Never to be forgotten
Update:1999.01.24





Case3 Akane

 遠くから何かが流れ落ちる、さらさらという音。
 水にしては少しだけ固く乾いた感じのするそれは……砂が流れ落ちているような、そんな音色だった。
 それは思い出。
 流れる砂粒のひとつひとつがわたしにとってかけがえのない、大切な思い出のかけら。
 何年も前の、いまでは懐かしさばかりを強く感じる、過去の情景。
「おっはよーっ!」
「……おはよう、詩子」
「おはよう、茜っ」
「……おはよう」
「そういや昨日の算数の宿題、ちゃんとやってきたか?」
「……はい」
「ええっ! わたし忘れてたっ」
「あはははっ。詩子のことだからそんなことだろうって思ってたよ、ボクは」
「お願い茜、宿題見せてっ」
「……仕方ないですね」
 朝の通学路。
 三人で交わした何気ない、でもだからこそ当たり前に思えた情景。
 心の奥底に焼き付けられた、温かな記憶。
 わたしの中の思い出の砂粒は、その勢いを早めることも遅めることもなく、常に変わらぬ速さでさらさらと流れ落ちてゆく。
「さん……にい……いち……」
「ゼローっ!」
「メリークリスマスっ!」
「メリークリスマス、茜、詩子っ!」
「……はい。メリークリスマス」
「もう茜ったら、なんだか景気が悪いなぁ。せっかくのクリスマスなんだから、もうちょっとさあ……」
「まあまあ詩子。ほら、それよりケーキ食べようよ」
「うーん、そうだね。そういえばこれって、茜が作ったの?」
「……はい」
「へー、まるでお店で売ってるケーキみたいだね」
「……そんなことありません」
 三人で一緒に開いたクリスマスパーティ。
 誰かのために初めて作ったケーキを、詩子は口の周りを生クリームだらけにしながら嬉しそうに食べてくれた。
 そして、あの人も……
 ふたりが浮かべた満面の笑みがわたしの脳裏に焼きつき、思い出の砂粒のひとつとなって心に刻み込まれてゆく。
 だから、わたしは思っていた。
 昨日がそうだったように明日も明後日も、これからも三人で一緒に歩いてゆく退屈だけど平穏で幸せな世界がずっと続くのだと、そう信じていた。
 でもわたしが抱いていたその思いは、いともたやすく打ち砕かれてしまった。
「……茜、さよなら」
 それが最後の言葉だった。
 あの人の声を耳に響かせながら、でも何もできないまま、雨の中の空き地で呆然と立ちつくすばかりだったわたし。
 溶けるように消えてゆくその姿を、見ているしかなかったわたし。
 海辺に広がる砂浜のように、数え切れないほどあるのだと信じていた思い出のかけらは、でも本当は砂時計の中に封じ込まれた、ほんのひと握りの砂にすぎなかったのだ。
 最後の一粒が落ちた瞬間、すべてが幻だったように時は止まり、誰の中からもその存在は消え失せてしまう。
 そしてあの人は、この世界から旅立っていってしまった。

                  §

 それが一度目。
 あの人のことを誰も覚えていない世界でわたしは、変わりばえのない穏やかで退屈な日々をすごし続けた。
 いつか、きっと戻ってきてくれる。
 わたしと詩子とあの人の三人ですごした、幸せだったあの時をもう一度やり直すことができるのだと信じて、ずっと待ち続けていた。
 あの人と一緒に紡いだ、思い出だけを胸に。
「おはよう、茜」
「……おはよう。詩子」
「今日もいーい天気だね。こんな日は、授業なんか出るのがもったいなく思えちゃうよ」
「……そう言えば詩子、宿題はやってきましたか?」
「えっ、なにそれ?」
「一時間目の数学の宿題。忘れたんですか?」
「えーっ、全然覚えてなかったよっ。ど、どうしよーっ!」
「……仕方ありませんね」
 朝の通学路。
 変わりばえのない、毎日のように繰り返される情景。
 いつかどこかで見たような、そんな情景。
 でも、ひとつだけ違ったのは……そこには、あの人がいなかった。
