『Never to be forgotten』
Update:1999.02.03
小鳥のさえずりが、頬をそっと撫でてゆく。
少しずつ目は覚め始めていたけれど身体はまだ眠ったままの、心地良さを伴ったそんな曖昧な時間。
射し込んでくる朝の陽射しが、目覚めを誘うようにまぶたを優しく揺すっていた。
今日もいい天気みたいだ。
そろそろ起きないと。
起きたらまず顔を洗ってご飯を食べて……忘れずにお弁当の用意もしておかないと。
下ごしらえは昨日のうちにしておいたから、あとはおかずを暖め直すだけ。
それから学校に行く前にちょっとだけ寄り道して、遅刻なんかしないように学校に連れてって……
――はぁっ。
本当に誰か、しっかりした面倒見のいい人がついていてあげないと、いつまでたっても心配で仕方がなかった。
いまはわたしがいるからいいけれど、でもだからといってずっと一緒にいられるわけじゃないんだから。
半分夢うつつな頭の中を、とりとめない思いが浮かんでは消えていった。
でもまだ目覚ましは鳴ってなかったからあと少しだけ……眠りの森の中に、もう一度ゆっくり足を踏み入れてゆくわたし。
おやすみ……なさい。
…………
……
「起きろーーーっ!」
「わぁっ!」
耳元に突然飛び込んできた大声に、反射的に飛び起きてしまう。
寝ぼけまなこのまま、慌てて辺りを見渡した目に飛び込んできたのは、ベッドのすぐ脇にある窓から枕元に半身を乗り出している男の子の姿だった。
「えっ、えっ?」
こんな場所に絶対いるはずない姿に、頭の中がパニックになってしまう。
もしかしてわたし、まだ夢を見てるのかな?
でも……
そんなわたしの思いをよそに、何が楽しいのか男の子はいまにも鼻歌を歌い出しそうなくらい満足そうな笑みを浮かべると、
「ほーれ。とっとと起きて学校行くぞ、瑞佳」
「こ、こ、こ、こ……」
「子?」
「……浩平っ!」
すぐ目の前にある、相手の鼻先を指さしながら叫ぶわたし。
でも当の浩平は、寄り目がちにわたしの指先を見つめながら、少しむっとした様子で眉をしかめて見せると、
「当たり前だ。オレが住井や南だったりした日には、それこそ一大事だ」
「そんなこと言ってるんじゃないよ。どうして浩平が、わたしの部屋にいるんだよっ!」
「どうしてって……おまえを起こしに来てやったんだよ」
「わたしを? どうして?」
いまだに状況が理解できないまま、首を傾げるばかりのわたし。
そんなわたしに、真顔で詰め寄ってきた浩平は、
「……びっくりしたろ?」
「えっ? う、うん。すごいびっくりしたよ。いきなり耳元で大声出されて、飛び起きたら浩平がいるんだもん」
その途端、悪戯が成功した子供みたいに「よしよし、大成功だ」そう言いながら、無邪気な笑みを浮かべる浩平。
「もしかして……そのために、わざわざ早起きして家まで来たの?」
「もちろんだ」
うんうんと、大きくうなずく浩平。
「はぁっ……」
「なんだ、不満そうだな。いっそのこと、寝覚めのキスでもした方がよかったか?」
「そ、そんなことしなくていいよっ!」
慌ててそう答えたけれど、でも「キス」の一言に心臓が高鳴ったのが自分でも分かった。
少しだけ、頬が熱くなってる気もした。
「そ、それより浩平、どうしてそんなところにいるの?」
「なんか変か?」
「そうじゃなくって、どうして玄関から入ってこないの? 浩平が来たって言えば、お母さんだって中に入れて……」
でもわたしは、最後まで話を続けることができなかった。
目の前で「ちっちっちっ」と人差し指を軽く振りながらウィンクをして見せた浩平は、まるで殺人事件の謎解きをする探偵みたいな調子で、
