『いちばん遠い恋』
Update:2006.03.13





「春 -筒井筒-」(2)

 不意に、凛子の手に力が入った。
 えっと思う間もなく身体が腕ごと後ろに引っ張られてしまい、バランスを崩してしまう。
「わっ! ととっ」
 道が緩やかな傾斜になっている上に雪で滑りやすかったせいで危うく転びかけたけれど、ギリギリどうにか持ちこたえた。
 危ない危ない。
「凛子、どう……」
 振り返りながら開きかけた僕の言葉は、でも途中で切れてしまう。
 一目で状況が理解できてしまったから。
 雪の上に膝をついた凛子は、見るからにぐったりとした様子だった。
 つかんだ手はそのままだったから、どうにか膝立ちの姿勢を維持できていたけれど、もし今この手を離したら、そのまま雪の上に倒れ込んでしまうに違いなかった。
 んー、でもまぁ凛子にしては頑張った方かな……内心でそんな事を思う。
 凛子は体力がない。
 小さかった頃は体力がないどころか病弱なくらいで、ちょっとした事でよく熱を出しては寝込んでいた物だった。
 さすがに大きくなって身体も丈夫になったのか、最近はそんな事も無くなっていたけれど、それでも三つ子の魂何とやらで運動嫌いなのは相変わらず。
 その当然の結果として、持久力も瞬発力も人並み以下のままだった。
「ボク……もうダメ……」
 吐き出される白い息と一緒に、切れ切れに紡がれる言葉。
 考えたら駅からここまで、何だかんだで二十分近く歩き続けてるはずだ。
 舗装された道ならいざ知らず(それでも凛子にはきつそうだけど)、まして雪の積もった山道を自力で踏破するなんて、無理を通し越して無茶だったかもしれない。
 かもというか、実際事実無茶だった訳で……。
 とはいえまさか、ここまで辺鄙な場所だとは思わなかった。
 時間にしてほんの数秒ほど、自分の読みの甘さを反省してからこれからの事を考える。
 ゴールはまだ見えない。
 つまり、これからあとどれだけ歩かなきゃいけないかは未知数って事だ。
 元来た道をたどって駅にも戻るとしても最低二十分は――凛子の疲れ具合からして、倍はかかりそうな雰囲気だった。
 しかも引き返したところで、文字通り振り出しに戻るだけで問題は何も解決しない。
 進むべきか、退くべきか。
 どうした物かと内心でそんな事を考えながら、とりあえず手にしたままだった荷物を横に置いた僕は、目線の高さを合わせる様に膝を折る。
「……うー」
 僕の腕を支えにしていた凛子は、そのままぺたりとお尻を付いて座り込んでしまい、後を追う様に結局僕もその場に座り込む羽目になってしまった。
 雪の上に座った時にだけ覚える独特の感触――柔らかで冷え切った真綿に座る様な――を服越しに感じる。
「やっぱり凛子は、もっと運動しないと」
 浅い呼吸を繰り返す凛子を前に、苦笑混じりに僕は口を開いた。
 すると「大きなお世話」とでも言いたげに眉根を寄せた凛子は、身体を寄せてきたかと思うとそのまま僕の肩にあごを乗せ、
「ボクは……頭脳労働派だから、これでいいの」
 分かった様な分からない様な、そんな反論を口にする。
 耳許で話しかけてくるせいで、吐息混じりのその声がちょっとくすぐったい。
 外気で冷え切っていたはずの耳が、吐息でほんの少し温もりを取り戻した様な気がした。
「ほーら、凛子。あとちょっとだと思うから、もうひと頑張りだよ」
「ちょっとって……どれくらい?」
「え? うーん、そうだなぁ」
 半分は気休めで言ったに過ぎなかったから、真面目に問い返されてしまうと逆に返答に困ってしまう。
 多分、道のりの半分は過ぎてる様な気はした。
 ただの勘だったから根拠も何もなかったけれど、あと十分かそこらも歩けばたどり着けるんじゃないだろうか。
 とは言えこれ以上凛子を歩かせるのは、どう見ても無理っぽい。
 しばらく休憩すれば多少は体力も回復するだろうとは思うけど、こんな寒空の下でじっとしてたら今度は身体が冷え切ってしまう。
 それが原因で風邪なんて引いた日には、笑い話にもならなかった。
 んー、他に選択肢はないみたいだし、仕方ないか。
