『いちばん遠い恋』
Update:2006.08.15





「春 -筒井筒-」(4)

「ん? これは……」
 それを見つけたのは、風呂上がりの湯冷ましも兼ねて広間(ロビー?)でひと休みしていた時の事だった。
「どうしたの、に……勇太郎?」
 不意にソファから立ち上がった、僕の動きを首を傾げる凛子。
 兄ちゃんと言いかけて慌てて言い直したのは、きっと風呂上がりの開放感でちょっと気が緩んでいたせいだろう。
 とりあえず凛子の動きを手で制してから、ひとりでその場所に近づいてみる。
 そこは広間のすぐ横にある六畳一間くらいの板張りのスペースで、壁際にはジュースの自販機と背もたれのない椅子が置いてあった。
 それだけなら単なる自販スペースと思うところだったけれど、そのスペースの中央に据え置かれた代物の発する雰囲気が、そこが全く異なる空間なんだって事を強く主張していた。
 足下にあった段ボールから目当てのブツを見つけた僕は、相変わらず訝しげな視線を向け続ける凛子に改めて手招きする。
「来るなって言ったり、来いって言ったり……もう」
 ぶつぶつ言いながらも、こっちに歩み寄ってくる。
「凛子、一緒にこれやらない?」
 そう言いながら僕が差し出したのは――卓球のラケットだった。
「えー」
 見るからに嫌そうな表情を浮かべる凛子。
 そりゃそうだろう。
 凛子は徹底した運動嫌いだった。
 以前、半分騙す様にして隣町の屋内プールに連れて行った事があったけど、あの時も説得するのにかなり苦労した記憶がある。
 何だかんだで最後は受け容れてくれたし、そのお陰で凛子の水着姿も拝めたけれど。
 それはさておき――。
「疲れるから、嫌」
 凛子の返事は、まぁ予想通りだった。
「そう言わずにさ。やっぱり温泉に来たら卓球じゃないか」
「どんな『やっぱり』なんだか。大体、こんな事したらまた汗かいちゃうじゃないか。それにさっきまで、お風呂で勇太郎に変なところばっかり洗われて、ボクへとへとなんだけど」
「わっ! 人聞きの悪い事言うなよ」
 慌てて凛子の口を塞ぎながら、カウンターの中で何やら書類整理をしている仲居さんに視線を向ける。
 どうやら僕たちの声は届いてないらしく、特にこっちを気にする様子はなかった。
「あれについては……お互い様だろ」
 手を外しながら、しぶしぶそう答える。
「んふふ……勇太郎の、カチコチだったもんね。でも、あれだけ体力使ったのに、まだこんな事する元気あるんだ」
「それはそれ、これはこれ。って言うかさっきのは、凛子のくすぐり攻撃で笑いすぎて腹筋が疲れただけだって。だからさ……一回だけでいいから、僕に付き合ってよ」
「えー」
「ちゃんと凛子が打ち返せる様に、手加減するからさ」
「なんで、そんなに卓球にこだわるかな」
「そりゃあ……温泉卓球と言えば、男のロマンだから!」
「ロマンねぇ」
 力説する僕を前に、呆れた様な感心した様な、そんな微妙な表情を浮かべる。
 ちょっとの間、思案する様に腕組みしながら頬に指を当てていた凛子は、やがて仕方ないかといった感じで苦笑すると、
「じゃあ、一ゲームだけ付き合ってあげるよ」
「ホントに? ありがと、凛子」
 感謝の言葉を口にしながらラケットを手渡した僕は、卓球台のコーナーに移動する。
 僕とは反対側のコーナーに移動した凛子は、ラケットをどう持った物かしばらく試行錯誤していたけれど、やがて安定したのかこちらに向き直った。
「じゃ、僕から行くよ」
「ん」
 左の手のひらに置いたピンポン球を軽く浮き上がらせてから、強くしすぎない様に気を付けながらサーブを打つ。
 緩やかなカーブを描いてネット越しに凛子側のコートを叩いたボールは、そのままゆっくりと浮き上がると――。
 すかっ。
「…………」
「…………」
「あはは……ちょっと強すぎたかな? こ、今度はもうちょっと弱くするから」
 こくりと、無言でうなずく凛子。
 再び、さっきより更に弱いサーブを打つ。
 山なりに浮き上がった球は、右サイド近くでコートを叩いてから浮き上がる。
「わっ」
 今度は凛子もちゃんと反応できた様子で、慌てた風にぱたぱたとスリッパを打ち鳴らしながら移動してから、ラケットを大きく振り抜いた。
「お、ちゃんとできたじゃないか」
「ふ、ふん。ボクだってこれくらい」
 大きく山なりのカーブを描きながら戻ってきた球は、台の中央で跳ね返った。
 絶好球!
 ここでスマッシュをするのは簡単だったけど、でもそれをしちゃったら意味がない。
 だから僕は、スマッシュじゃなくラリーをするために、戻ってきた球を軽く打ち返した。
 でもそのまま真っ直ぐ返すのも芸がない気がしたので、ちょっとだけ意地悪をして、さっきとは反対側の左サイドに球を振ってみた。
「わわっ――えいっ」
 慌てて右から左に駆け戻る凛子。
「そいやっ」
