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この作品は、株式会社ウィルから2006年に発売された『遥かに仰ぎ、麗しの』の人物・世界設定を使用しています。
また作中に登場する組織・団体・人物の名称は、全て架空のものです。
『凰華景物詩』
Update:2009.08.17
第3話「お湯来たる」
入り口の格子戸を開けた途端、新築の建物にだけ備わっているあの独特な建材の匂いが、僕の鼻先をかすめていった。
目の前には、ざっと三十畳はあるだろう無住の地が広がっている。
部屋の中央には、談話用に設えられたと思われるガラステーブルと籐椅子が数セット、一定の間隔を置いて配されていた。
向かって左側の壁には、天井まで届く高さの格子状に組み上げられた木製の棚が。
そして反対側には鏡と壁に組み込まれる構造になっている作業台、背もたれのない回転椅子が五脚ほど据えられていた。
ざっと見渡した限り、室内に人影は見当たらなかった。
どうやら僕が一番乗りらしい。
そうしてひとしきり室内の様子を確かめた後、脱いだ靴を下駄箱に入れた僕は上がり場に足を踏み入れた。
よほど造りがしっかりしているのか、後ろ手に扉を閉めた途端、外界からの騒音一切が遮断される。
同時に耳が痛くなるくらいの静寂が、四周から押し寄せてきた。
改めて視線を左右に巡らせてみる。
そこにあったのは、典型的な脱衣所の光景だった。
貧乏を通り越して赤貧学生だったが故に風呂なしアパートに住むことを余儀なくされた学生時代、近所の銭湯に足繁く通った思い出が懐かしさと共に浮かび上がってくる。
建物が真新しすぎて風情がイマイチ足りなかったり、番台がなくて銭湯っぽくなかったり、牛乳が売ってなかったり扇風機がなかったりマッサージチェアがなかったりと、相違点を挙げたら切りがなかった。
でも場所が場所だけに、その辺は割り切るしかない。
何より今はこうして、ひとっ風呂浴びられる幸運を素直に喜ぶとしよう。
「いっちばん風呂ー、いっちばん風呂ー♪」
適当な鼻歌を口ずさみながら傍らに積み上げられている籐カゴを手にした僕は、迷わず選んだ棚のど真ん中にそれを放り込んでから、おもむろに服を脱ぎ始める。
こういう場合、男の準備は早い。
物の十秒もかからずに生まれたままの姿に早変わりした僕は、唯一の手荷物となる手ぬぐいを片手に入り口の反対側に設けられた、湯殿へと続く扉に向かって歩き出した。
カラカラと軽やかな音色を響かせながら、いかにも上品な造作の引き戸を開く。
次の瞬間、視界のすべてが白一色に染め上げられた湯気に覆い尽くされると同時に、むわっとした熱気が襲いかかってきた。
お湯と外気との温度差が原因で発生する、盛大な量の湯気だ。
うん、やっぱり露天風呂はこうでなくちゃ。
誰に言うでもなくひとりごち頷いた僕は一歩、足を踏み出した。
さあっと秋らしい涼しげな一迅の風が吹いたのは、右足が石造りの湯床のひんやりした感触を覚えた瞬間だった。
四周を覆っていた湯気が吹き払われると同時に、白一色に染め上げられていた視界が色彩と輪郭を取り戻していく。
そして新たに浮かび上がった世界の中で、僕の双眸が最初に捉えたのは湯船でも洗い場でも垣根でも秋空でもなく――人影だった。
距離にして数メートル。
湯気が吹き払われて初めて僕の存在に気付いたのか、相手はぎょっとした表情を浮かべたまま、凍り付いたように身体を強ばらせていた。
たぶん、僕もそうなんだろう。
「…………」
「…………」
互いに絶句したきり、二の句も告げられないまま続くお見合い状態。
永遠とも思えるくらいの沈黙。
先に我に返ったのは、相手の方だった。
「た、た、た……滝沢司っ!」
僕より頭ひとつ半分ほど下から放たれる、動揺と困惑と狼狽の感情が入り交じった、今ではすっかり耳慣れてしまった女の子の声。
「り、り、り……理事長っ!」
彼女の声でようやく戒めから解き放たれた僕も、負けじと声を張り上げる。
「え? せんせ?」
「あら、もういらしたのですか」
「きゃっ! 殿ちゃん、私恥ずかしい……」
風で湯気が一掃されたお陰で、今では浴室全体が一望できた。
そして眼前に展開される光景を前に僕は、どうやら自分がとんでもない過ちを犯したらしいことに気付く。
無人だとばかり思っていた浴室には、既に理事長を筆頭に十人近くの人間がいたのだ。
理事長以外は皆、お湯に浸かっていたのが残ね――じゃなくて、せめてもの救いだった。
その理事長にしても、無地のバスタオルで胸元から太ももにまで至る大事な部分は概ね包み隠されていたから、さしあたり目のやり場に困ることはない。
良く見れば理事長の、普段は腰まで下ろしている長い髪が、今日はきちんとアップにまとめ上げられていた。
結果、普段は滅多に拝むことのできないうなじが姿を見せている。
十代の少女らしい、無駄の一切を廃した曲線によって描き出されているそれは……思わず我を忘れて見とれてしまうくらい綺麗だった。
って、あれ?
何故だか分からなかったけど、僕を見る理事長の目線が落ち着きなく泳ぎまくっていた。
「……理事長?」
「いや、その何だ……おおおおお前、いいいつまでそそそんな格好で、わわわわ私の前にいるつもりなのだ?」
顔を真っ赤にして、風切り音がしそうな勢いで明後日の方を向いた理事長は、思いっきり口ごもりながらようやくそれだけを口にする。
そこで初めて、僕は気付いた。
理事長が動揺しまくりな、その理由を。
分かってしまえば何てことはなくて、自分がその何ていうか……すべてを曝け出した無防備な格好のまま、その場に立ち尽くしていたからだった。
「どわーっ!」
慌ててその場で回れ右した僕は更衣室に飛び込んだ後、全力で扉を閉める。
背中を扉に預けたままその場にぺたりと座り込んだ僕の脳裏を、後悔と羞恥と疑問がごちゃ混ぜになったどんよりどよどよな感情が、ぐるぐると回り始める。
み、見られてしまった。
しかも、よりにもよって理事長に。
それどころかもしかしたら――いや、もしかしなくても間違いなく、背後にいた他の子たちにもバッチリ見られたに違いなかった。
ううっ、もうお婿に行けない……。
ショックのあまりさめざめし始めた僕をよそに、扉がコンコンとノックされる。
一瞬の間を置いて「司様、司様」と、リーダさんの声。
僕が扉のすぐ側にいるのに気付いているのかいないのか、こちらの反応にはお構いなしな様子のリーダさんは、
「申し訳ありません。お嬢様の指示で、先ほど司様用の入浴着をお渡ししようと職員室をお訪ねしたのですが、入れ違いになってしまった様で……」
そこで一旦言葉を切ったリーダさんは、小声で「失礼します」と呟きながら扉を十センチほど開けると、そっと中に何かを差し入れてきた。
彼女の手が引っ込むのを待って、それをつまみ上げる。
「……?」
ぱっと見、円筒状に丸められたタオル然としたそれは、良く見ると内側に伸縮性の高そうな素材で作られた、トランクスっぽい代物が貼り付けられていた。
目の前に持ち上げたそれを、びろーんと引っ張ったり丸めたりしてみる。
何だ、これは。
「水着……か?」
首を傾げてしばし沈思黙考した末に、僕の口から紡ぎ出されたのはそんなひと言だった。
§
学院に温泉が湧いた。
それは、夏休みも終盤にさしかかった八月末の出来事だった。
無論のこと温泉というからには、袋詰めパックの中身を溶かして色と匂いだけそれっぽくした紛い物なんかじゃない、混じりっ気なし正真正銘の本物だ。
発見者は僕、滝沢司と学院生有志で構成された『鳳華女学院分校温泉特別調査隊』の面々。
そもそもの発端は、夏休み前のとある宴席での会話だった。
大学を出たばかりの新卒教師だった僕が恩師、猿辺教授の紹介で鳳華女学院に赴任したのが今を遡ること一年半前の春。
最初の一年間は、怒濤のように押し寄せてくるあれやこれやのイベントやらトラブルやらカルチャーギャップやらを、どうにかこなしていくだけで精一杯だった。
