『いちばん遠い恋』
Update:2006.06.15





「春 -筒井筒-」(3)

 夕食を終えた頃、ようやく凛子の機嫌が直った。
 ネットができない事がよっぽどショックだったんだろう、食べ始めてしばらくは箸を動かすのも億劫そうで、見ているこっちが心配になるほど表情に生彩がなかった。
 食事を運んできた仲居さんも「お加減が悪いのでは?」と、心配するくらいだった。
 かいつまんで経緯を説明したら、申し訳なさそうに謝ってくれたけど――そもそも、こんなところまで来てネットしようとする方がどうかしてるんだし、仲居さんに非はないと思う。
 なんて事を口にした日には、凛子の機嫌が更に悪化する事間違いなし。
 だから「あはは」と、愛想笑いを浮かべるしなかったけれど。
 何はともあれ――。
「ふー、お腹いっぱいだ」
 心地よい満腹感を抱きながら、ごろんと床に転がる僕。
「行儀悪いよ、兄ちゃん」
 ようやくいつもの調子を取り戻して、食後のお茶をすすりながら目線だけをこっちに向けた凛子が眉をしかめる。
「はいはい」
 いい加減な返事を口にしながら起きあがった僕は、テーブルの上に置かれた僕の分の湯飲みに手を伸ばす。
 少しぬるめにいれられたお茶が、大量のエネルギーを摂取してヒートアップした身体をほんのり冷ましてくれて心地よかった。
「にしてもさっきの料理、美味かったなぁ」
「それに関しては、ボクも同感」
「ああいうの、懐石料理って言うんだっけ? 普段滅多に食べないけど、たまには純和風な食事もいいもんだね」
「ふーん……ちょっと意外」
 僕の感想に、言葉通り意外そうな表情を浮かべる凛子。
「食べ盛りの兄ちゃんの事だから、てっきり最後に出てきたボタン鍋が気に入ったんだと思ってたよ」
「質より量、って事?」
「そうそう。家でボクの手料理を食べる時だって、味わってるっていうよりかき込んでるって感じだし」
「ひどいなぁ。ちゃんと味わってるよ。大体、凛子が知らないだけで、僕はああいう大人っぽい料理も好きだよ」
「へぇ。じゃあ……今度、作ってあげよっか」
「え、ホントに?」
 凛子は、レシピさえあれば大抵の料理は作れる。
 実際、毎日それを食べている僕が言うのだから間違いないし、何より作れるだけじゃなく味も抜群なのが凄かった。
 本人曰く、「書いてある通りに作ってるだけ」らしいけど。
 ただ凛子って普段は物ぐさで、気が乗らない限り自分の好きな事以外は滅多にやろうとしないのが、一番の問題かもしれなかった。
 ……あれ、でも?
 考えたらここ最近、ほぼ毎日、凛子の作ったご飯を食べてるな。
 凛子と付き合い始める前は、どちらかって言うと凛子のより母さんが作ったのを食べる事の方が多かったから、これってもしかして「僕のご飯作り=凛子の好きな事」になってるって事なんだろうか。
 うーん、もしそうだとしたらちょっと嬉しいかも。
 そこまで思ったところで、ふと視線に気が付く。
 誰の物かは、言うまでもない。
 意識を切り替えて凛子に目を向けると、どうしてか少し呆れた様な眼差しでじっと僕を見つめていた。
「百面相」
 僕が口を開くよりも早く、ぽつりと凛子がつぶやく。
 一瞬何の事か分からなかったけど、すぐに凛子が何を言おうとしてるのか思い至った僕は慌てて両手で頬を押さえると、
「えっ! 僕、百面相してた?」
 こくりとうなずく凛子。
「兄ちゃんさ……もうちょっと、ポーカーフェイスを覚えた方がいいんじゃない? そんなんじゃ、社会に出てから苦労するよ」
「う、うるさいな。感情表現が豊かなんだよ、僕は」
「まぁそれで苦労するのは兄ちゃんだし、ボクはどっちだっていいけど」
「そういう凛子こそ、もうちょっと愛想を覚えた方がいいんじゃないか? 確かに僕は隠し事とかあんまりできない方だけど、凛子は逆に無愛想すぎ」
 一方的に攻められるのも癪なので、反撃に出る。
