この作品は、株式会社ウィルから2006年に発売された『遥かに仰ぎ、麗しの』の人物・世界設定を使用しています。
 また作中に登場する組織・団体・人物の名称は、全て架空のものです。




『凰華景物詩』
Update:2009.06.11



第2話「三月十四日では遅すぎる」

「あ!」
 不意に司が声を上げたのは、教職員・学院生兼用となっている食堂で朝食を取っている最中のことだった。
 右手に箸。
 左手に納豆の入った小鉢。
 それらを持った姿勢のまま、凍りついたように固まってしまっている。
 学院赴任当初、朝食は(高価な皿を割る可能性が低くなるという理由で)クラブサンドを中心としたパン食を選ぶことの多かった司だったが、最近のマイブームは和食だった。
 白米、味噌汁、焼き魚のメイン三品にお新香、焼き海苔、納豆、日本茶を加えた計七品が、食堂で供される和風朝定食(司が命名)の構成だった。
 文字どおりの純和風な朝食。
 ぱっと見、街中の牛丼屋で出される物と大差なかったがそこは天下のお嬢様学院、材料から調理法に至るまでのこだわりは半端ではなく、味に関しては高級ホテル顔負けな非の打ちどころのない逸品に仕上がっていた。
「きゅ、急にどうされたのですか?」
 テーブルを挟んだ正面に座る女生徒――仁礼栖香が、ヘレンドのティーカップを手にしたまま驚いた様子できょとんとした顔をしている。
 既に朝食は終えているのか、カップの半ばほどを占めている英国茶を除けば、トレイは全て空だった。
 それはいつも通りの、日常の光景。
「先生、今日は何の日ですか?」
 寝惚け眼をこすりながら食堂に姿を見せた司に、栖香がその問いかけを口にしたのは、指定席となっている彼女の相席に腰を下ろして間もなくだった。
 互いに朝の挨拶を交わした後、両手を合わせていただきますをした司が味噌汁を一口啜る、そのタイミングに合わせたかのような行動だ。
 そして社会科教師である司に対するそれは、いわゆる「今日は良い天気ですね」に近いニュアンスを有していた。
 要するに、話のとば口として持ってこいなのだ。
 きゅぴーんと、司の目が輝きを増す。
 その挑戦、受けて立とう――お椀を口にしたまま、言葉の代わりに目でそう返答する司。
「今日は……三月十四日か。有名どころだと、五箇条の御誓文が宣布された日だね」
 お椀をトレイに戻した司は、箸の先を空中でくるくる回しながら話し始めた。
「あと、数学の日ってのもあったかな」
「数学ですか? 何故今日なのでしょう。ご高名な数学者の、生誕日か没年日に当たっていたりするのでしょうか」
「いや、もっと単純。きっと仁礼が笑っちゃうくらい単純なね」
「そ、そうなのですか」
「じゃあヒント。今日の日付は三・一四とも読めるだろ。どうだ仁礼、この数字に見覚えはないか?」
 自身の記憶を探るように目を細めた栖香は、しかしすぐにぱっと表情を明るくすると、
「あ、円周率ですね」
「正解。な、安易だろ」
 沢庵を一切れ囓りながら、肩をすくめる司。
 同意の言葉を口にする代わりに栖香は、小さく笑みをこぼしてみせた。
「記念日というのは特別な出来事があった日や、何かが始まった日を記念して制定されることが多いけれど、こんな風に語呂合せで決められてるケースも結構あるよな」
「言われてみれば確かに……文の日などもそうですね」
