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 この作品は、株式会社アクアプラスから1996年に発売された『痕 〜きずあと〜』の人物・世界設定を使用しています。
 また作中に登場する組織・団体・人物の名称は、全て架空のものです。




『ある日の情景』
Update:2008.02.25



第1話「柏木耕一」(1)

 空気が吐き出される圧搾音の乾いた音色と共に、列車のドアが開く。
 同時に無遠慮に車内に足を踏み込んできた、駅名を告げるのアナウンスを軽く聞き流しながら彼――柏木耕一(かしわぎ・こういち)は、四人掛けのボックスシートの窓際に下ろしていた腰を上げた。
 手にしている荷物は、使い古した印象の革製のリュックがひとつ。
 ぱっと見、旅慣れた旅行者、あるいは地元の人間かと思える出で立ちだった。
 ドアを抜け、十センチほど段差があるホームに降り立った途端に全身、特に外気へ直接肌を晒している顔面が引きつる様な痛みを覚える。
「うー……、寒っ」
 両手をこすり合わせ、息を吐きかけながら視線を空に向ける。
 空は、雲ひとつない青空に包まれていた。
 文字通り、叩けば硬質な音を響かせてひび割れてしまうかと思えるくらいの、どこまでも続く凛とした蒼空だ。
 その紺碧のキャンバスの中を、風に舞う雪片がちらちらと舞い踊っていた。
 空の青さとは対照的に、大地は白一色に覆われていた。
 青と白。
 冬の雪国で、ごく日常的に見られるコントラスト。
 同時にそれは、耕一が住む東京では滅多にお目にかかれない光景でもあった。
 普通なら、旅情をかき立てられてもおかしくない光景を前に――しかし別段心を波立たせるでもなく耕一は、自らの吐き出す息で視界を白く染めながら、改札があるホーム中央の駅舎に向かって黙々と歩き続けた。
 改札には、彼を含めて数十人の乗客の姿が見受けられた。
 松の内明けの、しかも午後も遅い時間という条件を考えれば、まぁこんなものではないかと思える程度の人込みだ。
 にも関わらず、耕一の目にはそれが閑散とした光景に思えてしまうのは……恐らく、彼の心の裡に問題があるに違いなかった。
 カサカサと、紙の擦れる音がした。
 足を止め、何気なく音がした方に目を向けてみる。
 すると駅舎の天井近くの壁に貼り付けられた金地の和紙に、でかでかと「謹賀新年」と記されたポスターが、吹き込んでくる風に剥がされたらしい三分の一ほどを寂しげにはためかせている姿が、目に飛び込んできた。
 その光景を前に、彼の気持ちはますます重くなった。
「……はぁ」
 重いため息が口から漏れる。
 こんなはずじゃなかったのに……頭の片隅を、そんな言葉がよぎった。
 当初の計画では、大学が冬休みに入るクリスマス明けから年の瀬の三十日まで(帰郷用の電車賃稼ぎも兼ねた)バイト三昧の日々を過ごした後、大晦日には柏木本家のある隆山に帰郷する予定だった。
 それが松の内も明けなんとする今日、七日までずれ込んでしまったのには、深くも無ければ込み入ってもいない自業自得な事情があった。
 始まりは、一本の電話だった。
 大学で同じゼミの小出由美子(こいで・ゆみこ)が、どこで調べてきたのか(大方ゼミの名簿辺りだろう)わざわざ耕一が住むアパートまでかけてきたのだ。
 目的は、バイトの斡旋。
 盆やゴールデンウィークと比べて、一斉に帰省してしまう学生が多いのが理由でどうやら慢性的な人手不足らしく、提示された労働条件と報酬は破格の内容だった。
 世間一般では「貧乏学生」の範疇に含まれる彼が二つ返事で――帰省の日程をずらしてまでそれを引き受けてしまったのは、ごく自然の成り行きだった。
『そうですか……初音(はつね)が、耕一さんと一緒に紅白を観るのを楽しみにしていたのですが、アルバイトでは仕方ありませんね』
 三十日の夜、帰省が元旦にずれ込んでしまう旨を連絡した際、受話器の向こうから返ってきた千鶴(ちづる)の少し残念そうな声が、耕一の脳裏をよぎる。
 ここまでなら、まだ同情の余地はあった。
 しかし翌三十一日に赴いたバイト先で初めて、労働期間が三が日なのを知ったと言うのは、高額の報酬に目が眩んで詳細の確認を怠った耕一のミスだった。
『……分かりました。梓(あずさ)が腕によりをかけて作ったお節、耕一さんの分だけ取り分けておく様に伝えておきますね』
 元旦の朝、再度の帰郷の遅延を連絡した時の千鶴の声のトーンは、二日前に同じ会話をした時より明らかに落ちていた。
 ――明後日には必ず帰るから。
 受話器に向かって平謝りしながら千鶴と交わした約束は……守られる事はなかった。
 今回は、耕一に落ち度はない。
 落ち度と言うべき瑕疵を生じさせたのは、顔も名前も知らない誰かだった。
 耕一たちと交替で四日からバイトに来るはずのアルバイト要員全員が、インフルエンザであえなく全滅してしまったのだ。
 そしてこのままでは店が開けないと、店先で土下座をしてまでバイト期間の延長を懇願してくる店長の横をすり抜けて家路を辿れるだけの非情さを、残念ながら耕一は持ち合わせていなかった。
『…………』
 三度目の電話。
 耕一が事の経緯を説明し終わった後に返ってきたのは、長い沈黙だった。
 微かな空電音と共に永遠とも思える静寂が続いた後、ようやく千鶴の口から言葉が紡ぎ出される。
『みんなでかるた取りをしたいと言ってた楓(かえで)には、あと少しだけ我慢する様に言っておきますね。耕一さんが帰ってくるまで、家族全員が揃うまで……』
 口調は軽かった。
 それまでの長い沈黙が嘘だったみたいに。
 しかしその軽さとは裏腹に耕一は、千鶴の心の裡に染み出し始めている「疑念」と言う名の黒い染みの存在をひしひしと感じ取っていた。
 だから彼は約束した。
 今度こそ、延長後のバイトが終わり次第、速攻で帰郷する事を。
 既に二度に渡って背信を行っている身、初めのうちはいかにも疑わしげな口ぶりの千鶴だったが、耕一の必死の説得が効いたのか最後には何とか納得してもらう事ができた。
 次は無い。
 バイト中、彼の脳裏を占めていた思いの大半はそれだった。
 だから耕一は、延長を余儀なくされたバイトが七日に終わり、分厚く膨らんだバイト代が収められた封筒を差し出しながら感謝の言葉を口にする店長への挨拶もそこそこに、店を飛び出した。
 アパートにすら戻らず、着の身着のままの状態で隆山へ直行するべく。
 そのまま行けば、何も問題は無いはずだった。
 恐らく半日後には柏木邸の玄関をくぐり、彼の帰りを待ちわびていた四姉妹の歓待を受けながら旅の疲れを癒していたに違いなかった。
 だがしかし……駅で切符を買った時、帰省が遅れてしまったお詫びに何か手土産を買っていった方が良いかも――そんな事を思ってしまった事で、運命の歯車はズレてしまった。
 買い物を済ませ、駅の階段を駆け上がった先に広がっていたのは、ほんの一分前に列車が出て行った、空っぽのホームだった。
 切符を買った後、すぐホームに向かっていれば、間に合っていたはずのタイミングだった。
 自らの判断ミスに舌打ちをしながら、時刻表を確認する。
 次の列車が来るのは、一時間後だった。
「しゃーない、電話するか」
 ため息をつきながら耕一は、売店の裏にある公衆電話に向かうと、残り度数の少なくなったカードを差し込み、柏木本家の電話番号をダイヤルする。
『耕一さんですか? そろそろ連絡があるじゃないかと思ってました。確か、九時の列車に乗るって前の電話で言ってましたから――あら? と言う事は、もう電車の中ですか?』
 受話器越しにも分かる、浮き立つ様な千鶴の声。
 耕一が約束を違える事など微塵もあり得ないと、心から信じ切っている声。
 だからこそ、次に耕一が発した言葉の、千鶴に対する破壊力は抜群だった。
「ごめん、千鶴さん! そっちに着くの、ちょっと遅れそう」
『え? 今、何て……』
「いやぁ、俺のミスで電車に乗り損な――」
『……耕一さん』
 その声は、ほんの少し前までの明るい声音とは百八十度逆な代物だった。
 鋭利な刃物を思わせる、どこまでも他人行儀な声音。
 その声音の余りの重さと冷たさに、黙り込む事を余儀なくされた耕一の背筋を、冷たい物が流れる。
『今度は何日延びるんですか? 一日ですか、二日ですか?』
「え? あ、いや、そうじゃなくて……」
『そうですね。よく分かりました――耕一さんにとって、私との約束なんてその程度の物なんですね』
「あの……千鶴さん?」
『初音も楓も梓も、みんなみんなみーんな耕一さんなんていなくたって、全然平気だって言ってます。私だって……私だって、もちろん平気です。ですから――』
 淡々と言葉を紡ぐ千鶴さんの背後から、
『わぁっ、千鶴姉! 何いきなり切れてんだよ!』
『ね、姉さん落ち着いて』
『お姉ちゃん、そんな事言っちゃダメだよーっ』
 そんな聞き慣れた声が聞こえて来た。
 しかしその全てを無視した彼女は、大きく息を吸ったかと思うと、
『――お・好・き・な・だ・け、そちらに居てくださって結構です! バイトでも浮気でも、何でもすればいいんですっ! 耕一さんの……耕一さんの、馬鹿ーっ!』
 そう言ったきり、耕一の返事も訊かずにガチャンと電話を切ってしまった。
 恐らく向こうで電話線を引っこ抜いてしまったのだろう、その後何度こちらからかけ直しても、呼び出し音が虚しく鳴り続けるばかりだった。
「はぁっ」
 改札前で立ち尽くす耕一は、もう一度大きな吐息を漏らす。
「お客さん、どうしました?」
 回想に耽っているうちに人の流れが途絶えたのか、ぽつんとその場にひとり佇む耕一の存在に気付いた駅員が声をかけてくる。
 どうやらそのやけに暗い面持ちから、切符を落とすか無くすかして途方に暮れているとでも思ったらしい。
「え? あ、何でもないです。はは……」
 慌てて愛想笑いを浮かべた耕一は、上着のポケットから切符を取り出すと、それを駅員に差し出す。
「落ち込んでたってしゃーない。とりあえず、歩くか」
 改札を抜け、駅前のロータリーに出たところでひとりごち呟いた耕一は、軽く頭を振って落ち込んだ気分を振り払う。
 そして多少危なっかしい記憶を頼りに、ゆっくりと歩き出した。
 彼の帰りを待っている(はずの)、四姉妹の許に向かって。

