『Never to be forgotten』
Update:1998.12.01
……ぱたぱた。
廊下から聞こえてくる、靴音。
自分の家にいるみたいに、慣れた足取りで一気に階段を駆け下りた足音は、そのままわたしのいる教室に近づいてくる。
やがて聞こえてきたのは、女の子の笑い声だった。
とても楽しそう。
その声からは、誰も知らない秘密の楽園を好き勝手に遊び回れることへの、心からの満足と歓喜の思いが感じられた。
教室のすぐ横を駆けていった声の主は、足音と笑い声の余韻だけを残して去っていく。
不意に、どこかの教室の扉が開かれる金属のきしみ音が遠く聞こえてきた。
それきりぱたりと、足音も声も途絶えてしまう。
わたしは耳を澄まし、足音がまた響き始めるのをじっと待ち続けた。
笑い声が聞こえてくるのを期待して。
でもどれだけ待っても、わたしを包む世界は、しわぶきのひとつとして立つことのない静寂に満たされたままだった。
失われた音。
無音。
何も聞こえない世界。
虚無。
わたしにとってそれは……光のない世界の始まりに他ならなかった。
六年前、ちょっとした冒険心で足を踏み入れた社会科資料室。
カーテンに閉ざされた、静けさと暗がりに満ちた室内。
誰がそうしたのか授業で使い終わった後、床に転がされたままの大きな地図帳。
それに足を取られて、バランスを崩したわたし。
目の前に迫ってきたスチール棚を避けようとして、とっさに身体をひねり……たったそれだけのことだった。
心の奥底――記憶の引き出しの中に残る、思い出のかけら。
そう、あの日の出来事が「川名みさき」という名の女の子を形作っていた、数え切れないほどたくさんある部品のひとつを壊してしまったのだ。
たとえるならそれは、自分自身の不注意でレンズを割ってしまったカメラ。
「みさきっ! おはよう」
幼なじみの雪ちゃんの声がしたのと同時に、蓋を開け閉めする音が聞こえる。
下駄箱から上履きを取り出してるのだ。
「おはよう、雪ちゃん」
挨拶を返しながら身を翻したわたしは、彼女のいる方に向き直る。
そして瞳に映し出されたのは……登校中の生徒たちで賑わう下駄箱の前で笑顔を浮かべる、雪ちゃんの姿だった。
「今日も寒いわね」
「そうだね。寒いからつい、朝ごはん食べすぎちゃったよ」
「食べすぎって、どれくらい?」
「うん。いつもなら朝は食パン一斤くらいでちょうどいいんだけど、今日はそれにご飯を五杯食べたかな」
一瞬の間。
雪ちゃんは、少しだけ何か考え込むように黙り込むと、
「ねえ、みさき。ひとつ聞いていい?」
「なにかな?」
「五杯ってお茶碗で? それとも……ドンブリで?」
「変なこと聞くんだね、雪ちゃんは。もちろん、ドンブリに決まってるよ」
「……みさきにしては……ちょっと多いかもしれないわね」
「うん。ちょっとだけね」
いつもと変わらない会話。
下駄箱を離れたわたしたちは廊下を右に折れて、階段をのぼり始める。
階段は全部で十二段。
踊り場で右を向いて二歩進んだ先でもう一度右を向くと、そこには二階に続く階段の残り半分が待っている。
頭の中でその道筋を描きながら一段一段、わたしは階段をのぼり続けた。
いつもと変わらない世界。
冬の朝らしい、まだ人の温もりがあまり感じられない校舎内の冷え切った空気が、一歩足を動かすたびに頬を撫でてゆく。
靴底が踏みしめるリノリウム敷きの床が、きゅっきゅっと小さな悲鳴をあげながら、踏みつけるわたしに抗議の声をあげていた。
三年生の教室は、もう一階上がった三階にあった。
教室のドアに触れた指先が、氷みたいに冷たい感触にちくりと小さな痛みを覚える。
開かれたその先にあったのは……いつもと少しも変わらない光景だった。
暗闇。
漆黒。
虚空。
目の前に確かに存在するはずなのに、でもわたしの両目にはめ込まれた壊れたレンズは、そこにあるはずの世界を何ひとつ映し出してはくれない。
机も、椅子も、黒板も、窓も。
クラスのみんなも、雪ちゃんも……わたし自身すらも。
いまのわたしにできること、それはレンズが壊れる前に撮りためておいた過去の記憶を、目の前にあるはずの世界に当てはめるだけ。
なくしたパズルのピースを別のピースで間に合わせるみたいに、光を失う前に自分の目で確かめた教室の姿を、スライドを重ねるようにはめ込むのだ。
