Never to be forgotten
Update:1999.01.13





Case2 Mio

 ――きぃ

 金属同士がこすれ合う、小さな悲鳴。
 一定のリズムを刻みながらかすかな残響を残したそれは、やがて新たな悲鳴を発する。

 ――きぃ

 空を暁に染める夕日が、世界のすべてに細く長い影を生み出していた。
 公園を取り囲むように立ち並ぶ樹々。
 噴水の中央に据えられた碑石。
 すべり台や誘導円木、古タイヤ製の跳び箱も、等しく自身よりも遙かに長い影を背負い、言葉なくその場にたたずんでいた。

 ――きぃ

 そしてわずかに揺れ動くブランコに、ひとり座す彼女にも。
 年齢は四、五歳――そろそろ幼稚園といった背格好。
 黄色の長袖シャツに赤地のスカートといった、子供らしい服装。
 頭の半分ほどはあるだろう真紅の大きなリボンが、少女の小柄さも相まってひときわ目立つ特徴となっていた。
 やがてブランコが、その動きを止める。
 それを待っていたように少女は、空に向けていた目を足下に落とす。
 視線の先、少女の膝の上にあったのは真新しい一冊のスケッチブックだった。
 握りしめていた鉄鎖から手を離した少女は、黄緑色の板紙製の表紙をめくる。
『澪』
 空色のクレヨンで書かれたその文字は、子供らしいたどたどしげな筆致に満ちていた。
 それが、少女の名前。
 一緒に遊んでくれる友だちもなく、いつもひとりぼっちで日が暮れるまでこいでいたブランコの前に突然現れた男の子。
 頬を引っ張ったり、ブランコをぐるぐる回したりと澪にさんざんな悪戯をした挙げ句、男の子は持っていたスケッチブックを彼女に手渡した。
「じゃあ自己紹介だ」
 その言葉に促されるように、分け与えられた水色のクレヨンで書いたのが、目の前にある一文字だった。
 言葉を持たない彼女にとってそれは、初めての会話だった。
 永遠の静寂の中にいた彼女が発した、初めての言葉だった。
「いいか、そのスケッチブックは貸すだけだからなっ」
 男の子の言葉が、不意に脳裏に蘇る。
 次のページを開く。
 そこには見開きの二ページ全部を使って、ひらがなで大きく『いっしゅうかん』と、そう書かれていた。
「だったら、一週間後にここで待ってるから」
 男の子の言葉に、澪はこくりとうなずく。
 満足そうに口元をほころばせる男の子。
「いいか、約束だぞっ」
 別れ際、念を押すようにそう言い残して、男の子は去っていった。
 あれから一週間。
 今日がその約束の日だったが、でもどれだけ待っても男の子は来なかった。
 それでも彼女は信じていた。
 きっと来てくれる、またお話をしてくれる、と。
 今日何度目になるか分からない行為――公園の入り口に顔を向けた澪だったが、当然ながらそこに誰の姿も見出すことはできない。
 茜色に染まる公園の閑散とした情景が、ただ映し出されるばかりだった。

 ――きぃ

 ブランコから、金属製の小さな悲鳴がまた上がり始める。
 その中を、澪は待ち続ける。
 無音の世界にたたずむ自分に、初めて言葉を与えてくれた男の子のことを。
 男の子から預かったスケッチブックと、そしてお気に入りの色でもある水色のクレヨンを握りしめながら。