                    §

 歩き出してしまえば意外と何とかなるもので、何度か曲がる角を間違えかけたりもしたが、それを除けば至って平和な道のりだった。
 昨夜のうちに降り積もったらしい雪を、サクサクと踏み鳴らしながら歩き続けるうちに、目に映る情景が徐々に見慣れた物に変化していく。
「確か、あの角の先……」
 雪化粧が施されているせいで、ぱっと見の風景の印象が変わっているせいで百パーセントの確信は持てなかったが、柏木邸まであとひと息の距離のはずだった。
 一定のリズムで息を白く染めながら、角を折れる。
 間違いなかった。
 何ヶ月ぶりかに目にする柏木本家の門扉が、静かに佇んでいた。
 その光景を目の当たりにした途端、どくんと心臓が跳ねるのを自覚する。
 一週間遅れの帰郷。
 三度延期する羽目になった帰郷。
『耕一さんの馬鹿っ!』
 東京を出る前、受話器越しに千鶴が叫んだ台詞が脳裏に反芻される。
 やっぱり怒ってるんだろうなぁ……耕一がそう思うのも無理はなかった。
 もし逆の立場だっとしたら、間違いなく自分は怒っているに違いなかったから。
 そう思った途端、ここまで半ば無理矢理に維持し続けてきたテンションが、カクンと腰が折れた様に落ち始めてしまう。
 いやいや、ここで萎えてどうする。
 慌てて頭を振って、体内の弱気を放り出す。
 そして十メートルほど先にそびえ立つ門扉をきっと見据えた耕一は、どうやって中に入るかについて思案し始めた。
 何事も無かった風を装って「ただいまー」と、元気よく入るべきだろうか。
 電話での千鶴の態度から想像するに、氷より冷たい眼差しで出迎えられるのはまず間違いなかった。
 つまり、逆効果になる可能性が大だ。
「……却下だな」
 ここはやはり素直に「ごめんなさい」と、まず謝っておくべきだろうか。
 無難と言えば無難ではあるが、そもそも許してくれるかどうかかなり微妙(千鶴の拗ね具合次第)だった上に、現状はまだ全面降伏する事に対して微妙に抵抗を覚えてしまっているのも事実。
「これもダメか。うーん……」
 あ、そうだ。
 腕組みをして考え込み始めた耕一は、しかしすぐに良案を思いつく。
 いっその事、開き直ってこう言うのはどうだろう。
 向こうが何か言い出す前に優しくそっと抱きしめてしまい、すぐさま耳元で「ごめんよ、千鶴さん……」とか囁いてあげれば丸く収まるんじゃないだろうか。
 うん、これだ。
 名付けて『愛のラブラブ抱擁大作戦』。
 愛とラブが被っていたりと、客観的にはかなり酷いネーミングだったが、耕一の言う通りスキンシップに弱い千鶴相手ならば、効果は期待できそうな手かもしれない。
「うっし」
 泥縄ではあるが作戦も立ち、いざ参らんと鼻息も荒く歩き出した耕一の目の前で、固く閉ざされてた門の脇に設けられている木戸が、軽い軋み音と共に開かれた。
「……ん?」
 瞬きするほどの間の後、開かれた木戸からぴょこんと小柄な体躯の女の子が、やや癖の強い長い髪を揺らしながら姿を見せる。
「初音ちゃん?」
「え? こ、耕一お兄ちゃん!」
 耕一の呟きに一瞬きょとんとした表情を浮かべた柏木家四女の初音は、しかし直ぐさまそれを一変させると、耕一の方にぱたぱたと駆け寄ってきた。
 その表情を見た者全てが目を細めずにはいられない、優しく暖かな満面の小春日和の笑顔を表情に宿しながら。
「おかえりなさい、お兄ちゃん!」
「ただいま、初音ちゃん。戻るのが遅くなっちゃって、ご――」
「あっ!」
 初音が不意に小さな叫び声を上げたのは、謝罪の言葉を口にしかけた耕一が、彼女の頭を撫でようと手を伸ばしかけたその時だった。
 そして慌てた様子で、その場から一歩後ずさると、
「耕一お兄ちゃん、ちょっとそこで待っててくれる?」
「え? 急にどうしたの」
「何でもない、何でもないから。わたし、すぐに戻ってくるから……絶対絶対ぜーったいにそこから動かないでね」
「えーと、何かよく分からないけど……分かった」
 彼の動きを制止しようと、眼前でわたわたと両手を大きく振る初音の勢いに押されてしまった耕一は、思わず頷き返してしまう。
「ありがとう、お兄ちゃん。ちょ、ちょっとだけ待っててね!」
 それだけ言ってくるりと身を翻した初音は、慌てた様子で元来た道を戻って木戸を潜り、屋敷の中に姿を消してしまった。
 何なんだ、一体……。
 ひとりその場に取り残される形となった耕一の頭上を、幾つもの「?」マークが浮かんでは消えてゆく。
 遠くで木の枝に降り積もった雪が、とさとさっと自らの重みで落ちる音が聞こえてきた。
 人っ子一人として通らない、静けさに包まれた道端。
 そんな中、何をするでもなくぼんやりと空を見上げながら、大人しく待ち続ける耕一。
 木戸の向こうから初音が再び姿を現したのは、いい加減待つのに飽きてきて、いっそ周囲にある雪で雪だるまでも作るか――そんな事を耕一が考え始めた頃だった。
「耕一お兄ちゃん、お待たせー」
「おかえり、初音ちゃん」
 急いで戻ってきたのか少し息を弾ませている初音は、ぱたぱたと耕一の目の前まで近付いてきてから足を止めると、にっこりと目を細め、
「さ、行こっ」
 唐突にそれだけを口にすると、耕一の右手をきゅっと掴んできた。
「へ?」
 事の成り行きが理解できず、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう耕一。
 そんな彼の態度を特に訝しむ様子もなく、相変わらず朗らかな表情を面に浮かべたままの初音は、
「わたしね、今からお夕飯のお買い物に出かけるところだったんだ」
「へぇ、そうだったんだ」
「だからね、危ないところだったんだよ。耕一お兄ちゃんの来るのがあとちょっと遅かったら、待ちぼうけになってたから」
「え? って事は……もしかして今、家に誰もいないの?」
「うん、お姉ちゃんたちはみんなお出かけ中。それでね……お兄ちゃんには、わたしと一緒にお買い物に行ってもらえると嬉しいんだけれど……ダメかな?」
 申し訳なさそうな様子で、少し上目遣いでこちらを見てくる初音。
 もちろん耕一に、この可愛い妹のお願いを断る理由などあるはずもなかった。
「帰ってきて、いきなりひとりで留守番ってのも寂しいしね。俺で良ければ、喜んで初音ちゃんの荷物持ちになるよ」
「ありがとう、お兄ちゃん! あ、そうだ。これ……」
 嬉しそうに目を細めた初音が、思い出した様に手にしていた毛糸の塊を差し出してくる。
「……これは?」
 見た目にも温かなオレンジの毛糸で編み上げられた、細長い形状をしたそれは――マフラーだった。
「耕一お兄ちゃん、ちょっと寒そうだったから」
 そう言われて、初めてが気付く。
 バイト先から着の身着のままここまで来たせいで、雪国の町中を歩くには自分の格好はいささか軽装備だって事に。
 受け取ったそれを首に巻いてみる。
 寒気に晒され続けていた首回りが、心地よい温もりに包まれる。
「うん、温かい。ありがとな、初音ちゃん」
「えへへ」
 感謝の言葉と共に軽く頭を撫でて上げると、少しくすぐったそうな表情を浮かべた初音は小さく照れ笑いを漏らした。
 しかし、すぐにしょんぼり項垂れると、
「ホントは手袋も貸してあげたかったんだけれど、替えが見つからなくて……ごめんね、耕一お兄ちゃん」
「そんな気を遣わなくていいよ、初音ちゃん」
「うん。でも……そうだ! わたしの手袋使って」
 そう言って手袋を外し始めた初音を、慌てて押し止める耕一。
「いいっていいって。俺がそれを使っちゃったら、今度は初音ちゃんの手が冷たくなっちゃうだろ。それに――」
 左手用の手袋を手にした耕一が、それを自分の手にはめて見せる。
 とは言え女物の、しかも元より小柄な初音が付けている手袋のサイズが合うはずもない。
 生地の中に隠す事ができたのは、人差し指から小指までの指四本と手のひらの上半分までが精一杯だった。
「ほらね」
 ぴこぴこと四本指をお辞儀させながら、苦笑いを浮かべる耕一。
 そして肩をすくめながら首を巡らせると、サイズの事まで頭が回らなかった事を気に病んでいるらしい初音の、がっかりする姿が目に飛び込んできた。
 ……しまった。
 受けを狙ったつもりだったのに、思い切り外してしまったらしい。
 彼女は、そういう子だった。
 自分の事より先に他人を思いやり、他人を責める前にまず自分を責めてしまう――そんな心優しい女の子なのだ。
 自分の迂闊さに、自己嫌悪に陥りそうになってしまう耕一。
 しかしすぐに意識のスイッチを切り替えると、
「やっぱり手袋、借りようかな」
「え? でも……」
「ちょっとサイズは小さいけど、でもこれで左手の半分は温かくなるしね。それにほら、こうすれば――」
 そこで言葉を切った耕一は、外気に晒されたままの右手で初音の左手を掴む。
 繊細なガラス細工を扱う様に、優しくそっと。
「あっ!」
「――右手も温かくなる。さっきまでは両方の手のひらが冷たかったけど、初音ちゃんのお陰で左手の半分以外、全部温かくなったよ」
 そして掴んだ手の力を、少しだけ強くする。
 自分を思いやる、彼女の優しい心根への感謝の思いを込めて。
「さて……っと。そろそろ行こっか、初音ちゃん」
 どうやらそのまま会話を続けるのが照れ臭くなってきたらしく、初音から視線を逸らした耕一は、握ったままの初音の手を引いて歩き出す。
「うん! 耕一お兄ちゃん、いっぱいお買い物するから、二人で頑張って持って帰ろうね」
「お任せあれ。米俵の一俵でも二俵でもドンと来いだ」
「くすくす」
 目指す柏木家を目前にしながら、元来た道を引き返す羽目に陥ってしまった耕一。
 しかしその足取りは、来た時の重さが嘘だったみたいに軽かった。
 理由は簡単。
 今度はひとりじゃなかったから。
 大切な家族のひとりが、春の日射しを思わせるあどけない笑顔を宿しながら、すぐ横に居てくれたから。

