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この作品は、株式会社ウィルから2006年に発売された『遥かに仰ぎ、麗しの』の人物・世界設定を使用しています。
また作中に登場する組織・団体・人物の名称は、全て架空のものです。
『凰華景物詩』
Update:2008.06.07
第1話「チョコは無慈悲な鍋の女王」
「セーンセ!」
朝のホームルームを終えて職員室に戻る途中、背後からかけられた声に彼――滝沢司(たきざわ・つかさ)は足を止めた。
肩越しに振り返った先には、二人の女生徒の姿があった。
ひとりは寝癖で跳ね上がった髪もそのままに、好奇心満々といった面持ちで瞳を輝かせている、見るからに元気が有り余っていそうな少女。
我が国有数の企業集団、陽道グループのビッグセブンの一角を占めるAIZAWAの現社長の一粒種、相沢美綺(あいざわ・みさき)だ。
そしてもうひとり。
腰近くでハの字に広がったロングヘアと、小動物っぽく瞳を揺らしている気弱な表情が印象的な少女は、ロボット開発ベンチャーLSL所長の一人娘、上原奏(うえはら・かなで)。
司にとっては二人とも、担当教科の教え子であると同時に担任クラスの生徒でもあった。
「何だ、相沢? 勉強のことで何か質問でも……って、お前に限ってそんな訳ないか」
「うわ! そうやっていきなり決めつけるのって、ヒドくない?」
「でも違うんだろ」
「あはは。その通りなんだけどね!」
悪びれた風もなく、頷く美綺。
「それで、今日は何の用だ?」
「もっちろん、取材だよ」
「取材?」
予想外の返答に、司は思わず首を傾げてしまった。
だが、そういえば――と、すぐに思い出す。
美綺と奏の二人は「自称」ジャーナリストとして、不定期刊行壁新聞『凰華ジャーナル』を主宰している。
つまりこうして彼のところにやって来たのは、記事のネタ集めが目的に違いなかった。
この積極性をもう少し授業でも発揮してくれれば……思わずそんな、ぼやきともつかない呟きを内心で漏らしてしまう。
「あーっ! センセ、今『授業中は寝てばかりいる癖に、どうして休み時間になると元気になるかなコイツは』って顔した」
「何っ! お前、もしやエスパーか!」
当たらずとも遠からずの指摘をされ、思わず後ずさりする司。
「にゃはは。アタシのHPはね、放課後のためにとってあるんだよん」
「ゲームじゃないんだから、HPとか言うな。で、何の取材なんだ? 最近は、事件らしい事件も起きてなかったと思うけど」
「何言ってんの、センセ。事件は今、まさに起こりつつあるところだよ」
「は?」
美綺の言葉に、思わず辺りを見渡してしまう。
しかし目に映る範囲には彼と美綺、奏の三人しかいなかった。
そもそも彼が勤務する凰華女学院分校は超が付くほどのお嬢様学校で、まず校舎からして無駄に豪華な上に無駄にだだっ広い造りになっている。
加えてその学舎に集う学院生の数は全校合わせて僅か五十三人に過ぎなかったから、普通の学校のように生徒たちの嬌声で賑わう休み時間などといった光景は夢のまた夢で、むしろ今、彼の周囲に広がる静謐に満ちた空気こそがこの学院の日常の光景に他ならなかった。
「何もないぞ」
「……センセ、本気で言ってる? それともマジボケ?」
判断が付きかねるのかむぅと唸りながら訝しげに眉根を寄せた美綺は、手のひらを彼の額にぴたりを当ててくる。
「熱はない、と」
「意味が分からん」
「じゃあニブチンのセンセには、もれなくヒントをあげちゃおう! レディース&ジェントルメーン! こちらに注目くださーい」
大げさな身振りと共に彼女が指し示した先にいたのは、先刻から不安げな面持ちでことの成り行きを見守っていた奏だった。
「え……私、私?」
「こちらに御座すでぃあまいふれんどかなっぺですが、実は今日、暁ちんにとあるちょー重要アイテムを渡すべく気合い入りまくりなのです」
「……重要アイテム?」
「そそ。恋する乙女がその身に宿す思いの丈と、ついでにほんの一滴の媚薬を込めた……いわゆる入魂の一品ってヤツ?」
「わーっ、嘘です嘘です! 私、媚薬なんて、絶対絶対ぜーったい入れてません入れてませんから! こらーっ、みさきち! 誤解されるようなことを言うな言うな!」
傍観者だったはずの立場から、いきなり話題の人としてステージに引きずり出されてしまった奏は、美綺の背中を両手でぽかぽか叩きながら大慌てで否定する。
そんな奏の攻撃をひらりと躱した美綺は、ニヤリと意味ありげな笑みを浮かべると、
「大丈夫。入れたのはかなっぺじゃなくて、アタシだから」
「何?」
「ほら。湯煎してる時にかなっぺ、アタシに見張りさせて一度トイレ行ったっしょ。あの時、ちょぴっとね」
美綺が口にした言葉が咄嗟には理解できず、顔を見合わせてしまう司と奏。
しかしすぐにはっと我に返った奏は、慌ててポケットから綺麗にラッピングされた小箱を取り出した。
「効果抜群らしいから、これで暁ちんのハートはゲット間違いなし!」
「そんなそんないかがわしい物……暁先生に渡せるかぁ!」
「えー、せっかくいいアイデアだと思ったのにぃ」
「なぁ相沢。そんな胡散臭いアイテム、一体どっから手に入れたんだ? 購買で売ってるとはとても思えん代物だぞ」
「うん、通販さんに分けてもらった」
美綺は、あっけらかんと出所を口にする。
それを聞いた司と奏は、好対照な反応を見せた。
なるほどとあっさり納得する司と、どうやら質の悪い冗談でなく厳然たる事実だったことを突きつけられてがっくり肩を落とす奏。
「上原も、そう気を落とすな。相沢も悪気があってやったんじゃない……と思う」
言った当人も自信がないのか、慰めるように奏の背中を叩いた司の言葉も、今ひとつ語尾に力がなかった。
そんな二人をよそに美綺は、当初の目的だった取材の件などすっかり忘れて、
「もっちろんだよ。デートに行っても未だに暁ちんの手のひとつも握れない親友のためを思っての、百パー好意からの止むに止まれぬ行いだったんだから」
「みさきちーっ! 更に何、とんでもないこと言い出すんだよ出すんだよ!」
「ほほう。上原と暁先生の間は、相変わらず進展なしか」
話が予想外の方向に展開したことに、司の瞳がきらりと光る。
普段、弄ばれるばかりの先輩教師の弱みを掴める絶好のチャンス――そう思っているのかもしれない。
「そーなんだよ。今日だって、いっそ裸リボンで『アタシを食・べ・て』とでも言えば暁ちんイチコロだよーって、ナイスでキュートなアドバイスしてあげたのに、普通にチョコだけで良いって言うから仕方なく魔法のアイテムでサポートを――って、しまった!」
得意げに語っていた美綺は慌てて自分の口を押さえたが、時既に遅し。
まさに語るに落ちるとはこのことか。
「いや、僕も相沢が『湯煎』って言った時点で気付いてたから。そういや今日は、バレンタインだっけ」
苦笑いを浮かべた司は、少々わざとらしく咳払いをしてから、脱線しまくりだった話の流れを強引に引き戻そうとした。
その意図は美綺にもすぐ伝わったのだろう、乙女の秘密だだ漏れで凹みまくりな奏をひとり残して手にしていたペンを取り直す。
「そうそう、それそれ。センセに聞きたかったのも何を隠そう、その件なんだよ」
「バレンタインと僕に、どんな関係があるんだ?」
「まだそんなことを言いますかね、この人は。センセ、これ見てないの?」
そう言って、美綺が司の前に示して見せたのは『凰華ジャーナル』だった。
発行日は昨日、二月十三日になっている。
「そういや、忙しくてここ何日か見てなかったかも。えーっと、どれどれ――トップ記事はバレンタインデー、カウントダウン企画。二月十四日に滝沢先生は果たして何個のチョコをもらえるかトトカルチョ大会途中経過詳報全オッズ一挙掲載って、何だこりゃーっ!」
「にゃはは、読んで字のごとくだよ。でね、センセセンセ。今時点で何個もらえたか、教えてくれない?」
上着の袖をくいくいと引っ張りながら、司の手許をのぞき込んでくる美綺。
「こら、引っ張るな。何個も何も、見れば分かるだろ」
彼女の視線から逃れるようにその場から一歩後ずさった司は、呆れ半分に小さくため息をつきながら両手を挙げて見せた。
右手には、つい今し方終えたばかりのホームルームで使った出席簿が。
左手には、美綺から手渡されたばかりの『凰華ジャーナル』が。
それで全部だった。
「ふぅん。んじゃ、ちょっとボディーチェックっと」