                  §

「カラオケだぁ……?」
 人影もまばらな廊下の空気を震わせたのは、浩平のそんな一言だった。
 どこか呆れているような、そんな感じの声。
 すると、浩平にその声をあげさせた原因でもある澪は、
 ――うんうん。
 元気よくうなずきながら、まったく意に介した様子もなく笑みを浮かべていた。
 しばらくの間、無言で澪の笑顔を見つめていた浩平だったが、やがて小さくため息をつくと諦めたような口ぶりで、
「それで……誰が行くんだよ?」
 うーんと、少しだけ考え込むように澪は小首を傾げる。
 時間にして数秒。
 破顔一笑、まず目の前の浩平を指差した澪は、次に自分の鼻先に人差し指を当てて見せてから、うんうんとまたうなずく。
「もしかして、オレとおまえだけか?」
 拍子抜けしたように発せられた問いかけへの澪からの返答は、相も変わらぬ笑顔だった。
「はぁ……分かったよ」
 ――わーいっ!
 再びため息をもらした浩平は、全身で喜びを表現している彼女に向かって「ほれ、とっとと行くぞ」そう一声かけて、昇降口に向かおうとする。
 その途端、腕が強く引っ張られた。
「ぐわっ」
 かろうじてバランスを保った浩平が袖口に目をやると、そこには見るからに慌てた様子の澪の姿があった。
「どうした、澪?」
『あのね』
「おう」
『あのね』
「だから、なんだ?」
『忘れもの』
 スケッチブックを掲げながら、空いた一方の手で澪は教室の方を指差す。
「忘れもの……って、なにを忘れたんだ?」
『大切なの』
 慌てているせいで彼女の答えは普段以上に要領を得ず、何のことやらさっぱり分からない。
「だからだな……」
 途中まで言いかけた浩平だったが、すぐに思い直すと、
「分かった分かった。ここで待っててやるから、早く取ってこい」
 その言葉を待っていたように、見るからに申し訳なさそうな顔つきでうなずいた澪はくるりと身を翻すと、そのまま駆け足で教室へと向かっていった。
 彼女が戻ってきたのは、それから一分ほどしてからだった。
「忘れものは見つかったか?」
 廊下の窓に寄りかかりながら澪の帰りを待っていた浩平は、教室から全力で走ってきたせいで苦しげに息を切らせている彼女に声をかける。
 ようやく顔を上げた澪は、手にしていたものをさっと掲げて見せた。
 それは、一冊のスケッチブックだった。
 普段彼女が周囲とのコミュニケーションのために使っているものと比べると、明らかに古ぼけた感じがする。
「……それか」
 小さくつぶやいた浩平は、どこか寂しそうな表情を浮かべて見せた。
 ――ほぇ?
 あまり見覚えのないその顔色に、不思議そうな面もちで小首を傾げる澪。
「なんでもないって」
 そんな彼女の様子に気づいたのか、すぐにいつもの表情を取り戻した浩平は彼女の頭をぽんと軽くたたくと、
「ほれ、いくぞ」
 そう言って、今度こそ昇降口に向かって歩き出す。
 ――うんっ。
 元気よくうなずいた澪は、浩平の後を追うように軽やかな歩調で廊下を歩き始めた。

