『いちばん遠い恋』
Update:2007.01.15
「夏 -海と彼女と水着とスイカ-」
Scene3 AM8:23
賑やかな蝉の音。
ミンミンゼミ、クマゼミ、アブラゼミ。
夏の風物詩とも言える様々な種類の蝉たちの声が、羽化して僅か一週間しか持たない命を削る様に鳴り響いていた。
首を巡らせてみる。
右を見ても左を見ても、緑に被われた木々のばかりが映し出される。
頭上を見上げる。
真っ青な、突き抜ける様な夏特有の空が視界一杯に広がっていた。
「……はぁ」
そのままため息を漏らした僕は、視線を元に戻しながらすぐ側に止まっていた車にまで歩み寄ると、開け放たれたリアゲートに頭をぶつけない様に腰を屈めながら、トランクの端に腰を下ろした。
リアゲートが天井代わりになって直射日光を遮ってくれているお陰で、さっきよりほんの少しだけ過ごしやすくなった気がする。
「うーん、やっぱりこっちの道の方がええのかな?」
背後から聞こえてくる、みまりさんの声。
「いえいえ初瀬さん、そのルートではたとえ無事たどり着けたとしても、余り美しい結果にならないと思われますが」
「そうなんか」
「ええ、そうですとも。やはりここは――」
運転席に座るみまりさんと助手席の暮林君は、地図を間に挟んでさっきからずっと話し込んでいた。
あーでもないこーでもないといつ終わるとも知れない議論を続ける二人の間には、今時は付いているのが当たり前なカーナビの姿があった。
あれがあって、どうして――。
そこまで考えたところで、思考を一時中断した僕は、改めて車の周囲に広がる光景に目を向けてみる。
そして、ため息混じりに改めて思った。
――どうして、道に迷っちゃうかなぁ。
それが今の僕の、嘘偽りのない心境だった。
目覚めのキスを無事(?)に済ませて凛子を眠りの森から連れ出し、小春も含めた参加メンバー全員の出発用意が調ったのは、最初の電話から三十分後の事だった。
ドライバーは、もちろんみまりさん。
助手席でナビ役を勤めるのは暮林君。
そして後部座席には小春、僕、凛子の順番で乗り込んだ。
みまりさんには「両手に花やね」とからかわれたけれど、僕としては窓側を女の子に譲った結果そうなっただけなので「あはは」と曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
「じゃあ、準備オッケーって事で……そろそろ行こか」
そう言いながらみまりさんは、運転席と助手席の間に備えられたナビの画面をピッピッと何度か押し、行き先の設定をしていく。
『目的地の設定が完了しました。ルート指示に従って運転してください』
程なくスピーカーから、ナビの音声メッセージが発せられた。
「しゅっぱーつ、しんこーう!」
目も覚めてすっかりいつもの調子になった小春が、無駄に元気よく右手を振り上げながら気勢を上げた。
相変わらず、朝っぱらからテンションの高い事で。
そう言えばと、凛子のいる方に目を向けてみると……頬杖を付きながら、無言で窓の外を見つめていた。
まぁ以前に比べれば大分マシにはなったけれど、常々「家族以外の人間とコミュニケーションを取る気はない」と公言してきていただけに、この場でも無駄口をきくつもりは毛頭ないみたいだった。
小春や暮林君はともかく、みまりさんとは初対面だしなぁ。
なるべく僕が、凛子とみんなの間を取り持つ様にしないと……そんな事を、彼女の横顔を見ながら思ったりする。
その時だった。
「……?」
僕の視線を感じ取ったたんだろう、凛子が目線だけをこちらに向けてきた。
言葉にはしなかったけれど、「なんか用?」と言いたそうな顔つきだ。
その眼差しにちょっとだけ悪戯心を刺激された僕は、視線を泳がせながら周囲の様子をうかがってみる。
運転席のヘッドレストにかぶりついて身を乗り出している小春は、前しか見ていない。
みまりさんと暮林君も、特にこっちを気にしている様子はなかった。
それだけを確認して「よし」と小さく頷いた僕は、左手をそっとすぐ側に投げ出されていた凛子の左手に重ねてみた。
「…………」
ちょっとは驚いてくれるかと思ったけれど、凛子の表情に特に変化はなかった。
うーん、相変わらず動じるという事を知らない妹だ。
心の片隅でそんな変な感心をしているうちに、やがて何事もなかったみたいに視線をふいと動かした凛子は、再び窓の外に向けてしまった。
そう言えば、前にもこんな事があったっけ。
ええと、ああそうだ。
あれは確か四ヶ月ほど前――二人で温泉宿に行った時の事だ。
