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この作品は、株式会社ビジュアルアーツから1999年に発売された『Kanon』の人物・世界設定を使用しています。
また作中に登場する組織・団体・人物の名称は、全て架空のものです。
『ある日の情景』
Update:2009.02.16
第2話「相沢祐一」
昇降口を抜け、屋外に出たところで足を止めた相沢祐一(あいざわ・ゆういち)は、頭上に広がる青空に向かって大きく伸びをした。
「んーっ!」
休憩無しのぶっ続けで二時間以上、パイプ椅子に座り続けるなどという苦行を強いられたせいか、身体のあちこちが油の切れた機械のようにきしんだ。
ホント、寒い眠い痛いの三重苦だったな。
そんな、愚痴とも悪態ともつかない台詞を内心で呟きながら辺りを見渡してみると、どうやら誰もが同じ心境だったのか、似たようなアクションを取る同輩たちの姿が視界のあちこちで見受けられた。
やれやれ……そんな光景を前に、思わず肩をすくめてしまう。
ざわめきが耳を打つ。
肩越しに振り返り、その音源の正体を知って苦笑を浮かべた祐一は、即座にその場から離れることを決断した。
理由は簡単。
たった今、彼が抜け出してきたばかりの体育館の昇降口から、満水状態のダムから緊急放水された水のように、次から次へと生徒が吐き出されていたからだ。
このままこの場に立ち止まっていた日には出口を塞ぐ格好になってしまい、結果、後から来る連中にもみくちゃにされるだろうことは、祐一ならずとも容易に予想ができた。
「……やれやれ」
刻一刻と人口密度を高めつつある人の海を、どうにか無事に泳ぎ渡って中庭にまでたどり着いた祐一は、木立の一本に寄りかかるながら周囲の光景をぼんやりと眺め続けた。
「ゆういちーっ」
その声がしたのは、体育館から尚も尽きることなくこんこんと吐き出され続ける人波の構成要素が、男子から女子に変化を見せてしばらく経ってからのことだった。
世界全体に拡散しかけていた意識を、現実に引き戻される祐一。
一瞬の間を置いてから、声のした方に目を向ける。
どうやら建物の中に押し込められていた生徒たちの大半は既に脱出を終えているらしく、出入り口周辺は週末の歩行者天国もかくやといったカオスと化していた。
その中から祐一は、自らの存在をアピールするように右手をパタパタと振りながら、その場でぴょんぴょん飛び跳ねている女生徒の姿を見出す。
誰なのか、改めて目を凝らすまでもなかった。
声で丸分かりだ。
クラスメイト兼幼なじみ兼同居人の、水瀬名雪(みなせ・なゆき)だった。
距離にして、およそ五十メートルほど。
彼と彼女の間を分かつ空間には、時の流れと共に不規則に離合集散を繰り返す、大小様々な人だかりが障壁として立ちはだかっていた。
一目しただけで、通り抜けに難渋するだろうと分かる混雑ぶりだ。
そして当の名雪はといえば、真っ直ぐこちらに駆けて来ようとしているらしいのだが、人波という人的災害に翻弄されて――ただ単に要領が悪いだけなのかも――その姿は待てど暮らせど一向に大きくならなかった。
「……何やってんだか」
あっちへフラフラこっちへフラフラするばかりの名雪を前に、祐一は「運動神経と要領の善し悪しって、別物なんだな」などと、呆れ気味に思ったりする。
一瞬、こっちから迎えに行ってやるべきか迷う。
しかし、すぐにその考えを却下する。
これがもし名雪以外の誰かだったとしたら、祐一は躊躇うことなく恐らく救いの手を差し伸べていたに違いない。
しかし相手が彼女となると、どうしてだろう……路上パフォーマーのショートコントでも見てるような、そんな気分になってしまうのだ。
面白いから、もうちょっと見てよう。
幾ばくかの思考を経た後にたどり着いた結論。
祐一は結局、名雪が自力でそこを抜け出すまでの間、彼女の悪戦苦闘を生暖かい眼差しと共に見守り続けた。
「ふぅ……ふぅ……はぁーっ。やっと着いたよ」
「なかなか見応えのあるコントだったぞ。六十五点をやろう」
「コントじゃないよー。私、一生懸命だったのに……見てるだけなんて、ひどいよ」
人波にもみくちゃにされている間に乱れてしまった髪を整えながら、不満そうに頬をふくらませる名雪。
そんな予想通りの反応に、つい口許を緩めてしまった祐一は、
「で、どうした?」
「え?」
「いや、声を掛けてきたのはお前の方だろ。俺に何か、用があったんじゃないのか?」
訝しげに問い返す祐一に、一瞬の間を置いてから「あ、そうそう」と思い出したように小さく頷いた名雪は、
「卒業おめでとう、祐一」
満面の笑みを浮かべながらそう、言葉を紡いだ。
「お互いにな」
「うん」
暦の上では、とうの昔に春を迎えている三月半ば。
とはいえ北国のこの町では、まだ桜のつぼみすら芽吹いていない。
そんな冬と春の端境期とでも称すべき今日という日に、祐一たちの高校では卒業式が執り行われていた。
家庭の事情で二年の冬休み明けに転校してきた彼の場合、正味一年三ヶ月と、他の生徒たちと比べれば半分ほどの在籍期間での卒業ということになる。
別に長く居続けたから偉いって物でもなかったろうが、それはさておきいざ卒業という現実を前にすると、祐一とて多少なりとも感慨に似た思いを抱かなくもなかった。
過ごし慣れた日々に別れを告げる不安。
見知らぬ新たな日々を迎え入れる期待。
その両方がない交ぜになって分かち難く結びついた、何とも言葉にし難い感情が祐一の胸の奥を、波間を漂う小舟のようにゆらゆらと揺れ動いていた。
って、何をセンチになっているんだか……。
同時に、そんな自嘲的な思いを抱いたりもする。
ちらりと一瞬だけ空を見上げて目の前の名雪から視線を逸らした祐一は、しかしそれをすぐに元に戻したかと思うとと、いつもとまったく変わらない態度で、
「めでたいのは確かだけど……俺としては名雪、お前が卒業できたことが何より一番のサプライズなんだが」
「えー! どうして?」
「だってお前……毎日毎日、学校でも家でもぐーすか寝てばっかだったじゃないか。これで卒業できるって思う方が、どうかしてるだろ」
その疑問は祐一に限らず、彼女を知る人間全てが共通して抱くに違いなかった。
春夏秋冬三百六十五日、例外なく起きている時間より寝ている時間の方が圧倒的に多い名雪だったが、意外なことに成績はさほど悪くはなかった。
優秀というほどの物ではなかったが、それでもこうして今、祐一と揃って卒業式に出席できたということは、必要最低限なレベルには達していたらしい。
「私だって、祐一の見てないところで努力してたんだよ」
えっへんと、誇らしげに胸を張る名雪。
「うーむ」
それでも半信半疑の祐一だったが、結果が証明しているだけに信じざるを得ない。
「でも、進路が別々になっちゃったのは……ちょっと残念」
「あのな……何だかんだで今日までずーっと同じクラスだったんだから、もう良いだろ。というか、俺は腹いっぱい。もう飽きた」
「そう? 私は、ちっとも飽きてないよ」
「どうせ家に帰ったらまた、嫌でも顔を付き合わせ……って、あ。スマン」
途中まで言いかけて、しまったと苦い表情を浮かべる祐一。
名雪の方も、祐一が途中で言葉を切ってしまったのかの理由は十分すぎるくらいに分かっていた。