「わわわっ……やっ」
「ほいさっ」
 右に左に、見ているこっちが楽しいくらい(それが目当てだったけど)ぱたぱたと台の周りを駆け回る凛子。
 ちなみに僕は、ほとんど動いていない。
 凛子が返してくる球は何故か全部中央に集まってくるせいで、ちょっと立ち位置をずらすだけで済んでしまうからだった。
 五回ほどラリーらしき物が続いたところで、凛子が空振りをする。
 うーん、まぁ凛子にしては頑張った方かな?
 そんな僕の思いをよそに、既に体力が尽きかけているのか、膝に手を当てた凛子が切れ切れな息の合間から言葉を紡ぎ出してきた。
「に……ゆ、勇太郎……さ……」
「ん、なに?」
「何だか……ボクばかり……走り回ってる気が……するんだけど……」
「相手を左右に振るのは、卓球の基本戦術だぞ」
「もしかしてボク……勇太郎に弄ばれてる?」
 不機嫌そうに眉根をひそめる凛子。
「そ、そんな事ないってば。ほーら、次行くよ」
 その追求から逃れる様に慌てて僕は、サーブを打った。
「わっ、ちょ……待って……」
 性懲りもなく逆サイドに打った僕の球を追って、ぱたぱたと走り出す凛子。
 何だかんだ文句を言いながら、でも律儀に付き合ってくれるのが凛子らしいよなぁ。
 必死に球に食らいつくその姿を見続けながら、ふとそんな事を思ったりする。
 多分半分くらいは、負けず嫌いの意地っ張りな部分がゲームを続けさせているんだとは思うけれど。
 ……ん?
 その時、ふと気付く。
 球を追って右に左にさんざん駆けずり回ったせいで、凛子の着ている浴衣が乱れ始めている事に。
 うわ、胸元がはだけてきちゃってるよ。
 あれじゃ下着が……下着が……って、あれ?
「えい!」
 凛子が思いきりラケットを振り回したのと、浴衣の胸元が大きく開かれたのは同時だった。
「ええっ!」
 視界に飛び込んできた予想外の光景に、ラケットを振るタイミングを誤ってしまう。
「……あ」
「ふー、これで同点だね」
 僕に打ち勝ったのが嬉しいのか、満足そうな笑みを浮かべる凛子。
 背後に転がっていった球を拾った僕は、凛子の方に投げ返しながら口を開いた。
「凛子さ」
「ん?」
「その、さ……浴衣の下って……何も付けてないの?」
 一瞬、質問の意図が理解できなかったのか、きょとんとした色を浮かべる。
 でもすぐに表情を戻すと、
「なに急に言い出すんだか……そんな訳ないでしょ。ちゃんと下は履いてるよ」
 ほら、と言いながら浴衣の裾を開いてみせる。
 確かに薄いブルーの、いかにも凛子らしいシンプルなデザインのショーツが、見え隠れしていた。
「って、見せなくていいって! あと僕が聞いてるのは、そっちじゃなくて……上の……ブ、ブラの方……」
「ああ、こっちね。うん、付けてないよ」
「ど、どうしてっ!」
「どうしてって……外してる方が楽だし、普段だって寝る時は付けないでしょ」
「そ、そうなんだ……」
「ああ、なるほどね」
 どう反応した物か困ったままつぶやきを漏らす僕を前に、不意に納得が行った様に口の端を緩めた凛子は、
「勇太郎は、ボクのここが気になっちゃっうんだ」
 そう言いながら、浴衣の襟をぱたぱたと揺らしてみせる。
「んふふ……さっきまで、お風呂でさんざん見たくせに、まだ見足りないんだ?」
「いや、そういう訳じゃなくて」
「はいはい、大丈夫。分かってるよ。乱れた浴衣の隙間から、見えそうで見えない……そんなチラリズムがいいんだよね?」
「ぐ……」
 図星だった。
 それにしてもどうして凛子はこう、僕の心理を的確に見抜いてくれるんだろう。
 確かに、知識面では到底かなう相手じゃないけど……。
「さ、今度はボクの番」
「え?」
 見れば凛子が、さっきまでの青息吐息な様子はどこへやら、すっかり元気付いた様子でピンポン球を手にしていた。
「勇太郎の弱点は把握したし、これでボクにも勝機が出てきたからね」
「弱点って……」
「んふふ」
 意味ありげな笑みを浮かべる凛子。
 それだけで、今の僕には十分だった。
 実際の話、こればかりは頭では分かっているつもりでも身体が反応してしまうのが、男の悲しい性だ。
 しかも相手が凛子とあっては、尚更だった。
「さ、いくよ。それっ」
 飛んでくる球に視線を泳がせながら、ラケットを振る僕。
 そして気が付く。
 ゲームを始めた時には九割以上、いやほぼ十割あったはずの勝率が、いまや確実に五割を割り込んでしまってるって事を。
 負けたらきっと、何かおごらされるんだろうなぁ。
 何となく、そんな未来が予想できた。
 でも……まぁ、いいか。
 同時にそんな諦めにも、開き直りにも似た思いが心の片隅を漂う。
 それで、楽しかった思い出がひとつ増えるなら。
 僕が欲しかったのは卓球の勝ち負けなんかじゃなく、凛子と一緒に笑い合う事ができたっていう、そんな楽しい思い出だったから。

