『いちばん遠い恋』
Update:2006.11.04





「夏 -海と彼女と水着とスイカ-」

 Scene1 AM7:12

 目覚ましの音がした。
 一定のリズムを刻みながら響き続ける、聞いただけですぐにそれと分かる機械的な音色。
 たった今まで、まどろみの中を心地よくたゆたっていたはずの意識が、その不躾な訪問者に引きずられる様に現実に引き戻されていった。
「……ん」
 仕方なく、薄目を開けてみる。
 周囲は明るかった。
 確か昨日は……ジグソーパズルのピースみたいにバラバラの記憶の欠片を集めて、そう言えば遅くまでコナさんと一緒にあちこちのサイトを巡回して、寝たのは夜明け近かったって事をどうにか思い出す。
 半分寝ぼけながら、でも窓から射し込む日射しの傾き具合からまだ朝も早い時間らしい事を確認した僕は、素早く結論を下した。
 寝る。
 誰に何て言われても、寝る。
 その決意を行動で示すべく僕は枕元に置いてあるはずの目覚まし時計に手を伸ばし、アラームのスイッチを叩いた。
 そして開きかけたまぶたを、ゆっくりと閉じていった。
 これで騒音は静まるはず。
 もう……ひと寝入り……。
 ………………。
 …………。
 ……。
 あれ?
 スイッチを切ったはずのアラームが、相変わらず鳴り響いていた。
 おかしいな、止め損なったのかな。
 今度こそ間違いのない様に、指先で目覚まし時計のスイッチの場所を確かめてから、ボタンを押し込む。
 やっぱり止まらなかった。
 って、そうか。
 そこでようやく僕は、今が夏休みだったって事を思い出した。
 学校なんてないんだから目覚ましがセットされているはずもないし、そもそも僕自身、寝る前にセットした覚えもない。
 そうすると、この音は何なんだろう?
 うーん、やっぱりよく分からない。
 それ以上考えても答えが見つかるとも思えなかったので仕方なく身体を起こした僕は、相変わらず枕元でノイズを発し続けているそれに目を向ける。
「…………」
 鳴っていたのは、時計のアラームじゃなかった。
 そのすぐ横、充電器の上に鎮座ましましている携帯電話の呼び出し音が、眠りを妨げる元凶だった。
 小さくため息をつく。
 そして寝ぼけ眼をこすりながら携帯を手にした僕は、パネルに表示された時間を確かめた。
 七時十二分――その数字を見た途端、どっと眠気が襲ってくる。
 夏休みの、しかもこんな朝っぱらからわざわざ電話をしてくるんなんて、一体誰だ。
 一瞬、そのまま電源を切って無視してしまおうかとも思ったけれど、でもディスプレイに表示された相手の名前を見てすぐに考えを改めた。
 フリップを開き、受話ボタンを押す。
 こちらが口を開くよりも先に向こうの声が、耳に当てたばかりの受話口からノイズ混じりに流れ出た。
「おはようさん。勇太郎さん」
 どこかおっとりとした、独特なイントネーション。
 僕が電話に出るまで相当待たされたはずなのに、その声には苛立ちや非難の因子は欠片も見当たらなかった。
「あ、えと……おはようございます……みまりさん」
 初瀬みまりさん。
 ちょうど僕が『こころナビ』を手に入れた頃、ちょっとしたきっかけで出会った、近くの神社に勤める巫女さん。
 この辺りではあまり耳にする事のない関西弁を喋る、おっとりとした印象の大人の女性。
 そのみまりさんが、どうしてか朝っぱらから僕に電話をかけてきた。
 確かに携帯番号とメールアドレスは以前、神社に遊びに行った時に交換してたけれど、急にどうしたんだろう?