「その点に抜かりはない。なにしろこの猫屋敷の窓が、連中のために二十四時間年中無休で開店営業中なのは先刻承知だからな」
「そんなこと聞いてないもん」
予想はしていたけれど、あまりに見当はずれなその答えにため息がもれてしまう。
「そんなことより、時間。そろそろヤバイぞ」
「え。あ、ホントだっ!」
枕元の目覚ましを見ると、時計の針はいつの間にか遅刻ぎりぎりの時間を指していた。
掛け布団をはねのけて、慌ててベッドから飛び出す。
「わたし、まだお弁当の用意もしてないのにっ」
「縁がなかったと思って諦めろ」
「誰のせいだと思ってるんだよっ。浩平が、起こしになんか来たせいだよ!」
ぶつぶつ文句を言いながらわたしは、クローゼットにしまってあった制服を取り出し、大急ぎで着替えるためにパジャマのボタンに手をかけた。
その瞬間、大事なことを思い出したわたしはぴたりと手を止める。
まさか……恐る恐る振り返った先には、窓際でどこか所在なげに部屋の中を見回している浩平の姿があった。
「浩平っ。着替えるんだから、下で待っててよ」
「え? あ、オレのことは気にするな」
「気にするよっ! わたしだって、年頃の女の子なんだからね」
「まあ、そう言うなって。子供の頃、一緒に風呂に入った仲だろ」
そう言って浩平は、懐かしそうにどこか遠くを見るような眼差しを浮かべる。
でもわたしは、ぶんぶんと思いきり首を振りながら、
「そんなことしてないもんっ」
「なに今更照れてんだよ。だってほら……」
「もう、いいからっ!」
「……はいはい」
困ったように肩をすくめた浩平は、危なげない足取りで屋根伝いに下に降りていく。
その背中を無言で見送るわたしの口からは、今日早くも三度目になる大きなため息が自然ともれていた。
「はぁっ……」
§
あの日、公園の芝生でわたしに膝枕されながら、気持ちよさそうに目を細めていた浩平。
心の片隅でゆらゆらと頼りなげに漂う、そんな過去の情景。
わたしの前から、そしてこの世界から折原浩平という男の子の存在が失われて、初めて気づいたこと。
それは、どんなに仲のいい女の子の友だちよりもたくさんの――何倍も何十倍もの時間をわたしは、浩平と一緒にすごして来たんだっていう事実だった。
遠くの町から引っ越してきた浩平と初めて出会ったのは、まだ小学生だった頃。
最初の出会いがどんなだったかは、よく覚えていない。
でも気がつけば、それがごく普通の当たり前なことなんだって思えるくらい、いつだってわたしたちは一緒だった。
そんな時の中で紡がれた数え切れないくらいたくさんの思い出が、わたしの中でいまも静かに眠り続けている。
――春。
桜の舞い散る、穏やかな季節。
「わあっ! ほら浩平、桜だよ!」
「ん? ああ、そうだな」
「風に舞う花びら、とっても綺麗だね」
「そんなことよりオレは腹が減った」
「え?」
「春はどんだけ寝ても眠くなる上に、やたら腹が減るんだよな」
「もう、浩平ってば……情緒がなさすぎだよ」
「いいんだよ、オレは花より団子なんだから。それよか長森。いいか、オレたちはもう高校生なんだぞ」
「え? う、うん」
「だったら、たかが桜が咲いたごときでいちいち喜ぶのはやめろ。ガキじゃあるまいに」
「でも嬉しいものは嬉しいんだから、仕方ないよ」
「ほう。口ごたえをするか。なら、これはどうだっ!」
「わぁっ! ダメだよ浩平っ。そんなことしたら枝が折れちゃうよ!」
「わははーっ。秘技、桜吹雪っ!」
一緒に歩いた桜並木。
浩平がわたしのために降らせてくれた、桜吹雪。