 そこにいるのはわたしと詩子だけ。
 ふたりだけ。
 だから悲しかった。
 あの人がいなくても、ふたりだけでもちゃんと会話が成り立ってしまうことに、わたしは言葉にならない寂しさを覚えずにはいられなかった。
 わたしの耳に、思い出の砂粒が落ちる音は聞こえてこない。
「さん……にい……いち……ゼローっ! メリークリスマスっ!」
「……メリークリスマス」
「もう茜ったら、なんだか景気が悪いなぁ。せっかくのクリスマスなんだから、もうちょっとさあ……」
「……はい」
「ま、いっか。それよりケーキ、ケーキっ。茜の作ったクリスマスケーキを食べるの、毎年楽しみなんだ」
「……はい」
「そういえば茜がケーキ作ってくれるようになってから、ずいぶんたつよね」
「……そうですね」
「来年も楽しみにしてるから、よろしくねっ」
「……はい」
 詩子とふたりで、毎年開くクリスマスパーティ。
 でも彼女は覚えていない。
 初めて誰かのためにケーキを焼いた年のパーティには、わたしと詩子と、そしてあの人がいたことを。
 ふたりで取り合いをしながら、でも嬉しそうにケーキを食べていたことを。
 あの日、永遠の向こうへと消えていってしまったあの人。
 誰もがその存在すら忘れてしまった、あの人。
 でも……わたしは覚えている。
 声。
 顔も。
 名前も。
 誕生日も。
 得意科目も。
 苦手な動物も。
 好きな食べ物も。
 嫌いなもお天気も。
 楽しかった思い出も。
 悲しかった別れの時も。
 あの人のすべてがわたしの中で、あの雨の日からずっと動きを止めたままの砂時計と一緒に眠り続けていた。
 いつかきっと帰ってきてくれる。
 たったひとり、わたしだけでも忘れずにいられればきっと戻ってきてくれる。
 それだけを信じてわたしは、雨の日には必ずあの空き地で待ち続けた。
 でも結局、あの人は帰ってこなかった。
 忘れなかったわたしのことを忘れて、あるはずのない永遠の彼方に旅立ったきり二度と戻ってはきてくれなかった。
 それでもわたしは待ち続けた。
 低くたれ込めた雲が無数の水滴を降らせる空き地で、お気に入りの傘をさしながら。
 そうするしかなかったから。
 待ち続けることしか、わたしにできることはなかったから。

                  §

 冬の装いに彩られた商店街。
 そこは、行き来するたくさんの人たちで賑わっていた。
 学校からの帰りがけ。
 まっすぐ家に帰ることに何となく物足りなさを感じたわたしは、気がつくと商店街に足を踏み入れていた。
 目的地は、すぐだった。
 あざやかなパステル調の色彩に埋め尽くされたショーウィンドの一角、あまり目立たない奥まった場所にそれは置かれていた。
 大きなぬいぐるみ。
 柔らかそうなふさふさの毛に覆われたその子は、豆粒のように小さくつぶらな瞳をこちらに向け、わたしの来訪を待っていたみたいに笑顔を浮かべていた。
 手にヒマワリの種らしきものを持っているところを見ると、もしかしたらリスかハムスターのぬいぐるみなのかもしれない。
「で、これはいったい何なんだ……?」
 不意に思い出された言葉。
 それは初めてこの子を見つけた時、一緒にいたあいつが口にした言葉だった。
 わたしは一目で気に入ったのに、それなのにあいつは何度も首を傾げてはこの子を前に難しい顔を浮かべていた。
 改めて値札の数字を確かめる。
 ゼロが一つ、二つ、三つ、四つ……
 気がつくとため息が、自然と口からもれていた。
「大丈夫だって、絶対に売れ残って値下がりするから」
 あいつは、自信ありげにそう言った。
「……売り切れたりしませんか?」
「それは絶対にない」
 その言葉通り、この子の値札に書かれた数字はわたしがここに来るたびに減り続け、いまではあの時の十分の一にまで値下がりしていた。
 ――本当に値下がりしました。
 ぬいぐるみを見つめながら、届くはずのない言葉を紡ぐわたし。
