[個人誌「学校」第1号,1980年10月16日発行]
はじめに 池田博明
この印刷物は、いったい何だろうか。
自分にもよくわからないのである。
ただ、私は学校には、社会同様“おかしな”ことが多いような気がするのである。その“おかしさ”は、生徒と話している時に感じることもあれば、先生と話している時に感じることもある。
相手の言っていることが「おかしい」時もあれば、自分の言っていることが「おかしい」時もある。
時には混乱してしまって、どちらがどうおかしいのかさえわからなくなる。
自分だけで考えていても考えは発展しない。だとすれば、提示することが必要だろう。
自分の考えを言ってみなければ、その欠陥にも気づかず、すぎてしまう。
さしあたって、自分にとって大切なことはいったい何なのか。それを話したり書いたりしてみるのも大事な仕事ではないだろうか。
だまっていれば、自分の持っている欠陥を人に知られずにすむということはあるだろう。しかし、そういう消極的な姿勢でいるより、おたがいにボロだらけの人間であるところから出発したほうが得るところが多いと思うのである。
ともかく、このミニコミは、主に学校について考えることにしたい。
教員にとって共通の話題になるからである。
しかし、私にとっては人と話すのが目的であるから、学校に限らず、共通の話題になりそうなことであれば何でもいいのである。
三年間続けていた『SPINNING WHEEL』は、生徒のためのミニコミだった。私と生徒の、生徒同志のミニコミだった。
これは我々自身のミニコミである。単なる私自身のミニコミとなるかもしれない。読んでくれた人が、反応してくれなければ、個人的なミニコミとなるだろうし、賛否を寄せてくれれば、少しは集団のものとなろう。とにかく今は「不断」ということが大切であると思う。
御意見をお待ちする。
《学校教育の目的は?》 池田博明
学校教育は、そもそも何のために行なわれているのか。これが最初にして最終の疑問である。あるいは、学校教育の目的はどうあるべきか。
私は教員にあこがれたこともなければ、教育に使命を感じたこともなかった。教員になった理由は、しいていえば、自分が面白いと思ったことを沢山の人に話して、共感してもらいたかったからである。それと、もうひとつは、偶然である。病気だったことが大きな原因のひとつである。
教育というものを、教化というイメージでとらえていたせいで、自分が教員であることが、どうも納得できなかった。
しかし、友人が就職を祝ってくれた手紙に、こんな言葉が引用してあったことが、若干救いになった。
「教えるとは、共に理想を語ること。学ぶとは、胸に真理をきざむこと。」
彼によれば、モルガンという人の言葉だそうである。
それなら、なんとかできるかもしれないと思った。
それからもう6年たつ。いまだに学校教育が必要であるという前提そのものに疑問を持ている。私にとって教育は学校でなければできないものではないのである。
しかし、学校教育を否定するものではない。少しでも学校教育の意味を明らかにしていく作業のなかに、“脱学校”という考え方も含んでおきたいと思うのである。
さて、共に理想を語ることとして、いったい自分にはどんな理想があるというのだろう。理想といっても、いろいろなかたちがある。
たとえば、新入生を前にして、望むことを述べる場合、何というだろうか。そんなところから考えてみる。
高校に入学した時、当時の校長が我等新入生に「初心忘るべからず」という話をした。
ハロラン芙美子は、入学式の日に教頭から「我々教師は諸君が大学に入るのを助ける努力は何でもするが、要は諸君にやる気があるかないかなのだから、三年間遊びたい者はそうすればよし、勉強したい者は勉強する。その結果は各人が責任を持ちなさい」といわれたのが効いたのか、皆の勉強は激しかったが、ゆとりがあったような気がする と書いている。
サローヤンの『人間喜劇』のヒックス先生は「私は教え子の一人一人がその人自身であって欲しい」と話す。
では、私は何というだろう。
「心ゆたかな人間になってほしい」と言えば、自分でも納得できるように思う。
価値が多様化しているとか、価値が稀薄化しているという。けれど、自分も含めて、私たちの価値観は狭量でゆうずうのないものになっているようだ。つまり、私たちは何かにとらわれてしまっている。
生徒の価値観も驚くほど狭く、一元化している。
学校は、それを拡げること、ゆたかにすることに骨を折るべきなのではないだろうか。
しかし、現実の学校は、価値観の拡大の方向を向いてはいない。むしろ特定の価値を教えこむ場として、あまりにも多く働いているようである。
学校は「解放」に至る装置としてではなく、「抑圧」の装置として働いているのだ。そのオペレーターは他ならぬ私たち自身なのである。
[個人誌「学校」第7号,1981年1月11日発行]
精薄者にとって知識とは何か 池田博明
精薄者にとって知識とは何か。
めくらにとって絵画とは何か。
つんぼにとって音楽とは何か。
身体障害者にとって体育とは何か。
そもそも、精薄者は、めくらは、つんぼは、ちんばは、びっこは、おしは、せむしは、人間なのか。
欠陥人間なのか。
人間である。欠陥ある人間ではない。欠陥というのは比較の問題である。人間は比較されるべきではない。比較は差別の原点である。
比較は差別の原点だと言ったのは、作家・田中小実昌の父親(神父)である。
欠陥があるとすれば、それは人間だれにでもあるのである。
テストの点数を気にする生徒に、点数が一番大切と思っている生徒に、考えて欲しいのは、精薄者のことである。
じゃあ、おまえにとって精薄者とは何なのだ?
いわゆる「できる」子、「できない」子というランクづけをつきつめていけば、精薄者(児)に出会う。できない子の人間の価値が下がるとすれば、精薄者は最低の人間ということになる。そんな発想が正しいというのか。
精薄者の視点で見れば、ものの見方も変わるのではないか。いつもそう考える。
真理は極端なもののなかにある。
城内生(小田原城内高校)も最近はレベルが下がってねぇという声を聞く。そうですか。だから何だ?