けれども季節が巡り、無事二年目の春を迎えた頃には僕にも同僚教諭に誘われるまま、下の街に飲みに行く時間を捻出する程度の余裕は持てるようになっていた。
「温泉、ですか?」
テーブルを挟んだ向い側の席でジョッキを傾ける地理および地学担当の教諭に、小首を傾げながら問い返す僕。
「ああ、可能性は高いんじゃないかと思うよ。ほら、海を隔てた先にも半島があるだろう。こちらからじゃ分からないだろうけど、あの尾根を越えた先に温泉宿があるんだ。あちら側とこちら側、海があるから別物に思えるけど実は地勢的には同一なんだよ」
「へぇ、それは知りませんでした」
「そういえば、司はまだ行ったことがなかったっけ。観光ガイドにも載ってない、知る人ぞ知る隠れた名湯らしいぞ」
最初の乾杯だけビールで、その後はずっとスコッチをロックで飲んでいる暁先生が、合いの手を入れるように横から口を挟んでくる。
「じゃあ、もしこっち側――学院側の敷地内で温泉が湧いたら、その名湯と同じお湯に毎日入り放題ってことですか。いいですねぇ」
呟きながら、思わず温泉に肩まで浸かっている自分を想像してしまう。
月を肴にひとり杯を傾けるってのも……うん、悪くない。
そんな至ってノーマルな想像を弄んでいたはずなのに、何をどう誤解したらそんな解釈になるのか、不意に悪戯っぽい眼差しを浮かべた暁先生は、
「司。そんなに鼻の下を伸ばして、どの子と一緒に入るのを想像したんだ?」
「ぶっ! あ、暁先生……何、適当なこと言ってるんですか!」
「おや、滝沢先生。その様子だと本当に誰か意中の人がいるのかな? うんうん、若いというのは良い物だよ。私もあと十年若ければ――はは、年寄りの繰り言だね」
「もう……二人してからかわないでください!」
「はははっ。照れるな照れるな」
なんていった馬鹿話を差し挟みながらその後も酔った勢いのままに、掘るなら敷地内のどの辺りが有望かを地質学的見地から議論したり、首尾良く湧出した暁には岩風呂っぽい露天風呂にするかスパっぽい保養施設にするか等々、温泉ネタで大いに盛り上がった。
と、これで話が済めば良かったんだけど……そうは問屋が卸してくれなかった。
翌日、二日酔い気味の頭を押さえながら出勤してみると、宴席の余興だとばかり思っていた与太話が現実の物となっていたのだ。
誰が話したのか――誰も何も、容疑者はひとりしかいなかった――学院の敷地内に源泉が存在しているらしいとの情報を耳にした理事長が、
「おい、滝沢司。私達にだけ与えられるのも不公平だから、理事長命令でお前にも夏休みの宿題をくれてやろう。遠慮はいらん。ありがたく受け取るが良い」
見るからに楽しげな表情を浮かべながらそう、教師である僕に宿題――温泉の探索命令を出してくれたのだった。
アホらしい。
理事長の言葉を聞いて、最初に思ったのはそんなひと言だった。
酒の席の与太話を真に受けて、しかもろくな知識も持ち合わせていない素人が一体何をどうすれば、温泉なんて大それた物を探し出せるっていうのか。
去年の僕だったら、迷わずそう答えていたに違いなかった。
でも一年後の僕は今この場でそうすべきじゃないってこと、安易に拒絶の言葉を口にすべきじゃないってことを理解していた。
何故なら、知っていたから。
やんごとなき身分と家柄のお嬢さまたちが集う、一見華やかかつ麗らかに見えるこの学院が持つ、建前として掲げる教育機関としての機能とは異なる裏の役割を。
僕みたいな生まれついての庶民には与り知ることのできない、高家であるが故に生じる様々な問題を糊塗、隠蔽、秘匿するための牢獄代わりに使われていることを。
だからなんだろう。
こんないかにもなネタを、理事長が真に受けた振りをしたのは。
お互い、それについて具体的な会話はひと言たりとも交わしちゃいなかったから、単なる僕の思い込みにすぎない可能性もあった。
でも、それで十分だった。
大事なのは僕がどう思うか、そして教え子たちに何をしてあげられるかだったから。
本当なら僕ひとりが背負い込んでおけばよかった「宿題」を、同僚の教諭どころか学院生の多くを巻き込んだお祭り騒ぎに仕立て上げたのは、主にそれが理由だった。
卒院生と入院生の両方でプラスマイナスがあった結果、去年より若干増えて総員五十八名となった学院生の半分ほどが僕の行動に興味を示し、協力の姿勢を見せてくれた。
担任を受け持っている子、授業で見かけたことのある子、初めて言葉を交わした子――僕との接点は様々だったけど誰もが皆、まるで予めそう答えるよう準備でもしてたみたいに、
『先生と一緒なら、きっとまた面白いことになるだろうから』
そう、年相応の女の子らしい笑顔と共に答えてくれたのは、教師冥利に尽きる話だった。
何はともあれこうして無事調査メンバーを確保した僕は、自動的に就任を余儀なくされた調査隊の隊長として夏休みを過ごす羽目に陥った。
地質学のイロハを地理&地学担当の教諭に改めてレクチャーしてもらい。
調査隊を複数のチームに編成し。
通販さんに平身低頭拝み倒してサバイバルグッズを山と借り出し。
学院の敷地一帯をフィールドワークよろしくかけずり回り。
理事長をなだめすかして活動資金難を解消すべくスポンサーになってもらい。
調査結果を持ち寄っては有望そうな場所を再検討し。
リーダさんを初めとするメイド部隊の支援を陰に日向に受け。
最後はダウジングなんて怪しげな方法にまで頼りながら、長かったはずの夏休みを何かに追われるように過ごしていった。
そして僕たちは、本当に掘り当ててしまったのだ。
幸運の女神が微笑んだのか、あるいは必然の天使が手を差し伸べたのか、いずれにせよ僕たちの夏休みすべてを費やした苦労が報われた事実に変わりはなかった。
「夏休みの工作にしては、少々立派すぎる気もするがな」
源泉から盛大な湯気と共に噴き出してくる熱水を前に、そんな言葉を僕にかけながら目を細める理事長。
彼女のすぐ横に佇んでいた僕は、苦笑いをしながら肩をすくめると、
「宿題といっても、僕ひとりでやった訳じゃないですから」
「謙遜するな。僥倖が味方したのは事実かもしれんが、それだってお前がいたからこそなんだぞ。だから胸を張れ、滝沢司」
「お嬢様。ここはひとつ、この温泉を発見者の滝沢様のお名前ににちなんで『滝沢温泉』、あるいは『司温泉』と命名されてはいかがでしょう」
一歩後ろに控えながら、僕と理事長の会話を黙って聞いていたリーダさんが、唐突にとんでもないことを口走る。
その提案に、我が意を得たように表情をぱっと明るくした理事長は、
「うむ! それは名案だな。良かったな滝沢司。これでお前の名は、ここ凰華女学院分校に永遠に刻まれるぞ」
「ダ、ダメダメダメっ!」
全力で拒否する僕。
「なにっ! お前、スポンサーでもあるこの私の意向を蔑ろにするつもりか!」
「いやホントに、理事長。お願いですから、それだけは勘弁してください」
教師の本業たる講義内容で後世に語り継がれるならともかく、こんな山師同然の所行で名を残すなんて事態だけは、まっぴらご免だった。
「名誉なことだというのに……何故そこまで嫌がるのか、私にはさっぱり理解できん」
僕の反応に、今ひとつ納得しかねる様子の理事長。
時の経過と共にそれなりに相互理解が進んだとはいえ、この辺りの認識ギャップはそう簡単には埋まりそうになかった。
こうして後に、学院生および学院関係者からは単に「温泉」あるいは「外湯」と称されることになる凰華女学院分校温泉は、学院の新たな施設としての歴史を刻むことになった。
夏休みの自由研究として発見されたという――それだけでは何のことやらさっぱりな、いい加減極まりない縁起と共に。
§
そして迎えたオープン当日。
命名権こそ慎んで辞退した僕だったけど、一番風呂のゲットについては遠慮無用だった。
今日、幸運にも受け持ちの授業が三時限目で終わるのを利用して、誰よりも早く温泉を堪能しようとした僕の目論見は……でも、あっさり潰えてしまった。