 でも僕のそんな反応なんて最初からお見通しだったのか、凛子はふふんと鼻で笑ってみせてから、
「愛想良くしたって、ろくな事がないから嫌。第一、面倒だし」
 そんな、身も蓋もない返答を口にする。
「それに……兄ちゃんはいいの? ボクが愛想良くなったら、間違いなく男がわらわら寄ってくるよ」
 む、確かにそれはよくないかも。
 凛子が家族以外の男――要するに僕の事だ――に興味がないのは分かっているし、別段気にする事じゃないかもしれない。
 とは言え、心中穏やかでいられないのも事実な訳で。
 愛想の良いぽややんな僕。
 冷徹で小悪魔チックな凛子。
 ……足して二で割れば、ちょうどいいのか。
 けど逆に言えば、お互いに足りない部分を埋め合わせてるって見方もできる。
 よく恋愛って、相手に自分が持っていない物を求めるって言うけど、僕と凛子の関係もそれに近いのかもしれない。
 僕は凛子が好きだし、凛子も僕を好きと言ってくれる。
 世間一般の尺度から見ればそれは普通の恋じゃないかもしれないけれど、でも僕たちはその事を十分に理解した上で今の関係を続けている。
 僕は僕。
 凛子は凛子。
 それでいいじゃないか。
「やっぱり凛子は、今のままでいいかも」
 紆余曲折を経て結局振り出しに戻ってしまった僕は、納得する様に小さくうなずきながらつぶやく。
「んふふ、素直でよろしい」
 満足げに微笑む凛子。
「さて、と」
 話題が一段落したところで、凛子が腰を上げた。
「お風呂にでも入ってこよっと」
「ん。いってらっしゃい」
 特に考えなしに口にした返事に、どうしてか凛子は訝しげな眼差しを向けてくる。
「え……僕、変な事言った?」
「兄ちゃんさ、ここがどこか忘れたの?」
「人をボケ老人になったみたいな言い方するなよ。ちゃんと分かってるってば。ここは温泉旅館で……あ」
 そこまで言いかけたところで、ようやく気が付く。
「分かった? ボクたちは温泉に来てるんだから、順番に入る必要はないの」
「……はい。その通りです」
「だったらほら、さっさと準備して」
 そう言って背中を向けた凛子は、自分の荷物から着替えを取り出し始める。
 温泉かぁ。
 普段、内風呂にしか入らない身としては、ちょっと楽しみだ。
 これで凛子と一緒に入れれば、最高なんだけど。
 少しの間、そんな事を思いながらぼんやりしていた僕だったけど、すぐに我に返ると凛子に習って荷物あさりを開始した。

                  §

 夜の帳が降りた廊下は、不思議なくらい静かだった。
 板張りの床を踏みしめるたびに聞こえてくる、微かなきしみだけが耳に聞こえてくる物の全てだ。
 廊下の柱に一定の間隔を置いて灯されている明かりが、かろうじて視界を確保させてくれていたけれど、その光はどこか弱々しく頼りなかった。
「やけに静かだなぁ……」
 あまりの静けさに耐えきれなくなった僕は、ぽつりとそんなつぶやきを漏らす。
 でもすぐ横を歩いている凛子は、ちらりとこっちに目線を送ってきただけで、すぐまた正面に向き直ってしまった。
 廊下沿いにある、いくつもの客間の横を通り過ぎる。
 襖で閉ざされたその向こうから、人の気配を感じ取る事はできなかった。
 僕たち以外、誰もいないのかな……そんな事を思ったりしながら、突き当たりにある階段を下り、一階にたどり着く。
「こっち?」
「仲居さんは、さっきそう言ってたね」
 玄関のある方とは反対側を指差しながら問いかける僕に、小首を傾げながら口を開く凛子。
 風呂は、この建物の一番奥にあるらしかった。
 相変わらず頼りなく感じる廊下の明かりだけを頼りに、奥へ奥へと歩き続けるうち、ようやく目的の場所にたどり着く事ができた。
「ここだね」
 凛子の言う通り、そこには少し間隔を置いて設けられた木戸が二つがあった。
 いかにもな風呂の入り口だ。
 ご丁寧に、それぞれの戸には「男湯」「女湯」の暖簾が下げられている。