それだけで、世界は元通りの姿を取り戻す。
そう……たったそれだけの、簡単なこと。
「どうしたの、みさき?」
教室の前で立ち止まったわたしを訝しむように、横から声をかけてくる雪ちゃん。
「うん、何でもないよ」
首を振りながら、何ごともなかったように彼女に目を向ける。
そこに雪ちゃんがいた。
小学校の頃からずっと友だちの、雪ちゃんがいた。
でも、わたしの瞳に映るのは六年前――学校からの帰り道で「ばいばい。また明日ね」そう言って手を振りながら別れた時と同じ、子供の頃のままの彼女だった。
それが、わたしが最後に見た雪ちゃんの姿だったから。
いまの雪ちゃんがどんな姿をしてるのか、わたしは知らないから。
……ぱたぱた。
耳の奥にまた、誰かが廊下を走る靴音が遠く聞こえてくる。
それは、永遠の訪れを告げる足音。
六年前のあの日、わたしの中で凍りついてしまった世界のすべては、もう二度と動き出すことはない。
そう……永遠にないのだ。
§
「浩平君……って、誰?」
その瞬間、わたしの中で何かがひび割れる音がした。
六時間目の授業も終わり、手早く片づけをしてから教室を後にしたわたし。
行き先は、もちろん屋上だった。
季節は冬。
この時期、北風が吹き抜けるばかりの屋上に来る人なんてほとんどいなかったし、実際いまいるのはわたしひとりだけだった。
そこは学校の中で、一番好きな場所。
この場所から、ゆっくりと時が流れてゆく様を感じるのが、わたしにとって何より幸せなひとときだった。
今日も風は冷たい。
浩平君だったらきっと「こんな場所、人の来るところじゃない」そう、言いだしそうなくらいの寒さだった。
思わず口元がゆるんでしまう。
凍てつく空気の中、何をするわけでもなく空を見上げているわたし。
突き抜けるような青い空。
綿菓子みたいな白い雲。
目には見えないはずの、でも間違いなく頭上に広がっているはずの光景が、わたしの瞳にありありと描き出されていた。
大好きな場所。
大好きな世界。
大好きな誰か……
その時、背後で扉の開く音がした。
誰だろう。
浩平君……かな?
心の片隅で、そんな期待を抱いてしまう。
相変わらず空を見上げながら、足早に近づいてくる靴音に聞き耳を立て続ける。
「……見つけた」
ここにたどり着くまでずっと走りどおしだったのか、少し息の切れた声。
わたしは少しだけ残念そうな声で、ため息混じりに口を開いた。
「なんだ、雪ちゃんか」
「なんだとは失礼ね。誰だと思ったのよ?」
「うん、浩平君かな……って」
十二月に入って間もない放課後、いつものように屋上へ向かったわたしがそこで出会った男の子、それが浩平君だった。
目が見えていれば、黄昏に映える空が綺麗だった違いない、静けさに包まれた夕暮れ時。
地平線近くまで傾いた、冬の陽射しをまぶたの裏に感じながらわたしは、心の中で「明日もきっといい天気だね」そんなつぶやきをもらしていた。
「明日は……いい天気だな」
その時、突然飛び込んできた男の子の声。
誰もいないと思っていた場所に先客がいたことに、少しだけびっくりしてしまう。
「そっか、今日は夕焼けなんだ」
でもそんな思いとは裏腹にわたしの口から出てきたのは、見知った友だちにでも話しかけるみたいな、そんな言葉だった。
何だか嬉しかったのだ。
こんな時期の屋上を訪れる、名前も知らない男の子のことが。
夕日を前に、わたしと同じことを考えていた男の子のことが。
男の子がわたしよりひとつ年下の二年生だって知ったのは、そのすぐ後だった。
こんな寒い日にわざわざ屋上に来るなんて変な人だよね……自分のことを棚に上げて、そんなことを思ったりもした。
それが最初の出会い。
そして時が流れ、一緒にすごす時間と交わす言葉が増えるにつれて、浩平君の存在はわたしの中で少しずつ大きなものになっていった。
屋上への、一番乗りを賭けた競争。
偶然会った食堂での、楽しかった食事のひととき。
誰もいない教室で、ふたりきりで開いたクリスマスパーティ。
お正月に届いた、二枚の年賀状。
他の人たちにとっては、どれも他愛のない出来事にすぎなかったかもしれない。
けれどもわたしにとっては、何より大切な思い出だった。
気のおけない弟みたいな浩平君。
さりげない優しさで気遣ってくれる浩平君。
普通の女の子として接してくれる浩平君。
でも……
――浩平君……って、誰?