                  §

「結局また、お風呂に入り直す羽目になるし……」
「悪かったって」
 濡れた髪をタオルで拭きながら、すぐ前をふてくされた様子で不満を口にする凛子に謝る。
 卓球は、かろうじて僕が競り勝った。
 瞬発力と持久力で勝る僕。
 女の武器(?)を最大限駆使して、それに追いすがる凛子。
 本当ならストレート勝ちしてもおかしくないはずだったけど、事あるごとに僕が集中力を削がれたせいで、結構な長期戦にもつれ込んでしまった。
 お陰でゲームが終わった頃には僕も凛子も汗だくになってしまい、仕方なく上がったばかりのお風呂にUターンしたって訳だった。
 僕としては凛子とまた一緒に風呂に入れたから、それはそれで嬉しかったけれど。
「それにしても、ホントに僕たち以外誰もいないんだなぁ」
 廊下のまん中で左右に首を振りながら、つぶやく。
「何か、残念そう」
「そ、そんな事ないって」
「ふふ、せっかくの混浴だったのにね。ボク以外の女の子とも、一緒に入りたかったんじゃないの?」
 くすくすと、からかう様な口調の凛子。
「僕は……凛子と一緒にいられれば、それだけで十分だって」
「ふーん、そうなんだ……ありがと」
 微かに頬を染めてそう言いながら、凛子は僕の手を握ってくる。
 まだ身体が冷め切ってないのか、握り返した凛子の手は僕のそれより温かかった。
「兄ちゃんの手、冷たい」
「手が冷たい人は、心が温かいって言うぞ」
「自分で言うかな、普通。だったらボクは、やっぱり心の冷たい女なんだね」
 澄ました顔でそんな事を口にする凛子。
 だから僕は、苦笑いしながら、
「凛子が本当は優しい女の子だって事は、僕はちゃんと知ってるから平気だよ」
 年末に交通事故に遭った時、意識を失ったまま何日も寝たきりだった僕を、凛子はずっと付きっきりで看病してくれた。
 今でもはっきりと覚えている。
 目を覚ました時、最初に見た光景。
 自分の身代わりになって僕が事故に巻き込まれてしまった自責の念にかられて、ずっと泣いていた上に不安でろくに寝てなかったんだろう、真っ赤になった瞳からまた涙をこぼしながら僕の生還を喜んでくれた凛子。
 凛子が心の冷たい子だったら、きっとそんな事はなかったはず。
「兄ちゃんさ……そんな台詞、自分で言ってて恥ずかしくならない?」
「いや別に。だって、ホントの事だし」
「うー、もういいよ」
 そう言って凛子は、拗ねた様にぷいと明後日を向いてしまう。
 僕は「あはは」と笑みをこぼすと、ちょっとだけ胸の奥が温かくなるのを感じながら、繋いだ手はそのままに廊下を歩き続けた。
 階段を上り、二階の廊下を奥へと進んでいく。
 仲居さんと出くわしたのは、あとちょっとで部屋のたどり着くといった辺りだった。
「お湯加減は、いかがでしたか?」
 一目見て僕たちが湯上がりだって事が分かったんだろう、にこにこと目を細めながら仲居さんが問いかけてくる。
「あ、はい。いいお湯でした。な、凛子?」
「夜空も綺麗でしたし、気持ちよかったです」
 さすがは凛子、突然話を振ったのにこういう時の対応は如才ない。
「そうですか。ご満足いただけて何よりです。あ、そうそう。今、お床の方の準備させていただきましたので」
「おとこ?」
「……布団の事」
「あ、なるほど。ありがとうございます」
 耳打ちしてきた凛子の言葉にうなずきながら、仲居さんにお礼を言う。
「いいえ。それと、明日の朝食は七時からになりますので」
「はい、分かりました」
「それでは、ごゆっくりお休みください」
 ぺこりとお辞儀をした仲居さんは、僕たちの横を通り過ぎ、下の階へと降りていった。
「やっぱりこういう場所って、上げ膳据え膳なんだね」
「……?」
「楽ちんって事だよ」
 そう言って僕から手を離した凛子は、そのまま部屋の戸を開けると先に中に入っていってしまった。
 僕も後に続く。
 中に入ると、仲居さんが片付けてくれたのか部屋の中央に据えられていたテーブルは隅の目立たない場所に移動されていた。
 代わってその場所には、さっき言われた通り布団が敷かれていた。
「……あれ?」
 何だろう、微妙な違和感を感じる。
「どしたの、兄ちゃん?」
 早速布団の上に足を伸ばして座り込んでいた凛子が、小首を傾げながら問いかけてくる。
 その様子から、凛子は特に何も感じてないみたいだ。
 何だろう……この頭の片隅に引っ掛かる様なモヤモヤ感は。
「今日は昼間から体力使いまくりだったから、ボクもうへとへとだよ。ほら、兄ちゃんもさっさと寝よ」
 そう言ったっきり、ぽてっと掛け布団の上に転がってしまった。
 布団の感触が気持ちいいのか、凛子にしては珍しくほにゃっと力の抜けた様な表情を浮かべている。
「ああっ!」
 凛子のそんな姿を見ているうちに、ようやく僕は違和感の正体に気が付いた。
「な、なに? 急に大声出さないでよ」
 驚いて跳ね上がる様に上半身を起こした凛子が、不機嫌そうに口を開く。
 でも僕は、そんな彼女にお構いなしに言葉を続けた。
「ふ、布団が一組しかないじゃないか!」
「それがどうかしたの?」
「どうか……って、それってまずくない?」
「ごめん。兄ちゃんが何を言いたいのか、ボクにはよく分からないんだけど」
 布団の上にいるせいで眠気が増してきているのか、いまひとつ凛子との間の会話がかみ合わない。
 仕方なく、一から説明する事にした。
「この部屋に今いるのは、僕と凛子の二人だ」
「そうだね」
「本来なら僕と凛子、二組の布団があるべきだ。でも、布団は一組しかない」
「うん」
「それってつまり――」
「仲居さんが、気を利かしてくれたんでしょ?」
「って、分かってるじゃないかっ!」
 思わずツッコミを入れてしまう。
「ここでは、いとこ同士の恋人って事になってるんだから、布団が一組だって別に不思議でも何でもないでしょ」
「いや、まぁその……」
 全くその通りなので、返す言葉が見つからない。
 すると僕の心を読んだみたいに、急に納得顔になった凛子が、
「ああ、そういう事ね。兄ちゃんさ……前にボクとした約束、覚えてるよね? 直接のエッチはなしっての」
「も、もちろん」
 それは僕が凛子に告白した時にした約束。
 兄妹で恋愛関係になっている事がバレるリスクを少しでも減らすためには、そうするのが一番なのは確かだ。
 でもなぁ……頭では分かっていても、いざそう言う状況に置かれてしまうと困ってしまうのも事実な訳で。
「じゃあ、別に問題ないでしょ。兄妹が一緒に寝るだけなんだから」
 そんな僕の思いをよそに、あっさりそう言い切った凛子は、
「ボク眠いんだから、先に入るね。おやすみ、兄ちゃん」
「お、おい凛子。ちょっと待――」
 僕の制止の声を耳に留める事なく布団の中に潜り込んだ凛子は、一瞬だけこっちに視線を向けてから、そのまま目を閉じてしまった。
「……はぁ」
 何て言うか、ため息を付く以外ない僕だった。

