豪族宗像氏平家 それから真鍋氏


胸形君(宗像氏の祖先     ★むなかたさま―その歴史と現在―より引用★

三女神を奉じてお祭りしていたのが宗像氏の祖先、胸形君(胸肩君)でありました。  

古事記    この三柱の神は胸形の君等がもちいつく三前の大神ぞ。(新潮日本古典集成)

日本書紀  比則、筑紫の胸形君等が祭る神、是なり。(日本古典文学大系)

胸形君は宗像地方を支配した古代豪族で、大国主命(おおくにぬしのみこと・出雲大社)六世の孫、吾田片隅命(あたかたすみのみこと)の子孫と言われています(大海命の子孫とする説もある)。胸形君が支配した宗像地方は今の宗像全郡にほぼ相当し、釣川を挟んだ平野部、宗像海岸、大島、地島(じのしま)の島々です。それに玄海灘とそこに働く漁民を支配した、航海力を持った有力な海洋族の一つでありました。

胸形君の一族は筑紫を離れて中央に進出し、京都や機内にも宗形君や宗形朝臣の名を残しています。奈良県桜井市にある宗像神社は天武天皇以前の鎮座で、胸形君の一族が勧請(神霊を迎えてまつること)したものと伝えられています。 

宗像氏皇室との関係

大海皇子(おおあまのみこ・第四十代、天武天皇)は胸形君徳善の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)を妃とされ、高市皇子(たけちのみこ・後の太政大臣)をお生みになりました。尼子娘による皇子出生によって、皇室と胸形君の関係は一層深くなりました。天武天皇の十三年、胸形君は朝臣の姓を賜っています。宗像古墳群中最大規模の宮地獄古墳は、胸形君徳善の奥津城(墓)でなかろうかと言われています。

大化の改新により、皇族、豪族の所有する土地、人民は全て公地、公民とすること、全国を国・郡・里の行政組織をつくること、戸籍・計帳を作り班田収授(はんでんしゅうじゅ)を行うこと、租庸調(そようちょう)の税制が設けられました。土地を私有化し荘園とした地方豪族達は、土地の支配権を確保するために、中央の貴族や社寺に土地をを名目的に寄進し、それを領家・本家と仰ぐことによって安全をはかったのです。

像荘は鳥羽院(鳥羽法王)を本家と仰いで鳥羽院領となり、続いて美福門(びふくもん)院領(鳥羽院の皇后)、八条院領(美福門崩御につき八条院ワ子内親王譲与)となりました。

 

平家と宗像氏の関係        「日本中世水軍の研究」より引用

藤原氏以外の皇室の子孫、貴族達のは国司として地方に下り土着して豪族となりました。武家の頭領となったのが桓武平氏と清和源氏です。平治の乱(1159)に勝利を得た平清盛は武士としてはじめて公卿の地位につき太政大臣になりました。一門は朝廷の重職に就き・、栄華をきわめ「平家にあらずんば人にあらず」と言われました。当時平家一門の公卿十六人、殿上人(てんじょうびと)三十余人、知行国三十余国、荘園五百余箇所を数え、宗像氏も平家の勢力下に入り、清盛の弟である平頼盛の支配(領家職)を受けることとなりました。やがて源氏によって滅ぼされ、源頼朝は平家が支配していた土地(平家没官領)を悉く取り上げ家臣に配分しましたが、宗像荘は平家の支配地にも関わらず、そのまま宗像大宮司の所領として安堵されたと言うことです。この後宗像氏は源氏のご家人として働くようになっていったのです。

平頼盛と鳥羽院

平忠盛が尾張国守であった時、平治元年(1159)尾張守には平頼盛が補任され、その後も重衝・保盛と平氏一門の国守が続き、尾張国での平氏一門の勢力は強固に植え付けらて行きました。鳥羽上皇の皇后美福門院と関わりが深く、息女八条院の別当であり、後白河院の院司でもあった頼盛の働きは顕著であったと言われています。「山槐記」治承三年(1179)正月三日の記には国守知度、院分国守中宮徳子となっているそうです。

木曽義仲追討で源氏同士が争っているとき、寿永二年(1183)幼帝安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちし、太宰府まで走った平氏は瀬戸内海から中国・四国・北九州を押さえ、一部主力は福原に入り、京都の貴族と連絡を取り合い義仲の連合を策しました。木曽義仲軍は備中水島で平氏によって退敗し(真鍋水軍が知盛の輩下にて活躍:真鍋島先祖伝書参考)勢力を回復した平氏は一ノ谷(讃岐国または備中国住人真鍋四郎・五郎兄弟活躍:平家物語、その他真部家伝書参考)に前線基地を設け帰京の機を伺っていました。太宰府・宗像・宇佐から讃岐の屋島へ行宮した折、九条兼実は日記に「伝へ聞く、平家讃岐国塩飽荘にあり、しこうして九郎襲い攻むるの間、合戦に及ばず引き退き、安芸国厳島に着く。その時わずかに百艘がかり…。」とあります。