「あはは。せんせ、残念だったね」
「……授業をサボってまでして僕を出し抜くとは、さすがに予想外だったよ」
肩までどっぷりお湯に浸かって首から上だけをのぞかせた僕は、ぼやき混じりにすぐ横にいる鷹月殿子へ返答しながら、周囲を見渡す。
立ち上る湯気と、吹き込んでくる微風とのバランスでやや煙った視界の中に映し出されたのは、大きな円弧を描く風呂場の全景だった。
ざっと見て、直径三十メートルはあるだろうか。
全部で六十名足らずの学院生全員が一度に入っても、お釣りがくるサイズだ。
天然温泉っぽい意匠を凝らしたのか、大きさの不揃いな縁石が敷き詰められたややいびつな楕円形をしたそれは、中央に築かれた小山の袂から吐き出される湯口の存在により、反対側がどうなってるかまではここからじゃ分からなかった。
個人的には、もう少しこぢんまりしてた方が温泉っぽい気がしたけど、そこはスポンサーの意向もあるので仕方がない。
「楽しめそうなネタには全力で取り組むべし――そう、私達に教えてくれたのは他でもないせんせだよ」
すぐ横で縁石にあごを乗せ、俯せの姿勢でお湯に浸かっている殿子がくすくすと、小さな笑みをこぼしながら目をこっちに向けてくる。
どうやら僕が一番風呂を逃したのは、自業自得な部分が大きいみたいだった。
「むぅ。そういや、そんなことも言――」
視界に飛び込んできた殿子の姿を前に、途中で言葉を失ってしまう僕。
お湯に身体を預けて浮き上がるままにしているのだろう、彼女の四肢は力が抜けたようにゆらゆらと揺れ動いていた。
頭からうなじを経て肩胛骨へと連なる柔らかな肉の曲線は、胸元から下を覆う純白のタオル地の入浴着の下に一旦は埋没してしまう。
でも十代の少女にしか成し得ない、固さと柔らかさがない交ぜになったその線は布きれ一枚程度で隠しきれるはずもなく、緩やかなS字カーブを描きながら背中から腰、そしてお尻へと流れてゆく。
見えそうで見えない……そんな絶妙な丈寸になっている裾から再び顔をのぞかせた肉線は、お尻から太もも、ふくらはぎを経てゴールとなるつま先へ無駄なくつながっていた。
「せんせ、どしたの?」
言葉を紡ぎかけたままフリーズした僕を、不思議そうに見つめる殿子。
ハッと我に返った僕は、
「え? あ、えーと……いや、何でもない。何でも……あはは」
適当な言い訳をしようとした挙げ句、上手い台詞が見つからないまま結局笑って誤魔化すしかなくなってしまった。
「……? 変なせんせ」
どうやら当の殿子は、自分が原因だってことに気付いてないらしい。
そんなことをしている間も、彼女のお尻を隠しているバスタオルは、ちらちらと裾を揺らめかせながらその下にある素肌を見え隠れさせ続けた。
目を逸らせばいいと、頭では分かっていた。
けれどもそこは悲しい男の性――しょせん水着だって分かってるはずなのに、でも同時に心の片隅で何かを期待している自分がいる訳で。
うぅ、男って悲しい生き物だなぁ。
などとそんな今更な思いを強くしながら、どうしようもないアンビバレントな状況に陥った挙げ句、身動きが取れなくなってしまう。
誰でもいいから、この堂々巡りを断ち切ってくれーっ!
そんな僕の心の叫びが届いたのか、救いの手は思わぬところから差し伸べられた。
「……と、殿ちゃん」
どことなく困惑げな、細い声。
程なく湯煙の向こうから姿を見せたのは殿子の親友、八乙女梓乃だった。
たぶんそういう躾を受けてきたんだろう、良家の子女らしく音も波も立てずに静かに移動してきた彼女は、ちょうど殿子を挟んで反対側の位置で動きを止めると、
「お行儀が悪いですよ。ほ……ほら、滝沢先生もお困りです」
「そう? せっかくこんなに広いお風呂なんだから、普通はこうやって身体を伸ばして開放感に浸りたくなる物だと思うけど」
そう言って、くるりと身体を反転させる殿子。
俯せだった身体が反転した結果どうなるかと言うと、当然のことながら仰向けになる。
そして僕の眼前に、一応はタオルで隠されているとはいえ殿子のやや慎ましげな胸の膨らみが、これでもかとばかりに晒される。
浮力の関係で、膨らみの頂点から三分の一ほどが水面から顔をのぞかせている情景が、何とも形容し難い雰囲気を醸し出していた。
こう――思わず手のひらで撫でたくなるような、そんなムラムラした気分になってしまう。
って、それじゃ単なるセクハラオヤジだ!
そもそも誰が用意したか知らないけどこの、彼女の身体の半ばを覆い隠している無地のバスタオルこそが、デンジャラスなことこの上ないアイテムだった。
何が危険って一見してバスタオルっぽいけどリーダさんの言が正しければこれは入浴着という名の水着であって決してポロリとかハラリとかチラリとかが期待できる可能性なんて一縷もないはずなんだけどもしかしたら僕の日頃の行いの良さに報いて神様が試練という名の眼福を与えてくれるとしたらきっとそれは奇跡という名の――って、何を言ってるんだ僕は。
慌てて頭を振った僕は、体内から邪な想像を振り払う。
客観的に見れば、一緒にプールに入ってるのと大差ないシチュエーションのはずだった。
けれども場所が温泉に変わっただけで、どうしてこうも想像力が無駄にフル回転してしまうのだろう。
これぞ温泉マジック!
……なんて馬鹿言ってる場合じゃなかった。
そう、想像だけで物事の理非を決めつけるのは間違っている。
仮説の後に検証があってこそ真の学究たり得るのだと、研究室でも教授に耳にタコができるくらい指導されてきたじゃないか。
確かこういう時は……そうそう、まず深呼吸をして気持ちを落ち着けて――。
そこまで考えたところでふと、視線を感じる。
慌てて我に返ると、どうやらここまでの僕の独り芝居をずっと見物してたらしい殿子と八乙女が、不思議そうな眼差しを浮かべながらこちらを見つめていた。
さっきまでプカプカお湯に浮かんでいた殿子も、いつの間にか八乙女と肩を並べている。
「あの……滝沢先生?」
「急に黙り込んでどしたの、せんせ?」
僕が現実に帰ってきたのに気付いた二人が、口を揃えて言葉を紡ぐ。
一瞬、返答に詰まった僕は、でもすぐに気を取り直すと、
「えーと、つまりまぁ何だ……と、殿子。ひとつ、頼みがあるんだけど」
「なに?」
「ちょっと立ってみてくれないか」
「うん、いいけど……?」
僕からの突然の頼まれごとに、やや面食らった色を浮かべながらも頷いた殿子は、ざばっと湯音を立てながら立ち上がる。
肩までたっぷり漬かれる深さの湯船だったから、立ち上がっても太ももの半ばくらいまでは相変わらずお湯の中だった。
位置的にはちょうどタオルの裾――股間辺りが目の前に来ていた。
「では早速……」
そう呟きながら伸ばした手で、身体のやや左手にある殿子の身体を包んでいるタオルの合わせ目をつまむと、ひょいとそれを左右に広げてみた。
「きゃっ!」
予期せぬ僕のそのアクションに、八乙女が小さな悲鳴を上げる。
開かれし扉の奥にあったのは、見た感じタオルよりは薄手と思われる白いワンピースの水着だった。
よしっ。
仮説通りの検証結果が得られたことに満足した僕は、うんうんと満足げに頷く。
やっぱりこれはバスタオルじゃなく、歴とした入浴着だった。
だからチラリもポロリもハラリもドキリもない。
そのことに多少無念を感じなくもなかったけど、でも奇跡は起きないから奇跡なんだってことで自分を納得させておく。
「何だか良く分からないけど、せんせ。納得いった?」
頭上から届く声。
目線を上げるとそこには、相変わらず不思議そうな眼差しを浮かべながら、でも同時に僕の笑みに唱和するように楽しげな色を浮かべる殿子の顔があった。
そんな彼女に向かって僕は、
「ああ、殿子のお陰で納と――」
「こぅんの変態エロ教師がーーーーっっっっ!!!!!」
横合いから、唐突に罵声が飛び込んできた。
皆まで口にする前に側頭部にものすごい衝撃を受けた僕は、気がつくと次の瞬間、がぼがぼと口から盛大に空気の泡を吐き出していた。
って、お湯の中!
