『いちばん遠い恋』
Update:2007.02.10
「夏 -海と彼女と水着とスイカ-」
Scene4 AM10:42
「青い空と海、白い雲、そして耳朶に響く潮騒――やはり夏の海とは、何物にも替え難い素晴らしい景観だね」
すぐ横にいた暮林君が、誰に言うでもなしに呟いた。
空を仰ぎ見ながら両手を広げるなんて、一緒にいるこっちがちょっと恥ずかしくなるくらいの大げさなジェスチャーを見せながら。
同時に近くにいたカップルやら家族連れやらの海水浴客たちが、何事かといった様子でこっちに目を向けてくる。
し、視線が痛い。
「……そ、そうだね」
ようやくそれだけを口にする僕。
「ん、どうしたんだい今関君?」
どうして言葉を濁したのか暮林君には理解できなかったんだろう、小首を傾げる彼に僕は苦笑を浮かべるしかなかった。
「いや、別に……そ、それよりみんな遅いね」
「フフッ。洋の東西を問わず、レディとは身支度に時間がかかる物だよ」
財布と一緒に持ってきた携帯で時間を確認する。
十時四十二分。
ここにたどり着いたのが十時過ぎだったから、かれこれ三十分近く待っている事になる。
着替えなんて服を脱いで水着を着るだけのはずなのに、どうして女の子ってこんなに時間がかかるんだろう。
実際、僕と暮林君なんて物の五分とかからず準備完了していたし。
着替えかぁ。
「おや、小春さんって脱いだらますます凄いタイプなんやね。どれどれ」
「うきゃっ! は、初瀬さんっ! にゃ、にゃにを……」
「ぷにぷにのふわふわや。ええなぁ、うちもこれくらいあったら言う事なしなんやけどなぁ」
「んふふ。小春ちゃんのは、両手で掴んでも余るくらいのボリュームだよね」
「り、凛子ちゃんまでっ!」
「確かに、指の間からこぼれ出る感じやね。ほら、半分あげるさかい凛子さんもやってみ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「は、半分て……はみゅっ!」
もしかするとこんな風に、着替え終わるまで女の子同士のチェックが入ったりするせいで遅いのだろうか?
ちなみに僕の中では、満場一致で弄られ役は小春に確定だった。
どう考えてもあの三人の中じゃ小春が一番隙がありそうだし、何よりリアクションが楽しそうだからなぁ。
って、しまった。
不埒な想像をしていたせいで、身体の中で一番コントロールが効きにくい部分が勝手に反応し始めてしまった。
海パン一枚の状態でこれは非常にマズイ。
慌ててかぶりを振って頭の中からピンク色の妄想を追い出すと同時に、身体のコントロールにこれ努める。
心頭滅却心頭滅却――。
「お待たせーっ!」
背後から声がしたのは、どうにか僕が元のコンディションを取り戻せた頃だった。
見れば更衣室も兼ねている海の家の方から、凛子とみまりさん、そして小春の三人がこっちに向かって歩いていた。
「三十分も何やってるんだよ。待ってる間、暑さで溶けるかと思ったよ」
先頭を歩いていた小春に悪態をつくと、むっと眉根を寄せた彼女は、
「男と違って、女の子は準備に色々かかるのよ。もぅ、勇太郎にはデリカシーって物が無いのよね」
「女の子ねぇ……小春が言うと、イマイチ説得力がないんだよなぁ」
「にゃにおーっ」
「大体さ、その格好はなんだよ」
「ん?」
僕の言葉に小春が、自分が着ている水着に視線を落とす。
「何か変? どう見たって、普通の水着じゃない」
「いや、水着は水着だけどさ……」
小春が着ていたのは、いわゆる競泳用の水着だった。
水の抵抗を減らす為なんだろう、肌に張り付いた布地は小春の身体のラインを否応なしに浮き出させていた。
海というより、学校のプール辺りで見た方が違和感のない格好だ。
おまけに頭の上には、水中メガネまで掛けてるし。
「あたしは海に泳ぎに来たんだから、その為の格好をして何が悪いってのよ」
素直に疑問に返ってきたのは、そんなとりつく島もない言葉だった。
確かにスポーツ少女の小春からしたら、海だろうがプールだろうが「泳ぐ」という目的からしたら大差ないのかもしれない。