                    §

「ごめんね。ホントにごめんね、お兄ちゃん……」
「平気だって。俺はここで待ってるから、早く行っといで」
 微かに瞳を震わせながら、申し訳なさそうに表情を翳らせる初音を前に、耕一は苦笑しながら彼女の頭を軽く撫でてあげた。
 初音の案内で向かったスーパーは、屋敷から徒歩十五分ほどの距離にあった。
 東京と違って敷地に余裕があるせいなのだろう、スペースを縦でなく横に有効活用した平屋建ての店内は、時間が夕方近かった事もあって耕一たちと同じ目的――夕飯の買い出しに来ている主婦たちの姿で賑わっていた。
 その中を慣れた足取りで進んでいく初音の後を、耕一は買い物用のカートを押しながらゆっくり付いていく。
 ショーケースに並べられた野菜やら肉やらを、時々足を止めてじっくりと品定めをしてから一品ずつ選んでいく初音の様子は、まだ買い物慣れしてない雰囲気がありありと現れていて微笑ましかった。
 そんな中、買い物の邪魔をしない様にタイミングを見ながら初音と言葉を交わすうち、耕一にも最近の柏木家における家事分担のローテーションが分かってきた。
 家事の中心は、相変わらず梓である事。
 その梓の手ほどきを受けて、楓が料理を習い始めた事。
 二人の家事の負担を少しでも減らそうと初音が、とても彼女らしい理由で買い出し係を積極的に引き受けた結果、材料の目利きの腕が上がっているらしい事。
 そして包丁どころか、菜箸さえ持つ事を梓から徹頭徹尾完膚無きまでに断固拒否されてしまい、千鶴さんがいじけてしまってるらしい事。
「あっ、そうだ。お米も切れかけてたんだ」
 楽しげに近況を話していた初音が、不意に思い出した様に声を上げる。
「お兄ちゃん、お米……重たいと思うけど、大丈夫?」
 初音の問いかけに、カートの籠に積み上げられた買い物の山に視線を向けた耕一は、素早く自らの積載限界量の皮算用を行う。
「五……十キロまでなら……いや、二十キロは行けるよ!」
「無理しなくていいよ。お櫃にまだ少し残ってたと思うから、また今度買い直しにくれば平気だから」
「大丈夫! こんな時のための男手なんだから、任せて」
 ここで見栄を張ってしまうのが、男の悲しい性。
 結局、LLサイズのレジ袋三つ分プラス精米二十キロと、ほぼ満載状態となった耕一は、少し持つと言って聞かなかった初音に一番軽い野菜が入った袋を預け、店を後にした。
 買い忘れの品があった事を初音が思い出したのは信号を渡り、二度ほど角を曲がった先の道にある公園の前に通りかかった時だった。
 店から、距離にしておよそ数百メートル。
 こうして冒頭の会話に戻る。
「でも……ホントに一緒に戻らなくて、大丈夫?」
「うん! 荷物も一杯だし、一緒に来てもらっちゃったら、耕一お兄ちゃんがもっと疲れちゃうでしょ。だから、ここで待ってて」
「ん。分かった」
 急いで買ってくるからと最後にそう言い置いた初音は、見てる方が不安になるくらい忙しげな足取りで、ぱたぱたと元来た道を駆け戻っていってしまった。
 余程慌てていたのだろう、置いていけばいいのに手にしていたレジ袋を持ったままだ。
 その後ろ姿にくすりと小さな笑みをこぼした耕一は、角の向こうに初音が消えたのを確認してから、
「えーっと……あったあった」
 キョロキョロと公園の中を見渡し、すぐに目当ての代物を見つける。
 両手で荷物を抱えながら園内に足を踏み入れると、敷地際に植えられている樹のたもとに設けられたベンチまで歩み寄り、どっかりと腰を下ろした。
「ふぃー」
 傍らに荷物を置き、空を見上げながら大きく息を吐き出す。
 店を出てたかだか数百メートルしか歩いてないのに、既にこの体たらくとは情けない……思わずそんな自嘲気味な呟きを漏らしてしまう。
 そして気が付く。
 よく考えてみたら、自分がバイトが終わってロクに身体も休めずに隆山に帰ってきているという事を。
 いくら若いとはいえ、彼の回復力とて無限ではない。
 鬼の力を顕現させている訳でもなく、普通のヒトとして振る舞っている現状では尚更だった。
 少し休んでおくかな……。
 そう思った耕一は、初音がスーパーから戻ってくるまでの間、少しでも体力を回復させておく事にした。
 ベンチの背もたれに両手を掛け、頭上に広がる冬の青空を見上げながら待つ事、五分。
「そういやレジ……さっきも混んでたっけなぁ」
 更に待つ事、十分。
「慌てて行っちゃったから聞けなかったけど、買い忘れって何だったのかな?」
 更に更に待つ事、十五分
「……んー?」
 おかしい。
 幾ら何でも歩いて数分、走れば一分とかからない場所にある店に戻ったにしては時間がかかりすぎていた。
 何か、アクシデントにでも巻き込まれたのかもしれない。
 ここはやはり、様子を見に行った方が良いのだろうか。
 微かな不安を覚えた耕一は、両脇に積み上げられた荷物の量を再確認した後、公園の入り口に目を向ける。
 よし、行こう。
 杞憂に終わればそれで良しと即座に決断した耕一は、米袋を片に担ぎ、両手に買い物袋を手にしながらベンチから腰を上げかける。
 その時だった。
「……耕一さん?」
 彼の名を呼ぶ、聞き覚えのある女性の声が耳に飛び込んできたのは。
 声がした方に目を向ける。
 そこに耕一が見出したのは、公園と道路を隔てる柵越しに少し驚いた色を浮かべながらこちらを見ている柏木家三女、楓の姿だった。

                    §

 突然の予期せぬ出会いだった事もあり、思わず発すべき言葉が見出せないまま、彼女の顔を凝視するばかりの耕一。
 そんな彼にどう反応していいか分からず、やはり黙り込んでしまう楓。
「…………」
「…………」
 膠着状態に変化をもたらしたのは、楓の足下にいた第三の存在だった。
 左手に巻き付けられていた、革製のリードが不意にぐいと背後に向かって引っ張られたかと思うと、その反動でバランスを崩してしまう。
「きゃっ」
 小さな悲鳴と共に、彼女の姿が消える。
 慌てて、楓がいる方へ駆け寄ろうとした耕一は、
「楓ちゃん! 大丈……夫?」
 しかし何故か、口にしかけた言葉の勢いが途中から失われてしまう。
 尻餅を付いてその場に座り込んでしまった楓の背後に、もぞもぞと動く毛玉の固まりが見て取れた。
 ……犬?
 転んだ時に打ったのか、微かに眉根を寄せながらお尻を撫でさすった楓は、乱れたスカートの裾を直しながら姿勢を正す。
 それから手にしていた紐をたぐり寄せると、彼女の背後に隠れていたそれを両手で抱き抱えて見せた。
 やや薄めの金色の毛に全身覆われたそれは、耕一の思った通り犬だった。
 身の丈三十センチ程度の小型犬。
「急に走り出したりしちゃ……ダメ」
 鼻先まで顔を近づけると、穏やかな口調で小さく囁く。
 彼女の言葉を理解しているのかしないのか、フンフンと微かに鼻をひくつかせる犬は、抱き上げられたままの姿勢でそのつぶらな瞳をじっと楓に向け続けていた。
「立てる?」
「あ……は、はい」
 差し出された耕一の手に支えられ、ゆっくりと立ち上がる楓。
 そのまま彼女の手を引いて公園の中に戻った耕一は、積み上げられた荷物を横にずらしてスペースを確保する。
 そこに楓を座らせた後、自分もその横に腰を下ろした。
 ようやくひと心地付く。
「それにしても、まさかこんなところで楓ちゃんに会うとは思わなかったよ」
「私は……初音から、耕一さんがここにいると聞いて来ました」
「あれ、初音ちゃんと会ったんだ?」
 てっきり偶然の出会いだとばかり思っていた耕一は、楓の返答に少し驚いてしまう。
 こくりと頷いた楓は、腕の中の犬の喉を指先で軽く撫でながら、
「この辺りは、この子のお散歩コースなんです。たまたまお店に入っていこうとしている初音を見かけたので声をかけたら……耕一さんがここで待っているから、荷物運びを手伝ってあげて欲しいと頼まれました」
「楓ちゃんに助けを求めたって事は、初音ちゃんはすぐ戻れそうにないのかな?」
「……はい。レジが込んでて時間がかかりそうなので、自分の事は待たずに先に戻ってくれて構わない、と」
「そっか」
 とりあえず、トラブル等に巻き込まれたという訳ではなさそうだ。
 内心で小さく安堵のため息をついた耕一は、心のスイッチを切り替えると、意識をすぐ横にいる楓の方に移した。
 改めて、彼女の腕の中に居る一匹に目を向けてみる。
「初めて見かける犬だけど、ウチで飼ってる犬なの?」
「この子ですか?」
 耕一の視線を追って目を落とした先には、何かを怖がっているみたいに小さく縮こまってしまった犬の姿があった。
「この子は……ご近所のお家の飼い犬です。お年を召されたご夫婦が飼われているのですが、時々こうして、私が代わりにお散歩してあげているんです」
「なるほど。ずいぶんちっちゃいけど、まだ子犬?」
「いえ。元々小さな犬種ですから……ヨークシャーテリアって言うんです。二歳半くらいのはずですから、人間で言うと二十歳くらいですね」
「なんだお前、俺と同い年なのか」
 そう言って犬に顔を寄せた耕一だったが、肝心の犬の方は彼の視線を避ける様に楓の胸元に頭を埋めてしまった。
「ちょっと人見知りなんです……この子」
 その反応があまりにあからさまだったせいだろう、くすりと小さく笑みをこぼした楓は、犬の背中の毛を優しげな手つきで梳きながら説明する。
「ヨークシャーテリアは、主にネズミ捕りといった間接狩猟を目的に作られた犬種なので、本来は賢く勇猛な性格の子が多いらしいのですが……この子は、生まれつき気の弱い子だったみたいです」
「人と一緒で、犬にも個性があるって事か」
「はい……頭はとても良いのですが、滅多に吠えたりしない無口な子なんです。あと少しだけ臆病で、少しだけ引っ込み思案で、少しだけ人見知りで……」
 楓のその言葉は……どうしてか、とても聞き覚えのある内容だった。
 無口で。
 臆病で。
 引っ込み思案で。
 人見知りで。
 主語を省いて頭の中で並べ直してみると――どう考えてもそれは、楓の特徴だった。
「私にそっくりですよね」
「楓ちゃんみたいだね」
 思わず口を突いて出てきた言葉は、彼女のそれと全く同じ内容だった。
 そのタイミングの良さに思わず驚きながら顔を見合わせた耕一と楓は、しかしすぐにくすくすと笑い出してしまう。
「だから、この子を見ていると……他人事に思えないんです」
「はは……何となくその気持ち、分かるよ。それだけ似てるって事は、きっと楓ちゃんと一緒で心優しい犬なんだろうね」
「え? あ……はい。耕一さんにそう言ってもらえると、嬉しいです……」
 特に意識した訳では無く、ごく自然に口を突いて出てきた言葉だった。
 でもだからこそ耕一のその一言は、楓の態度に急激な変化を強いる事となった。
 言ってからその事に気づいた耕一も、恥ずかしそうに顔を伏せてしまった楓を前にして、今更ながらに自分の台詞の恥ずかしさを自覚する。
 わ、話題を切り替えないと……。
 て言うか、落ち着け……。
 頭の中で十二番目の素数まで数えたところで、どうにか心の落ち着きを取り戻した耕一は、小さく咳払いをしながら話題の転換を図った。
「そ、そう言えばその犬、さっきからずっと震えてるけど……寒いのかな?」
 耕一の言う通り、楓の腕の中に潜り込んだままの犬は、横で見ていても分かるくらいにブルブルと身体を震わせていた。
 頭上を見上げる。
 雲ひとつない冬らしい青空が広がっていたが、日射しのお陰で凍えるほど寒いという訳ではなかった。
 ようやく顔を上げた楓は、彼の質問の意味を理解しかねる様に小首を傾げた後、すぐにはっと表情を強ばらせたかと思うと、
「多分、怖いんだと思います」
「怖い? って……ああ、そういや人見知りするんだっけ」
「いえ。この子は……気付いているんだと思います。私たちの持つ、能力の存在を……それを恐れているんです」
「能力……あぁ、なるほど」
 そこまで口にして、耕一もようやく楓が云わんとした事に気付く。
 能力。
 柏木の一族だけが持つ、異能の能力。
 鬼の能力。
「今は完全に眠らせてあるんだけど、分かっちゃうのか」
「人以外の動物は、そういうのに敏感でしょうから。この子も理屈じゃない部分……本能で感じ取ってるんだと思います」
「あれ? でも一緒に散歩に行ってるって事は、楓ちゃんは平気なんだ?」
「はい。あと……初音も」
「千鶴さんと梓は?」
「姉さんたちは……ダメでした」
 どこか寂しげな様子で楓は、ふるふると小さく首を振った。
 ふむ――耕一は、楓から聞かされた情報を元に思考を巡らせる。
 今まで余り気にした事は無かったが、動物が本能的に鬼の能力を察知し、それを懼れるというのは十分ありそうな話だった。
 何より現に今、こうして震え懼れている犬が目の前にいる。
 その際に対象となり得るのは、肉体的に優れた個体――より具体的には耕一、千鶴、梓の三人となる。
 次郎衛門、リズエル、アズエル……この三者は確かに肉体強化系の鬼、エルクゥだった。
 エディフェルもそうだったはずだが、メンタル面では彼女はエルクゥの中でも変わり種だったし、むしろリネットに近い存在なのかもしれない。
「ちなみに、どれくらい離れれば震えは止まるのかな?」
 立ち上がった耕一はベンチから一歩、距離を置く。
 ふるふる。
 抱いたままの犬の様子を確かめてから彼女が、首を振る。
「じゃあ、これでどうだ」
 今度は二メートルほど離れる。
 ふるふる。
「ぐぐ……じゃあ、これは?」
 五メートル。
 ふるふる。
「これならどうだ……って楓ちゃん、聞こえてる?」
「はい、聞こえてます」
 公園を出て、歩道を跨いで車道脇の縁石まで移動してから問い返す。
 距離にして約十メートル。
 楓が右手の親指と人差し指で小さく輪を作ったところを見ると、どうやらこの距離なら犬を怖がらせずに済むらしい。
「十メートルか……」
 どうやら明日以降、楓が犬の散歩に行く時に耕一がそれに同行するのは諦めるしか無さそうだった。
 ……仕方ないか。
 こればかりは、努力したからと言ってどうなる物でもない。
 思わず肩をすくめ、小さくため息を付く。
 まるで先刻の楓の登場を彷彿とさせる様に、背後から耕一に向けて声が掛けられたのは、その時だった。
「あっれー、耕一じゃん。こんなとこで何してんの?」
 聞き覚えのあるその声に嫌な予感を覚えつつ、振り返る。
 そこには下校中とおぼしき制服姿の女性がひとり、不思議そうな色を表情に宿しながら小首を傾げ、佇んでいた。