だから何だというのだ。精薄児だって人間ですよ。精薄児だって人の子ですよ。
人類の一員だよ。
精薄者を疎外する思想に、くみしたくない。学問の、科学のあらゆる領域に、知のあらゆる領域に、精薄者を疎外する発想はみつかる。私たちが何げなく使うふだんの言葉にも。
そもそも生物学がそうである。現代の生物学が持っている成果は、優生学にた易く結びつく。よく吟味すれば、優生学の原理を転倒する生物学上の事実もあるのだが、優生論者は、そんなところは見おとすのである。
科学で武装した新たな優生学が台頭しつつあるという。危機の時代には開花するにちがいない。今のうちに芽をつみとっておきたいのだ。
「アズキはバカに炊かせろ」といった程度の認識は持ちたい。豆は長時間煮ないと食べられない代表的な食物である。アズキは弱火で長く煮る。その間、ずっと火の番をし、煮えぐあいをみるような仕事は、バカにふさわしいことだという昔の人の感覚である。バカでも常人と同じ生活空間であったということを読みとることができる。私はこの話を大学の一般教養の国文学の講義(亀井秀雄担当)の中で聞いた。
たとえば、精薄者にとって知識とは何かを考えるに当たって、ぜひ検討したい本がある。それは、遠山啓(編)『歩きはじめの算数・ちえ遅れの子らの授業から』(国土社、一九七二年)であるが、これと共に、遠山啓の「生活単元学習批判」や「水道方式」の持つ意味についても考えておきたいので9号にゆずる。ここでは、以下、個人的な体験を記すことにする。
五歳の頃に、山形県山形市の松原に建てられた市営アパートに引っ越した。それ以前は山形市の六日町に、もっと前は長井市にいた。生まれたのは西置賜郡小国町である。
市営アパートのすぐ近くに出来たばかりの校舎があった。撤去されなかった作業員の物置小屋にもぐり込んで遊んだ覚えがある。やがて、その小屋もなくなり、その校舎には子どもたちが入ってきた。それが「ばかの子」たちだったのである。
この松原学園は、小田原市の光海学園と同様の精薄児の施設だったのである。
幼稚園は、「まち」にしかなかったので、市営アパートの子どもたちは、たいてい幼稚園にいかず、アパートの周辺や付近の川や山で一緒に遊んだ。幼稚園に行っている子もいたが、その子は、日中、ほとんど会わないし、一緒に遊ぶことも少なかったので、縁遠い存在だった。アパートは最初A、B、C、Dと四棟あったが、A棟とB棟の子供たちがひとつのグループだった。うちはB棟だった。C棟とD棟もすぐそばにあるのだが、ここは又、別の領域だった。つまり「よそ」だった。
A棟とB棟のグループには三歳程年上の子から、二歳程年下の子がいた。キクチ君、イセ君、カタギリ君、白石君、マァちゃん、うちの弟等々。一緒に遊んだのはたった一、二年だったのだろうが、なにせ三六五日、一緒にいたわけだから、今思うと、ずい分長く感じられる。
さて、松原学園には、金網の柵がしてあって、内にいる子どもたちは、子供心にも自分たちとは「ちがう」ということがわかった。たとえばダウン氏症候群特有の顔立ちである。
その子たちに向って、時々、私たちアパートの子供たちは、柵の外から、石を投げたり、「馬鹿」といったりして、内の子供たちが怒るといっそう喜んだものである。しょうのない悪タレどもであった。
ところで、私は学園の子に向って、石を投げたりしたこともなければ、「馬鹿」といったこともない。仲間がやっているのを見ても、自分はやれないのである。悪いことだからというよりも、心に抵抗があって、できないのである。学園の子たちが、なぜ馬鹿なのか、馬鹿とはどういうことなのか、よくわからなかったのである。だから、自分の口から、「馬鹿」といえないのである。
なぜそうなったかというと、母親が教えなかったからである。母は馬鹿という言葉を他人に向って言ったりすることもなければ、家庭の会話に出てくることもなかった。学園の子供たちをさげすむようなことも聞かなかった。だいたい学園が話に出てこなかった。
子供は言葉の意味を母から学ぶだけではない。仲間との関係からも学ぶ。しかし、親が言葉を補強してくれれば、意味はいっそう完璧になり、自信をもって使えるようになるにちがいない。
馬鹿という言葉の意味あいが、私にはつかめなかったのである。母が意識してそうしていたのかどうかは、知らない。しかし、母のことだから、いくぶんかは意識していたであろう。というのは、母にこんな話を聞いたことがあるからである。
小学校を卒業したあと、先生にたのまれて一年程、代用教員をした母は、先生方を教員の方から見て、がっかりしたという。ついこの間まで生徒としてみていた時との、あまりのちがいに失望したという。祖母が「女に学問は無用だ」という考えだったこと、農家で姉が体が弱かったため、女手が少しでも必要だったことから、代用教員は祖母にやめさせられたという。そこで先生方の別の面をみた母は、子供にはこのことはいうまいと思ったそうである。自分が失望したように、子供も先生を信頼しなくなってしまうから。
母は特に職についていなかったから、小学校から帰ると家にいて、内職や、家事をしながら、学校のことを聞いてくれた。その日あったこと、やったことを小学校の低学年の頃はよく話した。高学年にもなるとさすがに話は少なくなり、中学校ではほとんど話さなかったが、話の中で、しばしば、「その先生の考えはおかしいな」と母なりに思ったことがあったという。しかし、こちらが問題にしない限り、母が先生を批判したりすることはなかった。