                  §

「じゃ、じゃあ……お邪魔します」
 時間にして三十秒ほど、どうした物かとたっぷり躊躇った後にようやく意を決した僕は、一言つぶやきながら掛け布団の端を持ち上げた。
 足先を潜り込ませたところで、ふと気が付く。
「あ、電気。凛子、まだ起きてる?」
「……ん」
「電気消すけど、真っ暗にしちゃって大丈夫か?」
 まだ小さかった頃、凛子は部屋を真っ暗にして寝るのを怖がった物だった。
 年端のいかない女の子としては当然と言えば当然の反応だったとは思うけれど、今はどうなんだろう。
「ちっちゃいの……点けといて」
「了解」
 蛍光灯の紐を二回引っ張る。
 かちかちとスイッチが切り替わる音が響くのと一緒に、今まで明るく照らされていた室内が一転して、黄色を基調にした陰影の濃い光景に変化した。
 その事を確認してから、僕も身体を布団の中に滑り込ませた。
 布団の中は、まだ敷いたばかりだった事もあって、思ったより冷たかった。
 ひんやりした感触が、逆に僕の目を覚まさせる。
 でもそれはほんの一瞬の事で、すぐに二人分の体温で温もりを増した布団は、少しずつ眠気を誘い始めてきた。
 天井をぼんやりと見上げ続ける僕。
 風が吹いているのか、かたかたと窓が揺れる音がする。
 そして、それに唱和する様に壁にかけられた時計の針が発する微かな音色だけが、僕を取り巻く世界の全てだった。
 すぐ横から感じる凛子の気配。
 そう言えば、最後に凛子と同じ布団で寝たのっていつだったろう。
 確か小学校の低学年頃までは二人一緒の部屋で過ごしていて、二段ベッドの上に僕が、そして下に凛子がいたはずだった。
 そうそう、凛子が怖い夢を見て目を覚ましちゃった時とか、寝付くまで一緒にいてあげたりしたっけ。
 で、結局そのまま朝まで一緒に寝ちゃって、朝、起こしに来た母さんに笑われたっけ。
 そんな過去の思い出に浸っていると、不意に凛子がごそごそと身じろぎをする。
 何だろうと思う間もなく、左腕に何かが触れてくる。
「……え?」
 凛子だった。
 見れば僕の方に身体を向けた凛子が、何を思ってか両腕でぎゅっとしがみついてきていた。
「どうした、凛子?」
 小声で囁いてみたけど、返事はない。
 起きてるって訳じゃないみたいだ。
 凛子って昔から寝起きは悪かったけど、その分寝付きは妙にいいからなぁ。
 声を出さない様に気を付けながら、小さく笑う。
 そして目を閉じる。
 視界を閉ざした事で逆に他の感覚が鋭敏になってきたのか、凛子の存在をさっきより強く感じる様になった。
 浴衣越しに伝わってくる温もり。
 同時に感じる、柔らかな肌の感触。
 って言うかこれって、胸の感触じゃないか。
 ほのかに鼻腔をくすぐる石けんの香りと、腕を通して伝わってくる肌の温もり。
 さっきまでお風呂でさんざん堪能したはずなのに……でも、こうして布団の中で感じ取れるそれは、またどこか異なる新鮮さを保っていた。
 さっきと違って、凛子が寝ちゃってるせいかもしれない。
 再び目を開けて凛子へと向ける。
 あどけない表情を浮かべながら小さく寝息を立てているその姿は、ずっと昔……一緒に寝てあげた頃の姿そのままだった。
 起きてる時はクールで理知的な面ばかりが目立つ凛子だったけど、こうして寝ちゃうと昔のまんまだ。
 甘えんぼで泣き虫で、いつだって僕の後を付いてきた――小さな可愛い妹。
「……そうだ」
 ふと思いついた僕は、ちょっとだけ思案した後、行動に移す。
「凛子、ちょっとごめんな」
 耳許でそう囁いた僕は、力を入れすぎない様に注意しながら僕をつかんでいる彼女の手から腕を抜け出させる。
 そのまま右手で凛子の頭を少し浮き上がらせた後、隙間に左手を通した。
 そしてゆっくりと右手を下ろしていく。
 よし、これで腕枕の完成。
 満足げにうなずいた僕は、肘を曲げて凛子の髪をゆっくりと撫でてみた。
 まだ乾ききっていないのか、指先に覚えるしっとりとした感触に目を細める。
「ん……っ」
 微かに身じろぎする凛子。
 いけない、起こしちゃったかな。
「……兄ちゃ……なに?」
 うっすらと目を開きながら、寝ぼけ眼のまま口を開く凛子。
 そんな彼女の頭を撫でながら僕は、
「ごめんごめん。何でもないから、寝てていいからさ」
「……ん」
 曖昧な返事を口にしながら目を閉じた凛子は、僕の左手が枕になってしまった事で空いた両腕の落ち着き先を探す様に、もぞもぞと手を動かす。
「うひゃひゃ、くすぐったいってば、凛子」
「んー」
 脇腹やお腹の上を動き回った凛子の手は、やがて胸回りの浴衣の襟口をきゅっとつかむと、そこで動きを止めた。
「兄ちゃ……今日……」
「え?」
「……日は……ダ……けど」
 不意に、切れ切れな言葉を紡ぎ始める凛子。
 寝ぼけているんだろうか、それは僕に向かってというより自分自身に言い聞かせてるみたいな、そんな風にも受け取れた。
 まさか起こして問いただす訳にもいかなかったし、僕はそのまま凛子のつぶやきに耳を傾けるしかなかった。
「でも……つか……」
 それきり後は、すーすーと穏やかな寝息が聞こえてくるばかりだった。
 結局、何の事やらさっぱりだ。
 しばらくの間、凛子の言葉の意味をあれこれ考えたりもしたけれど、情報が少なすぎるのかそれとも僕がバカだからなのか、答えはどこからも見出す事ができなかった。
「ふぅ」
 どれくらい経った頃だろう、ため息をひとつ付く僕。
 まぁ……いっか。
 ラチのあかない考え事をしていたお陰で、さすがに眠くなってきていた。
 明日も早いみたいだし、いい加減寝る事にしよう。
 左手で凛子の髪をひと撫でした僕は、それからすぐ目の前にある凛子の唇に顔を寄せ、ほんの一瞬だけ重ねる。
 そして彼女の耳許で一言囁いてから、目を閉じた。
「おやすみ……凛子」