そしてそうであるが故に、名雪の表情には微かな陰りがあった。
でも、仕方ないよな……二人の間を何とも言えない気まずい空気が漂う中、祐一は思った。
卒業後、居候先の水瀬家を出ること。
それは三年に進級したちょうど一年前から、祐一にとっては予定でも計画でもない確定した既定の未来だった。
「名雪、あのな――」
「大丈夫」
慌ててフォローの言葉を口にしかけた祐一の声は、しかし明るく朗らかな名雪の声にそれに遮られてしまった。
「私は平気だから。それに祐一が決めたことなんだから、仕方ないよね。でも……たまには家にも顔を出してね」
「そうだな。引っ越すっても同じご町内だし」
「週末とか、ご飯食べにきてくれると嬉しいな」
「秋子さんの飯かぁ。魅力的だけど……例のジャムだけは勘弁な」
「それは、私だって嫌だよ」
そこで互いに目を合わせた二人は、示し合わせたように笑い合った。
「あれ。そういえば、北川君は?」
話が一段落したところで名雪は、ふと思い出したようにきょろきょろと辺りを見渡しながらクラスメイトの名を口にする。
しかし祐一から戻ってきた返答は、あっさりすぎる一言だった。
「知らん」
「わ、親友なのに酷いんだ」
「あのな……式が終わった途端、『お前と一緒だと、第二ボタンをもらおうと俺がひとりになるのを待ってる、恥ずかしがり屋の後輩たちが近寄ってこれないだろ』とか訳の分からんこと口走って姿くらましたヤツのことなんぞ、俺は知らん」
「へー。北川君、モテモテなんだ」
意外そうな顔をする名雪。
しかしそんな彼女に、ため息混じりに人差し指で自分の頭の横をちょいちょいと突いて見せた祐一は、
「んな訳ないだろ。全部妄想だよ、妄想」
「うーん。そんなことないと思うよ。北川君って優しいから、好きになってくれてる後輩の子だって……もしかするといるんじゃないかな……きっと……」
最初は自信ありげな様子だったが、途中から自分で言ってて疑わしく思えてきてしまったのだろう、その口調は時を追って弱々しい物になっていった。
お調子者でマメな上に打たれ強くてめげないヤツ――それが、祐一にとっての北川の率直な印象だった。
出会った時から全く変わらない、良くも悪くもストレートなキャラクターだった。
そういや……アイツ、元気でやってるのかな。
祐一の中で北川とセットで記憶に焼き付けられていた、もうひとりのクラスメイトの顔が思い出される。
三年進級と同時に、誰にも何も告げずに自分たちの前から姿を消してしまった、ほんの数ヶ月だけ一緒だった女生徒。
恐らく名雪の脳裏にも同じ光景が浮かんでいるのだろう、北川の話題でせっかく持ち直しかけた場の空気が、またもやしんみりとした色を帯び始めてしまう。
「水瀬センパーイ!」
遠くから複数の人間が唱和する声がしたのは、その時だった。
見れば十人ほどの女生徒が、やや距離を置いた場所からこちらに向かって遠巻きに手を振っていた。
スカーフの色からすると、どうやら全員一年か二年の後輩らしい。
彼女たちが何の集団なのかをすぐに察した祐一は、
「陸上部か?」
こくりと頷く名雪。
「行けよ」
「え? でも……」
「前部長の門出を、みんなわざわざ祝いに来てくれたんだろ。俺のことはいいから、行ってこいって」
「うん……そうだね。分かったよ」
一瞬だけ逡巡する色を浮かべた名雪は、しかしすぐに祐一に向かって目を細めて見せると頷き返す。
そして、その場から駆け出そうとしたところで小首を傾げると、
「あ……祐一は、これからどうするの。もう帰っちゃう?」
「そうだな――」
辺りを見渡しながら一瞬、考える素振りを見せた祐一は、
「この学校に来るのも今日で最後だし、もうちょっとぶらぶらしてくるかな」
校舎の方を指差しながら、そう答えた。
「ってことで、行くな」
「うん。それじゃあ、またね。祐一」
「縁があったら、また会おう」
そう言ったきり身を翻した祐一は、校舎へと向かって歩き始める。
ひらひらと後ろ手を振りながら歩き続ける彼の背中を追ってきたのは、ちょっと困惑げな因子の混ざった名雪の呟きだった。
「今日はまだ、家で会えるよ……」
§
まるで別世界だな。
人気の失われた廊下をひとり歩く祐一は、窓越しに広がる外界の景色を横目にしながら、頭の片隅でそんなことを思った。
静寂に包まれた世界。
その中をゆっくりと歩き続ける自身の足音だけが、一定のリズムで低く響き渡る。
誰もいない校舎。
省エネで暖房は切られていたが、北国の建物らしく外気を遮断し校舎全体を密閉する構造になっていることもあって、肌に触れる空気は思ったより暖かかった。
でも同時に祐一は、そこにどことなく無機質なものを感じていた。
当然だろう。
人の温もりが存在しない空間の空気とは、そういう物だった。
再び、窓外を目を向ける。
ガラス越しに映る世界の過半を占めている空は、まだ冬の名残を色濃く残す、雲ひとつない凛とした蒼さに満ちていた。
日射しがあるとはいえ、外で長時間を過ごすにはまだ辛い時期のはず。
にも関わらず眼下に広がる中庭には、相変わらず多くの生徒たちで賑わっていた。
性別も、学年もバラバラ。
そこにあったのは、街中の雑踏と何ら変わりのない光景だった。
一方で卒業式という場の空気がそう仕向けているのか、そこにいる人々の多くは判を押したように、その顔に笑顔を宿していた。
ドラマなんかだと、よく担任教師を囲んで生徒たちが涙するシーンがあったりするが、現実は思った以上にドライなものらしい。
ハンカチ片手に泣いている生徒の数は思ったよりも少なく、祐一がざっと見た限り、両手で足りる程度に過ぎなかった。
しょせんは儀式――そういうことなのだろう。
「まぁ……卒業したからって、何が変わるって訳でもないし」
これまで静寂が支配し続けてきた世界に久方ぶりに、言葉の波紋が生じる。
しかしその呟きを受け止めてくれる相手はどこにもおらず、微かに波立った空気はさして時を置くことなく、元の静謐を取り戻してしまった。
どうやら視界を占める学生たちの半ばは、在校生らしい。
男子生徒の方はぱっと見学年の区別が付きにくかったが、女生徒に関しては、学年毎に胸元のスカーフの色が異なっていたから、遠目にもすぐ分かった。
青が三年。
赤が二年。
緑が一年。
実際祐一の瞳には、中庭をキャンバスにそれら三原色が油絵の点描の如く敷き詰められている光景が、ありありと映し出されていた。
主賓である三年生はさておき、二年以下の生徒たちは当日の設営に駆り出された不幸な一部の面々を除けば休講のはずだったから、彼ら(彼女ら)は基本的に自らの意志で登校してきたことになる。
卒業式後――そこからこそが、送る側送られる側のどちらにとっても、本当の意味での式の始まりなのかもしれなかった。
「……ん?」
ふと、眼下に広がる人波の中に見知った顔を見出したような、そんな気がした。
足取りはそのままに、目を凝らしてみる。
名雪だった。
どうやら陸上部の後輩たちに、まだ捕まっているらしい。
こうして上から眺め下ろしてみると、文字通り彼女を中心に人の輪ができているのが良く分かった。
あいつ……意外と人望あるんだな。
などと本人が耳にしたら、
『私、これでも部長さんだったんだからねっ』
間違いなくそんな不満の声を上げるに違いない悪態を、心の中でだけ呟く。
もしかして、俺……羨ましいのか?
