年後に夫の母が逝去し、妹の墓石の隣に同じような墓石が並び建立されました。それを、今回一つにまとめる改修が施工され、改めて開眼法要を営んだのです。義弟は数年前再婚し、今回改めて紹介されましたが、気さくな人当たりのいい女性で、雰囲気もどこか妹に似ていました。
 午後1時30分に始まった法要が終わると、場所を新宿「パークハイアット東京」に移しての食事会に招かれました。我々庶民には縁のないホテルでの食事会も、妹が誘ってくれたのでしょう。
 地上40階にある和食レストラン「梢」で、新宿の夜景を眺めながら、ドンペリを片手に語り合う、こんな食事会など恐らく最初で最後です。妹が去って早9年余、光陰矢のごとしと言いますが、月日の過ぎ去る速さを実感し、在りし日の妹を偲んで充実した時間を過ごしました。


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新たな家族
 娘の大学時代の親友で、登録犬の繁殖をしている女性がいます。
 北海道から帰郷して間もなく、その友人から電話があって、生後3ヶ月のシェルティの牡犬がいるけど飼わないかと打診されました。上の女の子は、以前から小型犬の飼育をせがんでいましたので、この時とばかり、アピールしたようです。
 私は犬が好きでありませんが、子どもの願いを断つこともできません。家の外で飼うことを条件にOKしました。
 奥の部屋の前のベランダを整理し、そこで飼うことにしました。
 そのうち、娘がネットで注文したのでしょう、組み立て式犬小屋や、重さ80kgもあるゲージが届き、私が汗だくで組み立てるはめになってしまいました。やってきた牡犬は、愛くるしくすぐに家族になついてくれました。名前は「
ほく」と言います。二人の孫が相談して決めたそうです。
「どうして「ほく」って決めたの?」と尋ねると、
「北斗星の「ほく」だよ」嬉しそうに答えました。
 二人にとって、先日の北海道旅行、とりわけ寝台特急「北斗星」のインパクトが強かったのでしょうね。家族が増えたことで、生活のリズムが一変しました。

 数日後、ヒラリアの薬を投与していただいたり、飼育のアドバイスをいただくため、友人の安藤動物病院を訪ねました。院長の安藤良子先生は、先般の市議選で再度当選を果たした方で、私が市役所に在職中、大変お世話になった方でもあります。冒頭先生は
「シェルティは紫外線に弱く、6歳くらいまでに皮膚がんになり易いんです。なので、今、余り人気がありません。そのことを承知で飼ってくださいね・・」と言われました。娘が小学生のころ、二度ほど犬を飼ったことがありますが、どちらも、街道に飛び出て車にはねられ死んでしまいました。
 死骸は家の墓地の片隅に葬ってありますが、今でも、娘は墓に行くたびに線香をたむけています。愛犬との別れがどれほど辛いものか、安藤先生は、それを気遣ってくれたのです。
 それはそれとして、今、我が家は歓迎ムードに沸いています。
 朝晩の散歩、三度の食事(成犬になれば、一度でいいそうですが)、毛が長い犬はビタミンが不足するようで、青菜を刻んで与えたり、時には、ステーキの分け前をねだられたりしています。
 多分、こんな経験から、労わりをはじめ様々な愛情が芽生えてくるのでしょうね。孫たちにとって、素敵な体験となるよう願っています。


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 北の大地2007C 

「丸駒温泉旅館」の、支笏湖に面した部屋からの眺めは格別でしたが、この日は、以外に気温が上がり蒸していました。こちらに渡って気がついたのですが、ほとんどの宿の部屋にはクーラーが備わっていません。いくら扇風機を回しても暑さは和らがず、寝苦しい夜を過ごしました。
 宿自慢の露天風呂は、支笏湖の水面と連なっており雄大な自然の懐に抱かれたような気分になれます。宿から、大物の旅行バッグを宅急便で送る手配をし、チェックアウトすると、静かな湖畔の宿に別れを告げました。
 札幌に向かって30分ほど走った所に、北海道唯一の国営公園「滝野すずらん丘陵公園」があります。広大な敷地にオートリゾートや青少年山の家などの宿泊施設も備えていて、青少年格好の遊空間を提供していました。「こどもの谷」というゾーンでしばし時間を過ごしてから、公園内にあるレストランで食事を摂り、子供たちの未練を断ち切って札幌市内を目指しました。
 約束の時間よりかなり早くなりましたが、レンタカーを返すと、手荷物を駅のコインロッカーに預け地下鉄で大通り公園に出ました。香ばしい焼きとうもろこしの出店や、ソフトクリームの店が並び、大勢の人で賑わっていました。時計台の前を散策し駅に戻って、平成15年3月に開業した「JRタワー」の展望室から札幌市の360度を遠望しました。
 タワービルの食堂街で、北海道最後の晩餐(?)は札幌ラーメンを味わうことにしました。
 コインロッカーから荷物を取り出し、札幌駅の5番線ホームで待っていると、やがて待望の寝台特急「北斗星4号」が入ってきました。A寝台ツインデラックス2室が、私たちの今夜の宿です。
 定刻19時27分に発車した北斗星は、リズミカルな音を立てながら北の大地を快走していました。下の子は「隼ちゃんは、お父さんと寝る」と言って、2段ベットの上で寝そべっていた私のところに這い上がってきました。
「お父さん、隼ちゃんたちを北海道に連れてきてくれて、ありがとう!。隼ちゃんは、お父さんが死んでからも忘れないから、絶対に忘れないからね。」と言います。4歳の子どもの口からどうしてこんな言葉が・・、どうしてと唖然としてしまいました。同時に、熱いものがこみ上げ、こぼれ落ちる涙を闇に隠していました。