 ――待っているんですから。
 ガラスに両手をつき、吐く息がその表面に白い輪を描くくらいまで顔を寄せる。
 ――今年の誕生日はもう終わってしまいました。
 愛らしい笑顔を浮かべ続けているガラスの向こうのその子は、わたしの視線をもの言わず受け止めてくれていた。
 ――もうすぐ、次の誕生日が来てしまいます。
 手をぎゅっと握りしめる。
 さらさら……どこかから、砂の流れる音が聞こえてきた。
 でもそれは、わたしのものじゃない。
 この子にとっての思い出が、砂粒となって折り重なってゆく音に違いなかった。
 わたしの中の時計は、動きを止めたまま。
 まるですべての砂が落ちきってしまった砂時計のように、それ以上何ひとつ変化を見せることはなかった。
 それはあの日からずっと止まったままの時の中で、あいつの帰りを待ち続けることしかできない自分自身の象徴。
 額をガラスに押し当てながら、ささやくような小声で、
「……早くしないと、売り切れてしまいます」
 それだけを口にする。
 答えはない。
 額を通して伝わってくるガラスの冷たさだけが、その時にわたしが感じることのできたもののすべてだった。

                  §

 そして二度目。
 世界を押しつぶすように低くたれ込める雲から、とめどなく降りしきる雨。
 その中を、ショーウィンドの前にひとりたたずむわたし。
「茜っ……!」
 背後から、唐突にわたしの名前を呼ぶ声がした。
 聞き覚えのない声だった。
「あかねっ!」
 二度目の呼び声で、仕方なく振り向く。
 するとそこには傘も差さずに、全身を雨に濡らしながらまっすぐにわたしを見つめる男の子の姿があった。
 同じ学校の制服を着ている。
 もしかしたら、クラスメートだったろうか。
 まったく見覚えのない顔を前に、ぼんやりとそんなことを思ったりする。
 沈黙がわたしたちの間を包み、降りしきる雨音だけが絶え間なく鼓膜を震わせていた。
「……茜」
 その言葉に、何も答えることができない。
 目の前にいるこの人のことを、わたしは知らなかったから。
 どこの誰なのか、どうしてわたしの名前を知っているのかも知らない、そんな人だから。
「あか……ね……」
 悲しそうな眼差しを浮かべながら、その人の口から切れ切れなつぶやきがもれる。
 でもわたしは、無言でその姿を見つめるばかり。
「いや……わるい、人違いだった」
 互いに黙り込んでしばらくして、諦めたようにぽつりとその人が口を開く。
 次の瞬間、ほんの少しだけ口元をゆるめると、
「知り合いと同じ傘だったんだ……それで、間違えて……」
「……そうですか」
 それだけを口にして、わたしは身を翻した。
 その場から立ち去るために。
 雨の日には必ずそこで待ち続けようと決めていた、通学路の途中にある空き地へと向かうために。
 背中に視線を感じる。
 でもわたしは、それを無視して歩き続けた。
 その時になって初めて、自分が傘を持っていないことに気がつく。
 さっきまで差していたはずなのに、どこかに忘れてきてしまったのだろうか。
 初めから持っていなかったのだろうか。
 それとも……
 そこで、不意に目が覚める。
 暗がり中、瞳に映し出されたのは見慣れた天井。
 自分の部屋だった。
 布団から身体を起こし、ひとしきり周りを見渡してからわたしはため息をつく。
 違う。
 いまのは、現実じゃない。
 わたしの中にある砂粒のひとつに刻まれた、かけがえのない思い出じゃなかった。
 それは夢。
 すべては、わたしの心が生み出した幻――悪夢だった。
 わたしは忘れていなかった。
 あの時わたしは、あいつのことをちゃんと覚えていた。
 忘れずに、あいつの名前を言うことができた。
 でもいまは……
 いまでもわたしは、あいつと作った思い出のすべてを思い出すことができるのだろうか。
 考えてみる。
