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この作品は、株式会社ウィルから2006年に発売された『遥かに仰ぎ、麗しの』の人物・世界設定を使用しています。
また作中に登場する組織・団体・人物の名称は、全て架空のものです。
『凰華景物詩』
Update:2009.10.20
第4話「たったひとつの酔ったやり方」
ドアを開ける。
その途端、静寂と宵闇だけが支配していた暗がりのただ中を、さっと一条の光が切り裂いていった。
人ひとりがすり抜けられる程度までドアを開き、その隙間から頭だけを突き出す。
右見て。
左見て。
念のため、もう一度右見て。
「……よし」
そうして周囲に誰もいないことを確認した後、ひとりごち小さく呟いた僕はドアを抜け、廊下に身を乗り出した。
その時だった。
ドアの開き具合が足りなかったのか、通り抜けた時に背負っていたリュックがドアの縁にぶつかって、ガチャリとガラス質の音を立てた。
「!!!」
実際には、さほど大きくはないだろう音。
でもしわぶきひとつ立たない静謐に満ちた場をかき乱すそれは、僕の耳には数十メートル先まで届きそうな大きさに感じられた。
心臓を鷲づかみにされんばかりに驚かされた僕は、そのまま凍り付いたように身体の動きを止め、息をひそめる。
五秒……十秒……十五秒。
どれだけ待っても、どこからも危惧した変化が起きなかったことに安堵の吐息を漏らした僕は、すぐに気を取り直すと行動を再開した。
後ろ手に、ゆっくりドアを閉じる。
それから廊下を、階段のある側に向かって歩き出す。
途中いくつか、今年担任を務める学院生たちの部屋の前を通り過ぎたけど、マホガニー製の重厚な造りの扉の向こうからは、物音ひとつ聞こえてこなかった。
彼女たちがまだ起きているのか、それとももう寝てしまったのかは分からない。
ドアに耳でも押し当てれば何か分かるかもしれなかったけど、出歯亀じゃあるまいにさすがにそこまでする勇気はなかった。
『夜更かしは、お肌の大敵だからね』
いつだったかそんなことを、大銀杏から言われたことがあった。
その言葉が正しければ、うら若き乙女である学院生の大半は就寝済みに違いなかった。
ただそんな台詞とは裏腹に大銀杏本人は、卒院前の相沢と連れだっては夜夜中、足繁く僕の部屋に押しかけて来た前科があるから、どこまで本気か怪しい物だった。
あれ……そういや相沢のヤツ、誰の部屋にいるんだっけ?
昼間、凰華女学院分校温泉のオープニングセレモニーにかこつけて、わざわざ学院まで押しかけてきた彼女は、
「だーってせっかく遠路はるばる来たんだし、このまま温泉に浸かっただけで帰っちゃうなんて、もったいなさすぎっしょ」
いかにも相沢らしいそんな物言いで、理事長からあっさり宿泊許可を得ていた。
そもそも超が付くほどの御嬢様学校である凰華女学院分校には、外来者用の宿泊施設についてもおさおさ怠りなく用意されていた。
本来の目的は視察に訪れたVIPや、やんごとない事情でここを訪れた父兄用の施設なんだろうけど、別にOGが使っちゃダメって決まりもないはずだった。
ただ相沢の場合、そういうお仕着せを好まない質だったこともあって、理事長から外来者用施設ではなく寮の空き部屋の使用許可をもらった様子だ。
そんな事情を考えると、お肌のひとつやふたつ程度の理由で彼女たちが大人しく床についているとは、到底思えなかった。
大方今頃、かつてのクラスメイトの誰か――消去法的に考えると、大銀杏の可能性が一番高かった――の部屋を会場に、パジャマパーティでも開いているに違いなかった。
なんてことを考えながら、ゆっくりと階段を下りてゆく。
そして階下にまでたどり着いたところで、ようやく緊張を解く。
一階に学院生の居室はなく、ここまで来れば少々物音を立てたところで僕の存在が気取られる恐れはまずなかった。
「ふぅ、やれやれ」
部屋を後にしてから初めて口を開いた僕は、緊張で生じた肩の凝りを解きほぐすようにコキコキと首を何度か回してから玄関のドアを押し開き、外に出た。
踊り場で立ち止まり、頭上を見上げる。
十五夜に近いほぼ真円を描く月が、中天高くその姿を曝け出していた。
降り注ぐ月明かりのお陰か、視界は寮の中にいた時よりよっぽどクリアだった。
それだけ確認して止めていた足を再び動かし始めた僕は、まずは最初の目的地である本校舎へ向かう。
街灯からの距離に比例して地面の上を伸び縮みする影に目を落とす僕の耳に、ひとり分の足音がこだまする。
やがてたどり着いた本校舎も、寮と同様に宵闇の支配する世界だった。
窓から射し込む月明かりで、かろうじて足下が確かめられる程度の明るさだ。
中には宿直の先生がいるはずだったけど、見回り時間にはまだ早かったからきっと宿直室でのんびりテレビでも観てるんだろう。
そんなことを考えながら校舎内に足を踏み入れた僕は、月明かりと一定の間隔を置いて灯されている常夜灯の光を頼りに、慣れた足取りで奥へと進んでいった。
程なくたどり着いた職員室のドアを開け、壁際に備えられたスイッチを手探りで探し出して入れる。
その途端、漆黒のベールに包まれていた室内が溢れんばかりの光に満たされた。
「んっ……」
突然の変化に目が付いていけず、世界がホワイトアウトする。
でも、それはほんの一瞬のこと。
右手を額に当てて目をかばい、少しの間明るさに慣れるのを待った僕は、視界が元通りになるのを待って、赴任以来ずっと同じ場所にある自席へと近づいていった。
そして机の一番下の引き出しを開く。
「えーと……あったあった」
引き出しの中から探し物を見出した僕は、小声で呟きながらそれを手にすると、ここまで背負ってきたリュックに詰め込んだ。
さて、じゃあ今度こそ目的地に向かうとしよう。
元来た道を戻ろうと職員室を後にした僕は、
「って、あれ? もしかして、こっちから行った方が近いのかな?」
でも数歩足を動かしたところでぴたりと動きを止め、その場で考え込んでしまう。
確か校舎の造りがこうなってて、僕が向かう先があっちだから……うん、やっぱり正面玄関に戻るより校舎脇の非常口から出た方が近道になるはず。
わざわざ遠回りすることもないよな――そう判断した僕はくるりと身体の向きを反転させると、暗がりの中を校舎の奥に向かって歩き始めた。
コツコツと床を叩く足音だけが、耳に響く。
その音は、人気の失われた場所を歩いているという意味では、寮の廊下で発していたのと同じ物のはずだった。
でも僕の耳にそれは、少しだけ寂しげな空気をまとってるように聞こえた。
寮の廊下もここと同じで真っ暗で人気もなかったけど、それでもドアの向こうには数多の教え子たちの確かな存在感があった。
でも夜の校舎には、それがない。
本当の意味で空っぽの、虚無の空間が僕の前に佇んでいた。
「ん?」
部屋のひとつから明かりが漏れてるのに気付いたのは、歩き出してすぐだった。
閉じ方が中途半端だったのか、半開きになったドアの隙間から廊下に向かって、うっすらと光が漏れ出している。
こんな時間に、一体誰が?
