『いちばん遠い恋』
Update:2006.12.13
「夏 -海と彼女と水着とスイカ-」
Scene2 AM7:34
「おはようございまーす」
夏休みが始まる前まで毎朝口にしていた挨拶をしながら、返事も待たずに倉持家の玄関を開ける。
勝手知ったる他人の家。
生まれついての顔見知り――いわゆる幼馴染み――な彼女の家とは、昔から家族ぐるみの付き合いをしてたから、こんな無遠慮な事をしても誰も何も言わない。
むしろ、朝が破滅的に弱い小春を学校にまで引っ張っていってくれる白馬の王子様(?)として、小春の両親からは感謝されていたりもしていた。
そんな訳で廊下を抜け、階段を上り、ノックもなしに部屋のドアを開け放つ。
「すぴー……くかー……」
窓に面したベッドの上では、この部屋の主が相変わらずのあられもない格好で寝息を立てていた。
多分寝る時には身体に掛かっていたはずのタオルケットは、どうしたらそうなるのか謎だったけれど、部屋の反対側に転がっていた。
夏物のパジャマを身にまとい、枕を小脇に抱え、大股開きで、あまつさえめくれ上がった裾からヘソが顔を覗かせている寝相の悪さは何と言うか、百年の恋も醒めそうな姿だった。
まぁ、恋なんてしちゃいなかったけれども。
とりあえず部屋に足を踏み入れ、ベッドのすぐ側にまで近付く。
「おーい、小春。起きろー」
ここで普通なら身体を揺さぶるところだったけれど、小春相手の場合だとそういう訳にもいかない。
彼女は、名うての電気人間だった。
別に彼女の身体が電気で構成されてるとか、空を飛んで自由自在に電撃を扱えるって訳じゃない。
極度の静電気体質なのだ。
今は夏だからまだマシだけれど、これが真冬になると近付いただけでもピリピリと放電しているのが感じられるほどだったから、もう一息で万国びっくりショー出演間違いなしの逸材に違いなかった。
「起きろー。朝だぞー」
「むふー」
「早くしないと朝飯無くなっちゃうぞー」
「ふひゅひゅ」
「学校遅刻するぞー」
「みゅはは」
コミュニケーションが取れている様な取れていない様な、微妙な反応。
どうやら眠り自体は浅いみたいで、多分外界からの刺激に無意識に反応しているだけなんだろうけれど、このままじゃラチが開かない。
うーん、仕方がない……。
意を決した僕は、指先を相変わらず露出したままの小春の横っ腹に持っていき、最後の手段を行使してみる事にした。
僕の指先と、小春の肌が触れた次の瞬間――。
「痛っ!」
「んきゃんっ!」
指先に青白い稲妻が走ったかと思うと、ビクンと数センチほど身体をベッドから跳ね上がらせた小春は、小さく悲鳴を上げた。
同じく衝撃で後ろに跳ねとばされた僕は、ピリピリと痺れる指先を軽く振りながら、ようやく目を覚ました小春に向かって改めて声をかける。
「夏休みになってからしばらく起こしに来なかったけれど、相変わらずだなぁ」
「……ほっといて……むにゅ……」
夏場で電圧が足りなかったのか、いつもなら一発で目を覚ましてくれるはずの小春は、まだ半分以上寝ているっぽい。
もう一度、今度は二の腕に触れてみたけれど、ぱちっと軽い衝撃が来ただけで彼女を起こすにはほど遠い威力だった。
しばらく充電しないとダメか。
とは言え、みまりさんたちを待たせてる以上、いつまでも悠長に構えてもいられない。
「小春、起きてるか?」
「んー? 起きてる……よー」
微妙に危なっかしいけれど、とりあえず反応はしてくれたのでよしとする。
「今日はソフトの練習ないのか?」
「んー」
「どっちだよ」
「今日は……練習、休み」
よし、これで一人ゲット。
「じゃあさ、小春。今日は僕と一緒に海に行かない?」
「んー? 勇太郎……と?」
ようやく意識がはっきりしてきたらしい小春が、むくりと起きあがって小首を傾げながら問い返してきた。
「そうそう」
それから簡単に事の経緯を説明する。
みまりさんから電話がかかってきた事。
家の外に何故か車で来てる事。
海に誘われた事。
人数に余裕があるから、誰か誘って来る様に頼まれた事――等々。
僕が話している間、黙って耳を傾けていた小春は、
「つまり、人数合わせのついでであたしに声をかけたんだ」
目もすっかり覚めた様子で、でもどうしてかこめかみをピクピクさせながら、低い声で口を開いた。
え、あれ?