それほど自分の話すことに気を使っていた母のことだから、いくぶんかは意識していただろうと思うのである。
学園の子に石を投げたり、「馬鹿」といったりできなかったことを、生物の授業中に話すことがある。ダウン氏症候群は染色体異常の代表例だからである。着任の年にも話した。その時教えた生徒に二年前、小田急線下り電車で会った。彼女は短大の帰りだった。私は何だったか覚えていない。多分、出張の帰りか、あるいは東京へ映画を見に行った帰りだったのだろう。彼女は在学中はバレーボール部だった。いわゆるレギュラーではなかったが、三年間よくやっていた。短大でもバレー部だという。高校一年の時は福祉委員で福祉委員会が螢田の「あしがり荘」という老人ホームに慰問に行った時にも参加していた。福祉委員会の顧問の先生が入院、手術されたため、代理の顧問の私が引率していったので、よく覚えているのである。
その彼女が「あの学園の話が一番印象に残っています。わたしも、そんな母親になりたいと思っています」と言った。急に「母親」などという言葉を聞いて私は少々うろたえてしまった覚えがある。
次の話。高校の時、両親は米沢市に転勤になり、私と弟は、知人夫婦に面倒をみてもらうことになった。自宅をその夫婦に無料で貸す代りに私たちの食事や洗濯をみてもらうのである。その夫婦の奥さんの方は、私と弟が生まれたときの産婆さんの娘である。小さい頃から、よく知っていた。夫婦には、ふたりの子供があったが、上の男の子が先天性の精薄児だったのである。生まれた時、片方の耳が耳の穴をおおってくっついていた。それはすぐに手術して切り離したが、やがて、反応が鈍いことに気がつき、精薄と診断されたのは、生まれてから半年ほどもあとのことだったと思う。現代の医学では治療のしようもない精薄児だった。
私たちが面倒を見てもらったころ、この子は、四歳位だったと思う。時々相手をした。言葉がまるで駄目で、吠えているような感じである。力が強いので、あばれたりすると大変である。怒っているのか、笑っているのか、よくわからない。おそらく、奥さんには、この子の感情もわかったであろうが、私にはわからなかった。とにかく毎日のように顔をつきあわせ、一年間一緒に暮らした。
私は医学部希望だったので、奥さんはこう言った。「博明に医者になってもらって、うちの子を治す研究をしてもらうべ」と。
ところが、医者より人類学者に興味が向いた私は、動物学の方へ転向してしまった。人類学者の経歴を見ると、どの学科出身でもよさそうだったし、人類も動物の一員だと考えたからである。それに、他人より下手なくせに、続けていたバレーボールの練習の為か、現役で国立大学医学部に合格できそうもなかった。どこでもいいのだから、少しは合格可能性のある所をと思って受けたところに合格した。浪人せず、そこに進学することにした。
奥さんはこう言った。「治してもらうべと思っていたが、駄目だったなあ。残念」そして、アッハッハと笑った。
私はとても申しわけなかった。現代の医学では治るようなものではないのであるが、それでも、何か悲しかった。
又、次の話。大井町で、12月に在宅心身障害児の為のクリスマス会というのをやっている。家にいる障害児たちに、クリスマス・ソングや演芸を見せるのである。バスが、それぞれの家を回って子供たちを乗せてくる。
私の妻が指導している大井町のママさんコーラス“ポピン・コール”も昨年、今年と参加した。無論、指導も参加も奉仕活動である[1981年当時のこと.1998年現在、妻は各地で童謡の会をやっている]。
昨年はじめてこの会に参加した妻は、びっくりしてしまったという。
ちゃんとしゃべれない。ちゃんと動けない。タタミの上にオシッコをしても気がつかない。タタミの上をオシッコが流れてくるのである。
同じ人間だと思わなくてはいけないのだという気持ちが負担となって、どうしてもその子たちの方をまともに見ることができなかったという。
精薄児たちに出会った時の、こういった記憶を大切にしたい。
自分の心の中で、せめぎあう感情、それを自分なりに克服して、今年も妻はこのクリスマス会に、いさんで参加したのである。
来年もいくだろう。
精薄者にとって知識とは何かという問題は残った。
[個人誌「学校」第15号,1981年5月26日発行]
定時制の経験から・その2 声をかけること
池田博明
定時制を教えていた時のことである。
桂木(仮名)という女子生徒が休み始めた。腎臓が悪いということだった。担任の先生から連絡があったのである。
桂木は看護婦だった。過労だろうかと思った。
それから一週間ほどしたころだったろうか。七時近く、もう、うす暗くなりかけた時分、帰宅しようと生徒通学路をおりかけた私は、坂をあがってくる桂木に会った。
「あ、身体の方はもういいの」と私は聞いた。
「はい、もう治りました」と彼女は答えた。
それだけの会話だった。
学年末に、生徒に一年間の感想を書いてもらった。定時制で教えることも当分ないだろうと思ったからである。
桂木はこんな風に書いていた。
「一年間の何時間出席したのか解りませんが、一学期に身体をこわして一週間くらい学校を休んで久しぶりに登校したその日、初めて会った先生が池田先生でした。
『身体の方はもういいの?』と突然の言葉にびっくりしたのと、感激でいっぱいでした。
“生物の授業はまじめに受けよう”と決心したのですが、その決意も続かずに、何時間欠席したか…?
ノートも3分の1だけしか執っていません。いったい私は何をしていたのでしょうね!?