 しばし思案に暮れた僕は、ひとりごち小さくうなずくと早速行動に移る。
「凛子」
「んー?」
「ちょっとごめんな」
 それだけ言って、寄りかかってきていた彼女の身体を引き剥がした僕は、膝立ちの姿勢のまま背中を向ける。
 そしてリュックを身体の前で背負ってから、肩越しに振り返った。
「よし、準備完了。さ、どうぞ」
「どうぞ……って。もしかして、ボクに言ってるの?」
「凛子の他に、他に誰がいるんだよ。いつまでもここに座り込んでても仕方ないし、兄ちゃんがおんぶしてやるって」
 うんうんとうなずきながら、両脇に下ろした手のひらでおいでおいでをする。
「恥ずかしいから、いいってば」
「誰も見てないから平気だよ」
「ボクが恥ずかしいのっ」
 うーん、このままじゃラチが開かない。
 しょうがないので、ちょっと強引な手に出る事にする。
 凛子が次の言葉を口にする前に両腕を伸ばした僕は、雪上に座り込んだままの彼女の太ももの下に手を回すと、そのまま手許に引き寄せた。
「わわっ!」
 背中が凛子の存在を捉えたのを確認してから、ゆっくりと立ち上がる。
「よいしょ……っと」
 重心を調整するために、凛子の両足を抱えている手の位置を前後にずらす。
 二、三度、ちょんちょんと背中の上の凛子を軽く跳ね上げて安定を確保した僕は、雪山行軍を再開した。
 歩き出してしばらくの間は会話もなく、雪を踏みしめるさくさくという靴色だけが周囲と、僕たちの耳に届く音色の全てだった。
 道の傾斜はそれほどじゃない。
 だから気をつけてさえいれば、足を滑らせて転んだりする事はなさそうだった。
「兄ちゃん……強引すぎ」
 凛子が口を開いたのは、歩き出して五分ほど経った頃だった。
 僕の首に回した両手にぎゅっと力を込め、耳許に顔を寄せながら小声でつぶやく。
 ちょっと非難がましい言葉。
 でも、その声音は思った以上に穏やかだった。
「凛子にこれ以上無理させるのは可哀想かな、って思ったからさ」
「……そ」
「それにしても、凛子をおんぶするなんて久しぶりだよなぁ。最後にしてあげたのって、いつだったっけ?」
 空を見上げながら、心の中の思い出のアルバムを紐解いてみる。
 あれは確か――そう、僕がまだ小学校に上がる前、小春と三人で公園に遊びに行った時だったはず。
 遊び疲れて寝てしまった凛子をおぶって、家に帰ったんだ。
 まだ僕も小さかったからひとりじゃうまく歩けなくて、結局小春に後ろで支えてもらって何度も転びそうになりながら帰った記憶がある。
 電柱やガードレールにぶつかったりして、あちこち擦り傷だらけになったっけなぁ。
「凛子は寝ちゃってたから、覚えてないと思うけど――」
 木々の梢から垣間見える青空を見上げながら、白く染まる吐息と共にそう言いかけた僕の言葉を、凛子の意外な台詞が遮る。
「覚えてるよ」
「え? そうなんだ」
「最初は寝てたけど……あんなに振り回されたら、誰だって起きるって」
「あはは。それもそうか」
「だから、ちゃんと覚えてるよ。転びそうになった時、自分から壁や電信柱にぶつかってこらえてくれてた事とか、小春ちゃんが代わろうかって言った時に、凛子は僕の妹なんだからって断った事とか――全部ね」
 穏やかな声音でそう言うと、首に回した腕にぎゅっと力を込める。
「苦しいって」
「んふふ……転んじゃダメだよ、兄ちゃん」
 楽しげな様子で耳許で囁いてくる凛子の声。
 その問いかけに、僕は大きくうなずきながら返答を口にした。
「任せなさいって」

                  §

 僕たちの雪山行軍が終わりを告げたのは、それから十五分ほど後の事だった。
 予想してたより、ちょっとだけ時間がかかってしまった。
 雪道に足を踏み入れてからこの方、雪と木々と青空だけだった視界の裡に人家とおぼしき屋根の端が見え始め、一歩進むたび少しずつその姿を露わにしていく。
 あとちょっと……そう思いながら、疲れた足に力を入れる。
「ふーっ、到着」
 坂を上り切り、丁寧に除雪されている敷地に足を踏み入れたところで動きを止めた僕は、膝を折りながら凛子を背中から下ろす。
「ありがと、兄ちゃん」