目の前が桜一色になって、誰かに見つからないか心配で……でも少しだけ嬉しかった、そんなふたりだけの思い出。
――夏。
焼けつくような陽射しと、真っ青な空が広がる季節。
「ふう……今日も暑いぞ」
「うーん、本当に夏らしい陽射しだね」
「こんな日はプールにでも行って、心地よく水とたわむれてるのが一番だな」
「浩平の場合、目の保養にもなるもんね」
「その通り! プールとは、オレにとって趣味と実益を兼ねたパラダイスだ」
「はぁっ……」
「なんだ長森。おまえ、オレ様の高尚な趣味にケチをつける気か?」
「ううん、そんなことないよ。でも……」
「安心しろ。オレは、おまえのような貧弱バディに用はない。オレが求めるのは、もっとこうピチピチしたナイスバディな……」
「…………」
「こら、そこで黙り込むなよ。ここは『兄さん、なに言うてまんねん!』と、おまえがツッコミを入れる場所だろうが」
「そ、そうなの?」
「おまえ……何年オレの相方を勤めてると思ってんだ。十年前のあの日、武道館をオレたちふたりで笑いの渦で埋め尽くしたことをもう忘れたのかっ」
「そ、そんなの知らないよっ。それにわたし、相方なんかじゃないもん」
「なにっ。この期に及んで、まだそんなことを言うのかっ。オレは、おまえをそんな娘に育てた覚えはないぞ!」
「育てられた覚えなんかないよっ!」
「…………」
「…………」
「ちっ……仕方ない。とっとと行くぞ、長森」
「え? どこに?」
「どこって、プールに決まってるだろ。おまえが駄々こねるから、このクソ暑いのに時間を浪費してしまった。ったく、少しはオレを見習って大人になれよな」
「浩平、言ってることに全然脈絡がないよ……」
「うるさい。そうと決まれば善は急げだ、水着を取りに帰るぞ」
「あーっ。待ってってばー、浩平ーっ!」
一緒に行った市民プール。
イモ洗いみたいに人でごった返してて、泳ぐどころの話じゃなかったけれど、それでもわたしにはとても楽しかった思い出。
だって、浩平は気がついてくれたから。
あの日着た水着が……買ったばかりの水着だってことに、すぐに気づいてくれたから。
何だかんだ言いながら、ずっとわたしと一緒にいてくれたから。
――秋。
肌に心地よい涼風と、夜空を煌々と照らす月の季節。
「あっ、浩平っ。まだダメだよ」
「もぐもぐ……うん、なかなかいけるな、これ」
「まだ誰も来てないんだから、みんな揃うまで先に食べちゃダメだってば」
「長森のケチ。それともなにか? おまえはオレに飢え死にしろと言うのか」
「ケチじゃないよ。だいたい浩平が、勝手に約束の時間より一時間も早く来るからだよ。それに浩平を放っておいたら、絶対全部食べちゃうもん」
「いくらオレでも、そこまではしないぞ」
「……嘘だよ」
「嘘って、おまえ……」
「ちゃんと覚えてるんだからね、わたし。前に家で新年会をした時、作ったお雑煮『毒味をしてやる』って言ってみんなが来る前に全部食べちゃったの、浩平だよ」
「うっ……そ、そんなこともあったな……」
「だから、今日はダメだかんね。わたしがみんなから怒られるんだよ。『瑞佳の料理楽しみにしてたのに。どうして全部食べさせちゃうんだ』って」
「ちぇっ……うまかったのにな」
「えっ。本当?」
「あ?」
「わたしの作ったお団子、おいしかった?」
「あ、ああ。やっぱ長森は、なに作らせても上手いと思うぞ。店で買ってきた団子と同じくらいうまかった」
「うーん……そこまで言われると悪い気はしないね、あははっ。じゃあ、あとひとつだけならいいよ」
「い、いいのか?」
「うん」