「何、怒ってるんだ?」
「怒ってないわよ」
「いや、どう見てもその態度は機嫌悪そうだぞ」
「怒ってるんじゃなくて、呆れてるの!」
そう叫んでぷいと横を向いてしまった小春は、すぐに小さくため息を漏らすと、ぶつぶつと囁く様な小声で独り言を呟く。
「え、何? よく聞こえなかった」
「何でもないわよ!」
そして体内から眠気を振り払う様に大きく伸びをした小春は、すぐにいつもの朗らかな表情を浮かべて見せると、
「今年はまだ海行ってないし、経緯はともあれ珍しく勇太郎からの誘いだもんね。みはは。いいよ、行ったげる」
「お、サンキュ」
これで任務の半分は完了だ。
「じゃあ、外でみまりさんたちが待ってるから、急いで準備して」
「え? あ、ちょ、ちょっと!」
それだけ言い置いて、急いで小春の部屋を後にした。
背後から小春が何か叫んでいるらしい声が聞こえてきた気がしたけれど、構ってる暇はないと瞬時に判断して右から左へと軽く聞き流す。
倉持家を後にし、自宅側で待機しているみまりさんたちのところに戻った僕は、意気揚々と戦果を報告した。
「お待たせしました。小春、一緒に行ってくれるそうです」
「おー、そかそか。さすがやね、勇太郎さん」
「準備してからここに来ると思いますから、後よろしくお願いしますね」
「おーけー」
車から離れた僕は、そのまま小走りで自分の家の玄関を潜る。
次なるターゲットは凛子だ。
元々アウトドア派な小春だったから案外簡単に説得できたけれど、凛子は彼女とは正反対の完璧なインドア派だ。
そう簡単には説得できないだろう事は過去の経験から重々承知しているので、できるだけ慎重に事を運ばないと。
「うーん、とは言ったもののなぁ……」
階段を上りながら、どう説得した物か思い悩んでみたけれど良いアイデアが出ない。
とりあえず、ドアをノックしてみる。
……返事はない。
どうやら、まだ寝てるみたいだ。
もう一度だけノックして「凛子、入るぞー」と声をかけてから、ドアを開けてみた。
さ、寒っ。
室内から溢れ出てきた、どう考えても冷え過ぎとしか思えない空気が頬を撫でる。
ちくちくと肌を刺激するそれは、まるで真冬の朝の空気の様だった。
さすがにこれは、やり過ぎじゃないだろうか。
でも凛子の事だから「機械は熱に弱いから、これくらいでいいんだよ」とか、さも当然の様に言ってくれそうな気もした。
とりあえず、中に足を踏み入れる。
室内は静かだった。
元気よく冷気を吐き出し続けているエアコンの機械音だけが、耳に届く音の全てだ。
「凛子」
枕元にまで歩み寄ったところで一度、声をかけてみる。
反応なし――本格的に熟睡してる様子だ。
布団を軽く揺さぶってもみたけれど、やっぱり反応はなかった。
うーん、普通に起こそうとしてもダメっぽいけど、無理矢理起こした日には間違いなく機嫌が悪くなりそうだし、さてどうした物か。
腕組みをしてしばし思い悩んだけれど、そうそう都合良く名案が出てくるはずもなく、結局正攻法で攻めてみる事に。
「おーい、凛子。起きてくれー」
そう言いながら、掛け布団を跳ね上げる。
部屋のこの寒さなら、布団という外套を失った凛子はすぐにでも目を覚ますに違いない、そう思っての行動だった。
でも――。
「ぶっ!」
次の瞬間、目の前に映し出された光景に、思わず吹き出してしまう。
そこには僕が予想もしない世界が広がっていた。
上半身は、真っ白なキャミソール。
下半身は、ショーツ一枚。
布団にくるまっていた凛子が身にまとっていたのは、その二つだけだった。
さすがにこの寒さでも羽毛布団にくるまって寝るのは暑かったのか、うっすらと上気した肌と下着の白が鮮やかなコントラストを浮かび上がらせていた。
こ、これは目の保養――いやいや、目の毒だ。
今までだって凛子の素肌は何度となく見てきたし、触れてきたはずだった。
風呂場で手のひらで身体を洗いながら。
部屋越しにチャットを通じて見せあいっこしながら。
温泉宿で満点の星空を見上げながら。
でも……今、目の前にある凛子の寝姿を見て僕は、胸の動悸を抑える事ができなかった。
ごくりと、喉が鳴るのを自覚した。
そして無意識のうちに、手が凛子に向かって伸びていた。
ゆっくりゆっくり、躊躇いがちに。
「……ん」