                    §

「何だ……梓か」
 予想した通りの姿をそこに見出した耕一は、どことなく気の抜けた声で呟く。
「ぐっ。随分なご挨拶じゃない……」
 久しぶりの再会なのだから、梓としてはもう少し気持ちのこもった反応を期待していたのだろう。
 肩すかしを喰らって、少々不満そうだ。
「お前相手に、感涙にむせたって仕方ないだろ。無駄無駄」
「何だとーっ!」
 一見、喧嘩腰にも受け取れるやりとりだったが、しかしこの程度は二人にすれば日常茶飯事といったレベルに過ぎない。
 一瞬、口を尖らせた彼女は、しかしすぐに何事も無かった風に表情を戻すと、
「まぁいっか。おかえり、耕一」
「おう、ただいま」
「って言うか、アンタいつ帰ってきたの」
「ん? ついさっき。屋敷の方に行ったら、ちょうど買い物に行くとこだったらしい初音ちゃんと、ばったり出くわしてさ」
 耕一はそこまで口にしてから、犬と共に楓が座っているベンチに目を向ける。
 そこで初めて、妹の存在に気付いたらしい梓は、少し驚いた様子で、
「ありゃ、楓までいるし」
「梓姉さん……おかえりなさい」
「ただいま、楓」
 笑顔と共に軽く手を振って楓がいる方に歩き出しかけた梓は、しかし何故かすぐに足を止めてしまう。
 それから耕一に向かって、
「なぁ耕一」
「ん?」
「そこにある荷物からすると、大方、初音と一緒に買い物に行った帰りなんだろうけど……何で初音じゃなく楓が一緒なんだ? 楓は……あぁ、いつものワンコの散歩か」
 楓の胸の中に犬の姿を見出して、ひとり合点する。
 こくりと、梓の言葉を首肯する楓。
「買い物を済ませてから、ここまでは初音ちゃんと一緒だったんだよ。でも買い忘れがあったらしくて、初音ちゃんは店に戻ってった。んで、ここで帰りを待ってたら、今度は楓ちゃんに会ったって訳」
「初音から、耕一さんと一緒に先に家に帰っててと頼まれたんです」
「なるほど……」
 耕一と楓の両方から説明を受けて合点が行った様に呟いた梓は、数秒ほど顎に手を当てて考え込む素振りを見せた後、
「よし。楓、あんたは先に帰りなさい」
「え?」
「はぁ? 何だよ、それ。楓ちゃんだけのけ者にしようだなんて、お前らしくないぞ」
 思わず非難の声を上げる耕一。
 しかし見るからに心外そうな表情を浮かべた後、耕一をジロリと睨み付けてそれ以上の発言を封じた梓は、
「バカ! そんなんじゃないよ。楓、あんたワンコの散歩中だろ」
「あ、はい」
「言っちゃあ何だけど……あたし達と一緒じゃ、散歩にならないんじゃない?」
「…………」
 梓の言葉に、楓は抱きかかえたままの犬に視線を落とす。
 耕一たちから距離が離れているお陰で、今は落ち着きを取り戻している犬は、楓に顔を向けながら相変わらずフンフンと鼻先をひくつかせていた。
 そうか……耕一はようやく理解した。
 つい先刻、楓に近づきかけた梓がどうして足を止めたのかを。
 自分が懼れられている事を知っているから。
 無意味に怖がらせてしまう事を知っているから。
 恐らく、いや間違いなく梓も、さっき耕一が目の当たりにしたのと同じ出来事を過去に何度も経験しているのだ。
 ……そう言えば、こういうヤツだったっけ。
 内心で苦笑しながら耕一は、改めてすぐ横に立つ梓に目を向けた。
 常と変わらぬ男勝りな言葉と態度――しかしその中に、彼女にしか出来ない優しさと思いやりが込められているのだ。
「荷物の方は、あたしと耕一で手分けして持って帰るからさ。だから、あんたはいつも通りワンコの散歩相手をしてあげなって」
 梓の言葉に、微かに瞳を揺らす楓。
 しかしすぐに納得した様にコクリと頷くと、抱いていた犬をそっと地面に離してやってから立ち上がる。
 頭で理解はしたものの、感情が納得行ってない様な、そんな表情を浮かべながら。
「大丈夫だって。耕一はどこにも行きゃしないって。な?」
 楓の内心の不安を読み取ったのか、破顔しながら梓が言葉を続ける。
 そして耕一の首に腕を回したかと思うと、そのままぐいと自分の方に引き寄せ、
「いざとなったら、こうして……あたしが、首に縄付けてでも連れて帰るから。だから、安心して行っといで」
「ちょ、おま……極まってるって! ギブギブ!」
 戒めを解こうとジタバタ暴れ始める耕一を前に、久方ぶりにくすりと笑みをこぼして見せた楓は、
「耕一さん、また後で……梓姉さんも」
 二人に向かって、小さく手を振る。
 それから公園の反対側の出口に向かって逃げる様に走り出した犬の後を追って、小走りに駆けていった。
「さてっと……にしても、またえらく買い込んだね。こりゃ」
 楓の姿が角の向こうに消えるまでその場で見送った後、ようやく耕一の首に回していた手を離した梓は、ベンチに積み置かれた荷物を前に呆れた様にため息をつく。
「あんたさ……初音が相手だからって、見栄張ったね?」
「やっぱ分かるか」
「分からいでか。ふた抱えもある様な食材の山を買い込んどいて、その上米二十キロなんてどこの馬鹿が買うかっての」
「いやぁ、ここまで運んできただけで腕が抜けるかと思った。はっはっはっ」
「笑い事か!」
「……面目ない」
 さすがにここで見捨てられる訳にいかない耕一としては、下手に出るしかない。
 もし今、ここにいるのが初音や楓、千鶴が一緒だったとしたら、恐らく耕一は無駄な見栄だと分かりつつ、同時に翌日の筋肉痛を覚悟しながらも独りで全ての荷物を運ぼうとしたに違いなかった。
 しかし、相手が梓の場合は違った。
 子供の頃から、従姉妹というより歳の近い男友達に近い感覚で付き合ってきた事もあって、未だに梓を相手にしている時だけは、遠慮無く物を言う事が出来たし、無茶な頼み事をする事もできた。
 その関係は、幾星霜を経た今も変わってはいない。
「しゃーないなぁ。じゃあ、あたしがこっちの袋とお米半分持つから、耕一はそっちの荷物をよろしく」
「おうよ」
 初音と別れてから後、何だかんだでそれなりに休憩が出来たお陰で、体力的にはかなり回復している。
 加えてめでたく、荷物の一部を梓に押しつける事もできた。
 これなら途中休み無しで、家まで帰れそうだった。
「あ、そうそう」
 よっこらしょと、ややオバサンっぽい呟きを口にしながら、荷物を手に出口に向かって歩き出した梓が肩越しに振り返る。
 そして何を思ってかニヤリと、小悪魔然とした笑みを口許に浮かべて見せてから、
「世の中、タダより高い物は無いって言葉、知ってる? 耕一」
「え?」