「んじゃまあ、遠慮なく食うとするか。もぐもぐ……」
「あっ、ほら浩平。ほっぺにあんこが付いてるよ。もう……仕方ないなぁ」
クラスの友だちみんなで集まってやったお月見。
たくさん作ったはずのお団子も、みんなが来る頃には浩平がひとりで半分以上食べてしまって、結局佐織たちに怒られてしまった。
でも、それでもわたしは嬉しかった。
浩平がわたしの作ったお団子を、おいしそうに食べてくれたから。
普段滅多に見せてくれない無邪気な笑顔を浮かべながら、ほめてくれたから。
一日が終わるたび、ひとつずつ増えてゆく浩平との思い出のかけら。
それは海の底に砂が積もり、長い年月をかけて地層となっていくようにわたしの心を、少しずつ浩平とすごした時間で埋め尽くしていった。
だからかもしれない。
心の奥底で、わたしは信じていた。
こんな毎日がずっとずっと、いつまでも続くのだと。
平凡で穏やかで変わりばえのない、でもだからこそ一緒にいられることに幸せを感じることのできた、終わりのない時間が。
§
中庭を吹き抜けてゆく風の冷たさに首をすくめたわたしは、風が止むまでの間身じろぎひとつせず、じっとその場にたたずみ続ける。
目を開ける。
仰ぎ見れば、夏と比べて穏やかな装いを浮かべる青空が広がっていた。
空のただ中を浮かび漂う雲が、視界の中をゆっくりと流れてゆくのを、手にしたお箸の動きを止めてぼんやりと眺め続ける。
不意に頬に何かが当てられたのは、その時だった。
「熱いっ!」
頬に痛みを覚えたわたしは、小さな悲鳴を上げながらその場から飛び退いた。
すると今度は、固い何かに頭をぶつけてしまう。
「はぅーっ……」
ずきずきと痛む頬と頭を両手で押さえながら振り返れば、そこにはどこか真面目くさった様子の、浩平の顔があった。
ううん、違う。
平静を装っていたけれど、浩平の目はわたしの反応を楽しむような笑いに満ちていた。
「よっ、瑞佳」
まるで偶然会ったみたいに、挨拶を口にする浩平。
目の前にいる浩平。
恐る恐る首を回すと、そこにはわたしの頭越しに頬に回された烏龍茶の缶があった。
「……よお、じゃないよっ。熱かったんだからね、もうっ」
「ぼけらーっと口開けて空なんか見てると、虫が飛び込んでくるぞ」
わたしの抗議を無視して芝生に腰を下ろした浩平は、手にしていた紙袋からパンを取り出すと、無言で食事を始めてしまう。
一度だけ小さくため息をついてから、気を取り直したわたしは、
「今日は教室で食べないの?」
「ああ、天気がよかったからな。しっかしおまえ、相変わらず飯食う時も牛乳なんだな」
そう言いながら浩平は、パック牛乳に目を向ける。
「だって、健康にいいんだもん」
「あのな……ご飯に牛乳だぞ。どう考えたって食い合わせ悪いって」
「そんなことないよ。おいしいもん」
ストローを口に含んでちゅーちゅーと牛乳をすすってから、今度は手にしたお箸でご飯を口に運ぶ。
ゆっくりと咀嚼しながら、
「もぐもぐ……ほら、おいしいよ」
「って、食ってるのはおまえだろ。味なんかオレに分かるか」
「じゃあ浩平も食べてみる? はい、あーん」
浩平を促すように自分でも口を開けながら、お箸でつまんだご飯を差し出す。
一瞬何か言いたそうな顔をした浩平だったけれど、でもすぐに「あーん」と大き口を開けてくれた。
「はい、牛乳」
「うーむ……まったりとして、しかもしつこくない芳醇な味わい……」
腕組みをした浩平は、口に含んだご飯を噛みながら首を傾げては、ぶつぶつとよく分からないことを言いだす。
「ね、おいしいっしょ?」
「……三点」
「何点満点の?」