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 北の大地2007B 

 「洞爺湖万世閣」は、来年の7月7日から開催される「北海道洞爺湖サミット」の会議場となる「ウインザーホテル洞爺」を、正面左手の山頂に眺める素敵なホテルです。早朝、妻を連れ添い湖畔の遊歩道を散歩すると、心地よい風が頬を撫でてきます。ベンチに腰を下ろしサキソフォーンを吹いている男性のモニュメントや裸婦の銅像が目をひきます。
 チェックアウトし、ホテルの直ぐそばにあるモーターボートの発着所でチケットを求め、洞爺湖の湖面から爽快な眺めを楽しみました。初めはおそるおそる乗り込んだ孫たちも、次第に、高速なすべりに快感を覚えたようです。
 洞爺湖から程近い昭和新山・有珠山周辺を散策しました。特に熊牧場は大いに気に入ったようで、自販機で販売されている熊のエサを際限なく買い与えては、熊のリアクションを満悦していました。
 有珠山を後にして、一旦、町に出て昼食を摂ることにしました。
 程なく蕎麦屋の看板を見つけ、車をつけました。子どもたちも蕎麦は大好きです。
 北海道といえば、蕎麦よりラーメンの先入観があり、内地の蕎麦の方が美味なんだろうなと思っていました。ところが、口にした蕎麦は期待を遥かに超えた珍味でした。
「美味しかったですね。北海道でこんな美味しい蕎麦にありつけるとは・・」すると店主は
「北海道は蕎麦の生産日本一ですよ。蕎麦の発祥の地です。北空知の幌加内や十勝の新得など、内地の信州などに負けない美味しい蕎麦が取れます・・」思わず認識を改めました。
 車は一路小樽を目指します。お蕎麦屋さんの店主のアドバイスどおり、高速を避けて一般道を走ることにしました。
「折角北海道にきたのだから、下を走って景色をゆっくり眺めながら行かれたらどうですか。定山渓から朝里峠越えがいいですよ。これを差し上げますから」と言いながら道路マップを手渡してくれました。夕刻5時前に「運河の宿おたるふる川」に着きました。JTBの勧めで、唯一夕食なしの宿泊で、夕食は宿の直ぐそばにある「千春鮨」で摂ることにしました。松山千春ゆかりの寿司屋さんで、理由を話すと、遠方からの来店を歓迎してくれました。帰り際、お上さんが見送ってくれ
 
「先ほど撮った写真を送ってください。店内に飾らしてもらいますから・・」と声をかけてくれました。早朝、予約しておいた天井貸切露天風呂に浸り、市内を見下ろす眺めは格別でした。
 チェックアウトし、車は駐車場におかせていただいて、小樽運河周辺を見物しました。
 運河の縁で画家が自筆の作品を並べ商っていました。覗き込むと
「どう、小樽の記念にどうですか、安くしておきますよ。」
「お父さん、これとこっちのと、どちらがいい?」と妻がきいてきます。結局決めきれず両方を買い求めることになりました。小樽運河の冬景色で、小樽の象徴のような気がしました。
「娘さんと孫さんですか、旦那は連れてこなかったの?」訳をを話すと、
「そうか、若いんだから頑張んなよ!。ここは運がいいんだから、頑張るんだぞ」と何度も励ましてくれました。そして、2枚の作品の裏に、それぞれ励ましの意を込めたサインをしてくれました。
 北一硝子などめぼしい著名店を覘いて運河に別れを告げ、小樽水族館に立ち寄りました。
 アザラシやペンギン、それにトドの屋外ショーを見物したあと、魚つり体験を楽しんだり、屋内のイルカショーに喝采を浴びせました。孫たちは、水族館に併設されている遊園地に未練があるらしく、しばし遊具を乗りまわっていました。おかげで、妻が楽しみにしていた「ニシン御殿」や「裕次郎記念館」は外から眺めるにとどまりました。
 小樽の思い出を胸に、車は4日目の宿泊地支笏湖温泉を目指しました。