何が起きたのかとっさに理解できないまま、生存本能だけでジタバタ四肢を振り回した末にどうにか、水面上に顔を出すことに成功する。
「ぶはっ! な、何だ何だぁ?」
口から水を吹きながら、周囲を見渡す。
すると視界の中に、加害者とおぼしき人影が飛び込んできた。
殿子や八乙女と同じ入浴着を身にまとった彼女は、微塵も悪びれた風もなく両手を腰に当てた仁王立ちの姿勢のまま、僕を射貫かんばかりのきつい眼差しで睨み付けてくる。
見慣れた姿。
そこにいたのはつい先刻、あられもない姿を晒してしまったばかりの理事長――風祭みやびその人だった。
§
「り、理事長! いきなり何するんですかっ!」
「それはこっちの台詞だ! 貴様こそ公衆の面前で鷹月の着衣の裾をめくり上げるとは、一体何を考えているのだ!」
「え? あ……」
いきなり蹴倒されたせいで思わず叫んでしまった僕だったけど、理事長の冷静なツッコミに返答に詰まってしまう。
「えーとそれはその……つまり、あー……」
しどろもどろになりながら、それでもどうにかことの経緯を伝え終えた僕に理事長の口から返ってきたのは、呆れ混じりの深いため息だった。
「あの……理事長?」
「滝沢司。私は、お前がそこまで愚か者だったとは思わなかったぞ」
びしりと僕のことを指差しながら、これ以上ないくらいのきつい眼差しと共に理事長はそう断言してみせた。
「ひとつ聞くぞ。この施設の建設を認めたのは誰だ?」
「理事長です」
「資金を供出し、業者を手配したのは誰だ?」
「理事長です」
「これが最後だ。施設の設置を認可し、予算を認め、必要な資金を供出し、業者の手配までした私が、タオル一枚で男女混浴の風呂に入ることを認めるような……そんな風紀の紊乱をみすみす看過すると思うか?」
「はい。思いません、サー!」
思わず敬礼をしてしまう。
「馬鹿者! それが分かっているなら、最初からこんな愚かな真似はするな! まったく、もし本当にタオル一枚だったらどうするつもりだったのだ……」
「はい?」
「な、なな何でもない!」
最後の方は声が小さすぎて良く聞こえなかったけど、どうやら独り言らしかった。
「みやび、あんまりせんせをいじめちゃダメ」
それまで黙って僕たちのやりとりを眺めていた殿子が、むにっと彼女の頬を引っ張る。
今ではすっかりお馴染みの殿子の、みやびに対する攻撃パターンだ。
「ふぉら、やめれやめれー」
ジタバタ暴れてようやく殿子の戒めから逃げ出した理事長は、両手で頬を押さえて涙目になりながら、
「私はお前を擁護してやったのに、この仕打ちは酷いのではないか?」
「どうして私が、みやびに守られないといけないの?」
きょとんとした表情の殿子。
どうやら、本当に分かっていない様子だ。
他人の心の機微には聡い彼女だったけど、自分のことになると不思議なくらい無頓着になる時があった。
今が、まさにそうだった。
「……殿ちゃん」
事態をどうやら、殿子よりは理解しているらしい八乙女と目が合う。
でも彼女も、それ以上は何も言えない様子だった。
「まぁまぁ、風祭さん。司先生も反省されているみたいですし、今日のところはそれくらいで勘弁してさしあげてよろしいのでは?」
新たな来訪者、三嶋鏡花が姿を現す。
実はさっきからずっと理事長のすぐ後ろに佇んでいたのだけど、そもそも彼女の方が理事長より頭ひとつ分は余裕で背が高かったから、気付かない方がどうかしていた。
「さすが三嶋。もっと言ってやってくれ」
「ふふ。そんなことを仰ってると、風祭さんのご機嫌はいつまでたっても直らないんじゃありませんか?」
「おっと……反省反省」
慌てて口元を押さえた僕は、わざとらしい仕草でしょんぼりと肩を落としてみせる。
そのいかにもな猿芝居が受けた訳ではないんだろうけど、ひと呼吸置いてから呆れ気味な表情を浮かべた理事長は、
「あー分かった分かった。今日のところは、この温泉の発見者としての功績に免じて、少々の脱線行為は目をつぶってやるとしよう」
腕組みをしながら、いかにもといった感じの居丈高な態度をひけらかした後、勢い良くその場に座り込む。
「がぼっ! がばぐぶごぼっ!」
でも残念ながら、彼女の座高は「肩まで浸かる」というアクションを取るには、ほんの少しだけ必要量を満たしていなかった。
「か、風祭さんっ!」
慌ててすぐ側にいた八乙女が手を差し伸べ、理事長の身体を引き上げる。
「げほげほっ! だ、誰だ。こんなに深い湯船を作ったヤツは!」
「誰って……」
その場に居合わせた全員が、順繰りに顔を見合わせる。
そしてふた呼吸分の間を置いてから、四人分の視線が中心にいる理事長へと注がれた。
「な、何だ皆して。私の顔に、何か付いているのか?」
僕たちの無言のメッセージは、どうやら理解してもらえなかったみたいだった。
だからといってそれを口にするのは、野暮って物だ。
恐らく僕と同じ思考経路をたどって同じ結論に達したらしい三嶋は、こっちに一瞬だけ目配せしたかと思うと、不意に「おや?」と何かに気付いた風を装うと、
「風祭さん、御髪が崩れてますわ」
見れば彼女の言う通り、さっきまでアップにまとめてあった理事長の髪が解けかけていた。
大方お湯の中にダイビングした拍子に、緩んでしまったんだろう。
「ん? ああ、本当だな。リーダに直してもらうか。おい、リ――」
「わざわざ、リーダさんをお呼びだてするほどのことはありませんわ。この程度、私が直してさしあげます」
「三嶋……お前が直してくれるのか?」
「あら、お嫌ですか」
「や、そんなことはないが……分かった、頼もう」
一瞬、不思議そうな表情を浮かべた理事長は、でもすぐに思い直したのか小さく頷く。
「か、風祭さん……こっちは浅くなってますから、ちゃんと座れると思います……」
「みやび、こっちこっち」
殿子と八乙女に両手を掴まれ、三嶋に背中を押された理事長は返事を口にする暇も与えられずに、少し離れた浅瀬へと引っ張っていかれる。
「さ、いったん解きますわ」
そう言って、中途半端に結わえられた状態だった理事長の髪を解いた三嶋は、手櫛で軽く梳いた後、手際良く髪をまとめ直していった。
「風祭さんの御髪、とても綺麗……」
傍らでその作業を眺めていた八乙女が、ほぅっとため息混じりにそんな呟きを漏らす。
「そ、そうか?」
「梓乃の言う通り、みやびの髪って学院でも一、二を争うくらい綺麗だと思う」
「普段、どんなお手入れをされているのですか?」
「手入れと言っても……身の回りのことは全部リーダに任せっきりだから、良く分からん」
「ふふっ。風祭さんらしいですわ」
三嶋が小さく笑う。
その言葉に触発されたのか少しの間思案に暮れた理事長は、やがて小さく頷くと、
「そうだな、今度リーダに聞いておく。リーダのことだからきっと、秘伝のテクニックのひとつやふたつ隠し持ってるに違いない。何か分かったら後で教えてやるから、楽しみにしているがいいぞ、八乙女」
「はい、楽しみにしています」
うーむ、さすがに髪のお手入れの話題じゃ、僕の入り込む余地がない。
とはいえいかにも年頃の女の子らしいこの手の話題は、僕としては別の意味で端で聞いてて楽しめる内容だった。
別にスケベな意味でじゃない。
話題の中心に理事長がいて、そこに殿子と八乙女、そして三嶋と――一年前じゃ想像すらできなかったメンバーが集い、談笑に耽っているのだ。
これが楽しくなくて、どうして教師でいられるだろう。
髪といえば……あれ?