 そんな事を考えなら、電話口に向かって返事をする。
 最後の方は、うっかり出てしまったあくびのせいでちょっと変な発音になってしまった。
 その声音から察したのだろう、
「もしかして、まだ寝てた?」
 くすりと笑みをこぼしながら彼女が発した問いかけに、僕は素直に首肯しながら、膝立ちの姿勢から布団の上にあぐらをかいて座り直す。
「ええ……明け方までラウンドしてましたから」
「ふーん、そうなんや。けど夏休みやからって、あんま夜更かししたらあかんよ」
「はは、気を付けます」
 起き抜けにいきなりお小言を貰ってしまった僕は、頭を掻くしかない。
「それでな……」
「あ、はい」
 みまりさんの声で、会話に戻る。
「勇太郎さんの部屋って、二階なんかな?」
「どうしたんですか、急に」
「いや、大した事あらへんけどちょう確認」
 何だかよく分からない。
 出し抜けな質問に思わず小首を傾げてしまった僕だったけれど、知られて困る事でもないから素直に答えておく事にした。
「ええ。道路に面した二階の左側の窓が、僕の部屋ですよ」
 求める回答を得て満足げに「そかそか」と呟いたみまりさんは、
「そしたら、窓開けて外見て欲しいんやけど」
 さっきに続いて、またよく分からない言葉だ。
「すぐ分かるて」
「はぁ」
 ベッドから立ち上がった僕は、備え付けのはしごを下りる。
 その時、スタンバイモードだったPCが、ブンと小さなうなり声と共に起動した。
「いかがなされました?」
 スピーカーから発せられた声は、つい数時間前までラウンドのお供をしてくれたコナさんの物だった。
 未だに謎な部分の方が多い『こころナビ』というブラウザのAIインタフェースを自認する彼女は、髪色とマッチした薄緑色のワンピースの背中から生やした蝶々の様な羽をふわふわと揺らしながら、ディスプレイ越しに僕の事を見つめていた。
 まぁ実際は、チャット用に接続してあるカメラを通して、僕の姿を認識しているだけなんだろうけど。
「おやすみになられてから、まだ三時間ほどしか経っておりませんが、もうご起床になられるのですか」
「いや、ちょっと電話がね……」
 そう言いながら、通話状態のまま手にした携帯電話を指差す。
「ああ、なるほど。ご友人からのお電話でしたか。それは失礼しました。お邪魔はいたしませんので、どうぞゆっくりご歓談ください」
 見た目と合わない、相変わらずの堅苦しい口調に苦笑を浮かべながら僕は、コナさんとの会話を切り上げて窓辺に歩み寄った。
 窓を開ける。
「うわ」
 その途端、むわっとした夏特有の熱気が僕の身体を包み込んだ。
 エアコンで程よく冷やされた室内からいきなり外気に晒された驚きで、思わず悲鳴を上げてしまう。
 同時に空から射し込む陽光が、じりじりと肌を焦がそうとしているのが感じられた。
 今日も良い天気らしかった。
「勇太郎さーん」
 みまりさんの声だ。
 って、あれ?
 今、受話器を離したままだよな、僕。
 左手の中にある携帯電話に視線を落としながら、小首を傾げる。
「こっちや、こっち」
 僕だって人並み程度の聴力はあるはずだけど、でもさすがに数十センチ離れた電話の声はこんなにはっきりとは聞こえないはず。
「そやから、下、下」
 下?
 言われた通り、視線を階下に落とすとそこには――。
「……あ」
 そこに、どういう訳かみまりさんの姿があった。
 慌てて受話器を耳にすると、悪戯が成功した時の子供みたいな楽しげな声で、
「びっくりした?」
「そりゃびっくりしましたよ。てっきり、神社から電話してるのかと思ってましたから」
「ははっ。それが狙いやったからね」
「それにしても、よく家の場所が分かりましたね? 確か……住所までは教えてなかったと思いましたけど」
「優秀なナビがおったからね」
「ナビ?」
 そこで初めて、みまりさんのすぐ後ろに車が止まっている事に気付いた。
 ワゴンタイプの、結構大きな車だ。
「もしかしてそれ、みまりさんの車ですか?」
「ん? 正確には借りもんやけどね。運転してるのはうちやから、今はうちの車って事になるんかな?」
 みまりさんだと、何となく軽自動車とかそんな小さめの車の方がイメージに合う気がしたから、その見た感じのアンバランスさにちょっとだけ違和感を覚えてしまう。
 結構距離があるはずの僕の表情の微妙な変化を読み取ったのか、あるいは黙り込んでしまった僕の様子から何かを感じ取ったのか、みまりさんは微かに訝しげな色を浮かべると、
「なに、似合うてへん?」
「い、いえ、決してそんな事は……」
「ええよええよ。実際、自分でも大き過ぎるなぁって思てたから」
 視線を背後の車に向けながら表情を綻ばせ、小さく笑うみまりさん。
「それはそうと、勇太郎さん。今から下に降りてこられへん?」
「え?」
「お互いすぐ目の前にいるのに、電話で話ってのも何か変やろ」
「それもそうですね。分かりました、すぐ下りますのでちょっと待っててください」
 そう言って一旦電話を切った僕は、窓を閉めた。
「ご友人が下でお待ちですか?」
「うん」
 会話の邪魔にならない様、今までずっと沈黙を保っていたコナさんが口を開く。
 とりあえず上はTシャツで問題ないと思うから、下だけ履いて行けばいいかな。
 寝る前に床に放り捨てたままだった短パンに足を通して、最低限外に出られる格好になったところで、
「ちょっと行ってくるね、コナさん」
「承知しました。行ってらっしゃいませ」
 慇懃な台詞とは裏腹に、モニタ画面の中でひらひらと可愛らしい仕草で手を振るコナさんを残して、僕は部屋を後にした。
 廊下は、冷房が効いてない事もあって蒸し暑い。
 そう言えば、凛子はまだ寝てるのかな?