「生物」も私たち看護婦で習ったはずの、必要なことばかりなのに看護婦学校を卒業して以来、「看護婦教本」という教科書も開いたことがなかったのです。授業を受けて初めて“ああ、ここは確か前に習ったことがある”と考えるだけ。それでいて、もう一度復習しようともせずに、テストも同級の年下の人たちと、同じくらいしかできずに…全くなさけなくなります。
もし二年に進級できたら、こんどこそ欠席も少なく、授業もまじめに受けたいと思います。
先生もまた二年生だとよいなぁと思っています。」
これを読んで私は驚いてしまった。ほんの一言が彼女を感激させたということに。
そして、逆の場合もありえるだろうと思った。ほんの一言が、ひとを傷つけることも。
もちろん、そんなこともあることは、わかっていた。しかし、具体的な場面で、特定の個人に対して、そうだったことが、わかると、やはり大いに戸惑うのである。
同じことを学級担任が聞いても、それは当然ということで終わったのではないだろうか。ただの時間講師、しかも定時制の教員でなかったから、彼女にとって、予想外だったのだろうか。
彼女は昨年の三月卒業した。
半年ばかり前、家族で下曽我の「鳥ぎん」へ釜めしを食べに行ったところ、看護寮の看護婦さんたちが十人程入ってきた。その中に彼女もいた。久しぶりに会って、どちらも驚いたものである。
[個人誌「学校」第17号,1981年7月20日発行]
定時制の経験から・その3 単文で話す 池田博明
定時制の生物の授業の後半では、生物学の歴史を扱った。現在の教科書に載っているような医学・生物学上の常識が、歴史的なものであることを知って欲しかったのである。
例えば「細菌」という言葉はもちろんのこと、「殺菌」や「消毒」でさえ、歴史的な概念なのである。十九世紀以降のことなのである。
「生物学」という考え方さえ、近代のものである。それ以前は、「博物学」であり「動物学」であり「植物学」であり、「医学」であった。
話はヒポクラテスの医学から始めた。入手できる限りの本を読みながら、プリントにまとめていく仕事は楽しかった。小見出しをつけながら各種の本の抜粋を並べていったのである。
プリントの文章を少しずつ生徒に読ませながら、説明していったとき、あることに気がついて、愕然としてしまった。
漢字がほとんど読めない生徒がいるのである。
実は、それまで教科書には多くの生物用語が出現し、それを当然の如く読めるものとして説明してきたのだが、そこに間違いがあったのである。テストで何点かがとれたのは、選ぶ問題で、解答欄に適当に記号を入れればよかったからであった。
読ませてみて、もうひとつ驚いたことは、センテンスが長いと、混乱してしまう生徒が多いことであった。とくに副詞がいけなかった。ふつうの話しことばに出てこないものは、どこでそのことばが区切れるのかが、わからないのである。
たとえば、「だれもがいっこうに」などということばは、「だれ、もがいっこ、うに」などと読んでしまい、無論、読んでいる当人にも、なんのことだかわからないのである。
英文法でいうところの複文のような構造の日本文になると、もう、まるっきり読み方が滅茶苦茶であった。
一方、同じ教室には、ちゃんと読めて、理解できる生徒もいるのである。
「発生」の話のあと、どうしても一日、休まなければならなくなった。「試験管ベビーについて書け」という課題を出したところ、大変秀れた文章を書いた生徒もいるのである。この生徒はいつも授業中、反抗的な視線を見せていたし、言葉づかいもぶっきらぼうであった。しかし、大変に気になる生徒であった。
年度末に彼女(女生徒である)はこう書いていた。
「反抗するっていっても全部が悪いことだとは思ってないんです。先生の前では何も言わなくたって、かげで言っている人もいますしネ!私ははっきり言っているのです。先生だって『そうかなー』なんて思うことありません!?」
さて、それはさておき、プリントを読ませてみたために、いわば生徒の国語力を当てにしなくなった私は、それから、ふたつのことに注意して話すようになった。
ひとつは、極力、単文で話すこと。複雑な話も単文に分解して話す。そして「しりとり」方式で話す。
例えばこんな具合である。つづけて言ってしまえば、一文ですむこと、「光合成反応を構成するのは、光を直接必要とし光化学反応である明反応と、光を直接には必要とせず酵素化学反応である暗反応である」
これを「光合成反応には明反応と暗反応がある。明反応は光化学反応であり、光化学反応は光を必要とする反応である。暗反応は直接光をひつようとしない。暗反応は酵素化学反応である」と分解する。
そして、「酵素化学反応は温度に影響される反応である。温度に影響されるのは…」という具合につづける。
これでどんな複雑なことでも話せる。
心がけたもうひとつのことは、用語の定義をはっきり言うことである。生物用語は日常使われている言葉ではない。したがって、その言葉の定義をきちんとしないと、日常語の語感にひきずられて混乱してしまう生徒がいる。
たとえ無味乾燥であれ、定義が大切である。
科学のことばは、日常語から離れようとする方向を持っている。抽象度を高めようとする方向を持っている。
それが、現代の学問の基本的な性格なのだ。
ときどき、しろうとの目で「生物」の教科書をながめてみる。
無意味な言葉の羅列である。日常生活と何の関係もない。抽象的な世界である。
だからこそ、定義があいまいでは、結局なにもわからないことになるのである。
飲みこみの早い生徒は知っている。理解する為に大切なことは、きちんとした分類であることを。抽象度の違いを頭において、分類することの大切さを。
たとえば、「核」と「細胞質」は同じレベルの言葉である。しかし、「細胞質」と「葉緑体」は同じレベルではない。「光合成」と「呼吸」は同じレベルの言葉である。しかし、「光合成」と「葉緑体」は同じレベルではない。
抽象度が違うのである。
具体から抽象へ、抽象から具体へ。世界を、言葉で把えること。科学は、そうして多くのものを創り出し、また多くのものを失ってきたのであろう。
[個人誌「学校」第18号,1981年9月29日発行]
定時制の経験から。その4 力の乱用について 池田博明
これから書こうとする事実は、学級通信『SPINNING WHEEL』第47号(1980年2月27日発行)に書いたことのくりかえしである。
定時制で教えていた時のことである。授業中でも落ち着きなく騒いでいる大野君という男子がいた。(大野君は仮名である)
視聴覚室でビデオを見せていた時、あいかわらず騒いでいる大野君に、腹が立って、胸ぐらをつかんで言った。
「何をやっているんだ!やるか?ここでやるか。この野郎!」本気でなぐろうと思った。 ところが大野君はこう言ったものである。
「やらないよ」
なぜだ?