「ははっ、仁礼は風流だな。僕だったら真っ先に、肉の日が思いつくな」
 苦笑しながら司は、今度はほぐした焼き魚の肉をつまみ上げ、口に含む。
 その途端、かつて三つ星レストランでシェフを勤めていたとの噂もある料理長手ずからによる絶妙な塩加減と焼き具合が、見事なまでの味のハーモニーを口中で奏でた。
 そして舌鼓を打ちながら、ふと思う。
 食堂の経費は全て学院持ち――即ち全メニュー無料だったが、もし自腹を切ってこれを食べた日には、一体いくらになるのだろうかと。
 新任教師の司の給料では、一日分の食費が賄えるかすら怪しかった。
「あとは……時代劇ネタで、松の廊下の一件が今日じゃなかったかな、確か」
「松の廊下と言いますと――忠臣蔵ですか」
「お、さすがだな。松の廊下と聞いただけで忠臣蔵が出てくるとは」
 打てば響く優秀な教え子の反応に、満足げな様子の司。
「仁礼の言う通り、江戸城中松之大廊下において播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、高家吉良上野介義央に過去の遺恨を理由に斬りつけたのが、元禄十四年の今日って訳だ」
「被害者の吉良は軽傷を負っただけでしたが、加害者の浅野は時の将軍徳川綱吉の命で即日切腹を申しつけられた上に改易、お家断絶の憂き目に遭います。そして残された遺臣四十七士が集い、始める復讐譚が忠臣蔵――ですね」
 途中から言葉を引き継いだ栖香の解説に、司は驚きながらもうんうんと頷き返す。
「って仁礼、お前結構詳しいな。もしかして時代劇マニアとか?」
「いえ、そういう訳ではありません。幼かった頃、両親に連れられて観劇に行った時の演目がたまたま忠臣蔵で、その記憶が残っていただけですから……」
 さすが、元華族な仁礼財閥のご令嬢。
 幼少時の物とは思えないその情操教育のレベルの高さに、知らず感心してしまう。
 そして自分が幼かった頃はどうだったろうと……途中まで記憶をたどってみたところで、気持ちが沈んでしまった。
 理由は簡単。
 幼かった頃の司には、誰かに何かをしてもらった思い出が皆無だったから。
 庇護も愛情もなく、ただ荒れるに任せた日々の記憶しかなかったから。
「滝沢先生……?」
 その声に我に返ると、どこか不思議そうな眼差しを浮かべる栖香の顔が飛び込んでくる。
 いかんいかん。
 朝っぱらから、しかも教え子を前に落ち込んだ顔を見せるとは何たる失態。
 慌てて気持ちのスイッチを切り替えた司は、なるべく自然に見えるよう努力しながら笑顔を顔に貼りつけた。
 そして誤魔化すように、トレイの上にあった納豆入りの小鉢を手にする。
 醤油と練り辛子をかけた後、右手で掴んだ箸でグリグリとこねくり回し始める。
 箸を動かす度に納豆独特の発酵臭がプンと、司の鼻先を撫でてゆく。
 幸いテーブル越しで多少距離があったお陰か、万人にとって香しいとは言い難いその匂いは栖香の方までは届いていない様子だ。
「あー、ごめんごめん。何でもないから、うん。それはそうと……他にもいくつか、今日にちなんだ記念日があるんだよ。食べ物にまつわる物だと――マシュマロデーとか」
「マシュマロ記念日、ですか?」
 堅物とはいえやはり栖香も女の子、思ったより素直に司の話に食いついてきた。
「三十年くらい前かな、福岡のある菓子店が――」
 そこまで言いかけたところで、頭の片隅で何かが引っかかった。
 ……ん?