 僕の背中で休憩してたお陰で体力の方もそれなりに回復したのか、凛子の様子は普段とさして変わりない感じだった。
 荷物を渡してから僕は、改めて正面に向き直った。
 正直、歩いてここまでの道のりを考えると、たどり着いた先が幽霊屋敷だったとしても驚かなかっただろう。
 でもそんな想像は、あっさり覆されてしまった。
 目の前にあったのは、いかにもといった感じのごくごく普通の木造の建物だった。
 良く言えば風格がある感じで、悪く言えば……古くさい。
 こんな辺鄙な場所にある温泉旅館なんだから、きっとそれなりに伝統はあるんだろう――そもそも人が来るんだろうかって疑問はあるけれど。
 と、そんな事を考えているうちに、すぐ側にいたはずの凛子はさくさくと雪を踏みしめる軽やかな音色と共に、僕をその場に捨て置いてさっさと歩き出してしまう。
「わ、待てってば」
 慌てて後を追いかける。
「寒いんだから、さっさと早く中に入るよ」
「う、うん」
 取り付くしまのない返答にうなずき返しながら玄関の前に立った僕は、一目見ただけで年代物と分かる格子戸を開いた。
 呼子代わりなのか、格子戸の隅に取り付けられていた鈴がちりりんと、冬の澄んだ空気を震わせ透明な音色を奏でる。
 同時に扉の隙間から漏れ出した、暖かな室内の空気が頬をくすぐった。
 その温もりに、初めての家に足を踏み入れる緊張感を解きほぐされながら僕は、中へ足を踏み入れた。
 玄関の先は、二十畳ほどの広間の様な場所になっていた。
 壁際には、団らん用らしいソファやテーブルがいくつか据えられている。
 ぱっと見た感じ、人がいる様子はない。
「こんにちはー」
 奥に引っ込んでいるのだろうかと思った僕は、上がり場の前から声をかけてみた。
 待つ事数秒。
 やがて廊下の先から、ぱたぱたと軽やかな足音が近づいてきた。
「申し訳ありません。大変お待たせしました」
 穏やかな声と共に、ひとりの女性が姿を見せた。
 いかにも旅館の従業員――仲居さんって言うんだっけ、確か――らしい和服の上に、どうしてか分からないけど割烹着と三角巾を付けている。
 あちこちホコリだらけなその出で立ちからするに、掃除中だったのかもしれない。
「ごめんなさいね、ちょうどお納戸の片付けをしていた物で」
 僕と凛子の視線に気付いたのか、ちょっと照れた用に苦笑しながらそう言った彼女は、慌てて割烹着と三角巾を外した。
 ぱっと見、上品な感じの人。
 女性の年齢の判別の仕方って僕にはよく分からなかったけれど、何となくうちの母さんより若い気がした。
 みまりさん以上母さん以下ってところかな?
 そんな事を思っている僕をよそに、改めて僕たちにお辞儀をした彼女は、
「こんな鄙びた場所にまで、ようこそお越しくださいました。お疲れでしょう? さ、遠慮なくお上がり下さい」
「あ、はい。お世話になります」
 軽く頭を下げながら靴を脱いだ僕たちは、玄関前に綺麗に並べ揃えられたスリッパにそれぞれ足を通した。
「こちらにどうぞ」
 言われるままに後を付いて行く。
 ロビー(?)の少し奥まった場所にあるカウンターの前で立ち止まった彼女は、そのまま反対側に回り込むと、
「ええと、ご予約の方ですか?」
 そう、宿台帳らしき物のページを開きながら問いかけてきた。
「はい」
 うなずきながらリュックからチケットを取り出し、差し出す。
「ああ、商店街の方でしたか。はい、確かに。お代はもういただいていますので、ごゆっくりしていってくださいね」
 慣れた手つきで手際よく、台帳に何か書き付けていく仲居さん。
 そう言えば僕って、学校の行事や家族旅行以外でこんな風に旅館に泊まるなんて初めてな上に、自分でチェックインするのも初めてなんだよな。
 そのせいか、いまひとつ勝手がよく分からない。
 こんな事なら旅行ガイドでも読んで勉強しておけばよかったと、今更ながらに後悔する。
 耳知識だけじゃ大差ない気もするけど……。
 まぁ変に知ったかぶりしても仕方がないし、ここは彼女の指示に従っておくのが一番なんだろう。
 と半分開き直ったところで、ふと凛子の様子が気になる。
 ……あれ?