「百点」
「えーっ! そんなことないよ。こんなにおいしいんだから、もっといい点くれたっていいと思うけどなぁ」
「よし、分かった。じゃあその卵焼きくれたら、あと三十点追加してやろう」
そう言うや否や、わたしの返事も聞かずにおかずの中から抜き取った卵焼きを、そのまま自分の口にぽいと放り込んでしまった。
「あーっ! 最後に食べようと思って、取っておいたのにーっ」
「もぐもぐ……うん、うまいぞ。これなら五十点やってもいいな」
「はぅーっ。ひどいよ、浩平……」
がっくりと肩を落としながらわたしは、穴が空いたようにそこだけ底が見えているお弁当箱を見つめる。
お箸の先で、ほんの少し前まで卵焼きがあった場所を未練がましくつつく。
「分かったよ、ほれ」
その声と同時に、さっきまで卵焼きがあった場所に飛び込んできたのは、一本のウィンナーソーセージ。
慌てて顔を上げる。
するとそこには、バツが悪そうにそっぽを向く浩平の横顔があった。
手にしていたパンの具がなくなっていたから、このソーセージはきっとそこにあったものに違いなかった。
「でも浩平、それじゃパンしか残らないよ」
「いいって。腹に入れちまえば同じだ」
「それじゃ浩平に悪いよ……じゃあ、はい。ソーセージの代わりにこれ乗せたげるね」
空っぽになってしまったパンの上にわたしは、あらかじめ半分に切ってあったミニハンバーグを乗せてあげる。
「おっ、なんかさっきより豪華になったぞ」
「そっかな? だってこれ、レトルトのハンバーグだよ」
「んにゃ。少なくともオレ的には、当社比三倍くらい豪勢なパンになった気がする」
「……当社比って、なにと比べて?」
いつものことだったけれど、わたしには時々浩平の言っていることが意味不明になる。
でも浩平は、そんなことにはお構いなしといった様子で、
「他人のそら似だ。まあ気にするな」
「浩平、そのたとえ変だよ」
「ふぉうは?」
ハンバーグサンドに早変わりしたパンを口一杯にほおばりながら、聞き返してくる浩平。
「……うん」
「いふものほろら。ひにするは」
「そだね」
「ふぉういへはなはもひ。おふぁへ、ひょうはひまは?」
「今日? うーん、そうだね……」
部活の方は確かミーティングだけって聞いていたから、今日は早く終わるはずだった。
「少し待っててくれるなら、うん、大丈夫だよ」
「ほうは。はっはら……」
なおも会話を続けようとする浩平の口から、パンのかけらがぽろぽろと飛んでくる。
慌ててそれを避けたわたしは、
「浩平。ちゃんと呑み込んでから話さないと、お行儀悪いよっ」
「ふぁいふぁい」
「はぁっ……」
少しも反省した風のない浩平を前にわたしの口からもれたのは、いつもと同じ大きなため息だった。
§
本棚の片隅で、ずっと眠り続けていたそれを取り出す。
アルバム。
久しぶりに開いたページの中には、再びわたしと相見える日を待ち望んでいたたくさんの思い出が、静かに横たわっていた。
「懐かしいな……」
目を細めながら、アルバムのページをめくってゆく。
文化祭で開いた模擬店での、ウェイトレス姿のわたし。
体育祭で声援を送る、体操着のわたし。
テストの打ち上げで行ったカラオケで、マイクを握っているわたし。
みんなで海に行った時にしたスイカ割りで、目隠しをされて頼りなげに歩いている水着姿のわたし。
服装も年齢もまちまちな、たくさんのわたし。
でも、みんな同じわたし。
そして気がつく。
わたしのすぐ側に、いつだって浩平の姿があることを。
小学校、中学校、そして高校と……ずっと同じ時、同じ景色の中をわたしたちふたりは歩き続けてきた。