胸の奥を、針を突き刺されたみたいな鋭い痛みが走った。
「え?」
予想もしなかった雪ちゃんの一言に驚きの声を上げてしまったわたしは、凍りついたみたいにしばらくの間、何も言えなくなってしまった。
何秒かたってから、ようやく口を開く。
「どうしたの、雪ちゃん。浩平君だよ、浩平君。忘れちゃったの?」
「だから、浩平君って誰? クラスの子じゃないわよね」
「浩平君は二年生だよ。雪ちゃんだって、浩平君とは何度も会ってるはずなのに……」
「悪いけど知らないわ、そんな人」
冷静な、どこか突き放すような声。
その声でわたしは、雪ちゃんがからかっているわけでも嘘をついているわけでもないんだってことに、すぐに気がついた。
同時に見えないはずの視界に、雪ちゃんの姿が浮かび上がる。
でも瞳に映し出されたその姿は、わたしが知っている雪ちゃんとは全然違う人だった。
おかっぱだった髪はウェーブのロングヘアーだったし、それにその子はわたしが覚えている小学生の雪ちゃんより、背が十五センチは高かった。
見たことのない女の人。
わたしには、でもそれが十八歳の彼女なんだってすぐ分かった。
雪ちゃんが大きくなったら、きっとこんな子になるんだろうな……いつだったかわたしが想像していた姿とそっくりだったから。
高校三年生の雪ちゃんは、まるで見知らぬ他人のことを話すように冷ややかな眼差しを浮かべながら、無言でたたずんでいた。
風が吹く。
頬にちくちくと痛みを覚えさせてくれるそれは、何かを訴えるように吹き続け、やがて前触れもなしにぴたりと止んでしまった。
その瞬間、わたしは気がつく。
どうして雪ちゃんが、浩平君を知らないなんて言い出したのかを。
そっか……今日も夕焼けが綺麗なんだね。
不意に胸の奥からわき上がってきた思い、それが答えだった。
理屈じゃない。
でもわたしは、気づいてしまったのだ。
浩平君と一緒に見た、暁に映える夕焼け空――黄昏が間近に迫っているんだってことを。
かつてわたしの許へと降り立ったあの永遠が、いま浩平君の前にその姿を見せようとしているんだってことを。
§
校門を出たところに、彼はいた。
「よぅ、先輩」
「こんにちは、浩平君」
屈託ないそぶりで話しかけてくる浩平君に、いつも通りの挨拶を口にするわたし。
「もしかして、浩平君もいま帰るところ?」
「ああ。偶然だな」
「そうだね。偶然だね」
わたしたちは、ふたりとも嘘をついていた。
浩平君は放課後のこの時間に毎日、校門前でわたしを待ってくれていた。
わたしはそのことを知っていたから、毎日この時間に学校を出るようにしていた。
偶然でも何でもない、ただの必然。
でもそんなこと、どうでもよかった。
彼に会えること……それだけで、いまのわたしは満足だったから。
二月に入って、学校の中で浩平君と出会う回数が日を追って減っていった。
屋上も廊下も食堂も……そのどこにも、彼の姿はなかった。
そしてこの一週間というものは校門から家の前までの、距離にしてほんの十メートルほどの道のりだけが、わたしたちを繋ぐ大切な世界になっていた。
でもだからといって浩平君が、わたしのことを避けているわけじゃない。
彼にとって学校は、もう手の届かない世界になってしまったのだ。
浩平君が手に入れようとしている永遠が、この世界での彼の存在を希薄にしてしまっているのだ。
わたしは知っていた。
いまでは学校の誰ひとりとして、浩平君を覚えていないことを。
雪ちゃんもクラスの人たちも先生も、みんな彼がつい数日前までここにいて、同じ時をすごしていたんだってことを全部忘れてしまっていた。
教室で。
職員室で。
そして屋上で、わたしはそのことを確かめた。
最初からそんな人なんていなかったみたいに、きれいさっぱり誰の記憶からも消え去ってしまった浩平君。
覚えているのは……わたしひとり。
光の失われた、墨をこぼしたような暗闇に覆われた世界の中に、でも間違いなく彼は存在していた。
その証拠にいま、夢でも幻でもない浩平君が目の前にいる。
「一緒に帰ろうか、先輩」