 階段に足をかけたところで、ふと隣の部屋にいるはずの妹の事が気になる。
 僕を遙かに上回るレベルのネット中毒者な凛子の事だから、もしかしたら今もラウンド中なのかもしれなかった。
 ちょっと覗いてみるか。
 その場で回れ右した僕は、そのまま凛子の部屋のドアを軽くノックする。
「凛子ー、起きてるかー?」
 少し待ってみたけれど、返事はなかった。
 案の定ラウンドしているか、寝ているかのどっちかみたいだ。
「開けるぞー」
 念のためもう一度だけノックしてからそっとドアを十センチほど開け、隙間から部屋の中を覗き見てみた。
 PCの前に凛子の姿はなかった。
 やっぱりラウンド中か……そう思いかけたところで、ベッドの布団が膨れあがっている事に気が付く。
 あれ、寝てるのか。
 呼吸に合わせて一定のリズムで布団が緩やかに上下している様子から、起きている訳じゃなさそうだった。
 と、そこまで考えたところで初めて気が付く。
 布団……って、この真夏に?
 改めてベッドを見る。
 そこにあるのは、どう見ても冬用の羽毛布団だった。
 そう言えば、さっきからやけに寒い気がしてたけれど、もしかしてこれって凛子の部屋から流れ出ている空気のせいなんだろうか。
 僕の部屋もエアコンでそれなりに涼しくしてあったけれど、凛子の部屋はそれを遙かに上回る涼しさ――これはもう寒い、というレベルかも――で、この様子だと温度設定は二十度以下になってるに違いなかった。
 うーん、凛子らしいと言うか何と言うか……内心で感心した様な呆れた様な、そんな思いを抱きながらドアを閉めた。
 みまりさんを待たせてるんだから、道草はほどほどにしておかないと。
 急ぎ足で階段を下りる。
 一階に下りたところでリビングを覗いてみたけれど、人気はなかった。
 父さんも母さんも、多分店の方に出ているんだろう。
 バイトの入り具合にもよったけれど、朝から三時過ぎくらいまでは父さんたちが店に出て、夕方から夜にかけて僕と凛子が店番に入るってのが、夏休みに入ってからの我が家の生活リズムになっていた。
 今日は午後から、古賀さんと短期バイトの人がもう一人シフトに入ってるはずだから、僕の出番はないかな。
 頭の片隅でそんな事を考えながらサンダルに足を通し、玄関のドアを開ける。
 その途端、家の中なんか目じゃないほどに暑く湿った空気が、全身を押し包んできた。
 薄暗い玄関から急に日射しの下に出たせいで目がくらみ、一瞬だったけれど視界も失われてしまった僕は、無意識のうちに額に手を当てて陽光を遮っていた。
「勇太郎さん、こっちや」
 声がした方に薄目を開けながら顔を向けると、みまりさんが朗らかな表情を浮かべながら手招きしていた。
「おはようございます」
 歩きながら、改めて朝の挨拶をする。
「やあ、今関君。おはよう」
「え?」
 みまりさんとは明らかに異なる男性の声にちょっと驚きながら、僕は声がしたみまりさんの背後に視線を向ける。
 すると窓を開け放った車の助手席に、見慣れた友達の姿があった。
「暮林君……びっくりしたよ」
「フッ、それは済まなかったね」
 クラスメイトの暮林鳴海君は、朝っぱらからやけに爽やかな笑みを浮かべていた。
 二十四時間三百六十五日、常に美(具体的に何なのか未だにピンと来ないけど)の探求を怠らない暮林君。
 彼からすれば、きっと夏のこの焼け付く様な日射しも、自分を引き立ててくれるスポットライトにすぎないのかもしれなかった。
「それにしても、みまりさんと一緒だなんて、珍しい取り合わせだね」
「そうかい? 毎朝、私は神社の方まで散歩をするのが日課で、初瀬さんとは毎日顔を合わせているから、特に珍しくもないよ」
「そ、そうなんだ」
「今朝もな、境内の掃除してたらばったり会うたんよ」
 横から合いの手を入れてくるみまりさん。
「それで、今日もええ天気で暑うなりそうやなぁ。こんな日は、海にでも行って夏を満喫したいもんやねぇ、なんて話してたんよ」
「は、はぁ」
 話の先が見えないせいで、曖昧な返事しかできない。
 そんな僕に向かって、にっこりと微笑んだみまりさんは、
「たまたまうちも今日は、朝のお勤めが終わたらお休みやったんよ。で、思い立ったが吉日、善は急げって事で、車借りてきたんよ」
「な、なるほど」
 ようやく話が見えてきた。
 要するに、みまりさんと暮林君の二人だけじゃせっかく遊びに行くにしても頭数が足りないので、僕にも声をかけてくれたんだ。
 僕の家の場所を知らないはずのみまりさんが迷わずここまで来られたのも、暮林君が一緒なら合点が行った。
「それにしても、朝っぱらからよく車なんて借りられましたね」
 今はまだ午前七時台。
 みまりさんの話を聞く分には車はレンタカーっぽいけれど、こんな早い時間からやってる店なんてあるのかな?