少し離れた場所から彼女たちのやりとりを眺めていた僕はそこで初めて、さっきから抱き続けていた違和感の正体に気付く。
そうか、髪型か。
良く見れば普段は長い髪を下ろしてる四人(正確には殿子は三つ編みだけど)が、揃って髪をアップにしていた。
風呂に入るんだからそりゃ普通はアップにするよなと思いつつ、でも夏休みに海にキャンプに行った時は皆、普段と同じ髪型だったことを思い出す。
同じ髪を濡らすにしても、何故水とお湯で対応が違うのか。
良く分からなかった。
にしても改めてこうして見るとこの学院って、本当にロングの子が多いな。
やはりお嬢さまたる者、長い髪はデフォルトで具備しておくべき物なのだろうか……根っからの庶民な僕には、残念ながら答えを知る術のない疑問だった。
あーでも、そんなこともないか。
自らの仮説に半ば納得しかけていた脳裏に、ふと「お嬢さま=ロングヘア」説の強力な反証が浮かび上がってくる。
そういや、ひとりいたっけ。
ちっともお嬢さまっぽくない、でも歴としたお嬢さまが。
半年前に卒院していった学院生。
いつだって賑やかで大らかで朗らかで、寝癖の取れないショートヘアとスカートの裾をはためかせながら学院内を所狭しとかけずり回っていた、往時の姿が思い起こされる。
もし彼女が今も在籍していたら、今日みたいなお祭り騒ぎをみすみす見逃すはずはなく、むしろ率先して何やかやとイベントを企画しては、周りを問答無用で巻き込みまくって盛り上げていたに違いなかった。
卒院後、どういう訳か風の噂ひとつ聞かなかったけど、今頃どうしてることやら。
そんなことを思いながら僕は、誰に言うでもなくぽつりと呟きを漏らした。
「……相沢のヤツ、元気にしてるかな」
「呼んだ?」
§
青天の霹靂とは、まさにこのことだった。
よもや返事なんてあるはずがないと信じ切っていた、まったくの独り言だったはずの呟きに戻ってきた反応に、口から心臓が飛び出るくらいに驚いてしまう僕。
「うぉわっ!」
素っ頓狂な叫びと共に、背後を振り返る。
「ニャハハ」
そこにいたのは愛嬌いっぱいの表情で僕にウィンクして見せる、紛う方なき相沢美綺その人だった。
僕にサプライズの洗礼を浴びせてご満悦なのか、両手でピースサインまでしている。
「やほーっ。お久、センセ……って、なに。そのお化けでも見るような目つき」
「……お前、本当に相沢?」
「わ、ヒドっ。こんなにプリチーでラブリーでファンシーなアタシのこと、センセはもう忘れちゃったの?」
「誰のことだ、誰の。あーでも、勉強嫌いでお祭り好きで教師泣かせだった相沢美綺って学院生のことだったら、今でもよーっく覚えてるぞ」
ここまでの言動から夢でも幻でも偽者でもない相沢本人なのを確信した僕は、頭のスイッチをここ半年ほど使っていなかったモードに切り替えると、すかさず反撃に出る。
「センセも言うようになったね」
にやりと、腰に手を当てながら不適な笑みを浮かべる相沢。
「そりゃ僕だって、いつまでも生徒に振り回されっぱなしの新米教師のままじゃいられないってことだよ」
「ふむふむ、なるほど。センセも成長したんだね。バス停の前で、この世の終わりみたいな顔をしてた赴任一日目を知る身としては、ずいぶん立派に――」
「わーっ、わーっ!」
誰にも知られないまま封印されていたはずの恥ずかしい過去を暴露されかけた僕は、慌てて彼女の口を塞ぐ。
そして周りに聞こえないくらいの小声で、
「勝手に敷地外に出たのがばれたら相沢、お前だってヤバいんじゃないのか」
「にはは。なーに言ってるかな、センセは。アタシ、もう卒院してるんだよ? 在学中の悪事なんてとっくの昔に時効だから誰も咎めないし、裁けないよ」
確かに、今更校則を盾に規則違反を追及したところで意味がない。
どうやら、圧倒的にこっちの分が悪かった。
「分かった分かった。僕の負けだ。で、何が望みなんだ?」
「さっすがセンセ、良く分かってらっしゃる」
「だってなぁ……思い返せば去年はこのパターンでお前が企画した、あれやこれやの怪しげなイベントに引っ張り込まれまくりだったし」
「うんうん、素直でよろしい。そんなセンセが大好き」
満足げに目を細めながら紡がれたそのひと言に、思わずドキリとしてしまう。
普段は悪戯小僧そのまんまな癖に、たまにこんな風に女の子女の子した仕草を見せてくれるのが新鮮というか何というか……もにょもにょ。
「じゃあ、みやびん。ちょっちセンセ借りてくねー」
「ん。持ってけ持ってけ」
八乙女たちのお陰で、座って温泉を堪能できる場所を確保できてすっかりご満悦らしい理事長が、鷹揚な態度で右手をひらひらと揺らめかせる。
「上司のお許しも出たってことで、さぁセンセ。こっちこっち」
唐突に腕を絡めてきた相沢は、そのまま僕を引っ張って奥の方へ連れていこうとする。
「わわっ、急に引っ張るな! あと、できれば……もう少し離れてくれると助かるんだけど」
二の腕辺りに彼女の、それなりに育っている胸の感触が感じられた。
基本お嬢さま学院だったから、普段こんな風にスキンシップを図ってくる学院生がいなかったこともあって、彼女の積極的なアプローチが妙に刺激的に感じられた。
「ん? 久しぶりにセンセの感触を楽しんでるんだから、我慢我慢」
そんな僕の心の葛藤を知ってか知らずか彼女の方はといえば、ますます身体の密着度を高めながら頬ずりまでしてくる始末。
素で言ってるのか、それとも僕の自制心を試しているのか……イマイチ計りかねた。
とはいえ、このまま黙っていたらヤバい。
相沢のことだ、どこまで行動をエスカレートさせるか分かった物じゃなかった。
とっさにそう判断した僕は、抑え気味の声音で尋ねる。
「そういや今日の件、誰から聞いたんだ?」
「温泉開きのイベントのこと?」
「ああ。卒院してからぱったり音沙汰がなかったから、てっきりここのことなんて綺麗さっぱり忘れたのかと思ってたよ」
冗談めかしてそう言った僕に、相沢はぷっと頬を膨らませると、
「そんな訳ないっしょ。他の人たちがどうかは分からないけど、アタシにとってこの学院の思い出は楽しいことばっかりだったもん。忘れたくたって、忘れられないよ」
そう、まくし立てるように反論してきた。
「みやびんや殿ちん、それに邑那さんや通販さんみたいな、ここじゃないと会えない人たちと友だちになれたし、一番の目的だった妹とも仲良くなれたし……強いて言うなら唯一の心残りは、センセとの仲があんまり深まらなかったことかなぁ」
「え、僕と?」
「やっぱりイベント不足が、一番の原因かなぁ。もう一年居残ってれば、絶対センセを落とせてたはずなのに……でも、そうするとすみすみと一緒に卒業できなかったし……」
どうしてか彼女の言葉は、途中から独り言みたいな小声になってしまったので、最後の方はよく聞き取れなかった。
「相沢?」
「ニャハハ。何でもない。うん、何でも。そうそう、最初の質問の答えだけど、みやびんから連絡がきたんだ」
「理事長から?」
「そそ。しかも手紙でだよ。メールだってケータイだってあるこのご時世に、わざわざわ手紙で連絡してくるなんて、さっすが天下の風祭のお嬢さまだよね」
いや、それを言ったらお前も相沢のお嬢さま……などと話の腰を折っても仕方ないので、とりあえず黙っておく。
「でも誤配だか遅配だか分からないけど家に届いたのが実は昨日で、スケジュールの調整とかかなーりヤバかったんだ。風流だけど、やっぱり手紙って危ないね」
「そ、それは難儀だったな」