あと少しで指先が肌に触れる――そう思った瞬間凛子が、小さな呟きと共に微かに身じろぎをした。
その声を耳にした途端、はっと我に返る。
何を考えてるんだ、僕は。
危ない危ない。
首を振って頭の中から雑念を振り払ってから、改めて凛子に目を向ける。
どうやら直接部屋の空気に触れて寒くなったらしい、もぞもぞと布団を探してしばらく手を動かしていた凛子は、でも求める物がどこにもない事に気付いてうっすらと目を開けた。
「……兄……ちゃ?」
「え? あ。うん」
咄嗟の事に、言葉が上手く出ない。
「布団……返して」
どうにか次の言葉を口にしかけた僕の機先を制して、両手を差し出してきたその要求に、つい素直に従ってしまう。
返しちゃダメだってのは分かっていたけれど、でも返さないといつまでも目のほ――毒状態からも逃れられない訳で。
首尾よく戻ってきた布団を手に、満足そうに小さく微笑んだ凛子は、そのまま僕に背中を向けて再び寝息を立て始めてしまった。
「って、寝ちゃダメだって。凛子っ」
慌てて、布団をゆさゆさと揺り動かす。
自業自得とは言え、結局振り出しに戻ってしまった。
「……うるさいなぁ……ボク、眠いんだけど……」
背中を向けたままの凛子は、枕の上に置いたままの頭を軽く振ってみせながら、拒絶の言葉を口にする。
「そう言わずに、話だけでも聞いてくれないかな」
「…………」
「頼むよ、凛子」
その場に座り込みながら、拝む様に顔の前で両手を合わせてみせる。
「……はぁ」
背中を向けた姿勢はそのままに、小さくため息をついた凛子は、
「しょうがないから、聞くだけは聞いてあげるよ」
根負けした様に口を開いた凛子は、顔をこちらに向ける。
ようやく一歩前進。
内心でほっと安堵のため息をついた僕だったけれど、まだOKを貰った訳じゃないって事を思い出して気を引き締め直す。
「で、話って何?」
「うん。頼みってのは……今日、僕と一緒に海に――」
「却下」
瞬殺だった。
「じゃ、おやすみ」
そのまま僕の方に向けていた顔を天井に逸らしてしまった凛子は、言葉通り再び眠りにつくべく目を閉じてしまった。
「ちょ、ちょっと待って!」
「待たない」
「せっかくの休みなんだし、一緒にどっか行こうよ」
「休みだからって部分と、外に出かけるって部分、ボクには合理的な意味づけが見出せないんだけど? 無駄に疲れる為だけに、出かけたくなんてないからね」
とりつく島もない。
「そもそも、ボクと同じで夏休みになってからずっと家にいる兄ちゃんが、どうこう言える立場かな?」
「えと……だ、だからこそ反省して……」
「何が目的?」
「え? 目的って別に……」
そう言いかけたところで、言い淀んでしまう僕。
目的。
どうして僕は、凛子を海に誘おうとしてるんだろう。
単に海で涼みたいから?
夏の思い出作り?
水着見たさ?
どれも間違ってはいない気はしたけれど、でも何か違う様な、そんな気もした。
目的……そう、僕の目的は――。
「凛子と一緒の時間を過ごしたい、からかな?」
「…………」
「夏の思い出を作りたいとか、水着を見たいとか、海で涼みたいとか色々考えたけど、それって全部『凛子と一緒の時間を過ごした』結果なんだと思う。だから僕の目的は、凛子と一緒にいたいって事……それだけだよ」
無言のまま、相変わらずの仏頂面な凛子。
でもすぐに分かった。
僕の言葉を耳にして、ほんの僅かにだったけれど彼女の頬が赤く染まっている事を。
それは多分、僕以外の誰にも分からないだろう、凛子の感情。
誰よりも側にいて、誰よりも長い時を過ごした僕にしか分からない、大切な妹の、大好きな恋人の変化。
「……兄ちゃん、シャルル・ペローって人知ってる?」
「へ?」
どんな返答をしてくれるか内心どきまぎしていた僕は、全く予想もしない凛子のその一言に間抜け面を浮かべてしまう。
そんな僕の反応も予想の範疇だったんだろう、特に気にした様子も見せずに凛子は、
「十七世紀のフランスの詩人。民間伝承を書き留めた童話集を作った事で有名なんだけど、その中に『La belle au bois dormant』(ラ・ベル・オ・ボワ・ドォモン)って作品があるの」
「う、うん」
「…………」
「…………」
って、それだけ?