                  §

 ――きぃ

 頭上から響く、ブランコがきしむ鈍い金属音。
 ゆっくりとしたテンポで鳴っていたそれは徐々にその歩調をゆるめ、やがて消えていった。
 ぽつりと、頬に冷たい何かが当たる。
 見上げればそこには鉛色の雲が、本来なら紅に染まっているはずの空に覆い被さるように敷き詰められていた。
 ぽつりと、今度は額に雫が当たる。
 ――ほぇ?
 ぽかんと口を開けて空を見やるうち、瞬く間にその数を増やした涙滴は澪の全身を分けへだてなく叩き始めた。
 目を落とせば、膝の上に置いてあったスケッチブックにも水滴が落ち、幾つもの小さな染みを作り始めていた。
 かばうように、慌ててその小さな身体を一杯に伸ばしてスケッチブックをかき抱く。
 でも雨は容赦なく、彼女の身体を叩き続けた。
 約束の日からちょうど一ヶ月。
 ほとんど毎日この公園を訪れていた澪は、それから日が暮れるまでの長い時間をひとりじっと待ち続けた。
 男の子との約束を果たすために。
 再会を果たし、ずっと借りたままになっているスケッチブックを返すために。
 小降りだった雨はいつしか本降りとなり、周囲を水滴のカーテンで覆い隠し始めていた。
 視界の端では、道行く人々の大小色とりどりな傘が見え隠れしていたけれど、でも誰ひとり公園に足を踏み入れる者はいなかった。
 もちろんそこに、少年の姿を見出すこともなかった。
 どうして来てくれないのだろう……今日まで数え切れないほど胸中をよぎった疑問が、また頭をもたげる。
 答えはどこからも返ってこない。
 降りしきる雨だけが彼女の髪や服、そして手足をしとどに濡らしていった。
「一週間後にここで待ってるから」
 あの日、男の子は確かにそう言い残して去っていった。
 それから約束の日までの一週間、澪の心を占めていたのは、今度男の子と会った時には何をして遊ぼうか……そのことばかりだった。
『こんにちは』
『あのね』
『いっしょに』
『とっても』
『ブランコ』
『うれしかったの』
『すべりだい』
『ありがとう』
『かくれんぼ』
『またこんど』
 借りもののスケッチブックに、覚えたてのたどたどしい筆致でつづられた言葉。
 それは、彼女が伝えたかったこと。
 声を持たない澪が、自分の思いを男の子に伝えようと一生懸命に覚えた言葉のかけら。
 それを見て、男の子はどんな顔をするだろう。
 きっとびっくりするに違いない。
 そして、あの日見せてくれた笑顔と共に「じゃあ、いっしょにあそぼう」そう言ってくれるに違いなかった。
 幸せな未来。
 いままで経験したことのない、見知らぬ明日。
 期待を胸に澪は、公園までの道のりをとてとてと駆けていった。
 でもそんな彼女の思いをよそに男の子は、あれから一度として姿を現すことはなかった。
 約束の日がすぎても、澪は待ち続けた。
 風で舞い上がった砂で埃まみれになっても、野良犬ににらまれて泣き出したくなっても、突然の雨に降られても……それでもあの日と同じブランコの上で、男の子を待った。
 不意にすっと、雨滴とは異なる雫が彼女の目の前を落ちてゆく。
 それは髪の毛に降りかかった雨が前髪に流れ集まり、そして生み出された雫。
 ぽつ……ぽつ……と、雨の勢いそのままに幾筋もの雫が垂れていったが、それでも彼女は公園の入り口を見据え続けた。
 そこに求める姿が現れることを信じて。
 約束の果たされる時が来ることだけを信じて。
 絶え間なく降りしきる雨。
 スケッチブックをかばって、髪も服もびしょ濡れの澪。
 でも……
 その日も結局、待ち望んでいた男の子が澪の前に姿を見せることはなかった。