次の瞬間、そんな思いが祐一の頭の片隅をよぎるが、しかしすぐに頭を軽く振って自己否定する。
望んで孤独になりたいとは思わなかった。
しかしだからといって、彼女みたいに部活に参加して積極的に人の輪に加わってみるのも性に合わないのも確かだった。
そもそも、現状に特別な不満がある訳ではない。
「ま、人は人……」
誰に言うでもなく、独りごちそんな呟きを漏らした祐一は、軽く肩をすくめてから視線を正面に戻した。
同時に箒で掃き捨てるかの如く、意識の中から窓外の世界の存在を排除する。
相変わらず、人の気配はなかった。
ひとり分の足音だけが、コツンコツンと周囲の空気を震わせ続ける。
もぬけのからとなった教室の横を幾つも通り過ぎてゆくうち、やがて旧校舎へと繋がる渡り廊下が見えてきた。
そのすぐ手前にある階段の前で向きを変えた祐一は、ステップに足をかけ、ゆっくりと上って行った。
三階にたどり着く。
フロアが上がって距離が開いたせいで、外からの喧噪はさっきまでより確実に小さくなっていた。
その静寂の深まりが、祐一の精神を現実とは異なるどこかへ誘う。
現在ではない何処かに。
此処ではない何処かに。
階段を上りきったところで一旦足を止めた祐一は、現在ではないどこかを見つめるように微かに目を細めた。
同時に、心の奥底にずっと封じ込めてあった記憶を呼び起こす。
その途端、ちくりと胸に針を刺すような痛みを覚えた。
それはスイッチ。
うん……無言で小さく呟いた祐一は、渡り廊下に向かって一歩、足を踏み出す。
時間にして数秒。
動き出した時と同じくらいの唐突さで、再び彼の動きが止まった。
そのまま床に片膝を付いた祐一は、何を思ってか右手の人差し指と中指の先をすぐ目の前の床に押し当て、左右に軽くこすり始めた。
リノリウムのひんやりとした感触――それが、彼の指先が覚えた物の全てだった。
恐らくこの場所を担当した掃除当番が真面目にモップ掛けをしたのだろう、廊下は誰の目で見ても非の打ち所がないくらい綺麗に磨き上げられていた。
窓越しに降り注ぐ日射しの下で言葉なく佇み続ける、無機質で硬質な床面。
しかし……祐一の目には、異なる情景が映し出されていた。
暗転した世界。
窓越しに降り注ぐ月明かりの下、ぼんやり浮かび上がる視界。
ずっと走り詰めだったせいで浅く切れ切れなままの吐息。
視界の中でじわりじわりと広がってゆく黒く不定形な染み。
凍てついた空気を通じて鼻孔が微かに嗅ぎ取った……血の臭い。
それは、始まり。
過去の彼と、現在の彼を結びつける、幾重にも枝分かれをした運命と言う名の細い糸が紡ぐ、物語の最初のページ。
一年以上も昔の出来事。
普通だったら、とっくの昔に忘却の彼方に押し流されてしまっても不思議ではないくらいの時の流れ。
しかし今なお瞳に焼き付けられているその情景を、祐一は忘れることができなかった。
色も。
音も。
匂いも。
その全てを、まるで昨日のことのように思い出すことができた。
それは、彼の心に打ち込まれた楔に他ならなかった。
どれくらいの間そうしていただろう、飽きることなく床を擦り続けていた手の動きを止めた祐一は、その場からゆっくり立ち上がる。
「…………」
口を固く結んだまま、じっと床の上に視線を落とし続ける。
そして思う。
今日で最後なのだ。
この場に訪れるのは。
この場を眺めるのは。
この場で立ち竦むのは。
もう、ここに来ることはない。
彼にとって始まりだったはずの場所は、逆にそうであるが故に今では何の必要性もない場所に過ぎくなっていた。
「そうだよな……」
口中で小さく呟き、落としたままだった視線をゆっくりと持ち上げる祐一。
小さくため息をもらす。
そしてその場でくるりと身を翻した祐一は、それきり一度も背後を振り返ることなく、その場を後にした。
§
「よぅ」
次に彼が訪れた場所には、先客がいた。
それは校舎に足を踏み入れてから祐一が出会った初めての、自分以外の存在だった。
「…………」
「…………」
素なのか、それともわざとなのか、相手のあまりの無反応さにリアクションを取るタイミングを失ってしまう。
踊り場から無言でこちらを見下ろす彼女と、階段の途中でそれを見上げる祐一。
片手を上げた姿勢のまま、何となくのお見合い状態。
永遠とも思える瞬き数回分の時間を経た後、やや芝居がかった調子で小さくため息をついた祐一は、
「頼むから、何か反応してくれ」
根負けしたように上げたままだった手を下ろしながら、口を開いた。
「はちみつクマさん」
返ってきたのは、世界でたった二人にしか理解できない謎の単語。
でも、それで十分だった。
要するに最初の沈黙も、こちらから促してようやく得られた奇妙な返答も、どちらも彼女の素のままの反応なのだ。
そう……彼が知る川澄舞(かわすみ・まい)という少女は、そういう存在だった。
「よく俺がここに来るって分かったな、舞」
何を今更。
そんなことを思いながら祐一は、苦笑いを浮かべて見せる。
彼女の行動の突拍子のなさなど今に始まった話ではなかったし、それにいちいち驚いたところで切りがなかった。
「……祐一の考えなんて、全部お見通し」
屋上へと続く階段を上りきった先にある踊り場に、どこか所在なげな様子でひとり佇んでいた彼女は、穏やかな声音で返答を口にした。
眉ひとつ動かさず、当然といった眼差しを浮かべながら。
そんな彼女の頭のてっぺんからつま先まで、まるで品定めでもするようにまじまじと眺め渡した祐一は、
「にしても、お前……何て格好してんだ」
「……?」
微かに眉をしかめた舞は、祐一が何を言わんとしているのか理解できないと言った様子で視線を胸元に落とす。
そして何を思ったか、スカートの裾を摘み上げようとする。
「こらーっ! そんなことしたら見えちまうだろ!」
慌てて彼女の動きを押し止める。
そうでなくとも元々丈の短いスカートだというのに、立ち位置の関係で彼女を見上げる状態になっている祐一の位置からでは、ほんの少し裾が持ち上げられただけで中が見えてしまいそうだった。
この辺りの他人の目に対する無頓着さは、出会って一年以上経った今も相変わらずだ。
「……久しぶりに袖を通したけど、別におかしくないと思う」
「ああ、おかしくはないよな。おかしくは……」
むしろ似合っている。
決して口にする気はない感想を内心で抱きながら、祐一はがっくりと肩を落とす。
「……どこか汚れてた?」
「んにゃ」
頭を垂れたまま、力なく首を振る。
しかしすぐに気を取り直すと、少し芝居がかった調子でビシッと舞の胸元を指差しながら、
「つまりだ! 俺が聞きたかったのは……去年卒業してるお前が、何でわざわざ制服を着てる上に、こんな場所にいるのかってことだよ!」
一瞬の静寂。
祐一が投げかけた言葉の意味を咀嚼するように小首を傾げた舞は、やがて全てを理解したのか小さく頷いてみせる。
一瞬の間を置いて彼女の口から紡ぎ出された回答は、ある意味とても彼女らしい物だった。
「……学校には、制服を着て登校するもの。校則にもそう書いてある」
再び、がっくりと肩を落とす祐一。
「あのな……校則を守らなくちゃならないのは、生徒だけだろ? お前はとうの昔に生徒じゃなくなってるんだから、そもそも規則を守る必要なんてないんだってば」
「元……生徒」
「元が付いてるんだから、適用外」
祐一はキッパリと、有無を言わさぬ口調で言い切った。
どこか不満そうな色を顔に浮かべながら、さりとて反撃の糸口をどこにも見出せずに黙り込んでしまう舞。
……ちょっと言い過ぎたかな。
内心でそう思いながら階段の残りのステップを上り切り、踊り場に足を踏み入れた祐一は、改めて辺りを見渡してみた。
そこには、まるで時の流れから置いてきぼりをくらったみたいに、彼の中の記憶と何ひとつ変わらない光景が広がっていた。
制服姿の自分がいて、そして舞がいる。
……しゃーないか。
口の中でそう呟いた祐一は、意図的に明るめの口調と表情を浮かべながら、
「なぁ、舞。こうしてると、一年前に戻ったみたいだよな」
話題の強引な切り替えを図った。
校舎の階段を上っていった先――屋上の一歩手前にある、狭く小さな踊り場。
ここは祐一と舞、そして佐祐理の三人にとって思い出の場所だった。
一年前の冬。
祐一がこの学校に転入して間もなくの昼休み。
四時間目の授業が終わると速攻で購買でパンを買いに行き、その後この踊り場へ訪れ、三人で和気藹々と昼食を食べた時のこと。
舞の人気回復の策を練って、ない知恵を絞りまくった時のこと。
魔を追って、そして魔に追われてたどり着いた時のこと。
この場所で三人で紡いでいった数え切れないくらい沢山の記憶の欠片が、脳裏にまざまざと呼び覚まされる。
舞のすぐ隣に移動した祐一は、壁に背を押し当てながらその場に座り込んだ。
ちらりと目線を舞に送る。
彼女にしては珍しくすぐにその意を察したのか、無言で頷き返した舞はそのままストンとその場に腰を下ろした。
「そういや、よく制服なんて取ってあったな」
場の空気がやや落ち着いたところで祐一は改めて、舞の服装について口にする。
卒業した以上、普通に考えれば制服を着る機会なんてあるはずもなかったし、その必要が生じるとも思えなかった。
これがもし自分だったら、百パーセント間違いなく卒業の翌日には資源ゴミに出していただろう。
思い出は、記憶の中にだけあれば良い。
どちらかといえば祐一はそう考えるタイプだったから、物に対する執着はあまりない。
でもまぁ、その辺りは人それぞれか……そうフォローの言葉を口にしかけた彼の言葉は、しかし形となることはなかった。
何故なら、彼の機先を制するように舞の方が先に口を開いたから。
「……決めてたから」
「何を?」
小首を傾げながら、問い返す祐一。
