『いちばん遠い恋』
Update:2006.01.10
「……ん……ちゃん……」
誰かの呼ぶ声がした。
まるで水面に揺れ立つさざ波みたいに遠く、近く聞こえてくる声。
誰だろう?
夢見心地な、ぼんやりとした意識のままそんな事を思う。
穏やかで、そして静かなその声の主が誰なのかを――僕は知っているはずだった。
そう、世界中の誰よりも。
喉まで出かかった名前。
でもどうしてだろう、思い出す事ができない。
その事にちくりと胸が痛んだ。
思い出さなきゃ。
絶対に知っているはずなんだから、思い出さなきゃ。
「……兄ちゃん」
そう思う間もなく、再び聞こえる声。
同時に、手のひらに柔らかく暖かな感触を覚えた。
人肌の温もり。
それがスイッチになったみたいに、ふわふわと水の中を漂っていたままだった意識がすうっと現実に引き上げられていく。
「ん……」
閉じていた目を開く。
何秒間か、焦点が合っていないせいでぼんやりと霞がかっていた視界が、急速に焦点を取り戻していった。
真っ先に飛び込んできたのは、電車の中らしい光景だった。
レールの継ぎ目を車輪が乗り越えるたびに発する、かたんかたんというリズミカルな音色と振動に、いつの間にか眠気を誘われてしまったみたいだ。
寝起きのせいか、どうして自分がこんな場所にいるのかすぐに思い出せない。
目をこすり、大きくあくびをして身体の中に残っていた眠気を振り払ってから、僕は改めて周囲の光景に意識を向けてみた。
中央に設けられた通路を挟んで二つずつ据えられた座席が、まるで和菓子の箱みたいに整然と並んでいた。
所々に人の頭らしき物が見えたけど、それほど混雑してる感じじゃない。
いつも隣町まで買い物に行くのに使ってる通勤電車はベンチ型の座席だったから、少なくとも隣町に向かってるって訳じゃなさそうだった。
どっちかと言えば特急列車みたいな感じの、そんな情景。
「……やっと起きた」
すぐ横から声がしたのは、そこまで思考を巡らせて改めて周りを見渡してみようとした、その時だった。
ちょっと呆れた感じの、でも落ち着いた声音。
あ……それで、ようやく思い出す。
目を覚ます直前、聞こえてきていた声が誰の物だったのかを。
僕にとって、誰よりも聞き慣れた声。
大切で、かけがえのない人の声。
右手にふと、自分の物とは異なる温もりを覚える。
目を落とすとそこには、肘掛けに投げ出された僕の手のひらに重ねられた、細く小さな手があった。
無意識に視線を、重ね置かれた手のひらから二の腕、更にその先に向かってゆっくりと動かしてゆく。
やがてたどり着いた先には、誰よりも見知った相手の顔があった。
生まれてからずっと、毎日見続けてきた顔。
そして、これからもきっと毎日見続けるに違いない――そう思える顔。
「……凛子」
「おはよ、兄ちゃん」
「え? あ、うん……」
どうやらまだ完全に目が覚めきってないみたいで、彼女の言葉に僕はそんな曖昧な返答しかできなかった。
「ぐーぐー寝てたよ。もしかして昨日、寝てない?」
訝しむ様に凛子は、微かに目を細めてみせる。
その表情を前に言葉に詰まってしまった僕は、でもすぐに気を取り直すと記憶を手繰る様に小首を傾げながら、
「どうだったかなぁ……自分ではちゃんと寝たつもりだけど」
「兄ちゃんってさ、昔から遠足の前の日とか緊張しちゃって眠れないタイプだよね」
「うっ」
図星だった。
世間一般の基準からすれば間違いなく小心者の部類に属するだろう僕の場合、今みたいに多少なりとも日常から逸脱した出来事を前にすると、昔からあれこれいらぬ心配をしてしまう性分だった。