浩平君は、普段と少しも変わらない声で話しかけてくる。
だからわたしは「そうだね。一緒に帰ろう」と、小さくうなずきながらにっこりと笑顔を浮かべて見せた。
ほどなく、右手に何かが触れてくる。
壊れ物を扱うみたいに、優しくそっと握りしめてくるそれは……浩平君の手だった。
「温かいね」
その手を握り返しながら、足を一歩前に踏み出す。
「世間じゃ、手の温かいヤツは心は冷たいって言うけどな」
「浩平君って、冷たい人なの?」
「だから一般論だってば」
「そっか。じゃあ浩平君は、手も心も温かい人なんだね」
歩くたびに揺れ動く、浩平君と繋いだ手。
その感触と温もりが、いまのわたしには何より大切な宝物だった。
「人格者だからな、オレは」
「そういうこと、普通自分じゃ言わないよ」
くすくすと、笑いながら返事をする。
すると浩平君は、少しだけ照れ臭そうな様子で、
「誰も言ってくれないからな。だから仕方なく、自分で言うことにしてるんだよ」
「……浩平君って、どんな顔してるのかな?」
「いきなりだな」
「あ、ごめんね」
「いや、別にいいけど。でも先輩、オレの顔に興味あるんだ?」
空気の動きと少しだけ大きくなった声から、浩平君が顔を近づけてきてるのが分かった。
ちょっとだけ、恥ずかしい。
その思いに反応するように鼓動が高鳴り、頬が少し熱くなってくるのを心の片隅で自覚しながら、わたしは「うん」とうなずく。
「でも、どうして急にそんなこと?」
「あのね……わたしって結構面食いなんだ。だから浩平君がね、わたしのお眼鏡にかなっているかどうか、確かめておきたかったんだよ」
「そりゃ大変だ」
うんうんと――本当にそう言いながら、うなずく浩平君。
「どうして?」
「オレの顔って、ちょっとばかり変なんだ」
「へえ、そうなんだ。でも、どんなところが変なのかな?」
「聞いて驚くなよ。実はオレの顔には目がふたつ、鼻と口がひとつずつある上に、あまつさえ耳なんてふたつもついてるんだ」
「もしかして人間じゃないんだ、浩平君って」
「……人間だって」
「冗談だよ」
半分照れ隠しで、小首を傾げながら言葉を紡ぐわたし。
浩平君が立ち止まったのは、その時だった。
頭の中で無意識のうちに数えていた校門からの歩数が、ちょうど家の前にたどり着いたことを告げていた。
「着いちゃったね」
「ああ」
すっと掌から、浩平君の存在が失われる。
その途端、人混みの中で母親の手を見失った迷い子のような、そんなひどく不安で寂しい思いが胸の奥からわき起こってくる。
でもその思いをすぐに振り払ったわたしは、できるだけ軽やかな声で、
「じゃあ浩平君のお顔を確かめるのは、また今度だね」
「げ、本気?」
「もちろん」
大きくうなずくわたし。
「そっか。じゃあまた今度な」
「うん、また今度」
それは小さな約束。
でもそれは、また明日も浩平君と会うことができるんだっていう、いまのわたしにとってどんなものにも代え難い、大切な約束だった。
「また明日な……先輩」
「ばいばい、浩平君」
玄関の前で軽く手を振りながら、浩平君を見送るわたし。
足音が、少しずつ遠くなってゆく。
その音色を記憶に焼きつけるうち、いつしかわたしは「今日の夕焼けは綺麗かな?」そんなことを心の片隅でぼんやりと思っていた。
§
気がつくと、瞳の裡に夕日の存在を感じていた。
春というにはまだ肌寒さを感じる、そんな凛とした空気に満たされた公園。
遠くから、帰り道を急いでいるらしい子供たちの足音と、少し遅れてそれを追いかける笑い声が聞こえてくる。
平和な世界。
穏やかなひととき。
あれから、どれくらい時間が経ったのだろう。
一瞬だった気もするし、何年もこのベンチですごしていた気もした。
心が痛かった。
千切れそうなくらい痛かった。
痛みに耐えかねて、涙があふれ出そうだった。
でも、わたしは泣かなかった。
ベンチに座り、じっと何かが訪れるのを待ち続けるように、暗闇という名の永遠を映し出すばかりの双瞳で正面を見据え続けていた。
浩平君……
冗談……だよね?