まだちょっと早い気もしたけど、宿直の先生の見回りだろうか……頭の片隅で当番表の名前を思い起こす。
まさか、窃盗犯ってことはないよな。
セキュリティ厳重なこの学院に、泥棒風情がそう簡単に忍び込めるとは思えなかったけど、可能性はゼロじゃなかった。
ともあれ、まずは状況確認しておかないと。
足音を忍ばせ、そろそろとドアの袂へと近づいていく。
やがてたどり着いたドア脇の壁に、へばりつくような体勢で身を置いた僕は、息を殺しながらそっと中をのぞき込んだ。
§
室内に、人影はなかった。
代わりに僕がそこに見出したのは、電源を消し忘れられたまま無音の砂嵐を映し続ける大型液晶テレビの画面と、その薄明かりの下に浮かび上がる調度品の数々だった。
その光景を前にして、初めてそこが談話室だってことに気付いた。
「って、何だ……消し忘れか」
すわ捕り物かと緊張してたこともあって、拍子抜けしてしまう。
半開きだったドアを押し開けて中に足を踏み入れた僕は、つまずかないよう足下に気をつけながらテレビへと近づいていった。
正確なサイズは知らなかったけど、両手を左右いっぱいに広げても抱えきれないほどのビッグサイズなテレビと、そこから適度な距離を置いて設えられたソファとテーブル。
毎日見続けてきたせいか今ではそれは、すっかり見慣れた情景だった。
担いでいたリュックを床に置き、ソファに腰を下ろす。
視界いっぱいに飛び込んでくる画面。
それはここの主が、普段眺めていたに違いない光景だった。
主の名は、通販さん。
もちろんそれが本名のはずはなかったけど僕が学院に赴任した時、誰もが判を押したように彼女のことをそう呼んでいた。
理由は簡単。
いついかなる時も彼女は、今僕が腰を下ろしているこの場に佇みながら、朝から晩まで飽きることなく通販番組を見続けていたから。
逆に言うとそれ以外に、彼女の人となりを現す特徴が見当たらないからでもあった。
噂では学院内に彼女専用の、通販商品収納用倉庫まで存在しているらしい。
本名は誰も知らない。
以前、何かの折りに暁先生から聞いた話だと彼女は風祭に連なる係累で、決して口外できない事情によりゲストとして、もう何年もここ凰華女学院分校という名の牢獄に収監されているらしかった。
「うるさい黙れ」
僕の記憶に間違いがなければ、それが彼女と交わした初めての会話だった。
会話と言うには、あまりに一方的な言葉。
それは一年以上前の出来事で、忘れもしない理事長の一方的な思い込みが原因で挙行されることになった、球技大会本番を数日後に控えたある日のことだった。
誰からも隠れるように密やかに、ピッチングマシーンを使って打撃練習の真似事をしていた通販さんと榛葉の姿を偶然見かけた僕が、彼女たちもきっと皆の輪の中に入りたいんだと早合点して声をかけたのだ。
そんな僕に向かって、吐き捨てるように投げつけられた言葉。
文字にするとそれほどきつい感じはしなかったけど、実際に彼女の口から紡ぎ出された言葉は嫌悪と侮蔑の感情に満ち満ちていた。
当時の僕には、どうしてそんな反応が返ってくるのかさっぱり分からなかった。
でも、今なら分かる。
僕は触れてしまったのだ。
何ひとつ事情を与り知らない新参の部外者ごときが決して触れてはならない、彼女にとってとても大切な部分に。
そんな場所に、無思慮に土足で踏み入ってしまったのだ。
だから彼女は怒った。
分かってしまえば簡単な話だった。
通販さんとの出会いは、今思えば考え得る最悪のパターンに違いなかった。
存在すら認知してもらえない、空気のような存在――最初の頃の通販さんの僕に対する扱いは、有り体にいってその程度だった。
それがいつからか、
「おい」
と、まがなりにも声をかけられるようになり。
「そこのお前」
カレンダーに刻まれる月の数字が大きくなっていくうち、投げかけられる言葉の中に人称代名詞が含まれるようになり。
「滝沢司」
時折そう、固有名詞を口にしてくれるようになったのは季節が巡り、知り合ってかれこれ一年の時が経過した頃だった。
それもこれも……全部、榛葉のお陰だよな。
ソファの背もたれに身体を預け、ノイズだらけの画面に釘付けになっていた視界を天井へ反らしながら、そんなことを思った。
榛葉邑那。
通販さんと友誼を取り結んでいた、学院内でも希有な存在。
途方もないマイナス位置からスタートした僕と通販さんの関係が、まがなりにもゼロ点を超えてプラスにまで改善できたのは、ひとえに彼女の存在があればこそだった。
というか彼女がいなかったら、知り合うことすらなかったに違いない。
世間では『子は親のかすがい』なんて言うけど、僕と通販さんにとっては榛葉こそがかすがいに他ならなかった。