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北の大地2007A

 二日目の朝、函館は願ってもない青空が広がっていました。
 お世話になった「旅館一乃松」をチェックアウトすると、係りの仲居さんと女将さんが見送ってくれました。別れ際、お礼かたがた旅の経緯をお話しすると
「そうでしたか・・、夕べも食事のときに二人のお子さんが膝に乗って、お父さんと言ってとても甘えていましたので・・おじいさんにしては若そうだし、どんなご関係なのかなと想像していました。」
「私たちが元気なうちに、パパの代わりを精一杯果たして、素敵な思い出を作ってあげようと・・、去年は知床から富良野まででした。孫たちは北海道が大好きになりました。また、お伺いできたら嬉しいですね。」
 女将さんと仲居さんは、揃ってハンカチを目に当てて
「お待ちしてますから、必ず、お越しになってくださいね。元気で頑張ってくださいね。」

 JTBで奨められた穴場「自由市場」に寄ってから、戊辰戦争の最後の戦の地となった五稜郭に向かいました。数年先に築城されるそうで、基礎工事が進められていました。
 昨年4月にオープンした五稜郭タワーに歩を進めると、鹿児島ナンバーの乗用車をカラフルなデザインで彩った車が止まっていました。車は日除けの大きな傘で覆われていて、カラオケの伴奏に合わせ、繰り返し繰り返し、演歌を唄っている男性がいました。近寄ってみると、曲名は「ありがとう函館」、唄っている男性は「たくみ こうじ」という中年の歌手でした。全国を廻ってキャンペーンをしているのだそうです。妻が記念にとCDを買い求めると、サインをしてくれ、記念撮影に収まってくれました。「奥さん、台湾ですか?」と言葉をかけられ、「なんで、日本語で話しているのに!」と憤慨していましたが、それくらい、アジア系の観光客が多く、観光客の大半を占めているのではと疑いたくなりました。五稜郭タワーから眺める函館360度の風景は、正に絶景の一語に尽きます。
  
 二日目の宿泊地・洞爺湖温泉に向かう地中、大沼国定公園に寄って観光していくことにしました。
 大沼、小沼の遥か向こうに、活火山である駒ケ岳の美しい稜線を眺めることができます。
 30分ほど遊覧船に揺られ、ゆったり湖水の上からの観光を楽しんだ後、足こぎボートで沼にでましたが、これはしんどい運動でした。


 洞爺湖万世閣に着いたのが17時半頃、修学旅行の団体も入っていて、大分賑わっていました。
 早速、温泉で旅の疲れをとり、湖畔側の部屋で食事を戴くと、期間限定だそうですが、20時45分から始まる花火を待っていました。約20分間、湖面の船から打ち上げられる花火見物は風情がありました。



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北の大地2007@

 6月の半ば、JTB小山支店を訪れカウンターで「北海道パック」を尋ねていたところ、
「課長!、課長じゃないですか!」と声をかけられました。振り返ると、私が市役所時代大変お世話になった女性営業社員で、特に、課長時代、講演に出かけたときのチケットを度々手配してくれた方ですが、途中で他の支店に転勤になり、20数年ぶりの再会です。
「声を聞いてすぐ分かりましたよ・・、ところで、どちらへ出かけられるのですか・・」
 その方(Sさん)にお任せして、昨年の続きのコースで、函館から札幌周辺のルートを組んでいただきました。下の孫が希望する「カシオペア」はチケットがとれず、往路が空路、復路が「北斗星」のエースパックに決まりました。
 
 6月15日、退職公務員連盟小山支部総会で、友人で元防衛大主任教授のYさんに講演をお願いしました。その際、カシオペアの件を話題にしたら「私も当たってみましょうか」ということになり、その日は終わったのですが、しばらくしてから「やはり難しそうですね。旅行会社が押さえていて、手に入らないようです」と連絡がありました。それからまた幾日かが経った7月の初め、「鷺谷さんチケット手に入りそうです。99%間違いありません。どうします?」と電話が入りました。一日待っていただき、JTBとの兼ね合いを調整したのですが、既に2割のキャンセル料が発生しており、相当な費用増になります。Yさんのご好意に後ろめたさを感じながら、結局、JTBルートで敢行することにしました。