降参のポーズを示したままの司の周りを、顎に手を当てて腕組みしながらぐるりとひと周りした美綺は、彼の上着を胸から腰にかけてポンポンと叩いて隠匿物の有無を確かめてゆく。
どうやら期待に反して捜し物は見つからなかったらしく、やや不満げな色を浮かべながら大人しく身を退いた。
「納得したか?」
「納得はしてないけど、理解はした」
分かったような分からないような、微妙な反応だった。
「おっかしいなぁ。まだ朝だから、みんな様子を窺ってるのかな。今朝の搬入品の中にはセンセ宛ての郵便物はなかったし……ってことは、まだゼロ?」
「郵便物ってお前、そんなとこまで調べてるのか」
「真実の追究こそ、ジャーナリズムの真髄だもん」
「パパラッチの間違いだろ……」
その時、一時限目の始まりを予告する予鈴が校舎内に鳴り響いた。
「みさきちぃ……そろそろ行かないと」
予鈴で我を取り戻したらしい奏が、美綺の制服の袖を引っ張りながら口を開く。
「ヤバっ! かなっぺ、次って調理室だっけ?」
「そうだよそうだよ。ここからじゃ、走らないと本鈴に間に合わないよ合わないよ」
「了解。じゃあセンセ、後でまた経過を聞きに行くから、よろしくー!」
奏の手を掴んで脱兎の如く廊下を走り出した美綺は、肩越しに司の方を振り返り大きく手を振りながら階段を駆け下りて行った。
「こらーっ! 廊下は走るなーっ!」
慌てて声を荒げる。
だがその時には既に、二人の姿は彼の視界の中から消え去っていた。
「全く……」
ため息混じりに呟いた司は、ふと右手に視線を向ける。
そこには、怒鳴った時に思わず握り締めてしまったせいで、くしゃくしゃに丸められた『凰華ジャーナル』があった。
§
「はははっ。それは災難だったな」
「本当ですよ。まさか自分が賭けの対象になっているとは、思いもしませんでした」
職員室に戻った司を笑顔で迎えてくれたのは同僚の美術教師、暁光一郎(あかつき・こういちろう)だった。
一客二十万円はするだろうマイセンのティーカップに淹れた紅茶を優雅にすすりながら、司からの話に耳を傾けていた暁が見せた反応は、予想通りの物だった。
「で、昨日時点の司きゅんのオッズは、どうなってるのかな?」
わくわくと恥ずかしげもなく擬音を口にしながら『凰華ジャーナル』に目を落とす。
次の瞬間、彼の目つきが真剣な物に変わった。
しかしそれはほんの一瞬のことで、すぐに白い歯を輝かせながら爽やかな笑みを浮かべて見せたかと思うと、
「今のところ、最低オッズの本命は三人か……で、司。誰と誰と誰なんだ?」
「知りませんよ」
値段を知るのも恐ろしい古唐津の湯飲みの中身――玉露とおぼしき日本茶を啜りながら、司は半ば他人事のように冷めた返答を口にする。
だが説明を端折り過ぎたと思ったのか、慌てて言葉を継ぐ。
「こんな、どう見ても本人そっちのけで盛り上がるのを前提にした企画にコメントを求められたって、答えられる訳ないでしょう」
「黙秘権を行使するってか。つまり司は、心にやましい部分があるってことだな」
「ありません!」
暁としては、どうしても話を(彼にとって)楽しい方に持っていきたいらしい。
司弄りを趣味と公言して憚らない彼の、そんなリアクションは今に始まった話ではなかったが、それでも司はため息をつかずにはいられなかった。
目の前にいる美術を専門とする先輩教師は、昨年の春に司が凰華女学院に赴任して以来、何くれとなく世話を焼いてくれたありがたい存在だった。
その点については、感謝することはあれ迷惑に思うことはない。
しかし同時に後輩を弄ぶのが大好きという、とんでもなく傍迷惑な悪癖を持っているのが何というか……頭の痛い話だった。
そんな司の思いをよそに、手にしていたカップを受け皿に戻した暁は、
「まぁここにいるのは、やんごとなき家柄の子女ばかりだが、そこはそれとして彼女たちも年頃の乙女だ。義理でもらう分には構わんが、本命の時は心してかかれよ」
「本命って、やっぱりそういうのってあるんですか」
「そりゃあ、あるさ。司、お前もいい加減、この学校の仕組みは理解してるだろ?」
暁の言葉通り、この学園には不可解というか理不尽というか、彼の理解の範疇を超えた習慣がいくつも存在していた。
教師と女生徒たちが同じ寮に住む件も然り。
学院生が外出をする際、必ず教師が同伴しなければならない件も然り。
本来、学舎においては教師と学院生の間の過ちはタブーとされる行為のはずなのに、何故かここではそうなることを助長するようなしきたりが、あちこちに散見された。
暁曰く「大人の事情」ということらしかったが、赴任から一年、未だに釈然としない物を感じずにはいられないのも確かだった。
「暁さんは、その……もらったりするんですか、チョコ?」
「まぁな。俺のポリシーは、来る者は拒まずだしな」
「ちなみに去年は、どれくらいもらいました?」
「ちゃんと数えてないからうろ覚えだが……確か二十個くらいだったかな」
「二十個って、学院の生徒の半分近くじゃないですか」
現在、凰華女学院分校に在籍している生徒総数は五十三名。
人数に関しては今年が特別少ない訳ではないらしいので、恐らく昨年も似たような物だったに違いない。
うち半数近くからチョコをもらうとは、さすがと言うしかなかった。
「そうそう。今年は、こんな感じだ」
そう言って暁は、机の引き出しを引いて見せる。
中をのぞき込むとそこには、綺麗にラッピングされたいかにも値段の張りそうな雰囲気が漂う小箱が数個、無造作に転がっていた。
「まだホームルームが終わったばかりだし、出だしとしては悪くないな」
「そういえば、上原も暁さんに渡すチョコを用意してましたよ」
つい先刻、廊下で交わした会話を思い出しながら司が口を開く。
媚薬云々の話は、とりあえず黙っておく。
奏の性格を考えれば、改めて一から作り直す可能性が高かったが……また美綺に邪魔されないことを祈るばかりだった。
「上原からは去年ももらったが、料理上手なだけあって彼女のは美味かったぞ」
「でもチョコって、溶かして固めるだけじゃないですか。上手い下手ってあるんですか」
司のその素朴な疑問に、空になったカップをお手玉し始めた暁は、
「シンプルだからこそ、腕の差が出るんだよ。司、知ってるか? 市販のチョコは、そもそも人が食べるのに最適な状態に調整されて出荷されてるってこと。つまり、素人が湯煎して固め直す作業ってのは、あえて味を落とす行為に他ならないんだよ」
「へぇ、そうなんですか。そうすると固め直してあって、なおかつ美味いってことは――」
なるほど。
暁が「美味い」と断言するのだから、奏のチョコは本当にその通りなんだろう。
「でもまぁ、上原みたいなのは例外に近いな。手作りと言っても、実際はピンキリだからな」
「不味い物はとことん不味い?」
「いや、不味いだけならまだマシだ」
云わんとするところが分からず小首を傾げる司に、まるで遠い過去を懐かしむように暁は遠い目を浮かべて見せた。
そして不意に声を落とすと、
「たまにな……チョコ以外の物が入ってることがあるんだよ」
「ナッツとかレーズンですか? そういえば最近は、柿の種とか納豆が入っている変わり種もあるって聞きますね」
ごく常識的に答えた司だったが、どうやらその反応が暁の中の何かを刺激したらしい。
唐突に司の首に腕を回し、ぐいと彼の頭を引き寄せたかと思うと、
「司。お前、お呪いとか信じる方か?」
「お、お呪いですか……いや、特には。って、耳元に息を吹きかけないでください!」
「あの年頃の子たちの中には、結構真面目に信じてるのがいたりするんだよ。で、その系列で一番ポピュラーなのが『自分の身体の一部を好きな人に食べてもらう』ってヤツだ」
これ以上ないくらいの、真剣な眼差しと共に紡がれる言葉。
司は相づちを打つことも忘れて、続きを待った。
「……チョコの中に髪の毛とか、血が混ぜ込まれてたりするんだよ」
「ひぃーーーーっ!」
思わず現物を想像してしまい、悲鳴と共にガタガタと身震いをする。
その反応に満足したのか楽しげに目を細めた暁は腕の力を緩め、縛めから司を解き放つと、
「ま、大抵の子は既製品そのままだから、心配はないけどな」
けろりとした表情で、椅子の背もたれに身体を預けた。
「あんな話をした後からそんなこと言ったって、全然説得力ありませんって……」
見るからにげんなりとした様子の司は、しかしすぐに肩をすくめると、
「それに心配も何も、僕はひとつももらってませんから」
「おかしいな……司、もしかして隠してないか?」
「何で、そんなに疑うんですか。僕がひとつももらってなくたって、暁さんが困る訳でもないでしょうに」