でもそんな彼女も……今は、もういない。
半年以上前の三月初旬、榛葉は学院内から忽然と姿を消してしまった。
誰にも、何も言わずに。
同じゲストで、学院内では間違いなく一番の知己だったはずの通販さんにさえ、ひと言の書き置きすら残すことなく。
それから間もなくだった。
衆目の一致するところの根城だったはずの談話室で、通販さんの姿を見かける機会が減り始めたのは。
代わって彼女は、温室に頻繁に姿を見せるようになった。
まるで榛葉の代わりを務めるかのように、温室の草葉の世話をし、訪れてきた相手に茶を振る舞いながら過ごす日々。
「通販さんも、やっぱり榛葉からは何の言付けもなかったの?」
いつだったか、授業の空き時間に訪れた温室で振る舞われた紅茶に舌鼓を打ちながら、以前から気になっていたことをそれとなく尋ねてみたことがあった。
テーブルを挟んだ反対側の席で、自ら淹れたお茶をひと口含んでから、
「何も」
一瞬だけ伏せるように視線を落とした後、彼女は簡潔にそう答えた。
でもすぐに口元を緩めると、
「ただ、予感はあったな。ひと頃から邑那の、お茶の淹れ方や草葉の手入れの仕方がやけに丁寧になったから。あれはたぶん、私に手ほどきしてるつもりだったんだろう」
「あれ? そうだったんだ。僕がいた時は、そんな素振りも見せなかったのに」
「努力とは、他者にひけらかす物でもないだろう」
「はは……ごもっとも」
「そもそも私がこうしているのも、邑那の淹れる紅茶が美味いのは茶葉が良いからなのか、それとも邑那の腕が良いからなのかを知りたかっただけだからな」
要するに、比較対象が欲しかったので自ら立候補したってことか。
何ていうか、とても彼女らしい動機だった。
「それでひと頃って、具体的にはいつ頃?」
「確か……年が明けた辺りだったな」
彼女が姿をくらましたのはそれから三ヶ月後のことだったから、やっぱりあれは入念に計画された行動だったのか。
だからこそ通販さんに後事を託すべく、温室に関わるあれこれを伝授したのだろう。
榛葉の消息に関する話題を僕たちが口にしたのは、それが最後だった。
そうして榛葉が姿を消し、相沢たちが卒院していった結果、気がつけば学院内で通販さんと直接の接点を持っている存在は、僕ひとりになってしまっていた。
だからかもしれない。
暇を見つけては温室を訪れ、彼女と二人きりの時間を過ごす機会が増えたのは。
どうして僕は、通販さんのことが気になるんだろう。
それは、素朴な疑問だった。
天井へ向けていた視線を元に戻しながら僕は、頭の片隅に思い浮かんだその問いに対する答えを口にする。
「似てるから……か?」
呟き通り、確かに僕と彼女は似てるのかもしれなかった。
表面的な部分じゃない。
もっと根っこの、心の奥底に近い部分でだ。
今でこそこんな風に教師でございなんて顔をしてる僕だったけど、誰からの一片の庇護も愛情も与えられることなく、荒むに任せていた頃もあった。
今の養父母に巡り会うまで。
あの頃の自分を思い出すと今でも、精神の奥底に沈み込ませてあったはずの澱がじんわりと染み出してきては、僕の心をかき乱す。
そんな澱のただ中に通販さんは、今なお居続けているのかもしれなかった。
誰からも救いの手を差し伸べられることのないまま、たったひとりで。
僕と違って彼女は感情を露わにするタイプじゃなかったけど、でも世界のすべてから見捨てられているも同然な境遇は、かつての僕と同じだった。
だから気になるんだろう。
彼女のことが。
未だに本名すら誰も知らない――最近は温室で良く姿を見かけることから、他の学院生たちから「花さん」と呼ばれる機会が増えている「通販さん」のことが。
「って、しまった!」
とりとめもない思索に耽っているうちに、すっかり時間を喰ってしまった。
ソファから跳ね起きた僕は、リュックを背負い直した後リモコンのスイッチを操作してテレビの電源を落とす。
それから左右を見渡す。
窓外から射し込んでくる月明かりを頼りに、室内に異常がないことを確かめた僕は談話室を後にした。
本来の目的地に向かうために。
浪費した時間を少しでも取り戻すべく、ちょっとだけ足早に。
§
鼻先を、温泉特有の匂いがくすぐってゆく。
何度かいでも心地よいその香りに微かに目を細めながら、僕は木戸を開いた。
次の瞬間、目の前に広がる空っぽの世界。
時間が時間だけに誰もいないのは予想してたから、別段驚くこともなく上がり場で靴を脱いだ僕は、中へ足を踏み入れた。
そこは、数時間前に後にしたばかりの脱衣所だった。
「あいしゃる、りたーん」
社会科の教員っぽく誰に言うでもなしにそんな呟きを漏らした後、手近にあった籠を手にした僕は、格子棚のひとつにそれを放り込む。
って、あれ?