                    §

 十分後。
 テーブルに突っ伏してしまった耕一は、両手で頭を抱えながら我が身に降り掛かった不幸を呪っていた。
 同時に、自らの判断の甘さを悔やむ。
 そうだった。
 すっかり忘れていたが、梓とはこういうヤツだったのだ……。
「んふふー♪」
 ちらりと顔を上げる。
 すぐ目の前に、上機嫌な梓の顔があった。
 そんな彼女の背景を成しているのは、ファンシーというか乙女チックというか……パステル調の雰囲気で統一された調度品たちだった。
 要するに今、二人は喫茶店にいた。
 二人の間を隔てるテーブルの上には、シフォンケーキとティーポットが二セット。
 席に案内された途端、メニューも見ずに梓がオーダーした物なのは言うまでもない。
 耕一の足元を見た梓から労働の対価の前払いを要求され、万事止むを得ずそれを受け入れた事は……まぁいい。
 周囲の地理にイマイチ自信がない耕一が、店選びを梓に任せたのも仕方がない。
 配膳されたメニューがケーキセットだった点については、甘い物もドンと来いな舌を持つ身として何の問題はない。
 そんな耕一にとって、唯一かつ最大の問題は――周囲の視線だった。
 何というか、痛い。
 痛いのだ。
 相方の梓は全く頓着した様子を見せなかったが、耕一の見たところ、明らかに店の中で自分たちがいるこの一角だけが浮いていた。
 時間的には午後も結構いい時間だったから、このいかにも女性受けしそうな造りの喫茶店内は、帰宅途中の女子校生の集団に占拠されているに等しい状態だった。
 そんな中、梓はともかく耕一が身を置くのは、正直かなり辛い物がある。
 と言うかどう見ても、店内にいる男性客は耕一ひとりだ。
「なぁ……梓」
「ん?」
 前払い報酬に舌鼓を打つ梓が、フォークをくわえたまま顔を上げる。
「仮にも一応きっと多分、生物学的には何故か女に分類されてるだろうお前は平気なんだろうけど……男の俺には、この空気はちょーっと辛いんだが」
「何だよ、そのやたら長い前置きは。もしかして、ケンカ売ってる?」
「アホ。ケンカ売るなら、この店に入る前にとっくに売ってるわい」
「あはは、それもそうだ。で、何? 居辛いって事?」
 フォークを皿に戻し、今度はティーカップを持ち上げた梓は、男勝りの外見とは裏腹に音も立てずに上品な仕草で紅茶を口に含むと、
「大丈夫大丈夫。注目されてるのは、あんたじゃないから」
「そうか? どう見ても、店中の視線がこのテーブルに集まってる気が……」
 言いながら、わざとらしい仕草で首を巡らせる耕一。
 その途端、興味津々と言った様子で耕一たちの様子を窺っていた女生徒たちの視線が、さっと明後日の方向を向いた。
「…………」
 小さくため息を付きながら視線を戻すと、まるで連動でもしているかの様に、周囲の視線が再び集まってくるのが感じ取れた。
 微妙に居たたまれない気分に陥りつつ、耕一は内心で呟きを漏らす。
 ……やれやれ、とっとと食べて退散した方が良いかな。
 その時だった。
 すぐ後ろの席で、さっきからヒソヒソと続けられていた会話の中に「梓」という単語が聞こえたのは。
 ……ん?
 何を話しているのか少し気になった耕一は、意識を背後に集中する。
 しかし敵(?)もさるもの、盗み聞きされない様に細心の注意を払っているのか、会話が為されているのは分かるものの、その内容まで明瞭に聞き取る事はできなかった。
 ちらりと、テーブルの向こうの梓に目をやる。
 大丈夫……かな。
 内心で小さく頷いた耕一は意識を内面に向けて集中させ、彼の中に眠る能力のほんの一部を解放する。
 ちりっ。
 こめかみに微かな痺れを覚えた次の瞬間、耳に飛び込んでくる音声情報の量が爆発的に増大した。
『――りえなくない?』
『あぁ……梓様が、どこの馬の骨ともしれない男と一緒だなんて……ショック』
『かおりが知ったらヤバいっしょ?』
『……血の雨が降るね』
『あ、それ面白そう面白そう』
『呼んじゃう?』
『誰か、電話電話』
 そこまで会話を耳にしたところでふと、どこかで聞いた事がある名前が口にされていた事に耕一は気付いた。
 ――かおり?
 誰だったろう。
 確か、梓絡みで……いつだったかその名前を耳にした様な、そんな記憶がある。
「あぁ」
 立て付けの悪かった記憶の引き出しから、ぽんと飛び出してきた思い出の欠片に、小さく嘆息してしまう耕一。
 ……あのレズっ娘か。
「ん、どした?」
 前触れ無しに呟きを漏らした耕一に、口を付けていたカップを離した梓が、視線だけ耕一の方に向けながら口を開く。
「いや……納得してただけ。確かに、話題の中心はお前みたいだ」
「だしょ」
 さりげなく話を振ってみたが全く動じないところを見ると、先刻梓が口にした通りなのに違いなかった。
 つまり周囲の視線は「こんな店に男がいる」事ではなく、「梓が男とこんな店にいる」事にこそ注目しているのだ。
 今日に限らず、普段から梓の周りはこんな感じなんだろう、多分。
 とりあえず周囲の視線が自分に直接向いてない事は分かったのでひと安心だったが、それはさておき居心地が良くない事実に変わりはない。
 出来れば、さっさと梓をここから引っ張り出して家に帰りたいところだった。
 しかし肝心の梓は、見た感じまだ耕一からむしり取る気満々だ。
 この調子では、ケーキの二、三個は覚悟する必要がありそうだった。
 幸いな事に、今日受け取ったばかりのバイト代は手つかずのままだったから、懐的には大した痛手とはならないがせめてもの救いではあった。
 いやいや、そうじゃなくて――。
 思わず納得しかけてしまった耕一は、慌てて頭を振る。
 そして少し思案に暮れた後、テーブル脇に置かれていた紙ナフキンを一枚取るとそれをテーブル上に広げて見せた。
「ん? 急にどした、耕一?」
 小首を傾げる梓をよそに、ポケットから取り出したボールペンを紙の上に走らせた後、彼女が読みやすい様くるりと百八十度反転させてから、そっと前にそれを押し出す。
 そこには簡潔に、こう書かれていた。

『かおりちゃんが来るぞ』

 次の瞬間、梓の身体がびくりと大きく震えたのが見て取れた。
 どうやら耕一が思った以上の効果があったらしい。
 ゆっくりと、落としたままだった梓の視線が上がって来て、待つほどもなく耕一のそれと交錯する。
 その瞳には、明らかに動揺の色が浮かんでいた。
 ――よし。
 この場のイニシアチブを取り戻す事に成功したのを確信した耕一は、内心でガッツポーズを取る。
「じゃあ、そろそろ出るか。あんまり遅くなると、初音ちゃんも心配するだろうしな」
「あ、あぁ……そ、そうだな」
 二つ返事で席を立つとばかり思っていたのに、何故か言葉を濁す梓。
 そして落ち着かない素振りで店のカウンターに据えられた時計と、全面ガラス張りの壁越しに広がる店外の風景を、まるで何かを待っている様に交互に見比べ始めた。
「……梓?」
 その様子に、訝しげな眼差しを浮かべる耕一。
「な、何でもないって……何でも! あ、ははははは……」
 怪しい。
 どう見ても怪しい。
「そ、そ……そうだ! あたし、ちょっとトイレ行ってくるわ。戻ってきたら、出よ。だからさ、ちょっとだけ待ってて!」
 耕一が口を開くよりも早く、まくし立てる様に一気にそう述べ立てた梓は、小走りに店の奥にあるトイレの中に姿を消してしまった。
 その姿に、肩をすくめながら思わず苦笑してしまう。
「って、おい! ……相変わらずなヤツ」
 仕方なく浮かせかけていた腰を再度椅子に落とした耕一は、まだカップの三分の一ほど残っていた、既にぬるまり始めている紅茶を一口含む。
 それから、彼女が戻ってくるまでに殆ど手つかずのままだったケーキを片付けてしまおうと耕一は、フォークを手にした。
 ケーキのサイズ自体は、そこそこボリュームがあった。
 とは言え男の耕一にすれば大した量ではなく、物の五分もしないうちに皿の上は綺麗に空っぽになってしまっていた。
 既にカップは空だったので、お冷やの入ったグラスから溶けかけて丸くなった氷ごと、水を喉に流し込む。
「遅い……」
 ガリガリと氷を噛み砕きながら、耕一は呟く。
 男と比べて女性のトイレが長いのは分かっていたが、それにしても遅い。
 しかしだからと言って様子を見に行く訳にもいかず……さて、どうしたものか。
 その時だった。
 小さくため息を漏らしながら頬杖を付き、窓外の風景に目をやった耕一の瞳に、それが映し出されたのは。
 距離にして五十メートルほど先の路肩に、黒塗りのリムジンが止まっていた。
 それだけならさして気に止める物でもなかったが、その車の前に見覚えのある人影が佇んでいたのが、彼の注意を引いた。
「って、梓かよ!」
 トイレに行ったはずなのに、いつの間に店の外に?
 耕一の疑問をよそに、リムジンの後部座席の窓越しに車中の誰か相手に二言三言、言葉を交わした梓は、くるりと身を翻してこちらに向かって駆けてくる。
 待つほどもなく、言葉を失って口をぱくぱくさせるばかりの耕一の前で足を止めた彼女は、
無言で自分の左手を指差して見せた。
「ん……? って、あーーーーーっ! 俺の財布じゃねえか、それっ!」
 その途端、悪戯が成功した時の子供みたいな、あどけない満面の笑みを浮かべながら脱兎の如く駆け出した梓は、陸上部のホープの名に恥じぬ俊足をもって、あっという間に耕一の前から姿を消してしまった。
 時間にして、数分足らずの出来事だった。
「あんにゃろ、いつの間に俺の財布をスってやがったんだ……って言うか、もしかしなくても俺、文無し?」
 今の耕一に残された物、それは――。
 テーブル脇に積み上げられた荷物の山。
 財布が無いと分かった途端、妙に軽そうに見え始めたダッフルコート。
 そして、テーブルの上に置かれた伝票。
 以上、三点だった。
 とりあえず、最後のアイテムをどう片付けるかが焦眉の急だろう。
 さすがに物納は認められないだろうし、このままでは皿洗い確定か……そう耕一が、すぐ先に待ち構えてる暗い未来を予想した時だった。
 店内に、新たな変化が生じる。
 カラン――ドアに結わえられたカウベルが涼しい音色を響かせながら揺れ動き、開かれたドアの向こうから新来の客が姿を現す。
 無意識に視線をドアの方に向けた耕一は、そこに見出した人影の正体を知って再度、言葉を失ってしまった。
「……千鶴さん」
 真打ち登場だった。