「先生が俺をなぐっても、やめさせるなんてことはないけれど、俺が先生をなぐったら退学になる。だから、そんな喧嘩はしない」
なるほどと思った。“対等の喧嘩”を夢見ていた者にとっては、あまりにも分別臭い意見であった。
教師と生徒が対等という関係は、ないのだということを痛感した。
教師というのは、すでに権力的である。意識していようと、意識していなかろうと、教師の持っている権力は現実に機能している。学校という閉鎖社会のなかで。
授業の始まるベルが鳴る。教師が教壇に立つ。生徒は起立し、礼をする。着席。ごくあたりまえの光景である。
しかし、と私は考える。
なぜ、全員が教師の方を向いているのだろう。権力の構図だと、ふと思う。
なぜ、全員そろって礼をするのだろう。バラバラだと注意されたり、やり直しをさせられることもあるそうだ。
いったい、授業のはじめに礼をするなんて、いつから始まったのだろうか。大学では、そんなことをしていなかった。大学の教師は、教室へ入って来て、話し始め、話し終わると出て行く。それだけだった。
それだけだったが、学生は、教師を評価していた。
講義も人物も魅力がなければ、聞きもせず、出席もせず、馬鹿にしていた。教師を馬鹿にすることは、反権力の姿勢でもあった。(大げさか?)
馬鹿にしている教師の試験などは、出席しなくとも時分で勉強して合格点を取れるはずであった。それが学生の誇りであり、意気だった。
自分の勉強が通用しない教師に、学生は脱帽した。自分よりずっと上を行く教師を尊敬した。
高校生だって同じではなかろうか。というよりむしろ、同じであってほしい。教師に負けず、主体的に学んでほしい。
教育実習をしている時、別の学校へ実習に行ったある同級生がこう言った。「全員が起立して、俺に向って礼をした。その時、俺は恐ろしさを感じた。」
私は、こういう感覚を信ずる。私が実習した高校は、有数の進学校で、実習生には授業などやらせず、実験実習の助手をやらせるだけだったから、彼のような体験を持たなかった。持たなかったから、かえって印象深く思われたのかもしれない。
「みんなそろって礼をする」というのは異常な出来事だという感覚。
教師という権力が、生徒にそれをさせているのだが、あまりにも当たり前になってしまっていて、それに気づくことさえない。
次第に自分の権力に無自覚になっていく。
いったい教師の権力の基盤は何なのか。
生徒の成績を左右できるということだけではなさそうだ。
教師のふりあげたゲンコツの持つ意味と、生徒のふりあげたゲンコツの持つ意味を違えているのは、いったい何なのか。
鈴木清順監督の映画『けんかえれじい』で、主人公の麒六(高橋英樹)に対して、会津の校長は、本校のモットーは、「良志久(らしく)」であるという。校長(玉川伊佐男)の背後には、「良志久」と大書きした額が掛けてある。
「会津は会津らスく」
校長が「会津」というたびに、「会津」と言う唇がアップで映される。「会津(アップ)は(ロング)会津(アップ)らしく(ロング)」といった、こまかいカット割りになっている。これは皮肉な効果を出しているが、このカットが連想させるのは、戦争中、「陛下」という言葉を口にするたびに直立不動の姿勢をとったことである。風刺されているのは「会津」の方であって「らしく」の方は、さほどではないのかもしれないが、映画を見た後、真似してみたくなるのは、校長の「らしく」あれ、という言い方であった。「らしく」あれと強調するのは、とても、こっけいな姿に思えたのである。
私たち教師の背中には「らしくあれ」という声が、あるいは「らしくあらしめよ」という声がかけられているのだろうか。それにどれだけ抗することができるだろうか。
ささいな行為の意味も考えていきたい。
[補足(1998年8月30日):現在は学校の状況は異なっている。教師の生徒に対する暴力は厳しく罰せられるようになり,生徒の教師に対する暴力は大目に見られるようになった。義務教育では生徒が大人に暴力をふるっても辞めさせられることはなく,生徒のわがまま放題の所さえある。高校では教師に対する暴力は即刻退学であるが。また,教師の生徒管理がゆるすぎる場合は,教室という生徒の集団の中では強い生徒,自己主張の強い者がわがままを通すだけになってしまう事がある。隠れたいじめ状況が出来てしまうのである。]
[個人誌「学校」第20号,1981年12月7日発行]
「子供」の問題 池田博明
たいへん挑発的な論文を読んだ。
できれば多くの人に読んで欲しい。
それは、岩波書店発行の雑誌『世界』12月号に発表された、中村雄二郎の「問題群としての《子供》」という論文である。雑誌で21頁。御希望の方には送料(70円切手)を負担していただければ、コピーして送ってあげてもいいが、雑誌そのものを書店へバックナンバーで注文しても、550円だから、安い。値段以上の価値はある。『世界』12月号は、“特集 子供という問題”を組んでいるのである。『図書』でこの特集のことを知り、興味を持った。
なぜ「子供」に興味を持ったのか。それには、いきさつがある。
ひとつは、ジョン・レノンの死。以前、レノンの『ジョンの魂』というLPについて、「成長を拒否する」歌ととらえたことがあった。1970年代初頭、「学生反乱」のくすぶりを残し、『野良猫ロック』(ダイニチ映配)『八月の濡れた砂』(ダイニチ映配)、そして『赤い鳥逃げた?』(東宝)『いちご白書』(MGM)といった映画が、レノンの姿勢とつながったように思われた。
成長を拒否するとは、いつまでも子供でいつづけるということなのだろうか。
六十歳の子供とは、いったいどんなやつらなのか。
レノンは、それを示すことなく、亡くなってしまった。『ジョンの魂』以降、パワーは少しずつ落ちていたのが残念だった。