一ノ谷で敗れた平氏は安徳天皇と三種の神器を擁し、船団を組んで淡路の東海岸沿いに南下し、福良湾に入り鳴門海峡を通って讃岐の屋島へ向かったのでした。福良港口にある煙島は周囲450bの小島ですが、島の上に宗像社が祀られ、敦盛塚があるそうです。敦盛は一の谷で熊谷直美に討たれ、「青葉の笛」を奏でた笛とともに直美から父経盛に送られたと言うことです(源平盛衰記)。「淡路福良竹島考」による竹島(煙島のこと)は安徳天皇の行在所となった島でもあるそうです。

【注訳】安芸国厳島と宗像社は筑前宗像大社の分魂です。平清盛が如何に宗像三女神を崇拝し信仰宗教としてきたことかが伺えます。因みに宗像社は大和から瀬戸内海沿岸初め九州への祭神三女神を祀る神社・その他分社含め6227社あります。

平家の水軍

山鹿氏  藤原隆家(刀伊の入寇と言われる沿海州女真族の侵攻を撃退した人物)の子孫で、筑前の豪族として成長した水軍。平清盛の祖父正盛が受領時代に主従関係が出来、清盛の伝統的な海洋豪族である宗像氏や松浦氏は代表的な信頼関係があったのです。

原田氏  平氏水軍原田種尚の祖こと右衛門志大蔵晴美は天慶三年(940)藤原純友の乱に追捕使として博多に向かい、純友軍と激闘、豪勇士として知られています。

松浦氏  蒙古襲来の時最も頑強に戦った勇族、水軍集団で東松浦半島全域を含む広大な荘園松浦荘を中心に勢力を張っていました。

田口氏  阿波の水軍で、九州からおわれて来た安徳天皇・平氏一門を迎え、屋島に行宮を造営し阿波守に任ぜられました。

以上平氏水軍を形成した代表的な水軍は山鹿・原田・松浦・田口です。武家として宗像氏・宇佐氏が援軍として活躍しています。しかし水軍・武家としての援軍に真鍋氏の名が出ないのはなぜでしょうか?


真鍋氏について


平氏との関わり

源平合戦の史記「源平盛衰記」や「平家物語」に一ノ谷で名を馳せた真名辺四郎・五郎が登場する以外、史書には載っていません。但し安徳天皇都落ちした御行幸でお立ち寄りになった太宰府の原田氏や宗像大社・宇佐八幡宮の地には真鍋(真邊)氏の痕跡と縁が残っています。(このHP宇佐の中に掲載しているので省略)

また各家に残る古文書・家系図によりますと天皇家と深い関係があり、重要な役割を与えられているにも関わらず、日本史書として残されていないのが大きな謎なのです。

豪族宗像氏との類似点

@鳥羽天皇  真鍋島の真鍋家系図「藤大納言信成白河院ヨリ此氏女鳥羽宝蔵在之由聞飛居別当島被流」

A平氏に就く 伊予川之江切山国重要文化財「真鍋家住宅」の祖は平清盛の八男、平清房(真鍋次郎)であり安徳帝をご守護した家系

B公卿と姻戚関係 香川県大川郡の「真部姓氏緑」と香川県三豊郡大野原の「真鍋家系図」はともに公卿橘家と姻戚関係を唱っている。

C天武天皇  三豊郡大野原の「真鍋家系図」に近江国真鍋島・江州真鍋島とあるのは近江国の壬申の乱で天智天皇の弟大海皇子が天武天皇として即位した折り、大和・近江国・三豊郡の豪族丸部(わにべ)臣氏が活躍したことに因むもので「近江国から来たまなべ氏の島」と解釈。

D荘園     「真鍋荘」は中御門経世の知行所(九条家の摂緑渡荘目録:真鍋島先祖伝書)

E海部族の長 大和・近江国・三豊郡の豪族丸部の祖和珥氏は天皇家の創始発展に関与した重要人物であり海部族の長でもあり、製鉄工業をも開発した。(日本文学の歴史「まぼろしの豪族和邇氏」参考)

以上のように古代に於いては宗像氏と匹敵する程の素性であるのに、なぜ史書に残っていないのでしょうか。それとも宗像氏のように源氏に降伏しなかったからでしょうか?それは律儀な忠誠心の強い一族だったのかも知れません。それとも丸部臣氏と同じように歴史から抹消されなければならない程の大物であったからでしょうか。

これを解明するため「各地に残る史話」を今後も作成していきますのでご覧下さい。