                  §

 フェードアウトする伴奏と共に、照明の落とされた室内に静寂が取り戻されてゆく。
 もう何度見たか分からない映像がぷつりと途切れ、代わって画面には今月の新譜を羅列したテロップが流れ始めた。
 ぱちぱち……誰かが手をたたく音。
 同時に、大きなため息が浩平の口からもれる。
 見ればテーブルを挟んだ反対側のソファで、喜色満面な様子の澪が拍手をしていた。
『上手なの』
「ああ……」
 マイクをテーブルに置きながら、小さくうなずく浩平。
『とっても上手なの』
「さんきゅ……」
 浩平は疲れたようにそれだけを口にすると、氷も溶けてすっかりぬるまってしまったコーラに口をつけ、酷使した喉の疲れをいやした。
 そんな彼をよそに澪は、角に頭をぶつければ人が殺せるんじゃないかと思えるくらい分厚い曲目集のページを、ぺらぺらとめくり始めている。
 ――るるるん。
 とても楽しそうな様子。
 でもその表情に嫌な予感を覚えたのか、グラスから口を離した浩平は、
「なあ、澪」
 ――ほぇ?
「おまえ、なにしてんだ?」
 その問いかけに落としていた視線を上げた澪は、横にあったスケッチブックにすらすらとペンを走らせ、元気よくそれを掲げて見せた。
『次、歌うの』
「ちょ、ちょっと待てっ。ストップだ、澪っ!」
 浩平は慌てて澪の手から曲目集を取り上ると、そのまま自分の背中に隠してしまう。
 ――うーっ。
 それが不満だったのか、上目遣いに不満そうな視線を送ってくる澪。
「いや、だからな……」
 そこまで言いかけて小さくため息をついた浩平は、小さな子供を諭すような口調で、
「いいか、澪。オレたちがここに来てから、そろそろ二時間だ」
 ――うーっ……うん。
「その間、オレはずっーとマイクを握り続けていた」
『そうなの?』
「そうなのっ」
 ――う、うん。
 浩平の剣幕に押されるように、澪は元気なくうなずく。
「これがどういうことか、分かるよな?」
 ――うーん……
 小首を傾げ、考え込み始めてしまう。
 彼女からの答えを、浩平は不安と期待が半ばといった面もちで待ち続けた。
 三十秒ほど経った頃、不意に澪の表情がぱっと明るくなる。
 どうやら答えにたどり着いたらしい。
 おもむろにスケッチブックに何かを書き始めると、自信ありげな表情で浩平に向かって差し出してきた。
「おっ、どれどれ」
 身を乗り出した彼の目に映ったのは『二時間たったの』の七文字。
「…………」
『…………』
「……澪、それは違うぞ」
 ――ほぇ?
 どっと疲れた口調で、肩を落としながら口を開いた浩平は、まったく分かっていないらしい澪に困ったように苦笑いを浮かべながら、
「つまりだ、オレはこの二時間ずっと歌い続けてるんだよ。しかもだ、おまえのリクエストに応えて童謡ばっかりをだ」
『童謡、好きなの』
「だから、そうじゃなくて……」
 長森じゃあるまいに――そう思いもしたが、あえて口にはしない。
 さらにがっくりと肩を落として今度は頭を抱え込んでしまった浩平は、でもやがて何か思いついたように顔を上げると、