わたしのこと、からかってるだけなんだよね。
前に廊下でぶつかった時みたいに、すぐ側でわたしのことを見てくれてるんだよね。
ほら、早く「みさき先輩」って呼んでよ。
あの時みたいに「ゴメン、ちょっとからかっただけなんだ」そう言ってよ。
そうしたら、わたしは頬をぷっと膨らませて「ひどいよ、浩平君」って、そう返事をしてあげるのに。
でも大丈夫だよ、怒ってなんかいないから。
すぐに許してあげるよ。
だって浩平君は、わたしの大切な人なんだから。
ずっと一緒にいてくれるって……側にいてくれるって、約束してくれた人なんだから。
とりとめのない幾つもの思いが、頭の中に浮かんでは消えてゆく。
……大切な人。
すぐ側で見守ってくれてるはずの浩平君。
ずっと、一緒にいてくれるはずの浩平君。
わたしの事を好きと言ってくれた浩平君。
世界中の誰よりも大切な人だった浩平君。
でもどれだけ待ち続けても浩平君は、声をかけてきてはくれなかった。
屋台のアイスクリームを買いに行った時、間違いなく浩平君はそこにいた。
目なんか見えなくても分かる。
彼の包み込むような暖かな眼差しを、背中に感じることができたから。
でもチョコミントとバニラ、それにおまけにつけてもらったヨーグルト味のアイスクリームを手にベンチに戻った時、浩平君はそこにいなかった。
目なんか見えなくても分かる。
だって浩平君だもの。
大切な、大好きな浩平君だから、どこにいたってわたしにはすぐに見つけられるのだ。
誰もいないベンチに向かって、わたしは口を開き続けた。
浩平君……アイスクリーム、もう全部……溶けちゃったよ。
溶けるまでずっと持ってたから……手がべたべただよ。
せっかく……新発売のヨーグルト味……おまけしてもらったのにね。
アイスクリーム……食べそこねちゃったの……浩平くんの……せいだから……ね。
そうしていれば、しびれを切らせた浩平君が口を開いてくれるかもしれない――そんな淡い期待を胸に話し続けるわたし。
本当は分かっていた。
そんなことしたって、何の意味もないんだってことを。
認めたくない現実に形ばかりの抵抗をし続けることで、ここがもう輝きの失われた世界なんだって事実を受け入れるのを避けているだけなのだ。
どれだけ呼んでもどれだけ探しても、もうどこにもいないのだ……浩平君は。
何かを求めるように、空を見上げる。
でもわたしの瞳が、そこにある世界を映し出すことはなかった。
失われた幸せ。
失われた輝き。
「……浩平君……浩平君……浩平……君……」
心の中からあふれ出る悲しみに押し流されるように、いつしか大切な人の名前が口をついて出てきてしまう。
でも、わたしは知っていた。
それが決して、彼の耳には届かないことを。
だって浩平君は、わたしの手が届かない遠い遙か空の高みに旅立ってしまったのだから。
彼だけの……永遠を手に入れてしまったのだから。
§
指先に覚える、湿り気を帯びたひんやりとした感触。
表面を撫でるようにゆっくりと指を動かしてゆくたびに、かすかに存在していた凹凸が滑らかになっていった。
無心で、その作業に没頭し続けるわたし。
最初で……最後になってしまったデートの途中、姿を消してしまった浩平君。
気がつけば、あれから一週間がたっていた。
いまわたしがいるのは、演劇部の部室。
そこでひとり、粘土の塊をこね続けていた。
卒業生のわたしが学校にいるのは変かもしれなかったけれど、でもそれを承知でこっそり忍び込んだのだ。
どうしても、確かめておきたいことがあったから。
誰にも見つからずに中に入り込むのは、簡単なことだった。
だってここはわたしが唯一、光を取り戻すことのできる場所だったから。
まだ授業中の部室には誰の姿も見当たらず、空気は凍えそうなくらいに冷たかった。