まったく別に、今年の春、阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き』(平凡社)を読んだ。妻が娘に買ったものの中に、お話のテープがあり、渥美清語る「ハーメルンの笛吹き」が収録されていた。クラスの生徒にLHRの時に、このテープを聞かせると共に、中世に興味を持ってもらおうという心算で、解説を作る為に、一晩でざっと読んだのである。民話を手がかりにしての探求も面白かったが、印象に残ったのが、子供をとりまく苛酷な環境であった。現代の子供とは全く異なっているのである。しかも多産多死であった。現代のような小産小死では、例えば子供の死は、大人の子供観を変えるほどの強力な衝撃力を持っている。それは、自分の体験としても痛感している。
中世の子供観と現代の子供観には、大きなちがいがあっただろうと想像された。
その思いは、イリッチの『脱学校の社会』を読んで補強された。
「子供時代」という概念は歴史的なものである。
そうこうしているうちに、少年を中心とした小説を論じた川本三郎さんの書き下ろし『走れナフタリン少年』(北宗社)が出版された。子供の眼ざしをいったいどうとらえるかが、文化の基本的な問題であることが明らかにされた。『走れナフタリン少年』の中に、フィリップ・アリエスの『《子供》の誕生』(みすず書房)にふれたところがあった。「子供時代」という概念の誕生を実証した本であるという。これは、絶対に読まなくては、と思い、買って来た。(まだ読んでいない)
『(子供)の誕生』や『脱学校の社会』と共に、マーガレット・ミードの『地球時代の文化論』(東大出版会)、『ステューデント・アパシー』(至文堂、現代のエスプリ)、エレン・ケイ『児童の世紀』(富山房百科文庫)などが積んである。 関係ありそうに思えたのである。
中村雄二郎の「問題群としての《子供》」には、これらが、みごとに結びついて合わされている。文化の本質をとらえる問題群としての子供。
子供がいったい何を示しているのか。どんな問題を含んでいるのか。
それが簡潔に記されている。
「GAKKO」で、これまで尻切れトンボにふれた問題のほとんどが含まれている。それで、たいへん面白く読めたのである。
また、あまりに個人的文脈にひきつけた理解といえるかもしれないが、中村雄二郎のいう「仮面(ペルソナ)」の意義や生活の多義性の重要性と、ヴォネガットの強調する「フォーマ」(無害な非真実)の効用、渡辺一夫の説く「偽善の勧め」、ジョセフ・W・ミーカーが『喜劇としての人間』(文化放送開発センター出版部)で展開しているピカレスク的価値観は、おたがいに、響き合うものが、かなりあると思えるのである。
中村雄二郎の論点を、まとめておこう。
かつての「怒れる若者たち」と今日の《荒れる少年少女たち》は、隠微な―あるいはアッケラカンとした―かたちでの管理社会化の進行で追いつめられた者たちの反抗・爆発として考えることができる。今日の《荒れる少年少女たち》の振舞いは、《異議申し立て》というよりはむしろ、無意識的な悲鳴に近い。ロゴス=理としてのことばが失われ、暴力がいっそうむき出しになっている。
管理社会化は、網の目のように細かく張りめぐらされた《見えない制度》によって進行している。最も重要なものは、《子供》とはかくかくしかじかであるもの、たとえば無垢で善良で純粋な存在であるといった大人の《子供》観である。しかし、《子供》の観念は、歴史的なものである。近代以前のヨーロッパの社会生活のなかでは、人間ははじめから《小さな大人》とされた。私たちの制度化された《子供》観は、かえって《子供》の問題を囚われない眼で在るがままに見ることを困難にしている。
多くの知識が《見えない制度》と化し、《子供》たちは、子供や教育の専門家たちによって様々なレッテルを貼られる。《非行》や《落ちこぼれ》といったレッテルは、専門的知識によって剥がしがたいものとなる。
子供たちに対するレッテル貼りは、単一の観点あるいは価値基準によって無神経に行なわれるべきではない。むしろ複数の、相対化された価値基準が設けられ、それらを相互に結びつけることによって、子供たちの一人一人に本人が自信を持ちうる特徴を知らせるべきなのだ。
遠山啓は、優劣のつけられない、《おもしろい子》に育てようと提案している。
現代の日本の社会を支配している価値基準は、各人一人一人の総合力による競争を意味する《実力主義》ではなく、家や出身校といった集団をうしろ立てとした、部分的能力の競争となりがちな《能力主義》である。《能力主義》を支えているのは、包含的な、言いかえれば脱個性、没個性に働く《母性原理》である。
自我を呑み込む《母性原理》の社会の中で、子供は人間として自立していくために母親ばなれをしなければならないという二重拘束状況がある。個性や自我を表現する行動をすることも許されず、行動しないでいることも許されず、さらにこのジレンマから脱出することも封じられている。自分の手でおのれの役割を選びとることができない。
したがって息子は否応なしに裏がえしの劇的行動者=《負の劇的行動者》たらざるをえない。情念=受苦をつよくおびながら、自立して現実を切り拓くことのできない、激しい行動が人間としての弱さのあらわれであるような者。
家庭や学校での《子供》の暴力は、私たち人間の生活が本来持つべき厚みや多義性を失って薄っぺらになったことの尖鋭なあらわれである。本来のペルソナ=《仮面》のつけ方を人々が知らなくなったことのあらわれである。本来の意味でのペルソナとは、むしろそれをつけることで自己のはげしい情念やぎこちない表情をコントロールし、人間同士の内面的な響き合い、心の触れ合いを可能にするものなのだ。
多くの仮面=豊かな表情の喪失は、決して表面的な問題にとどまるものではない。
中村雄二郎の論の後半、母性原理と二重拘束状況との関連を論じたところは性急すぎるように思われる。が、《子供》を考えるうえでの手がかりは、ほとんど出ているような気がする。