 何だろう……この引っかかりは。
 恐らく今、自分が口にしかけた言葉にその原因があるような気がしたが、しかしそれが何なのかハッキリと思い出すことができない。
 別にマシュマロが苦手とか嫌いという訳でもないのに、どうしてだろう。
 そこまで考えたところで司は、ようやく気づいた。
 途中まで口にしかけていたマシュマロデーの、その由来について。
 バレンタインデーの返礼として、男性から女性にマシュマロを送る日として定められたのがマシュマロデー。
 そして今日は、バレンタインデーからちょうど一ヶ月――即ち、ホワイトデー。
 そこまで思考を巡らせた結果、司の意識はようやく求める回答にたどり着く。
 次の瞬間、今の今まで自分がホワイトデーの存在自体を、綺麗さっぱり失念していたことに思い至った司は、
「あ!」
 半ば反射的にそう、声を上げていた。

                    §

「それでせんせ、何か困りごと?」
 この場にいる全員の顔を順繰りに見渡した後、小首を傾げながら最初に口を開いたのは殿子だった。
 時刻は十三時過ぎ。
 三時限目の授業のまっただ中だ。
 ちなみに三月も半ばのこの時期、予め定められている年間カリキュラムは全て消化済だったから、本来なら授業など行われていない時間帯のはず。
 だが世の中、原則があれば例外もある。
 通常のカリキュラムだけでは及第点を出せなかった、成績の芳しくない学院生を対象に行われる特別授業――要するに、補習が行われているのだった。
 そんな中、空き教室を会場に急遽招集された会議には、司を含めて四人の人影があった。
 午前中、割り当てられた補習を終えた後、昼休みに学院内をあちこちかけずり回ってどうにか捕まえることができた面々だ。
 授業の時同様、教卓に立った司は一段高くなったその場から、最前列の机に横一列になって着席している彼女たちの顔を改めて見渡す。
 見事なまでにバラバラだな……ふと、そんなことを思った。
 今、目の前にいる三人は年齢も系列もクラスも異なっており、むしろ共通点のないことが共通点と思えるくらい互いに接点のないメンツだった。
「いやまぁ……何だ……困りごとというか、ちょっと相談に乗って欲しいことがあって」
 さて、どう切り出した物やら――内心で様々な思いが交錯する。
 素直に全てをぶっちゃけるべきか。
 それとも、遠回しに匂わせるように説明するべきか。
 だが次の瞬間、彼のそんな思惑は木端微塵に吹き飛ばされる。
「あ……もしかしてせんせ、ホワイトデーのお返しの用意を忘れてた?」
「ぶはっ」
 いきなり剛速球でストライクど真ん中を攻められ、噴き出してしまう司。
「図星だった?」
「ふん、甲斐性のないヤツ」
 そして追い打ちをかけるように、窓際で頬杖をついて不機嫌そうな色を浮かべながら、表情そのままに司の所行をばっさり切り捨ててみせる通販さん。
「……ううっ」
「滝沢先生……いまさら隠し立てしても仕方ないかと思います」
 やや呆れ気味に呟くのは他の二人と異なり、既に事情を知っている栖香だった。
「そ、そうだよな」
「甲斐性云々はともかく通販さんの仰る通り、滝沢先生からのお返しを心待ちにしていた方はいらしたでしょうから、このままでは少々残念な結果に終わりそうなのは確かですね」
「そうそう。私も楽しみにしてたから、ちょっとがっかり」
「ぐふっ」
 心臓をえぐる精神的ダメージに司は、胸を押さえながら教卓に伏せてしまう。
「た、滝沢先生! お気を確かに……」
 慌てて席を立った栖香が、オロオロと狼狽えながら彼の身体をおもんばかる。
「だ、大丈夫……大丈夫……」
 覚悟していたこととはいえ、いざこうして非難の矢面に立つと受けるダメージは想像以上の物だった。
 パンチドランカーなボクサーのごとく頭がふらつき、視界が不安定に揺れ動く。
 それでも栖香に支えられてどうにか身体を起こした司は、こちらを注視している殿子と通販さんに目を向けると、
「仁礼の言う通り、いまさら取り繕っても仕方ないよな。今日のことをすっかり忘れてたのは事実で、それについては言い訳のしようもない。でもその上で、今からでも僕のできる範囲で何かしたいんだ。そのために君たちの知恵を貸してくれないだろうか。頼む!」