 ついさっきまで僕のすぐ後ろにいたはずの凛子が、いつの間にかその場から姿をくらましていた。
 あ、いたいた。
 慌てて辺りを見渡すと、入り口近くに並べられた民芸品らしい人形を物珍しそうに眺めている姿が目に飛び込んできた。
 どうやら、周囲に好奇心を向けられる程度には気力も快復しているみたいだ。
 その姿にちょっとだけ安心しながら僕は、改めて仲居さんに視線を戻した。
 ちょうど書類作りが一段落したらしく、落としたままだった顔を改めて僕の方に向けてきた彼女は、
「お手数ですが、ご記帳願えますか?」
 そう言いながら、ペンと和綴じの帳面を差し出してきた。
 受け取ったそれに目を落とすとそこには、日付と氏名を記入する欄があった。
 今日の日付が書かれた欄はまだ空白のままで、どうやら僕たちが初めての客らしい。
 へぇ……過去の日付欄を見て、ちょっと感心してしまう。
 こんな山奥の旅館にお客なんて来るんだろうかと思ったら、そこには男女問わず様々な氏名が書き記されていた。
 想像以上に流行ってるみたいだ。
 辺鄙な山奥にある秘湯、ってイメージが人を呼び寄せるのかもしれない。
 なんてちょっと失礼な事を心の片隅で思いながら僕は、自分の名前を台帳の最後の行に書き足した。
 それから背後を振り返り、
「おーい、凛子。名前を書くんだって」
 いつの間にか、今度はソファに座り込んでひと息ついていた凛子に手招きする。
 見るからに「えー」と面倒くさそうな顔をしながら立ち上がった彼女は、こっちに歩み寄って来ると、
「一緒に書いといてくれればいいのに……」
 ぶつくさ言いながら僕からペンを奪うと、さらさらとすぐ横の欄に自分の名前を書き足してみせた。
 今関勇太郎。
 今関凛子。
 書き記された文字だけ見れば、夫婦の連名みたいだ。
 う、自分で言っててちょっと恥ずかしいかも……ひとりボケツッコミよろしく、勝手に頬が熱くなってきてしまう。
「あら、お二人はご兄妹?」
 と、多分僕と似た様な思考を経て、なおかつ異なる結論に達したらしい仲居さんが穏やかな笑みを浮かべながら問いかけてくる。
 そう、この反応が普通だ。
 もうあと四、五年もしたらどうか分からなかったけれど、まだまだ子供な僕たちでは兄妹に見られるのが素直な解釈って物なんだろう。
 だから僕は、小さくうなずきながら、
「え、あ……そう――痛っ!」
 でも口にしかけたその台詞を、最後まで口にする事はできなかった。
 唐突に、背中に覚えた強烈な痛み。
 誰かが思いっきり、背中をつねり上げたせいだった。
 言うまでもなく犯人は――凛子だ。
 思わず飛び上がりそうになってしまったところを、かろうじて踏み止まる。
 返答を口にしかけた僕が突然奇声を発したからだろう、目をぱちくりさせる仲居さん。
 すると、音もなくすっと僕の横に立った凛子が、
「いとこ同士なんです、ボクたち」
 そう何事もなかった様に、僕の言葉を引き継いだ。
「あらまぁ。そうなんですか」
「はい」
 とんでもない大嘘をついている癖に、でも微塵の後ろめたさもうかがわせずに、にっこりと笑みを浮かべながらうなずき返した。
「うふふ。それじゃあお二人は、筒井筒なんですね」
「……?」
 小首を傾げる僕を尻目に、うなずき返す凛子。
「はい、そういう事になります」
「実はね……私と主人も、あなた達と同じで筒井筒の仲だったのよ」
「へぇ、そうなんですか」
「何だかとっても嬉しいわ。ふふ、私の勝手な思いこみかもしれないけれど、今日は腕によりをかけておもてなしさせていただきますね」
「ありがとうございます」
 そんな二人の会話を、僕は頭の上に「?」マークを浮かべながら、口をぽかんを開けて聞いているばかりだった。
 そもそも、凛子が見ず知らずの人間相手にまともな会話をしている事が意外だった、ってのもある。
 でもそれ以上に、二人の会話の内容自体がさっぱり理解できなかったからだった。
 ……いとこ?
 ……筒井筒?
