『いちばん遠い恋』
Update:2007.06.12
「ぺりぺり」
「…………」
「ぺりぺり」
「…………」
すぐ横から聞こえてくる、聞き慣れた声。
彼女がその怪しげな呪文を唱える度、僕の二の腕の辺りに誰かが肌をひっかいた様な、そんな微かな感触を覚える。
「ぺりぺ――」
「なぁ凛子」
果たして何度目になるだろう(十回を越えた辺りで面倒になって数えるのを止めていた)呪文が唱えかけられたところで、僕は初めて口を開いた。
「ん、なに?」
「さっきから、何してるんだ?」
「見て分からない? 日焼けの皮を剥いてるんだけど」
「いやまぁ、それは分かるけど……」
僕が聞きたかったのはそういう意味じゃなかったんだけれど、聡い凛子の事だから多分その辺も全て理解した上で、確信犯でとぼけてるに違いなかった。
あれから早一週間。
日が暮れるまでたっぷり浴びた真夏の陽光のお陰か、僕の肌は真っ黒だっだ。
元々インドア派と言うか半引きこもりな僕がこんなに焼けるなんて、小学生以来だったかもしれない。
でもまぁ、これはこれで夏の風物詩と言った感じで悪い気分じゃなかった。
凛子が僕の部屋に来たのは、そんな真っ黒だった肌が日が経つに連れてちょっとずつ剥がれてきて、剥けた皮の下から真新しい白い肌がちらほら見え始めた、そんな時期だった。
「兄ちゃん、入るよ」
「え? あ、ああ……」
ノックもそこそこにドアを開けた凛子は、そのままPCで作業をしていた僕のすぐ横に来ると、何の脈絡もなく冒頭の呪文を唱えながら僕の皮を剥き始めた。
そう言えばここ何日か、夕食の時とか凛子が何かを期待する様な不思議な眼差しで僕の事を見ていた事が何度かあったけれど、もしかしてこれを楽しみにしていたんだろうか。
我が妹ながら、理解困難な嗜好だ。
「なぁ……それって、楽しい?」
「うーん、そうだね。そこそこ楽しいかも。日焼けた皮を剥くのって、何か夏のお約束っぽいじゃない」
「でもそれって、普通は自分のでやらないか?」
素朴な疑問を返した僕に、凛子は不満そうに眉根を寄せると、
「しょーがないでしょ。ボク、全然焼けてないんだから」
自分の腕を、僕の眼前に差し出してきた。
確かに、彼女の肌は同じ海に行ってきたとは思えないくらい真っ白だった。
骨張ってる訳でも肉が付き過ぎてる訳でもない、適度なバランスを保った凛子の腕は、指先から二の腕まで無駄のない綺麗な曲線を描き出していた。
この綺麗な肌を焼いてしまうのは、ちょっと勿体ない気がしなくもない。
「ボクだと、もし日に焼けたとしてもちょっと赤くなるだけで終わりなんだよね」
「あ、そっか。凛子は肌が弱いから、そういう風になっちゃうんだ」
「そそ。それにあの日は、兄ちゃんにも手伝ってもらってたっぷり日焼け止めを塗っておいたから、そもそも日焼けする道理がないんだよね。だから――」
そう言いながら、いきなりスカートをたくし上げる凛子。
「ほら、水着のラインも残ってないでしょ」
「ぶっ!」
ミニスカートの裾が腰まで持ち上げられてしまったせいで、太ももから下着、おへそまで丸見え状態になってしまった。
む、今日はハイレグタイプなのか。
デザインは、相変わらず凛子らしいシンプルな物だ。
確かに凛子の言葉通り、そこには水着の跡すら見当たらない真っ白な肌があった。
って、そうじゃなくて。
この辺の凛子の羞恥心の欠如は今に始まった話じゃなかったので、心中の感想はさておきなるべく冷静に見える様にゆっくりとした動きで、彼女の腕を押さえながらスカートの裾を元通りに下ろしてから僕は、
「ま、まぁ……どうせ放っておいても剥けちゃうんだから、凛子の好きにしていいよ」
こほんと照れ隠しの咳払いをしてから、それだけを口にした。
「じゃ、存分に堪能しよっと」
許可が下りた凛子は、喜々として僕の腕の皮剥きを再開する。
「ぺりぺり……ぺりぺり……」
それから五分ほど、部屋の中を凛子のそんな呟きだけが流れ続けた。
彼女の手の動きが止まったのは、Tシャツが肩までまくり上げられ、その下にあった皮まで剥かれ始めたその時だった。
剥きかけの皮を指で摘んだ状態で動きを止めた凛子は、何かを思い出した様子で「んー、次はあっちか」なんて呟きを漏らすと、
「兄ちゃん、上脱いで」
そんな突拍子もない事を言い出した。
「は? 何で?」
「い・い・か・ら、とっとと脱いで。全裸になれって言ってるんじゃないんだから、別にいいでしょ」
「う……あ、ああ……」
鼻先にずいと指を突き出しながら紡がれた有無を言わさぬその口調に、気圧される様に頷いた僕は、言われた通りTシャツを脱いだ。
「これでいいのか?」
「ん、よろしい。じゃ、確認っと……」
「……?」