「まぁ調整って言っても、全部キャンセルさせただけだけどね」
「……?」
「気にしない気にしない。さぁセンセ、着いたよ。みんな、お待たせーっ」
位置的には湯口のある小山を間に挟んで、理事長たちがいた場所からちょうど反対側になるんだろうか、湯煙の向こうから姿を見せたのは顔見知りの生徒たちだった。
ざっと五、六人といったところ。
「オモ――じゃなくて、センセ連れてきたよー」
「……オモ?」
「遅ーいっ!」
そんな僕の疑念を打ち払うように叫び声を上げたのは、去年に引き続いて今年も僕が担任を務めている大銀杏弥生だった。
彼女も案に違わず髪をアップにしていたので、授業で見かける時なんかと違ってやや大人っぽい印象を受ける。
「ニャハハ。ごめんごめん。センセの感触を少しでも堪能しとこうと思ったら、つい足が遅くなっちゃって」
照れ笑いをしながらそう言って、再び僕の腕に頬ずりする相沢。
そんな彼女に、見るからに呆れた眼差しを浮かべた大銀杏は、
「うわ、自分の欲望丸出しだよこの女。女同士の友情なんて、しょせん男ひとりであっさり瓦解するものなのね」
小さく肩をすくめながら、隣にいる野原のばらに同意を求めた。
「おおおおおお姉さまっ!」
が、次に僕の耳に飛び込んできたのは野原の声じゃなかった。
懐かしさを伴った、久方ぶりに耳にする声――相沢の異母妹、仁礼栖香だ。
「タタタタオル一枚のこのような格好で、いいいいくらお相手が滝沢先生とはいえ殿方とそそそそのように密着するなんて、ふふふ不潔不埒不許可ですわっ!」
「すみすみはちょっち大袈裟。タオルっても実際は入浴着で下は水着なんだから、海水浴に来てるのと同じっしょ」
「そ、それはそうかもしれませんが……」
「それにすみすみ、さっき『不許可』って言ったよね。ってことはもしかして、すみすみもこうしてみたいのかなー?」
そう言って悪戯っぽい笑みを浮かべた相沢は、緩めていた腕の力を入れて僕にぎゅっとすがりついてくる。
同時にふにっと、胸の感触を覚えた。
「わわわ私、そそそそのようなことは決して!」
「無理しない方がいいと思うけどなー。ほら、こっち側はまだ空いてるよ。角部屋日当たり良好な好物件、先着一名様まで! 早くしないと弥生っちに先に取られちゃうぞ」
「……うぅ」
「いや、取らないって。あんたらと違ってその程度、あたしゃいつでもできるし」
当て馬っぽい感じで相沢から話を振られた大銀杏は、現役生の余裕なのかさらりと受け流してみせる。
「むぅ、弥生っちノリが悪いぞぉ」
「っていうか、あんたがはしゃぎすぎ。ほら、相方の奏すらどう突っ込んでいいのか分からないで困ってるじゃない」
「あれ、上原も来てたのか」
と、そこまで口にしてから僕は、言い間違いに気付く。
しまった、彼女はもう上原じゃないんだった。
「あ、はい。こんにちは、滝沢先生」
「久しぶり……って、違うか。先月、遊びにいったばかりだっけ」
相沢の親友でもある彼女は、卒院後すぐに学院の先輩教諭である暁先生と結婚していた。
なので現在は上原奏ではなく、暁奏と呼ぶのが正しい。
ただかつての担任として言い慣れてしまってるせいか、油断するとつい「上原」と呼んでしまう癖が未だに抜けなかった。
ちなみに上原との結婚を機に学院寮を出た暁先生は麓の町に自宅を構え、そこから通勤する身となっている。
まぁ身を固めたからといってあの人のあの性格がそう簡単に改まるはずもなく、相変わらず僕は彼のオモチャとして弄られる日々が続いていたけど、月イチくらいで晩餐も兼ねて新居に招待してくれたりもしていた。
そんな訳で、春に卒院した相沢を筆頭とする学院生たちの大半と音信不通の状態だったのに対して、唯一彼女とだけは定期的に顔を合わせる機会を持ち続けていた。
「余計なお世話かもしれないけど上原、こんなとこに来てて大丈夫なのか? その、晩飯の支度とか……」
「うぅ……ぜんぜん大丈夫じゃないですないです。本当は今日は、光一郎さんとホテルでディナーの予定だったのにだったのに……」
最後の方は消え入るような声だったけど、皆まで言わずとも分かった。
要するに、相沢に強引にこっちのイベントに引きずり込まれてしまったせいで、本来の予定はキャンセルを余儀なくされたらしい。
何ていうか、憐れのひと言だった。
「そういえば娘二人の方は、今日は一緒じゃないのか?」
「はい。今日は私がいない間に、光一郎さん『で』遊んでるそうです……」
どういういきさつがあったのか僕は与り知らなかったけど、上原との結婚と時を同じくして暁先生は、ここの学院生だった高松千鳥、鶫の双子姉妹を養女に迎えていた。
結婚した途端、いきなり同い年の娘二人ができてしまった新妻というのも、嘘みたいな本当の話だった。
しかもよりにもよってそれがあの、かしましいことこの上ない双子と来ては、彼女の日々の悪戦苦闘ぶりが目に浮かぶ。
「まぁ何だ……ディナーの件はご愁傷さまとしか言いようがないけど、連れて来られたからには是非もなし。せっかくの機会だし、骨休めしていけ」
「はい。お気遣い、ありがとうございますございます」
力ない口調でそう言って腰を落とし、目許までお湯に浸かり込んでしまった暁夫人(旧姓上原)は、拗ねたようにぶくぶくと泡を吹き出し始めた。
そんな彼女の仕草のどこをどう誤解したのか、
「んふふー、センセ。新妻かなっぺのことはちゃんと新姓で呼んであげないと、新婚ほやほやな幼妻が拗ねちゃいますぜ。ね、新妻かなっぺ」
「頭に頭に、いちいち新妻を付けるなーっ!」
ざばっと顔を上げ、反論してくる暁夫人(旧姓上原)。
「えー、だって事実じゃん。今日だって、新妻かなっぺのワクワク体験談を洗いざらい聞き出すために、みやびんにお願いして宿泊許可もらったんだから」
「え? お前ら、泊まってくんだ」
「うん。寮の空き部屋使っていいって。せっかくだから、久しぶりに『凰華ジャーナル』も刊行したいし」
まぁ幸い明日は休みだし、外部の人間といっても元学院生だから理事長も特に問題ないと判断したんだろう。
「お姉さま。私、今日の学院訪問が宿泊行だとは、今の今まで聞いてませんでしたわ」
「うん、だってさっき決めたから」
「さっきって……」
呆気にとられる仁礼を前に、相変わらずの相沢のマイペースっぷりに思わず吹き出しそうになってしまう。
「もしかしてすみすみ、明日何か予定とかあった?」
「いえ……特にはありませんが。でも、私達に何の相談もなく勝手に……第一、着替えどころか何の用意もしてませんのに――」
「予定がないならノープロブレム、固いことは言いっこなし。一泊くらい、着の身着のままでもへーきだって、ニャハハ。すみすみっ、今日は久しぶりにおねーちゃんと一緒のベッドで寝ようねっ」
「え? い、一緒に……は、はい……お姉さまがよろしいなら……私は別に異存は……」
どうやら途中から、完全に相沢のペースにはまってしまったらしい。
外堀を埋めるように一気にまくし立てられた仁礼は、最後の「一緒のベッド」という誘惑にノックアウトされたのか、頬を微かに赤くしながらこくりと頷いた。
これで残る障害は、暁夫人(旧姓上原)のみ。
「え? 私、私?」
周囲の視線が自分に集まってきたのに気付いた彼女は、いかにも気弱な小動物っぽくきょろきょろと視線を泳がせる。
「大丈夫。今晩のメインイベンターは、かなっぺに決まってるから」
「何故、上原さ――じゃなくて暁さんが主役なのですか?」
「それってマジボケ? そりゃあ、こん中で彼女だけが『人妻』ってジョブスキルを持ってるからに決まってるっしょ」