 何が何やらさっぱりだ。
 凛子の方は、ちゃんと理解した上で受け答えしてるみたいだけれど。
 説明を求めようとちらりと彼女に視線を向けると、そんなリアクションを予想していたらしい凛子は、
『説明は後。とりあえず、ボクに話を合わせて』
 とでも言いたげに微かに目を細めたきり、仲居さんとの会話に戻ってしまった。
 何だかよく分からないけど、でも凛子が何か考えがあってやってる事だろうから、多分間違いはないんだろう。
 ここで余計な事を口にして、無駄に話をややこしくしても仕方がない。
 そう自分を納得させた僕は、「そうそう、そうなんですよ」と凛子の要求通りに適当な相づちを打ち始めてみせた。
「あらいけない。変な話で引き留めてしまって、ごめんなさい。すぐに、お部屋の方にご案内しますね」
 仲居さんと凛子の会話が終わったのは、それから数分後の事だった。
「ほら、勇太郎。先に行っちゃうよ」
「えっ!」
 唐突に名前を呼ばれた事に驚く。
 見れば仲居さんの後に続いて、いつの間にか建物の奧に延びている廊下の角で立ち止まっている凛子が、肩越しに振り返りながら悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
 凛子のヤツ、急にどうしたんだろう?
 いつもは「兄ちゃん」って呼ぶ癖に、なんで「勇太郎」なんだろう?
 またもや頭の上に「?」マークが浮かんだけれど、すぐにさっきの仲居さんとの会話が原因らしい事を理解する。
「ほら、早く」
「……はいはい」
 自分の置かれた状況をイマイチ理解できない事もあって、ため息交じりの返事を口にするしかなかった。
 そして二人に追いつくために、慌ててその場を後にした。

                  §

「ふぅ、やっとひと心地ついた」
 部屋の中央に置かれたテーブルにあごを乗せながら、つぶやく僕。
 すると目の前に、湯飲みが置かれる。
「兄ちゃん、はいお茶」
「ん、ありがと」
 身体を起こしてそれを手に取った僕は、軽く息を吹きかけてからゆっくりと一口、お茶をすする。
「んまい。やっぱり凛子のいれてくれたお茶は美味しいなぁ」
「あのね……ボクは急須から注いだだけだよ。いくら何でもひいき目すぎ」
「う、そうかな?」
 確かにお茶をいれたのは仲居さんだ。
 でも僕としては、自分の分だけじゃなく僕の分も用意してくれた、凛子のその気遣いが嬉しかった訳で。
 凛子の事だから「ついでだよ」の一言で終わっちゃうんだろうけど。
「そ、そういやさ……さっき仲居さんが言ってた『筒井筒』って何の事? 凛子は分かってたみたいだけど」
 話題を変えようと、僕はさっきからずっと疑問に思っていた事を口にしてみた。
 すると一瞬だけ頬を赤く染めた凛子は、でもすぐ真顔に戻ると、
「兄ちゃん、古文は得意?」
「う……どうかな。苦手ってほどじゃないけど」
「得意でもない、と」
 僕の返答に納得した様に、小さくうなずきながらお茶を一口すすった凛子は、それから目を静かに閉じると、
「筒井筒、井筒にかけしまろがたけ、過ぎにけらしな妹見ざるまに」
 そう、和歌らしき物を諳んじてみせた。
 うーん、聞いた事もない歌だ。
「『伊勢物語』って名前、聞いた事ない?」
「名前くらいは……」
「平安時代に在原業平って人が書いたと言われている歌物語が『伊勢物語』。筒井筒はその中の有名な一節。簡単に言っちゃうと、幼なじみの男女の恋話だね」
「へー」
「それで、幼なじみの男が女を妻にしたくて詠んだのがさっきの歌」
「ふんふん。で、意味は?」
「要約すると『昔、井戸の囲いで背比べをした僕の背丈も、貴女に会わないうちにすっかり高くなってしまった』ってところかな」
 なるほど、何となく分かってきた。
 要するに井戸の囲いが「筒井筒」で、子供の頃にそれを使って背比べをした関係、イコール幼なじみって事になるのか。
 そうやって頭の中で整理した事を素直に告げると、満足げに笑みを浮かべた凛子は、
「そういう事。ま、本当なら兄ちゃんの筒井筒は、小春ちゃんなんだろうけどさ。いとこ同士で幼なじみなら別に名字が同じでもおかしくないし、必要以上に仲が良くても怪しまれたりしないでしょ」