 ……銭湯みたいだな。
 銭湯なんて行った事なかったけれど、テレビなんかで見た記憶そのまんまの光景を前に、ふとそんな事を思う。
「残念だったね、兄ちゃん」
「ん、何が?」
「混浴を期待してたでしょ?」
「ぐっ」
 図星だった。
 勝手な思いこみに過ぎないとは分かっていたけれど、もしかしたらと一縷の望みを抱いていたのも事実。
「何だったら、こっちに来る?」
 悪戯っぽい瞳の色を浮かべながら、凛子が指差したのは「女湯」の暖簾だった。
「え? でも……さすがにそれはまずいだろ」
 僕的には嬉しい提案だったけど、でももし他のお客さんと鉢合わせになっちゃったら洒落にならない気がする。
 下手すると、ただの出刃亀だろうし。
「んふふ、冗談だよ。なに本気にしてるかな」
「う……悪かったな」
「じゃあ、反対にボクがそっちに行ってあげよっか?」
「なっ! だ、ダメダメっ! ぜーったいにダメだからなっ!」
 思わず声を大にして叫んでしまう僕。
 突然の事に、当の凛子もびっくりした様に目をぱちくりさせる。
 そして、すぐに表情を不機嫌そうに変化させると、
「もう、急に大声出さないで。あ、もしかして兄ちゃん……ボクの裸、他の男に見せたくないんだ?」
「そんなの、あ、当たり前だろっ!」
「ふーん……意外と、独占欲強いんだね」
「そういう問題じゃないって」
「はいはい、冗談だって」
 真顔で反論する僕に、ちょっと呆れた様に適当な相づちを打った凛子は、
「それじゃあボクはこっち、兄ちゃんはそっちね」
「うん。じゃ、また後で」
 一時の別れを告げようと手を振りかけたところで、不意に何か思い出したみたいに凛子が口を開く。
「あ、ごめん兄ちゃん。先行ってて」
 小首を傾げながら「どうした?」と問いかける僕に、
「ちょっと忘れ物。すぐ戻るから」
 それだけ言うと、くるりと身を翻して元来た道を小走りに戻って行ってしまった。
「ちょ……おい、凛子っ」
 慌てて声をかける。
 でも凛子は後ろ手を軽く振るだけで、やがて廊下の先に姿を消してしまった。
 うーん、どうしよう。
 戻ってくるまで待っててもいいけれど、でもどうせすぐまた別れるんだよな。
 先に行ってるか。
 改めて目の前にある二枚の木戸を見据えてから、小さくため息を付いた僕は、凛子の言う通り先に風呂に入って待つ事にした。
 木戸を開ける。
 その先にあったのは、十畳ほどの広さの脱衣所だった。
 右手には脱衣スペースらしい格子状の棚があり、棚のそれぞれには籠が置かれていた。
 反対側には、風呂上がりに涼むための縁台がいくつか据えられている。
 正面奥の格子戸の向こうには、風呂があるんだろう。
「さーってと」
 ざっと中を見渡し、棚から籠をひとつ引っ張り出してから、持ってきた替えの下着をそこに放り込む。
「タオルと浴衣は備え付けてあるって、確か仲居さんが言ってたっけ……」
 夕食時に教えられた通り、入り口脇にある戸棚の中に、綺麗に畳まれた浴衣とタオルを発見した僕は、そこから自分の分を取り出すと籠の中に入れた。
 手早く全裸になってから手ぬぐい片手に、そのまま格子戸を潜り抜ける。
「おーっ」
 そこにあったのは、想像以上の光景だった。
 木戸を抜け、数歩進んだところで立ち止まってから、ぐるりと四周を見渡してみる。
 大小様々な石が敷き詰められた洗い場の先に広がる、露天風呂。
 直径二十メートルほどの少し歪んだ感じの楕円形を描く石垣に仕切られた水面からは、濛々と湯気が立ち上っていた。
 そのせいでちょっと視界が悪かったけれど、歩くのに困るってほどじゃない。
 見上げれば洗い場辺りまでは、屋根が張り出してきている。
 風呂がある辺りは完全に露天状態だった。
 その向こうはどうやら崖になっているのか、柵代わりに設けられている生け垣の先に障害物はなく、星がきらめく夜空がぽっかりと広がっていた。
 ……女湯の方も、こんな感じなのかな?