「ああ、これ? これな、氏子さんがやってるお店拝み倒……って、そんな細かい事気にしたらあかんて。それはそうと……今日はお家の手伝いとかあるん、勇太郎さん?」
 既に開店営業中(と言っても二十四時間営業だから常に開いてるけれど)のコンビニに顔を向けながら口を開くみまりさん。
 どうやら、余計な詮索は不要って事らしい。
 これ以上突っ込むのも何なので、素直に後半の質問にだけ答える事にする。
「えーと、多分大丈夫だと思います」
 今日はバイトの頭数は足りてるはずだし、それに母さんも、夏休みに入ってからずっと家に籠もりっぱなしの僕に「ちょっとは外に遊びに行ってきなさい」と小言を口にしていたくらいだから、きっと諸手を挙げて送り出してくれるに違いなかった。
「そかそか」
 僕の返答に、満足そうに頷くみまりさん。
「実はな、準備はもう万端やねんで」
 そう言って僕の手を引いて車の背後に回ったみまりさんは、トランクのドアを開け放った。
「わっ」
 車の後ろ半分が荷台になっているそこには、彼女の言う通り所狭しと海水浴向けの装備品が詰め込まれていた。
 ビーチパラソル。
 敷物にクーラーボックス。
 浮き輪にフロート、ビーチボール。
 最後の浮き物に関しては、既に全部膨らませてあるのが謎だった。
 現地で膨らませた方が場所を取らなくていいと思うんだけれど、そこまで考えなかったんだろうな、きっと。
「水着もこないだ買うてきたばかりの新品やから、期待したってな勇太郎さん」
「え? ……あ、はい」
「その微妙な間は何? あー、今うちの水着姿想像したやろ?」
「いえ、決してそんな事は……」
「はは、勇太郎さんも健康な男の子なんやから、別に怒らへんよ」
「は、はぁ」
 水着かぁ。
 みまりさんって普段、露出の少ない服装が多かったから、確かにちょっと楽しみかも。
「それで、僕が行くのは構わないですけど、他には誰かいるんですか?」
「それなんよね」
 トランクを閉めながら、みまりさんはうんうんと頷く。
「この車、ほんまは七人乗りらしいんやけど、見ての通り荷物が多いやろ。でも五人くらいまでやったら大丈夫と思うんよね。で、今んとこうちと勇太郎さんと鳴海さんの三人は当確やから、あと二人やね。せっかくやから人数多い方が楽しいし、誰かおらん?」
「二人ですか」
 うーんと、腕組みしながら考える。
 声をかける相手として真っ先に思い浮かんだのは、凛子だった。
 外に引っ張り出すまでが一苦労だけど、こういう機会でもないと凛子の水着姿なんて拝めないだろうし……ここは是が非でも連れて行こう。
 残るは一人。
 元々、それほど友達の多くない僕だったから、選択肢はそう多くなかった。
 仲手川さん。
 まだ遊びに誘えるほど親しくはなってない。
 実光君。
 男手は僕と暮林君で間に合ってるだろうし、そもそも連絡先を知らない。
 小春。
 ソフト部の練習がなければ、身体を動かす事は何でも大好物だからきっと大丈夫。
 時間にして数秒、僕の中でおおよその結論が出た。
 念のため、暮林君の意見も聞いてみる事に。
「ね、暮林君。小春と凛子に声をかけようと思うんだけど、どうかな?」
「倉持さんと君の妹さん? そうだね、特に異論はないよ」
 即答だった。
 まぁ彼の場合、誰の名前を口にしたところで反応は変わらなかった気もするけれど。
「じゃあ、みまりさん。小春と凛子を連れてきますね」
「小春さん……あー、あのスタイル抜群の子やね。うちと違うて、水着映えしそうやね。そいで、凛子さんってのは?」
「そっか。みまりさんは会った事なかったですね。僕の妹ですよ」
「ほー。勇太郎さんの妹さんやったら、きっと可愛い子なんやろね」
「あはは」
 はい可愛いです……なんて言った日には兄バカ丸出しなので、喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。
 みまりさんも、追加メンバーは小春と凛子で異論はなさそうだった。
「じゃあ、二人に声かけてきます」
「よろしく頼むね」
「はい!」
 二つ返事で僕は、その場を駆け出した。
(2)に続く

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