                    §

「…………」
「…………」
 車が走り出してから、既に十分近い時が流れていた。
 その間、後部座席に肩を並べて座った耕一と千鶴との間に交わされた言葉は、文字通りのゼロだった。
「大凡の事情は先ほど、梓から聞きました。家まで荷物を運んで差し上げますので、車の方にどうぞ。耕一さん」
 梓と入れ替わりで、喫茶店に姿を現した千鶴。
 彼女は静かな足取りで耕一が座るテーブルの前までやって来て、それだけ言うと彼の返事も待たずにテーブルの伝票を手に、くるりと背中を向けてしまう。
 そしてレジで支払いを済まし、再びドアを押して外に出て行ってしまった。
「え? ちょちょ……待って、千鶴さん!」
 急転直下の展開に、頭が付いていかない。
 と、兎に角、後を追わないと!
 両手一杯の荷物を抱えながら慌てて席を蹴った耕一は、よろよろとした足取りで彼女の後を追う。
 リムジンは、いつの間にか店のすぐ側に寄せられていた。
「お願いします」
 開け放たれたトランクの前で待機していた運転手(顔に見覚えがあったので、恐らく鶴来屋会長専属の運転手なのだろう)の助けを借りてどうにか荷物を全て詰め込んだ後、二人を乗せた車はいずこへともなく発車していった。
 店内から、ガラス越しに向けられてくる数多の視線を感じながら。
 そう言えば……耕一は、今更の様に気付く。
 千鶴が登場してから車を出すまでの間、店内の誰一人言葉を発する者が居なかった事を。
 かしましい事この上ない女子校生の巣窟の様な場所で、しわぶきひとつ立たない沈黙が続くなんて、余程の事に違いなかった。
 逆に言えば、梓の逃走から千鶴の登場と退去までの一連の出来事が、余りに意外な展開だったという事なのだろう。
 静かと言えば今、耕一の周囲を押し包んでいる静寂もそうだった。
 まず何より、車に乗っているはずなのにエンジンの音どころか、タイヤが路面を踏みしめるロードノイズすら聞こえないというのは、一体どういう理屈なのか。
 遮音及び防音といった性能面に、相当の金が投じられているに違いない車だった。
 勿論、金がかかっているのはそれだけではない。
 羽毛布団の如く柔らかく身体を受け止めながら、なおかつホールド感はしっかりと保っている座席や、恐らく全て天然材を用いているに違いない贅を凝らした造りの内装など、頭の天辺からつま先まで、耕一の目には一切の妥協が感じられない代物だった。
 うーむ……これが、エグゼクティブの乗る車なのか。
 普段乗る機会があるエンジン付きの車と言えば、せいぜい路線バスくらいな耕一には、文字通りの別世界だった。
 別世界と言えばもうひとつ。
 意識を車から、すぐ横に言葉なく座す千鶴さんの存在に移す。
 普段は柏木邸で会う事がほとんどで、仕事中の姿を見る事はまれだった耕一にとって、正装をした千鶴の姿はかなり新鮮だった。
 時候柄なのか今、彼女が身に纏っているのは深紅の晴れ着。
 きらびやかな和装と綺麗に結い上げられた黒髪、そして襟口から覗くうなじの艶っぽさのコラボレーションが、耕一の脳内に言葉にし難い刺激を与えてきていた。
 これでこちらに微笑みかけてくれれた日には、もう言う事無しだったが……現実はそう甘くはない。
『耕一さんの馬鹿ーっ!』
 ほんの半日前、電話越しに千鶴が放った言葉が脳裏にありありと蘇る。
 あの台詞と今のこの態度。
 どう考えても、彼女の機嫌は未だに直っていなかった。
 目を合わせるのも嫌なのか、千鶴はすぐ横に座る耕一の視線を避ける様に、顔を右手の窓側に傾けてしまっていた。
 地方都市とはいえ、さすがに夕方となればそれなりの交通量になるのか、市内の道は五分から六分くらいの混雑ぶりだった。
「えーと……今日は、挨拶回りか何かだったの?」
「…………」
「晴れ着姿の千鶴さん、初めて見たから……ちょっとびっくりしたよ」
「…………」
「あのぉ。もしかして、まだ怒ってる?」
「…………」
 処置無しだった。
 万策尽きた耕一はがっくりと肩を落とし、内心でため息を付きながら窓外に目をやる。
 万が一にも事故を起こす事など無い様に制限速度を守っているのだろう、窓外の風景はゆっくりと後ろに流れ、消えて行った。
 街並みの背景を為す空は、ややオレンジがかった色味に変化しつつあった。
 北国の早い夜の訪れだ。
 そう言えばこの車……一体、どこに向かっているのだろう。
 元々地理には詳しくない上に、車上の人となっている現状、自分が今どこにいてどこに向かおうとしているのかなんて分かるはずもなかった。
 千鶴はと言えば、相変わらず明後日の方を向いたまま。
 そしてハンドルを握る運転手はプロフェッショナルに徹しているのだろう、こちらの会話には一切干渉してこようとしなかった。
 車がどうやら目的地らしき場所に辿り着いたのは、それから更に十五分ほどの時が流れた後の事だった。
 鶴来屋?
 窓越しに映し出される、見慣れた建物を目にしながら小さく呟く耕一。
「……耕一さん」
「はいっ!」
 慌てて声がした方に顔を向けると、運転手によって開けられたドアから既に車を降りていた千鶴が、感情の起伏が薄い表情を宿しながらこちらを見据えていた。
「電話を何本かかけてきますので、少し待っててもらえますか」
「あ……は、はい」
「十分ほどで戻ります」
 それだけ言い置いて、千鶴は建物の中に姿を消した。
 ドアが閉じられ、外界の雑音から遮断された耕一は、座席の背もたれに身体を預けながら大きくため息をもらした。
 運転手もトイレにでも行ってしまったのか、車内は耕一ひとり。
 それにしても――今日一日の出来事を思い返しながら、彼は思った。
 バイト明け、取る物もとりあえず電車に飛び乗り。
 ようやく屋敷に辿り着いたと思ったら初音とばったり出くわし、休む間もなく買い物のお供をする事になり。
 荷物の山を横に公園でひと息付いていたら楓と邂逅し。
 更に梓に捕まった挙げ句に、喫茶店でケーキまで奢らされてしまう始末。
 そして今、こうして千鶴さんの戻りを待っている……。
 実のところ、まだ柏木邸の敷居すら跨いでいないというのに、慌ただしい事この上ない一日だった。
「ホント……出来過ぎだよなぁ」
 何はともあれ、彼にとって一番の重要事項である四人の無事息災な姿を、この目で確認する事は出来た。
 初音と楓、そして恐らくは梓も、耕一の帰郷を素直に喜んでくれている。
 これで残る千鶴の機嫌が直ってくれれば言う事なしなのだが……それが一番の難題かもしれなかった。
「にしても、どうしたもんかな。千鶴さん……ああ見えて意外と意地っ張りというか、子供っぽいとこがあるからなぁ」
 この場に誰もいないと思いこんだ気安さからか、思った事をつい口にしてしまう耕一。
 しかし、壁に耳あり障子にメアリー。
「……誰が子供っぽいですって?」
「うわっ!」
 いつの間にか音もなく開かれたドアの前で千鶴が、醒めた色を両の瞳に浮かべながらこちらを睥睨していた。
 突然の出来事に思わず後ずさってしまった耕一は、しかしすぐに反対側のドアに背中をぶつけてしまう。
 いつからそこに――喉まで出かかった言葉をかろうじて呑み込んだ後、代わりにややひくつき気味な愛想笑いを浮かべながら、
「は、はは……な、何でもありません」
「……そうですか。お待たせしました。用事は全て済みましたので、屋敷に戻りましょう」
 再び耕一の横に腰を下ろした千鶴は、運転手に「お願いします」とだけ口にすると、静かに目を閉じてしまった。
 とりつく島もないとはこの事か。
 音もなく流れ始めた風景をぼんやりと眺めやりながら耕一は、内心で小さくため息を付くしかなかった。
 既に周囲は、夜の帳に覆われつつあった。
 街灯の下に浮かび上がる、宵の口の町並み。
 幾つもの信号を通過し、何度か角を折れるうち、耕一にも見覚えのある風景が視界の端々に映し出される様になった。
 目的地はもうじきらしい。
 これでようやく、この居たたまれない状況から逃げ出せる。
 会話どころか目線すら合わせようとしない、すぐ隣にいる千鶴の姿を横目でちらりと眺めながら、耕一は安堵にも似た思いを抱いた。
 同時に愛する人がすぐ目の前にいるにも関わらず、世界中で一番遠く感じてしまうこの状況に、寂しさを感じてしまう。
 車が止まったのは、それから間もなくだった。
 ドアが開かれ、先に下りた千鶴の後に耕一も続く。
 下り立ったすぐ目の前には、街灯の薄明かりの下に浮かび上がる、柏木邸の門扉が言葉なく佇んでいた。
「ご苦労さまでした」
 トランクから荷物を下ろした後、千鶴の労いの言葉に深々と一礼した運転手は、再び車中の人となると二人の前から去っていった。
 車のエンジン音が遠く小さく消えてゆくに従って、周囲の静寂が逆に耳につき始める。
 何気なく、頭上を見上げる。
 澄んだ冬の夜の空気を透かして、東京とは比べ物にならないくらいの数多の星が瞬き、煌めいていた。
 さくっ。
 不意に耳朶を叩いた音色に視線を戻せば、門脇の木戸をくぐり抜けた千鶴が、戸板を手で押さえながら耕一の方を無言で見つめていた。
 早く来なさい、そう言いたげに。
 そんな千鶴の素っ気ない態度にもいい加減慣れてきた耕一は、処置なしと言いたげに肩を小さくすくめて見せた後、雪で足を滑らせない様に気を付けながら、両手一杯の荷物と共にゆっくり門を潜った。
 玄関には明かりが点っていた。
 千鶴を除く家族全員――梓、楓、初音の三人は、既に帰宅しているのだろう。
 からからと、鍵の掛かっていない玄関の戸を横に引いた千鶴は、何故か中に入ろうとはせずに玄関脇で足を止めたまま、耕一の方を振り返る。
 ……先に行けって事?
 小首を傾げながら、しかし素直にその促しに従う耕一。
 内心に、微妙な違和感を覚えた。
 朝の電話でのやりとり、そして喫茶店からここまでロクに口もきいてくれない千鶴の機嫌を見る限り、彼女のご機嫌はかなり斜めな様に見受けられる。
 しかしだからと言って、完全に無視されている訳でもない。
 大荷物を抱えた耕一の進路を露払いするかの如き、細かな気遣いを見せてもくれる。
 一見、矛盾めいた彼女の行動は、どういう事なのだろう。
 答えは……すぐ目の前にあった。
「ただいまー」
 三和土に足を踏み入れたところで、帰宅の挨拶を口にする耕一。
 それは特に誰からの返事を期待したという訳でもない、普段の習慣で何気なく口にしたはずの一言だった。
 しかし、返答は即座に戻ってきた。
 すぐ目の前の、上がり口から。
「「「おかえりなさーい!」」」