良く考えたらこの場合、既に戻ってきてるんだから完了形の「あいはぶ、りたーんど」になるべきじゃないのか。
逃げ出す時の台詞ばかり有名だけど、実際のところその辺はどうだったんだろう。
これまたいかにも社会科教師らしい素朴な疑問を抱いた僕は、脳内にある「後で調べておくリスト」の末尾にこの件を追記しておく。
「じゃ、そういうことで」
そして、とりあえずこの件は忘れることにした。
部屋で風呂に入る時と同じくらいの気安さで服を脱いだ僕は、パンツ一丁になったところでふと、全部脱いでしまう前に確認しておくべきことがあったのを思い出した。
傍らに置いてあったリュックの前にしゃがみ込み、中に手に入れる。
やがて姿を現したのは、身の丈五十センチほどの瓶だった。
いわゆる一升瓶ってヤツだ。
もちろん空瓶であるはずもなく、中には透明の液体がなみなみと湛えられていた。
「ふ、ふふふ……」
僕の口から自然と漏れる、忍び笑い。
それは勝利の笑み。
瓶には『越乃扶桑 特別純米大吟醸』と、これを買った酒屋の主人から聞いた話だと杜氏自ら認めたらしい達筆なラベルが貼られていた。
この酒は、学生時代から僕が愛飲していたブランドだ。
もちろん当時の僕はいわゆる絵に描いたような貧乏学生だったから、同じ『越乃扶桑』でも手を出せたのは無印の純米酒までが限界だったけど。
ネットを巡回している時に偶然この特別バージョンの存在を知り、社会人となった今なら買える! と、八方手を尽くして入手したのがこの一本だった。
普通の『越乃扶桑』も良い酒だったけど、その特別純米あーんど大吟醸ときた日には、一体どんな素晴らしい味わいが……酒瓶を抱きしめ頬ずりしながら思わずぽややんと、ぱらいそな妄想を膨らませてしまう。
「って、いかんいかん」
パンツ一丁で、何を妄想に耽ってるんだか。
こんな場所で酒瓶を頬ずりし続けた挙げ句、風邪でも引いた日には間抜けもいいところだ。
現実に引き戻された僕が次にリュックから取り出したのは、まん丸のお盆だった。
それから、徳利とお猪口。
そして最後に、酒の肴としてわざわざ職員室まで取りに行った真空パックの裂きイカを取り出して、すべての準備は完了と相成った。
ことここに至っては今更説明不要な気もしたけど、僕がやろうとしていたのはドラマなんかで良く見かける「温泉で晩酌」なアレだった。
酒飲み憧れのシチュエーションに、是非ともチャレンジしてみたかったのだ。
時計を見る。
あと少しで日付が変わる辺りを、短針が指し示していた。
それだけ確認した後、最後の一枚を躊躇なく脱ぎ捨てた僕は昼間と同様、予め用意してあったタオル風水着を着ようと片足を通しかける。
が、そこでハタと思い止まる。
待てよ……僕以外誰もいないのにわざわざこんな物、着る必要あるのか?
少し考えた後、妥協案としてやはり脱衣所備え付けとなっていた、普通のタオルを腰に巻いておくことにした。
よし、準備完了。
小さく頷いてからお盆に乗せた徳利とお猪口とつまみを左手に、酒瓶を右手に持った僕は意気揚々と風呂場に向かって歩き出した。
両手が塞がっていたので、足で木戸を開く。
扉が開いた途端、もわもわっと立ち上る湯気が僕の身体を押し包んできた。
その温もりと香りに目を細めながら、洗い場へ足を踏み出した。
数歩進んだところで一旦足を止め、辺りを見渡す。
案の定、人影は見当たらなかった。
「よしよし」
満足げに頷いた僕は、そのまま湯船の側に移動する。
湯船の縁にお盆と酒瓶を置いた後、伏せ置いてあった洗い桶にお湯を汲んでさっと身体の汚れを洗い流してから、足先から湯船に身体を浸してゆく。
「はふぅ」
首まで浸かったところで、僕は無意識のうちに大きくため息を漏らしていた。
昼間は人が多くて、落ち着いて温泉を堪能する余裕もなかったけど、やっぱり足が伸ばせる大きな風呂は気持ち良かった。
ましてやそれが露天と来た日には、開放感も抜群で言うことなしな訳で。
頭上を見上げる。
湯気のせいでやや霞んでいたけど、中天に浮かぶ月を中心に数え切れないくらいの星々の瞬きが、街灯代わりの光を下界へ降り注がせてきていた。
綺麗だな……心の底から、素直にそう思えた。
同時にこの光景を、誰とも分かち合えないことに一抹の寂しさを覚えてしまう。
「まぁ、仕方ないか」
誰かを誘おうにも、声をかける相手は教え子たる少女たち以外思いつかなかった。
それを禁じる明確なルールは学院には存在しなかったけど夜夜中、一緒に混浴の露天風呂に行こうなんて誘うのは、僕的にはやっぱり気が引けるのも確かで。
かてて加えて風呂ばかりでなく、飲酒までしようとしてるのだから――彼女たちに飲ませる気は毛頭ないにしても、やっぱり色々とマズいに違いなかった。
こんな時、暁先生がいてくれればなぁ。
間違いなくふたつ返事で付き合ってくれるに違いない先輩教諭は、残念ながら今頃は義理の娘二人のオモチャになってるはずだった。
そういや新妻の方も、今頃は相沢を筆頭とした面々のオモチャになってるのか。
当人たちの与り知らない部分でも、夫婦仲の良い二人だった。
しばらくの間、そんなとりとめのない思いに身を任せていた僕は、ひと心地ついたところで次の行動に移る。
本日のメインイベントだ。
「れでぃーすあんどじぇんとるめーん!」
舌鼓でドラムロールをしながらそんな呟きを漏らした僕は、持ってきたお盆をそっとお湯の上に浮かせる。
多少のことじゃ浸水しないよう、縁高の物をわざわざ探して買ってきた甲斐あって、お盆はいかにも安定した様子で波打つ水面の上をゆらゆらと揺れ動いていた。
よし――満足げに頷く僕。
次に封を切った瓶から徳利に、酒を注ぐ。
持ってきた素焼きのそれは二合徳利だったから、瓶の五分の一が空いた勘定になる。
本当ならこういう場合は燗にして飲むのが正しい作法なのかもしれなかったけど、さすがにそこまでする準備はできなかったので、冷や酒で済ませることにする。
瓶ごとお湯に浸してぬる燗にするって手もなくはなかったけど、今日は止めておく。
温泉の備品として、理事長に電子レンジの導入を申請……ってのは必要性の説明が難しいから、さすがに無理か。
この辺は、今後の課題だった。
まぁ燗にするとアルコールが飛んでしまうので、酒本来の味わいを楽しむなら冷やの方が良いに違いないと、自分を納得させておく。
お盆の上に徳利、お猪口、そして肴を乗せて準備完了。
手酌でとくとくと酒を注ぎ、手にしたお猪口を頭上に佇む月に向かって掲げながら、
「かんぱーい!」
そうひと言、ぐっと杯の中身を飲み干した。
その時だった。
僕以外、誰もいないはずのこの場に突然、女性の声が響いたのは。
「ほぅ……なかなか面白いことをしているな」
§
突然のことに、凍り付いてしまう僕。
……誰?