 7月22日、野球のチームメート川村さんに、小山駅まで送っていただき、7時56分初の「Maxなすの266号」で東京に向かいました。9時半ごろ羽田空港第2ターミナル駅に着いて、搭乗手続きを済ませ、搭乗ゲート付近で出発時間を待つことにしました。
 子供たちは、去年も「ANAのポケモン」に乗りたいと言っていて、旅行会社に尋ねたところ、
「主要空港きり飛んでなく、地方空港は無理ですね」とのことでした。昨年は、女満別に降り、旭川から帰ってきましたので、ポケモンの機影すら見られませんでした。
 今年も、路線と運行時間が分かったら、その便にしたいのでと希望したら、早速、全日空に電話で尋ねてくれたのですが、「その日になってみないと分からない」との返答でした。
 そんな経緯があって、出発ゲート(63)に向かっていると、そのとき、ポケモンが63ゲートに到着しました。まさか、この機が目的地函館行きの「ANA853便」になろうとは、想ってもいませんでした。子ども達のはしゃぎようは、想像してみてください。やっぱり、神様はいるんだなと感慨ぶかいものがありました。
 函館空港には、予定の12時より10分ほど遅れ、無事着陸しました。東京は弱い雨模様でしたが、函館は気持ちのいい青空が出迎えてくれました。
 早速、予約しておいたマツダレンタカーから、8人乗りのニッサン車を借りて、近くにある「トラピスチヌ修道院」を見学しました。明治時代にフランスのトラピスチヌ修道院から派遣された8人の修道女により設立されたそうで、落ち着いた厳かな雰囲気が漂う施設です。
 修道院の駐車場で勧められた(割引券をいただいた)レストランで遅めの昼食を摂ってから、立待岬に寄って津軽海峡から遥か下北半島を眺め、心地よい風に当たってきました。
 観光ルートになっているのでしょう、綺麗に整備され、崖ふちには与謝野晶子の歌碑が建立されていました。

 初日の宿は湯の川温泉の老舗「旅館一乃松」です。玄関に入るとロビーから廊下に至るまで、真新しい畳が敷きつめられ、純和風の旅館です。
 食べきれないほどの豪華な部屋食が済むと、「函館山バスコース」の定期観光バスが、19時35分に旅館まで迎えにきてくれます。
 バスコースのほかに、ロープウエーコースもありますが、ロープウエーの乗り換えなどを考慮すると、子供を伴っての観光では、山頂まで直行するバスコースの方が、得策とのことでした。そのとおりで、バスガイドの流暢かつユーモラスな案内も格別でした。
 100万ドルの夜景も、時折ガスに遮られ、満喫する機会は少ないそうで、おまけに、月明かりが海面を照らす様など滅多にお目にかかれないそうです。
 初めての函館山参りで、願ってもない絶景を拝めたのも単なる偶然だったのでしょうか。

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パパの日

 先週初めごろ、幼稚園年中組の孫が、私の顔を両手でおさえ
「お父さん、顔をよくみせて!」と言いながら、まじまじと眺めていました。
「なんで・・どうしたの?」とたずねると
「よく見ないと、描けないよ・・」
 そんなやりとりがあってから、15日の金曜日、幼稚園から帰ってくるなり、カバンから大切そうに一枚の絵を取り出しました。
「はい、お父さん、これはパパの日のプレゼントなの。だから、日曜日にかざってね!」
 全く記憶にないパパの顔でなく、おそらく、彼の心中では、いつの間にかすれ換わってしまった私を、実のパパと思い込み一心に描いたのでしょう。
 裏面には、「おとうさんありがとう」の文字と孫の名前が書き添えてありました。


 その翌日(土曜日)は、父の日にちなんだミニ運動会が開かれます。
 両親が揃った家族にとっては、願ってもないイベントですが、シングルママ状態の孫たちにとっては、何とも切ない行事でしょう。その思いを払拭させるためにも、バーチャルパパへの期待は大きいものがあります。プログラムの最初は、園児を背負っての競争があります。昨年は、上の子を私が背負い、下の子を娘が背負って参加しましたが、惨敗に終わりました。それもそのはずです。30kg近い孫娘を背負ってでは、スタートの合図に足が出ませんでした。
 今年は、その半分余りの下の子ですから、余裕で決勝進出です。喜んだのは、応援に駆けつけた孫娘でした。一年ぶりのリベンジが、とてつもなく嬉しかったのでしょう。決勝戦では、僅差で敗れてしまいましたが、孫たちは大満足です。それもそうですよね、私の倅たちと同年輩を相手ですから。