 そのまま教卓にぶつけんばかりの勢いで、頭を下げた。
 教室に沈黙が訪れる。
 五秒。
 十秒。
 そんな永遠に思える静寂を破ったのは、殿子の一言だった。
「栖香、君はどうするの?」
 いつもと変わらぬ穏やかな声でそう、問いかける。
 自分に話が振られると思っていなかったのか、虚を突かれて一瞬「え?」と困惑げな様子を浮かべた栖香は、しかしすぐに表情を戻すと、
「わ、私は……滝沢先生にはお姉――相沢さんの件で色々とご迷惑をおかけしましたし、もし今の私にできることがありましたら、お力添えして差し上げたいと思っています」
「うん、そうだね。私も何ができるかは分からないけど、こうしてせんせが頼ってきてくれたんだから、その期待に応えてあげたい」
 どうやら栖香と殿子は、司を助けることに依存はない様子。
 残るは通販さんひとり。
 司と栖香、そして殿子の視線が窓際の席に集まる。
 三者三様の期待と不安がない交ぜになった思いが込められているせいか、ピンと空気が張り詰めたような、そんな錯覚を抱いてしまう。
 沈黙は一瞬だった。
「分かった分かった。滝沢司、お前には何だかんだで世話になっているからな。私も協力するに吝かじゃない」
 呆れたように肩をすくめてみせる通販さん。
 その口許には、彼女にしては珍しく苦笑に近い笑みが浮かんでいた。
「それに」
「……?」
「邑那がこの場にいたら、やはり協力していたに違いないだろうし」
 その呟きと共に、口許の笑みは消えていた。
 三月に入って間もなく、邑那は学院から忽然と姿を消していた。
 彼女の身に何があったのか、何故姿を消したのか――司はおろか彼女と一番深い仲だったはずの通販さんですら、何ひとつ知らされないままの失踪劇だった。
「じゃあ、これで全員おっけーってことかな」
 邑那の名が出たことでやや沈鬱になってしまった場の空気を振り払おうと、席を立った殿子が明るい調子で三人に確認を取る。
 小声で「そうですね……」そう言って小さく頷いた栖香は、
「放課後まで、あまり時間がありません。早急に手を打ちましょう」
 その言葉を耳にしながら司は、壁にかけられた時計を見る。
 十三時四十分。
 四時限目の終了――即ち美綺を初めとする補習組が身柄を開放され、司のもとに大挙してなだれ込んでくるまでに残された時間は、二時間と少しだった。

                    §

「そういえばホワイトデーのお返しとは、具体的にどのような物があるのでしょう?」
 小首を傾げながら、素朴な疑問を口にする栖香。
「朝のお話ですと、マシュマロデーはバレンタインデーのお返しを目的に設けられた記念日なのですよね、滝沢先生?」
「その通り。あと似たようなので、『キャンディーの日』ってのもあったかな。マシュマロデーとは違って、こっちは全国飴菓子工業協同組合って業界団体が制定した日だったはず」
 記憶をたどるように、こめかみに指を当てながら返答する司。
「舌を噛みそうな名前だね……」
「由来を聞く限りどちらもこの国だけのイベント、という理解でよろしいのでしょうか」
「要するに……菓子業界の陰謀ってヤツだろ」
 建前はさておき、本音の部分ではバレンタインデーにしてもホワイトデーにしても、企業の利潤追求の手段に過ぎないのは間違いない。
 とはいえその全てを頭から否定する気も、司にはなかった。
 たとえ裏にどんな大人の思惑や事情があったとしても「自分の想いを託した品物を贈る」という行為その物は、純粋な好意の発露に違いない――そう思っていたから。
「でも内気で引っ込み思案な方などは、このような自分の背中を押してくれる機会がないと、告白もなかなかできないのではありません?」
 司と同じ思いだったのだろう、栖香が通販さんの発言を取りなす。
「何より、楽しいイベントは多いに越したことはないしね」
「鷹月さん、それではお姉……相沢さんと一緒になってしまいますわ」
「あはは、確かに美綺が言いそうだ。うん、この件については私も同意見。こんな辺鄙な場所にある学院だからこそ、楽しめる行事はひとつでも多くないと」
「でも、私たちはもう卒ぎ――あ……も、申し訳ありませんっ!」
 途中まで言いかけた栖香は、だが最後まで紡ぐことなく言い淀んでしまう。