たった今、耳にした声を脳内で反芻させてみる。
次に、この場に姿を見せる可能性のある相手の顔を思い浮かべる。
相沢の声じゃなかった。
理事長でもない。
かといって殿子でも三嶋でも、ましてやリーダさんでもなかった。
脳裏に順繰りに思い浮かんできた顔に次々とバツ印を付けていった挙げ句、消去法で最後にひとりだけ残った。
ゴクリと、口の中に残っていた酒を飲み込む。
本当なら五臓六腑に染み込むほど美味いはずのそれを、でも残念ながら今の僕には味わうだけの心の余裕はなかった。
ま、まさか……ね。
ぎぎぎと、錆び付いた音を立てそうな動きで首を、声がした方に巡らせる。
僕の双眸がそこに見出したのは、思った通りの相手の姿だった。
「つ、つつ通販さんっ!」
真っ白なバスタオルを無造作に身体に巻き付け、腕組みをしながら睥睨するようにこちらを見据える姿は、紛う方なき通販さんその人だった。
距離、数メートル。
足音どころか気配すら察知できなかったってのは、一体どういうことか。
たぶん、その思いが顔に出てしまったんだろう、
「何だ、その鳩が豆鉄砲を喰らったような顔は。私の顔に何か付いてるのか?」
口の端を微かに緩めながら、そう問いかけてくる。
「え? あ、いや……そうじゃなくて。えーと、いつからそこに? というか、何でこんな時間のこんな場所に?」
狼狽えながら頭上に、何本もの「?」マークを生やす僕。
まさかこんな時間に自分以外の誰かと――しかもよりにもよって、通販さんとバッタリ出くわすなんて想像すらしてなかったから。
でも彼女はと言えば、僕の質問を眉ひとつ動かすことなくスルーすると、猫のように足音も立てずにこちらに近づいてくる。
そして、湯船の縁でしゃがみ込むと、
「なるほど……『越乃扶桑』か。お前にしては、なかなかいい趣味だ」
すぐ傍らに立ててあった一升瓶を慣れた手つきで両手で抱え、ラベルに刻まれたブランド名を読み上げた。
え……あれ?
今、見えちゃいけないはずの物が見えたような……そんな気が。
いやいや。
はは……まさか、ね。
「お前、もしかして気付いてなかったのか」
「え、何が?」
「ここに来る途中、温室の近くの小道を通ったはずだが」
ええと……彼女に指摘されて、僕は本校舎から温泉に至るまでに通ってきたルートを思い返してみる。
「温室の施錠をしていたら、遠くからガチャガチャ音がしたのだ」
「音?」
「たぶん、これだな」
目線で、手にした酒瓶を示す。
そして次の瞬間、悪戯っぽい笑みを浮かべたかと思うと、
「いい歳をした大の大人が、暗がりの中を本気でスキップしながら進んでいく姿を、私は初めて見たぞ」
「ぐは。マ、マジ……?」
これっぽちも自覚がなかった。
どうやら温泉で晩酌という夢のシチュエーションに浮かれて、無意識のうちにやらかしてしまったらしい。
一生の不覚。
穴があったら、今すぐ入りたいくらいの醜態だった。
「なかなか面白い見せ物だったぞ」
「あうあう」
「ふ……そうだな。後は、お前の心がけ次第ってところか」
「え?」
このままどこまでも弄られ続けるのかと思ったら、どうやらそういう訳でもないらしい。
心がけって、何のことだろう。
瞬きを何度かする間、彼女の意図を推し量るように脳細胞をフル回転させた僕は、やがてひとつの結論に行き当たる。
「つ、通販さん。もしかしてお酒……を?」
「嗜むぞ。変か?」
「や、だって学院せ――」
思わずそう口にしかけたところで、自分の勘違いに気付いて口をつぐむ僕。
そうだった。
彼女は普段、外見こそ分校系の制服を身にまとっていたけど、でもその中身は他の学院生たちとは天と地ほども異なる境遇に置かれているんだった。
ゲスト。
彼女がいつからここにいるのか、僕は知らない。
彼女がいつまでここにいるのか、僕は知らない。
お酒が飲める年齢なのかどうかどころか、本名すら誰も知らないジェーン・ドゥ――それが通販さんだった。
「邑那がいた頃は、夜になると良く紅茶の香味付け用のブランデーをそのまま飲んだりした物だった」
「へぇ、榛葉と」
「私も人並みに飲める口だと思っていたが、あいつは凄かった」
そこで一瞬の間を置いた後、口の端を微かに緩めると、
「ザル……いや、底の抜けた桶だな、あれは」
「そ、そうなの?」
「ビール、スコッチ、ワイン、ブランデー、ウォッカ、バーボン、日本酒、焼酎、梅酒、紹興酒、高粱酒、シュナプス、テキーラ、ラム。まだあったはずだが、それこそ何でもアリって感じだったぞ」
どうやら一緒に飲んだことがあるらしい酒の種類を、指折り数えていく通販さん。
もしかして、今挙げた酒をちゃんぽんで飲んだってことなんだろうか。
そうだとしたら確かに、ザルどころの話じゃなかった。
「安心しろ。私は、邑那のレベルには遠く及ばない」
「は、はぁ」
頷いてみたものの、何を安心して良いのやらさっぱりだった。