「それで、あんな嘘をついたのか」
「ここでホントの事を知ってるのは、どうせボクたちだけなんだから。なら、どっちだっていいじゃない」
「そ、そういう問題?」
 いまひとつ納得がいかない。
 でもそんな僕に向かって、凛子はちょっと呆れた色を浮かべてみせると、
「あれ、不満なんだ? 兄ちゃんのためについた嘘でもあるのに」
「僕のため?」
「そ。ああ言っとけば、人前でべたべたしても誰も怪しまないと思うから、兄ちゃんも遠慮なくボクといちゃいちゃできるでしょ」
「う……」
 痛いところを突かれて、返答に詰まってしまう。
 そんな僕を前に、くすりと悪戯っぽい笑みを浮かべた凛子は、
「だから今日と明日、二人っきりの時以外は……兄ちゃんの事は幼なじみの恋人っぽく『勇太郎』って呼んであげるよ。ねぇ勇太郎、嬉しい?」
「う、嬉しいけど……ちょっと恥ずかしいかも」
「んふふ。相変わらず兄ちゃんって……たーんじゅん」
 うーん。
 今更だけど、妹にいいように弄られる僕。
 これはこれで悪い気はしないけど、何だかなぁ。
 そう言えば、凛子から名前で呼ばれたのって何ヶ月ぶりだろう。
 あの時――凛子を庇って車にひかれた事故で年越しで入院する羽目になった挙げ句、ようやく退院した初登校の日も、からかわれる一方だった気がするけれど……でも、ちょっと新鮮に思えてしまうのも確かで。
 兄ちゃんと呼んでくれる、妹としての凛子。
 勇太郎と呼んでくれる、ひとりの女の子としての凛子。
 僕はそのどちらが好きなんだろう?
 いや、違うか。
 妹とかそんなのは関係なしに、凛子だから僕は好きなんだ。
 結局のところ僕にとっては、そこにいるのが凛子でさえあれば、どんな立場や関係だったとしてもそれだけで十分なのかもしれなかった。
「と、そうそう。すっかり忘れてた」
 そんな事を脳裏でぽややんと考えているうちに、不意に何かを思い出したみたいに立ち上がる凛子。
 突然どうしたんだろう。
 小首を傾げる僕をよそに、部屋の隅に置かれていた荷物の前にしゃがみ込むと、背中を向けたままごそごそとカバンをあさり始める。
「ボクには、やっぱりこれがないとね」
 待つ事数秒。
 そう言って凛子が、こちらに振り返りながら誇らしげに掲げ見せたのは……一台のノートパソコンだった。
 手のひらにすっぽり収まってしまうくらいの、パソコンというよりはPDAとでも言った方がよさそうな、軽量モバイルタイプだ。
「こんな場所にまで持ってくるなんて……ホントに凛子はネット中毒だなぁ」
 呆れ混じりにつぶやく僕。
 その反応が気に入らなかったのか、むっとした表情を浮かべた凛子は、
「ふん、同病相憐れむ兄ちゃんには言われたくないね」
「いくら僕だって、こんな旅先にまでパソコンは持ってこないよ」
「単に忘れてただけじゃないの?」
 半分は、凛子の言う通りだった。
 普段持ち歩いているPDAは持ってきていたけれど、さすがにネット接続用の端末を持ってくる事までは気が回らなかった。
 実際、その事に気付いたのは乗り込んだ電車が動き出してからだった。
 凛子と二人きりの旅行ってだけで、すっかり舞い上がっちゃってたからなぁ。
 とは言え今更取りに戻る訳にもいかず、結局「旅行の時くらい、ネットの事は忘れよう」と自分に言い聞かせてここまで来たんだった。
「それより、ここは家じゃないんだから、無線LANなんてないぞ。どうやって繋ぐつもりなんだ?」
「んふふ、ご心配なく。ちゃーんとその辺も考えてあるよ」
 そう一言、カバンから携帯用(巻き取り式)のLANケーブルを取り出す。
 さすが……凛子の用意周到さに感心してしまう。
「さて、と」
 パソコンを起動させながら端末側のジャックにケーブルを差し込んだ凛子は、残るもう一方をハブに挿そうとして……挿せなかった。
「あれ? ここ、口がないや」
 きょろきょろと室内を見渡す凛子の動きに合わせて、僕も首を巡らせる。
 僕たちが案内された部屋は、ごく普通の和室だった。