                    §

「……へ?」
 それは、予想もしなかった反応だった。
 視界を塞いでいる荷物の山の横から首を覗かせた耕一は、声の正体を確かめる。
「みんな……」
 そこには、三人の少女の姿があった。
 いつの間に着替えたのか、色鮮やかな振り袖を身に纏った彼女らは、上がり口に横一線に並んで正座しながらこちらに顔を向けていた。
 そして目が合った次の瞬間、
「明けましておめでとうございます、耕一!」
「明けましておめでとうございます……耕一さん」
「明けましておめでとうございます、耕一お兄ちゃん!」
 梓、楓、初音の順に床に手を付いて深々とお辞儀をしながら、三者三様の呼び名と共に新年の挨拶を述べて見せた。
「え……あー、その……」
 余りの展開に思考が混乱しかけた耕一の口からは、咄嗟に言葉が出てこない。
 そんな彼の心を落ち着かせ、やさしく背中を押してくれたのは、この場に居る残るひとりの女性の言葉だった。
「ほら、耕一さん。三人とも、貴方からのお返事を待ってますよ」
 いつの間にか耕一のすぐ横で肩を並べていた千鶴が、今までの冷たい態度が嘘だったみたいに、優しく微笑んでいた。
「あ、はい……あ、あけましておめでとう――」
 ゆっくり視線を動かす。
「梓」
「おう!」
 片目を閉じながら、彼女らしい仕草で右手の親指を立てて見せる。
「楓ちゃん」
「……はい」
 小さく頷きながら恥ずかしそうに目を伏せた彼女は、ぽっと頬を染める。
「初音ちゃん」
「うん!」
 にっこりと彼女だけにしか出来ない、小春日和の笑みを浮かべる。
 そして――。
「千鶴さん」
 彼女は何も言わなかった。
 しかしその代わりに、嬉しげに微かに目を細めて見せた後、
「さぁさぁ、積もる話は中でしましょう」
「ほーら、耕一。荷物はその辺に置いとけばいいから、上がった上がった」
「え? でも……」
 あっという間に四人に荷物を取り上げられてしまった耕一は、千鶴に右手を、初音に左手を、そして梓と楓に背中を押されるまま、居間まで連れて行かれてしまう。
「じゃじゃーん!」
 初音の楽しげな声と共に開かれた襖の向こうには、いつもと同じ居間の風景の中に、いつもとは異なる宴の席が用意されていた。
「さぁ、耕一さん。こちらにどうぞ」
「は、はぁ……」
 千鶴に勧められるまま、いつの間にか自分の定位置となっている食卓の前に腰を下ろす。
 そして改めて、食卓の上を眺め渡してみた。
 そこには、いわゆるお節料理の数々が並んでいた。
 数の子、黒豆、叩き牛蒡。
 伊達巻き、昆布巻き、栗金団。
 鯖、鯛、海老に紅白膾。
 いかにも旧家らしい、伝統に則って五段重にきっちり詰められたそれらは……しかし、本来なら元旦に目にすべきはずの代物だった。
 ちらりと、腕時計に目をやる。
 間違いなく今日は七日、松の内明けだった。
「お兄ちゃん、はい。お雑煮ー」
 差し出された椀を、初音から受け取る。
 途端、ふわっと出来たての雑煮が放つ湯気が頬を撫でた。
「お餅、とりあえず三つ入れておきました。おかわりは沢山ありますから……遠慮なく言ってください」
 お節。
 雑煮。
 と来れば次は――。
「耕一さん。お屠蘇、どうぞ」
 銚子を手にした千鶴が、にっこりと微笑んでいた。
 お重の脇に用意されていた盃を差し出し、中身を注いでもらう。
 その後、自分と妹たちにも同じ様に屠蘇を注いだ後、盃を手にした千鶴は、
「では耕一さん、よろしくお願いします」
「えーと……あ、はい」
 理由も事情も相変わらずよく分からないままの耕一だったが、彼女が今、何を自分に求めているかだけは分かっていた。
 だから盃を軽く掲げた耕一は、四人の顔を順に見渡しながら、
「新年、明けましておめでとう!」
 正味一週間遅れの挨拶を口にする。
「おめでとう」「あけおめ!」「……おめでとうございます」「おめでとー!」
 それから盃の中の屠蘇を、ひと息に飲み干した。
 清酒と味醂の混ざり合った独特の味わいを舌で味わった後、喉の奥へと流し込んでゆく。
 胃に達した途端、胸の辺りがかっと熱くなるのが分かった。
「おかわり、どうぞ」
 銚子の注ぎ口を向けてきた千鶴に、盃を差し出す。
 なみなみ注がれる屠蘇を眺めながら、耕一は屋敷に上がってからずっと抱いていた疑問を初めて口にした。
「千鶴さん……俺、イマイチ状況が把握しきれてないんだけど……つまりこれって一体どういう事なの?」
 恐らく予想していた問いかけだったのだろう、くすくすと小さな笑みをこぼした千鶴は、
「見ての通りです。柏木家は、今日がお正月なんですよ」
「はぁ」
 彼女の言う通り今、彼の眼前に展開しているのは、元旦その物の光景だった。
 とは言え何故元旦なのか、何故今日なのかについてはさっぱりだ。
 加えて、まるで『セイカクハンテンダケ』でも食べたのではないかと思えるくらい、豹変してしまった千鶴の態度。
 耕一の頭上には、相変わらず「?」マークが幾つも生え続けていた。
「あ、そうだ。聞いてくれよ、耕一。千鶴姉ってば、酷いんだぜ」
 雑煮の餅を頬張っていた梓が、手にした箸先を軽く上下させながら話に割ってくる。
「一日にさ、あんたから電話があったじゃん」
「元旦って言うと――三が日明けまで戻れないって電話をした時か」
「そうそう、それ。千鶴姉が電話受けてた時、その後ろではこんな風に正月の準備万端だったんだよ。なのに千鶴姉ったら……電話切った途端『耕一さんが戻ってくるまで、お正月は延期です!』とか無茶苦茶な事、急に言い出したんだぜ」
 余りに突拍子のない内容に、思わず噴き出しそうになってしまう。
 そしてすぐ横にいる千鶴に目線を送る。
 どうやら梓の証言は偽りのない事実だったらしく、千鶴は恥ずかしそうに微かに頬を染めながら耕一から目を逸らしてしまった。
「まぁ、それはあたしも同感だったから別に良かったんだけど……一緒にお年玉までお預けってのは酷すぎるとは思わない? これってどう考えても、正月に耕一とラブラブ予定のアテが外れた千鶴姉の八つ当た――」
「もう、梓っ!」
 慌てて梓の口を塞いだ千鶴が「ほほほ」と、何かを誤魔化そうとする様に額に汗を見え隠れさせながら、愛想笑いを浮かべていた。
「あのね、耕一お兄ちゃん……千鶴お姉ちゃんは、お兄ちゃんがいつ帰ってきても大丈夫な様にって、お正月から休みなしでずっと新年の挨拶回りをしてたんだよ」
「え、そうなの?」
「だからお姉ちゃん、明日から三日間はお休みなの。これでようやく耕一お兄ちゃんとラブラブ出来るって、朝とかすごくウキウキしてたんだよ」
「初音までっ!」
 梓に続いて、初音からの隠された真実の暴露によって、耕一の中で穴が空いたままだったパズルのピースがまたひとつ、埋められてゆく。
「それに……今日の一件は、全部千鶴姉さんの指示でしたから」
「楓……あなたまで……」
「耕一さんが戻ってこられたと――初音から千鶴姉さんに電話があって、そこから私と梓姉さんにも連絡が来たんです」
 そこで初めて思い出す。
 買い物に出かける前、初音が一度家の中に戻って行った事を。
 やけに動揺している風だったので気にはなっていたが、その時は予期せず自分と出会ったのが理由で慌てているのかと思っていた。
 なるほど、千鶴からの指示を仰ぎに戻っていたのであれば合点の行く話だった。
「耕一さんが戻られるまでに……全員分の晴れ着の着付けと、お料理を準備する時間を稼ぐ必要があったので……順番に耕一さんの足止めをしてました」
「んー、つまり今回の件の首謀者は……千鶴さんって事?」
 こくり。
 数の子を口に含みながら、楓が小さく頷く。
 ちらりと、目線だけ千鶴に向けてみる。
 梓への縛めを解き、いつの間にかぴしりと正座をして澄まし顔を浮かべた千鶴は、何事も無かった様子でにっこり微笑んだかと思うと、
「さ、耕一さん。お酒ばかりじゃなく、お節もお雑煮も食べてください。ぜーんぶ、我が家のお手製なんですよ」
 サッカー選手も顔負けな、スルーテクニックを見せつけてくれた。
 じー。
 にこにこ。
 じじー。
 にこにこにこ。
 じじじー。
 にこにこにこにこ。
 結局、先に折れたのは耕一の方だった。
 元々深く追及するつもりもなかった耕一としても、この辺で話題を切り替えた方がいいかと思っていたところだったので、苦笑しながら、
「分かりました。では、早速――」
 まずは一番手近にあった、一の重に箸を伸ばす。
 綺麗に並べられた祝い肴の中から黒豆をひとつ摘み、ぽいと口に放り込む。
「うん、美味い」
「一段目はね、私が作ったんだよ」
「初音ちゃんのお手製かぁ。うん、手作りだと思うとますます美味しく感じる」
「そう言って貰えると、頑張った甲斐があったよ。ありがとう……耕一お兄ちゃん」
 耕一からの褒め言葉に、心底嬉しそうな様子で相好を崩す初音。
 そんな彼女の反応に目を細めながら、耕一は次の重に箸を進める。
「次の二の重は……口取りと酢の物か」
 膾と蕪を、一切れずつ食べてみる。
「もぐもぐ……美味い。じゃあ、こっちはどうかな――」
 今度は栗金団に箸を伸ばしてみる。
「栗も美味しいけど、それより金団が丁寧に裏ごししてあって、すごく滑らかだ。こんな美味しい栗金団……俺、初めて食べたかも。これは誰が作ったの?」
 すると今まで無言でお節を食べていた楓が、ぴたりとその動きを止めたかと思うと、すっと手を上げる。
「なるほど。これはきっと、楓ちゃんだからこそ出せる味わいなんだね。酢の物の方も、程よい漬け具合でグッドだったよ」
「そう言っていだたけると……とても嬉しいです」
 そう言いながら、再び箸を動かし始める楓。
 照れ隠しな事もあって無意識になのだろうが、その箸の動きを耕一の目は……かろうじて残像でしか捕らえる事は出来なかった。
 さて、次。
「三の重は焼き物か」
 まずはお重の真ん中に据えられている、海老に手を出してみる。
 殻を剥き、身を箸で摘んで口に放り込む。
 既に味付けがされているそれは、焼き加減といい味付け具合といい、申し分のない出来映えだった。
 海老の左右に配されている鰤と鯛も、文句なしだ。
「この味付けは……うん、これは梓だ」
「ぴんぽーん。という事で焼き物は、あたしの担当でした」
 親指を立てながら、破顔一笑の梓。
「ちょっと食べない間に、また腕を上げたなぁ。ホントに、見た目と中身がアンバランスなヤツだよ、お前は」
「にゃにおーっ!」
「ははっ、冗談だって。さて、それでは最後のお重は……ん、最後?」
 自分で口にした言葉に、微かな違和感を抱く耕一。
 お節料理の重詰めは、伝統的な作法では五重とされるのが一般的だ。
 既にここまで耕一が食べてきた様に、一の重が祝い肴、二の重が酢の物と口取り、三の重が焼き魚となる。
 五の重は控えとして空っぽなのが作法というかお約束なので、中身が存在するお重は次の四の重が最後になる。
 順番からすればここにはいわゆる煮物――お煮染めが入っているはずだった。
 視線を四の重に移す。
 耕一の予想通り、そこには蓮根、里芋、牛蒡、常節などのお約束の具材が、お重一杯に詰め込まれていた。
 そのお煮染めを見た瞬間、耕一の中を漂っていた違和感が、確信に変わる。
 視線を上げる。
「…………」
 耕一の眼差しの先、そこには千鶴がいた。
 まるで年端のいかぬ少女の如く、両手を胸の前で合わせて期待に瞳を輝かせながら、固唾を飲んで耕一の次のアクションを待っている千鶴が。
 ごくりと唾を飲んだ後、一縷の望みを託して耕一は口を開く。
「一応確認しておくけど、このお煮染めを作ったのは……」
「はい! はい! 私です、耕一さん!」
 やっぱり……そうなのか……。
 心の奥底に、じんわりと絶望という名の黒い染みが広がってゆく。