とりあえず通販さんの目的は分かった。
要するに、一緒に酒を飲もうと僕を誘っているのだ。
どうするかな……って、悩むまでもないか。
断る理由はなかった。
っていうか良いお酒は独り寂しく杯を傾けるより、誰かと一緒に飲んだ方が美味しいし楽しいに決まってる。
だから僕は、お盆の上に置いてあったお猪口を軽く掲げると、
「それだけ行けるなら、僕なんかよりよっぽど強いんじゃないかな。じゃあこっちで、一緒に飲もう」
そう、彼女に向かって手招きをした。
僕からの誘いの返事を口にする代わりに無言で目を細めた通販さんは、軽く浴びせ湯をしてから湯船に足を踏み入れてきた。
ちゃぷちゃぷと微かな水音と共に、互いの距離が縮まる。
それと共に、立ち上る湯気に隠れて明瞭さを欠いていた通販さんのボディラインが、はっきりし始めた。
あ、あれ?
再びの疑問に襲われる僕。
頭の中でむくむくと膨れあがる一方のその疑念は、彼女が手を伸ばせば届きそうな距離まで近づいてきたところで頂点に達する。
手を伸ばせば触れられる――距離数十センチで足を止めた通販さんは、そのまま太ももの半ばまでお湯に浸した姿勢のまま僕に視線を向けてきた。
「どうした?」
こっちを見据える、不審げな僕の眼差しに視線に気付いたらしい通販さんがそう、問い返してくる。
「え? や、あの……ひとつ聞いていいかな?」
「何だ」
「えと……今、通販さんがまとってるそれって……み、水着だよね?」
そう言って指差した先にあったのは、彼女の身体を覆う唯一のアイテムとも言える、バスタオルだった。
正確には、バスタオル風の水着。
この温泉のスポンサーでもある理事長が、綱紀粛正を理由に導入した入浴着。
昼間、オープニングセレモニーに参加した学院生たちは皆、当たり前といえば当たり前だったけどこれを身につけていた。
だから僕は、当然通販さんもそうだと思っていた。
思いたかった。
僕からの指摘に、胸元に視線を落とした通販さんは、
「これか? 脱衣所に置いてあった物を使っただけだ。何だ、滝沢司。お前、私のこれに興味があったのか」
「や、興味というか何というか……」
「露天風呂に入るのに、そんな無粋な物を着るはずないだろうが」
「え?」
あれ……会話が微妙にかみ合ってない気が。
いや、気じゃなかった。
その証拠に僕と目があった通販さんは、何を思ってか口元に小悪魔然とした笑みを浮かべたかと思うと、
「ほら」
そう、身体を覆っていたバスタオルをはだけて見せた。
「!!!!!」
目を逸らす暇もなかった。
そして驚きのあまり大きく見開かれた僕の瞳に映し出されたのは、入浴着の下地を為す純白の水着の生地――じゃなかった。
降り注ぐ月明かりで微かに艶光りする、ほのかに上気した肌。
首筋から鎖骨を経由して一切の無駄なラインを描くことなく形作られた、ふたつのたわわに実った果実を思わせる豊かな膨らみ。
その頂点には、赤い蕾が明瞭なコントラストを成していた。
そして、そこから緩やかなラインを描きながらウエストを構成する部分を流れ落ちていった曲線は、手入れの行き届いた柔毛の先にある女性の最も大切な部分を経由して、ヒップへとつながっていた。
立ち上る湯気の中、一糸まとわぬ通販さんのすべてが、目の前にあった。
「酒の肴代わりだ」
両手でバスタオルを観音開きにした姿勢のまま、どこか冗談めいた口調の通販さん。
でも僕は、それに答えることができなかった。
理由は簡単。
ただひらすら、見とれてしまっていたから。
目の前の情景に。
瑕疵のひとつとして見出すことのできない通販さんの肢体に、完全に心奪われてしまっていたから。
§
結局、僕が正常な思考を取り戻すまで数分の時間を要した。
「そんな大した物でもなかろうに」
当の通販さんは滝沢OSの再起動時間の遅さに呆れ気味だったけど、僕としては十分すぎるくらい大した物だったし、衝撃的でもあった。
「と、とりあえず乾杯かな?」
未だ体内に残っている動揺を押し隠せないまま、ようやくそれだけを口にする。
「そうだな」
頷く通販さん相手に僕は、お盆から徳利を取るとお酌をする。
そこで、初めて気が付く。
考えたら、自分用のお猪口しか持ってきてないことに。
「ゴメン通販さん。そういやお猪口、一個しか持ってきてなかった」
「……何?」
大してかさばる物じゃないんだから、万が一に備えて予備にもう一個くらい持ってきておけば良い物を……まさに後悔先に立たず。
内心、忸怩たる思いを抱かずにはいられなかった。
でもそんな僕に、大して気にした風でもない通販さんは、
「だったら、交互に飲めばいい」
「交互……って、代わりばんこにってこと?」
「他にどんな意味がある」
そりゃまぁ徳利や一升瓶から直接ラッパ飲みするのに比べたら、十分すぎるくらいマシな気はするけど。
でもひとつの器を使い回すって……それって、何て間接キス?