「なあ澪。おまえ、口笛とか吹けないのか?」
『口笛?』
「ああ、そうだ。それだったらおまえもオレの歌を聞くばっかりじゃなくて、一緒にカラオケが楽しめるだろ?」
 我が意を得たりといった様子で、満足そうにうんうんとうなずく。
 でもそれも、澪の次の返答を見るまでの間だった。
『口笛、吹けないの』
 ちょっと恥ずかしそうに澪は、上目遣いに浩平を見やりながらそろそろとスケッチブックを掲げる。
 思いもよらぬ彼女の返答に、浩平はあんぐりと口を開けるばかり。
「そ、そうか……」
 気まずさが漂う室内の空気を払うように、先に口を開いたのは浩平だった。
「……だ、だったらいい機会だ。オレが教えてやろう」
 小さく咳払いをしながらそう言う浩平に、澪の表情がぱっと明るくなる。
 ――うんっ!
 大きくうなずいた澪は、興味津々といった様子で浩平の次の言葉を待っていた。
 その表情にどこか面映ゆいものを感じつつ、それでも努めて真面目くさった表情を保ちながら浩平は、澪に口笛の吹き方の伝授を始めた。
「いいか。要するに口笛なんてものはだな、笛から音が出るのと同じ理屈で音を鳴らしているわけだ」
 ――うんうん。
「だからな、口をこう少しすぼめながら、舌先を唇の方に近づけて息を吹き出せば……」
 途端、浩平の口からぴゅーいと小気味良い音がほとばしる。
 ――うわぁーっ。
 心底感心したように澪は、満面の笑みと共にその小さな手でぱちぱちと拍手をして見せた。
「感心してないで、今度はおまえがやるの」
 ――うーん……
 少し自信がなさそうに、それでも澪は浩平に言われたように口をすぼめながらゆっくりと息を吹き出してみる。
 でも彼女の口からは、何の音も立たない。
 ただ「ふーっ」という音と共に、周囲の空気を揺れ動かすばかり。
『できないの』
 どれくらい経った頃だろう、何度やってもうまく音を立てることができなかった澪は、えぐえぐと泣き出しそうになりながら、そう言った。
 毎度のながらの彼女の不器用さに、浩平は少し困ったような色を浮かべながらも、
「まあ練習すれば、そのうち吹けるようになるって」
 ぽんぽんと澪の頭を軽くたたき、励ますようにそう言った。
 涙目のまま、浩平を見上げる澪。
「オレだって、初めは結構練習したしな」
『ほんとう?』
「ああ」
 にっこりとうなずきながら、もう一度彼女の頭をぽんとたたく。
 その時、部屋に備え付けのインターフォンが、ぴりりりと電子音を響かせた。
「おっと、そろそろ時間だな」
 時計で時間を確認しながらソファから立ち上がった浩平は、部屋の隅に置いてあった自分と澪の荷物を手に取る。
「澪が口笛を吹けるようになったら、また来ような」
 その言葉にぱっと表情を輝かせた澪は、
『約束なの』
「ああ、約束だ」
『がんばるの』
「ああ、頑張れ。さーて、今日はもう帰るぞ」
 浩平からカバンを受け取りながら満足そうに笑みを浮かべた澪は、大きくうなずいた。
 ――うんっ!