 あいつと出会ってからの出来事のひとつひとつを、アルバムのページをめくるように脳裏に蘇らせる。
「……よお、なにやってんだこんな所で」
「誰?」
「クラスメートの名前くらい覚えとけよ」
「……クラスメート」
「同じクラスの折原だ」
「それで?」
「いや、偶然こんな所で出会ったんだし挨拶のひとつも交わそうかと……」
 登校時。
 雨が降りしきる空き地で、初めてあいつと交わした言葉。
「ごちそうさま。ありがとうな」
「……待って」
「どうした?」
「……こんな時、普通は感想を言うものです」
「十点」
「何点満点ですか……?」
「十点」
「…………」
「文句なくうまかった」
 昼休み。
 身を切るような冷たい北風が吹きすさぶ中、中庭で毎日のようにあいつと一緒に食べたお昼ご飯。
「綺麗な夕焼けだよな」
「……本当に綿飴みたい」
「綿飴か、懐かしいな」
「今度わたしが作りますよ」
「作れるのか?」
「見よう見まねですけど」
「……そうか、だったらできるだけ早い方がいいな」
 放課後。
 赤一色に染めあげられた空の下、ふたりで歩いた夕暮れ時。
 大丈夫。
 忘れていない。
 あいつの声も仕草も、わたしに浮かべてくれた笑顔もわたしを抱いてくれた腕の温もりも、全部全部ちゃんと覚えていた。
 でも……そこまで思って、ふと不安を覚える。
 本当に、わたしは忘れていないのだろうか。
 すべてを覚えているのだろうか。
 もしかしたら忘れたことすら忘れてしまい、残されたほんの一握りの思い出だけを、そのすべてだと思い込んでいるのではないだろうか。
 あいつのことを覚えているのは、この世界でわたしひとり。
 だからもし、わたしがあいつとの思い出を忘れてしまったとしても、それを確かめる術はどこにもなかった。
「……っ!」
 そこまで考えたところで寒気を覚えたわたしは、自分自身を強く抱きしめる。
 パジャマ越しに、肌の柔らかさと温もりが腕に伝わってきた。
 その感触にほっと安堵のため息をもらしながら、夜の帳に覆われた室内を見渡す。
 探し求めるものはすぐに見つかった。
 本棚の片隅に忘れられたように置かれていたそれは、わたしにとって大切な思い出の品だった。
 手を伸ばし、それを掴む。
 小さな砂時計。
 銀メッキの施された鎖が結わえられたそれは、もう何年も前――わたしにとっての幼なじみが詩子以外にもうひとりいた頃、その人からプレゼントされたものだった。
 目を閉じ、耳元で軽く振ってみる。
 さらさらと、砂特有の軽く乾いた音がかすかに聞こえてきた。
 この砂時計を手にするのは、久しぶりだった。
 あの雨の日、あの人がわたしの前で姿を消して以来この砂時計は、新たな時を刻むこともなく長い長い時をすごしてきた。
 わたしの中に残る思い出以外に、あの人がこの世界に存在していたことを語るたったひとつの証。
 目の前に掲げた砂時計を、じっと見つめ続ける。
 カーテンの隙間から射し込む街灯の光が、ガラスに収められた砂粒に反射して小さな輝きを発していた。
 ガラスのくびれを挟んで上下にあるのは、等しく異なる二つの世界だった。
 一方はわたしたちがいる、平穏で退屈な日常が繰り返される世界。
 そしてもう一方は……
 そこが果たしてどんな世界なのか、わたしには分からない。
 でもあの人にとっては、その世界こそが心から望んだ世界に違いなかった。
 だからあの人は旅立ったのだ。
 すべての人から自分との思い出を消し去り、誰も悲しい思いをしないですむようにして。
 でも、わたしは忘れなかった。
 わたしだけは、あの人のことを覚え続けていた。
 大切な幼なじみのことを、わたしと詩子とあの人の三人で紡いだ思い出を、忘れたくなかったから。
 好きだったあの人に、いつかこの世界に帰ってきて欲しかったから。
 ずっと待っているんだってことを、知って欲しかったから。
 だからわたしは待ち続けた。
 あの人が、砂時計の砂の最後の一粒と共に旅立っていった空き地で。