なんてことを一瞬考えたりもしたけど、理事長や仁礼相手ならともかく、通販さん相手にそんなネタが通じるとは思えなかった。
というか口にした途端、鼻で笑われるのがオチだった。
まぁお互い、いい歳をした大人な訳だから(通販さんの年齢は謎だったけど)あまり気にしないことにしよう。
「じゃあ、まずは通販さんからどうぞ」
「いいのか?」
「うん。ほら僕はさっき、ひと口飲んじゃってるし。はは……びっくりして味は全然覚えてないけど」
お猪口を手渡した後、お盆から取り上げた徳利を目の前に持ち上げて見せた僕は、これで乾杯をする意思表示をしてみせる。
微かに目を細めて、承諾の意を示した通販さんの反応を確かめてから僕は、
「かんぱーい」
「乾杯」
彼女が手にしているお猪口に、徳利を軽くぶつけて乾杯をした。
かちんと、陶器同士の触れ合う乾いた音色が、僕と通販さんの二人しかいない湯殿に小さく響く。
乾杯と同時にお猪口に口を付けた通販さんは、くっとひと息で中身を飲み干してしまった。
って、一瞬かい!
その飲みっぷりの良さに、思わず感心してしまう。
さっき「人並み」って自称してたけど、この様子だと十分に人並み以上な気が。
今、彼女が手にしているお猪口はサイズ的には二勺の、標準よりやや大きめなサイズの代物だった。
分量的には、五杯でちょうど一合になる計算だ。
ちなみに一升は十合だったから、持ってきた酒瓶の中身をお猪口で換算すると五十杯分ってことになる。
これが多いか少ないかは人によって解釈が異なるんだろうけど、一般的には一升を二人で飲むってのは結構な量って気がした。
あと入浴中ってことで血行も促進されてるから、酒の回りもかなり早いに違いない。
しかも時間をかけてちびちび飲み進めていくならともかく、かなりハイペースになりそうな予感がひしひしとしていた。
大体、既にしてその五十分の一を、彼女は一瞬で飲み干してしまってる訳で。
「次はお前だ」
顔色ひとつ変えずに、彼女は空いたお猪口をこっちに差し出してくる。
いわゆるご返杯ってヤツだ。
断る理由もないので、素直にお猪口を受け取る。
「じゃあ遠慮なく……とととっ」
擦り切りいっぱいまで注がれたそれをこぼさないよう、細心の注意を払いながら口元に持っていった僕は、負けじと一気に中身をあおる。
舌の上を、日本酒特有の甘辛い味わいが広がっていく。
そして喉から胃へと流れ落ちていく間に、かあっと熱を帯びたように身体が暖まっていくのを自覚した。
さすがは『越乃扶桑』の特別純米大吟醸、と言える味わいだ。
「いい飲みっぷりだ」
ほんの少し、感心したような声を上げる通販さん。
その声の調子から、どうやら対等の飲み相手と認めてもらえたらしいことに、僕は内心安堵の思いを抱いた。
「ははっ。お褒めにあずかり恐縮かな。さ、今度は通販さんの番ってことで」
「ん」
僕が差し出したお猪口を、躊躇なく受け取る通販さん。
そんな風に杯が何度か僕たちの間を往復するうちに、徳利の中身はあっという間に空っぽになってしまった。
当然だ。
徳利は二合――お猪口十杯分しかないんだから。
一人頭、五杯ずつにしかならい。
それを物の五分とかからずに飲み干してしまう方もどうかと思ったけど、幸い酒は一升瓶の方にはまだお釣りがくるほど残っていた。
傍らに待機させてあった瓶を手にした僕は、慣れた仕草で空になった徳利に酒を注ぎ込んでいった。
ちらりと視線を、通販さんに向ける。
すると酒の肴としてお盆の上に広げてあった裂きイカをくわえた彼女は、空になったお猪口を頬に押し当てながら、ぼんやりと湯気に煙る夜空を見上げていた。
お酒が入ったせいなのか、はたまたお湯で温まったからなのか、普段は制服の下に押し隠されている真っ白な肌が、ぽーっと上気してほのかな桜色に染まっていた。
それは思わず我を忘れて見とれそうになってしまうくらい、綺麗な光景だった。
「おい、こぼれるぞ」
「え? あ、うわわっ!」
彼女の姿に心奪われていたせいで、手許が疎かになってしまった。
危うく粗相してしまうところだった。
良い酒だってのに、こんな間抜けな理由でこぼした日には泣くに泣けない。
ぎりぎりのところで徳利から酒を溢れさせずに済ませた僕は、手にしたそれを改めて彼女へ差し出す。
「お待たせ。さ、どうぞ」
「待て。次は、お前の番のはずだ」
「あれ、そうだっけ? でもまぁ、細かいことは気にしない気にしない」
既に酔いが回り始めているのか、軽く受け流してしまう僕。
でもそんな僕とは対照的に、肌こそ上気しているものの表情には未だ何の変化も見られない通販さんは、
「決まりだからな」
そう言って、お猪口を差し出してきた。
「や、通販さんが」
「お前が先だ」
「だからそんなの、気にしなくていいって」
そんなまるで、サラリーマンの接待の席での勧め合いみたいな押し問答がしばらく繰り返されたけど、最後は僕が意見を押し通す形になった。
ちょっと不満そうに眉をへの字に曲げる通販さんに、酒を注いであげる。
「ささ、ぐぐっといって」
「…………」
彼女のことだからまだ何か言い返してくるかと思ったけど、案に相違して彼女は無言のままだった。
代わりにちらりと、やや上目遣いにこっちに視線を向けてくる。
でもそれ以上これといった反応を見せなかったから、僕は彼女がこちらの意見を受け容れてくれた物と判断し、お猪口にお酒を注いだ。
そのまま間髪入れず、くっと中身を飲み干す通販さん。
彼女の瞳が微かに細まったのは、その時だった。
その表情を、僕は知っていた。
何か楽しいことを思いついた時に気まぐれに彼女が浮かべて見せる、小悪魔然とした悪戯っぽい笑み。
……え?