そこで一瞬言い淀んだ舞は、
「祐一が卒業する時は……佐祐理と二人、制服で学校に行こうって」
彼女にしては珍しく微かに視線を泳がせながら、しかし淀みない口調で彼からの質問に答えてみせた。
それは、予想外の言葉だった。
だから祐一は思わず、二人して何故わざわざそんなことを――そう問い返しそうになってしまった。
喉まで出かかった疑問。
しかし結局祐一の口からそれが紡ぎ出されることはなく、代わりに出てきたのは、
「……そっか」
その一言だけだった。
「でもそれ、サイズ合ってるのか?」
「……?」
「いやほら、卒業して一年も経ってるんだから太って着られな――ぐはっ!」
全てを言い切る前に、祐一の脳天に舞のチョップが炸裂する。
「祐一は……デリカシーが足りない」
「なーに言ってんだ。俺だってデリカシーの一個や二個、ちゃんとあるぞ。その証拠に、佐祐理さんには絶対にそんなこと言わな――ぐはっ!」
手刀の斬撃、再び。
心なし、一度目より力がこもっている気がした。
「……私には良くて、佐祐理にはダメな理由が分からない」
「だってお前……俺が覚えてる限りこの一年、ずーっと食っちゃ寝食っちゃ寝の繰り返しだったじゃないか。あれで太らない方がおかし――ぐはっ!」
「……人聞きが悪い。それに、やるべきことはちゃんとしてた」
「最後のは、軽い冗談だ」
いい加減同じことを繰り返すのにも飽きてきたのか、側頭部を手のひらで押さえながら祐一がゆっくりと頷く。
「最後だけ……?」
ちらりと、横目で彼の方に視線を向ける舞。
その反応に咄嗟に危険な物を感じたのか、苦笑を浮かべながら祐一は、
「わーったわーった。全部、嘘。これで良いか?」
「……ん」
完全に納得した訳ではなさそうだったが、とりあえず矛は収めてくれた様子だった。
やれやれ。
これじゃあどっちが年上だか分かったもんじゃない――毎度ながら舞に振り回されっぱなしな我が身を振り返り、天を仰ぐ祐一。
しかし見上げた先に空はなく、無機質なコンクリートの塊があるばかりだった。
――くるるる。
そして前触れなく、すぐ横から聞こえてくる聞き慣れた音色。
誰の物か、言うまでもなかった。
「祐一」
「分かった……皆まで言うな」
「……うん」
とりあえず舞を黙らせてから、祐一は考える。
この状況下で食べ物など、持ち合わせているはずもない。
卒業式後、そのまま当てもなく身ひとつで校舎内をぶらついていたのだから、逆に何か持っている方がどうかしている。
ということで、打つ手なし。
時間にして一秒。
「舞、残念だが今の俺にはどうすることも……って、おわっ!」
いつの間にか床の上で姿勢を正した舞が、どこから取り出したのかマイ箸片手にすっかり食事モードになっていた。
「制服だけじゃなく、箸まで持参かよ!」
こくり。
「で、食い物は?」
ふるふる。
「そこまで準備しといて、肝心のブツがないってのはどういう了見だ」
「……お弁当は佐祐理が持ってる」
「はい?」
舞の言葉に、思わず辺りを見渡してしまう祐一。
それこそ次の瞬間、階下から「あははーっ」とお約束の笑みをこぼしながら佐祐理が姿を現すのではないかと、そう思って。
「…………」
「…………」
しかし待てど暮らせど、世界は静けさを保ったままだった。
あれ……ちょっと待てよ。
ややあってから祐一は、舞が口にした台詞に対する疑問を抱く。
腕を組む。
そして目を閉じながら、沈思黙考よろしく思案に暮れる。
時間にして十秒ほど――閉じたままだった目を見開いた祐一は、恐る恐るといった様子で舞に話しかけた。
「なぁ、舞。一応確認しとくが……学校には、佐祐理さんと一緒に来たんだよな」
「……うん」
「でまぁ見れば分かる通り、今はお前ひとりだよな」
「……うん」
「何で?」
それは、真っ先に抱くべき疑問だった。
普通に考えてこんな場所で出くわすはずのない人物が、あり得ない格好で登場してくれたお陰で、どうやら思考のネジが何本か抜けてしまっていたらしい。
祐一からの問いかけに、小首を傾げて見せた舞。
しかしすぐに首の角度を元通りに戻したかと思うとぽつりと、彼女らしい簡潔極まりない回答を口にした。
「途中で……はぐれた」
「それを先に言え、アホーーーーーーーっ!」
§
「あ、舞ーっ! 急にいなくなっちゃうから佐祐理、心配しちゃったよーっ」
十分後。
祐一たちは、中庭の片隅に据えられたベンチに、人待ち顔な様子でぽつんと座っている佐祐理の姿を発見した。
慌てて彼女の許へ駆け寄ると、向こうでも祐一たちの姿を認識したのか、ぱたぱたと右手を振って二人を迎えてくれた。
「……佐祐理、迷子になっちゃダメ」
「見捨てたお前が言うな!」
「あははーっ。ゴメンね、舞」
咄嗟にツッコミを入れる祐一だったが、そんな彼の努力を嘲笑うかのように、佐祐理はあっさり謝罪の言葉を口にする。
舞と佐祐理――この二人の関係も、不思議といえば不思議だった。
ぱっと見の印象では佐祐理が舞の保護者にしか見えなかったが、時として佐祐理の方が舞の庇護下にあるような行動を見せることもあった。
どちらか一方が欠けても成り立たない、パズルのピース。
そんな風に見えなくもなかった。
「何はともあれ、佐祐理さんが見つかって良かったよ」
「人がとても多かったので、佐祐理は動かない方が良いかなと思ったんです。ですのでこうして、ここで待っていたんですよ」
「うむ、賢明な判断だ」
頷きながら祐一は、佐祐理の隣に腰を下ろす。
舞はといえば、佐祐理を挟んで祐一と反対側に既に腰を下ろしていた。
佐祐理を中心に右側を祐一が、そして左側を舞が――誰も何も言わなかったが、それはいつしか三人の間にできていた暗黙の了解だった。
両腕をベンチの背もたれに預けながら、伸びをするように上体を後ろに逸らす祐一。
すると視界の中に佐祐理の横顔と、彼女のトレードマークとも言える大きなチェック地のリボンが飛び込んできた。
舞と同じく、身には制服を纏っていた。
一年前までそうであることが当たり前だった、しかし今では思い出の中でしか存在しないはずの姿。
そして膝の上には、恐らく朝から準備してきたに違いない三段重ねの重箱。
「あ!」
不意に佐祐理が声を上げた。
「ど、どうした?」
「あははーっ。祐一さんにお会いできたら、真っ先に言わなくちゃいけないことがあったのをすっかり忘れてましたーっ!」
「……?」
何のことか分からず小首を傾げる祐一を前に居住まいを正した佐祐理は、軽く身体を捻って上体ごと祐一の方に向き直ると、
「ご卒業おめでとうございます、祐一さん」
満面の笑みを浮かべながらそう、祝福の言葉を口にした。
「え? あ、うん……あ、ありがとう、佐祐理さん」
すぐ目の前にある大切な人の笑顔に魅入られたように心を奪われてしまった祐一は、突然のことに反応に窮しながら、どうにか返事をする。
そして照れ隠しに頭をかきながら、
「何か去年も……似たような会話をした気がするなぁ」
「はい。去年は佐祐理たちが、祐一さんからとっても素敵な祝辞をいただきました。そういえば、覚えていますか? 確か祐一さん、遅刻して来られましたよね」
「う……面目ない」
言われて思い出す。
確かあの時は、途中で寄り道をしたせいで遅れたのだった。
そう、駄菓子屋に寄って――。
「あ、ごめんなさい。別に怒ってる訳じゃないんですよ。だって祐一さんは、佐祐理のためにとっても嬉しいプレゼントを買ってきてくださったんですから。ね、舞?」
佐祐理の言葉にこくりと頷いた舞は、不意に右手を持ち上げて人差し指で引き金を引く仕草をして見せる。
「……水鉄砲」
「ああ、そうだな」
一年前の今日。
春よりまだ冬の色合いの方が濃い寒空の下、佐祐理と舞の卒業祝いと称して祐一たちは、水鉄砲遊びに興じた。
偶然その場を通りがかった、名雪たちも巻き込んで。
「参加メンバー全員が濡れ鼠になるまでやったっけ」
「あははーっ。冷たくて寒くて、でもとっても楽しかったですねーっ」
「……水も滴る良い女」
「あ、それで思い出した。そういや結局あの後、何だかんだで三人で順番に風邪を引いてたんだっけ」
遠い眼差しを浮かべながら、心の奥底から当時の記憶を呼び覚ます祐一。
「誰が最初だったっけ?」
「はいっ! 佐祐理が一番でした」
「……私が看病した」
「で、その風邪をもらって今度は舞が倒れて」
「佐祐理は病み上がりでしたから、舞の看病は祐一さんがされました」
「そして今度は、俺が風邪を引いたと」
「……お約束すぎ」
「あははーっ。祐一さんの看病は僭越ながらこの佐祐理が、責任を持って勤めさせていただきましたーっ」
「そのまま二周目に突入したら、どうしようかと思ったぜ」
苦笑しながら、そんな呟きをもらす祐一。
さすがに抗体ができていたのか同じウィルスによる再感染とはならず、三人の看病合戦は結局そこで沙汰止みとなった。
ただ計算外だったのは斜め向こうに飛び火してしまい、今度は水瀬家(名雪、秋子さん)にウィルスの矛先が向いてしまった点だったろうか。
「しっかりアレだな……二人が制服着てるせいか、この場所だけ時間が一年前に逆戻りしたみたいな気がして仕方ないぞ」
「あははーっ。でも舞も佐祐理も、何だかんだ言ってもやっぱり元生徒なんでしょうね。現役生の祐一さんと比べると、似合ってないみたいですからーっ」
「そうか? 俺の目には全然そうは見えないぞ」
「ふぇ? でもでも、さっきから近くを通りかかる方たち皆さん、こちらを訝しげな様子で見ながら歩いて行かれるのですが……」
彼女の言葉に祐一は、慌てて周囲に意識を向けてみる。
確かに佐祐理の言う通り、三人の側を通り過ぎてゆく生徒は――卒業生も在校生も――判を押したように、どことなく不思議そうな表情を浮かべていた。
どう見ても似合ってるのに……うーむ、何故だ?