いつだったか国語の授業で習った、天が落ちてくるんじゃないかといらぬ心配をする、中国の故事に出てくる人物に相通じる物があるかもしれない。
要するに、苦労性なのだ。
昨晩もその性癖を遺憾なく発揮した挙げ句、悶々と夜を過ごした後でようやくウトウトしたと思ったら朝になってしまい、そんな寝不足状態のまま乗った電車に揺られているうちに遅れてやってきた睡魔に襲われ、今に至るという訳だった。
以上、状況説明終わり。
誰に言う訳でもなく、そんなつぶやきを心の中だけで漏らす。
「はい、お茶。これでも飲んで目を覚ましたら」
「ん、ありがと」
差し出されたペットボトルを受け取ろうとした僕は、右手を上げようとしたところで――肝心の手が動かせない事に気が付く。
別に無理矢理繋がれている訳じゃなかったから、外すのは簡単だった。
でも……どうしてか、そうする事を躊躇ってしまう。
何となくもったいない気がしたのだ。
繋がれた手と手。
僕と凛子の手。
兄と妹の手。
そして――。
「どうしたの、兄ちゃん?」
「え? あ、いや……手を離すのもったいないなぁ、と思ってさ」
結局左手でペットボトルを受け取った僕は、そう言いながら視線を重ね置かれた手の方に落とす。
「あ……」
そこでようやく、僕が何を言いたいのか理解したみたいだ。
きっと照れくさいんだろう、少し表情を硬くしながら微かに頬を染めた彼女は、
「こ、これは……兄ちゃんが寝ぼけてボクの手を掴んできたんだよ。振り払うのも可哀想だったから、そのままにしといただけ」
そう言ってぷいと、窓外に広がる風景へと視線をそらしてしまった。
顔をそらす直前、不機嫌そうな表情を浮かべていた凛子だったけど、でもどうしてか掴んだ手はそのまま。
すげなく振り払ったりする様な、そんな素振りを見せたりはしなかった。
あれ、ちょっと待てよ――。
小首を傾げて、一瞬だけ思案した僕は、
「でもさ、これって……どう見ても凛子の手が僕の手を握ってる様に見えるんだけど……」
そう、視線を右手に向けながらつぶやく。
肘掛けに投げ出された僕の指――人差し指から薬指までの三本が凛子の手に覆い隠されているその様子は、誰が見ても僕が凛子の手を握っている風には見えないはずだった。
「……知らない」
視線は相変わらず窓の外に向けたまま、囁く様にそうつぶやいた凛子は、今度こそ握っていた手の力を緩め、離してしまった。
失われる温もり。
同時に外気に晒された指先の肌が、ひんやりとした感覚を覚える。
喪失感にも似た思い。
自業自得とは言え、でも本音を言えばちょっともったいない事をしたかな、と思った。
傍目には恋人同士にしか見えない会話と、その結果拗ねた様にそっぽを向いてしまった妹の愛らしい反応。
目の前にある、その現実に小さな満足を覚えながらペットボトルの蓋を開けた僕は、心の片隅に浮かび上がった小さな幸せと一緒に、中身を喉の奥へと流し込んだ。
§
事の発端は、リビングのテーブルに置かれた一枚のチケットだった。
「ただいまー」
玄関のドアを開けながら帰宅の挨拶を口にしてから、無造作に靴を脱ぎ捨てて家に上がる。
返事はなかった。
父さんも母さんも家にはいるはずだったから、多分店の方なんだろう。
夕方とはいえ日が暮れるまでには少し早い時間だったから、バイトの古賀さんはまだシフトに入ってないみたいだった。
こういう時、コンビニみたいな年中無休の商売を営む自営業は大変だ。
たまには、言われる前に店番を代わってあげるかな。