「いや、困るんだなこれが」
「は?」
予想外の反応に、思わず返答に詰まってしまう。
しかし次に彼が口にした言葉は、彼の予想を斜め上に行く物だった。
「だって、俺もこれに参加してるから」
そう言いながら右手でひらひらと揺らして見せたのは、司が持ち帰ってきた『凰華ジャーナル』の紙面。
「ゼロじゃ勝ち目ないから、司きゅんにはもっともっと頑張ってもらわないとぉ」
「あ、あなたって人は……」
本当にどこまでが本気でどこまで冗談なのか、暁という人物はつきあい始めて一年近くなる今もって掴みかねる存在だった。
大きくため息をひとつついた司は、ふと思いついたように口を開く。
「暁さん」
「ん?」
「参考までに……暁さんは、僕が何人からもらえるのに賭けたんですか?」
返ってきのは、相変わらずどこまで本気で言ってるのか疑わしい、そんな発言。
「はっはっはっ。司には、ぜひとも『世界中の女はオレの物じゃー』と、声高らかに宣言して欲しいところだな」
「お断りです」
にべもなく答える司。
そういった反応が返ってくるのを予想していのだろう、暁はわざとらしい仕草でくねくねと身体を捻りながら拗ねたように、
「ちぇーっ。司きゅんのケチぃ」
「……お茶が美味しいですねぇ」
すぐ横の暁の存在を綺麗さっぱり無視しながら司は、すっかり冷え切ってしまった湯飲みの中身を啜りつつ、小さく呟いた。
窓外を見る。
冬の突き抜けるような凛とした青空が、ガラス越しに広がっていた。
§
「御用改めだ!」
その招かれざる来訪者は、二時限目の授業が始まってから二十分が過ぎようとした頃、突然姿を現した。
妙に時代がかった台詞と共に、ノックもなしにドアが開け放たれる。
足音も高らかに先陣を切って教室に踏み込んで来たのは、本校系の制服を身に纏った小柄な女生徒だった。
「……理事長?」
突然の出来事に、黒板に板書しかけた姿勢のまま固まってしまった司は、一瞬の間を置いてようやくそれだけを口にする。
演技なのか、はたまた本心からそういう気分なのか、不愉快そうに口をへの字に曲げたままの凰華女学院分校理事長代理こと風祭みやび(かざまつり・みやび)は、じろりと彼を一瞥したかと思うと、
「おい、労働者。授業の邪魔をして済まないが、理事長権限で少しだけ時間をもらうぞ」
「何かあったんですか?」
ようやく縛めから解き放たれた司は、持っていた教科書を閉じながら問い返す。
うむ、と小さく頷いたみやびは、
「今朝方、理事会にタレコミがあってな。バレンタイン用に学院外から密輸されたチョコレートが、生徒たちの間で闇取引されていると」
まくし立てるようにそう告げてから、司を押し退けて教壇に上がった。
そして鋭い眼差しを浮かべながら、教室内をゆっくりとした動きで睥睨してゆく。
やがてその動きが、ある女生徒の席で止まる。
「フーンフフフーン♪」
そこにはみやびからの視線を意に介した様子もなく、明後日の方を向いて鼻歌を歌っている美綺の姿があった。
ごく自然に、教室内の視線が彼女に集中する。
「あのあの……みみみさきちぃ。注目されてるされてるよ……」
むしろ動揺しているのは、隣席の奏の方だった。
おろおろと、見てるこちらが可哀想に思えるくらいに狼狽えてしまっている。
相方の奏がこの有り様では、たとえ美綺がどれだけ白を切り続けたとしても状況証拠だけで真っ黒に違いなかった。
恐らくみやびも同じ思いだったのだろう、やれやれといった面持ちで肩をすくめると、
「そんな訳で皆には済まないが、今から所持品検査を行わせてもらう。リーダ!」
「はい、お嬢様」
みやびが叫ぶと同時に、ドアの向こうから彼女付きの専属メイドであるリーリア・イリーチニナ・メジューエワ――通称リーダが音もなく姿を現した。
彼女ひとりかと思えば、後に三人ほどメイド部隊の面々が付き従っている。
……おや?
司はその中に、見知った顔がいることに気付いた。
去年、文化祭の時に何度かお世話になった、係長の工藤さんだった。
どうやら彼の視線に気付いたらしい彼女は、トレードマークの三つ編みを軽く揺らしながら一瞬だけ目配せをした後、すぐに真顔に戻った。
今は仕事モード、ということなのだろう。
それにしてもリーダを含めてメイドが四人も同行してくるとは、随分と物々しい。
「授業中にいきなり乱入してきて、その上所持品検査って……理事長さぁ、いくら何でもそれはないんじゃない?」
今まで黙ってことの成り行きを見ていた大銀杏弥生(おおいちょう・やよい)が、納得のいかない表情を浮かべながら抗議の声を上げる。
「そうだそうだー。みやびんおうぼー!」
「造反有理♪」「革命無罪♪」
それをきっかけに美綺が、更には高松千鳥(たかまつ・ちどり)、鶫(つぐみ)姉妹までもが調子に乗って追随する。
「ええい、うるさい黙れと言ったら黙れ!」
場の雰囲気が急速に険悪な物になっていくのを目の当たりにして、どうにかしないとマズいと咄嗟に判断した司は、
「ちょ、ちょっと待ってください、理事長。お前たちも落ち着け。な?」
両者の衝突を回避しようと、慌てて間に入る。
「いきなり所持品検査とか言われても、僕には全く事情が把握できないんですけど」
「労働者……お前の耳は飾りか? 事情はたった今、説明しただろうが」
「密輸チョコの取り締まりが目的って、そんな……単なる噂話じゃないですか。いくら理事長だって――」
噂だけを根拠に、生徒たちに対するプライバシーの侵害は許されることではない。
そう続けようとした司だったが、しかし次の言葉は出てこなかった。
目の前に突き出されてしまったから。
司が抵抗の根拠にしようとしていた、あるはずのない「証拠」が。
「ワープロで認められた手紙と一緒にこれが、理事のひとりに宛てて送られてきたのだ」
相変わらずの不愉快そうな表情のまま、みやびが口を開く。
突き出されたそれを受け取った司は、手中で上下左右にひっくり返しながら品定めする。
「……板チョコですね。ごく普通の」
「その通りだ。リーダ」
「司様、ここから先は私が説明させていただきます。そのチョコレートは、明陽製菓の定番商品の板チョコレートです」
司に向かってリーダが、手を差し出してくる。
どうやらこれを渡せと言っているらしい。
チョコを受け取ったリーダは、慣れた手つきで包装紙の三分の一ほどを剥ぎ取り、中身を露出させる。
「司様が仰る通り、この国のどこの商店に赴いてもその姿を見かけることのできる、ごくごく普通の品物です」
「それって、変じゃないですか? どこでも買える物だったら、密輸の証拠になんてなり得ないでしょう」
「いいえ、だからこそ証拠になるのです」
「言ってる意味が良く分からないんですが……」
「買えないんだよ」
みやびが会話に割り込んでくる。
「どこでも、というのには但し書きがつくのだ。少なくとも『凰華女学院分校を除く』という一文がな」
「え? それって……」
「うちの購買では、お前みたいな庶民が食べることを前提とした、こんな……チープで味も舌触りも悪い大量生産品なぞ取り扱っていないのだ!」
そこまで言われて、司はようやく思い至る。
ここが、いわゆる庶民とはかけ離れた身分の子女ばかりが詰め込まれた、常識外れなお嬢様学院だということに。
「ゴディバ、ロイズ、ピエール・マルコリーニ、デメル、ヘフティ、ジャン=ポール・エヴァン、ノイハウスの商品は購買部にて常時取り揃えてありますが、確認したところ明陽製菓のこちらの商品については、残念ながら取り扱っておりませんでした」
司には聞いたこともないブランド(らしい)が、すらすらとリーダの口から紡がれる。
「月並みだが、私はロイズが好きだぞ。む、リーダ。今日のおやつはロイ――」
「お嬢様」
いきなり脱線し始めたみやびに向けて、リーダが澄まし顔で呟く。
次の瞬間、はっと我に返ったみやびは、
「おほん……そんな訳でこのチョコは本来、学院内にあってはならない物なのだ。こちらの調査で、既に仕入れ元も判明している」
「麓のコンビニですか?」
思い当たる節があったのか、これまでずっと黙っていた三橋香奈(みつはし・かな)が、記憶を手繰るように頬に指を当てながらぽつりと口を開いた。
「そうだ。聞き込み調査を行ったところ、一週間ほど前に学院の制服を着た何者かがチョコを箱買いしていった旨の証言が、店主から得られた。残念ながらそれが誰なのかは、店主が顔を覚えていなかったので不明だ」
この時、教室内にいる一人を除く全員が、とある女生徒の顔を思い浮かべていた。
だが同時に、それを口にしないだけの分別も全員が持ち合わせていた。
……分別?