                  §

「ん……はっ……んんっ……」
 甘い吐息。
 その囁きは、僕の頭を奥底から痺れさせる魔法の呪文だった。
 ゆっくりと顔を寄せていく。
 視界一杯に広がる大切な人の、恥ずかしさで紅潮した肌を瞳に焼き付けながら目を閉じ、そのまま唇を重ねた。
 柔らかく、温かな感触。
「んっ……んんんっ!」
 舌先で、未だ閉ざされたままのドアをノックする。
 すると僕の来訪を待っていたかの様にほんの少し開かれたドアの向こうから、彼女が顔を覗かせてくれた。
 舌と舌が絡まる。
 ねぶり。
 吸い。
 押し出す。
 その行為のたびに後頭部がじんじんと痺れ、その刺激は背中を伝ってやがて下腹部にたどり着く。
 密着した唇同士の狭間からどちらの物かすら分からない唾液が溢れ、あごを伝っていった後にぽたぽたと雫となって落ちていった。
 彼女の服が汚れちゃうな――頭の片隅にほんのわずか残った理性が、冷静にそんな事を思ったりもしたけれど、意識の大部分を占めていた僕の中の獣は気にも止める事なく、更なる行為の深みへと耽っていく。
 背中に回していた手を前に戻す。
 そして重ねた唇はそのままに、手を彼女の膨らみの上に置いた。
 ぴくりと、身体が震える。
 指先に力を入れると、ゴム鞠みたいに弾力に富んでいるそれは、ぐねぐねと手の中で形を変えた。
「あ……んっ……っ」
 ちょっとだけ苦しそうな声。
 力を入れすぎたかな……そう思って手に入れた力を抜いた僕は、さっきから手のひら越しに存在を感知していた小さな突起を、指でつまんでみた。
 きっとキスしていた時から興奮で硬くなっていたに違いないそれは、僕から与えられた新たな刺激をそのまま彼女の意識へと伝えた。
「ん……ああっ!」
 重なった唇を振り払い、髪を振り乱しながら大きく仰け反る。
「可愛いよ……凛子」
 彼女の名を口にしながら、なおも刺激を与え続ける僕。
 服の上からでも分かるくらいぷっくりと膨らんだそれを擦ったり、挟んだり、押し潰したりと、思いつく限りの愛撫を行ってみた。
「だ……ダメ……はぅ……変になっちゃうよ……ボク」
 ふるふると首を振って、凛子が抗議の声を上げる。
 今までの行為で吹き出した汗のせいで、頬や額にぴったり張り付いたほつれ髪がやけに色っぽかった。
 そんな彼女の姿に、かえって劣情を刺激された僕は、
「じゃあ、こっちはどうなってるのかな?」
 そう言いながら、膨らみに押し当てていた手を、更に下へと移動させていく。
「あっ……そ、そこは……くすぐった……んっ!」
 服の裾を引っ張り出し、手を中に潜り込ませた僕は、さわさわと彼女の弱点でもあるお腹をさすってみた。
 くすぐったいって事、それは裏を返せば感じやすい場所って事だ。
 案の定、そこを触り始めた途端、興奮で既に紅潮していた凛子の肌は首筋まで真っ赤になってしまった。
 その事に満足した僕の手は、更なる旅を続ける。
 終着点はすぐそこだった。
 膝丈のスカートの裾を少しだけ持ち上げ、素早くその中に身を潜ませる。
 太ももの内側に手のひらを這わせると、汗でじっとりと湿った生肌の感触を感じ取る事ができた。
「ひゃ……ああっ……」
 たどり着いたそこは、熱いくらいに火照りに満たされていた。
 同時にその部分を覆い隠している布地越しにもそれと分かるくらい、汗とは明らかに異なる湿り気に満ちていた。
「凛子……」
 指でその場所をくにくにと弄りながら、改めて彼女の表情をうかがう。
 刺激が強すぎるんだろう、すっかり涙目になってしまった凛子は、それでも僕を見つめ返してくると、
「……兄ちゃ……ん」
 そうかすれる様につぶやきながら、顔を寄せてくる。
 再び、深く重なる唇。
 その時だった。
「勇太郎ー、凛子ー。どっちかひとり、店番に入ってくれないかしらー」
 母さんの声。
 同時にノックもなしに、ドアノブが回される音。
 えっ!
 驚きの声を上げる間もなく開かれたドアの向こうから、母さんが姿を現す。
 それは一瞬の事だった。
 重ねた唇と、凛子のスカートの奥に潜り込ませた手はそのままに、僕は視線だけを母さんに送り続ける。
 どうしようどうしようどうしよう――。
 そんな愚にもつかない思いが、ただ頭の中をぐるぐると駆け回る。
 でも……。
「なんだ、二人ともここにいたの」
 絡み合う僕たちの事なんて全く意に介さない様子で、母さんは言葉を続けた。
 何事もなかった様子で。
 いつもと変わらぬ様子で。
 目の前の光景に何も気付いてない様子で。
「母さん、ちょっと出かけなくちゃいけなくってさ」
「兄ちゃん……どうしたの?」
「悪いんだけど、店番お願いできないかしら」
「ほら……続きしよ」
 全くと言っていいほどにかみ合わない会話。
 違う。
 何かが違う。
 兄妹でこんな事をしているのを見た母さんが何も思わない訳ないし、母さんがいるのに凛子がこんな事を言うはずがない。
「凛子……母さん……」
 ようやくの事で、それだけを口にする僕。
「兄ちゃん」
「勇太郎」
 重なる声。
 重なる姿。
 重なる世界。
 そして僕は、あらん限りの力を込めて叫んだ。
「止めろ。止めてくれーっ!」