意味不明の言葉と共に背後に回った凛子は、そのまま僕の背中をじっと見つめてくる。
五秒。
十秒。
室内を、静寂が支配する。
「ぷっ」
それを破ったのは、凛子の口から突いて出てきたその一言だった。
「くっ……くくくっ……ぷぷっ……」
それは、吹き出しそうになるのを必死に堪えている様な、そんな感じだった。
人前でこんな風に笑い出すなんて滅多にない凛子にしては、珍しい反応だ。
何がそんなにおかしいんだろう。
僕の背中に、何か付いてるんだろうか。
でもあれ……そういや凛子は、予め何かを知ってるみたいな口ぶりで、上を脱げって言ってたっけ。
嫌な予感がした。
「凛子……もしかして、僕が知らないうちに何かした?」
恐る恐る口を開く僕。
そんな僕に凛子は、
「くくっ……じ、自分の目で……あはっ……確かめ……あはははっ……」
とうとう我慢できなくなったらしく、普通に笑い声を上げながら切れ切れに僕の問いかけにそう返してきた。
鏡、鏡……洗面所かっ。
椅子から立ち上がった僕は、笑い続ける凛子をその場に残して部屋を飛び出す。
廊下から階段を一気に駆け下り、風呂場の横にある洗面台の鏡の前に立った僕は、背中をそちらに向けながら肩越しに覗き込む様に、視線を向けてみた。
「……え? え? ええーーーーーっ!」
瞳に映し出された物が信じられず、思わずそんな素っ頓狂な声を上げてしまう僕。
「ちょ……こ、これって……」
鏡に映し出されていたのは、腕と違ってまだ剥ける兆候の見当たらない、真っ黒に日焼けした背中だった。
ただ一面真っ黒になっているはずの背中は、どういう訳か部分的に真っ白なままだった。
皮が剥けたって訳じゃなかった。
どう見ても、最初からその部分だけ日に焼けていなかったとしか思えないくらい、それは意図的な残り方をしていた。
そこにあったのは……背中に一杯に描かれた、上向きの矢印だった。
加えて矢印の傘の下には、柄の部分になる縦線を間に挟んでYとRの文字がくっきりと浮かび上がっていた。
Yは僕の名前、勇太郎のYなんだろう。
って事はRは……凛子のR?
つまり、これって……これって……。
「相合い傘かっ!」
「正解」
思わず叫んでしまった僕に、即座に戻ってくる返答。
「り、凛子っ。これって、お前が……?」
「うん。意外といい出来だよね」
くすくすと、部屋の時よりは落ち着いたのか、微かに瞳を細めながら悪戯っぽい笑みをこぼす凛子。
「いつの間にこんな事……」
「あれ、まだ気付いてないんだ。じゃあヒント。兄ちゃんの背中にオイルを塗ってあげた時、何か感じなかった?」
「え。あの時は確か……あっ!」
そこでようやく思い出した。
そう言えば海で凛子にオイルを塗ってもらった時、最初は手のひらじゃなくて指先で何かしていた様な記憶がある。
あの時は「じっとしてればいいの」とあっさりいなされてしまったけれど、今思えばあれがそうだったんだ。
「最初に日焼け止めで下絵を描いてから、その上にオイルを塗ってみたんだよ。その場の思い付きだったけど、案外上手くいくもんだね」
「まったく……こんな悪戯を仕込んでたとは思いもしなかったよ」
「んふふ。これはね、兄ちゃんはボクの物だって証なんだよ」
「……え?」
今、何か凄い台詞が聞こえた様な気が……。
「凛子、今の――」
「あ、そうそう。兄ちゃん、もう一回背中見せて」
僕の台詞を遮って、何事もなかった様に話題を切り替えた凛子は、僕の両肩に手をかけて背中を向けさせる。
目で確かめる事はできなかったけれど、凛子の視線が背中に突き刺さるのを肌で感じる事ができた。
静寂がその場を支配する。
どうしてか、胸の動悸が高まるのが分かった。
同時に、背中の視線が当たっている場所だけがかっと熱くなってくる。
その時だった。
不意に背中に、柔らかな何かが触れる感触を覚えたのは。
凛子の唇だった。
「り……」
慌てて振り返る。
でも僕のその動きを読んでいたかの様に、既に凛子は洗面所のドアを抜けて廊下に抜け出していた。
視界に映し出されるのは、ドアの先から突き出された彼女の右手だけ。
その手も、僕が次の言葉を口にする前にひらひらと軽く打ち振られた後、そのまま姿を消してしまった。
ぱたぱた――階段を駆け上がっていく凛子の足音が消えた後、僕は静寂の中に独り取り残されていた。
無言のまま、背中に手を当てる。
鏡で見た時に確認した、Yが描かれていた辺りだけ熱を持ったみたいに火照っていた。
そこはついさっき、凛子の唇が触れた部分。
僕の名前が書かれた部分。
どうやら……日焼け跡が消えるまでのしばらくの間、人前でシャツは脱げそうにないみたいだった。
そう思った途端、僕の口からくすりと笑みが漏れていた。