「にしても、見事なまでの部活焼けだな」
「う、それは言わないで……」
僕の言葉通り小春の肌には、夏休みに入ってからのソフト部の練習で作ったらしい、部活焼けがくっきりと刻まれていた。
要するに二の腕から先と太ももから下は黒い日焼けに被われ、一方でそれ以外の部分が真っ白だった。
これで顔が白黒だったら、見事なまでのパンダ娘の一丁上がりだ。
「このまま更に焼いたら、みっともなさ倍増じゃないか?」
さすがに思った事をそのまま口にしたらグーで殴られる事必定だったので、もうちょっとソフトな言い回しに変えてみる。
「あ、あたしだってちゃんと考えてるわよ! 焼けてるとこに日焼け止め塗って、焼けてないとこに日焼けクリーム塗れば、ちょうど良くなるでしょ」
「そう上手くいくかな?」
「ムキー、いちいちうるさいわねっ!」
いきなり逆ギレした小春が繰り出してきた拳を、紙一重で避ける。
バランスを崩して倒れ掛けた僕は、ぎりぎりのところでどうにか踏み止まる事ができた。
「あ、危ないな。いきなり何するんだよっ!」
「うるさいうるさいうるさい!」
「まぁまぁ、二人とも喧嘩なんかせんで仲良ぅな」
会った早々始まってしまった僕と小春の口論は、でもすぐ後ろを歩いていたみまりさんが宥めに入った事で、流血を見る事無く収まった。
「ごめんなぁ。小春さんの胸で遊んでたらえらい遅なって――むぐむぐ」
「み、みははははは」
みまりさんのトンデモ発言に、慌てて彼女の口を押さえる小春。
ホ、ホントにやってたのか……。
思わず知らず、つい先刻まで脳内で繰り広げていた痴態を追想してしまう。
「ん? どないしたん、勇太郎さん?」
きっとぽややんとした表情を浮かべてしまったんだろう、僕の顔を覗き込んできたみまりさんが小首を傾げながら問いかけてくる。
「あ、いえいえ。何でもないです。みまりさんの水着にちょっと見とれてしまって」
みまりさんは、黄を基調としたセパレートを身にまとっていた。
腰から下を覆い隠しているパレオが、何とも言えない大人っぽさを演出している。
普段は白の水引で結んでいる髪が、今日は朱のリボンで結わえられているのがちょっとしたアクセントになっていてグッドだ。
「ははは、勇太郎さんはお上手やね。でもな、今の言葉はうちより小春さんに言うたらなあかんよ。きっと喜んでくれるから」
「そうですかねぇ」
「女の子ってな、そういうもんなんよ」
とは言え、どう見ても海には場違いな競泳水着姿の小春をどう褒めた物か、僕にはよく分からなかった。
「鼻の下伸びてるよ、兄ちゃん」
小春とみまりさん、二人の後ろ姿を眺めていた僕の肩越しに声を掛けてきたのは、少し遅れて歩いていた凛子だった。
凛子の水着は、白が基調のワンピースだった。
ちょうど左胸の上辺りで交差する形で十字を描いている数センチ幅の黒のラインが、ワンポイントになっているデザインだ。
シンプルイズベストの凛子らしい水着かもしれない。
ただ惜しむらくは……薄いピンク色のパーカーを肩に羽織っているせいで、全身の水着姿を拝めない点だろうか。
「何か、あからさまにがっかりしてるのが分かるんだけど……」
「え、いや。そ、そんな事はないって」
「もしかして、露出が少ないのが不満?」
そう言いながら凛子は、水着の首元の生地を引っ張って見せる。
「不満って訳じゃないけど、ほら前にプールで水着を買ってあげた時はセパレートを選んでただろ。だからてっきり今日も、そうなのかなぁって」
「あのね……兄ちゃんも知ってるでしょ」
僕の言葉に、呆れた様に小さくため息をつく凛子。
「え、何が?」
「ボクの肌が弱い事。屋内プールならともかく、海であんな露出度の高い水着を着るなんて自殺行為だよ」
「あ……そっか」
そこまで言われてようやく理解した。
肌が弱いせいで、身体を洗うにもスポンジを使わずに手を使うくらいなんだから、直射日光に晒された日にはとんでもない事になるに違いなかった。
水着がワンピースだったのもパーカーを着込んでいるのも、全部肌を守る為の凛子なりの配慮だった訳か。