 うーん、こんな気持ちよさそうな風呂だったら、凛子と一緒に入れれば最高だったんだけれどなぁ。
 未練がましく、そんな事を思ったりしてしまう。
 でもまぁ、こればかりは仕方がない。
 きっと壁越しに声は届くだろうから、それで我慢するとしよう。
「……寒っ」
 その時不意に、足の裏が刺す様な小さな痛みを覚えた。
 いくら湯気のお陰で温もっているとはいえ、そこはやはり雪山の露天風呂、同じ場所にいつまでも立ち止まっていたら身体を冷やしてしまう。
 露天風呂に見とれていた挙げ句に風邪を引きましたなんて言った日には、凛子に何を言われるか分かった物じゃない。
 せっかくの二人旅なんだから、気を付けないと。
「うー、とりあえずひとっ風呂浴びますか」
 誰に言うでもなくつぶやきながら、風呂に向かって歩き出そうとしたその時だった。
 背後で、がらっと戸の開く音がする。
 あ……他のお客さんかな。
 そう思う間もなく、僕のすぐ前を無言で通り過ぎていく人影。
「えっ?」
 でもそれが誰なのかを認識した瞬間僕は、思わず驚きの声を上げてしまった。

                  §

「り……凛子?」
 僕の声に反応して、人影は動きを止めた。
 間違いなく凛子だった。
 予想外の出会いだったにも関わらず、凛子はと言えば普段と少しも変わらない澄ました顔をしている。
 どうして?
 なんで?
 頭の上を「?」マークだらけにしながら、呆けた様に彼女を見つめるばかりの僕。
 一方の凛子は、手にした手ぬぐいはそのままに、身体を隠す素振りも見せずに僕にじっと見つめ返してきていた。
 相変わらず、綺麗な身体だなぁ。
 肩から胸、そして腰からお尻を経由して太ももにまで視線を動かしながら、心の片隅に残っていた冷静な思考でそんな事を思ったりする。
 人の事はあまり言えない義理だったけど、そんな僕に輪をかけて出不精な凛子の肌は、それこそ雪みたいに真っ白だった。
「そんなとこでぼーっとしてると風邪引くよ、兄ちゃん」
 その一言で我に返る。
 慌てて前を隠しながら、しどろもどろな返答を口にする。
「え、あ。うん……」
 でも僕の事なんかお構いなしに、すたすたとその場から歩み去ってしまった凛子はそのまま湯船に近づくと、すぐ側にあった風呂桶で浴び湯をしてから膝から先をゆっくりと湯面に沈めていった。
「ふー」
 凛子の口から漏れる、小さなため息。
 アップにした髪からこぼれ落ちたほつれ毛と、微かに上気した肌、そして心地よさげな吐息が妙に色っぽい。
 思わず、どきりとしてしまう。
「兄ちゃん」
「はっ」
 再度の呼びかけに、ようやく戒めから解かれた僕は慌てて足を動かす。
「お湯、気持ちいいよ」
「う、うん」
 そう言って促す凛子に従って僕は、浴び湯もせずにお湯の中に足を踏み入れると、二、三歩中に歩いてからざぶりと一気に肩までお湯に浸かった。
「あちちっ!」
 外気で冷えた肌を一気にお湯に浸けたせいで、思わず叫んでしまう。
「浴び湯くらいしなよ。汚いなぁ」
「う……ごめん」
 動転しててそこまで気が回らなかった……なんて素直に言うのは恥ずかしかったので、代わりに謝罪の言葉だけ口にしておく。
「大体、いきなり肩まで浸かったりしたらかえって身体に良くないし。こうやって、少しずつお湯に肌をなじませていかないと」
 ちゃぷちゃぷと足でお湯をかき混ぜながら、諭す様に言葉を紡ぐ凛子。
「そ、それもそうだね」
「これって、温泉に入る時の常識だよ」
 いつもの事だけど、これじゃどっちが年上なのか分からない。
 とは言え別に不快って訳じゃないし、凛子の方も結構楽しそうだからこれはこれでいいかって気もした。
「んしょ」
 凛子がつぶやくと同時に、水面が小さく波打つ。
 どうやら本格的にお湯に浸かったみたいだ。
 照れくささもあってさっきから背中を向けたままの僕だったけれど、お湯と空気の動きで感じ取る事はできた。
 そう思う間もなく背中にぴたりと、柔らかな何かが触れてくる感触を覚える。
 凛子の背中だった。
「り、凛子……?」
「動かないの。もう……今更、何を照れてるかな」
「いや、だって」
「ボクと一緒にお風呂に入れて、嬉しいんでしょ? なら、それでいいじゃない」
 そう言って、更に僕の背中に体重を預けてくる凛子。
「兄ちゃんとこうしてお風呂に入るのも、久しぶりだよね」
「まぁ……そうだね」
 もう何ヶ月も前。