しばらくの間、佐祐理たちと他の生徒たちを何度となく見比べていた祐一だったが、さして時を置くことなく答えにたどり着く。
ああ、そういうことか。
合点が行ったようにひとりごち小さく頷いた祐一は、
「佐祐理さん、心配ないよ。二人とも、文句なしに似合ってるから」
「ふぇ? 本当ですか。でも……」
「周りの連中がさっきからこっちを見てるのは、似合ってるとか似合ってないとかそう言うんじゃなくて、ただ単に二人が有名人だからだよ」
「……有名人?」
舞も頭の上に「?」マークを生やしながら、問い質してくる。
「主にお前がな、舞。佐祐理さんを見て顔色を変えたのって、多分去年二年と一年だった連中だと思う。あれだけ派手な騒ぎを起こし続けてきたんだから、一年経った程度で忘れるはずないって」
夜の学校に巣くう魔物を倒すため、ずっと戦い続けてきた舞。
その代償として佐祐理と祐一という得難い理解者を得られた反面、数え切れないくらいの物を失ってきていた。
その他大勢の一般生徒たちからの信用も、そのひとつだった。
佐祐理を見て訝しげな色を浮かべた生徒たちは皆、まだ覚えていたのだ。
一年前、校舎のあちこちを壊して回っていた三年の女生徒と、その娘を最後まで信じて擁護し続けたクラスメイトの存在を。
そしてとっくの昔に卒業したはずのそんな彼女が、まるでもう一度卒業式に臨んでいるかのように、制服姿で校内にいることを変に思ったのだろう。
分かってしまえば不思議でも何でもない話だった。
「あははーっ。舞、佐祐理たちが有名人だったなんて、ちょっと照れちゃうねーっ」
「……サインは順番に」
「アホ。んなもん、札束積み上げられたっていらんわ」
どこまで冗談なのか分からなかったが、とりあえずお約束のツッコミをしておく。
「それはさておき――せっかくだし、今年もやるか?」
二人の顔を交互にのぞき込みながらそう、悪戯っぽい笑みを浮かべて見せる祐一。
こんなこともあろうかと――と、某宇宙戦艦の技師長よろしく言いたいところだったが、残念ながら祐一もそこまで用意周到ではなかった。
まぁ去年行った駄菓子屋へ行けば、必要物資の調達は可能に違いない。
名雪はすぐ見つかるだろうし、妄想に囚われて第二ボタンを押しつける相手を探し求めているはずの北川も(相手が見つからないのだから)まだ校内にいるはず。
そこまで考えた後、返事も待たずにその場から腰を浮かせかけた祐一だったが、しかし当の佐祐理は予想に反して小さく首を振ったかと思うと、
「あはは。お誘いは嬉しいのですけれど、せっかく持ってきたお弁当を濡らしてしまうといけないので、今年は遠慮しておきますね」
「そか……って、あれ?」
祐一は、そこで初めて気がつく。
二人が制服を着ていたせいで、ここまでさほど違和感を抱かなかったが、よく考えたら卒業式の日にどうして弁当を持ってくる必要があるのだろう。
しかも三段重という、かなり本格的な代物だ。
時計を見る。
お昼には、さすがにまだ早すぎる時間だった。
そういえば……祐一は思い出す。
さっき踊り場で箸を持ち出してきたところを見ると、舞も佐祐理が弁当を用意してきていること先刻承知だったのだろう。
なるほど、そう考えると舞があんな場所にひとりでいたのも、あそこで待っていればいずれ佐祐理がお重を持って来る――そう独り合点していたからかもしれなかった。
「佐祐理さん? あのさ……」
そこまで言いかけたところで、祐一が何を聞きたいのかを全て理解したらしい佐祐理は、
「祐一さん。ひとつ、お伺いしてもいいですか?」
逆にそう、問い質してくる。
その瞳には、彼女には珍しく微かな不安の色が見え隠れしていた。
急にどうしたんだろう……そんなことを頭の片隅で思いながら、祐一は頷き返す。
「え? ああ、構わないぜ」
「祐一さんは今日、これから何かご予定はありますか?」
「んにゃ。むしろ佐祐理さんたちと合流したら、これからどうするか相談しようと思ってたくらい何の予定もない」
その返答を耳にした途端、佐祐理の表情がぱっと明るくなった。
どうやら、今の回答で満点だったらしい。
「では祐一さんさえ良ろしければなのですけど……これから、佐祐理たちと一緒にお出かけしませんか?」
「出かけるって、外に?」
「はい」
「そりゃ全然構わないけど、この時間だと……カラオケとか?」
弁当持参だからさすがにファミレスは無理だろうし、あぁでも持ち込み不可って意味ではカラオケにしたって一緒か――そんなことを思う祐一に戻ってきた佐祐理の答えは、予想外の物だった。
口許をきゅっと引き締め、普段、祐一たちにも滅多に見せることのない真剣な眼差しを浮かべながら小さく首を振った佐祐理は、
「今日、どうしても一緒に行きたい場所なんです」
落ち着いた声音でそう、言葉を紡ぐ。
無論祐一に、佐祐理のその願いを断る理由があるはずもなかった。
§
気がつけば周囲の景色から、すっかり街並みが消え去っていた。
立ち並ぶ家屋の壁面の連なりに代わって、枝幹を残して葉の全てを失った落葉樹とやや生気を失った印象を受ける常緑樹が生い茂る光景が目に付く。
いつの間にか、随分と町外れまで来ているらしかった。
「佐祐理さん。弁当、俺が持とうか? ずっと持ったままじゃ、さすがに歩きにくいだろうし疲れるだろ」
「あはは、平気ですよ。それにお弁当運びは、佐祐理の役目ですからーっ」
学校を後にして十五分。
その間、風呂敷に包まれたままのお重は佐祐理がずっと持ち続けていた。
料理に関しては妥協も手抜きも一切しない彼女のことだから、器の中には隙間なく白米とおかずとデザートがぎっしりと詰め込まれているだろうことが、容易に想像がつく。
それはつまり、佐祐理が今両手で持ち続けている荷物はそれなりの重量を有しているということを意味していた。
「それにほら……舞でさえ荷物持ちしてるのに、俺だけ手ぶらってのはなぁ」
そんなぼやき混じりの言葉を口にしながら祐一は、数メートル前を歩いている舞の方に視線を送る。
祐一と佐祐理の会話を気にした風もなくマイペースで歩き続ける舞の肩には、大きめの魔法瓶タイプの水筒が釣り下げられていた。
出がけに、佐祐理から託されたアイテムだ。
お重の方の中身が洋食メインなら紅茶が、和食メインなら日本茶が、そして中華なら烏龍茶が入っているに違いなかった。
「祐一さんは今日の主役なんですから、荷物持ちなんてさせられません」
「主役……ねぇ」
「あははーっ。去年は、佐祐理たちがお姫さまになりましたが、今年は祐一さんが王子さまなんですよーっ」
「ぶっ。お、王子さま?」
佐祐理が口にした突拍子のない一言に、思わずオウム返しに問い返してしまう。
「はい。だって祐一さんは、佐祐理と舞の王子さまですから」
「…………」
あからさまに恥ずかしい台詞を何のてらいもなく面と向かって言われてしまうと、逆に聞かされた祐一の方が恥ずかしくなってしまう。
祐一自身は別に王子さまになりたいとか、そんなことは思っていなかった。
大切な人を感じたい。
大切な人を守りたい。
大切な人を愛したい。
彼が望んでいたのは、ただそれだけ。
「あっ! 舞ーっ、そっちじゃないよ。そこの角は右だよ、右ーっ!」
不意に声を上げる佐祐理。
その声に、思考の淵から現実に引き戻される祐一。
見れば、少し先で三叉路になっている道の左側に足を踏み出しかけていた舞の姿が、瞳に映し出された。
佐祐理の制止の声に「だるまさんがころんだ」でもしているみたいに舞は、片足を上げた姿勢のままぴたりと身体の動きを止めている。
と次の瞬間、片足だけで器用にバランスを取りながら身を翻したかと思うと、何事もなかったように右側の道に向かって歩き出した。
「……分かった」
「って、お前。道分かってなかったのかよ!」
こくり。
肩越しに振り返りながら、無言で頷く舞。
「行き先は……佐祐理が知ってる」
道理でさっきから、曲がり角に来るたびにちらちらと佐祐理の方に目を向けては、道を確かめるような仕草を見せていた訳だ。
てっきり記憶に自信がないから確認をしているのかと思ったら、それ以前の問題――そもそも行き先すら知らなかったらしい。
やれやれ……ため息を漏らした祐一は、佐祐理に顔を向ける。