海に行くって事できっと舞い上がってしまっていたんだろう、本来なら言われる前に気付いてあげるべきだったのに、その辺りの配慮を全然してあげる事ができていなかった。
「ごめん、凛子」
「どうしたの、突然」
「いや……凛子の肌が弱いのは僕だって知っていたはずなのに、そんなのお構いなしに海に連れて来ちゃったし」
そう言ってしょんぼりと肩を落とす僕を前に、凛子はくすりと小さく笑うと、
「別にそんなの気にしなくていいよ。兄ちゃんの事だから多分そうだろうと思って、ボクもそれなりに準備してきてあるから」
「うぅ、面目ない」
「それよりさ、まだ聞いてないんだけど」
「何を?」
「ボクの水着の感想」
くるりとその場で一回転しながら、問いかけを口にする凛子。
凛子が気にしてないって言ってるのに、いつまでも落ち込んでいても仕方がないので、慌てて気を取り直した僕は、
「うん。とってもよく似合ってると思う。凛子には、そういったシンプルなデザインが合ってるよね」
「んふふ、頑張って選んだ甲斐があったよ。ありがと」
「あ、そう言えば。それって車に乗る時、持ってたっけ?」
僕が指差したのは、凛子の頭の上に載っている麦わら帽子だった。
帽子の部分に白いリボンが巻かれた、僕が被るより凛子の方がお似合いの女性向けっぽいデザインだ。
「うん、さっきそこで買ってきた」
視線の先には、海の家。
「バイザーだと顔しか日避けできないし、ちょっと野暮ったい感じだけどこれなら頭も首も大丈夫だからね」
「んー。その帽子も込みで、僕は似合ってると思うけど」
それは偽りのない思いだった。
白のワンピース、パーカー、そして麦わら帽子……それは普段家では決して見る事ができない凛子の姿だった。
それを見れただけでも、今日ここに来て良かったと思った。
「おーい、勇太郎ー! 凛子ちゃーん!」
遠くから、僕たちを呼ぶ小春の声。
百メートルほど離れた場所から、こっちに向かって小春が大きく手を振っていた。
彼女のすぐ横では暮林君が、車から持ってきたビーチパラソルを立てる作業に取りかかっている。
どうやら、あそこをベースキャンプにするらしい。
「兄ちゃん、行こ」
「ああ」
先に歩き始めた凛子の後を追って、僕に割り当てられた荷物――ビーチボールやら浮き輪やらクーラーボックスを抱えながら歩き出す。
歩きながら、辺りの様子を改めて確認する。
全長一キロほどの遠浅の海岸には、僕たちを含めて百人ほどの海水浴客がいるだけだったから、芋洗いという程の込み具合じゃなかった。
点々と五、六メートルほどの間隔を置いて立ち並ぶ、他の人たちのビーチパラソルの横を通り過ぎていく。
残り十メートル程のところで、数歩前を歩いていた凛子が肩越しに振り返った。
「あ、そうそう。兄ちゃんに、後でお願いがあるんだけど」
「いいけど、何?」
「日焼け止め塗るの、手伝って」
「え、僕が? うん、別に構わないけど」
唐突な申し出だったので面食らったけれど、クリーム塗りなんて人前で大っぴらに凛子の肌に触れる機会、頼まれれば喜んでやるに決まっている。
ただ、前に向き直る寸前に凛子が浮かべて見せた悪戯っぽい笑みだけが……ちょっとだけ気になった。
「二人とも、遅ーい。あたしなんかもう、準備体操終わっちゃったよ」
僕たちを出迎えてくれたのは、頬を膨らませながら紡いだ小春のそんな台詞だった。
「小春はせっかちすぎ。って言うか、そんだけ元気が余ってるならパラソル立てるのくらい手伝えよ」
「もう終わってるんだから、いいじゃない」
確かに彼女の言う通り、みまりさんの手で敷かれたビーチマットの上に僕が持ってきた荷物を置いた時点で、準備らしい準備は終わっていた。
「って事で、ほら勇太郎行くよ」
「行く、ってどこに?」
「車ん中で話したでしょ。海に着いたら競争するって」
そう言われれば、そんな話をした気もする。
よもや、本気でやるつもりだったとは思いもしてなかったけど。
「ほら、向こうに離れ小島があるでしょ。あそこまで往復して、先に戻って来た方が勝ちね」