確かあの時は僕が寝こけている間に、いつの間にか凛子が手を握ってくれていた訳だから、ちょっと状況は違ったけれど。
でも肌を通して伝わってくる温もりは、あの時と変わらなかった。
凛子が何の反応も示してくれなかったので、僕的にはちょっと当てが外れた悪戯だったけれど、だからといってこのまま離してしまうのも勿体なかったので、ちょいちょいと手のひらの上に置いた彼女の手を浮かせて遊んだりしてみる。
相変わらず、反応はなかった。
すぐ側に僕たちの関係を知らない人たちがいるのに、そんな場所で手を繋ぐ僕と凛子。
他に誰もいない二人きりの時でもかなりドキドキしたけれど、こういうシチュエーションで手を繋ぐのも違った意味でドキドキ物だった。
誰にも言えない恋。
近いはずなのに、でもとても遠い恋。
それが僕と凛子の恋。
もし今、ここにいるみんなが僕たちの関係を知ってしまったら、一体どんな反応を示すのだろう。
そんな事を思った途端、胸がちくりと痛んだ。
でもすぐに、かぶりを振る。
自分の妄想で落ち込んでどうするんだって……自嘲気味に口許を歪めながら気持ちを切り替えた僕は、改めて意識をフロントガラスの向こうにある外界の風景へと向けた。
車は、順調に目的地に向かって進んでいる様子だった。
よくハンドルを握ると普段大人しい人が暴走ドライバーに豹変する――なんて話を聞いてたけれど、みまりさんに限っては特にそんな事もなく、いつもと同じのんびりした様子で運転をしている。
「みまりさん、目的地までどれくらいかかるんですか?」
後席からちょっと身を乗り出しながら、訊ねてみる。
「そやなぁ。道が込んでへんかったら、大体一時間半くらいちゃうかな」
時計を見ると、今は七時四十分。
「じゃあ、九時過ぎくらいには海に着きますね」
「そやね」
「んーっ。今から楽しみ。勇太郎、着いたら競争だからね」
「小春と競争したって、僕が勝てる訳ないじゃん」
「みはは。だから楽しいんじゃないのよ」
要するに、僕はカモって事か。
そこまで言われると、逆に対抗心がメラメラとわき上がってきた。
『百メートル先の交差点を、右折してください』
その時、出発してからずっと沈黙を守っていたナビが、久しぶりに声を発した。
少し先に立てられている道路標識を見ると、右折した先に高速道路のインターチェンジがあるらしい表示があった。
あれに乗るのかな、多分。
「あ」
そう思った瞬間、みまりさんの小さな声。
え、と思った瞬間には、曲がるはずの交差点を通り過ぎてしまっていた。
「…………」
「…………」
どうコメントした物か、誰もが困った挙げ句に生じた沈黙。
そんな気まずさを打ち破ってくれたのは、その場の空気なんて読めるはずもないナビの冷静なツッコミだった。
『新しくルート設定しました。変更されたルート指示に従って運転してください』
「はは、曲がり損ねてしもたわ。次の角でちゃんとリカバーせな」
照れ隠しっぽく小さく笑ったみまりさんは、次の交差点でウィンカーを出して、今度こそ道を曲がった……左に。
「って、みまりさん! なんで左折なんですか」
「え? だって元の道に戻らなあかんやん」
きょとんとした表情を浮かべながら、みまりさんは首を傾げるばかり。
だってナビのルートは、次の角を右折になって……って言おうとした時には、ナビはもう新しいルートに切り替わっていた。
『新しくルート設定しました。変更されたルート指示に従って運転してください』
たった今、聞いたばかりのメッセージがまた流れる。
でも当のみまりさんは、別段気にした様子もなく、
「あんな、左折三回分は、右折一回と同じなんよ。だからあと二回左に曲がれば、さっき通り過ぎてしもた道に戻れるて」
ちょっと考えてみる……ああ、なるほど。
「確かに。その通りですね」
僕と同じ思考を経て、同じ結論に達した暮林君が頷く。
「最終的に海にたどり着ければ、別にそれでいいじゃない。ちょっと道間違えたくらいで、勇太郎うるさすぎ」
と、小春は特に気にした様子もない。
「…………」
興味がないのか、話に加わる気がないのか、ノーコメントな凛子。
うーん、僕の気にしすぎなんだろうか。
確かに理屈ではみまりさんの言う通りだったけれど、特に根拠もなかったのにどうしてか嫌な予感がした。
次の角を求めてしばらく進むうち、道なりに右に大きくカーブした先に求めてやまなかった交差点を発見する。
「お、あったあった」
宣言通り二度目の左折をしたみまりさんは、さぁあと一回で元の道やと、僕の方に視線だけ向けながら口を開いた。