三月の、暖房も入っていない教室だから当然だったけれど、でも部屋を暖かくするつもりはなかった。
作業に集中するために、わざと寒いままにしているのだから。
「ふぅ……」
動かしていた手を止めて、小さくため息をもらす。
冷え切った空気の中で、一時間以上もひたすら粘土をこねまわしていた指先は、すっかりかじかんでしまっていた。
「はぁーーっ」
息を吐きかける。
目の前が、息で真っ白に染まってしまう光景が脳裏に描かれ、強張っていた両手が少しずつ感覚を取り戻してゆく。
両手を頬に当ててみると、土が水を吸い取るように指先の冷たさが頬の中へと染み込んでいくのが分かった。
「ね、浩平君。顔……触ってもいいかな?」
卒業式の翌日。
生まれて初めてのデート。
そこでわたしを待っていたのは、文字通り新しい世界だった。
六年前のあの日からわたしにとっての世界とは、記憶の中でその姿を思い描くことができる場所だけだった。
だから、卒業が恐かった。
見知らぬ世界に、ひとりきりで放り出される不安。
それが今日まで、わたしが鳥籠から飛び立つことのできなかった一番の理由だった。
でもいま、わたしの横には浩平君がいてくれる。
ともすれば暗闇の恐怖にすくみそうになってしまうわたしを、優しく力強く支えてくれる浩平君の笑顔がそこにあった。
だから新しい世界への一歩を、わたしは踏み出すことができた。
ほんの数日前まで、そこに行くなんて想像すらできなかった場所で、一緒にお昼ご飯を食べることができていた。
「自分の顔を触るのに許可なんかいらないって、先輩」
「もう……違うよ、浩平君」
小さく首を振りながら言葉を返す。
「え?」
「わたしはね、浩平君の顔に触りたいの」
「……オレの?」
手にしていたハンバーガーを、かさかさと音を立てながらトレイに戻した浩平君が、少し不思議そうに訊ね返してくる。
わたしはにっこりと微笑みながら、
「そうだよ。ほら、前に約束したでしょ」
「え? ああ、そういや前にそんな話をしたっけ」
「うん。だからいいよね」
「相変わらずいきなりだな……で、ここでか?」
どうやら周りを見渡しているらしい。
いまはちょうどお昼時だから、わたしたちのいるファーストフードの店内も結構混み合ってるに違いなかった。
もしかして浩平君、恥ずかしいのかな。
聞こえてくる周囲のざわめきと、肌に感じる空気の動きからそんなことを思いながら、
「ダメ……かな?」
「いや。まあ、いっか」
少し照れくさそうに浩平君は、でもわたしのお願いを聞いてくれた。
「じゃあ、いくよ」
「おう。どんと来い」
ゆっくりと両手を伸ばす。
やがて人差し指の先に触れたそれは、どうやら彼の唇らしかった。
乾燥しているのか、少しかさかさした感触。
女の子みたいに口紅やリップクリームを塗っているわけじゃない、男の子らしい唇。
「かさかさだね、浩平君の唇」
「そりゃまあ、冬場は空気が乾いてるしな」
「ダメだよ。ちゃんといたわってあげないと」
「……そうだな」
そのまま掌を、頬に滑らせる。
さっきと違って今度はざらざらとした、引っかかるような感触を掌全体に覚える。
「これは……お髭だね」
「無精髭は、ハードボイルドな男の勲章だ」
「お髭お髭」
くすくすと、小さく笑みをもらしてしまうわたし。
でもそんな冗談めいた口調とは裏腹に、指先は浩平君の顔の肌をゆっくりとなぞっては、その形を心の中に刻み込んでいった。
時々ぴくりと筋肉が動くのは、くすぐったいのを我慢しているからなのかもしれない。
浩平君は、でも何も言わずに最後までわたしのわがままにつき合ってくれた。
どうしてなんだろう。
周りからじろじろと見られて、きっとすごく恥ずかしいに違いないのに。
そんなわたしの思いを首肯するように、ひそひそとわたしたちのことを話しているらしい周りの声が、切れ切れに聞こえてくる。