声を上げる間もなく、すうっとお湯をかき分けて目と鼻の先の距離まで近づいてきた通販さんは、不意に両手を僕の首に回してくる。
そしてそのまま、顔を寄せてきた。
ええっ!
な、ななな何をっ!
唇が覚える、柔らかくも温かな感触。
そして次の瞬間、口の中に冷たい液状の何かが流れ込んできた。
「むーっ。んん……ふぐぅ!」
酒だった。
く……くく口移しかっ!
文字通り口封じされてしまった僕は逃げることすら能わず、為す術なく彼女の口伝いに流し込まれた酒を、喉越しに胃に落としてゆくばかり。
味わってる余裕なんて、無論あるはずもなかった。
そしてやっとすべてを受け容れた終えたと思った途端、次の驚きが僕を襲う。
口中に、明らかに酒とは異なる――固形物とおぼしき物体が、前置きなしにぬるりと侵入してきたのだ。
「ふ……ぅん……んぐっ!」
明らかに僕の体温より高い熱を帯びたそれ――彼女の舌は、まずドアの開閉を確かめるように唇の縁に軽く触れてきたかと思うと、すぐに歯列を右から左へと舐り始める。
それはまるで、僕の心を焦らすような動きだった。
首の後ろ、延髄辺りにジンと痺れるような刺激を覚える。
初めのうちこそ一点に集中していたそれは、待つほどもなく背筋に沿って南下を開始し、やがて腰にまで至るラインを形成した。
触れたい。
そして感じたい。
一瞬でも早く。
舌と舌を絡ませ、舐り、吸い出すことで。
それは僕の精神の奥底からわき上がってきた、本能に近い衝動だった。
でも……彼女から僕に与えられた快楽は、そこがピークだった。
始まった時と同じくらい唐突に、すうっと僕の口中から身を引いていった彼女は、そのまま重ねていた唇も離してしまう。
つっと、互いの唾液が細い糸となって互いの間を伸びていったかと思うと、やがてぷつりと千切れた。
目を伏せたままの通販さん。
でも僕が口を開くよりも先に、
「これで順番通りだ」
場の雰囲気にまったく似つかわしくない台詞を、落ち着き払った口調で紡ぎ出す。
そして僕はといえば、どう反応した物か判断のつかないままぽかんと口を開けて、そんな彼女の顔を見返すばかりだった。
「え? あ……うん。そうかも」
数瞬の間を置いて我に返った僕は、ようやくそれだけを口にする。
「さぁ次は私の番だ。注げ」
何ごともなかった様子で通販さんは、お猪口をこっちに差し出してきた。
これは一体、どう理解すればいいんだ?
夢……じゃないよな。
うん、間違いなく現実だ。
っていうか、蛇の生殺しに近いんですけど!
意図的なのか偶然なのか――通販さんの性格を考えるとたぶん前者なんだろうけど、僕の中でぐぐぐぐっとゲージを振り切りそうな勢いで一気に上昇していったアレでナニでソレなリビドーが、行き場を失ったまま体内でぐつぐつと煮えたぎっていた。
正確には体内だけじゃなく、体外の一部も元気になっていたりするけど、とりあえずタオルに隠れて彼女には気付かれてない……と信じたかった。
「どうした?」
一向に酒を注いでくる様子のない僕に、訝しげな眼差しと共に首を傾げる通販さん。
でもすぐに、僕の表情から言外の意を汲み取ったらしい。
彼女にしては珍しく、くすりと小さな笑みをこぼしたかと思うと、
「座興だ。そうだな……あとは酒代といったところか」
そう言って徳利の口を強引に傾けてお猪口に酒を注ぎ入れたかと思うと、またもや一気に飲み干してしまった。
そして何ごともなかったように、今度は僕にお猪口を渡してくる。
……敵わないな。
すべての面で敗北を喫したらしい僕は、肩をすくめるしかなかった。
でもまぁ、たまにはこういうのもありか。
徐々に落ち着きを取り戻してきた頭の片隅で、そんなことを思ったりもする。
頭上を見上げると、中天高くに真円を描く月が湯煙の中をゆらゆらと揺らめいていた。
月下独酌ならぬ月下双酌、といったところか……古の詩仙を引き合いに出して、不遜にもそんなことを考えたりしてしまう。
月と僕と彼女。
今、この場にいるのはその三者だけだった。
視線を戻すと視界に、順番待ちをしてるつもりなんだろう、裂きイカをくわえながらやはり無言で空を見上げる通販さんの横顔が飛び込んでくる。
僕の視線を感じたのか、彼女も僕を見る。
交錯する眼差し。
次の瞬間、満足げに口の端を緩めた僕は杯を傾け、中身を一気に胃袋に流し込んだ。
第4話 了
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