                          
 今年も、二人の孫にとっては、辛く悲しい日がやってきました。
 去る6月13日、4回目の命日は、娘婿の実家の家族とともに追悼の食事会をしました。
 娘が暮らした夫との時間と、夫と別れてからの時間が同じになりました。
 去年は、友人Yさんのご好意に甘んじ、北の大地への旅で傷心を癒すことができました。
 今年も心に残る風景をプレゼントしたいと模索中です。
 下の男の子は、電車に興味を持っていて、時折、近くの駅の沿線にある駐車場で、電車を見せています。中には、運転席から手を振ってくださる運転手さんや、警笛を鳴らしてくれる粋な運転手さんがいて、温かいサービス精神に感動しています。孫は益々電車好きになっています。
 特に、週3回運行している寝台特急カシオペアに、大変な興味を示しています。
 先ごろ、JTBに予約しましたが、リザーブできるのは至難なようで、祈るような気持ちで吉報を待っているところです。


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ファイナル・レクチャー

 昭和60年頃だったでしょうか、私が本格的な講演活動を始めたのは、仙台の「ホテル白萩」で開催された「財・地方自治情報センター」主催の税セミナーでした。以来、縁あって同センターの各種研修会や「財・市町村アカデミー」の講師を仰せつかったり、単独団体や民間企業からの依頼もあり、数え切れないほどのレクチャー(講演)をさせていただきました。
 退職後も、行政IT推進アドバイザーとして北は青森県南は熊本県まで、多くの市町村を廻ってITの普及に微力を注いできました。お伺いしなかった県は数えるほどで、今は、それぞれの思いが懐かしく脳裏を掠めます。昨年で、ほとんどの肩書きをおろしました。そんな私に隣の下野市婦人会から講演の依頼がありました。というより、今年度の会長に就任した小・中学校の同級生で、前下野市議会議員大橋和子さんからの有無を言わせぬ命令(?)だったというのが当たっています。
 今から8年前の1999年5月29日、当時の国分寺町女性団体連絡協議会の総会で講演したことがあります。そのときの会長が大橋さんで、前記のような状況でお引き受けしました。演題は、私の2冊目の著書名「感動の向こうに明日がある」でした。書の内容は自治体情報化への挑戦のドラマですが、内容はともかく、タイトルが気に入ったのでそれで話してくれということになりました。講演が終わって、役員の関さんから花束と謝辞を贈られたのですが、それも、泣きながら「・・こんな感動した講演会は初めてです。是非、いつかパート2を聞かせて下さい・・」という身に余る感想を頂きました。
 それが8年後、あのとき聴講してくださった方が大勢を占める婦人会の総会で、再現されるとは夢にも思いませんでした。退職して7年が過ぎ、過去の栄誉も色褪せた私にこんな晴れがましい場を提供してくれたことを感謝せずにいられません。
     
 もう10年も前に出版した「感動の向こうに明日がある」が、ITジャーナリストで組織する有限中間法人「IT記者会」のIT図書館(35ジャンル:838冊)行政の部9冊の1冊に、社会の部19冊の1冊に選ばれています。ひと昔前に執筆した拙著が、このような形で脚光を浴びていることに驚きを隠せません。
 また、地方自治体情報化の先駆者、元東京経営短期大学教授、都市情報システム研究所長の茶谷達雄先生が、ドキュメントタッチでまとめ、2005年10月に出版した「自治体情報化の開拓者たち」18話のなかに、不肖私が選ばれ歴史に記されたことは無上の喜びであり誇りです。

 今回が、恐らく私自身にとって最後の講演となるでしょう。私の人生は決して平坦ではありませんでした。しかし、どんなことが起きようとも、逃げることなく前向きに、愛を持って受け入れてきました。だからこそ、得がたい感動に満ち溢れた人生を歩むことができたのだと思います。
 それぞれの場でそれぞれの出会いが人生の深さや重みを増してくれ、更に充実した時間を与えてくれました。それは、奇跡的であったり、神秘的であったり、でも、よくよく思い返してみると必然的であることに気がつくのです。自分は、今生きていることを求められ、生かされていることに。
 一言で言い尽くせませんが、自身の体験から強く感じた人生観について語らせてもらいました。講演が終わると、会を代表して大橋さんから鉢植えの胡蝶蘭の贈呈がありました。こんな立派な蘭をこんな形で頂いたのも初めてです。まさに、最初で最後の感動的なセレモニーでした。