 そして自らの失言に恥じ入るように、顔を伏せてしまった。
 一瞬、彼女のリアクションの意味が分からずに首を傾げた司は、すぐに理解した。
 この場にいる学院生三人のうち、来週に予定されている卒業式で主賓として出席するのが栖香ひとりだけなことに。
 鳳華女学院分校は(本校系、分校系問わず)教育カリキュラムに単位制を採用している。
 即ち、卒業に必要とされる単位数を取得しさえすれば年齢や学年の如何を問わず、毎年三月に開かれる卒業判定会議での承認を経た後、卒業証書が授与される仕組みだった。
 つい先日開催された判定会議でも同様の手続きを踏んだ結果、栖香は必要に倍する単位数を取得し、問題なく卒業を認められていた。
 だが殿子は、どこからどのような圧力が掛かったのか今年度に取得したはずの単位は全て無効とされ、単位数不足を理由に卒業は認められなかった。
 通販さんに至っては、名前すら挙げられない始末。
 そもそも彼女の場合、単位の取得云々以前にそもそも学籍簿が存在しているのかどうかすら怪しかった。
 ゲスト――司の脳裏を、その一言がよぎる。
 通販さんは司が学院に赴任する前から、そして殿子はまさに現在進行形でその世界に足を踏み入れつつあるのだった。
「栖香、気にする必要はないよ」
 特に気分を害した風もなく栖香の肩をぽんと叩いた殿子が、口を開く。
「この学院は、決して自由に満ち溢れた場所なんかじゃない。でもそれを承知の上で過ごしている分には、そう悪い場所でもないよ」
「ま、こんな場所でも住めば都だ」
 肩をすくめながらそう、同意する通販さん。
「それに今は、せんせがいるしね。私としては外の世界に戻るくらいなら、ここでせんせと一緒にいた方がよっぽど楽しいし、幸せかな」
「確かに。滝沢司は、私たちに貴重な娯楽を提供してくれているな」
「それって、褒められてるのか……?」
 何とも微妙な言われように、思わず首を傾げてしまう司だったが、
「当然です」
「もちろんだよ」
「当たり前だ」
 即座に返ってきた三者三様の返答に、黙り込むしかなかった。
「時間が惜しい。話を戻すぞ。仁礼もいいな」
「は、はいっ」
 この件はもう済んだとばかりに通販さんが、いつの間にか脱線しかけていた話の流れを強引に元に戻す。
「ここまでの話だと、マシュマロ、キャンディーなどの菓子類を返礼として渡すのが一般的ということになるが……他に何か、心当たりはないか?」
 返答はない。
 しかしそれはある意味、当たり前の反応だった。
 司の目から見れば三人は、何だかんだで全員が(それぞれに特殊事情があるとはいえ)良家のお嬢様揃いだ。
 そもそも、庶民の行事であるバレンタインデーですら耳知識として有しているに過ぎない彼女たちに、男性が主体となるホワイトデーの知識があるとはとても思えなかった。
「そういえば――」
 ふと何かを思い出したように、通販さんが呟く。
 大人しく椅子に座っているのに飽いたのか、いつの間にか両足を組んで机の上に腰を下ろした彼女は、記憶を手繰るような眼差しを浮かべながら、
「少し前に、食べ物以外のお返しを紹介していたのを観た記憶がある」
「観たって……通販番組で?」
 問い返す司に、当然といった様子で「そうだ」と頷く。
 そして何を思ってかにやりと、小悪魔めいた含みのある笑みを口許に浮かべると、
「意中の相手に、自分好みの下着を贈るというのも有りらしいぞ」
「……え?」
 一瞬、返答に詰まってしまう。
 そして瞬きを数回した後、ようやく口を開く。
「下着って……ブラとかショーツとかブリーフとかトランクスとかの……あの下着?」
「当然だ。他に何がある。マイクが紹介していた中には、清楚な物から挑発的な物まで様々なバリエーションがあったぞ」
「いや、それはさすがに……」
「どうだ、滝沢司。お前の審美眼が私のと一致するなら、身につけてやらんこともないぞ」
 冗談めいた口調でそう言った通販さんは、くすりと小さく笑みをこぼした後、すっと目を細めてみせた。
 その眼差しに魅了されてしまったのか、不意に司の脳内妄想回路が起動し、当人の意志とは関係なく猛烈な勢いで妄想を吐き出し始める。
 彼女に贈るとしたら、どんなデザインが似合うだろうか。
 清楚な白?