不意に司は、自身の思考に引っかかる物を感じた。
ここまでの話から、みやびたちが密輸チョコの摘発を目的に、恐らく逃げ場のない授業中を狙って来たのは間違いなかった。
にも関わらず、犯人が誰なのかを追求する素振りはまったく見受けられない。
これは一体、どういうことなのか。
その点に疑問を抱いた司は、ほどなく思考の狭間からひとつの推論を得る。
「理事長、ちょっと聞いていいですか」
「何だ?」
「理事長が所持品検査をするのは、密輸チョコの回収が目的なんですよね」
「ああ、その通りだ」
「ということは、密輸犯が誰かを特定する気も、その犯人に罰を与えるつもりもないと思っていい訳ですね」
ぴくりと、みやびの眉が動いた。
同時に背後に控えていたリーダの口許が、微かに緩む。
その反応を見て司は、自分の想像が間違っていなかったらしいことを確信した。
「一部の教員と理事たちの要請で、朝一番に臨時開催された理事会での決定事項は『風紀を乱す恐れのある物品の回収と処分』これだけだ。犯人の追及は無用だ」
「なるほど、分かりました」
合点が行った様子で頷く司。
そして改めて思案に暮れた――時間にして十秒ほど後、閉じていた目を見開いた彼はリーダに問いかけた。
「リーダさん。箱、お持ちですよね」
「はい、司様」
全てを承知したように微笑みを浮かべて見せたリーダは、視線を彼女のすぐ横に佇んでいた係長の工藤さんに向ける。
「滝沢様、こちらになります」
恭しく差し出されたそれは、縦横三十センチ、深さ二十センチほどの木箱だった。
たかだか木箱ひとつでも、中の木肌をむき出しのままにすることなく羅紗とおぼしき緋色の布で覆ってあるのが、お嬢様学院の面目躍如と言ったところだった。
「おい、労働者。お前、一体何を……」
ことの次第が理解しきれず目を白黒させるみやびが言い募るのを遮った司は、ずいと彼女の方に一歩、歩み寄る。
「もちろん、所持品検査ですよ」
そして司は、にっこりと笑顔を浮かべながら次の言葉を口にした。
「さぁ、理事長。まずは、あなたからです」
§
「で、それからどうなったの?」
司が手にしていたサンドイッチに、これっぽちも躊躇いなくあむと噛みついた鷹月殿子(たかつき・とのこ)は、もぐもぐと咀嚼を繰り返しながら先を促した。
「こら、殿子。行儀悪いぞ」
「そうですよ、殿ちゃん。ちゃんと飲み込んでから、お話しないと」
司のみならず親友の八乙女梓乃(やおとめ・しの)にまで窘められてしまった殿子は、だがさほど反省した風もなく「うん、そうだね」と頷く。
どうやら食事のマナーよりも、好奇心の方が勝っているようだ。
そんないかにも彼女らしいリアクションに苦笑しながら司は、パンを一口かじった後、
「結局、栄えある密輸チョコ没収第一号は、理事長と相成った訳だ」
「あははっ。みやびらしいや」
司が導き出した推論とは、即ちこうだった。
チョコの密輸云々に関しては、恐らく枝葉末節な話に違いない。
この騒動を起こした輩にすれば、たまたま今が二月のそういう時期だからチョコというアイテムを選んだに過ぎないのだろう。
もしかすると、掲示板にあった『凰華ジャーナル』を見て思いついたのかもしれない。
要するにこの騒動の真の狙いは、反理事長派の理事長に対する嫌がらせなのだ。
その証拠に、理事会は犯人の洗い出しを求めてはいなかった。
そう、分かっているのだ。
以前からチョコを初め、学外でしか入手できないスナック菓子をどこからか仕入れてきて学院内で流通させているのが、生徒の中の誰かであることに。
だが万が一、犯人を追及して踏んではならない虎の尾を踏んでしまったら、犯人が彼らが手を出すにはあまりに大きすぎる家の生徒だったら――そうなった場合、この世間から隔絶された学院内での矮小な権力闘争どころの話ではなくなってしまう。
リーダはもちろんみやびも、そのことに気付いていたに違いなかった。
全てを承知の上で、被害を最小限に抑えるべく自らが悪役となることで、結果的に理事会と生徒たちの間に立つという選択をしたのだ。
「なるほど。反理事長派に行動の自由を与えたら何をしでかすか分からないから、先手を打ったんだね」
司が話す間、ふんふんと相槌を売っていた殿子が、合点が行ったように頷く。
「でも、それでは……風祭さんおひとりが、悪者になってしまうのではありません?」
殿子を間に挟んで司の反対側に座る梓乃が、やや承伏し難い色を顔に浮かべながら呟いた。
「それはきっと、みやびなりの責任感からじゃないかな」
「責任感……ですか」
「梓乃も感じない? 去年の今頃と比べたらみやび、随分変わったよね」
「え? あ、はい。そうですね。何となくですけれど、風祭さんが纏っている空気が随分柔らかくなったような……そんな気はします」
「みやびは、きっと守りたかったんだよ。同じ学院生である私たち――仲間を。他の誰も持っていなくて……でも彼女だけが持っている、理事長代理という肩書きを使ってね」
「うん。僕もそう思った」
突然の出来事に動転してしまい、そのことに思い至るのに時間がかかってしまったのを、司は内心で悔やんだ。
もっと早く気付いてやるべきだったと。
みやびはそのシグナルを、教室に入ってきた時から発し続けていたのに。
新任教師として赴任してかれこれ十ヶ月、学院で起こった様々な事件やイベントを通して司は、多くの生徒たちと信頼関係を築き上げてきた。
無論、みやびもその一人だ。
最初は「労働者」呼ばわりだった彼女も、居丈高な態度は相変わらずだったが、それでも最近は「滝沢司」と固有名詞を呼び名にしてくれる程度の関係は築けていた。
そんな彼女がまるで時計の針を半年以上戻したかのように、司のことを「労働者」と称した時点で察するべきだったのだ。
とまれ、司は気付いた。
そして彼は、自らが必要と信じる行動を起こすのに躊躇いを覚える男ではなかった。
だから、汚れ役を買って出た。
「本来は、教師である僕の仕事だしね」
「でも、そこで真っ先にみやびから検査するところが、せんせらしいよ」
「そうか?」
「だって、違反を追及するつもりで来ていたはずのみやびが、真っ先にチョコを没収されていたんじゃまさにミイラ取りがミイラで、みんな何も言えないって」
実際、その通りだった。
司が描いた脚本にみやびが乗ってくれるかどうかは半分賭けだったが、出目は見事、司の勝ちと出た。
「さぁ、理事長。まずは、あなたからです」
満面の笑みで、司の口から紡がれた言葉。
その言葉の真意を探るように、真剣な眼差しで真っ直ぐに彼を見据えるみやび。
静まりかえる教室。
時間にしてほんの十秒ほどのことだったが、その場に居合わせた面々にとっては永遠にも思える長い沈黙だった。
「くっ、何故あたしが持っているのを見抜いた!」
悔しげな呟きと共に、みやびのスカートのポケットから姿を現したのは、間違いなく件の密輸チョコだった。
「はっはっはっ。理事長のことですから『どうせチープな味に決まっておろうが、庶民の味を知っておくのも一興だな』とか言って、絶対に手に入れていると思ってましたよ」
「実のところ、お嬢様は既に二枚ほど食されておりまして、今お持ちのそちらが最後の一枚となっております」
「リーダ! 余計なことは言うな!」
「はい、お嬢様」
「何にせよ、そんな風紀を乱しかねない代物を持ち歩いているのは見過ごせませんね。ということで、それは没収です」
うんうんと、ひとり合点しながら頷いて見せた司は、手にしていた木箱をずいとみやびの方に差し出す。
「はい、入れる入れる」
「くっ……見つかってしまったからには仕方ない。こ、これでいいのか」
「オッケーです」
木箱の底にそっと置いたチョコを名残惜しげに見つめていたみやびは、すぐに表情を険しくしたかと思うとビシッと司を指差しながら、
「い、いいか、滝沢司。それは教師であるお前が命じたから、やむを得ず供出に応じたのだからな! そうである以上、お前が最後まで責任を持って処分するのだぞ。片時も目を離すことなく管理するように。これは理事長命令だからな!」
途中からは、何故か頬が赤くなっていた。
「ふふっ……風祭さんは、演技がお下手なんですね」
「まぁ、あの理事長に腹芸を期待すること自体、酷だろうしなぁ」
「でも他のみんなにも、真意は伝わった?」
「それは大丈夫だった」
その後は、呆気ないくらいスムーズにことが運んだ。
司とみやびの大根芝居を見て、その場に居合わせた全員が気付いたのだ。
何のことはない「司にバレンタインチョコをあげる」という行為が、見た目「司にチョコを没収される」形に変わるに過ぎないことを。
「で、その戦果がこれなんだ」
そう言って殿子が目を向けた先――司の背後に、緋色の布に覆われた木箱があった。
持っていたパンの最後の欠片を口に放り込んでから手を伸ばした司は、木箱を二人の前にそれを差し出す。
「見ていいの?」
「食べたりしないなら」
「分かった」
こくりと頷いた殿子は、好奇心に瞳を輝かせながら蓋代わりの布地をめくってゆく。
「わ、思ったより沢山ある。全部、板チョコだ」
「そりゃあ、没収品だし。購買部で売ってるチョコはセーフだから」
「ね、せんせ。いくつか、包装紙が剥かれてるのがあるのはどうして?」
最初は遠慮がちだった梓乃も、やはり気になるのか恐る恐る、殿子の肩越しに箱をのぞき込んできた。
そして「おや?」といった色を浮かべながら、隅に転がっていたチョコに視線を向ける。
「こちらとこちらは、食べかけ……のような気がします」
「ああ、それは高松姉妹の。あいつら、みんなが入れたから自分たちもって、食べかけのチョコを放り込んできやがったんだよ」