「さっすがテーブルトーク研究会。説明がマニアック。そういや、今年の会長は弥生っち?」
「香奈も智代美も貴美子もいなくなっちゃって、あたしとのばらしか残ってないから開店休業状態だけどね」
「一番奥手そうな顔してるのに、実は夜は……って、そのギャップがいいよね」
「でもさ美綺。別に、夜まで待つ必要ないんじゃない?」
「そっかな。でもこういうのって、怪談やワイ談と一緒で夜に布団に入りながらの方が盛り上がるっしょ」
「なる。んじゃ、とりあえず予告編ってことでひとつ」
「オッケー。ってことで、アタシたちの未体験ゾーンにひとり突入済みのかなっぺ、新妻として暁先生との新婚初夜の感想を、かるーくヨロシクねっ」
当事者を差し置いてものすごい勢いで勝手に話が進んでいった挙げ句、導き出されたとんでもない結論をさも当然といった様子で口にする相沢。
一瞬、彼女たちの言葉の意味が理解できなかったのかぽかんとしていた暁夫人(旧姓上原)は、でもすぐに我に返ると、
「そんなそんな話……こんな場所で場所で、できるかーっ!」
ある意味、当然の反応を返してきた。
しかし敵もさる者、その程度のリアクションは最初から織り込み済みだったんだろう、聞く耳を持たないといった顔つきで、
「後進に体験と教訓を語るのは、先達たる者の義務だよ」
「そうそう。あたしたちは決して興味本位じゃなくて将来、良妻賢母たるための糧となる知識を深めたいだけだし」
相沢と大銀杏が口にした、いかにももっともらしい理由に感化されたのか、黙って成り行きを見守るばかりだった仁礼までもが、
「あ、暁さん……私もお話、うかがいたいです……」
どうやら自らが四面楚歌の状況に陥ったことを自覚したらしい暁夫人(旧姓上原)は、救いを求めるように周囲に視線を振り向けた後、最後に僕をロックオンする。
一瞬どうした物か思案に暮れた僕は、でもすぐに結論を下した。
……無理。
僕ひとりの力じゃ、とてもじゃないけどこの流れをせき止められそうになかった。
というか相沢の意見に大銀杏が同調し、加えて仁礼に野原、岡本までもが興味津々といった顔つきをしていた日には、打つ手なしだった。
「ってことでセンセ、こっから先は女性オンリーなイベントなのでゴメンね」
「先生、まったねー」
「お姉さま待ってください。そ、それではご機嫌よう、滝沢先生」
「たたた、助けてーっ!」
各者各様の挨拶を口に円陣を組んだ彼女たちは、勢いよくお湯をかき分けながら僕の前から風のように去っていった。
その場にぽつんとひとり、取り残される僕。
というか相沢に無理矢理ここまで引っ張って来られた身のはずなのに、何故に置き去りにされてしまうのか。
女心と秋の空――思わず、そんな言葉が脳裏をかすめた。
しばらくの間、お湯に浸かりながらぼんやりとしていた僕だったけど、ややあってからさてどうした物かと改めて考え込む。
今更、理事長たちのところに戻るのも何だった。
かといって相沢たちの後を追うのも無粋というか、たぶん歓迎されないだろう。
「身体でも洗って、いったん上がるかな」
次の行動を決めかねてるうちに逆上せそうになってきてしまった僕は、とりあえずお湯から出ることにした。
§
更衣室の出入り口近く、張り出し屋根とセットで設けられている洗い場には、僕以外の人影は見当たらなかった。
どうやら皆、まだ温泉を堪能してるらしい。
壁際に整然と積み上げられた木桶をひとつ手にした僕は、手近にあった椅子にどっかり腰を下ろした。
とりあえず、髪でも洗うか。
「……あれ?」
良く見ると、肝心の石けんもシャンプーも見当たらなかった。
まぁシャンプーはなくても何とかなるけど、さすがに石けんがないのは困り物だ。
あ、でも石けんで髪を洗うとなると、仕上げにかけるお酢を水で薄めたのが無いと後で髪がゴワゴワになっちゃうな。
ってことは、やっぱりシャンプーがないとダメってことか。
「司様、どうかされましたか?」
さてどうした物かと腕組みをしかけたところで、まるで声をかけるタイミングを図っていたみたいに背後から声がした。
リーダさんだ。
理事長に付き従うメイド部隊の筆頭として、普段から八面六臂の活躍をしてる彼女のことだから、今日のこのイベントに関してもサポート全般を任されてるに違いなかった。
「あ、リーダさん。ちょうどいいところに。実はシャンプーが見当たらな……くて……?」
肩越しに振り返りながらそう、口を開く僕。
最初こそ淀みなく紡がれていたその言葉は、でも途中で勢いを失い、最後は疑問形に変化していた。
理由は簡単で、双眸に映し出された光景があまりに予想外な代物だったからだ。
そこにいたのは、間違いなくリーダさんその人だった。
いつだって笑顔を絶やさず、理事長のみならず誰に対しても分け隔てない丁寧な言動と物腰で完璧な応対をしてくれる、メイドの鑑とでも称すべき女性。
そこまでは良い。
問題は、その彼女が身にまとっている衣装だった。
普段の彼女は(風祭家のメイドの正式ユニフォームらしい)肌の露出を極力控えたデザインの、濃萌葱と白を基調とした長袖&長裾のメイド服を着ていた。
というかこの学院に赴任して以来、メイド服姿以外の彼女を見たことがなかった。
そう考えると今日僕は、まったく新しいリーダさんと出会ったのかもしれない。
かもしれなかったけど……。
「あの、司様? どうかなされましたか」
途中で言い淀むように言葉を切ってしまった僕の顔を、小首を傾げながら不思議そうにのぞき込んでくるリーダさん。
「え、あ、いや……何でもないよ。うん、はい」
「……?」
歯切れの悪すぎる僕の返答に、リーダさんはますます表情を曇らせていく。
あ、マズい。
このままだと彼女の場合、僕じゃなく自分に何か落ち度があったんじゃないかって言い出す可能性が高かった。
「あの、司様。もしかして、私に何か問だ――」
「無いから! うん、全然ちっとも微塵も無いから。だから安心して、リーダさん」
「あ……は、はい」
機先を制した僕の言葉に、ちょっと驚いた様子できょとんとした表情を浮かべたリーダさんは、コクコクと勢いに押されたように頷く。
「問題っていうか……びっくりしただけだから」
「びっくり、ですか?」
「えーと、ほら。リーダさんがいつもと違う格好をしてたから……だから、ちょっとだけ面食らっちゃって……」
そこまで僕が説明したところで、視線を落として自分の格好を再確認したリーダさんは、なるほどと合点がいった様子で、
「実はお嬢様から、ここにいる間はこれを着てお仕えするよう言い付かっておりまして」
「な、なるほど。理事長から……そうなんだ」
曖昧な返答を口にしながら僕は、改めて彼女の姿を頭のてっぺんからつま先まで、まじまじと確かめた。
何ていうかそれは、誰がどう見てもスク水だった。
正確にはスク水にメイド衣装のフリフリの部分を追加した感じの、何だか良く分からないコスチューム。
「あの、リーダさん。参考までに教えてほしいんだけど、水場で作業する時っていつもそんな格好をしてるの?」
「まさか。お嬢様がご入浴の際は、いつも通りですわ」
「そ、そうだよね。でもあの格好だと、濡れたら大変じゃない?」
「そのような不手際、いたしません」
当然といった様子でそう、リーダさんは返答を口にする。
なるほど、彼女ほどの手練れになると少々湿気が多い程度じゃ、大した影響はないのかもしれなかった。
でもそうすると、何で今日に限って……?