じーっ。
じじーっ。
じじじーっ。
無言のまま、彼女に向かって言外に訴え続ける祐一。
そんな穴が開きそうなくらい真っ直ぐな眼差しに、恥ずかしげな様子で微かに頬を染めて見せた佐祐理は、
「あはは」
そう、小声で照れ笑いを浮かべて見せた。
しかし困ったことにそれ以上の言葉は、いくら待っても彼女の口から紡がれない。
……うーん。
どうやら佐祐理には、この場で行き先を教えるつもりはない様子だった。
お嬢様然とした風貌と物腰柔らかな立ち居振る舞いのお陰で、ぱっと見には押しには弱そうな印象を抱かれることの多い佐祐理だったが……その実、一度こうと決めたらテコでも動かない頑固な一面があった。
その彼女が何も言おうとしないのだから、今この場でこれ以上何を言ったところで徒労に終わるに違いなかった。
きっと何か理由があって、二人に行き先を告げないのだろう。
ま、いっか。
内心で呟きながら、祐一は苦笑を浮かべる。
そっちの件は、あともうしばらくすれば嫌でも分かる話だ。
それより、この手持ち無沙汰な状態を何とかしないと……そう考えた祐一は、いつしか緩やかな傾斜を描き始めた道を先行する舞に声をかける。
「おーい、舞。ストップストップ。ちょっと、こっちに戻ってこい」
ちょいちょいと手招きをすると、待つほどもなくUターンしてきた。
「……何」
「このまま歩き続けるだけってのもつまらないだろ? だから、三人でちょっとした賭けをしないか?」
「ふぇー、賭けですか?」
二人とも、祐一の言葉の意味が理解できない様子だ。
互いに目を合わせた後、小首を傾げている。
「あそこに信号があるだろ?」
そう言って腕を上げる祐一の指先には、歩行者用信号機があった。
距離にして二百メートルほど。
郊外の交通量もさして多くない道なのだろう、その先にも数百メートルずつの間隔を置いて信号機が設置されていた。
「はい、ありますね」
「んで今ここには、舞の水筒と佐祐理さんの重箱と俺の卒業証書入りの紙筒という、持ち替え可能な荷物がある」
「……ある」
「ここまで言えば分かるだろ。な、舞?」
返答はない。
代わりにあったのは、再び小首を傾げる舞の姿だけ。
「えーっと、じゃあ佐祐理さん。俺が何を言いたかったか分かる……よな?」
「あははーっ」
今度は返事があった。
しかしそれは、祐一が求めている物からはほど遠い代物だった。
「えーっと、二人とも。小学校の頃、下校中にじゃんけんして負けたヤツが勝ったヤツの荷物をひとりで全部、次に信号がある場所まで持っていく遊びとかしなかった?」
「…………」
「はぇー」
「ゴメン、俺が悪かった」
今更のように当時の記憶を掘り起こしてみると、その遊びをしていたのは男子ばかりで、女子の姿は皆目見当たらなかった。
加えて、相手が佐祐理と舞だ。
二人とも(方向性は違うにせよ)良くも悪くも、真っ当な小学生としての日々を送ってきたとも思えなかった。
「ルールは今、説明した通りだ。OK? という訳で、まずはあの信号までな。それ、じゃんけんぽん!」
この手の話は勢いだ。
有無を言わさず、強引に話を進める。
そんな祐一の勢いに引きずられてか、三人の右手がタイミングを揃えて差し出された。
祐一と佐祐理はグー。
舞がチョキ。
「……負けた」
「うむ。では舞、荷物を頼んだぞ」
「舞、ごめんねー」
初めから持っていた水筒は肩掛けのまま、佐祐理のお重を両手で抱え持った舞は、最後に祐一の紙筒を小脇に挟んで歩き出した。
が、すぐに立ち止まる。
「どうした、舞」
「持ちにくい」
どうやら、紙筒の位置が安定しないのが気になるらしい。
「お重の上にでも置くか?」
それはそれで転がり落ちそうになって気になるような気がしたが、とりあえず他に良い案も思い浮かばなかった。
少しの間、何か考えるような素振りを見せた舞は、やがて、
「……首のところから、背中に入れて」
「アホっ! 制服だから、抜け落ちるに決まってるだろ!」
「しまった……今日はジーンズじゃなかった」
「あははーっ」
結局紙筒は小脇に抱えたまま、舞にしてはやや頼りなげな足取りではあったが無事、次の信号まで到着。
そして二回戦。
「……じゃんけん、ぽん」「ぽん」「ぽんっ!」
佐祐理がグー。
祐一と舞はパー。
「あやや……負けちゃいました。それでは今度は、佐祐理が運ぶ番ですねーっ」
「佐祐理、頑張れ」
「無理せずゆっくりでいいからな」
やはり大荷物故にバランスが取りづらいのか、あっちにふらふらこっちにふらふらと、端で見ている祐一と舞の方がハラハラする佐祐理の足取り。
それでも転んだり車道にはみ出たりすることなく、第二走者の佐祐理も無事ゴール。
三回戦。
「あはは。じゃんけんぽんーっ!」「ぽん」「……ぽん」
祐一がパー。
佐祐理と舞がチョキ。
「ぐはっ。今度は俺か」
どうやら微妙に実力が伯仲しているらしい。
でもまぁ、その方が勝負が白熱していいのか……そんなことを思いながら、佐祐理から渡された荷物を手に祐一は次の信号に向かって歩き出した。
「祐一さん、重くありませんか?」
「平気平気。これでも一応男なんだから、これくらいへっちゃらだって」
実際、手にした荷物は軽々という程ではなかったが、持ち運ぶのに難渋する程重い訳でもなかった。
第一、距離が距離だ。
疲れを感じるより先に、お役御免になってしまうに違いなかった。
「あ、舞。そこの角を左に曲がってね」
佐祐理が数歩先を進む舞に、角を折れるよう声をかけたのは、祐一にとってのゴールとなるはずの信号機から一ブロック手前の交差点でのことだった。
「え?」
予想外の展開。
……いや、でもまぁ信号くらいすぐ見つかるだろ。
そう思いながら角を折れた祐一の視界に映し出されたのは……急坂と呼ぶに相応しい勾配を持つと同時に、信号の「し」の字も見出せないどこまでも続く一本道だった。
「祐一さん、この道を真っ直ぐ行った先が目的地なんですよ」
ようやく行き先がどこなのかを告げることができたからなのか、横合いからひょいと顔を覗かせながらそう告げる佐祐理の表情はにこやかだった。
しかしそれを聞かされた祐一の方はといえば、心中穏やかではいられなかった。
マジか。
思わず背筋を冷たい物が流れる。
体力には自信があった。
とはいえこの、どこまで続くのかすら分からない坂道を前にして、果たしてHPがゼロになる前にゴールにたどり着けるのだろうか。
ぐるぐると様々な思考が脳裏を浮かんでは、泡沫のように消えてゆく。
「……了解」
しばしの逡巡の後、祐一の口から紡ぎ出されたのは、その一言だけだった。
§
坂道を歩き続けること、十五分。
案の定その間、信号機の姿を見ることは一度としてなかった。
「ぜぃ……ぜぃ……」
最初のうちこそ、祐一は我が身の運のなさ嘆いたりもした。
しかしこのどこまで続くか分からない一本坂に、どうやら信号が全く存在しないことに途中で気付いた佐祐理が、
「祐一さん、お疲れでしょうから佐祐理が代わりますよ?」
そう言い出すようになってからは、考えようによっては運が良かっのかもしれないと、そう思い直し始めていた。
元はといえば、自分だけ身軽なままという状況を何とかしたくて始めた遊びだった。
つまり「信号がない=交替の必要がない」と考えれば、実質荷物係を請け負った形になり結果オーライということになる。
荷物自体は、祐一の腕力からすればさほど重い物でもなかった。
それでも坂道を上りながらとなると、平地を歩いているのと比べて格段に疲労の蓄積具合が高くなるのは避けられない。
さすがに、ちょっとヤバイかも……祐一の横を歩いていた佐祐理の足が止まったのは、内心でそんなことを思い始めた矢先だった。
「ん? 俺……まだ平気だぞ」
自分に気を遣って立ち止まったのかと早合点して、半分は見栄でそんな強がりを口にした祐一だったが、佐祐理から戻ってきた返答は彼の予想とは異なっていた。
「あはは。到着しました」
「え?」
慌てて、落としたままの視線を持ち上げる。
「……お寺」
同時にすぐ横に佇む舞が、ぽつりと呟く。
彼女の言葉通り、目の前には静謐な空気を漂わせる古刹の門構えがあった。
それは祐一にとって初めて見る風景だった。
……ここはどこだ?