                  §

 既に皆下校してしまったのか、教室には誰の姿も見当たらなかった。
 ドアが勢いよく開かれる。
 次の瞬間ぱたぱたとせわしない足取りで、小柄な女生徒が中へ飛び込んできた。
 女生徒――澪は、見るからに慌てた様子だ。
 整然と並べられた机の間を駆け抜け、窓側から一列内側にある机の前で足を止める。
 次の瞬間、きょとんとした表情を浮かべる澪。
 彼女の視線は、机の上に置かれていた一枚の紙片に注がれていた。
 そこは間違いなく、自分の席のはずだった。
 でも机の上には、教室を出る時には見かけなかった紙片がある。
 きょろきょろと周囲を見渡すが、教室の中には彼女以外の人影は見当たらない。
 もしかしたら、クラスメートの誰かの書き置きだろうか……そんなことを思いながら紙片を手にした彼女の動きが、ぴたりと止まる。
 彼女の瞳は、手中にある紙片に書かれた文字を凝視していた。
 たぶんスケッチブックを破り取ったのだろう、端が不揃いに波打つやや黄ばんだ紙の上に殴り書きされた短い言葉。

『約束守れなくてごめんな』

 たったそれだけ。
 でも澪にとっては、それで十分だった。
 湖面に石が投じられたかのように、彼女の心にゆらゆらと大きな波紋が巻き起こる。
 頭の中のどこかで、何かがぱちんとはじける音がした。
 脳裏に蘇る記憶。
 遠い昔の……まだ澪が幼かった頃の思い出。
 今日まで一日として忘れたことのなかった……約束。
 夕暮れの公園。
 一緒に遊んでくれる友だちも作れないまま、ひとりブランコをこぐばかりだった澪の前に突然現れた男の子。
「……よっ。おまえなにやってるんだ?」
 まるで昨日のことのように、男の子が最初に発した言葉が頭の中に響いた。
 真新しいスケッチブックを手にした男の子。
 その姿が心の片隅で映像として結ばれた途端、はっと我に返って机の中をのぞき見る。
 でも中は空っぽで、置き忘れたはずのスケッチブックは影も形もなかった。
 かつて交わした約束が果たされる日が来ることを信じて、肌身離さず持ち歩いていたスケッチブックは、一枚のメッセージと引き替えにかき消すようにその姿を隠してしまっていた。
 それが何を意味するのか、考えるまでもなかった。
 その場から駆け出す澪。
 もしかしたら、まだ近くに居るかもしれない。
 自分を待ってくれてるかもしれない……祈るような思いでドアの前にまでたどり着く。
 廊下を見渡す。
 でも彼女の瞳は、そこに誰の姿も見出すことはできなかった。
 落胆の思いと共に、澪は握りしめたままの紙片に改めて目を落とす。
 しばらくの間、じっとそれを見つめていた彼女は、やがて何かを確信したように微笑みを浮かべながら小さくうなずいた。
 ――うんっ。
 大切な思い出。
 大切な人。
 忘れてはいけないはずなのに、忘れてしまっていたこと。
 覚えていなければいけないはずなのに、覚えていなかったこと。
 どうして忘れてしまっていたのか。
 どうして覚えていられなかったのか。
 そう……空が真っ赤に染まったあの夕暮れの公園で、確かに澪は聞いていたのだ。
 その子の名前を。
 男の子は思い出の中だけではなく、いまの澪にとってもかけがえのない存在だったのだ。
 耳に響く声。
 気がつけばそれは、いつしか記憶に残るあの男の子ではなく、つい何日か前までずっと同じ時をすごしていた人の声に変わっていた。
「――ぼくは、浩平だ」