なんて心にもない事を頭の片隅によぎらせながらリビングに足を踏み入れると、予想外の相手が僕の帰りを待っていた。
「おかえり」
「あれ、凛子? いたんだ」
誰もいないとばかり思っていたリビングのソファに、何事もなかった様子で座っていた凛子の姿を見つけて、ちょっとびっくりしながら口を開く。
「そりゃいるよ。ここは、ボクの家でもあるんだから」
「いや、そういう事じゃなくて……」
何だか、微妙に論点がずれてる気がする。
カバンを置いてソファに腰を下ろした僕は、改めて凛子に話しかけようとしたけれど、でもその機先を制する様に彼女の方が先に口を開いた。
「兄ちゃん……ボク、さっき『おかえり』って言ったよね」
「え?」
「言ったよね?」
何が言いたいんだろう。
とっさに凛子が僕に何を求めているのか、分からなかった。
でも穏やかな表情の中にある、彼女の瞳を見た瞬間すぐにピンと来た僕は慌てて、
「た、ただいま」
そう一言、言葉を紡いだ。
それが正解だったんだろう、感情の読み取りにくい表情のまま、ほんの少しだけ口許を緩めた凛子は、
「んふ、よろしい。挨拶は、人間関係の基本だよ」
満足そうに、小さくうなずいてみせた。
まったく……これじゃどっちが兄で妹か分からないって。
大体、僕以上に人間関係の幅が狭い上に、ネットにハマって引きこもり状態な凛子に人間関係の機微を語られちゃう僕って一体……まぁネット中毒なのは、お互い様だけど。
なんて口にするとろくな事にならない――理屈で凛子に勝てないのは普段から嫌っていうほど思い知らされてる――ので、心の中でため息交じりのつぶやきを漏らしながら、少しだけ落ち込む。
ここでいつもなら凛子のペースで会話が進んでいく事になるんだけど、今日に限って何か反撃のネタが何かない物かと考えてしまう。
別に大した意図があった訳じゃなかった。
強いて言うなら、いつもと違った行動を取った時の凛子の反応が見てみたかったからかもしれない。
どうするかな……頭に浮かんだ策とその勝算を天秤にかけながら、一瞬だけ思い悩む。
よし、これだな。
いくつか浮かんだ案から僕は、一番意外性の高い物を選ぶ事にした。
「な、なぁ凛子」
こちらの意図を悟られない様に、できる限りの平静を装って話しかける。
「なに?」
部屋から持ってきていたらしいネット情報誌のページに目を落としながら、気のない返事を口にする凛子。
「あのさ……」
「うん」
「その……」
「だから、なに?」
意を決したはずなのに、やっぱりいざとなると言葉がうまく出てこない。
この時ばかりは、小心者な自分が情けない事この上なかった。
僕からの次の言葉を待つ凛子。
そしてその言葉を紡ぐべきかどうか、逡巡する僕。
ええい、ままよ。
覚悟を決めた僕は、喉まで出かかっていた言葉を一気に口にした。
「お帰りのキスは……ないの?」
「…………」
「…………」
たっぷり十秒は続いた静寂。
その間、凛子の表情は思い悩むでも照れる訳でもなく、むしろ僕の言葉が理解できていないみたいに身じろぎひとつしなかった。
しまった、外したか。
後悔先に立たず――そんな今の状況にピッタリの格言を、脳裏に浮かばせてしまう。
や、今の冗談――。
慌ててそう口にしようとした瞬間、微かに瞳を揺らせた凛子が、音もなく身体を僕の方へと寄せてきた。
次の瞬間、頬に感じる柔らかな感触。
「……あ」
予想外の展開に、思わず固まってしまう。
「なに、ほっぺじゃ不満?」
僕の見せたリアクションがいまひとつお気に召さなかったのか、どこか不満そうに眉根を寄せながら凛子が問いただしてくる。