 それも良さそうだが、逆にアダルティな黒のレース物も悪くない気がした。
 いやいやいっそ、ガーターストッキングで――。
「滝沢先生!」
 自分の名を呼ぶ叫び声で、我に返る。
 見れば眉根を寄せてキッと睨みつけてくる栖香の表情が、視界に飛び込んできた。
「し、しししし下着を贈るだなんて、そそそそんな破廉恥な行い、わわわ私は絶対に認めませんからっ!」
「いや……ま、待て仁礼。僕はやるなんて一言も――」
「当たり前ですっ!」
 ぴしゃりと、一言のもとに却下されてしまう。
 少し考えればジョークだとすぐに分かりそうな物だったが、さすが歩く謹厳実直の異名を持つ栖香だけあって、この手のネタに関する拒絶反応は強烈だった。
 とりつく島もないとは、まさにこのことか。
「んー。でもせんせが選んでくれたのなら、履いてみてもいいかな」
「たたた鷹月さん!」
「ははは。まぁ自分で言っておいて何だが、今からオーダーしても放課後までにはとても間に合わないと思うぞ」
 戯れはこれくらいにしておくか――彼女にしては珍しく爽やかな笑み浮かべながら、通販さんが話題の切り替えを図る。
「それもそうか。じゃあこの案は残念だけど今年は諦めて、来年に改めて検討ってことで」
「そうだな」
 当の司を差し置いて、何故か殿子と通販さんの間で勝手に話が進んでゆく。
 このまま放っておくと最後にはとんでもないことになりそうな予感がしたので、慌てて話に割って入った司は、
「そ、その件はまた後日――それでえーと、話を振り出しに戻すけど、やっぱり食べ物にしておくのが無難なのかな?」
「そうだな。だが食べ物にしても、今から人数分を用意できるか?」
「ひーふーみー……全部で十七人分か」
「町まで出れば、どうにかなるのではないかと思いますが……ただバスで下の町まで行って時間までに戻ってこれるか、微妙ですね」
 頭の中で麓までの往復にかかる時間を計算した栖香が、ため息混じりに呟きをもらす。
 八方塞がりな状況に、腕組みをしながらうなり声を上げるしかない。
 ちょんちょん。
 そんな彼の二の腕を、誰かが突いてきた。
「うーん……ん?」
 殿子だった。
「ね、せんせ。私たちさっきから、何か物をお返しをするって前提で話をしてきたけど……形にこだわる必要ってあまりないんじゃないかな」
「え?」
 彼女の云わんとするところが分からず、首を傾げる司。
「私だったら何が一番嬉しいかって考えてみたんだけど……私がもらって嬉しいのは『形のある何か』じゃなくて、せんせが私に示してくれる『形のない何か』だから。多分、他のみんなも同じ気持ちだと思うよ」
 形のない何か……それは一体何なのだろう。
 目を閉じる。
 そして考える。
 殿子の言葉の意味を考え始めた司の脳裏に、やがていくつもの過去の光景がスナップ写真のように浮かび上がってきた。
 それは一月前の出来事。
 大量の義理チョコをもらい、その処分に困った挙げ句に開いたパーティ。
 決して豪華な催しではなかった。
 むしろ行き当たりばったりな、どう転んでも安上がりなイベントに過ぎなかった。
 しかしその場にいた生徒たちは、本校系も分校系も関係なしに誰もが……心から楽しそうな笑みを浮かべていた。
 ……そっか、そうだよな。
 気づいてしまえば、答えは簡単だった。
「殿子、ありがとな」
 閉じていた瞳を見開いた司は、感謝の言葉を口にしながら殿子の頭を優しくなでる。
「滝沢先生、何か良いアイデアが?」
「うん」
 問いかけてくる栖香に向かって、頷き返す。
 ゆっくりとした動きでその場にいる全員の顔を順に見渡していった後、破顔一笑、司はきっぱりと宣言した。
「もう一度、パーティをしよう」

                    §

 コンコンと、ドアを叩く音がした。
 待つほどもなくそっと開かれたドアの先から姿を見せたのは、栖香だった。
「ただいま戻りました」
 そう言いながら、室内に足を踏み入れる。