                  §

 次の瞬間――目が覚めた。
「…………」
 大きく見開いた瞳が映し出す視界の中では、薄明かりの中をぼんやりと浮かび上がる天井が広がっていた。
 すぐ横からは、穏やかな寝息。
 そして僕の浴衣を握り締めている細く小さな手。
「夢、かぁ……」
 ため息交じりにぽつりと、僕はつぶやいた。
 そのつぶやきが、ここにいる僕こそが現実なんだって事を否応なしに自覚させてくれて、だからこそたった今見たばかりの夢に薄ら寒い物を感じずにはいられなかった。
 そう、あれは夢だった。
 凛子が母さんの前であんな痴態をさらすはずがない。
 母さんが僕たちのあんな姿を見て平気なはずがない。
 でもだからこそ、夢の光景が現実になった時には、もっと悲惨な結末が待ち受けているに違いなかった。
 いつだったか、凛子はこう言った。
「いくら本人たちが主張しても……それがバレたら、異端視されて引き離される」
 そう、僕たちの恋は普通じゃない。
 兄と妹――決して世間に受け容れられる類の物じゃなかった。
 そんな事は分かっているつもりだった。
 凛子の事をひとりの女の子として好きだって気付いたあの日、十分悩んだつもりだったし、告白して恋人同士になってからも、その事を考えない日はなかった。
 でも、本当にそうなんだろうか。
 本当に僕は分かっていたんだろうか。
 分かった様なふりをして、そうして自分で自分の目を塞いでしまって、今の状況に安穏としているだけなんじゃないだろうか。
 僕は凛子の事が好きだ。
 凛子も僕の事を好きだと言ってくれる。
 たったそれだけの、ひどく単純な事実。
 そう、僕と凛子の関係が、僕と小春みたいに小さい頃から一緒に育ってきた幼なじみ――仲居さんは筒井筒って言ってたっけ――だったのなら。
 もしそうだったら僕たちは、誰からも後ろ指なんてさされる事のない、ごくごく普通の恋人同士として過ごしていけるはずだった。
 でも、現実はそうじゃない。
 僕は凛子の兄で。
 凛子は僕の妹で。
 そして僕たちは恋人同士で。
 どんなに目を閉じても、耳を塞いでも……その現実を変える事はできやしない。
「…………」
 薄暗がりの中で意味もなく空回りするばかりの僕の思考に、さすがに自分でも辟易してきてしまう。
 ちょっと頭を冷やしてきた方がいいかも。
 そう思い直した僕は、凛子を起こさない様に気を付けながら、彼女の頭の下に敷かれたままだった腕をそっと外し、布団から抜け出した。
 ずっと同じ体勢だったせいで、腕がじんじんと痺れていた。
 感覚が失われてしまって、まるで他人の身体みたいだ。
 仕方なく何度か軽く肩を回しているうちに、少しずつ感覚が戻ってくる。
「んっ……」
 凛子の口から漏れた小さなつぶやきに、思わずどきりとしてしまう。
 起こしちゃったかな。
 慌てて見れば、さっきまでつかんでいた僕の浴衣が無くなってしまったので、無意識につかむべき物を探しているみたいだった。
 うーん、どうしよう。
 ちょっとだけ思案した僕は、やがて自分の枕をそっと彼女の指先に差し出してみる。
 どうやらうまく誤魔化せたみたいで、両手で枕をつかんだ凛子は、そのままそれを胸元に引き寄せ、ぎゅっと抱きしめてしまった。
 ふふ……小さな子供みたいだな。
 あどけない寝顔を見せ続ける凛子を前にそんな事を思ってしまった僕は、彼女の髪を一度だけ軽く撫でてから立ち上がった。
 部屋の隅に畳んで置かれていた半纏に袖を通し、部屋を後にする。
 廊下は、夜中という事もあって明かりは落とされていた。
 ぽつぽつと灯されている非常灯だけを頼りに、ゆっくりと歩いていく。
 やがてたどり着いた階段を、足を滑らせない様に手すりにつかまりながら一段一段慎重に下りていった。
 一階は、二階と同じく常夜灯の照り返しを受けて、濃い陰影を浮かび上がらせるばかりの空間に一変していた。
 ロビーも自販機も卓球台も、薄い黒と濃い黒の漆黒のベールに覆われている。
 部屋を後にした時は、表玄関から外に出られるんじゃないかと軽く考えていたけど、いざたどり着いてみると玄関は見るからに頑丈そうな雨戸に閉ざされていて、簡単には開けられそうにない感じだった。
 うーん、困ったな。
 何がなんでも外に出たいって訳でもなかったけれど、ここまで来てすごすごと引き返すのも何となく悔しかった。
 改めて、暗闇に慣れてきた目を細めて周りを調べてみる。
「……ん?」
 よく見ると雨戸の一部が、潜り戸になっていた。
 ここからなら出られるかな。
 閂らしい板棒を横にずらし戸板に力を入れてみると、予想通り小さなきしみ音を発した後、その部分だけがゆっくりと押し開かれていった。
 腰を屈めて木戸を潜り抜け、外に足を踏み出す。
 次の瞬間、屋内のそれとは比べ物にならないくらい冷え切った空気が、殴りかかる様に襲いかかってきた。
「さ、寒っ!」
 思わず背中を丸めてしまう。
 その寒さで、身体の一部にまだ残っていた眠気も綺麗さっぱり吹き飛んでしまった。
 しばらくの間じっとその場に佇んでいた僕は、ようやく寒さに身体がなじんできた頃合いを見計らって顔を上げる。
「わっ!」
 思わず声を上げてしまう。
 見上げた空は、文字通り数え切れないほどの大小様々な星のきらめきに満たされていた。
 その満点の星空のただ中に、ぽっかりと孤独に浮かぶ月。
 上弦の月、って言うのかな?
 半月よりやや欠けた部分が膨らんだ月が、煌々と輝いていた。
 僕は全身を押し包む寒さの存在すら忘れて、その光景にじっと見入っていった。
 町では決して見る事のできないだろう光景。
 それが今、頭上一杯に広がっていた。
 凛子にも見せてあげたいな……ふと、そんな事を思ってしまう。
 でも、凛子の事だからきっと「こんな寒空の下にボクを引っ張り出すなんて、なに考えてるの?」なんて、不機嫌そうに不満を口にするに違いなかった。
 その姿が容易に想像できてしまい、思わず知らず苦笑してしまう。
「さて、と」
 ひとしきり笑ったところで誰に言うでもなくつぶやいた僕は、月明かりを頼りに左右をきょろきょろと見渡してみる。
 すると、建物沿いに奥の方へと続く小道があるのが目に留まった。
 その道は途中で折れ曲がっていたから、ここからではどこに繋がっているのかよく分からなかったけれど、それが逆に好奇心を刺激する。
 行ってみるか。
 内心でそんなつぶやきを漏らしてから、僕は小道を歩き出した。