「……よっ、長森」
そんな風に何ごともなく姿を現した浩平は、いつだってすべてを引っかき回すだけ引っかき回していくのだ。
でもそんな浩平のことが、わたしはずっと好きだった。
楽しかった思い出のほとんどは、浩平と一緒に作ったものだった。
もちろん一緒に作ったのは、楽しい思い出ばかりじゃない。
浩平には悪戯もされたし、意地悪もさんざんされた覚えがあった。
でもどうしてだろう、そんなことをされてもわたしが浩平のことを恨んだり、嫌ったりすることは不思議となかった。
こういうのをうまが合う、って言うのだろうか。
両手で年を数えるのが難しくなった頃に出会ってから、わたしたちはつかず離れず……そんな関係をずっと続けてきた。
親友みたいな。
家族みたいな。
恋人みたいな。
そのどれにも当てはまらない、曖昧な関係。
周りの人たちは、そんなわたしたちにどこか不思議そうな顔をしたりもするけれど、でもそんなのはどうでもよかった。
だってそれが、わたしと浩平にとっての普通だったから。
選ばないことを選んで、わたしたちは何年もずっと同じ時をすごしてきたのだから。
でも……
ずきりと胸が痛む。
あの冬の日、わたしたちは選んでしまった。
そして選んでしまったからこそ、わたしたちはわたしたちじゃなくなってしまった。
最初はそれが間違いだったなんて思いもしなかった、それくらい些細な過ち。
でもそれは、曖昧だったからこそ保たれていたはずのわたしと浩平の関係を、間違いなくおかしなものにしてしまった。
そうなるまでは、どんなことだって気兼ねなく話せたはずのわたしたちの間は、気がつけばかみ合わない歯車のようにぎくしゃくしたものに変わり果ててしまっていた。
あと少しですべてを失ってしまうその直前になって、わたしたちはようやく何が間違っていたのかに気がつくことができた。
そう……わたしたちは間違っていたのだ。
クリスマスのやり直しをしようとした、年が開けて間もなくのあの夜。
ふたりで一緒に、夜空に向かって「はーーっ」をしたあの夜。
「別れよう」
浩平のその一言でわたしたちは、元の親友みたいな、家族みたいな、恋人みたいな……そんな曖昧な関係に戻った。
どれかひとつを選んだ途端、他のすべては失われてしまう。
どうしてなんだろう。
どうして、全部を一緒にしちゃダメなんだろう。
ずいぶん前に浩平との仲を佐織に聞かれた時、思ったことを素直に答えたら彼女に言われたことがあった。
「変じゃないかな、それって」
少し困ったように笑いながら、そんな風に。
その時は「変かな?」と首を傾げるだけだったけれど、いまなら彼女の言おうとしたことが少しだけ分かるような気がした。
恋人になったわたしたち。
でもそのせいでわたしたちは親友としての、家族としてのつながりをなくしてしまった。
それは仕方がないことなのかもしれない。
何かを手に入れるためには、必ず代償が必要なんだから。
でも……そんなのは嫌だった。
浩平と一緒にいたかっただけだから、わたしは。
わたしは浩平が好き。
ただ、それだけ。
親友の浩平。
家族の浩平。
恋人の浩平。
どれかひとつを、そんな肩書きが欲しかったわけじゃない。
星の綺麗な夜道を肩を並べながら、空を見上げては「はーーっ」を一緒にしたりする……その時、横にいてくれるのが浩平じゃなければダメなだけ。
わたしの望みは、贅沢なんだろうか。
周りの人たちから見て、変なんだろうか。
「いや、いくら変だとしても、ふたりがそう思わなければ、それがオレたちの普通なんだよ」
休み時間。