 同時に彼女が両手で抱え持っていた箱の中からカチャカチャと、陶器同士がこすれ合う硬質な音色が聞こえてきた。
「おかえり、仁礼。どうだった?」
「滝沢先生たってのお願いだと申し上げましたら、二つ返事でお貸しいただけました」
 段ボールを軽く持ち上げながら、楽しげに目を細める栖香。
「料理長には、しばらく頭が上がらないな。仁礼も荷運びなんてさせて、済まなかったな」
「いえ。この程度のことでしたら、遠慮なさらず何なりとお申しつけください」
 小さく首を振ってそれだけを口にした栖香は、食堂から借り受けてきたマグカップを箱から取り出すと軽く水洗いした後、配膳台に順に並べていく。
「お待たせ、せんせ」
 栖香に続いて殿子が、ドアの向こうから姿を現した。
「誤魔化すのにちょっと苦労したけど、何とか借りてこれたよ」
 ドサドサと彼女がテーブルの上に積み上げていったのは、丁寧に畳まれたテーブルクロスとおぼしき代物だった。
 一番上に積まれているその布地の両端を持ち、ゆっくりと広げて柄模様を確かめ始めた栖香が殿子に問いかける。
「何と言って、お借りしてきたのですか?」
「裁縫の宿題のお手本」
「……授業もほとんどないこの時期にそれは、少々無理があるような気が……素直にお茶会に使うと申し上げた方が良かったのでは」
「とりあえず貸してくれたんだから、いいじゃない。うん、でも間違いなく胡散臭いとは思っただろうね」
「後ほど理事長に報告が行ったら、厄介なことになりません?」
 嘘をついて借りてきた点に承伏しがたい思いを抱いているのか、後々のことを危惧する栖香をよそに、首を横に振った殿子は、
「大丈夫だよ。そのみやびにしたって、どうせあと少ししたらここに来るんだから。そんなことよりせんせ、準備は終わったの?」
「んー、大体。あとは、通販さんがメインディッシュを持ってきてくれれば完了かな」
「呼んだか?」
 噂をすれば何とやら。
 何故かその声は、ドアの方ではなく窓から聞こえてきた。
 振り返るといつの間にか大きく開け放たれた窓の向こうに、通販さんの姿があった。
「必要量は確保できたと思う。自分の目で確かめろ」
 そう言って通販さんは、両手で一袋ずつ持っていたスーパーのレジ袋一杯に詰め込まれた品物をひょいひょいと司に向かって放り投げてきた。
「わわっ」
 慌てて手を伸ばした司は、危ういところでどうにか彼女の放ったその物体をキャッチする。
 かさの割に軽いのか、受け取めた際の衝撃はほぼゼロだった。
 塞がっていた両手が空いて身軽になったからか、通販さんはそのまま窓枠に手をかけたかと思うと、軽やかな跳躍でひらりと室内に飛び込んでくる。
「これだけあれば足りると思うが、どうだ?」
「えーと……うん、これなら大丈夫かな」
 レジ袋から司が取り出した大きめのビニールパックの中には、色とりどりのマシュマロが一杯に詰め込まれていた。
 袋の面にデカデカと「お徳用パック」と印刷されてる点から、もしかすると業務用の品なのかもしれなかった。
「頼んでおいて何だけど、これって一体どこから――」
「聞くな」
「いや、でも……」
「お前が知る必要はない。それよりも、やるべきことがあるだろう」
 とりつく島もない返答だったが、確かに彼女の言う通りだ。
「先生、テーブルのセッティングは終わりました」
 見れば栖香と殿子が、二人で手分けしてテーブルクロスを広げ終えていた。
「とりあえず、三つあればよろしいですか?」
「うん。お前たちも含めて全部で十七人だから、六人がけの三台あれば十分だよ」
「お湯の方も、準備できてるみたいだぞ」
 部屋の隅に置かれている電気ポットをのぞき込んでいた通販さんが、タイミングを計っていたように声をかけてくる。
「ホントにお願いしちゃって大丈夫?」
「任せておけ」
 司の心配をよそに、慣れた仕草でカップを温め始める通販さん。
「これでも一応、邑那から一通りの手ほどきは受けている。お前が淹れるより、よっぽどマシな物が出せると思うぞ」