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惹き逢わせ

 5月3日は妹の命日です。1998年、新緑と暖かな海風が頬をなでる中、大好きな鎌倉・腰越の自宅で息を引き取りました。(正確には、自宅で療養中急変して近くの病院に担ぎ込まれ、そこで息を引き取ったのです。)小高いところに建てられた家のすぐ目の前を江ノ電が走り、その向こうには太平洋が一望できます。妹はこのアングルをとても気に入っていました。
 実際住んでみると、湿度が高く、おまけに潮風の影響で洗濯物はからっと乾かなかったり、錆が激しく住みにくいとも言っていました。そんなことがあってか、世田谷に住まいを求め、股関節の持病を持つ妹のために、エレベータをつけるなどのリニュ−アルの完成直前でした。
 鎌倉はご周知のとおり、小京都といわれ歴史文化の宝庫で、散策に事欠きません。中でも、材木座海岸が見渡せる浄土宗本山・光明寺がお気に入りで何度も訪れていたようです。
 それを知っていた妹の夫が四方手を尽くし、その寺を菩提寺にすることができました。今、妹は大好きな光明寺で安らかに眠っています。命日は、連休の真っ只中で、大変な混雑になります。その日を避けて一週間前ごろ墓参することにしていました。いつもの年は車で出かけましたが、今年は、私が先月半ばから咳が止まらず、今月に入ったある日、激しく咳き込んだ拍子にぎっくり腰になってしまい、未だに腰がずしっと重たく違和感があり、車ではなく電車にしました。
 二人の孫も電車での旅を喜んでいました。湘南新宿ラインの快速で、小山から2時間ほどで鎌倉に着きました。グリーン席はほぼ満席でしたが、ゆったりした乗り心地は新幹線並です。
 鎌倉駅からはタクシーで10分ほどです。
 寺について、電話でお願いしておいた塔婆を受け取り、墓に供えていると娘が
「あれ!、知ちゃんじゃない・・」と言います。
     
 指差すほう見つめると、甥の家族(奥さんと二人の子供)が黒のスーツ姿で歩いてきます。
 甥も私たちに気づいて、びっくりしていました。
 お互い「え!、え!・・」と久しぶりの再会に挨拶ももどろでした。
 何と、妹の夫のお母さん(平成13年没)の七回忌の法要を、家族だけで執り行ったそうです。
 数分ずれていたら、お互い気ずかずにすれ違っていたでしょう。
「もうすぐ妹も来ますから、ちょっと待っててください。それに、親父もついているはずですから」
 想いもよらず、姪や妹の夫と会うことができました。
 姪がしみじみ「やっぱりな・・」とつぶやいていました。そのさきの言葉は聞かずとも分かります。
「お母さんが惹き逢わせてくれたんだね」

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入 学

 いよいよ入学です。新居完成2ヶ月前に父親に急死され、とりあえず、新居に移って母と児の生活が始まったものの、それも数ヶ月で、私たちと暮らすことになりました。
 新居の近くにある「三田幼稚園」に通い始め、お友達もできようやく園の生活に慣れてきたところで生活の本拠が変わり、再三厳しい試練を余儀なくされた孫娘。なかでも、父親の死の一部始終を隣で目撃した悲惨な体験は、筆舌に尽くしがたいものがあります。トラウマにならなければと、どんなに案じ続けたことでしょう。
 今日4月10日は、入学式です。昨年度から、偉大なる先輩「信末利夫」さんの後任として、小学校の後援会長をお受けして初めての入学式に臨みました。
 30名の新入生が次々と入場し、13番目に孫娘が現れました。ここ1年めっきり体重が増え、今では、娘が小学3年生のときと同じ位です。
 新調したピンクの上下のスーツで身を包み、少々笑みを浮かべながら行進する姿が、かすんできました。
 朝起床して、最初に神仏のお水替えと、仏壇に線香を供えることを日課にしている私は、今朝は、そこに飾ってある娘婿の遺影にまじまじと語りかけました。
「津君、優香が今日から一年生だよ。ピカピカの一年生になったよ!!。隼ちゃんも幼稚園の年中さんになって、昨日から元気に通園しているから安心しな。阿弥陀様のもとで修行して立派な仏様になり、娘親子を見守るんだよ・・」