当然ともいえる疑問が、浮かび上がる。
「祐一さん、お疲れさまでした。ここから先は、佐祐理が荷物をお持ちしますね」
そう言って深々とお辞儀をした佐祐理は、祐一の返答も待たずにお重の入った風呂敷包みを彼の手からそっと持ち去ってゆく。
「さぁ、こちらです」
それだけを口にした彼女は、祐一の疲れ具合をおもんばかってか、ゆっくりとした足取りで門をくぐり抜け、境内へと足を踏み入れた。
「えっと……はい?」
完全に佐祐理のペースになってしまい、ことの成り行きに付いて行けない祐一。
もしかしたら舞は佐祐理から何か聞かされているのかと思い彼女に視線を向けるが、どうやら舞は舞で祐一に対して同様の疑問を抱いていたのか、訝しげな眼差しを彼に向けて返してくるばかりだった。
結局のところ、佐祐理の後に付いていくしかないようだった。
ため息混じりに肩をすくめた祐一は、舞を促して佐祐理の後を追うことにする。
丘の斜面に設けられた境内はさほどの広さはなく、小振りな構えの本堂と庫裏があるその先には、石積みの階が設けられていた。
迷う素振りも見せずに、真っ直ぐその石段の方へと歩いてゆく佐祐理。
「なぁ、舞。お前、ここがどこか知ってるか?」
「……私も初めて」
ふるふると首を振る舞から戻ってきた言葉は、予想通りの物だった。
どうやら佐祐理は、今日何の目的でわざわざこんな町外れの寺にやって来たのかを舞にも伝えていないらしかった。
そもそもここに来ることに、一体どんな意味があるのか。
もしかすると寺は単なる通り道に過ぎず、抜けた先に弁当を広げるのに適した公園でもあるのかもしれない。
あるいは、石段を登り切った丘の頂が展望台になってるのかもしれない。
どちらも可能性はあまり高くない気がしたが、与えられている情報があまりに少ない現状、その程度の想像力を働かせるのが精一杯だった。
石段は、鬱蒼と生い茂る木々の合間を縫うようにして設けられていた。
木漏れ日が射し込んできているお陰で、思ったよりも歩きやすい。
上り続けていると時折道が二手に分かれている場面に出くわしたりもしたが、慣れた様子で分岐路を抜けてゆく佐祐理の姿から、彼女がここに何度も来ているらしいことだけは祐一にも理解できた。
数メートル先を歩く、彼女の背中。
しかし何故か今、その背中に向かって声をかけるのが躊躇われた。
「佐祐理さん」
いつも通りに、そう声をかけるだけなのに。
拒絶されている訳じゃない。
どちらかといえば「もう少しだけ待ってください」と、そう言外に訴えかけてきているように感じられたのだ。
舞も同じ思いなのか誰もが無言のまま、石畳を叩く三人分の足音だけが低く小さく周囲に響き続けた。
風に揺れる葉の音色が足音をかき消すように時折、かさかさとさわめく。
「え……」
不意に、佐祐理の姿が視界の中からふっと消え失せた。
「佐祐理さんっ!」
考えるより先に、身体が反応していた。
無意識のうちに叫び声を発しながら石段を二段飛ばしで駆け上がった祐一は、一瞬前まで彼女がいた場所へと飛び込む。
変化は唐突だった。
木漏れ日だけを頼りに歩いていた道が突然、白日の下に曝け出された。
「っ!」
急な変化に目が付いて行けず、視界が白一色に染め上げられてしまう。
慌てて手で目を庇う。
待つほどもなく、失われた視界は元通りの色彩を取り戻した。
そして瞳に映し出される光景に祐一は、再び言葉を失ってしまった。
斜面を覆っている林の一角が切り欠かれ、幅数メートル、奥行き十メートルほどの小さな広場が形作られていた。
その広場の斜面側の一辺に、石積みのオブジェが一定の間隔を置いて据えられていた。
墓石。
そこにあったのは、まさしくそれだった。
「祐一さん……舞……」
佐祐理の声。
見れば彼女は、一番奥にある墓石の前で足を止め、真っ直ぐこちらを見据えていた。
そしてその顔にはいつも朗らかな彼女と異なり、どこか翳のような物を感じさせる色が見え隠れしていた。
それは今いる、この場の空気がそう感じさせたのかもしれなかった。
墓地特有の厳粛さと静謐さと沈鬱さがない交ぜになった……そんなどこか重い雰囲気を纏った空気が。
「何も言わずにこんな場所まで連れてきてしまって、ごめんなさい」
唐突にそう切り出した佐祐理は、深々と頭を下げる。
そんな彼女に舞は、間髪置かずに答えた。
「佐祐理が望む場所なら、私はどこへでも行く。だから……佐祐理が謝る必要はない」
舞の言葉に、祐一は全く同感だった。
だから大きく頷きながら、
「俺だって、舞と同じだぞ。佐祐理さんが何も言わないなら、きっと理由があるんだろうと思うけど……でも、もし理由なんてなくたってどこへだって一緒するぜ」
「あはは。二人とも、ありがとうございます」
二人の言葉に少しだけ心が軽くなったのか、佐祐理は強ばっていた表情を微かに緩ませた。
そのことに内心でほっと安堵の吐息を漏らした祐一は、
「それで結局、ここはどこなんだ?」
きょろきょろと辺りを見渡しながら訊ねた。
いつの間にか随分高い場所にまで来てしまったらしい、つい先刻通って来たばかりの本堂の屋根が、視界の遥か下に映し出されていた。
「ここは、佐祐理のご先祖さまをお祀りしている場所――倉田家の菩提寺です」
「菩提寺……」
倉田家が結構な家柄らしいことは知っていたが、さすがに菩提寺まで持っているとは予想外だった。
ということは、ここにある墓は全部倉田家所縁の人たちの物なのだろう。
でもなんでそんな場所に自分たちを……そこまで考えたところで祐一はハッと、ひとつの可能性に気がつく。
視線を佐祐理から、その横に佇む墓石へと移す。
恐らく寺人による手入れが普段から行き届いているのだろう、風雪をあまり感じさせない光沢を放つ、やや小振りな印象の墓石だった。
距離があるせいで、墓碑までは読み取れない。
「じゃあ佐祐理さん、もしかしてその墓は……?」
恐らく正解だったのだろう。
寂しげな様子で一瞬だけ目を伏せた彼女は、しかしすぐに顔を上げて祐一の瞳を真っ直ぐに見据える。
そして、ゆっくりと頷き返しながら、
「弟の――一弥のお墓です」
穏やかな口調でそう、返答を口にした。
§
「お盆とお彼岸のこの時期、佐祐理は毎年ここに来ていました」
そう言いながら、身体を墓石の方へと向ける。
そして再び目を閉じながら、物言わぬ墓石に向かって首を垂れると、
「生前、佐祐理は何ひとつ姉らしいことをしてあげられませんでした。もちろん、こんなことでその埋め合わせができるとは思っていませんでしたが……一弥がいなくなった後、佐祐理がどんな風に日々を過ごしていたかを、時々報告にきていたんです」
祐一は思い出す。
それはまだ佐祐理と舞に出会って間もなくの一月の終わり、二人との仲が少しずつ深まっているのを自覚できるようになった頃の出来事を。
雪で真っ白に染まった通学路。
そこで佐祐理が話してくれた、彼女が敬語を使わずに話をしたただひとりの異性と紡いだ、嬉しさと悲しさ、そして痛みを伴う記憶の欠片。
弟の……一弥との思い出。
「報告といっても最初の何年かは、話せることは何もありませんでした。こうしてお墓の前で、ただじっと立ち尽くしているだけでした。だって佐祐理は、あの頃から本当に何にもできない女の子でしたから。自分じゃない自分が、自分に代わって毎日を過ごしてくれていただけでしたから」
まだ幼かった彼女の心は、一弥の死の責任をひとりで背負い込むにはあまりに小さく、脆すぎた。
だから彼女は、自分という存在を切り分けた。
乖離という心的機制を用いることで。
倉田佐祐理という個体を客観視するもうひとりの自分を生み出し、そこに自分の存在を仮託することで心の平衡を保とうとした。
そうすることでしか、弟の失われた世界の中で生きていく術が見出せなかったから。
「でも……中学を卒業して、高校に進学して佐祐理は初めて、一弥に報告することができたんです。一緒に幸せになりたい、一生懸命に幸せになりたい人と出会えたんだよ、って」
舞との出会い。
一年二ヶ月前、祐一が初めて出会った時の佐祐理に変化することができた、彼女にとってとても大切な出会い。
すぐ側で、微かに空気が揺れるのを感じる。
横目で見ると、佐祐理の言葉に同意するように舞がコクコクと小さく頷いていた。
「それからは、ここに来るたびに一弥といっぱいお話をしました。お姉さんは頑張ってるよ、笑ってるよ、幸せだよ……って」
まだ雪が残る春霞む空の下で。
蝉時雨の降り頻る夏空の下で。
薄を揺らす秋風吹く空の下で。
彼女は弟に伝え続けてきたのだ。
今の自分のありのままを、幸せになろうとする努力のその全てを。