でも彼は何も言わない。
「ね、浩平君」
「ん?」
「もしかして……恥ずかしい?」
「そうでもないぞ」
「本当に?」
両手を彼の頬に当てたまま、小首を傾げる。
そんなわたしに浩平君は、くすぐったそうに強張らせていた頬の筋肉をゆるめると、
「だって、大好きな先輩のお願いだからな」
いつもの調子で、気負った様子もなくさらりとそんな言葉を口にする。
だからわたしも、できるだけいつもの調子で――結局うまくいかなくて、ちょっとだけ声が震えてしまったけれど――返事をした。
「ありがとう……わたしも大好きだよ、浩平君」
§
袖が引っ張られていることに気がついたのは、その時だった。
くいくいと、一定のリズムで引かれる制服の袖。
どうやらわたしが回想に身を任せている間中、ずっとそうしていたみたいだ。
「……どなたですか?」
小声で訊ねたわたしだったけれど、返事はない。
その時ふと脳裏に浮かんだのが、もしかしたら浩平君かも……そんな思いだった。
でも、すぐにそれを否定する。
浩平君はもういないのだ。
この世界のどこからも、いなくなってしまったのだ。
だからいま、わたしの袖を引っ張っている誰かが浩平君のはずはなかった。
わたしの心に、ぽっかり空いたままの風穴。
悲しかった。
寂しかった。
でもわたしにできることは、待つことだけ。
浩平君との思い出のかけらを胸に、彼が帰ってきてくれるのを待ち続けるしかなかった。
膝の上に置いていた手に、不意に温もりを感じる。
柔らかくわたしの手を包む、小さな何か。
それは、誰かの手だった。
何を思ってか相手はきゅっきゅっと、わたしの手を握ってくる。
そのリズムに、記憶のどこかが刺激された。
「澪……ちゃん?」
まさかと思いながらその名を口にすると、一定のリズムで二回、手が握り返される。
それは『うんうん』という、彼女からの返事に違いなかった。
上月澪ちゃん。
雪ちゃんが部長をしていた演劇部に所属する、一年生の女の子。
その彼女が、どうしてこんなところに……そこまで思って気がついた。
考えてみたらここは演劇部の部室で、二年生以下の生徒にはまだ授業があったのだ。
「もう……放課後なんだ」
握り返される手。
「それじゃあ、もうすぐ部活なんだね」
すると澪ちゃんは、わたしの右手を返すと掌に指で何かを描き始めた。
ゆっくりと描かれたそれは……文字だった。
『ぶかつないの』
「……そうなんだ」
『うん』
一文字ずつ、掌にひらがなを描いて答えてくれる澪ちゃん。
澪ちゃんは言葉が話せなかった。
だから彼女が誰かと話しをしようとする時は、いつも持ち歩いているスケッチブックに字を書いて、声の代わりにしていた。
でもわたしは、彼女がスケッチブックに書いた字を読むことができなかった。
だからといって会話ができないわけじゃない。
お互いに持っている共通の感覚――触覚を使って言葉を交わすのが、いつの頃からかふたりきりで話をする時のコミュニケーションの手段になっていた。
『なにしてるの?』
わたしの前にある粘土の塊が気になるのだろう、興味津々といった様子――掌にかかる指先の力の強弱でそれが分かる――で訊ねてくる。
ゆっくりと澪ちゃんに顔を向け、そして言葉を選びながら、
「なにをしてると思う?」
逆に問い返してみた。
少しの間、うーんと考え込んでいた澪ちゃんは、やがて掌にさらさらと、
『おとこのこのかお』
そう書いて、ぎゅっと手を握ってくる。
少なくとも澪ちゃんの目には、わたしが作ろうとしている物が目的通りの形には見えているみたいだった。
「あのね。こうやって……思い出してたんだ」
正解と口にする代わりに、そんな風に返事をする。
『?』