……何だろう、この違和感は。
何か間違ってる様な気がするんだけど、でも何が間違ってるのか分からない。
そして……気が付くと、こんな場所にいた。
右を見ても左を見ても、山、山、山。
今になってようやく、あの時一体何に違和感を覚えたのかに僕は思い至った。
要するに、みまりさんの言葉には一部誤りがあったのだ。
三回左折すれば、一回右折するのと一緒――確かにその通りだったけれど、でもそれは直行する道を曲がる場合の話だった。
そう、二度目の左折前に「道なりに右に大きくカーブ」した時点で、一回右折したのと同じ結果になってしまっていたんだ。
だからその後、どれだけ直進し続けても高速の入り口は見つからず、四人揃って「おかしいおかしい」と言ってるうちに、こんな場所にまでたどり着いてしまった訳だった。
どう見ても、ここは山だった。
海に向かったはずなのに、いつの間にか山に来てしまっているこの現実。
現実は小説より奇なり、とはよく言った物だ。
ちなみにみまりさんと暮林君は、さっきから「いかに左折だけで海にたどり着くか」のルート設定に四苦八苦している。
どうしてそんな面倒な事を、と誰もが思うだろう僕からの疑問に対する、みまりさんからの回答は、
「実はな……うち、右に曲がるのちょう苦手やねん」
つまりはそういう事だった。
ホントに、ちゃんと海にたどり着けるのかな……。
相も変わらず耳が痛くなるくらい遠慮なく鳴き続けている、蝉の声をぼんやりと聞き流しながら前途の多難を思いやる。
すぐ側で人の気配がしたのは、その時だった。
呆けていた意識を慌てて引き戻し、気配がした方に目を向ける。
「凛子?」
僕と小春が車を降りてからも、外は暑いからここでいいと、ずっと中で涼んでいたはずなのにどうしたんだろう。
「ずっと座りっぱなしで、お尻が痛くなってきたからね。気分転換」
僕が何も言わないうちに勝手にそう説明してくれた凛子は、跳ね上がったままのリアゲートに手を付きながら腰を屈めると、そのまま僕の横にすとんと座り込んだ。
「……兄ちゃんさ」
「ん?」
しばしの沈黙の後、ぽつりと口を開く凛子。
「ここ、暑い」
「そりゃまぁ、車の中に比べたら暑いだろうけど……」
「まったく、何が楽しくてわざわざ汗をかきに外に連れ出されなきゃいけないんだか。ボクには理解不能だよ」
ここに着くまで車の中で一言も口をきかずにずっと黙りこくっていたのは、もしかしてヘソを曲げてたせいなんだろうか。
そりゃまぁ、僕が無理矢理連れ出した様な物だけど。
「でもさ、ずっと家に籠もりっぱなしってのも勿体ないじゃないか。せっかくの夏休みなんだからさ」
「ふん……関係ないね。夏を味わいたければ、真夏の設定にしてあるバーチャルスペースにラウンドすれば済む話なんだから」
「でもさ、それってどんなに夏っぽくても、結局は疑似体験だし」
「ふーん。本当にそう思ってるんだ」
「え?」
凛子の意外な反応に、思わず驚いてしまう。
でも当の凛子は、僕の事をじっと見据えながら微かに目を細めて見せると、
「ここが現実じゃなくて、仮想だったとしたら……兄ちゃんどうする?」
「仮想って、そんなバカな」
そう言いながら、僕は周囲を見渡す。
鬱蒼と生い茂る木々を張り付かせた山肌。
四方八方で鳴り響く蝉の声。
綿雲がぽっかりと浮かび流れる青空の、その向こうから射し込んでくる夏の日射し。
じっとりと浮かび上がる汗と微かに吹いてくる風。
どう考えても、現実以外の何物でもなかった。
「兄ちゃんさ、覚えてる? 蘭煌とリュウヤで肌を重ねた時の事」
「も、もちろん。忘れる訳ないだろ」
「じゃあ、あの時感じた感触も感情も快感も、全部ただの作り物……疑似体験に過ぎないって断言できる?」
「そ、それは……」
確かに、普通ならそんな事はありえないはずだった。
でも今の僕たちには『こころナビ』があった。
凛子は蘭煌と、僕はリュウヤと人格融合する事で、ネットでありながらリアルと何ら変わらない感覚を維持し続ける事ができた。
あの時感じた、蘭煌の肌の温もり。
あの時聞いた、凛子の言葉。
そのどちらも、僕にとっては否定し難い現実に違いなかった。
「前に話さなかったっけ。ボクが『こころナビ』を改造してるって事」
「え? って、まさか!」
「もしかしたらここは、ボクが作ったバーチャルスペースで、ボクと兄ちゃんはラウンダーなのかもしれないよ」
そこまで言ってから、悪戯っぽく目を細めて見せた。
えーまさかなぁ……。
でも、凛子ならもしかすると……。
いやいや、さすがにそれは……。