「こっちの中身が見えてるけど、囓られてないのは?」
「それは、リーダさんの。彼女は学院生じゃないから関係ないのに、何故か『えーい!』って叫びながら、嬉しそうに入れてきたんだよなぁ」
結局、その場で司が没収したチョコは締めて八枚となった。
学院生から六枚(みやび、美綺、弥生、香奈、千鳥、鶫)、メイドさんから二枚(リーダ、工藤さん)がその内訳だ。
裏を返すと、授業の最初から最後までずっと寝続けていた神知晶と、暁に操を立てているらしい(美綺談)奏以外の全員からもらえた計算だった。
「へー。せんせ、モテモテだ」
「いやでもこれ、没収品だし」
「またまた。さっきまでの話を聞いた限りじゃ、これ全部、最初から先生に渡すつもりだったチョコだよ」
「そう……かな?」
「せんせの『庶民の味』好きは、学院内でも有名な話だし。みんな、せんせの好みに合わせたんじゃないかな」
殿子にきっぱりそう言われてしまうと、本当にそうなのかもしれない。
箱の中に無造作に積み上げられているチョコの山に目を落としながら、司は内心でそんなことを思う。
「そんなモテモテなせんせに、私からの分を追加っと」
歌うように楽しげな殿子の呟きと共に、チョコが追加される。
既に入っている八個と、全く同じデザインのパッケージ――つまり、没収の対象となっている密輸チョコだ。
「これで、ソフトチームが結成できるね」
新たに追加された殿子の分を加えて、箱の中にはチョコが九個。
「確かに……でもそれだと理事長と同じチームになっちゃうぞ。理事長は、どっちかっていうと頼もしい味方より手強い敵でいてくれた方が、張り合いが出るんだけどなぁ」
司の贅沢なぼやきに、くすくすと笑みをこぼした殿子は、
「せんせらしいね。そうだ、だったら新戦力をスカウトしよ」
「スカウト?」
「ほら、梓乃。出番だよ」
「と、殿ちゃん……」
ずっと陰に隠れていた梓乃を促す殿子。
少しの間、瞳を揺らしながら躊躇いがちに何度か口を開いては閉じるといった動きを見せていた梓乃は、やがて何かを決意した様子で、
「あ……あのっ……先生、こ……これを……どうぞっ!」
切れ切れに言葉を紡ぎながら、両手を司の方に差し出してきた。
その手の上には、可愛らしいデザインの包装紙にくるまれた小箱がひとつ。
「これは……って、え?」
「文化祭では、私だけじゃなく梓乃もせんせに色々お世話になったから。そのお礼」
言葉足らずな親友の行動に、殿子が横からフォローする。
梓乃は緊張のあまりかチョコを差し出し、ぎゅっと目を閉じたままの姿勢で固まってしまっていた。
「あ、湯煎して一度溶かしちゃってるから形は変わってるけど、元の材料は私のと同じだから安心して」
「へー、そうなんだ。ありがとな、八乙女」
対人恐怖症の梓乃に不要な刺激を与えないよう、彼女の身体に触れたりしないように細心の注意を払いながら、チョコが収められている小箱を受け取った。
「は、は、は、はいっ!」
手のひらが軽くなったことで、無事チョコを受け取ってもらえたことに気付いた梓乃は、彼の感謝の言葉を耳に響かせながら慌てて後ずさる。
「これで二桁の大台に乗ったね」
まるで我がことのように、相好を崩す殿子。
その笑みにつられて苦笑を浮かべた司は、改めて箱の中のチョコの山に目を向けながら、
「あと一人で、サッカーチームが作れるなぁ」
そんな本気とも冗談ともつかない台詞を、ぽつりと呟いた。
§
「良い処分方法……ですか?」
司には、一生かかっても真似できそうにない優雅な身のこなしでカップの中身を口に含んだ三嶋鏡花(みしま・きょうか)は、穏やかな口調と共にそう小首を傾げて見せた。
「そう」
頷き返す司の表情は、教え子を前にしているとは思えないくらい神妙な物だった。
「少々不穏当な仰りようですが、司先生のお気持ちも分からなくはありませんわね」
「そうだろ? 僕を助けると思って三嶋、ひとつ頼むよ」
拝むように顔の前で両手を合わせる司を前に、くすりと小さく笑みをこぼしながらカップを受け皿の上に戻した鏡花は、
「ですが先生が生徒に助けを請うなんて、逆じゃありませんこと?」
悪戯っぽく瞳を細めながら問い返す。
しかし当の司はといえば、少しも悪びれた様子も見せずに、
「ははっ、名より実を取るのが僕の主義だからね」
そう、彼女に向かって笑い返して見せた。
本日最後の授業となる四時限目。
受け持ちのなかった司は、みやびから
『片時も目を離すことなく管理するように。これは理事長命令だからな!』
と厳命されてしまったせいで、常時持ち歩かざるを得なくなってしまった木箱を小脇に抱えながら、当てもなく学院内をうろうろしていた。
本来なら、職員室で待機していれば良いはずだった。
しかし没収チョコという、弄り甲斐満点のオモチャを見つけた暁がそれを見逃してくれるはずもなく、結局職員室に足を踏み入れてから十分後、司は這々の体で彼の前から逃げ出す羽目に陥っていた。
「司先生。よろしければ、一緒にお茶でもいかがですか?」
行く当てもなく、校舎内をあちこち彷徨った末に通りかかった談話室の一角から声をかけてくれたのが、鏡花だった。
どうやら彼女も四時限目は空き時間で、ひとりお茶に興じていたらしい。
本校系の学院生で寮長も勤めている鏡花は、見た目と中身が見事までに一致している、文字通りの才媛だった。
頭の回転は早く、言葉遣いと礼儀作法も完璧。
良く言えば個性豊かな――要するに我の強いメンツが多い本校系の生徒たちの中における人間関係も円満で、もちろん教師の評判が悪いはずもない。
司の目から見る限り、どうして本校でなく分校に在籍しているのか不思議なくらいの、優秀な生徒だった。
そんな彼女の誘いを断る理由が、一体どこにあろう。
「普通にお食べになられるだけでは、何かご不満ですの?」
「んー、別に不満って訳じゃないけど……」
「けど?」
言い淀む司に向かって、鏡花は次の言葉を促すように問い返す。
「一人でこんなに食べたら……鼻血が出そうだ」
予想外の返答に思わず吹き出しかけた鏡花だったが、しかし司の表情が案外本気らしいことに気付いて、すんでのところで思いとどまる。
そして彼に気付かれないように、小さく息を整え直してから、
「ちなみに今、何個お持ちなのですか?」
話題を逸らすようにそう問い返した鏡花は、ソファ脇に置かれている木箱に目を向けた。
両手で箱を持ち上げた司は、それを自らの膝の上に置くと、蓋代わりの布地を開きながら中をのぞき込む。
「えーと、さっき結城と溝呂木、岡本からももら――じゃなくて没収したから、十三個」
「では、これで十四個」
どこに用意してあったのか、ぴっと親指と人差し指で挟み込むように板チョコを掲げて見せた鏡花は、それを山の一番上に静かに横たわらせた。
「おお、三嶋よ! お前もか!」
やや大げさなリアクションで胸を押さえた司は、そのままソファの肘掛けにぱたりと倒れ込んでしまう。
それだけで彼が求めるところをすぐに察した鏡花は、すっと目を閉じると、
『運命よ――お前の意志は人間には知る術もない。人間はいずれ死ぬ。それは知っている、問題はいつ死が訪れるかだ』
淀みない口調で、歌でも歌うようにそんな台詞を口にした。
「さすがは三嶋。満点だ」
「こんなところで抜き打ちテストをされるとは、思いもよりませんでしたわ。けれども、出題がシェイクスピアからで助かりました」
「言ったな。じゃあ、今度はエウリピデス辺りで行くから、覚悟しておくように」
「デウス・エクス・マキナ。ふふ……楽しみにしていますわ」
「まぁ冗談はさておき、だ。それにしても……」
そこで一端言葉を切った司は、視線を箱の中から鏡花に移しながら首を傾げる。
「何でみんな、揃いも揃って密輸チョコを持ち歩いてるんだ?」
「あら、何かご不審な点がありまして?」
「そりゃあ、あるさ」
購買部に行けば普通に高級チョコを扱っているにも関わらず、何故よりによって司の受け持ちの学院生ばかりが板チョコを持ち歩いているのか。
暁の話を聞く限り、他の先生たちのところには普通に購買部で調達したらしい高級チョコが義理・本命を問わず渡されているらしい。
なのに司の周りにだけ、意図したかのように密輸チョコが集まる。
第三者が端から見ている分には怪しいことこの上なかったし、もし坂水教諭がまだ学院にいたなら、司までも(チョコの出所について何らかの関与を)疑われかねない状況だった。
そう、内心を包み隠さず吐露してみたところ、よほど意外な発言だったのかきょとんと目を丸くして見せた鏡花は、しかしすぐにくすくすと笑みをこぼしたかと思うと、
「先生。それは穿ちすぎという物ですわ」
「……そうか? もしかして、みんなで僕を陥れようとしてるんじゃないのか」
「別にそのような意図があった訳ではなく、司先生の好みをご存じの方たちがそれに合わせた物をチョイスされただけじゃありませんこと」
「むぅ。そういや殿子も、似たようなことを言ってたなぁ……でも――」
今ひとつ、納得が行かなさそうな様子の司。
続けて紡ぎかけた彼の言葉は、しかし横合いから不意に飛び込んできた女性の声によって断ち切られてしまった。
「あ、いたいた。センセ、みーっけ!」
美綺だった。
どうやら司のことを探して校内を駆け回っていたのか、少し息が荒い。
「ん? 相沢、どうした。僕に何か用か?」
「用があるから、探してたに決まってるでしょ。おーい、こっちこっち! センセ、ここに居たよー!」
談話室の入り口で両手を腰に当てながらぷっと頬をふくらませた美綺は、すぐに廊下の先に顔を向けると、誰かを呼び寄せるように大きく手を振る。
奏だろうか?