「ちょ、ちょっと待てって。あの島、どう見ても二、三キロは離れてるぞ」
「ちょうどいい距離じゃない」
平然とした様子で、そう言ってのける小春。
いやまぁ確かに体力が有り余ってる小春にはちょうどいいのかもしれないけれど、僕がやったら間違いなく途中で力尽きる。
来た早々、溺れて救助されるなんて間抜けな事態はできれば避けたいなぁ。
「パスパス。大体、僕はまだ準備運動もしてないんだぞ」
「相変わらず鈍くさいんだから、勇太郎は。いいわよ、あたし一人で行ってくるから、大人しく留守番でもしてれば」
そう悪態を吐くや否や、こっちの返答なんてお構いなしにぴゅーっと風の様な勢いで海に向かって掛けだしてしまった。
「小春さんは元気やねぇ」
僕たちのやりとりを横で見ていたみまりさんが、のんびりした調子で口を開く。
「はは、いつもあの調子で振り回されちゃうんですよね。困ったヤツです」
「でもええの? 何かえらいご機嫌斜めになってたけど」
「大丈夫ですよ。戻ってきたら『あー気持ちよかった。みはは』とかケロッとした顔してると思いますから」
実際、そうなるだろうと思っていた。
小春って昔から感情の喜怒哀楽がはっきりしたヤツだったけれど、良くも悪くも後に引きずるって事がないんだよなぁ。
いわゆる姉御肌ってヤツだろう。
ソフト部でもあんな感じで、先輩後輩を問わず慕われているに違いない。
人付き合いが苦手でなかなか友達を増やす事ができない僕としては、その点に関してだけは素直に羨ましいと思った。
「倉持さんを見習って、私も海水浴を満喫するとしようかね。ああ、心配には及ばないよ。溺死なんてした日には、私のこの美しい身体が目を覆わんばかりの醜悪な姿形になってしまうだろうから、無茶をして溺れるなんて事は決してしないから」
すぐ側で準備体操を始めた暮林君が、聞きもしないのににこやかな表情を浮かべながら恐ろしい台詞を口にして見せる。
うん、まぁ自分をこよなく愛する暮林君からすれば、溺死は一番避けたい死に様なんだろうけれど……この場で口にするには、やっぱり物騒な内容だなぁ。
彼の言葉に僕たちは、「あはは」と愛想笑いを浮かべるしかなかった。
会話の内容はともかく、さて僕も準備運動を――と、そこで思い出した。
海に浸かる前に、凛子からの頼まれ事を片付けておかないと。
「凛子」
彼女の名を呼ぶと、それだけで僕が何を言おうとしたのか理解したらしい凛子は、荷物の中から日焼け止めのチューブを取り出し、こっちに差し出してきた。
「前と横は自分でできるから」
「う、うん」
機先を制されて、ちょっとがっかりな僕。
いくら大義名分があるとはいえ、さすがに公衆の面前で凛子の胸に僕が日焼け止めを塗ってあげるなんてできるはずもない。
って事は、僕の分担は――。
「それじゃ……背中をお願い。兄ちゃん」
まぁそれが普通だよな。
了解と口にしながらチューブの蓋を開けた僕だったけれど、凛子が次に見せたアクションに思わず手が止まってしまう。
「え?」
パーカーを脱いだ凛子は、何故かそのまま水着の肩紐も外し始めたのだ。
「ちょ……り、凛子!」
「ん。何、兄ちゃん?」
そう問い返してくる間も凛子は水着を脱ぎ続け、結局腰まではだけたところで彼女の動きはようやくの事で止まった。
一応、胸は腕で覆い隠していたけれど……うぅ、これは目の毒かも。
みまりさんと暮林君も、ちょっとびっくりした様子だ。
そんな中、ビーチマットの隅に腰を下ろした凛子は、そのまま「よいしょ」と小声で呟きながら俯せに寝転がった。
そこで初めて僕たちの視線に気付いたらしい凛子は、すぐにその意味を理解したのか、
「ああ、ほら……水着着たままだと、塗りムラができるかもしれないでしょ。だから、念のためだよ」
「な、なるほど」
「じゃ、よろしくね」
それで全ての説明が済んだと判断したのか、そのまま目を閉じてしまった。
みまりさんはともかく、暮林君がいるってのに凛子は気にならないのかな……そんな疑問が脳裏に思い浮かぶ。