 何日も、何ヶ月も、何年も。
 辛くはなかった。
 それであの人が帰ってきてくれるなら。
 寂しくはなかった。
 帰ってきてくれた時の喜びが、その分だけ大きくなると思えば。
 でも、あの人は戻ってきてくれなかった。
 止まったままの砂時計。
 それはわたしにとって、あの人との間の時が止まったままである限り、二度と動き出すことのないはずのものだった。
 そして……
「……嫌だよ……浩平……」
 砂時計をぎゅっと握りしめたわたしは、膝を抱えてその間に顔を埋める。
「どうして……わたしを置いていくんですか……」
 止まったままの砂時計。
 今度こそ、あいつのために動き出せるのだと思った砂時計。
 でもそんなわたしの思いをあざ笑うように、あいつもわたしを置き去りにして旅立っていってしまった。
 空よりも遠い、誰の手も届かない世界の果てに。
「どうして……またわたしを……ひとりぼっちにするんですか……」

                  §

 マッチから立ちのぼる燐の香りが、鼻先をくすぐる。
 ゆらゆらと揺れ動くそれは、幾つもあるロウソクの先に小さな篝火を点々と生み出した。
「さーって、これで準備完了だね」
 暗がりの中、ロウソクの光に照らし出されている詩子にうなずき返しながら、テーブルの上にあるそれに目を向ける。
「それじゃ、始めよっか」
「……はい」
「メリー……クリスマスっ!」
 詩子が叫ぶと同時に、ぱんぱんとクラッカーのはじける音が部屋中に響き渡った。
 火薬のかすかな匂い。
 続けて天井へと放たれたクラッカーからまき散らされた紙テープと紙片が、ふわふわと舞い降りてきた。
「…………」
「うわわっ!」
 わたしたちの髪といわず肩といわず、それが全身に絡みついてくる。
「……邪魔です」
 前髪から垂れ下がってくる紙テープをつまみながらわたしは、詩子に文句を言う。
「ちょ、ちょっと待って。いま明かりをつけるから」
 ごそごそと彼女が立ち上がる音がして間もなく、部屋がぱっと明るくなった。
 瞳に最初に映し出されたのは、まるでカツラをかぶっているみたいに髪を紙テープだらけにしている詩子の姿だった。
 それきりお互いに、相手の顔を見つめたまま黙り込んでしまう。
 どこか間の抜けた沈黙だった。
「ぷっ」
 先に吹き出したのは、詩子が先だった。
 右手でわたしを指差し、まるでコメディ映画でも見てるみたいにもう片方の手でお腹を押さえながら笑い出す。
「茜ぇ。なんかすっごいおかしいよ、それ」
「……詩子がやったんです」
 そう言いながら、つられるようにわたしも口元をゆるめてしまう。
「ごめんね」
 困ったように苦笑しながら詩子は、わたしの髪に絡まった紙テープを払ってくれた。
 ひと心地ついたのは、それから数分後だった。
「ちょっとやりすぎたかな?」
 千切れた紙テープを指にくるくると絡ませながら、詩子は小首を傾げる。
 わたしはうなずきながら、
「……はい。一度に十個は、さすがに多すぎると思います」
「てへへっ」
 照れ臭そうに舌を出す。
 そう……昔もいまも、彼女は少しも変わらなかった。
 いつだってマイペースで周りをぐいぐいと引っ張っていく詩子は、どんなに暗い雰囲気の場所もあっさりと和やかなものに変えてしまうのだ。
 そんな彼女とあの人は、会えばいつだって口喧嘩ばかりしていた。
 でもあの頃のわたしにとって、その光景ですら幸せの一部だった。
 何故なら、そこにはあの人がいたから。
 好きだったあの人が、誰からも忘れられることなく同じ時の中、世界の中に存在していたから。
「でも……今年もふたりだけなんて、ちょっと寂しいね」
「え?」
 心臓が、どきりと高鳴った。
 詩子は思い出してくれたのだろうか。
 心の片隅で期待にも似たそんな淡い思いを抱くと同時に、疑問がわき起こる。
 詩子が思い出してくれたのは、一体どっちなのだろう。
 幼なじみだった、あの人のこと?