そんなことを思う彼の前に姿を現したのは、意外な人物だった。
「そんな大声を出されなくても、ちゃんと聞こえています」
頭のてっぺんからつま先まで、一分の隙も乱れもなく分校系の制服を身に纏っているその姿は、まさに歩く謹厳実直その物。
すぐ横に立つ美綺が「邪魔だから」の一言で、パレオすら身につけていないのとは全くもって対照的な出で立ちだった。
「こーんにちはー、みっちー。お話中、割り込んじゃってごめんね」
「御機嫌よう、相沢さん。それと以前から申し上げています通り、その呼び名はご遠慮いただけると嬉しいのですが……」
「えーっ、でもでも『三嶋さん』より『みっちー』の方が、絶対カワイイのに」
「もぅお姉――相沢さん。親しき仲にも礼儀あり、ですわ」
途中まで言いかけた言葉を慌てて訂正した彼女――仁礼栖香(にれ・すみか)の表情には、普段の真面目一直線の姿からは想像できないくらいの動揺が見て取れた。
根は律儀な彼女だったから、恐らく公私の別を厳格に守ろうとしているに違いない。
担任である司のいるこの場は栖香にとって「公」の場であり、その中において今、彼女の横に立つ少女は血を分けた実の姉ではなく、あくまでクラスメイトの一人に過ぎないのだ。
……気持ちは分かるけど、でもあまり意味がないよな。
そんなことを思いながら司は、美綺へと目を向ける。
その視線に気付いた美綺は、ちろりと舌を出して照れ臭そうにはにかんだかと思うと、
「はいはい。日本の正しいお姉ちゃんは、可愛い妹の言うことをちゃんと聞きますよー。こほん……ということで改めて――御機嫌よう、三嶋様」
「ぶはっ」
「……くす」
「あーっ! センセもみっちーも、ヒドい!」
「いやぁ悪い悪い。あまりに似合わない台詞だったから、思わず吹いてしまった」
「そうですわね。申し訳ありませんが私も、少々背筋に寒気を覚えてしまいましたわ」
言いたい放題だ。
とはいえ、ここで言われっ放しにならないのが美綺の美綺たる所以。
「二人して、ますますヒドい! すみすみも、何か言ってやって言ってやって!」
大げさな仕草で地団駄を踏んで見せた美綺は、すぐ横に佇む栖香の袖を掴みながら司たちをびっと指差し、彼女に応援を要請する。
だが、どういう訳か言葉を失ったままぼんやりした眼差しを浮かべるばかりの栖香は、美綺の言葉にはっと我に返ると、
「え? あ、そうですね……私も、今のお姉――相沢さんの言葉遣いには、違和感と言いますか、不思議な感覚を覚えてしまいました」
「ちっがーう!」
唯一の味方と信じていた相手にまであっさり裏切られ、がっくりと肩を落とす。
「おおおお姉様!」
自分の一言が止めになったという自覚があったのか、栖香はといえば見ている方が哀れに思うくらいおろおろと狼狽えていた。
そんな二人の姿に苦笑しながら司は、
「仁礼、安心しろ。相沢のそれ、演技だから」
「え?」
「ちぇっ、ばれたか」
栖香が司の方を振り返るよりも早く顔を上げて見せた美綺の顔には、いつもと同じあっけらかんとした表情があった。
「で? 僕に何か用があって来たんじゃないのか?」
この調子で美綺のペースに合わせていた日には、いつまで経っても本題に入れそうになかったので、司は強引に話を引き戻した。
「ここにいらした時の様子から察するに、司先生にご用件があったのは相沢さんではなく、仁礼さんとお見受けいたしましたが」
「僕に?」
「うん、そう。すみすみから、センセに渡す物があったから探してたの。ほら、すみすみ」
「きゃっ! お姉様、きゅ、急に押さないでください!」
美綺に背中を押された栖香は、微かにバランスを崩しながら司のすぐ前に立つ。
「えと……あの、実は私、こういうことをするのは生まれて初めてでして……た、滝沢先生、もし差し支えありませんでしたら……」
なるほど。
恐らく途中から自分でも何を言ってるのか分からなくなっているのだろう、顔を真っ赤にしながらしどろもどろに言葉を紡ぐ栖香を前に、司は彼女の目的を理解した。
だから彼は、栖香を落ち着かせる意味も込めて先回りするように、
「仁礼、ありがとな」
そう言いながら、右手を彼女の前に差し出した。
「え。あ、はい……」
条件反射のように、彼の手の上にポケットから取り出した板チョコを乗せる栖香。
その光景を傍らで見つめていた鏡花は、くすりと小さな笑みをこぼしたかと思うと、
「十五枚目、おめでとうございます。先生」
楽しげに目を細めながら、すぐ側に置いてあった木箱を持ち上げると、彼に向かって差し出してきた。
§
「なるほど。そういった事情で、滝沢先生は可愛い生徒たちをこのような悪事に無理矢理巻き込んでしまったのですね」
「……榛葉、さすがにそれは人聞きが悪いから……せめて悪巧みくらいにしてくれ」
「はい、賜りました」
温室の主である榛葉邑那(はしば・ゆうな)はそう言っていつも通り、小春日のような柔らかな笑みを浮かべて見せた。
「センセ、あれだよあれ!」
時を追うごとに増え続け、今や山積み状態の没収チョコの処分方法に頭を抱えていた司の救世主となったのは、一番の元凶とも言える美綺だった。
彼女が指差す先には、大型液晶テレビがあった。
通販さんがいつも通販番組を見ている、談話室備え付けの備品だ。
そういえば……今日は通販さんの姿が見当たらないな。
ふと、そんなことを思う。
彼女とて人の子、二十四時間ここに貼り付いているはずがない。
それでも談話室と通販さんがセットになってしまっている司の目には、どことなく物足りなさを感じさせる情景だった。
「前にさ、通販さんと一緒に通販番組見てた時に、ちょうど良さそうなアイテムを売ってるのを見た覚えがあるんだよ。うん! あれならきっと、センセが持ってるそのチョコを有効活用できるんじゃないかな?」
「チョコを使うアイテムねぇ……調理器具か何かか?」
「うーん、何だったかなぁ。耳の辺りまで出かかってるんだけど、思い出せないや」
そう、耳たぶの裏側を指先で押さえながら美綺が呟く。
「相沢さん、それを言うなら『喉まで』ではありませんこと?」
「そう、それそれ!」
「はぁ……お姉様」
不出来な姉の語彙力を嘆く妹をよそに、どこ吹く風な美綺。
改めて喉の部分を指差しながら、
「えーと、確か……そう! 鍋だよ鍋! うん、間違いない」
「鍋って……チョコ鍋?」
予想外の一言。
思わず司は、彼女が口にした言葉から導き出されるイメージを想像してしまう。
――チョコチョコ。
――鍋鍋。
出し汁代わりにチョコがなみなみと注がれた土鍋の中に、肉やら野菜やら豆腐やらが浮かんでいる姿を。
あるいは、鰹出汁の中から具としてその身の一部をのぞかせている板チョコの姿を。
ちょっと……気持ち悪いかも。
その思いがストレートに顔に出てしまったらしく、くすりと小さく笑みをこぼした鏡花は、
「司先生、その想像は多分外れていると思いますわ」
「え、そうなの? って、何で分かる!」
「こほん……話が進まないので、滝沢先生のことは置いておきましょう。それでお姉様、そのお鍋を通販さんはお買い求めになられたのですか?」
確かに、それは重要な部分だった。
専用の倉庫があるなんて噂されるくらいの通販さんだったから、彼女が番組を観ていて買わない理由はないように思えた。
実際、ここで番組を観ているのを見かけた司の記憶では、「買おう」の台詞以外聞いた覚えがなかった。
栖香の問いかけに、腕組みをする美綺。
元々あまり印象に残っていなかったのか、あるいはかなり昔の出来事で記憶が薄れているのか、しばらくの間難しい顔をして頭を捻っていた彼女は、
「うん、確か『買おう』って言ってた気がする」
「だったら通販さんに当たるのが一番早いか。で、彼女はどこにいるんだ?」
そう呟きながら司は、談話室の中を見渡す。
いつもなら日常の風景、と言っても差し支えないくらいここに居ることが多い通販さんは、しかし今日に限って影も形も見当たらなかった。
……授業?