「忘れちゃいけない大切なことをね、ずっと覚えていられるように……こうやって思い出してるんだよ」
そして澪ちゃんの手を離すと、再び粘土へと指先を伸ばす。
しっとりとした、冷たい感触。
その表面を撫でるように指を滑らせながら、心の中に残る浩平君の記憶を蘇らせる。
「もうちょっとで終わるから、待っててね」
こくりとうなずくのが、かすかに揺れる空気の動きで分かる。
にっこりと目を細めて見せてから、わたしは中断していた作業に戻った。
思い出す。
浩平君と一緒に同じ時をすごした、最後の日のことを。
思い出す。
頬に触れた、掌の温もりを。
思い出す。
心の中に焼き付けられた、幸せだった暖かな記憶の残滓を。
わたしの中に残る浩平君との思い出のすべてを塗り込めるように、それが夢でも幻でもない現実の出来事だったことを確かめるように、無心で手を動かし続けた。
かさかさだった唇。
ちくちくと掌を刺激してきたお髭。
濃い眉に狭めの額。
切れ長の一重瞼。
少し尖った印象のある鼻。
すっきりと無駄な贅肉のない顎。
それが浩平君だった。
あの日わたしが知ることのできた、誰よりも大好きで大切な浩平君の顔だった。
小さくため息をもらしながら、手をおろす。
『おしまい?』
かすかな衣擦れの音と共に澪ちゃんが、粘土で汚れているわたしの掌に――自分の手も汚れるのも構わずに――そんな問いかけをしてくる。
小さくうなずきながらわたしは、
「うん」
それだけを口にした。
『……だぁれ?』
「そうだね……一緒に公園に出かけたか弱い女の子を置き去りにして、どこかにいっちゃうひどい人、だよ」
『ほえ?』
わたしの言った意味がよく分からなかったのか、澪ちゃんはぽかんと口を開けたまま首を傾げているみたいだった。
そんな彼女にわたしは、くすくすと笑みをもらしながら、
「えっとね、折原浩平……それが男の子の名前だよ」
『おりはら……こうへい』
「うん。澪ちゃんはその人のこと、覚えてる?」
心の片隅に、ちくりと小さな痛みを覚えながら訊ねる。
返事はすぐに戻ってきた。
『しらないの』
「そっか……そうだよね」
半ば予想していた答えだったから、別に落胆はしなかった。
『でも……』
澪ちゃんの返事には、まだ続きがあった。
ちょっと間を置いて――目の前の浩平君の顔をしげしげと眺めているらしい――から、掌の上を彼女の指が軽やかに踊る。
『……やさしそうなの』
それは、わたしを何より安堵させてくれる一言だった。
うん、もう大丈夫……誰に言うわけでもなく、そんなつぶやきをもらしてしまう。
浩平君……わたし、ちゃんと覚えていられたよ。
みんなが浩平君のことを忘れちゃっても、夕暮れ時の屋上で初めて会ったあの日から今日までずっと、浩平君のことを覚えていられたからね。
大切な人だから。
大好きな人だから。
だから、わたしは忘れないよ。
それにもし、わたしの中の浩平君がみんなみたいに――記憶から消えちゃっても平気。
だってわたしのこの手は、ちゃんと覚えているから。
目なんか見えなくても、そんなこと関係ない。
浩平君が確かにわたしの側にいてくれたんだって事実は、心だけじゃなくこの身体に、両手に刻み込んであるのだから。
だから……
澪ちゃんの頭を、優しく撫でる。
『?』
不思議そうに首を傾げる澪ちゃん。
わたしは微笑みと共に「ありがとう……」そう、彼女に向かってつぶやいていた。
半分は、澪ちゃんに向けて紡いだ言葉。
でも残りの半分は、この世界のどこからもいなくなってしまった浩平君に向かって口にしたささやきだった。
そう、わたしは待ち続ける。
大切な人が、この世界に帰ってくるのを。
わたしとの約束を果たすために、あの輝く季節の中をふたりで一緒に歩くために戻ってきてくれるのを。
だからわたしは、浩平君のことを忘れない。
何があっても、決して……