 卒業式や入学式などの学校行事の際、後援会長も来賓の一員として挨拶をします。
 いつものように感じたことをお話させていただいていますが、児童相手に話するのは、慣れてないこともあり難しいものですね。。
 新入生には、「今日からこの学校で宝探しをしようね・・」と、語り掛けました。
「ここには、とても大切な宝物が沢山かくされています。それは、大事なお友達であったり、今日から手をとり足をとって導いてくれる素晴らしい先生たちとの出会いであったり、大好きな勉強や運動を見つけることです。ひとつでも多くの宝物を探そうね・・」そんな意味の挨拶をしました。そして、保護者の方には「人は誰でも優れた才能を持って生まれてきているといいます。それが何なのか、一日も早く見出して、とことん伸ばしてください。そして、大輪を咲かせてください・・」とお願いしました。
 併せて、身近なお手本として、羽川西小(今春中学生)の萩野公介君が、JOCジュニアオリンピックカップで見せた、数々の活躍の様子を紹介しました。中でも、先月の春季大会で3種目に優勝し、日本記録を塗り替えた活躍は圧巻でした。素質を生かし努力を重ねることによって、素晴らしい結果がついてくるものですね。そんな目線で子供たちと係わってほしいものです。
 それは、同時に、父親代わりの自分自身にも言い聞かせるものでした。


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卒園まぢか

 物心つく前から「じ〜じ」とやけになついていて、娘婿が健在だったころ、アパート暮らしをしていたときでも、家に帰りたがらず私の胸で寝入ってしまった孫娘。パパが急死してからは、「じ〜じ」は「お父さん」になりました。旺盛な食欲と天真爛漫で活発な振る舞いのせいか、今では娘が小3のときの体重に近づいています。とにかく丈夫ですくすく育ってくれています。
 その孫娘も、間もなく卒園になります。人間おぎゃ〜と産まれたときから、人生が始まりますが、僅か2年余りで父と永遠の別れをしなくてはならなかったなんて、誰がきめたのでしょう。下の子は、たった100日余りです。
 夜、寝顔を眺めていると「こんな幼い児が、これからずっと父なし子で生きていかなければならないなんて・・・」止めどなく涙が零れ落ちることが少なくありません。
 二人の孫は、朝目覚めたときも、夜床につくときもただの一度も泣いたりぐずったりしたことがありません。幼心に、何か気遣っているようでもあり、しっかりしなくちゃという気配すら感じます。
 何かが、欲しいとせがむこともありません。
 ママが弾いたピアノでレッスンし、学習机も「新しいものはいらない。ママが使ったのでいいよ」と言っていますので、多分、そうなるでしょう。
 私が小学校の高学年か中学生だったころでしょうか、母がしみじみ言ったのを思い出しました。
「家は貧乏で新しいものは着せてあげられないけど、綺麗なものは着せてあげられるからね・・」と、毎日せっせと洗濯していました。
 ♪♪いつのことだか 思い出してごらん・・♪「思い出のアルバム」の大合唱に送られて、それこそ人生のアルバムに大きな1ページを飾ってくれるでしょう。おめでとう!!。

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もうすぐ春ですね

 東京に雪の降らない冬は、観測史上初めてのことだそうです。地球温暖化の影響がひしひしと迫ってくるようで、不気味にすら思えます。今こそ世界が一つになって、地球の未来を考えていかなければなりませんね。
 孫娘は今春いよいよ小学生になります。2003年の初夏、突然父を失ってから間もなく4年が経ちますが、その悲しみに耐えながら、2歳下の弟とけなげに成長しています。
 2月4日には、ヤマハ音楽教室の発表会が、結城市の「アクロス」で開かれ、熱演に拍手を送ってきました。
 下の子は私の誕生日が出産予定日でしたが、2週間ほど前に産まれ、それでも、誕生日が同じ月ということもあって、バースディ祝は一緒にしています。孫たちも大の温泉好きで、いつの間にか、誕生祝は温泉旅行になっていました。8月が娘、9月が孫娘、10月が妻で夏から秋にかけては、毎月温泉に出かけている状況です。それも、孫娘が小学生になると、そうそう休みもとれません。1月は出かけるチャンスがなく、2月に延期しました。併せて孫娘の入学祝の前夜祭を兼ねることにし、県北の那須にある「休暇村那須」と、大のお気に入り「メルモンテ日光霧降」を予約しました。「メルモンテ日光霧降」は郵政公社の郵便貯金総合保養施設」で、利用低迷による不採算が理由で、3月に営業が停止されるそうで、せめてその前に、もう一度宿泊したいとの思いから予約しました。