 それとも、いまのわたしにとって誰よりも大切なあいつ……浩平のこと?
「澪ちゃん。来れなくて残念だったね」
 詩子のその一言は、不安と期待の間を揺れ動いていたはずのわたしの心を、いともたやすく元に戻してくれた。
「……仕方ありません」
 伏し目がちに、何ごともなかったように答えるわたし。
「去年みたいに、また三人でって思ったんだけど……家族でお出かけじゃ仕方ないよね」
「……はい」
「来年こそ、また三人で一緒にパーティやろうね」
「……そうですね」
 詩子、違います。
 四人です。
 小さくうなずきながら、でも言葉にならない声でつぶやくわたし。
「よーし、じゃあ澪ちゃんの分も頑張って食べるぞーっ!」
 いつの間にかナイフとフォークを握りしめた詩子が、かちかちと楽しそうに金属音を立てながら、ケーキが切り分けられるのを待っていた。
「……どれくらい食べます?」
「いっぱいお願いね」
「……はい」
 ナイフで切り分けたケーキを見つめながら、わたしは思う。
 忘れてしまった詩子。
 忘れていないわたし。
 果たしてどちらが幸せなのだろう。
 こんな辛い思いをするくらいなら、すべてを忘れてしまった方がよかったのだろうか。
 何も知らず、忘れたことさえ忘れてしまった方が幸せだったのだろうか。
 でも、わたしの中を浮かんでは消えてゆくその思いに対する答えは、どこからも返ってきてはくれなかった。

                  §

 綺麗な夕焼けだった。
 すべてのものを溶かしてしまうような、深い紅に染まった空が視界一杯に広がっていた。
 風は少し冷たい。
 晩秋の、もう間もなく訪れる冬の足音を肌に感じさせる冷たさが、そこにあった。
 中庭から見渡す校内に、人影は見当たらない。
 当然だった。
 じき日も暮れようとしているこんな遅い時間に、まだ学校に残っている生徒なんてほとんどいないはず。
 その中をわたしは、何をするわけでもなく芝生の上に座り続けていた。
 黄昏。
 昼と夜の間に横たわる、一瞬の輝き。
 でもだからこそその光景は美しく、見る者すべてに言葉にし難い寂寥感を与えてくれるのかもしれなかった。
 わたしの中で止まったままの砂時計。
 世界はそんなわたしとは無関係に、数え切れないほどの昼と夜とを繰り返しながら、淡々と歩み続けていた。
 あれから半年。
 学年が変わり、卒業の二文字が少しずつ身近なものに感じられてきたこの時期、誰もが自分の進むべき道を真剣に考え始めていた。
 進学。
 就職。
 クラスの中でも、毎日のようにそんな言葉が飛び交っていた。
 でも……わたしは待ち続けていた。
 周囲の喧噪をよそに、何ごともなかったように淡々と日々をすごしながら、あいつが帰ってきてくれるのを。
 誰もが忘れてしまい、待つ場所さえ奪われても、それでもわたしは待ち続けた。
 わたしにとって別離の場所となった、あの空き地。
 最初の、あの人との別れ。
 二度目の、あいつとの別れ。
 そのどちらも、別れは同じあの場所でのことだった。
 偶然なのだろうか。
 それともあそこには、わたしから大切な人を奪っていく何かがあるのだろうか。
 分からなかった。
 そんなことを考えても、たぶん無意味だった。
 あの空き地は、もう空き地ではなくなってしまっていたから。
 いまではそこは、建て売りの家々が立ち並ぶわたしの知らない場所になっていた。