「了解。じゃあお茶の用意は、通販さんにお任せで」
「ん」
「ね、ね。せんせ。これでどんなパーティをするの?」
 とりあえず準備も終えて手持ち無沙汰になった殿子が、いかにも彼女らしい好奇心に満ちた眼差しを浮かべながら質問を口にする。
 そういえば具体的に何をするかについて、ちゃんと説明していなかった。
 時計を見る――三時五十分。
 まだ少し時間に余裕があるのを確認した司は、ここまで自分のために協力してくれた三人に一足先に種明かしをすることにした。
「今日のコンセプトは『マシュマロ尽くし』だ。そうだな、材料も揃ったことだし予行演習も兼ねてひとつ作ってみようか」
 そう言って片目をつむってみせた司は、傍らに並べ置いてあった金串を手にするとビニールパックの封を切って、中からマシュマロをひとつ取り出す。
 それを串先に刺した後、カセットコンロの火を入れる。
 数秒間、全体に満遍なく火が当たるようにくるくると串を回し、軽く焦げ目がついた辺りで火から離す。
「……ぐったりしてる」
 元々が柔らかかった物が火に炙られたことで更に柔らかくなり、マシュマロは殿子の言う通り串先でぐんにゃりとその身を歪ませていた。
「で、これを購買部で買ってきたクッキーに挟んで――出来上がり」
「これで完成なのですか?」
 あまりにもあっさりできたからだろう、栖香が顔を近づけながら首を傾げる。
「簡単だろ。名づけてマシュマロサンド……って、まんまか。昔、甘党の友人に簡単に作れる酒の肴として教えてもらったんだ」
「随分とシンプルな造りだが、味はどうなんだ?」
 訝しげな眼差しを浮かべながら、興味半分といった様子で通販さんが訊ねてくる。
「うん、美味しいよ。特に作りたては文句なしだった。ちなみにこれだけでも十分だと思うけど、チョコチップとかジャムとかを一緒に挟んでもOK」
「せんせせんせ。あーん」
 どうやら我慢できなくなったらしい殿子が、その可愛らしい口を大きく開けて、まるで餌をせがむ雛鳥のようにアピールをしてくる。
 一瞬だけ考える仕草を浮かべた司は、
「仁礼と半分こな」
 そう、彼女の方に手にしたマシュマロサンドを差し出した。
「あむ……んぐんぐ……」
「いかがですか?」
「そんなに気になるなら、仁礼もほら。残り半分どうぞ」
「え? で、ですが――あ、あーん」
 一瞬戸惑い気味な色を浮かべる栖香。
 しかし彼女とて女の子、鼻先をかすめる甘い香りの誘惑には勝てなかったのか、ややあってから躊躇いがちに口を開いてみせた。
 しばしの沈黙。
 そして殿子と栖香、二人が口を開いたのは同時だった。
「「美味しい」」
 その言葉を耳にして、司は確信した。
 泥縄も良いところだったが、どうにか形らしき物を整えられた今日のパーティが、きっと上手くいくに違いないことを。
「通販さんもどう。試食してみる?」
「そうだな……楽しみは後に取っておくとしよう。それに――」
 そう言って通販さんが、右手の人差し指をぴっと天井に向かって立てた刹那、本日最後の授業の終りを告げるチャイムが鳴り始める。
「時間だ」
「仁礼、みんなに連絡は?」
「前の休み時間に、お姉さまにはお伝えしておきました」
 なら大丈夫か……司は思った。
 美綺の性格を考えればこんな美味しい話をいつまでも黙っていられるはずもなく、今頃は関係者全員に情報は広まっているに違いなかった。
 司のその予想は、すぐに裏づけられる。
 待つほどもなく廊下の先から、遠く小さく足音が聞こえてきたからだった。
 徐々に大きく、数を増してゆく足音。
 三……二……一。
 頭の中で数えていた数字がゼロになった途端、ドアのすぐ向こうから聞こえていた足音がぴたりと鳴り止む。
 そして次の瞬間、ドアが大きく開け放たれた。
「セーンセ、お待たせーっ!」
 こうして司にとって、本当の意味での三月十四日が始まった。
第2話 了

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