 21日10時ころ家を出て、那須SAで昼食をとり、ETC出口から「ファミリースキー場」に向かいました。那須湯元から有料道路に入ると、目指すスキー場は目の前です。この時期には珍しい穏やかな日和で、茶臼岳の噴煙を間近に見ることができました。道路に積雪はなかったものの、さすがに駐車場はアイスバン状態です。急いで身支度をし、キッズパークのチケットを求めました。
 平日のせいか2,3組の団体がスキー教室に参加しているほか来場者も少なく、ゆったり雪遊びを楽しむことができました。トイザルスで買い求めた「そり」で、初めは娘と私がそれぞれ相乗りしていましたが、そのうち「一人で乗れるから・・」と、孫たちはめいめいに「そり」を見事に操って滑走していました。子供の身体能力や順応性のすごさを実感しました。
    

 15時を回ったころから、冷たい風が吹き始めました。肌を突き刺すような風は、冷たいというより痛いというほが当たっています。早々に退散し、隣にある宿泊先「休暇村那須」に駆け込みました。
 温泉で体を温めゆったり休んでから、夜のバイキングに頬つつみをうちました。
 19時40分ころから、ロビーで貝塚美智子さんのフルートコンサートが開かれました。
 クラッシクや日本の歌などの名曲が演奏され、癒しの空間を堪能できました。
 
 今回予約したのは「那須産とちおとめイチゴパック」というプランで、翌日、11時からの30分間、那須インターの近くにあるビニールハウスで、イチゴ狩りを満喫しました。那須には様々なミュージアムやテーマ館が立ち並び、コース選びなど周到な準備が必要です。今回は、下の子が興味を持っている「恐竜館」と「SLランド」を見物することにしました。「SLランド」は蒸気焼きという名物の食事もでき、食材をSLが運んでくるという趣向も楽しめます。

 「メルモンテ日光霧降」に着いたのは16時を過ぎていました。このレジャー施設が誇るアクアパークの入場は17時までで、18時には閉館されます。キッズから大人まで楽しめるプールが併設され、また、ジェットバスのような円形のプール(?)なども備えられています。宿泊客は半額で入場でき、希望すれば、翌日無料で入れる「再来場券」が頂けます。
 あやかって、翌日も午前中はプールで楽しみ、帰路は、足尾を経由し渡良瀬渓谷沿いに車を走らせ、一昨年リニュアールオープンされた「星野富広美術館」を見学しました。
 何度訪れても感動をおぼえるのは、私ばかりでしょうか。
 さすがに孫たちには、退屈な時間だったようです。

 帰宅して新聞に目をやると、「メルモンテ日光霧降」が、東京のお台場で温泉テーマパークを運営する「大江戸温泉物語」の関係会社「キョウデンエリアネット」が落札し、4月以降改装して営業を開始する旨の報道がありました。リーピーターにとっても、また、地元日光市にとっても嬉しいニュースですね。


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4 歳
 
 昨年暮れの検診騒ぎから、命拾いした思いで迎えた新年は格別でした。
 1月16日は、娘の長男の4歳の誕生日です。
 僅か生後5ヶ月で父親に逝去されて、3年と7ヶ月が過ぎました。
 年末のある日、いつものように私にべったりつきまとうこの児に尋ねてみたんです。
「隼ちゃん、パパいなくて寂しくないかい?」
「パパって・・、隼ちゃんが赤ちゃんときにいた・・・」
「うん、そうだよ・・」
「寂しくないよ。お父さん(私のこと)がいるから、寂しくないよ」
 改めて、精密検査結果に感謝しました。
 私が必要とされている限り、その思いに応えていかなければなりません。
 娘婿が急逝し、娘親子を引き取ったときから、私は密かに心に決めたことがありました。
 娘婿になることはできないけれど、娘が時折「こんなとき、夫がいてくれたら・・」とか、孫たちが「ああ、パパがいたらな・・」と落ち込むことがあるとすれば、その機会を、たとえ一度でも減らしてあげようと思いました。
 夜具の上げ下げ、孫たちのシューズ洗い、孫たちのトイレのサポートや入浴、車の洗車などなど、女手で困難なことや仮想パパの触れ合いを積極的に行っています。
 シューズ洗いは、子供たちのを洗って以来久々のことですが、毎日の作業で結構大変です。
 最近、右手にひびわれができ、こんな経験も何十年ぶりでしょう。
 荒れた手を眺めて、無性に充実した気分に浸る自分を発見しました。
 上の孫娘は今春いよいよ小学生です。
 この一年が過ぎた年末には、どんな子供に成長しているのでしょうね。


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