凛子のそっち方面の知識と技術の深さがプロ顔負けだって事はよく知っていたから、一笑に付せないところがちょっと怖かった。
内心で煩悶する僕だったけれど、多分顔にもそれが出ていたんだろう、くすりと小さく笑みをこぼした凛子は、
「んふふ、嘘だよ。相変わらず、兄ちゃんはたーんじゅん」
「何だ、悩んで損した」
「でもボクと兄ちゃん、このままの姿でラウンドできないかなって、色々調べたりはしてるけどね」
「それって一体――」
「あ、いたいた」
僕の言葉を遮って登場したのは、体力を持て余していたのか辺りを散歩してくると言って姿を消していた小春だった。
「その角の向こうにコンビニがあったから、買ってきちゃった」
そう言って見せびらかす様に両手で差し出されたのは、カップアイスだった。
ひーふーみー、三つ縦に重ね置いてある。
僕と凛子の分も一緒に買ってきてくれるとは、小春にしては気が利いてるかも。
「えっと……はい、これは凛子ちゃんの分ね」
差し出されたアイスに凛子は、どうしてか一瞬だけ躊躇う素振りを見せたけれど、結局素直に受け取る。
「ありがと、小春ちゃん。あ、お金……」
「みはは。いいっていいって、あたしの奢りだから」
その言葉を、聞き逃さなかった。
だからすぐさま僕は、
「ごちそうさん、小春」
そう言いながら、右手を差し出した。
「はぁ? 何、この手?」
「え。だって、アイス奢ってくれるんだろ?」
目の前に差し出された手と、自分の手元にある残り二個となったアイスを見比べて、小春は僕が言わんとした事を理解したらしい。
でも、すぐに冷たい眼差しを浮かべて見せると、
「あ、もしかしてこれアンタの分だと思ってる? そんな訳ないでしょ。これはあたしと初瀬さんの分。野郎共の分なんて、端から買ってないわよ」
「えー」
「えー、じゃない! ホントなら、男のアンタが気を利かせてあたしたちの分を買ってくるべきじゃない」
そう一言、びしっと僕の鼻先を指差しながら断言する。
「う……」
そこまではっきり言われてしまうと、さすがに返す言葉がない。
「って事で、早くしないとアイス溶けちゃうから行くわよ。いい? そのアイスは凛子ちゃんの分なんだから、奪い取ったりするんじゃないわよ」
酷い言われ様だ。
いくら何でも無理矢理奪ってまで食べる訳――って、もういないし。
ちょっとだけトホホな気分になりながら凛子の方を見ると、僕と小春の会話なんて気にした風もなく、早速アイスをぱくつき始めていた。
「ん……冷たくておいし」
言葉通り、微かに目を細めて楽しげな表情を浮かべる凛子。
……あ。
凛子は普段からあんまり喜怒哀楽を表に出さない質だったから、こういう風な年相応な女の子っぽい顔つきを見るのは、ちょっと新鮮だった。
うん、やっぱりどんな表情をしても、凛子は可愛いな。
これって、単なる兄バカなんだろうか。
「どしたの、兄ちゃん?」
じっと自分の事を見つめているのに気付いた凛子が、小首を傾げる。
そしてちょっと思案した後、
「もしかして食べたい?」
そう、アイスを盛った匙を手にしながら訊ねてきた。
どうやら僕の視線を、アイスクレクレ光線だと間違った方向に解釈したらしい。
「んふふ。しょうがないな、兄ちゃんは」
「え?」
どういう風の吹き回しか、小さく笑みをこぼした凛子は、手にした匙を僕の方に差し出してくる。
「はい、あーん」
「え、えっと……あーん?」
一瞬どう反応した物か戸惑ってしまった僕だったけど、すぐに気を取り直すと言われるがままに口を開く。
舌の上に置かれるアイスの塊。
そのまま匙をも食わえたまま、口の中で溶けていくアイスを味わう。
「んぐんぐ……冷た――」
「あーーーっ!」
「んぐっ」
唐突にすぐ横から響いた叫び声に、驚きで数センチほど飛び上がってしまう。
慌てて見ればそこには、いつの間に戻ってきたのか小春の姿があった。
しかも何だか偉くご立腹な様子。
「アンタねぇ……さっきあれほど、凛子ちゃんのアイスを取るなって言っといたのに……」
「いや、僕は別に……ええっ!」
ふと、手に何かを持っている感触があったので視線を落とすと……そこには、ついさっきまで凛子が持っていたはずのカップアイスがあった。
「え? いや、これは、その……り、凛子っ!」
助けを求めた凛子は、どうしてか僕から顔を逸らしながら肩を震わせていた。
うぅ……絶対笑ってるよ、あれは。
「勇太郎ーっ!」
鼓膜を突き破らんばかりの、小春の声。
その怒声を聞きながら僕は、どうやら自分が凛子の仕掛けた巧妙な罠にはめられたらしい事を自覚した。