 中にいる人を覆い隠してしまうほどに生い茂っていた草も、雨が降るとすぐにぬかるんでしまう地面も、記憶の中に残るすべての景色がそこから失われてしまった。
 さらさら……またあの音が聞こえてくる。
 それはまたひとつ、わたしの中に残る思い出が消えた音なのかもしれなかった。
「こんにちは、里村さん」
 不意に、頭上から声がする。
 思考を中断してゆっくりと顔を上げると、そこには穏やかな笑顔を浮かべながらわたしを見下ろす見知った顔があった。
「どうしたの、こんな場所で? もう、結構遅い時間だよ」
「……はい」
 彼女の名前は――長森瑞佳。
 わたしとは同じクラスで、あいつとは小学校の頃からの幼なじみだったはずの女の子。
 だったはず……そう、確かにそうなのかもしれない。
 過去形。
 仮定法。
 いまとなっては、そのふたつで語るしかない関係。
 何故なら、彼女もあいつのことをすべて忘れてしまっていたから。
 誰よりも長い間一緒にいて、誰よりもたくさんの思い出を持っているはずなのに。
 でも彼女は、浩平のことを覚えていなかった。
 自分に幼なじみがいることを、忘れてしまったことすら忘れてしまっているのだ。
『この人……茜の、知り合い?』
 あの時、詩子がそうだったように。
 いらなくなったノートのページを破り捨てるように、浩平との思い出のすべてを記憶から消し去ってしまったのだ。
「もしかして、誰かと待ち合わせ?」
 その言葉に、ちくりと胸が痛む。
 膝に手をついて、わたしの顔をのぞき込むようにかがみながら話しかけてくる彼女。
「……そうですね。待っているのかもしれません」
 小さくうなずきながら言葉を返す。
 嘘ではなかった。
 問題なのは、いつまで待っていればいいのかが分からないだけ。
 今日かもしれない。
 明日かもしれない。
 来年かもしれない。
 ただ……それだけのこと。
「あ、やっぱりそうだったんだ。でも、それだったらわたしはお邪魔かな?」
「……いいえ。構いません」
 少し申し訳なさそうに訊ねてきた彼女は、わたしの言葉に安心したのか目を細めると「それじゃ」と言って、横に腰を下ろした。
 そのまま夕焼け空を見上げ、うーんと大きく伸びをすると、
「綺麗な夕焼けだね。これなら明日も、きっといい天気だよ」
「……はい、そうですね」
 それきり言葉が途切れ、静寂が訪れる。
 吹き抜ける秋風が、三つ編みをゆらゆらと左右に揺らす。
「そう言えば里村さんの待ってる人って、クラスの人?」
 やがて思い出したように、彼女が口を開く。
 どう答えたものか少しだけ考えた後、結局一番無難な答え方をすることにした。
 ゆっくりとうなずく。
「……はい」
「うーん、誰だろう……」
 額に指を当てた彼女は、少し考えるようなそぶりを見せる。
 もしかすると、一生懸命クラスの男子の顔を思い出そうとしているかもしれない。
 心の片隅で、期待にも似た何かがちらりと顔をのぞかせる。
 幼なじみだった彼女なら、あいつのことを思い出してくれるかもしれない……それは希望という名の、小さな灯火。
「南くん?」
 でも彼女の口を突いて出てきたのは、違う名前だった。
「……違います」
「あれ、南くんじゃなかったんだ。それじゃあ誰なのかな?」
「……浩平」
「え?」
 わたしの言葉に、彼女は小首を傾げて見せた。
 ゆっくりと彼女に向き直りながらもう一度、今度は一語一語を区切るようにはっきりと発音する。