そこまで考えたところで僕は、理事長の背後に黒幕がいるに違いないことを確信した。
こんなことをしでかすのは、僕が知る限りひとりしかいない。
どうやら彼女――相沢は、卒院して娑婆に戻ったことでますます怪しげというか、歪んだ知識を身に付けているっぽい。
本来ならここで、ブレーキ役として仁礼の活躍を期待したいところだったけど、さっきの様子じゃ多くを期待するのは難しそうだった。
と、すっかり話が逸れてしまった。
「そうそう。リーダさん、石けんかシャンプー持ってない? 髪と身体を洗おうと思ったんだけど、どこにも見当たらなくて」
「それでしたら、こちらをお使いください」
「ありがとう」
お礼を口にしながら、手を伸ばす僕。
でも、待てど暮らせどシャンプーが手のひらに乗せられないので小首を傾げながら顔を上げると、当のリーダさんはさも当然といった様子で、
「司様は、髪と身体のどちらから先に洗われますか?」
「え? か、髪かな」
つい反射的に、そう答えてしまう。
でも、すぐにハッと彼女の言葉の意味を理解した僕は、
「リ、リーダさん。えーと僕、自分で洗えるから、手伝ってもらわなくっても平気……ってのはダメっぽいね」
「はい。私にお任せください」
どうやら僕に、拒否権は存在しないみたいだった。
床屋で洗髪してもらうような物と思って任せるしかないか……内心でそんなことを思い、自分を納得させる。
「それでは失礼します。痒いところなどありましたら、遠慮なく仰ってください」
そんな言葉と共に、彼女の手が僕の髪に触れてくる。
最初はシャンプーを髪に馴染ませるように、ゆっくりとした動きを見せていた細くしなやかな指先が、手櫛を繰り返すうち頭皮を刺激するように変化してゆく。
「痛くありませんか?」
「……はい」
「痒いところはありませんか?」
「……大丈夫です」
こうしていると今、自分が温泉にいるんだってことを忘れてそうになってしまう。
というか僕じゃなくても床屋か美容院にでもいるんじゃないかと、そんな錯覚に陥ってしまうに違いなかった。
どんなテクニックを弄しているのか、リーダさんの手業はあまりの心地よさに眠気を感じてしまうほどの、抜群な代物だった。
床屋で力任せにガシガシ髪を引っかき回されることを思えば、天国と地獄の差だ。
「洗い流しますから、目に入らないよう気をつけてください」
やがて終わりを告げる、至福の時間。
内心で幾ばくかの名残惜しさを覚えながら、僕は「はい」と応える。
勢いのある水流が、大きく泡立ったシャボンの固まりを押し流してゆく。
同時にリーダさんの手櫛が僕の髪と頭皮に、まるで甘噛みするみたいな心地よい刺激を与えながら何度となく前後していった。
「はい、お疲れさまでした」
彼女のそのひと言と共に、長いようで短かった愉楽の時が終わりを告げると同時に、失われていた視界が取り戻される。
「ありがとうございます、リーダさうひゃう!」
そう、感謝の言葉を口にしかけた僕は、でも最後までそれを言い切る前に素っ頓狂な声を上げてしまう。
僕の背中を、前触れなしに羽のように柔らかな何かがすうっと、くすぐるように撫でさすっていったからだった。
「リ、リ、リーダさん!」
我が身を守るように自分で自分を抱きしめながら、そのまま椅子から転げ落ちた僕は背後を振り返る。
その途端視界に、こちらに伸ばしてきている両手を含めた身体中あちこちを泡だらけにしながら、きょとんとした眼差しを浮かべるスク水リーダさんの姿が飛び込んできた。
「あの……司様。どうかされました?」
「え? いや、あの、えと……何か急に背中から脇腹にかけてくすぐられたみたいな感触がしたから……あれ、え?」
頭上に「?」マークを林立させるリーダさんを前に、こっちこそ何かとんでもない勘違いをしたんじゃないかと、同じく「?」マークを生やしかける僕。
「それはもしかすると、私が司様のお背中を洗い始めたからでしょうか?」
「え? 僕の背中を? あー……なるほど」
彼女の言葉で、ようやく合点がいった。
髪を洗い終えたから、次は身体を――なるほど、そういうことか。
僕の中では「床屋で髪を洗ってもらうような物」ってイメージが勝手に出来上がっていたから、そういう発想にならなかった。
じゃあ仕方ない。
そう一度は納得しかけた僕だったけど、重大な疑問に突き当たる。
いやいや、ちっとも仕方なくないって。
とりあえず姿勢を正した僕は、その場であぐらをかき直しながらリーダさんと相対する。
「えーと、リーダさん。ひとつ聞いていいかな?」
「はい、どうぞ」
にっこりと目を細めた彼女は、僕に目線を合わせるように膝立ちだった姿勢を正座に切り替えた。
コホンと小さく咳払いした僕は、改めて頭の中で引っかかっていた疑問を口にする。
「僕の背中を洗おうとしたってのは分かったけど……でも、どうして素手?」
「何か変ですか?」
「変というか何ていうか……こういう場合、普通スポンジとかタオルを使わない?」
「そうなんですか?」
僕の問いかけに、終始きょとんとしたままのリーダさん。
おかしい。
どう考えてもおかしい。
何かが根本的にかみ合ってないような、そんな気がした。
「あの……もしかしてリーダさん。普段、身体を洗う時も何も使わないの?」
「ええ。お嬢様のお背中を流させていただく際はこのように、いつも両手のみを用いて洗わせていただいています」
とても納得のいく回答だった。
なるほど要するにリーダさんにとっての正解と、僕にとっての正解が初めからかみ合っていなかったのだ。
うん、じゃあ仕方がない。
仕方が……って、そんな簡単に納得できるかーっ!
り・じ・ちょーっ!
貴女という人は、何て羨ま――じゃなかった、ヤバいことをリーダさんに教え込んでるんですか。
彼女は理事長にそうしているのとまったく同じ動機と発想で、僕に対しても同じサービスを施してくれようとしている。
その行為自体はたぶん純粋な好意の発露で、下心なんて物は微塵もないに違いなかった。
でもそれを理事長にするのと僕にするのとでは、根本的に違っている点があった。
理事長が女であり。
僕が男であること。
背中だけならともかくそれが前にまで回ってきた時、果たして僕は最後まで理性を保ったまま耐えきることができるだろうか。
あまり……いや、まったく自信がなかった。
「申し訳ありません、司様」
唐突に黙り込んでしまった僕の態度から敏感に何かを察したらしいリーダさんは、ハッと表情を硬くすると言葉通り、見るからに申し訳なさそうな表情を浮かべる。
さすがリーダさん――僕の言外の意を察して、自分のやろうとしていたことの危うさに気付いてくれたのだ。
ほっと、内心で安堵の吐息を漏らしかけた僕は、
「まさか司様が……それほどまでにくすぐったがりな方だとは、思いもよりませんでした。次は気をつけますので、ご安心ください」
笑顔と共にそう言葉を紡ぐ彼女を前に、思わず床に突っ伏しかけてしまった。
全然分かってないーっ!
「ささ、司様」
「や、だからそうじゃなくて、リーダさん……」
「大丈夫です。私にすべてお任せください」
そう言って正面から僕を見据える彼女の瞳は、職業意識に百パーセント燃えていた。
これは、何を言ってもダメだ。
と、とりあえずこういう時は……そう、三十六計逃げるに如かず!
頭の片隅にその言葉が閃いた瞬間、脱兎のごとき勢いでその場から駆け出そうとした僕だったけど、ことここに至って初めて自らの置かれた状況に気付く。
いつの間にか左右に逃げ場のない、コーナーに追い詰められていた。
「え? あれ? なんでこんな場所……?」
右を見る――壁。
左を見る――壁。
そして正面。
「ご安心ください。風祭家のメイドの名にかけて、同じ過ちは繰り返しません。さぁ、気を楽にして身体の力を抜いてください」
そこには、穏やかな笑みを浮かべるリーダさんの顔があった。
でも今の僕にとってその表情は、まるで死の宣告を告げに来た天使のような美しさに満ちていると同時に……心の底から畏怖すべき物だった。
「やぁーーっ! らめぇぇぇーーーっっっ!!!」
第3話 了
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