慌てて頭を振った僕は、
「いや、そんな事はないけど……」
「けど?」
なおも追求の手を緩めない凛子。
うう……何だかんだで結局、凛子のペースになっちゃうところが情けない。
付き合いの長さ故か、僕が何を言い淀んでいたのかすぐに理解したらしい凛子は、こっちから視線を逸らしながらポーカーフェイスを少しだけ崩し、頬を微かに赤くすると、
「もう、兄ちゃんはしょうがないなぁ」
呆れた様にそう言いながら、再び身体を寄せてきた。
お互いに正面から相手の瞳を見据え、ゆっくりと顔を近づけていく。
「……凛子」
「兄ちゃん……」
相手の吐息が肌をくすぐるくらいまで距離が縮まったところで、開いていた目を閉じる。
そして、唇に凛子の温もりを覚えたその瞬間――。
「勇太郎ーっ、もう帰ってるのー?」
いきなり店の方から聞こえてきた母さんの声と、ぱたぱたとこちらに向かってきているらしい足音が耳に飛び込んできた。
「うわっ!」
突然の事に、座っていたソファから文字通り飛び上がった僕は、そのままバランスを崩して板張りの床に転げ落ちてしまった。
ごんと鈍い音がしたのと同時に、後頭部に激しい痛みを覚える。
両手で頭を抱えながら、床をもだえ転げ回る僕。
「帰ってるなら店番手伝……って、あら? どうしたの、勇太郎?」
リビングに入るなり目に飛び込んできた、床でのたうつ僕の姿に母さんは少し驚いた様子で声をかけてくる。
「痛ぅ……な、何でもないよ」
後頭部を撫でさすりながら、ようやく口を開くだけの余裕を取り戻した僕は、あははと作り笑いを浮かべながら適当に誤魔化した。
まさか凛子とキスするところでした、なんて言える訳がない。
そこまで思ったところで凛子はと見てみれば、僕がいる事自体はなから気付いていないみたいな澄ました顔で、雑誌のページをめくっていた。
僕なんて心臓がばくばく言ってるってのに……さすがだ。
「帰ってきたばかりで悪いんだけど、母さん晩ご飯の用意しなくちゃいけないから、その間店番代わってくれないかしら」
そんな僕の事なんかお構いなしに、気忙しそうにエプロンをまといながらそう言ってくる母さんに、
「えー」
立ち上がりながら不平を漏らす。
「もうじき期末試験だから、勉強したいんだけどなぁ」
今は冬まっただ中の二月末。
月が明けて三月になればすぐ、学年末試験がやってくる。
去年まではどっちかと言えば落ちこぼれ気味な僕だったけど、年が明けてからは色んな意味で気力が充実していた。
それも全て『こころナビ』のお陰だ。
ガリ勉ってほどじゃなかったけど勉強もそれなりにやってたから、成績の方もそこそこ期待できる……ような気がした。
だからと言って、今日勉強するかと言えば別問題なんだけど。
きっと僕が素直にうなずくなんてこれっぽっちも思ってなかったんだろう、流しで野菜を洗い始めていた母さんは背中を向けたまま、
「そう言わないで頼むよ。そうだ、勉強の邪魔する埋め合わせに、特別ボーナス付けてあげるからさ」
「ボーナス?」
その一言に、ぴくりと耳が動く。
そういや昨日コナさんが、またハードディスクの容量に余裕が無くなってきてるって言ってたっけ。
ボーナスがもらえれば、増設もできるか。
そこまで考えてから、さっきまでの態度を百八十度反転させた僕は、
「分かった。それじゃ、今から入るよ」
「そう? ありがとね」
脱いだ制服の上着をダイニングの椅子にかけた僕は、そのまま店のバックヤードに向かって歩き出した。
ん……?