中村雄二郎の『感性の覚醒』『共通感覚論』(岩波書店)も読み始めよう。
未知を読む 池田博明
外山滋比古の『読書の方法 《未知》を読む』(講談社現代新書)は、その標題からすると、読書論のようだが、教育にとって言葉とは何かということを論じたものと、考えることができる。
外山滋比古は、学校の知的教育を、“ことばによって未知を教える”ことと、とらえる。
人類がこれまで獲得、蓄積してきた文化財を次の世代に伝達する営為である。
文化をことばにして、濃縮し、短時間に大量の情報を教授するのが近代の教育である。
教育はことばによって、未知の世界を準経験の世界と化していく作業である。
にもかかわらず、現代の教育は、学校教育だけに限らず、既知を教えることに甘んじてはいないだろうか。
では、どうすれば《未知》を読み解けるのか。私流に理解すれば、
ゆっくり読むこと、あるいは、
くりかえし読むこと、である。
理科の授業は、結局、生徒に《未知》の用語を定義し、それを積み重ねていく仕事である。
面白く話すことや、わかりやすくかみくだいて話すことよりも、むしろ正確に話すことに努力したい。
たとえ、生徒にとって、それが表情の少ない、無味乾燥な講義に聞こえたとしても構わない。低俗よりも退屈を!むしろ そう思っている。
正確に話せば、わかりやすいはずである。それに、相手は高校生なのだし。
時に、「生物学」以外の科目、たとえば「化学」を教えると、「簡単なんだよ」というコトバを連発してしまう。
「簡単だ」と言ってしまうのは、自分が、その内容を表面的なレベルでしか、とらえていないからである。言ってみれば、問題集の中の問題の解き方のレベルである。問題集の問題の解法は、パターン化されているから、簡単なのである。
しかし、ほんとうは、簡単かどうかということは、学んだ生徒が判断すべきことであって、教える方が、いうべきことではない。それに、理解を深めれば、おそらく、たやすく「簡単だよ」と言い切れるものは、そうたくさんはないはずである。「生物学」では、簡単と言い切れるものなど、ほとんどない。他の学問にしたところで、同様であろう。
「簡単だよ」と言っていられるうちは、自分の理解度と生徒に要求する理解度が等しいのである。
学ぶほどに、複雑さを増していくのが、学問の世界なのに、それを単純化して切り売りしているのは、愚行を重ねているような気がする。
複雑さを増すことが、ヒューマニズムである。
熱力学の用語を使えば、エントロピーを増すこと。エントロピーというのは、デタラメさの尺度で、エントロピーを増すということは、無秩序に近づくことになる。なるほど結構なことだ。
ピース。(ヴォネガット風に)
[個人誌「東風」No.34,1984年12月13日発行]
名人芸と誰でもできる授業について 池田博明
1984年11月10日、小田原市民会館小ホールで「林竹二先生の映画の会」があった。伊勢治書店の主催であった。映画は1977年頃に林竹二が沖縄の小学校でした授業の記録であった。1本目の映画『ビーバー』は、小学校4年生にビーバーと比較しながら人間とは何かを教えるものである。不覚にも途中で居眠りをしてしまったので、感想はさし控える。2本目は『アマラとカマラ』。小学校5年生に、狼に育てられた子供を例に引きながら、人間とは何かを教えるものであった。狼に育てられた子供の話は、常に新しい問題を投げかけてくれる。例えば、亀井秀雄は『現代の表現思想』(改訂版『身体・表現のはじまり』講談社)で、青年医師イタールの『アヴェロンの野生児』を考察しながら、表現に関する理論を検証していた。そんなわけで、何をどれだけ、どのように教えるのか、大変に興味があった。
『アマラとカマラ』という授業での結論だけを言ってしまえば、5分とかからないであろう。人間は人間として生れるのではない、人間として育てられることによって、人間となるのだということである。それを授業では40分かけて、話題の周辺をまわりながら、次第に固めていくのであった。「アマラとカマラ」に関する色々なエピソードが次々に紹介される。すると、生徒は「えーっ」という表情をする。無論、退屈そうに聞いているだけのこともあるのだが、要所では微妙に反応するのであった。なるほど、自分の教える教材について具体的によく知っていることや、あまり知識をならべたてずに、ほんの少しの要点を例証をあげて理解させることが大切なのだということが、よくわかるのであった。
いちばん印象的だったのは、生徒がノートもテキストも鉛筆も用意していないことであった、つまり、自分の頭しか使わないのである。あとは、林竹二の用意した絵や写真を見たり、話を聞くだけ。それで時間いっぱい過ごすのであった。生徒が自分の頭以外の何も準備しないということは、林竹二の授業の方法と密接に関わる重要なことだろう。ちょうど寄席に話を聞きにいくようなものである。
林竹二の授業から学んだことは他にもある。それは氏の授業が「名人芸」だということであった。しかし、現在の私は反語的にひびくことを承知で言うならば、名人の授業は素晴らしいが、教員みんなが名人芸を目指すようになるのは困った事態だと考えている。当たり前のことだが、誰もが名人になれるわけではないからである。
フツーの人が先生をしているだけであって、みんながそのことを忘れてしまうのは困ったことだと思うのである。親も子供も先生自身も仲間も同僚も、よくそのことを忘れてしまう。私は教師労働者論を言うのではない。先生だって人間だなどというのでもない。そんなことは当たり前のことなので、いまさら強調するつもりはないのである。私は渡辺一夫が「ほんとうの教育者はと問われて」で書いたこと、本当の教育者はそれを求める人間のいるところに現われるのだということの重要性は正しく理解されなかったのではないかと考えている。渡辺一夫の主張は、人間誰もが教育者であり、生徒なのだということである。つまり、先生も生徒なのだ。