 僕が凛子に告白して、凛子がそれを受け容れてくれて僕たちが付き合い始めたあの日、一緒に入って以来の事だった。
 その後も、機会があればと心中密かに期する物はあったけど、結局チャンスの無いまま今日に至ってしまっていた。
 実際問題、家が自営業をやっていたんじゃ夜二人きりになる機会なんてそう滅多にあるはずもなかったから、仕方がないと言えば仕方がない。
 でもだからこそ、こうしてお湯の中で肌を重ねられるのが嬉しかった。
 めちゃくちゃ恥ずかしくもあったけれど……。
「んー、何か反応悪いなぁ。もしかして、これだけじゃ不満?」
「え? そんな事は――わわっ!」
 身体をひねった凛子が、僕の肩にあごを乗せながら両手を首筋に回してきた。
 同時に背中に、ぽよんと弾力のある何かが押しつけられる。
「り、凛子! 胸っ、胸が当たってるってば!」
「わざと当ててるんだから、そりゃそうでしょ。んふふ……ボクの胸、どう? 気持ちいい、兄ちゃん?」
 そう言いながら、すりすりと微妙に胸をすり寄せてくる凛子。
 うー、気持ちいいのは確かだけど……ある意味拷問かも。
 どう返事をした物か一瞬考えてから、すぐに無駄な抵抗を諦めた僕は、凛子が期待している返答を口にする。
「えーと……はい、気持ちいいです」
「素直でよろしい」
 満足そうにうなずいた凛子は、そのまま僕のほっぺに軽くキスすると、再び肩にあごを乗せた姿勢で動きを止めた。
 あぅ……離してはくれないのね。
「大体さ、胸が当たったくらいで今更なに動揺してるかな? さんざん、やる事やった仲だってのに」
「やる事って――それは蘭煌とリュウヤでの話だろ」
「でも『こころナビ』がある以上、それってボクと兄ちゃんって事でしょ。大体リアルでだって、もうボクの中まで見ちゃってるんだし」
「な、中ってお前……」
 確かにその通りだけど、もうちょっと言い方があるだろうに。
 第一、あの時だって別に直接触れ合ったとかそういう訳じゃなくて、チャットを通してお互いを見せ合っただけなんだから、今とは状況が全然違うと思う。
 って、凛子にそんなデリカシーを求める事自体、今更か。
 仕方なく僕は、話題を変える事にする。
「それにほら、他に人が来たらまずいだろ」
 混浴な事それ自体は、別に僕たちのせいって訳じゃないから仕方ないとして、そんな場所でいちゃいちゃしてるのを見られるのは、さすがに恥ずかしいしまずい気がする。
 だからせめてもうちょっと離れて、と言おうとしたけれど、
「あ、それなら平気」
 その機先を制する様に、あっさりと凛子はそう言った。
「今日のお客、ボクたちだけみたいだから」
「え、そうなの?」
「うん。さっき仲居さんに聞いたらそう言ってた。だから、どれだけべたべたしても邪魔なんか入らないよ」
「邪魔って……」
「んふふ。嬉しさ倍増でしょ、兄ちゃん」
 耳許で囁く凛子。
 紡がれる言葉と一緒に吹きかけられてくる息が、ちょっとくすぐったかった。

                  §

 それからしばらくの間、とりとめのない会話に花を咲かせた僕たちだったけど、やがてどちらともなく口を閉ざしてしまう。
 お互い昨日今日出会ったばかりの相手でもなし、だからと言って会話が途切れたくらいで気まずくなる訳でもなかった。
 穏やかな心地のまま、時が流れるに任せる。
 遠くから、微かに聞こえてくる水音だけが耳に響き続けた。
 不意に背中の感触が失われる。
「凛子?」
 言葉にし難い小さな喪失感を覚えながら振り返ると、湯船の縁まで音もなく移動した後、ざばっと立ち上がる。
 綺麗な曲線を描く背中からお尻のラインが、僕の目の前に露わになった。
「わっ」
 突然の出来事に思わず狼狽えてしまった僕だったけど、そんな事にはお構いなしにその場でくるりと身を翻した凛子は、湯船に腰を下ろした。
「もしかして、のぼせた?」
「うん……ちょっと、くらくらする」
 なるほど、口数が減ったのはそのせいもあったのか。
 大きくため息を付きながらうなずいた凛子は、僕の目なんて気にした様子もなく膝から下だけを湯に浸したまま、火照った身体を冷やしていた。
「結構熱いよな、このお湯。でもまぁ、凛子にしては頑張った方かな?」
「兄ちゃんはよく平気だね」
「うーん、僕もちょっとのぼせてるかも」
 実際、頭の中がぼんやりしてきてるのは事実だった。