 建物と同様に、部屋の造りも結構年季も経てる感じだし、普通に考えたらLANケーブル用のモジュラーが用意されているとは思えなかった。
「なぁ凛子。ここってLAN設備が無いんじゃない?」
 差し込み口を求めて、壁際を膝立ちで歩き回る凛子に声をかける。
「そんな……でも、うん。兄ちゃんの言う通り、どこにもないや」
「だからさ、今日明日はネットの事は忘れて――」
「大丈夫」
 僕の言葉を遮った凛子の声は、まだ自信に満ちていた。
「こんな事もあろうかと、ちゃんとモデム用のケーブルも用意してあるからね」
 なんてこった、そうまでしてネットにこだわるのか。
 さすがと言うか、何と言うか……凛子のネットに対するこだわりに、感心する前に呆れてしまう。
 まぁ気持ちは分からなくはないけど。
 そんな僕をよそに、カバンから改めて携帯用(巻き取り式)電話線を取り出した凛子は、今度こそとばかりに意気込んで再びモジュラージャックを探し始めた。
 でも……。
「……この部屋、電話機もないんだけど」
「は?」
 いくら何でもそれはないだろうと、凛子と一緒に電話機を探し始める。
「もしかして、これかな?」
 しばらくの間、二人して無言で部屋中を家捜しした挙げ句、部屋の一角を見つめながら僕は口を開いた。
 それは、床の間の上に鎮座していた。
 つや光りする黒一色に塗り上げられたそれは、台所にある秤みたいな台形の物体の上に、鉄アレイ状の塊が乗っているという、一見電話機みたいな形をしていた。
 僕のつぶやきに反応した凛子が、肩越しに僕が見ている物をじっと見下ろす。
「これって、電話機なの?」
「うーん、多分そうじゃないかな。ほら、受話器だってあるし」
 そう言いながら手を伸ばし、鉄アレイを持ち上げて耳に当ててみせる。
 ツーと、電話機特有の空電音が耳に届く。
「でもこれ……ボタンがない」
 凛子の言う通り、電話機なら数字が書かれたボタンがあるべき場所に、どういう訳か丸い板がはめ込まれていた。
 円周に沿って開けられているいくつかの穴の奥に数字が書いてあるって事は、もしかしてこれがボタンの代わりなんだろうか?
 試しに穴に指を差し込み、動かしてみる。
 バネでも中に仕込んであるのか、ジーと中で何かが動いてる様な音を立てながらくるりと回転した丸板は、指を話すとコロコロと軽やかな音色と共に元の位置に戻っていく。
「ほら、やっぱり電話機だよこれ。ボタンの代わりに、これを回していくみたいだ。ここから線が延びてるから……きっと、この先にジャックがあるんだよ」
 台座の隅から伸びている電話線を指差しながら僕は、その線をたどってゆっくりと手を動かしていく。
「こっちにずっと伸びていって……障子の裏に回って、あ……」
 四つん這いになって電話線を追いかけていった僕は、ようやくの事で求めるジャックを発見するのに成功した。
「埋め込み式……」
 固まってしまった僕に代わって、ぽつりと凛子がつぶやく。
 その言葉通り、壁の向こうに姿を消していた電話線は、取り外しのできるモジュラージャックじゃなく、固定式だった。
 念のため、ポケットから携帯を取り出す。
「ぐ……圏外か」
 そのつぶやきを漏らした次の瞬間、背後でぱたりと音がした。
 見れば凛子が、力尽きた様子で俯せに畳の上に倒れ伏していた。
 多分、携帯からの接続という最後の希望まであっさり打ち砕かれてしまい、脱力してしまったんだろう。
「り、凛子……?」
「…………」
 返事はない。
 恐る恐る近づいてみると、どうやら小声で何事かつぶやいているみたいだった。
 そっと耳を寄せる。
「田舎……嫌い……」
 うーん、これは処置なしかも。
 その場で小さくため息を付いた僕は、凛子が自力で立ち直るまで大人しく待つしかないかと半ば諦めモードのまま、飲みかけのお茶が入った湯飲みを手に取った。
 あ、これ凛子のだ。
 手に取ってから取り違えた事に気付いたけれど、すぐにまぁいいかと思い直すと、ずずっと一口すする。
 間接キスの味は……お茶が冷めてしまっていたせいか、少しほろ苦かった。
(3)に続く

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