妻は「先生がフツーの人では困るのだ」と力説する。先生は生徒のために、授業のために、粉骨砕身努力すべきである。生徒ひとりひとりの動向に目配りし、適切な指示をすべきである。いじめっ子には注意をし、いじめられっ子は守ってあげる。自分の教える教材には責任を持つ。知らないことがないように、できないことがないように、努力する。泳げないのに水泳の指導ができないのと同様に、ピアノがひけないで、歌の指導はできないのだ。ちっとも努力しない教師がいるが、そんな人はすぐに教師をやめなさい。
自分もできないことを生徒に過大に要求したり、毎日を飯のたねぐらいにしか考えないような教師がいて、しかもその被害者が子供とあっては、怒るのも無理はない。しかし、私はできないこともあり、できることもあるのが人間なのだと思う。先生はそれを教えることもできるのではないか。
中村メイ子がラジオで広中平祐の母親のことを話していた。「目はどうして小さいのに大きな世界が見えるのか」と子供に質問されて、母親はこう答えたそうである。「ほんに不思議やねえ。かあさんにはわからんが、勉強すればわかるんじゃなかろうか」。質問がいくつか重なると、村の和尚さんや学校の先生のところへ連れていく。「この子がこんなことを聞いております。わたしには答えられんで、よろしく教えてやってください」と頼んでくれたそうである。この母親は理想的な先生だったのではないだろうか。子供と一緒に驚いてくれる。子供に答えを見つける方法を教えてくれる。世の中にはいろんな能力を持った人がいるのだ。なんでも分かる人、なんでもできる人はいないのだ。そして、誰でもなにかひとつは教えてくれるのである。
『たのしい授業』(仮説社)という雑誌がある。教員でなくとも「たのしく」読める。当世風の思想の罠に気づかせてくれる記事が多い。仮説実験授業研究会が中心になって編集していて、授業の方法は名人芸とは別である。誰がやっても同じ授業になり、誰がやっても生徒を感動させる授業になるというところがミソである。
工夫する教員ほど自分の授業に自信が持てなくなって、落ち込んでいくという状況がある。いろんな研究会に出ては、「名人」教師の実践を学び、自分で真似してみては失敗して、自分の無能さを思い知らされる。そういった悪循環から解放されるには、いったいどうしたらいいのだろうか。
発想を転換すればいいのだ。『仮説』(仮説実験授業)の思想はこうである。「たのしくなければ学ぶ価値がない」。教える先生も楽しい。教わる生徒も楽しい。それが大切だ。
ベンキョーというものは、ねじり鉢巻きでやるものだというイメージがある。ベンキョーはいつもドリョクと背中合わせである。しかし、『仮説』はちがうのだ。生徒は言う、「先生、カセツやろうよ」と。なぜならば、「楽だから」。大抵の人は楽な勉強なんてあるものか、と怒ってしまうであろう。しかし、『仮説』では自信を持って「それでいいのだ」と断言するのである。「楽しくなかったが、わかる」授業より、「わからないが、楽しい」授業の方がいいと答える。なんのために学ぶのかという原点がちっがているのだ。
林竹二の授業では生徒がディスカッションする場面はない。名人がひたすら話すだけである。ときどき、林さんは質問をする。しかし、正解は林さんの頭の中にある。それと同じ答が生徒から出て来ないと、話は進まない。うまく出て来ないと、林さんは生徒の発言を補ってあげる。「君の言いたかったことは、こうなんじゃないか」と。こういう導き方の上手下手は教員の技量と関係があると思われていて、私も同じことをやっている。ひと昔前ならば感動したかもしれない。しかし、今はさほどいいとは思えないのだ。
『仮説』の思想はちがうのである。違う答も間違った理由も、まずその存在を認めてしまうのである。「なんとなく」という理由でもいいのである。なにが正しいかは、事実が、または実験が決める。『仮説』ではディスカッションがあらかじめ準備されている。『仮説』を知らない人はテレビの『クイズ面白ゼミナール』や『わくわく動物ランド』を連想してもらえばいい。あれに近いのである。他人の意見を聞きながら、人は自分の考えを確認していくものである。他人の違った考えを聞くという段階が、林さんの授業にはない。
選ばれた言葉を無駄無く使い、雑談までも組織化された見事な授業を展開したとしても、生徒は自分なりの理解をしているものである。つまり正しく理解してはいないのだ。誤解しているのである。思い込みをしてしまうのである。言われた通りに理解するというのは実は大変な能力なのだ。間違いを正すには、いったん自分の誤解を表現してみなければならない。『仮説』にはそれを出させる方法がある。
ガリレオの講義は評判であったという。ガリレオはまず、当時信じられていた法則を一見非のうちどころもない程、見事に説明して、学生に納得させてから、次にその法則の誤りをひとつひとつ突いて、とうとう全部をひっくり返してしまうという方法を取っていたのだそうだ。この話は大変に面白い。
実際のところ、私の授業は『仮説』でも「名人芸」でもない。どっちつかずというところである。
3年生の文系クラスの「理科U」の授業で仮説実験授業の授業書「ものとその電気」を扱ったことがある(『たのしい授業』1984年8月号、女子高で電流の授業=j。結果は成功であった。誰がやっても同じ結果になるのである。
『仮説』の授業は授業書通りにやるだけである。雑談もしないし、程度を落とすわけでもない。ただ生徒自身が本来持っている「考えるパワー」を外化させるだけである。そして、学問本来の姿、科学の心を伝えようというのである。
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