でもすぐに、凛子はIRISを通じて彼の本質をよく知っている事に気付いた。
そう考えれば、凛子の行動も理にかなった物なのかもしれない。
相変わらず、説明不足な上に強引ではあったけれど。
小さくため息をついてからみまりさんたちに苦笑を浮かべ、そのまま凛子の横に座り込んだ僕は、手のひらの上に日焼け止めクリームを落としていく。
「行くよ、凛子」
「ん……」
まずは背骨のラインを中心に、丁寧にそれを広げていく。
クリームの冷たさに違和感を覚えるのか、時々「んっ」と眉根を寄せながら小さく呟くのが何とも言えず色っぽかった。
「それにしても、勇太郎さんと凛子さんは仲がええんね。うちも歳の離れた弟がいるけど、見習わんとあかんなぁ」
自分も日焼け止めを塗りながら、みまりさんが口を開く。
内心どきりとしてしまった僕だったけれど、すぐに笑みを浮かべると、
「あはは、少し前まではそうでもなかったんですけれどね。でも確かに、最近は仲はいいと思います」
「うんうん、『仲良き事は良き哉』やね」
「妹をいたわる兄の献身――この僕の美しさにも劣らないくらい、美しい光景だ」
二人の軽口に適当なリアクションを返しつつ、手の方は細心の注意を払いながら凛子の肌の上を移動し続けていた。
塗り終わった範囲が広がるにつれて、手の位置が徐々に背中から脇腹の方に移っていく。
……もう少しで胸の方に行っちゃうけど、どうしよう。
二人きりならこのまま気にせず続けちゃうって手もあったけれど、さすがに今この場でそれをやるだけの勇気はなかった。
だから僕は、尾てい骨の辺りを塗り終えてから手を離すと、
「背中は全部終わったよ、凛子」
「ん……ありがと、兄ちゃん」
身体を起こしながら水着を元に戻していく凛子の表情は……少しだけ上気していた。
そりゃそうだろうと、独り合点する僕。
「さて、今度は兄ちゃんの番だね」
「え?」
「お返しに、ボクが背中を塗ってあげるよ。ただ兄ちゃんの場合は日焼け止めじゃなくて、日焼けオイルだけどね」
そう言って、くすりと笑みをこぼす凛子。
いつの間にか手にはサンオイルを持っていて、やる気満々だ。
「じゃあ、お願いするかな」
「うん、頼まれた」
そのまま背後に回った凛子は、字でも書く様に指を動かし始めた。
しばらくの間、僕の背中を伝っていった指先の動きは、やがて収まると今度は手のひらの動きに取って代わった。
今のは何だったんだろう?
「凛子?」
疑問を口にしかけた僕の言葉は、でも凛子の一言であっさり塞がれてしまう。
「兄ちゃんはじっとしてればいいの」
「……はい」
兄の威厳、形無しだった。
作業自体は、何だかんだで自分で塗る分も含めて数分ほどで終わった。
「はい、おしまい」
「さんきゅ、凛子。さて、これで海に入る準備もできたし早速行ってくるかな……って」
そう呟きながら立ち上がりかけた僕の腕を、誰かが後ろからがっしりと掴んできた。
えっ?
慌てて振り返るとそこには、ついさっき不平を口にしながら海に向かって駆けていったはずの小春の姿があった。
その顔には、何を思ってか不敵な笑みが張り付いている。
「こ、小春? 一人で遠泳に行ったんじゃなかったのか?」
「みはは。やっぱ一人じゃつまんないから、勇太郎を拉致する事にしたの。今、準備完了って言ってたよね。さ、行こっ」
有無を言わさぬ口調でそれだけ言うと、僕の左腕に自分の腕を絡めたまま海岸に向かって歩き出した。
「ちょ、ま、待てってば!」
「問答無用」
「誰か、助けてーっ」
思わず救いの声を上げてしまった僕だったけれど、周囲の反応は薄かった。
「いってらっしゃーい」
みまりさんは、にこにこと目を細めながら手を振るばかり。
暮林君に至っては、青空を見上げながらの自分の準備運動に余念が無いらしく、あっさりスルーされてしまう始末。
そして凛子は――。
ビーチパラソルの下、他の誰からも見えない位置から僕に向かってあっかんべーをしたかと思ったら、それきりぷいと明後日の方向に視線を逸らしてしまった。
万事休す。
小春に引きずられながら僕は、がっくりと肩を落とした。