「折原……浩平です」
「おりはら……こうへい……」
 わたしが口にしたその名を、オウム返しのように繰り返す彼女。
 でもその表情は、初めて聞いた名前に戸惑っているみたいな、相変わらずどこか訝しげなものだった。
 やがて、困ったように照れ笑いを浮かべた彼女は、
「ごめんね、思い出せないや。あはは……わたし、記憶力とかあんまりよくないから。でもクラスの男子に、そんな人いたかな?」
「……はい。でも、前のクラスです」
 浩平と同じクラスだったのは二年生の時までだった。
 三年生になる前に、あいつはこの世界からいなくなってしまったから。
 だから、たとえ二年から三年の進級時にクラス替えがないのだとしても、いまのクラスに折原浩平という名の生徒はどこにもいなかった。
「そっか。じゃあ、分からないのも仕方ないね」
 微笑みを浮かべながら、納得したようにうなずく彼女。
 たぶんわたしの言葉を、一年の時のクラスだと好意的に解釈してくれたのだろう。
 そう、彼女は浩平を知らない。
 わたしだけが、この世界の中であいつのことをいまも忘れずに覚えている、ただひとりの存在なのだ。
 いつしか日は暮れ、中庭も薄暗闇に包まれ始めていた。
 昼の間はどこか所在なげにたたずんでいた街灯が、ようやく訪れた出番を喜ぶように周囲に煌々と光を放ち始めていた。
「……帰りましょう」
 ぱたぱたとスカートに付いた芝をはたきながら、その場から立ち上がる。
「えっ。もう待たなくていいの?」
「……はい。今日はもういいです」
 うなずくわたしに、まるで自分が待ちぼうけを食わされたみたいに、彼女はどこか寂しげな色を浮かべる。
 そしてちょっと怒った様子で、
「でも、ひどいよね。女の子との約束をすっぽかすなんて」
「……はい」
 来るはずがないことは最初から分かっていたことなのに、でも何故か彼女の言葉に同意してしまう。
 わがままで。
 嘘つきで。
 自分勝手で。
 子供っぽくて。
 人の気持ちなんか少しも考えなくて。
 でも……わたしにとって誰よりも、何よりも大切な人。
 頭の片隅でそんなことを考えながら、夜空にひとつふたつと瞬き始めた星を眺めやる。
 わたしの中の砂時計は、いまも動きを止めたままだった。
 さらさらと、あの日までは確かに聞こえていたはずの流砂の音は、どこからも聞こえてはこない。
「里村さん?」
 校門に歩き出していた彼女が、芝生でぼんやりとたたずむわたしを呼ぶ。
 ゆっくりと歩き出すわたし。
 彼女のいる場所、そこでわたしを待っているのは平穏で退屈な――大切な人の存在がすっぽり抜け落ちた、無味乾燥な世界だった。
 でも、わたしは信じていた。
 家族やクラスメート、幼なじみでさえあいつのことを全部忘れてしまっても、わたしが忘れない限りいつか必ず帰ってきてくれる日が来ることを。
 そして止まったままの砂時計が、新しく作られる思い出をわたしの中に編み込むために、再び動き出す日が来ることを。
 あの人は帰ってきてはくれなかった。
 でも、どうしてだろう。
 あいつなら必ず帰ってきてくれるに違いないと、今度こそ信じ続けることができた。
 だからわたしは、浩平のことを忘れない。
 何があっても、決して……
Case4に続く

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