『千鶴さんの料理は一言――ヤバい』

 それが柏木家における、共通認識だった。
 そして今、耕一の目の前には明らかにその「ヤバい」代物が置かれている。
 助けを求め、視線を泳がせる耕一。
 しかし、現実は冷淡だった。
 ワクワクと――千鶴とは異なった期待の眼差しを浮かべる梓。
 ドキドキと――サスペンスドラマを観ている様な眼差しの楓。
 ハラハラと――耕一の安否を気遣いつつも止められない初音。
 そうか。
 耕一は理解した。
 これは恐らく、自分に与えられた罰なのだ。
 自分の都合で三回も約束を反故にし、大切な四人の家族に悲しい思いをさせてしまった罪に対する、罰なのだ。
 じゃあ……仕方ないか。
 覚悟を決めた耕一は、ひとりごち小さく頷いた後、逆手で持ち直した箸をお重の中に勢いよく突き立てる。
 箸の先に、里芋を突いた時特有の粘り気のある感触が返ってくる。
 ごくりと一度、大きく唾を飲み込んでから耕一は、持ち上げた里芋の塊を口の中へと放り込んだ。
「お味はどう……ですか?」
「もぐ……んぐ……」
 とりあえず、里芋の味がした。
 もしかして――普通に食べられるのだろうか。
「え? あれ? 普通に美味しい……かも」
 耕一がそう言った瞬間、千鶴の顔がぱあっと明るくなる。
「嘘? マジ?」
 逆にあり得ない事態に、目を丸くするばかりの梓以下の三姉妹。
「俺も覚悟して食べたつもりだったけど、ちょっと拍子抜けだなぁ」
「耕一さん! それって、どういう意味ですか?」
「え? あ……あははは。な、な、何でもないですよ、何でも。さぁ次は、この蓮根でも食べてみようかなーっ」
 つい口にしてしまった失言を誤魔化す様に渇いた笑いを発しながら、お重から蓮根をつまみ上げ、含む。
 ……む?
 舌の上に広がる、この世の物とも思えぬ味。
 それはまるで宇宙人が、異次元人が地球人の味を見よう見まねで真似てみた、とでも言うしかない奇妙で奇抜で奇天烈な味。
 ヤバい……耕一が頭の片隅でそう思った次の瞬間。
 一言の言葉も発する暇も与えられず、スイッチが落とされたテレビの様にぷつんと、耕一の意識は途切れた。

                    §

 水底に沈んでいた意識が、すうっと浮き上がるのを自覚する。
「……んっ」
 目を開く。
 最初に視界に飛び込んできたのは天井と、心配そうな眼差しで彼を覗き込んでくる、四姉妹の顔だった。
「あ! 気が付いた」
 初音がそう呟きながら、ほっとした色を浮かべる。
「大丈夫ですか。耕一さん?」
 楓に背中を支えられながら、耕一はゆっくりと身体を起こした。
 そしてきょろきょろと、辺りを見回す。
 柏木家の居間だった。
 そうか……帰ってきてたんだっけ。
 千鶴謹製料理を食べたショックなのか、多少の意識の混乱が見られた耕一だったがそこは慣れた物(?)で、程なく正常な思考を取り戻す。
「変ですね……梓から教わった通り、普通に作ったつもりだったんですけど」
 人ひとりをノックダウンさせたとは思えないくらいけろっとした表情で、頬に手を当てながら小首を傾げる千鶴。
「ごめんな、耕一。千鶴姉なんかを信じて、煮物を任せたあたしが間違ってた」
「ちょっと梓! 『なんか』とは、一体どういう意味!」
「こんな、生物兵器だか化学兵器だか分からない代物を作ってくれる姉風情は、『なんか』で十分だろ!」
「もう……この子ったら!」
 気が付くと、肝心の耕一そっちのけで姉妹喧嘩が始まっていた。
「はい、お兄ちゃん。お水」
「ありがと、初音ちゃん」
 台所から汲んできてくれたらしいコップを受け取り、ぐっとひと息で飲み干す。
「ふぃー……よっと」
 ようやくひと息つけた耕一は、頭上で火花を散らす千鶴と梓を捨て置き、四つん這いの姿勢でその場を離れる。
 そして食卓の前まで移動した後、口直しとばかりにお重から初音作の数の子を一切れ指でつまみ上げ、口の中に放り込む。
 コリコリとした歯ごたえが心地よかった。
「姉さん、元気になってくれて……良かった」
 テーブルの隅の方で、いつの間にか手酌で屠蘇を飲み始めていた楓が、ぽつりと呟く。
 その意味が分からず小首を傾げる耕一に向かって、くすりと口許を緩めて見せると、
「年末からずっと千鶴姉さん、ため息をついてる事が多かったんです。きっと耕一さんに会えなくて寂しかったんじゃないかと……」
 その言葉に促される様に、視線を千鶴に向ける。
 梓相手に、相も変わらず口喧嘩を続けている千鶴の横顔は、とても生き生きとしていた。
 ……やっぱり、こっちの方がいいな。
 車の中で彼女が見せていた能面の様な表情を思い出しながら、耕一は心の中で呟く。
 怒ったり。
 泣いたり。
 笑ったり。
 沈んだり。
 自分より年上のお姉さんのはずなのに、でも時に年端の行かぬ少女の如きあどけない表情を見せてくれたりもする、そんな彼女が耕一は大好きだったから。
 世界中の誰よりも。
「お兄ちゃん、そろそろ止めてあげた方がいいんじゃないかな」
 どう収拾をした物か図りかねるといった様子の初音が、瞳を僅かに潤ませながら耕一の袖を掴む。
「そうだね。んじゃ、ちょっと仲裁に入るとしますか」
 立ち上がった耕一は、今にも罵詈雑言の応酬からから直接武力行使に移行しかけていた千鶴の身体を、背後から抱き止める。
「ほーら、千鶴さん。抑えて抑えて」
「耕一さん! 武士の情けです。止めないでください!」
「やーい、ナイチチナイチチー! 悔しかったら、あたしくらいでかくなってみろってんだ」
「くっ」
 そんな挑発的な言葉を発しながら梓は、両手で自分の胸を持ち上げて見せる。
 思わず脱力しかける。
 料理の出来不出来の件はいつの間にやらそっちのけで、どういう訳か互いの肉体的特徴に論点が移ってしまっていた。
 どちらにせよ、千鶴に不利な点は同じだったが。
 ……何だかなぁ。
 天を仰ぎながら、嘆息する耕一。
 しかし、すぐに口許に笑みをたたえると、
「俺は、千鶴さんくらいのサイズが好みだよ……」
「えっ?」
 千鶴の耳許でそう囁いた途端、彼女の動きがぴたりと止まる。
 やれやれ。
 もう一度、今度は心の中だけで嘆息する。
 どうやら耕一の呟きは梓にも聞こえてしまったらしい、端で見てて分かるくらい急速にやる気を失っていった梓は、
「はぁーっ……らぶらぶ馬鹿っプルには付き合ってられませんな。こら、楓! あんたひとりで屠蘇飲み干してるんじゃないよ。あたしにもお寄越し!」
 既に屠蘇ではなく酒その物になっている液体を飲み始めてしまった。
「ほら、千鶴お姉ちゃんも耕一お兄ちゃんも、早く早く!」
 初音の手招きにどう答えたものか、一度だけ顔を見合わせた耕一と千鶴は、しかしすぐに笑みを浮かべ合うと、
「行こ、千鶴さん」
「はい」
 互いに手を取り合いながら、姉妹の待つテーブルに向かって歩き出した。
「……あ」
 その時、千鶴が不意に小さな声を上げる。
「ん?」
「そう言えば、私だけまだ言ってませんでした……おかえりなさい、耕一さん」
 小首を傾げる耕一に向かって、ちろりと舌を小さく出して見せた千鶴は、照れ臭そうに言葉を紡ぎ出した。
 一瞬、どう反応したものか困ってしまう耕一。
 しかし困惑は一瞬だった。
 すぐに破顔一笑した耕一は、
「ただいま、千鶴さん」
 そう、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめながら言葉を返した。
 握った手の力を、ほんの少しだけ強めながら。
第1話 了

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