何だか視線を感じる。
足を止め、視線を感じた方に顔を巡らせると、そこには普段より少しだけ目を細めながらこちらを見据える凛子の姿があった。
うっ、あの目は何か言いたげな眼差しだ。
『兄ちゃんだけ……ずるい』
『だってボーナスくれるって言うんだし、やらなきゃもったいないじゃないか』
『じゃあ、ボクにもお裾分けよろしくね』
『えー、どうして凛子にお裾分けしなきゃならないんだよ』
『あ、そういう事言うんだ。せっかくさっき、兄ちゃんの望みをかなえたげたのに』
『ぐ……』
なんて、アイコンタクトだけで普通に会話が成り立ってる(つもりになる)のも、兄妹としての付き合いの長さ故なのかもしれない。
結局無言の会話(?)でも敗北を喫した僕は、独り占めできるはずだった幸運があっさり半減してしまった現実に、ため息交じりにがっくりと肩を落とす。
「あーそうそう、勇太郎。そこに置いてあるから、持ってっていいわよ」
背後で僕と凛子のそんなやりとりがあった事も知らない母さんは、こっちに振り向くとテーブルに置いてある封筒を指差した。
「これ?」
言われるがままに封筒を手に取る。
先払いで用意しておいてくれるなんて、やけに手回しがいいなぁとちょっと感心しながら、封筒の口に指を差し入れる。
そして中にある紙片を取り出した僕は、そこで動きを止めてしまった。
「……え?」
親指と人差し指の間に挟まれた紙片……でもそれは、たった今まで想像していた物とは全く違う――薄っぺらな一枚の紙切れだった。
「町内会の集まりでね、お父さんがもらってきたのよ」
停止してしまった僕の思考を補う様に、母さんが言葉を続ける。
町内会?
父さんがもらってきた?
「最初は母さんたちで行こうかって話もあったんだけど、ほら年末に似た様な事があって、あの時は二人に留守番を頼んだじゃない」
妙ななりゆきになってきたのに気付いた凛子が、ソファから立ち上がり僕の側に歩み寄ってきた。
「勇太郎も凛子も、もうじき試験休みでしょ」
肩越しにひょいと、僕の手中にあるそれを覗き込んでくる凛子。
そして僕と同様、そこにある物が何であるのかを知って、呆気に取られた様な色を浮かべてみせた。
お互いに顔を見合わせる。
言葉無く。
そんな困惑の海にたゆたう僕たちに追い打ちをかける様に母さんの、いつも通りの明るい声がリビングに響いた。
「だから今度はあんたたち二人が、兄妹水入らずで行っといで――温泉に」
§
足を動かすたびに、きゅっと小さな悲鳴を上げて踏み固められる雪の感触。
吐き出す呼気に合わせて真っ白に染まる視界。
外気に晒された肌がちくちくと感じ取る、冬の空気。
遠くから流れてくる、小鳥のさえずり。
そして、繋いだ手を通して伝わってくる大切な人の存在。
それが今、僕が感じる事のできる世界の全てだった。
「凛子……が、頑張れ」
切れ切れな息の合間から、何度目になるか分からない励ましの言葉――半分以上気休めだったけど――を口にする。
「……兄ちゃ……だ……着か……」
数秒置いて、今にも息絶えてしまいそうなほどの弱々しい声が戻ってくる。
まだ着かないのか、ってそう言いたいみたいだ。
どう返事をした物か、僕は改めて目の前に広がる光景を見据える。
でも視界に映し出されたのは、降り積もった雪で枝葉を白く染め上げた木々と、その合間を縫う様に切り開かれた山道だけだった。
僕たちが電車を降りたのは、かれこれ一時間ほど前の事。
鄙びたとしか形容のしようがない木造の駅舎を抜けた先にあったのは、これまたいかにも田舎と言うしかない、こぢんまりとしたロータリーだった。
雑貨屋や喫茶店らしき店が数軒立ち並んでいる一角が、多分この街にとっての商店街なんだろう。
ホントにここって現代の日本なのかな……そんな疑問がふと、脳裏をかすめる。
何十年も昔に、タイムスリップしたみたいだ。
すぐ横にいる凛子もきっと同じ思いだったのだろう、真っ白に染まった息と共に大きなため息が口から吐き出された。
しばらくの間、互いに無言のままその場に立ち尽くす。
