『いちばん遠い恋』
Update:2006.08.15
「…………」
「凛子?」
「…………」
「あの、もしもし? 凛子さん?」
「…………」
窓の外を流れていく風景。
いくつかのトンネルを抜けるたびに白で塗り分けられた雪の部分は減っていき、今では視界の全てから消え去ってしまっていた。
枯れ木と常緑樹ばかりが目立つ、ごくありふれた風景。
それは僕みたいな旅慣れていない人間にとって、家に近づきつつあるんだって事を感じさせてくれる情景でもあった。
「僕が悪かったからさぁ」
「…………」
「いい加減、機嫌を直してくれよ」
「…………」
でも、今の僕はそれどころじゃなかった。
旅館を後にしてからこの方、凛子がずっとこんな調子で一言も口をきいてくれなかったせいで、ひたすら謝りっぱなしだったからだ。
確かに、非が僕にあるのは間違いないんだけど……。
事の発端は今朝、身支度も調え終えてチェックアウトをしようと向かったフロントで、仲居さんと交わした会話だった。
ちょっとした世間話のつもりで、深夜の散歩中に見かけた小道の話を切り出して「あれってどこに続いてるんでしょうね?」なんて事を僕が口にすると、驚いた様な表情を浮かべた仲居さんは、
「お客様、ひょっとして昨日は駅から歩いていらっしゃったんですか?」
「え? もちろんそうですけど。だってもらったパンフレットには、徒歩以外の交通手段は無いって書いてありましたし」
小首を傾げながら僕は、リュックから取り出したパンフレットを仲居さんに差し出す。
それを受け取ってペラペラと中を確認した彼女は、最後のページに目を落とした途端、見るからに困った色を浮かべて見せた。
「え? え?」
どうしてそんな反応が返ってくるのか分からず、ただ狼狽えるばかりの僕。
すると仲居さんは、苦笑を浮かべながら説明をしてくれた。
小道を少し進んだ先は崖になっていて、下に降りる階段がある事。
降りた先は舗装路に繋がっていて、駐車場とバス停がある事。
その道は、旅館があるこの山あいをぐるっと迂回して、駅に続いている事。
そして道路は五年前に開通し、肝心のパンフレットは……十年以上前に刷られた物――仲居さんが示してくれた最後のページの奥付には、確かにそう書いてあった――である事。
説明を聞くうちに、額に冷や汗が流れ始めていた。
冗談抜きでさーっと血の気が引いていく音が聞こえた様な、そんな気がした。
同時に背中に感じる、射る様な冷たい視線。
誰なのかは――言うまでもなかった。
ぐぎぎと、錆び付いた機械みたいなぎこちない仕草で、恐る恐る首を巡らせた僕の瞳に映し出されたのは……目を細め、腕組みをしながら無言で僕を見据える凛子の姿だった。
うわぁ、怒ってる。
めちゃくちゃ怒ってるよ。
そりゃ昨日のあの雪山行軍が、実は全く必要のない骨折り損のくたびれ儲けだったと知った日には、凛子じゃなくたって怒るに決まってる。
でも……。
仲居さんが手配してくれたタクシーに乗って駅に向かっている間も。
駅の待合室で電車を待っている間も。
そして一時間近く経って、ようやくやって来た電車の座席に腰を落ち着けてからも、凛子は一言も口をきいてくれなかった。
今だって、窓枠に頬杖をついてずっと外を向いたまま、これっぽっちも目も合わせてくれない始末だ。
困ったなぁ……一体どうすれば、機嫌を直してくれるんだろう。
「……はぁっ」
そうしてどれくらい経った頃だろう、不意に大きくため息を付いた凛子が、ようやくこっちに顔を向けてくれた。
「兄ちゃん……反省してる?」
「も、もちろんっ」
凛子の方から歩み寄ってきてくれたこの貴重な機会を絶対に逃すまいと、少し大げさなくらいのアクションでうなずいてみせる。
そんな僕を前に、何事か考え込む様に視線をそらした凛子は、
「まぁパンフレットが賞味期限切れだった件については、母さんに文句を言うべきで、兄ちゃんのせいじゃないとは思うけどさ」
「そ、そうだよね」
「でも……このまま許しちゃうのも、ボクの気が治まらないんだよね」
「そ、そんなぁ」
思わずそんな、情けない声を上げてしまう。
「んふふ。あ、そうだ。いい事思いついた」
そう言って悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた凛子は、唐突に立ち上がると網棚の上に置いてあったカバンをごそごそとあさり始めた。
「……?」
展開が読めずに小首を傾げる僕をよそに、やがて中から何かを取り出してきた凛子は、再び席に腰を下ろすと、
「そろそろお昼だし、ご飯にしよっか」
何の脈絡もなく、そんな事を言い出した。
見れば凛子の膝の上には紙製の弁当箱が二つ、重ね置かれていた。
「そんなの、いつ買ったっけ?」
「違うよ。仲居さんが、お昼にどうぞって出がけにくれたんだよ」
「へー」
そんなやりとりがあった事自体、今初めて知った。
「さってと」
さっきまでの不機嫌そうな態度が嘘だったみたいに、楽しげに鼻歌なんて歌いながら弁当箱の蓋を開けた凛子は、綺麗に割れた割り箸を手に「いただきまーす」と一声、おかずをつまみ上げた。
「ん……美味し」
ゆっくり咀嚼しながら、仲居さんのお手製らしい一品に舌鼓を打つ凛子。
あ、あれ……?