「四年前、幸運にも佐祐理は舞という大切で大好きな親友と巡り会うことができました。だからこれ以上幸せに思うことなんてないと、ずっとそう思っていました。でも幸せには、まだ続きがあったんです」
閉じたままの佐祐理の瞳が見開かれる。
そしてその眼差しを、ゆっくり祐一の方に顔を向けると、
「佐祐理は……祐一さんと出会いました」
そう、たおやかな笑顔を浮かべて見せた。
「佐祐理は、本当に何にもできない子です。今までも、そしてこれからも二人に迷惑をかけ続けるに違いありません。でも祐一さんは、そんな佐祐理を相棒――パートナーとして選んでくださいました。親友と相棒――弟を失った正しくなかった姉は一緒に頑張れる、頑張って行ける大切な人たちを見つけられたのです」
こちらに向き直りながら、その場から歩き出す佐祐理。
一歩一歩、祐一たちの許へと近付いてくる。
「二人から三人になった後も、色々なことがありました」
視界の中の佐祐理の姿が、少しずつ大きくなってゆく。
「春には、三人で集めた桜の花びらのベッドでお昼寝をしました」
覚えている。
それは卒業後、二人が同じアパートで暮らし始めて間もなくの頃の出来事だ。
春の陽気に誘われて三人揃って見事撃沈した挙げ句、どんな偶然が作用したのか目を覚ますと舞ひとりだけ花びらの中に完全に埋没してしまって危うく窒息死させるところだった――心臓に悪い思い出。
「夏には三人で海に行ってスイカ割りをしたり、沖まで競争したりしました」
元のスペックの違いが効いたのか、競泳は舞の圧勝だった。
そしてリベンジを誓ったスイカ割りだったが、目隠しをしているにも関わらず、まるで全て見えているかのように確かな足取りで歩く佐祐理に勝てず惨敗。
やけ食いよろしく、割った後のスイカと海の家のラーメンと焼きそばとかき氷とお好み焼きを胃袋に詰め込みまくって酷い目に遭った――ほろ苦い思い出。
「秋には集めた落ち葉でお芋や栗を焼きました」
最初は芋だけだったのに、どこからか手に入れてきたらしい栗が追加された途端、サバイバルゲームに早変わりしてしまった落葉焚き。
まさか栗が爆ぜて、たき火の中から飛び出てくるとは思いもよらなかった。
実は未だに、腹に一発もらった栗の痣がうっすら残っているという――悪夢の思い出。
「冬にはかまくらを作って中でお餅を食べたりもしました」
調子に乗って、家から持ち出したカセットコンロを使って中で雑煮や鍋を始めたものの、どうやらかまくらの作りが甘かったらしく途中で見事屋根が崩落、雪まみれで三人顔を合わせて笑い合った――楽しい思い出。
全部全部、ちゃんと覚えていた。
春も。
夏も。
秋も。
冬も。
どんな時だって、三人一緒だったから。
「あれから一年が経ちました」
二人のすぐ目の前で足を止めた佐祐理が、祐一の顔を見上げながら口を開く。
「今日は祐一さんの卒業式」
「ああ、そうだ」
それまでずっと、佐祐理の独白に耳を傾け続けるばかりだった祐一が、小さく頷きながら久方ぶりに口を開く。
「明日からは佐祐理と舞と祐一さんの、三人での生活が始まります」
「荷造りはまだ終わってないけどな」
「あはは。それに来月からは、学校でもまた三人一緒です」
卒業後の進路として、祐一は就職ではなく進学を選んだ。
理由は簡単。
二人ともう一度、同じキャンパスを歩きたかったから。
祐一が出会った時、彼女たちは卒業を目前に控えた三年生で、三人が校内で同じ時を過ごすことができたのは二ヶ月に満たない期間に過ぎなかった。
学年も違えばクラスも違う、何故知り合えたのかすら不思議な奇跡的な関係。
だが、そうであるからこそ祐一は彼女たちと同じ目線で、同じ道を歩くことを望んだ。
そんな祐一の希望を、彼女たちが拒む理由はなかった。
むしろ、待ってくれていたのだ。
二人と同じ場所に立つために、祐一が全力で追いかけてきてくれるのを。
佐祐理にしても舞にしても、卒業時の成績は非の打ち所のない優秀な物だったから、進学については何の障害もなかった。
むしろ、問題は祐一の方だった。
落ちこぼれ、という程には悪くはない――それが祐一の成績を表すのに最も適した表現だった。
一生で一番机にかじりついていた年だったな。
既に過去の物となったこの一年を振り返って祐一は、心の底からそう思った。
「今までひとりで来ていたこの場所に今日、祐一さんと舞にも来ていただいたのは、これから一弥に報告することを一緒に聞いておいて欲しかったからです」
「同居の件? それとも進学の件?」
祐一の問いかけに、小さく首を振る佐祐理。
そして微かに目を細めながら、少し恥ずかしそうに頬を染めると、
「佐祐理に、大切で大好きで……一緒に幸せになりたいと思える、本当の『家族』が二人もできたことをです」
あぁ、そうか。
その一言で、祐一は全て納得した。
入学してすぐに出会ってから今日まで、ずっと親友だった佐祐理と舞。
凍てつく星空の中を降り注ぐ千里光の下、誓いの口づけを交わした日から今日まで、ずっと相棒であり続けた佐祐理と祐一。
どちらも大切な関係であることは間違いなかった。
しかし、二人ではダメなのだ。
いつだったか、佐祐理の前で口ずさんで見せた歌。
ひとりで泣いて。
ふたりで耐えて。
さんにんで笑う。
そう、それだけで良いのだ。
三人で笑って、三人で家族になる――それはきっと、他人から見れば何でもないことだったかもしれない。
だがそれこそが、今の祐一たちには一番大切なことなのだ。
「……そうだな」
肩をすくめ、苦笑いしながら右手をぽんと佐祐理の頭の上に乗せる。
そのすぐ横を舞が、無言のまますたすたと通り抜けてゆく。
「……舞?」
背中を追う祐一の声もスルーして、つい先刻まで佐祐理が立っていた場所――一弥の墓石のすぐ側で足を止める舞。
そしてスカートのポケットから綺麗に折りたたまれたピクニックシートを取り出したかと思うと墓前に広げ、その一角にちょこんと座り込んでしまった。
「はぇー」
「…………」
どう反応したものか困ってしまう、祐一と佐祐理。
しかし当の舞はといえば、これまたどこから取り出したのかいつの間にか右手にマイ箸を手にしながら、
「……お腹すいた」
佐祐理が持つ風呂敷に視線をロックオンした状態で、ぽつりと呟いた。
――くるるるる。
ご丁寧に、空腹音まで盛大に響かせながら。
その全くといって良いくらいに空気を読まない態度が、逆に清々しかった。
頭上を見上げる。
中天に差し掛かった太陽の位置を見るに、舞の言う通り昼食にするにはちょうど良い頃合いだった。
「そういや俺も、腹減ったな」
片手で腹を撫でながら、ややわざとらしい口調でそんなことを言い出す祐一。
「あやや。祐一さんもですか」
「だってほら、何だかんだで学校からここまでずっと歩きずくめだったしな。あ、そうだ。佐祐理さん」
「はい、何でしょう?」
ほんの一瞬、考える素振りを見せた祐一だったが、すぐ元の表情を取り戻すと、
「弁当とお茶はあるみたいだけど、取り皿は持ってきてあるのか?」
「もちろん、用意してありますよ。でも急にそんなことを言い出されるなんて、どうしたんですか?」
「や、だっていつもは三枚で済むけど、今日は四枚必要だろ? ちゃんと人数分、用意してあるか気になったからさ」
「ふぇ?」
一瞬、きょとんとした色を浮かべる佐祐理。
しかしすぐに祐一の言葉の意味を理解すると、ぱっと表情を明るい物に変化させる。
「あははーっ。もちろんですよ。祐一さんと舞と佐祐理と……一弥の分。ちゃんと四枚、持ってきてありますーっ」
「よし。それでこそ俺の佐祐理さんだ」
そう一言、祐一は佐祐理の髪をくしゃくしゃっと乱暴にかき乱した。
かき乱された方はといえば、嬉しそうに相好を崩しながら小さな悲鳴を上げる。
「きゃーっ!」
「佐祐理……ご飯、早く」
無意味にじゃれ合う二人の間に割って入ってくる舞の、少し焦れた感じの声。
見れば空腹に耐えかねているのか、箸の先を唇に当てながらじっと、お預けをされている子犬のような眼差しを浮かべていた。
「さ、行こうぜ」
右手を差し出す祐一。
待つほどもなく彼の手のひらが、柔らかな感触に包まれる。
それは大切な人の温もり。
何よりも誰よりも、大切で大好きな人。
互いの視線が重なる。
そして「あははーっ」と照れ臭そうな声を発した佐祐理は、次の瞬間、彼女にしか決してできない満面の笑みを浮かべながら、大きく頷き返した。
「はいっ!」
第2話 了
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