                  §

 からんころん。
 敷石を叩く、下駄の軽やかな音色だけが耳を叩く。
 頭上には雲ひとつない星空が広がっているっていうのに、どこからか飛ばされてきた雪の欠片が、風が吹くたびに僕の周りでひらひらと舞い踊る。
 降り積もった雪の水面を穿つ様に点々と据えられた敷石は、小刻みに折れ曲がりながら敷地の奧へ奧へと延びていた。
 一体、どこに続いてるんだろう?
 月明かりがあるとはいえ、あちらこちらに生い茂っている木のせいでどこまで続いてるのかはよく分からなかった。
 やがて、敷地の外れにまでたどり着く。
 そこから先は、うっそうと茂る木々で真っ暗だった。
 暗闇。
 どこまで続く、終わりがあるのかどうかすら定かでない漆黒の穴。
 その光景を前にして、不意にちくりと胸が痛んだ。
 針を刺した様な、鋭い痛み。
 どうしてか、さっき見た夢の事を思い出してしまったからだった。
 誰にも言えない恋。
 誰にも知られちゃいけない恋。
 それはもしかしたら、決して人目に付く事のない暗がりの中を、手探りで歩く様な物なのかもしれない。
 だからなんだろうか。
 どうしてか、その先にある物を確かめたい衝動に駆られてしまう。
 危ないから?
 禁じられているから?
 そんな事をしたって何の意味もないのに、そう頭では分かっているのに何故か僕は更なる深みに向かって足を踏み出したくなる衝動を抑える事ができなかった。
 進むべきか。
 戻るべきか。
 頭の中でそんな二者択一を天秤にかけた僕が、決断を下そうとしたその瞬間、

 ――こつん。

 頭に何かが当たった。
「っ!」
 驚きに声にならない声を発してから、慌てて辺りを見渡す。
 でも周囲には、誰の姿も見当たらなかった。
 星々と月だけが、静かに僕の事を見下ろすばかりだ。
 気のせいか。
 それとも風で木の葉でも飛んできたのかな……小首を傾げながらそう思い直した僕は、再び思考の淵に意識を沈めかけた。
 でも……。