                  §

 緞帳を通して伝わってくる、場内のざわめき。
「さあ、開演五分前よ。みんな、いままでの練習の成果を忘れずに頑張ってちょうだい」
 隙間から、パイプ椅子が並べられた客席をのぞき見ていた深山雪見が少し早口な調子で、周囲にたむろす部員たちに檄を放つ。
 その声を前にした誰もが、一様に緊張に満ちた表情を浮かべていた。
「上月さん、調子はどう?」
 雪見は、舞台脇で開演の時を待っている澪に、少し心配そうな様子で声をかけた。
 ところが当の澪はすっかり上の空な様子で、何やら口をとがらせてはふーふーと息を吐き続けている。
「……上月さん?」
 ようやく雪見の声に気づいたのか、澪は視線を向けながらにっこりと微笑みを浮かべた。
「どうしたの、上月さん?」
 ――うううん。
 ふるふると首を振って『なんでもないの』とスケッチブックを掲げる澪に、雪見は少しだけ不思議そうな色を浮かべるが、すぐに気を取り直すと、
「その様子だと、緊張はしてないようね」
『うん。平気なの』
「じゃあもうすぐ幕が上がることだし、舞台で待機してちょうだい」
 澪はこくりとうなずき、舞台に向かって走り出そうとした。
 と、不意に立ち止まり雪見の方を振り返る。
「どうしたの?」
 答える代わりに澪が差し出したのは、胸に抱えていた一冊のスケッチブックだった。
「そうね、舞台の間はわたしが預かっておくわね」
 ――うん。
 澪の意図をすぐに察してスケッチブックを受け取った雪見だったが、ふと何かを思い出したように首を傾げる。
「ね、上月さん。そう言えば、いつも持ち歩いてた……古いスケッチブックは? 今日は持ってないみたいだけど」
 彼女は演劇部の部室で、澪が二冊のスケッチブックを持ち歩いているのを何度となく見かけていた。
 一冊は、周囲の人たちとコミュニケーションを取るために使っていたもの。
 もう一冊は……角が取れている上に、あちこちにできた破れ目をテープで直してある、見るからに古ぼけた感じがするものだった。
 どこかに置き忘れてきたことに気がつくと、いつだって他のことを放り出して探しにいってしまうほど大切な物のはずなのに、今日に限ってそれを持っていない。
 でも小首を傾げる雪見に澪は、静かに笑みを浮かべるばかり。
 そして一度預けたスケッチブックを手にした澪は、そこにさらさらと何かを書くと雪見にそれを見せた。
『もういいの』
「え? もういいって……大切なものだったんじゃないの?」
 ――うん。
「じゃあどうして?」
 更なる問いかけに、澪はわずかに表情を曇らせる。
 微笑みの中に見え隠れする、寂しげとも悲しげともつかない何か……それは雪見にとって初めて見る、いままでの「少女」然とした澪とは異なる「女」としての表情だった。
『返したの』
「返したって、誰に? あれは上月さんのじゃないの?」
 ――うううん。
 小さく首を振った澪は、新しいページをめくると、
『ずっーと前に貸してもらったの』
「そうなんだ……じゃあもしかして、貸してくれた人に会えたんだ?」
 ――うううん。
 さっきより、一層弱々しげな首の動き。
「じゃあ……」
 途中まで言いかけた雪見は、言葉を切る。
 そして目を閉じると、やがて穏やかな笑みを浮かべながら再び口を開いた。
「よかったわね、上月さん」
 ――うんっ!
 今度こそ、澪らしい満面の笑みがそこにあった。
 開幕を告げるブザーが鳴る。
 舞台の袖口近くから演出係の部員が、澪に早く舞台に来るように手招きをしていた。
「さあ上月さん、本番よ。急いで」
 彼女の背中を軽く押しながら、一緒に走り出す。
 澪は階段をぱたぱたと駆け上がると、自分のいるべき場所――舞台の中央に滑り込んだ。
 同時に、下ろされていた緞帳がするすると上がり始める。
 薄暗がりの中、今日の舞台を見に来てくれた生徒たちで一杯になった客席が、少しずつ澪の視界に入ってきた。
 心を落ち着かせるように、一度だけ大きく息を吐く。
 そして視線を床に落としながら、思い出す。
『あのね』
 夕暮れの帰り道。
 肩を並べて歩きながら交わした会話。
『いっぱい伝えたいことあるの』
 いま、その最初の時が訪れていた。
 大丈夫……不意に、そんな声にならない思いが彼女の中にわき上がる。
 澪は感じていた。
 満座となった客席から、練習の間ずっと側にいてくれた誰よりも大切な人の視線を。
 既に照明の落とされた客席は薄暗く、その人がどこにいるのかまでは分からない。
 でも、そんなこと関係なかった。
 スポットライトが灯される。
 その途端、暗がりに覆われていた世界が澪を中心に光の奔流に呑み込まれ、彼女の姿を観客の前に浮かび上がらせた。
 ゆっくりと、伏せていた顔を上げる。
 澪にとって初めての――そして浩平にとって最後となる舞台がいま、静かに幕を開けた。