一瞬そう思いかけた司は、即座にその可能性を否定する。
彼の知る限り、通販さんが学院の授業に出席した姿を見たことは一度もなかった。
無論、それは彼の授業に限らず全ての授業についてだ。
ゲスト。
それは東西と南を海に囲まれ、北を強固なセキュリティが施された防壁で囲われた学院という名の、華美なる牢獄に囚われた少女たちに与えられた隠語だった。
どんな理由なのかも分からない。
いつまで居るのかも分からない。
それどころか司は、彼女の本名すら知らないのだ。
風祭の関係者らしい――という話を風の噂で耳にしたこともあったが、それすらどこまで真実なのかを確かめる術はない。
日中はいつも談話室で通販番組を観ていて、時折(やはり事情があってゲストとなっているらしい)榛葉のいる温室に足を運んでは、彼女が振る舞ってくれた紅茶に舌鼓を打っていることもある――それが司の知る通販さんの全てだった。
そうか、温室か。
「分かった。あそこだ」
「え? センセ、通販さんの居場所が分かるの?」
「ああ、多分あそこにいると思う」
そう一言、くるりと身を翻した司はそのまま廊下に飛び出した。
「司先生、急に駆け出さないでください。私たちも参りますわ!」
突然のことに驚きの声を上げた鏡花を初めとする三人も、慌てて司の後を追ってバタバタとその場から駆け出していった。
案の定、通販さんは温室にいた。
どうやら本日の買い物は既に終了しているらしく、湯気と共に鼻腔をくすぐる茶葉の香りを漂わせるカップを手にした彼女は、上機嫌な様子だった。
「……鍋? ああ、あるぞ」
早速、学院生の中でも数少ない、通販さんと善隣友好条約の締結に成功している美綺を交渉役に立てて確認したところ、二つ返事で貸し出しを認めてくれた。
そして学院の某所に存在するらしい、通販さん専用倉庫の鍵を託された美綺が温室を後にして待つこと、十数分。
今、彼の目の前にそれがあった。
「鍋……なのか、これ?」
腕組みをしながら司は、テーブルの上に鎮座まします鍋(とおぼしき物体)を訝しげな眼差しと共にしげしげと眺め渡す。
形的には直径十五センチ程の円筒形をしており、埃避けも兼ねているガラス蓋を取り上げてみると、いかにも鍋らしい金属製の器が姿を現した。
「正確には、電気フライヤーらしいです」
司を含む新来の訪問者への紅茶の供応を終えた邑那が、そっと合いの手を入れてくる。
「フライヤー? それって天ぷらやコロッケみたいな、揚げ物が作れる調理器具だっけ」
「はい。お鍋の内側に引いてあるこの線まで油を注いだ後、スライドレバーを『揚げ物』と書かれている場所まで動かしてあげると、十分ほどで適温になるそうです。後は、お好みに応じて揚げていただければよろしいみたいですね」
鍋の中に入っていた取扱説明書――紙っぺら一枚にイラスト&五ヶ国語表記されているいかにもな代物――に目を落としながら、邑那が使用方法を解説していく。
「案外、簡単に使えるっぽいな。でもこの鍋と、僕が持ってるチョコで何ができるんだ? いくら何でも、チョコを油代わりに揚げ物ができないくらいのことは僕だって知ってるぞ」
「センセセンセ。このお鍋はね、フォンデュ鍋も兼ねてるんだよ」
通販さんの隣でお茶を飲んでいた美綺が、今ひとつ要領を得ない司に助け船を出してくる。
「フォンデュ?」
「一般的にはチーズを用いるのが良く知られていますが、それ以外にもオイルやチョコレートを材料にしても作れるのですよ」
「なるほど。つまりこの鍋は揚げ物専用って訳じゃなく、そのフォンデュとやらをするのにも使えるのか」
「そゆこと。これなら、センセが後生大事に抱えているチョコも有効活用できるっしょ」
そう言いながら視線を向けた先には、ここに至るまでに十五枚まで増殖を繰り返してきた板チョコ全てが収められた桐箱があった。
「まぁ……これだけの量を僕ひとりで食べるのは正直辛いから、アイデアとしては悪くないけど、でも良いのかなぁ」
「ん、何が?」
「だって理事長、僕が責任をもって処分するようにって言ってたぞ」
「でもさ、それってセンセがひとりで全部食べろとは言ってないと思うよ。センセの発案で学院生との親睦を深めるために『チョコフォンデュパーティ』を急遽開催、そうすれば無事チョコの処分も完了。ほら、みんな幸せ」
確かに美綺の言ってることは、一応筋は通っていた。
少なくとも理事長の指示には従っているし、甘い物がさほど得意でない司としては、全てをひとりで処分することを考えれば大助かりな策には違いなかった。
「そう言われれば、そうか。よし、分かった。じゃあ、この鍋を使ってパーティをやるか」
「やたっ。センセのそのノリの良さ、大好き」
「はぁ……要するにお姉様は滝沢先生に助け船を出すという口実の下に、お祭騒ぎをしたかっただけなのですね」
ことここに至って、姉の真意に気付いた栖香がため息混じりの呟きを漏らす。
「でも司先生。パーティというには、この人数では少々寂しくありませんこと?」
今まで沈黙を保ちながら静かに紅茶を堪能していた鏡花が、温室に足を踏み入れてから初めて口を開き、そんな疑問を呈してきた。
彼女のその言に、司は改めて辺りを見渡す。
今、この場にいるのは……美綺、栖香、鏡花、邑那、通販さん、そして司の六名。
貧乏学生時代、友人たちと「パーティ」と銘打って行った宴会などは大抵四、五名だったから、特に違和感を感じたりはしなかった。
しかし、ここの学院生たちと司とは、明らかに住んでいる世界が違う。
彼女たちからすればパーティとはもっと大人数、少なくとも一桁の人数で行われるべき物ではないのかもしれなかった。
「ね、邑那さん。会場としてここを使わせてもらって良いかな? あ、もっちろん、邑那さんたちも参加してくれると嬉しいな」
「よろしいのですか?」
「邑那さんには場所を、通販さんには機材を提供してもらうんだから、ぜひぜひ! 先生もそれで良いよね?」
「もちろん。というか、僕の中では最初から頭数に入っていたぞ」
「分かりました。では、喜んで参加させていただきます」
にっこりと笑みを浮かべながら参加の意思を表明した邑那は、そしてすぐ横にいる通販さんへと顔を向ける。
「あなたはどうされます?」
「私か」
まるで他人事のように、彼女は呟く。
それから視線を、期待の眼差しを浮かべている司と美綺へと向ける。
時間にして数秒。
やがて小さく肩をすくめて見せた通販さんは、彼女にしては珍しく微かに口許を緩めたかと思うと、
「分かった。相伴に与ろう」
そう、小さく頷き返してきた。
§
「……美味い」
一見して、柄の妙に長いマイナスドライバーにも見えるフォンデュ用フォークの先端に突き刺さった、チョコ浸しの具を口に含みながら通販さんが呟く。
「どちらをお試しになられたのですか?」
「これだ」
邑那の問いかけに答える代わりに、彼女がフォークで突き刺したのは――。
「焼き芋……って、誰だ! こんなもん持ち込んだのは」
「はいはーい。あたしでーす!」
呆れ混じりの司の叫びに即座に反応して手を挙げたのは、美綺からの招集に応じて馳せ参じた弥生だった。
「のばらと一緒におやつに食べようと思って、ちょうど食堂で作ってもらったとこだったんだよねぇ。せっかくだから、持って来ちゃった」
「いいじゃん、センセ。美味しかったみたいだし、結果オーライっしょ」
「そういう問題か?」
「どれどれ、アタシもひとつ……わっ、ホントに美味しいよコレ」
食べやすいように数センチ角のブロック状に刻まれた、焼き芋のなれの果てをチョコに浸してから口に放り込んだ美綺は、通販さんと全く同じリアクションをして見せた。
「意外な発見ですね」
どうやらお気に召したのか、黙々とチョコ和え焼き芋を食べ続ける通販さんの横で、邑那が楽しそうに目を細める。
今、この場には司を含めて十一名の人間がいた。
美綺が鍋パーティを提案した時には六名だったから、倍近くに膨れている計算になる。
何気なくその場を見渡した司の瞳に映し出されたのは、揃いも揃って普段から見慣れたメンツばかりだった。
……というか、僕にチョコをくれた子ばかりだ。
まず間違いなく、美綺が意図的に関係者にだけ声をかけて回った結果なのだろう。
普段は物ぐさでがさつで大雑把で考えなしに行動しているように見える癖に、その実こうしたさりげない気配りもして見せる。
純粋培養されたお嬢様だらけの学院において、美綺のように相反する個性をバランス良く持ち合わせている存在は、かなり貴重に違いなかった。
その美綺は、チョコ和え焼き芋を刺したままのフォークを弥生に渡しながら、
「弥生っちも食べてみなって。美味しいよ」
「ってかさ、この人数で鍋一個ってちょっと厳しくない?」
「んー、じゃあ拡張しようか」
「できるの?」
「んふふー。まっかせて」
弥生からのクレームに景気よく胸を叩いた美綺は、
「じゃっじゃじゃーん!」