 ――こつん。

 間違いない。
 偶然でも何でもなく、誰かが僕を呼んでいた。
 でも誰だろう。
 そんな事を思いながらその場にしゃがみ込んだ僕は、足下の雪の上に転がっていた頭を叩いた物体に手を伸ばし、それを拾い上げた。
 ひと摘みの雪と一緒に拾い上げられたそれは――髪留めのゴムだった。
 どこにでも売っていそうな、至ってシンプルな黒色のそれ。
 その持ち主が誰なのか、僕は知っていた。
 だから僕はあえて、それが飛んできたとおぼしき方を見上げる前に、すぐ近くに落ちているはずのもう一つの髪留めを探した。
 捜し物はすぐに見つかった。
 それは背後の敷石の上で、僕に拾われるのを静かに待っていた。
 拾い上げ、最初に拾ったもう一つに重ね置いてから僕は、落としたままだった視線をゆっくりと上げていった。
「…………」
 二階の窓からじっと、彼女が僕を見つめていた。
 いつの間にか開け放たれた窓から身を乗り出し、欄干に頬杖をつきながら無言で僕の事を見据える凛子。
 僕も言葉を失ったまま、視線を返す。
 風が吹く。
 さわさわと木々の葉のこすれる音が、耳を叩いた。
 その風で、凛子の下ろした長い髪がふわりと浮き上がる。
 月光の下。
 どこからか流れ飛んできたらしい風花と一緒に緩やかに髪をなびかせる凛子の姿は、神々しいまでに綺麗だった。
 だから僕は、無言でその光景を目に焼き付ける。
 大切な人の姿を。
 大好きな人の姿を。
「……そんなとこにいると、風邪引くぞ」
 どれくらい経った頃だろう、言葉を取り戻した僕はようやくそれだけを口にする。
 その瞬間、二人の間で止まったままだった時間が動き出した。
「兄ちゃんこそ……こんな時間に、そんなとこで何してるの?」
「散歩……かな?」
「物好きだね」
「この寒空の下、そんなとこにいる凛子だって、人の事言えないと思うけど」
「お互い様だよ」
 そう言って、微かに口の端を緩める。
 つられて僕も、自然と笑みをこぼしてしまっていた。
 いつも通りの僕たちの会話。
 いつも通りのたわいのない言葉のやりとり。
 でも……。
「目を覚ましたら、兄ちゃんがどこにもいなかったから」
 少し間を置いて真顔に戻った凛子が、不意にそんな事を言い出した。
 その表情の裡に存在する、普段とは異なる何かに僕が気付いてしまったせいだろうか、周囲を包む空気がほんの少しだけ重くなった様な、そんな気がした。
「最初はトイレかなと思ったけど、いつまで経っても戻ってこないし……」
「あ、もしかして心配してくれたんだ?」
「ふん。暗いのが怖くて、戻れなくなったかと思ってただけだよ」
 行きは尿意優先で気にもならなかったけど、いざすっきりして自分の置かれた状況を顧みたら真っ暗で戻るに戻れなくなった――つまりはそういう事だろうか。
 何だか、ひどい言われ様だ。
「窓の外から足音が聞こえたから、もしかしたらと思って寒いのを我慢して見てみたら、案の定兄ちゃんだったし」
「声、かけてくれれば良かったのに」
 でも戻ってきた答えは、どうしてか沈黙だった。
「……凛子?」
「さっきの兄ちゃん……何か、変だった」
「変?」
「ここからじゃ暗くて顔は見えなかったけど、いつもと違って何か……怖い感じがした」
 そこで一度、言葉を切る凛子。
 凛子にしては珍しく紡ぐべき次の言葉を探しているのか、表情にちょっと迷いが浮かんでいるみたいだった。
 ようやく彼女の口から漏れた声は、少し弱々しかった。
「うん、そう……ボクを置いて、そのままどっかに行っちゃいそうな気がしちゃって……だから引き留めなくちゃ、って思って……それで……」
 とっさに髪留めを投げつけて、僕の気を引いたって訳か。
 なるほど、そういう事か。
 すっかり納得した僕は、同時に笑顔を浮かべながら、
「バカだなぁ。僕が凛子を置いて、ひとりでどっかに行っちゃう訳ないだろ」
「どうして?」
「簡単だよ。だって僕は、凛子とどこまでも、いつまでも一緒にいたいから。それだけが、僕の望みだから」
 そう……本当に、それだけなんだ。
 好きだから。
 凛子の事が大好きだから、一緒にいたいだけ。
 ただ、それだけ。
「兄ちゃん……言ってて恥ずかしくない?」
「んー、ちょっと」
「んふふ。それって何か、プロポーズの言葉っぽいよね」
 っぽいじゃなくて、そのまんまのつもりなんだけど。
 内心でそう思ったりもしたけれど、これ以上言うと凛子の事だから「寒いよ」とあっさり切り返されそうだったので、あえて口にはしなかった。
「あ、そうそう。ほら、髪留め返すよ」
 話題を変えようと、僕は手にした髪留めを差し出す。
「届く?」
 小首を傾げながら、欄干から身を乗り出して手を伸ばしてくる凛子。
 背伸びをして、何とか手渡そうとしたけれど、どう頑張ってもあと数センチの隙間が埋まらなかった。
「ジャンプすれば?」
「……絶対転ぶ」
「兄ちゃんの運動神経が悪いだけでしょ」
「そ、そんな事ないって。足場が不安定な上に下駄まで履いてるんだから、無理だって」
 届きそうで届かない距離。
 近くて遠い距離。
 そう思った途端、またちくりと胸が痛んだ。
 それはまるで……僕たちの関係その物だったから。
 兄妹で。
 恋人で。
 どんな他人よりも僕たちの関係は近いし深いはずだったけれど、でもその事は僕たち以外の誰にも決して知られちゃいけない禁忌なんだ。
 誰よりも、いちばん近いはずの恋。
 でもだからこそ……それは、いちばん遠い恋なのかもしれなかった。
「……兄ちゃん?」
 いつの間にか背伸びするのを止めてしまった僕に、手を差し出したままの凛子が不思議そうな声を発する。
 はっと我に返った僕は、
「あ、ごめんごめん。よく考えたら、無理して今ここで返す必要ないか。戻って渡せば、済む話だし」
「ま、それもそうだね」
「じゃ、今からすぐ戻るよ」
「ん、分かった」
 そう言うや否や、窓辺からそそくさと身を潜めかけた凛子は、でもどうしてか途中でその動きを止めると、窓枠に手を付いた姿勢のままじっと僕の事を見つめてくる。
 しばしの沈黙。
「……凛子?」 
 小首を傾げながら僕が口を開いたのは、十秒ほど経ってからだった。
 でも、相変わらず反応はない。
 月明かりの下、凛子の瞳がかすかに揺れ動いているのが見えた。
 何か言いたそうな、でもそれを口にしていいのかどうかを躊躇っている様な、そんな風にも感じられる。
 何を迷っているんだろう?
 心の片隅に浮かび上がったそんな疑問を僕が言葉にしようと口を開きかけたのと、凛子が次の行動を見せたのは同時だった。
 ゆっくりと目を閉じる凛子。
「くらべこし、振り分け髪も肩過ぎぬ、君ならずしてたれかあぐべき」
 そして何の脈絡もなく穏やかな声音で、言葉を紡いだ。
「え?」
 きっと僕がそんな反応を見せるだろう事は予想済みだったんだろう、凛子は閉じていた瞳を再び見開くと、口の端を微かに緩めながら、
「昼間話した『伊勢物語』の話、覚えてる?」
「う、うん」
 ようやくそれだけ口にする事ができた僕に、満足そうに目を細めた凛子は、
「これはね、幼なじみの男が詠んだ歌に対する、女からの返歌」
「……意味は?」
 初めて耳にした歌の意味なんて分かるはずもなく、当然とも言える質問を発する。
 でも凛子は、答えを口にする代わりに悪戯っぽい笑みを浮かべて見せると、
「宿題。今度ボクが答えを聞く時までに、ちゃんと調べておく事」
 そう言ったきり今度こそ窓の向こうに姿を消した後、手首から先だけ覗かせた右手をひらひらと、一度だけ振ってから窓を閉めた。
 同時に、静寂が戻ってくる。
 宿題……ねぇ。
 凛子のする事だから、きっと何か意味や目的があってやってるんだろうけれど、今の僕にはそれが何なのかを理解する事はできなかった。
 うーん。
 小首を傾げながら視線を落とすと、ふと手のひらの髪留めに目がとまる。
 それをじっと見つめていた僕は、やがてぎゅっと手を握り締めた。
 夜の凍てつく寒さのせいでいつしか硬くなってしまったそれは、思った以上の存在感を僕に返してきた。
 もしかしたら、これと何か関係があるんだろうか?
 そうなのかもしれなかったけれど、でもそれを知る術はなかった。
 落としていた視線を上げて、空を見上げる。
 そして大きく息を吐く。
 その途端、真っ白に染まった吐息に視界が塞がれると共に、凍り付いた水気がきらきらと月の光を受けて無数の輝きを発した。
「ん……よしっ」
 吐息が霧散すると同時に、自分に言い聞かせる様に小さくつぶやいた僕は、止めていた足を再び動かし始めた。
 暗がりの奥底に向かってじゃなく、元来た道を戻るために。
 大切な人の許に戻るために。
(エピローグ)に続く

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