先に口を開いたのは、凛子だった。
「それで……ボクたちは、いつまでここでこうしていればいいの?」
「……え?」
彼女が何を言いたいのか理解できなかった。
きっと顔にもそれが出てしまっていたんだろう、再度小さなため息を漏らした凛子は困った様に眉根を寄せながら、白く染まる息と一緒に、
「送迎バスは来ないのか、って事だよ」
「あ、ああ。ちょっと待って」
慌ててカバンを開き、ごそごそと中身をあさる。
そしてようやくの事で見つけ出した目的物――一枚の紙片を引っ張り出す。
出がけに母さんから渡された、温泉旅館のパンフレットだった。
「えーっと、なになに……『本館は、緑溢れる山野の最奧に設けられている為、最寄り駅からは徒歩以外の交通手段は――』」
「帰る」
皆まで聞かず、僕の言葉を遮る様に口を開いた凛子は、無駄のない動作でくるりとその場で回れ右をすると、ついさっき抜けてきたばかりの改札に向かってすたすた歩き出した。
「わ、凛子。ちょ、ちょっと待ってっ!」
慌てて後を追いかける。
「徒歩って言っても、もしかしたらすぐ近くかもしれないし」
「…………」
「せっかくここまで来て戻ったんじゃ、電車賃だってもったいないよ」
「…………」
「何だったら僕が、凛子の荷物も持ってやるから――」
「……二時間」
「え?」
僕の説得の言葉を、右から左に綺麗にスルーしていたらしい凛子の口から唐突に漏れたつぶやきに、小首を傾げる。
答えはすぐに返ってきた。
「次の電車まで……二時間」
「う、あ。そうなんだ」
「何か……罰ゲームしてる気分になってきたよ」
その言葉と同時に吐き出される、小さなため息。
一瞬、凛子に引きずられて落ち込みそうになってしまった僕だったけど、でもすぐに気を取り直すと、
「とりあえず行ってみよう。せっかくここまで来たんだし。ほら、荷物持ってやるから」
「いい。自分で持つ」
「そう言わないで。たまにはさ、兄貴らしい事させてくれないかな?」
無言で、僕の顔をじっと見つめる凛子。
時間にして五秒ほど――それからふうと諦めにも似たため息を漏らしたかと思うと、すっと手にしていたカバンを僕の方に差し出してくる。
「はい、交換」
「……?」
「その案内図、貸して。ボクの荷物を持たせてあげる代わりに、道案内してあげるよ」
「それって代わりなのか?」
「いいのっ!」
「はいはい」
相変わらず、変なところで意地っ張りなんだよなぁと内心で苦笑を浮かべた僕は、大人しく彼女の要求に従って荷物と地図を交換する。
自分の荷物であるリュックを肩に背負い、受け取ったばかりの凛子の荷物を右手で持ってから、凛子の目の前に広げられた地図に目を落とす。
「これって……大雑把すぎない?」
「うーん、確かに」
そこにあったのは至ってシンプルな、手抜きとしか思えない地図だった。
地図帳でよく見かける駅の記号は、僕たちが今立ち尽くしているこの場所。
そしてそこから線路と直角に真っ直ぐ伸びている太い線は多分、目の前にある道路に違いなかった。
その直線の途中――縮尺がないので距離がさっぱり分からないけど――から枝分かれした波線の終点に、これから向かう目的地がマークされていた。
何となく、前途多難な予感がした。
きっと凛子も同じ事を思ったんだろう、でもさっきみたいに「帰る」とは口にしなかった代わりに、
「行こ、兄ちゃん」
そう言って僕の左手をぎゅっと握り締めてきた。
外気に晒されていた凛子の手は冷たかった。
「兄ちゃんの手、冷たい」
「お互い様だろ」
目を合わせ、くすりと笑みをこぼす。
そうしている間にも冷え切っていたはずの手のひらが、互いの体温で少しずつ温もりを取り戻していく。
うん、そうだよ。
この温もりがある限り、僕はどこにだって行ってみせる。
凛子さえ側にいてくれれば、それだけで十分なんだ。
大切な家族。
大切な妹。
そして……大切で大好きな恋人。
握り締めた手の中に、その確かな存在感を感じながら僕は一歩、足を踏み出した。