セルフファンファーレを奏でながら、テーブルの影から未使用の鍋(電気フライヤー)を取り出し、皆に見せびらかすように掲げて見せた。
「うお、まだあったのか!」
司が本来の持ち主である通販さんに訊ねると、
「お買い得の三個セット」
そんな、簡潔な答えが返ってきた。
大物は付属品や消耗品と組み合わせることで、小物は複数個束ねることで商品単価のかさ上げを図るのが通販番組の基本だったから、言われてみればもっともな話だった。
「待たせたな、皆の衆!」
温室の入り口から唐突に、居丈高な口調の声が響く。
みやびだった。
リーダが彼女の背後に控えているのは当然として、加えて殿子と梓乃、ちとせまでも引き連れている。
どうやらこれで、司にチョコをあげた本校系の学院生も勢揃いらしかった。
「みやびん、ちょうどいいトコに。頼んでた物、持ってきてくれた?」
会場を拡張するために、邑那の指示で温室の奥から新たなテーブルを引きずってきていた美綺が、みやびに向かって手を振りながら口を開く。
「案ずるな。風祭の力を持ってすればこの程度のこと、造作もない」
「何を頼んだんだ?」
テーブルのセッティングを手伝いながら、首を傾げる司。
「んふふ……ちょっちね。すーぐ分かるよ。さて、あとは追加したテーブルに鍋を設置して準備オッケーと。はいはーい、みんなちゅうもーく!」
手を叩きながら不意に大声を発した美綺に、何事かといった様子で皆の視線が向けられる。
「みやびんたちが来て、これで今日、センセにチョコをあげたメンバー全員が揃いました。ということで、チーム分けをします。んじゃすみすみ、よろしくね」
「はい、お姉様」
いつの間に作ったのか手にしたこよりを一本ずつ、学院生たちに引かせていく。
「引いてもらったくじにはA、B、Cのどれかが書いてあります。それが所属チームだよ」
「このチーム分けには、何か意味があるの?」
引いたばかりのくじをひらひらと揺らめかせながら、殿子が質問する。
「せっかくだから、チーム毎に具材を変えてみようかと思うんだ。オーソドックスな物からまさかこれをという珍味まで、よりどりみどりだよ。もっちろん、試食結果は次号『凰華ジャーナル』にて掲載予定」
「さすがは相沢さん。抜け目ないですわね」
「ちなみに珍味、ってどんなレベルのアイテムなんだ?」
「はいはいセンセ、慌てない慌てない。そんじゃ今から、各チームに割り振る具材の発表をしまーす。まずはAの札を引き当てた人、手を挙げて」
美綺の声に、梓乃、殿子、鏡花、三橋、溝呂木、岡本、リーダが挙手をする。
「Aチームの人はおめでとー。このチームに割り当てられてるのは普通の具材だから、チョコフォンデュを心ゆくまで楽しんでね。ちなみにテーブルはこっち」
そう言いながら一番奥にあるテーブルに歩み寄った美綺は、具材が盛りつけられている皿を被っている布をさっと取り去る。
そこには、色とりどりな具材が山と積まれていた。
見た感じ、イチゴやバナナ等の果物系と、マシュマロやミックスビーンズ等の甘味系が主力を構成している様子だ。
わぁっと、Aチームの面々から女の子らしい喜びの声が上がる。
確かにチョコとの相性は悪くなさそうで、美綺の言う通り「普通」だった。
「普通かぁ」
「良かった……殿ちゃんと一緒で」
殿子と梓乃が、そんな微妙にかみ合わない会話を交わしながら、指示された席に向かって歩いてゆく。
「じゃ、次はBチームね。はい、挙手」
栖香、邑那、大銀杏、高松姉妹、結城、工藤さんの七名。
「ありゃ、ちとせっち以外みんな、分校系の学院生ばっかりになっちゃったね。まぁこれも天の配剤ってことで。で、このチームはちょっとチャレンジングなネタで頑張ってもらいます」
「えー、マジ?」
美綺の言葉に、弥生が見るからに嫌そうな色を浮かべて見せる。
しかし当の美綺はといえば、全く気にした風も見せずに、
「こういう時は、ちょっとくらい冒険しといた方が絶対面白いって。で、テーブルはAチームの隣のこっちね」
チャレンジングとの言葉に、興味を引かれた司は思わずテーブルをのぞき込む。
そこにはポテチ、煎餅、柿の種、裂きイカ、サラミ、チーカマ、ちくわと言った、スナック系、練り物系の具材が配されていた。
ポテチや柿の種などは組み合わせ的にまだ行けそうな気もするが、ちくわやサラミとチョコの相性は……果たしてどうなのだろう。
こうして見ると、確かにチャレンジングなのは間違いなさそうだった。
「さて、ラストはCチーム。挙手は……残り全員だから、いらないね」
「今まで手を挙げてないメンバーっていうと、僕と理事長、相沢と……あとは通販さん?」
「そうだな」
指折り数える司に、通販さんが相づちを打つ。
「ってか、AとBが七名ずつでCだけ四名って、人数のバランスおかしくないか?」
「それについては、あたしも同意見だ」
「にゃはは。それはCチームの具材を見てもらえば、多分納得してくれるんじゃないかな」
手招きされるままに司は、Cチームに割り当てられたテーブルに歩み寄る。
その途端、独特な強い匂いが鼻腔を刺激する。
……こ、この匂いは。
彼の嗅覚が正しければそれは今、この場に存在するにはあまりに似つかわしくない代物に違いなかった。
というか、どんな基準で選んだのかすら謎だった。
相沢のヤツ、本気なのか……?
司がその疑問を口にするよりも早く、美綺は具材を覆い隠していたカバーを取り払った。
「じゃじゃーん!」
「…………」
「…………」
「…………」
意気揚々とした美綺の態度とは裏腹に、テーブルを見つめる司、みやび、通販さんの三人は無言のままだった。
理由は簡単。
今、目の前に広がっている光景が、あまりにも非現実的だったから。
タコ、イカ、トロ、ステーキ、ピクルス、キムチ、野沢菜、ザーサイ――それらが、四人の前に提示された現実だった。
「な、な、な……何だこれは!」
最初に声を発したのは、みやびだった。
「さしずめ罰ゲームといったところか、これは」
次いで通販さんの、現状を冷静に分析した一言。
「っていうか、酒のつまみばかりって気がしなくもないぞ」
「お、センセ鋭い。記事にするなら、これくらい難易度の高い物も入れておかないと、読者の満足は得られないからね。さぁ、みやびんも席に着いた着いた」
「あ、あたしはこんな物食べ……わぁっ! せ、背中を押すなーっ!」
美綺に羽交い締めにされながら、みやびがあてがわれた席へと引きずられていく。
その仲睦ましげ(?)な姿に苦笑を浮かべていた司は、ふとすぐ近くに佇む通販さんと目が合った。
「お前はどうする?」
「さすがに僕ひとり逃げるって訳にもいかないし、諦めて相沢の実験――じゃなくて、記事のネタ作りに協力してやりますかね」
「ふ……実験か。確かにその表現が的確だな」
司の言葉が彼女の琴線のどこかに触れたのだろう、微かに口許を緩めて見せる。
普段あまり見ることのないその表情に、彼の心臓がどきりと高鳴る。
それは司自身、思いもよらぬ身体の反応だった。
「おいこら、滝沢司! さっさと席に着け! でないと、始められないではないか」
はっと我に返ると、既に開き直りの境地に達したのか、みやびが手にしたフォークを振り回しながらこちらを睨み付けていた。
「行くぞ」
返事も待たずにくるりと背中を向けた通販さんが、テーブルに向かって歩き出す。
「何を食べたい?」
「……え?」
唐突な問いかけだったせいで司は、咄嗟に反応ができなかった。
「今日はバレンタインらしいからな。邑那が同じ席にいれば手間が省けて良かったのだが、仕方がない。邑那に代わって、私が食べさせてやろう」
「えーっと……」
「遠慮するな。何でも食べさせてやるぞ」
「と言われても、与えられた選択肢が選択肢だからなぁ」
苦笑しながら司は、改めてテーブルの上に並べられた和洋中ごちゃ混ぜ状態となっている具材の山に目を向ける。
いっそ受けを狙うべきか。
はたまた無難さを取るべきか。
小首を傾げながら、時間にして数秒ほど思案に暮れた司は、
「お任せで」
ようやくのことで、それだけを口にした。
恐らくその答えを予期していたのだろう、割り当てられた席に腰を下ろし、傍らに並べられていたフォークを手にした通販さんは、
「任せろ」
楽しげに頷きながら、微塵も迷いを見せずにキムチの塊を突き刺すとそれを鍋に突っ込み、チョコ和えにした上で司の方に差し向けてきた。
いきなりの最高難度だ。
ちらりと視線を動かすと、みやびも美綺も自分のことはそっちのけで、観客よろしく司の次の行動を注視している。
……はぁ。
思わず、内心でため息を漏らしてしまう。
「さぁ、食べろ」
通販さんの言葉に現実に引き戻された司は、ままよと閉じていた口を大きく開いた。
女性に食べさせてもらう気恥ずかしさ。
謎の物体を試食させられる恐怖。
その両方がない交ぜになった、何とも表し難い思いを抱えながら。
第1話 了
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