                  §

 ――きぃ

 茜色に染まる夕焼け空を背景に、小さく鳴り響くブランコの音。
 その音は目に映る情景が思わせるのか、ふと足を止めたくなる寂しさに満ちたものだった。

 ――きぃ

 一定の間隔を置いてゆっくりと揺れ動いていたそれは、やがて動きを止める。
 ブランコにひとり座る澪は、そこから紅に埋め尽くされた誰もいない公園を眺めていた。
 遠い昔の出来事。
 男の子が来てくれるのを待ち続けた、彼女だけの小さな思い出。
 あの時もいまと同じ様に、スケッチブックを膝に乗せながらブランコをこいでいた。
 でもいま彼女の前にあったのは、あの思い出のスケッチブックとはまったく別物の、数日前に文房具屋で買ってきたものだった。
 緑色の表紙に手を置きながら、一心不乱に息を吹き続ける澪。
 相変わらず音は出ない。
 それでも澪はくじけるそぶりひとつ見せず、ふーふーと口笛の練習を続けていた。
「……こんにちは」
 横合いから不意に声をかけられたのは、その時だった。
 見ればそこには、腰まで届く長く柔らかな髪を三つ編みにした女の子の姿があった。
 澪はにっこりと微笑みながら答える。
『こんにちは』
「……隣り、よろしいですか?」
 そう言いながら少女は、澪の横の空いたままのブランコにちらりと視線を向ける。
 ――うん。
 感謝の意を示すように軽く会釈をした少女は、静かにブランコに腰を下ろした。
 里村茜、それが少女の名だった。
 しばらくの間茜は、言葉なく眼前に広がる夕焼け空を眺め続ける。
 そんな彼女の横顔を、小首を傾げながら見つめていた澪だったが、やがて視線を戻すとまたふーふーと息を吐き始めた。
 どれくらい経った頃だろう、思い出したかのように茜は、
「……なにをしているんですか?」
 澪に顔を向けながら訊ねた。
 練習を止め、どう説明したものか困ったように瞳を揺らす澪。
 一度はスケッチブックを開きかけたが、思い直したのかすぐにそれを閉じると改めて茜の前で、さっきまでと同じ動作をして見せた。
 言葉で説明するより、実際にやって見せた方が早いと思ったからだ。
 すぼめ気味の小さな口からもれる吐息。
 時間にして十秒ほど、それが何を意味してるのか思案するように眉をひそめていた茜は、やがて少し自信のなさそうな声で、
「……口笛の練習、ですか?」
 澪はにっこりと微笑みながら、満足そうにうんうんと大きくうなずいた。
 そして、今度こそスケッチブックに筆を走らせると、
『あのね』
「……はい」
『吹けるの?』
 そう、茜を指さしながら訊ねる。
「……そうですね。一応吹けますが」
 遠慮がちに答える茜。
『吹いてほしいの』
 その言葉を半ば予想していたのだろう、茜は「……あまり上手じゃありませんけど」と前置きしてから口笛を吹き始めた。
 小さな、しかし軽やかな音色が辺りの空気を震わせる。
 茜の横顔を、澪はじっと見つめ続けていた。
 そんな彼女の視線が気になったのか、途中で音色を途切れさせた茜は、少し恥ずかしそうな様子で、
「……あんまり見つめられると、恥ずかしいです」
 それでも澪は、茜に口笛をせがみ続ける。
 彼女のその勢いに負けたように、再び口笛の音がふたりの間を流れ始めた。
 少しずつ紅から星の瞬く漆黒へと色合いを変えてゆく空。
 ふと気がつくと、いつしか澪は茜を真似るように口元から息を吐き出し始めていた。
 相変わらず、ふーふーと空気の流れる音がするだけ。
 音は鳴らない。
 そんな彼女に何かアドバイスをしようかと口笛を止めかけた茜は、でもすぐにその思いを捨てると目を閉じ、静かに口笛を吹き続けた。
 どれくらい経っただろう……空の過半が紅から黒へとその装いを改めた頃、ひとつだった音色が突然ふたつになる。
 小さな音。
 でも確かに、茜が吹き鳴らしていたのとは別の音色。
 横を見る。
 するとそこには、自分の口から発せられた音に驚き、大きく目を見開く澪の姿があった。
 ――わーいっ!
 事態を理解した次の瞬間、喜びのあまり大きく飛び上がる澪。
 その拍子に膝の上にあったスケッチブックが落ちてしまったが、そのことにすら気づくことなく彼女は、何度となくその場を飛び跳ね続けた。
 苦笑しながら、茜はスケッチブックを拾い上げる。
「……よかったですね」
 ――うんっ!
 差し出されたスケッチブックを受け取りながら、澪は笑顔と共にうなずき返した。
「……でも、どうして口笛を吹けるようになりたかったんですか?」
 澪が落ち着きを取り戻すのを待って、茜はゆっくりと問いかける。
 笑顔を宿したままの澪は、
『約束なの』
「……約束、ですか?」
 ――うん。
 うなずき、そして口笛を吹いて見せる。
『約束なの』
 もう一度、同じ言葉を放つ澪。
 そんな澪に小首を傾げた茜は、でも次の瞬間口元をゆるめながら小さくうなずいた。
『いっしょに吹くの』
「……わたしとですか?」
 ――うううん。
 ゆっくりと澪は首を振る。
「……約束をした……その人とですね」
 少しだけ考え、やがて内心で納得したように口を開く茜。
 ――うんっ。
 ブランコから、ぴょんと飛び降りる澪。
 反動でブランコがきぃきぃと何度かきしみを発するが、そのまま数歩進んでからくるりと身を翻した彼女は、
『大丈夫なの』
「……?」
『忘れないの』
「……忘れない? なにをですか?」
 不思議そうに問い返す茜に澪は、星空をぐるりと眺め渡してから視線を戻す。
 満面の笑み。
 それは彼女の確信。
 ずっとずっと待ち続けていたスケッチブックの持ち主――浩平にだって、十年近い時を経て会うことができたのだ。
 なら、今度だってきっと……
 だから澪は待つ。
 大切な人が、いつか必ず帰ってきてくれることを信じて。
 ふたりで一緒に口笛を吹く、その日が来ることを信じて。
 不意にぴゅーいと、何かを確かめるように一度だけ口笛を奏でる澪。
 そしてスケッチブックを、ページ一杯に書きつづられた彼女の思いを、茜に向かって掲げて見せた。
『なにがあっても、ぜったいに忘れないの……』
Case3に続く

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