それきり黙り込んでしまった凛子は、相変わらず天井を向いて目を閉じたままだった。
多分、今交わした会話の内容から答えを見つけろって事なんだろうけれど、正直何が何やらさっぱりだった。
そもそも『La belle au bois dormant』って何語?
フランスの詩人って事はフランス語の気もしたけど、大して成績も良くない一介の高校生に過ぎない僕にフランス語の意味なんて分かるはずもない。
数分間思い悩んだ挙げ句、結局何の答えも見出す事ができなかった僕は、素直に助け船を求めた。
「凛子、頼む。一回でいいからヒ、ヒントを……」
「んふふ。さすがに兄ちゃんに、フランス語は難し過ぎたみたいだね。じゃあひとつだけ。英訳すると『Sleeping Beauty』だよ」
何か聞いた事があるタイトルかも。
遠い昔、どこかで聞いた記憶があるんだけれど……。
眠っている美、眠っている美――って、もしかして『眠りの森の美女』の事かな。
子供の頃、母さんに読んでもらったグリム童話の中に、そんな話があったっけ。
確かお姫さまの誕生祝いに呼んでもらえなかった魔女が恨んで、糸車の針を指に刺して呪いにかかってしまったお姫さまが百年の眠りについてしまい、最後は王子のキスで目を覚ましてめでたしめでたしな話……だったっけ。
おぼろげな記憶を辿って、どうにかあらすじを思い出す。
でも凛子は、どうして今この場でそんな事を言い出したんだろう。
……ん?
眠ったままのお姫さま。
眠ったままの凛子。
ああ、そうか。
ようやく僕は、凛子が何を求めていたのかを理解する。
要するに目覚めのキスをしてくれたら起きなくもないと、そう言う事らしい。
って、キス!
別に初めてって訳でもないんだからそんなに驚く事はなかったけれど、凛子にしては随分と回りくどいやり方でそんな事を言い出してきたのが、ちょっと新鮮だった。
兄妹だった僕たちが、恋人として付き合い始めてからそろそろ八ヶ月。
偶然手に入れた「こころナビ」をきっかけに変わり始めた僕と凛子の関係は、今も少しずつだったけれど変わり続けていた。
世間の常識では、決して許されるはずのない関係。
でも僕たちはそれも含めて全部納得の上で、今こうしている。
僕にとっては凛子と一緒にいられるだけで十分だったし、そしてその凛子が求めている事を拒む理由もなかった。
よし……心の中で活を入れてから、ゆっくり顔を近付けていく。
徐々に彼女の顔が近付く。
その表情は穏やかで、まるで本当に寝ているみたいに感じられた。
やがて、唇が温もりを覚える。
「ん……」
微かに声を漏らす凛子。
そっと舌を伸ばした僕は、彼女の閉ざされたままの唇を軽くノックする。
躊躇う様に微かに震えた彼女の唇は、でもすぐに僕に対して門戸を開いてくれた。
するりと、遠慮なく侵入する僕。
お互いの舌を重ね、ねぶり、吸い、突く。
同時に、唾液の絡む湿った音色が耳に響いた。
「……ふ……んんっ」
小さく漏れる蠱惑的な吐息が、僕の頭にじんと痺れる様な感覚を生じさせてくる。
どれくらいそうしていただろう。
時間にして一分ほどだったかもしれない。
凛子とのキスを十分に堪能した僕は、ゆっくりと顔を離していく。
名残を惜しむ様に、互いの間につっと細く長い唾液の糸が伸びていった。
「……ふぅ」
小さくため息を漏らした凛子は、それからゆっくりと、キスしている間もずっと閉じたままだった瞳をゆっくり開いていく。
十センチほどの距離を挟んで、交錯する視線。
どうしてだろう、その彼女の瞳の奥にどことなく非難の色が見え隠れしている様な、そんな気がした。
もしかして、やり過ぎたかな。
勢いに任せて舌まで入れちゃったけど、キスはキスでももっと軽いフレンチキスを凛子は求めていたのだろうか。
でもそんな僕の心配をよそに、上気した肌の中、微かに目を細めた凛子は、何事もなかったみたいに穏やかな口調で朝の挨拶を口にした。
「おはよう、兄ちゃん」
僕のお姫さまは、ご機嫌麗しく百年の眠りから目を覚ましてくれたみたいだった。