間抜けな事に僕は、そこでようやく事のなりゆきの不自然さに気付いた。
「あのさ、凛子」
「んぐんぐ……ん、何?」
おかずを口の中に入れたままの凛子が、視線だけをこっちに向ける。
「僕の弁当は?」
そう言いながら、視線を凛子の膝の上に――蓋の開けられた弁当箱の下にある、未開封の弁当箱に向ける。
ここには僕と凛子がいる。
そして弁当箱が二個――普通に考えれば、ひとつは僕の分だ。
でもそんな思いを打ち砕く様に、口の中の物を飲み込んだ凛子は、
「ボクに無駄な体力の消耗を強いた罰として、兄ちゃんはお昼抜き」
「えーーーっ!」
「ふん、何言ってるんだか。これくらいで許してあげようって言ってるんだから、逆に感謝して欲しいくらいだね」
「で、でも……」
「まだ何か、文句あるの?」
じろり。
いつになく鋭い凛子の眼光を前に、抗議の声は尻すぼみになるしかなかった。
「いえ……ありません」
「よろしい」
箸を軽く振りながら、満足げにうなずく。
そして何事もなかったみたいに、食事を再開してしまう。
「ん、こっちの鮭の切り身も美味しい。もうすっかり冷めちゃってるのに、味を落とさず作ってあるのには、素直に感心しちゃうね」
そんな台詞を聞いた日には、ますますお腹が減ってきてしまう。
いや、凛子の事だからわざと言ってるに違いない。
でもそれが分かったところで僕の空腹が治まる訳もなく、文字通り僕は指をくわえながら凛子の食事風景を見続けるしかなかった。
「はー美味しかった。ごちそうさま」
苦行の時間は、結局十五分ほどで終わりを告げた。
その間、僕の腹の虫が何度鳴ったかは――十回目までは数えたけれど、それ以降は気力が続かなかったのでよく分からない。
うう、お腹が空きすぎて目眩がしてきた。
せめてお茶でも飲んで、多少なりとも気を紛らわせた方がいいかも……そう思い直した僕がペットボトルに手を伸ばしかけた、その時だった。
「さて、と」
空になった弁当箱を片付けた凛子が、残るひとつの蓋に手をかけた。
「凛子。ま、まさか、まだ食べるの?」
思わずそんな言葉が、口を突いて出てくる。
その言葉に、ぴくりと眉をしかめた凛子は、
「あのね……そんな訳ないでしょ。兄ちゃんと違って、ボクの胃袋は底なしって訳じゃないんだから」
「でも、だったら?」
「ホント、兄ちゃんって鈍いよね。ほら、あーん」
呆れた様に小さくため息を付いた凛子は、手にした箸で弁当の中からミートボールをつまみ上げると、箸の下に左手を添えながらそれをこちらに寄せてきた。
「え?」
「ほら、早く口を開ける。三、二、一」
「あ……う、うん。あーん」
いきなり始まった秒読みに急かされる様に僕は、慌てて口を開ける。
次の瞬間、口の中に肉の塊が転がり込んできた。
咀嚼するたび、じんわりとしみ出てくる肉汁。
「んまい」
既に空腹の限界だった事もあってか、肉を飲み込んだ途端、素直にそんな言葉が口を突いて出てきた。
「次はご飯ね。はい、あーん」
そうするのが当然の様な態度で、また箸を差し出してくる凛子。
自然と口を開けそうになってしまった僕は、でもそこではっと我に返ると慌てて口を両手で押さえながら、
「ちょ、ちょっとタンマ」
「ん?」
「自分で食べられるからさ……もういいってば」
そう言って、凛子から箸を奪おうとする。
でもさっと右手を頭上に上げて僕からの追求を逃れた凛子は、微かに目を細めながらどこか楽しげな口調で言葉を紡いだ。
「ダーメ。これも罰なんだから」
「ええっ?」
「そ。だから兄ちゃんは、大人しくボクにご飯を食べさせられなくちゃダメなの」
そ、それって……羞恥プレイってヤツですか。
何気なく周囲に視線を向けてみれば、近くに座っていた他のお客さんの誰もが、生暖かな眼差しと共に僕たちの事を見ていた。
きっと、今までの会話も筒抜けだったんだろうなぁ。
改めて思い知らされた現実に、思わず頬が熱くなってきてしまう。
「兄ちゃんってば、何赤くなってるかな。そんな風にされたら……ボクも恥ずかしくなってきちゃうじゃない」
不機嫌そうな表情で凛子が、でも微かに頬を赤く染めながら口を開く。
「……ご、ごめん」
「分かったなら、ほら。口を開く」
「う、うん」
相変わらず頬が熱かった。
でもそれはきっと、凛子も一緒に違いない。
恥ずかしい僕。
恥ずかしそうな凛子。
凛子はこれを罰だと、そう言った。
確かにそうかもしれなかったけれど、どちらかと言うと僕にとってこれは嬉しい罰だったかもしれない。
凛子と一緒にいる事。
一緒の思い出を作っていく事。
リアルでも。
ネットでも。
いつだってどこだって、凛子と一緒にいられるなら……僕にとっては、それだけで十分だったから。
「はい、どうぞ」
再び差し出されてくる箸。
そっと視線を向けると凛子の顔には、楽しげな笑みが浮かんでいた。
凛子の機嫌も直ったみたいだし……ま、いっか。
そんな彼女を前に心の中でだけ小さくつぶやいた僕は、目の前に掲げられた白米を箸ごとぱくりと口に含んだ。