 でもそれが、湯あたりしたせいなのか、それとも凛子の肌の感触に酔ってしまったからなのかは……微妙なところだった。
「よっと」
 どっちにしても、のぼせて倒れたんじゃ格好悪い事この上ないので、凛子を見習ってちょっとばかりクールダウンする事にした。
 湯縁には、ちょうど腰かけになるくらいの位置に段差が設けられていたので、その段差に腰を下ろす様な形で、凛子のすぐ隣に胸の少し下辺りまでをお湯から出しながら、背中を石垣に預ける。
「ふぃー、涼し」
 火照った肌に当たる冬の外気が、冷たくも心地よかった。
「並んで座ればいいのに」
 一段高い見下ろす位置に腰を据えた凛子が、ぽつりとつぶやく。
「んー、そうしたいのは山々なんだけど……」
 僕はぽりぽりと頭をかきながら、曖昧な返答を口にするしかできなかった。
 多分それだけで僕が何を気にしているのかに気付いたんだろう、一瞬だけ呆れた様な表情を浮かべたかと思うと、次の瞬間にはそれを悪戯っぽい笑みに変えた凛子は、
「あー、なるほど。出たくても出られないんだ」
「う……ま、まぁ」
「兄ちゃんも男だもんね。でもさ、前にお互い見せっこしちゃってるんだし、ボクは別に気にしないよ」
 そう言いながら、じーっと未だお湯の中に浸かったままの僕の下半身を見つめ続ける。
 一応タオルで隠してあるから直視される心配はないけど……う、視線を感じたらまた反応してきちゃうじゃないか。
「いや、このままでいいって。出にくいってのもあるけど、それよりここからの方が眺めもいいからさ」
「眺め……?」
「そ。凛子の身体を、ローアングルから見放題」
「……好きにすれば」
 そう言って照れた様に視線をそらした凛子は、ぷいと明後日の方を向いてしまう。
 その時だった。
 雲間に隠れていた月が顔を覗かせると同時に、一陣の風が僕たちの周りを吹き抜けた。
 その風で、さーっと湯気が打ち払われる。
 同時に、湯気のせいで微かに霞んで見えていた凛子の姿が、僕の両の目にはっきりと映し出された。
 切れ目なく艶やかな曲線を描く肢体。
 未だ冷めやらぬ肌は、ほのかに桜色に染まっていた。
 そんな肌色を彩る様に身体のあちこちに張り付いた水滴が、月と星明かりを受けてきらきらと小さく輝いていた。
 綺麗だな……心の底から僕は、そう思った。
 だからその思いを素直に口にする。
「凛子……綺麗だよ」
 相変わらず、夜空を見上げたままの凛子。
 でもその沈黙は、決して拒絶じゃない事を僕は知っていた。
 だからちょっとだけ大胆な行動を取ってみる。
 少しだけ身体を沈めて位置を調整してから、左腕を凛子の太ももを抱える様に伸ばす。
 肌に触れた瞬間、ぴくりと身体が動いたのが分かった。
 でもそれ以上の反応がないのを確かめてから今度は、頭をゆっくりと凛子の身体がある方に傾けていく。
 後頭部に覚える感触は、凛子のお腹だろうか。
 そう思う間もなく、僕の頭を凛子の右腕が抱きかかえてきた。
「くすぐったいよ、兄ちゃん」
 初めて、抗議の声を上げる凛子。
「我慢我慢」
「ボクが我慢しなくちゃいけない理由、思いつかないんだけど」
「後で身体洗ってあげるからさ」
「それ、全然埋め合わせになってないって。ボクの身体を触り放題で、兄ちゃんが嬉しいだけじゃない」
「じゃあ、おまけで髪も洗ってあげるってのは?」
「まぁ、いいけど。ボクも、兄ちゃんに身体洗ってもらうの……別に嫌じゃないし」
 何だかよく分からない交渉を経て、一応契約は成立したみたいだ。
 と言う事で僕は、遠慮なく今の状況を楽しむ事にした。
「あ、前にも言ってるから分かってると思うけど、ボクは肌が弱いから――」
「石けんじゃないとダメで、あと身体を洗うのにはスポンジじゃなく手で、だっけ?」
「そう。もう一つ言っておくと、髪もだよ」
「え、そうなの?」
 てっきり髪の方は、シャンプーを使ってるもんだとばかり思ってた。
 でも考えたら当たり前か。
 頭の部分だけ肌が強いなんて事は普通ないだろうから、身体の方がそうなら髪も自動的に石けんになるのは道理だった。
「でもさ……石けんで髪洗ったら、後でゴワゴワにならない?」
 前に髪を洗おうとした時、たまたまシャンプーが切れてて仕方なく石けんで洗った事があったけど、乾いた後ガチガチのゴワゴワになっちゃってえらい目に遭った事があった。
 でも凛子の髪って、いつもさらさらのふわふわだよなぁ。
 同じ石けんで洗ったのに、この違いは何なんだろう?
「兄ちゃん、もしかして石けんで洗ってそのままにするつもり?」
「違うの?」
「はぁ……こんなの化学の応用だよ。授業で習わなかった? 石けんって酸性? それともアルカリ性?」
 呆れた様にため息を付きながら、質問を発する凛子。
 目を閉じ、額に人差し指を当てた僕は、必死になって記憶の底を浚う。
 しばしの後、ようやく答えにたどり着いた僕は、
「アルカリ性……かな?」
「そう。石けんはph9の弱アルカリ性。で、アルカリ性の石けんで髪を洗ってそのままにしておくと、髪の毛の表面にあるキューティクルが痛んで剥がれちゃうの。ゴワゴワになる原因はこのせい」
「ふむ、なるほど」
 うなずきながら、アップにしてあった凛子の髪をほどく。
「あ……もう」
 その抗議の声を無視した僕は、ひと房手に取ってから指で梳いてみる。
 さらりとした感触。
 髪に触覚なんてないはずなのに、でも僕のその行為に「んんっ」と目を細めながら吐息を漏らした凛子は、
「だ、だから……ゴワゴワを無くすためには、石けんで洗った後、仕上げにこれで髪を洗ってアルカリ分を中和してあげないとダメなの」
 そう言って凛子は、傍らから小瓶を取り出した。
 受け取って中を見ると、透明な液体が詰められていた。
「中に入ってるこれって、なに?」
「お酢」
「へ?」
「水で薄めたお酢。お酢はそのままだと強酸性だから水で薄めて弱酸性にして、石けんの弱アルカリ性と中和させてあげるの」
「へー、知らなかった」
「兄ちゃんの場合、無知すぎ。こんなんじゃ危なっかしくて、ボクの髪を洗うのを任せるのは考えもんだね」
 ため息交じりにそう言う凛子に、僕は慌てて、
「や、ちょっと待って。今、学んだから。大丈夫……うん、きっと大丈夫だって」
「ホントかなぁ」
 くすりと、悪戯っぽい笑みを浮かべる凛子。
「兄ちゃんに任せなさいって」
「イマイチ信用できないけど、まぁいっか。じゃあ、よろしくね兄ちゃん」
 僕の戒めを解いてその場から立ち上がった凛子は、そのまま洗い場へと歩き出す。
 続いてお湯から抜け出した僕も、慌てて凛子の後を追いかけようとした。
「あ、そうそう」
 不意に立ち止まった凛子が口を開く。
「ちゃんと洗えたら、ご褒美に今日はボクも兄ちゃんの身体を洗ってあげるよ」
「え?」
「だ・か・ら、頑張ってね」
 楽しげな表情を浮かべる凛子。
 うーむ、これは素直に喜ぶべきなんだろうか。
 まぁ凛子にこんな事を言ってもらえる事自体、喜ぶべきなんだろうなぁ。
「ほら兄ちゃん、早くしないと冷えちゃうって」
「はいはい」
 凛子からの督促の声に相づちを返した僕は、手近にあった風呂桶にお湯を汲み上げてから洗い場に向かって歩き出した。
(4)に続く

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