校舎の階段に座り、目の前を行き来する生徒たちをふたりで眺めていた時、浩平はそう言ってくれた。
「そだね。これが、わたしたちの普通だよねーっ」
「ああ」
そう、周りの目なんて関係ないのだ。
親友、家族、恋人……その全部が、わたしと浩平を繋ぐ大切な絆なんだから。
「うん……そうだよね。わたしたちは、わたしたちだもん」
アルバムの中から、わたしに向かって笑いかけてきている浩平。
その笑顔を前にわたしは、小さくうなずきながら誰に話しかけるでもなく言葉を紡ぐ。
「だから、関係……ないんだよね」
§
「うわーっ。綺麗だねっ」
視界一杯に広がる満天の星空を仰ぎ見ながら、わたしは思わずそんな歓声をあげてしまっていた。
肌に触れる空気は冷たい。
でもそんなことを忘れさせてくれるほどに、綺麗な夜空だった。
「ああ、今日は月が出てないからな」
数歩遅れて後をついてくる浩平が、星空を見上げながら口を開く。
「そっか。だから綺麗なんだね」
「ああ」
屋上の中央で足を止める。
天を仰ぎ見たままわたしは、息をすることすら忘れてしまったようにじっとその場にたたずみ続けた。
浩平も、黙ってわたしの横にいてくれる。
時の流れが止まってしまったような、穏やかな世界。
どれくらいそうしていただろう、いい加減首が疲れてきたわたしは視線を戻しながら、
「あははっ。ずっと上を見てたら、ちょっと首が疲れちゃったよ」
「ああ、そうだな」
「どしたの、浩平? 今日の浩平、なんか変だよ」
相変わらず夜空を見上げたままの浩平に、小首を傾げるわたし。
「そうか?」
「うん。だって、さっきから『ああ』ばっかりなんだもん」
「ああ」
「ほら、まただよ」
くすくすと笑みをもらしてしまう。
さっきから、小さくうなずいては「ああ」ばかりの浩平。
いま、何を考えているんだろう?
何に思いを馳せているんだろう?
いつもなら少しくらい会話がかみ合わなくても、何となくお互いの考えていることは分かるはずなのに。
でもいまは、どうしてか浩平の心が見えなかった。
「……約束だったからな」
不意に、浩平が口を開く。
それは穏やかで落ち着いた口調だったけれど、でもわたしにはそれが、浩平が何かを我慢してるからなんだってことにすぐ気がついた。
心の片隅に生まれた、小さな染み。
それは……不安。
根拠も何もなかったけれど、悲しさとも寂しさともつかない、言葉にし難い思い。
その瞬間、わたしの中で何かがちくりと痛んだ。
「約束?」
「ああ、おまえとの……」
「わたしと? でもわたし、浩平とそんな約束したっけ?」
「ずっと昔にな」
それきり、また黙り込んでしまう。
一生懸命に記憶をさぐり、浩平と交わしたらしい約束のことを思い出そうとした。
小学校の頃。
中学校の頃。
そして高校に入ってから……
「あははっ。わたし頭悪いから思い出せないや。ごめんね、浩平」
結局思い出せなかったわたしは、照れ笑いを浮かべながら浩平に謝る。
でも浩平は何も言わない。
ただじっと、ズボンのポケットに両手を突っ込みながら、もの思いにふけるみたいに夜空を見上げるばかりだった。
「ね、こうへ……」
「ごめんな」
「えっ?」
わたしの言葉をさえぎるように、浩平がぽつりと口を開く。
そして笑みを浮かべる。
寂しげで儚げな、いまにもこの場から消えてしまいそうな、そんな悲しそうな微笑み。
「オレは、おまえにとっていい兄でいられたかな?」
「きゅ、急になにわけの分からないこと言いだすんだよ、浩平っ」
「馬鹿で、乱暴で、わがままな兄ちゃんだったけど、それでもおまえの笑顔が見れたら、ずっと一緒にいれたらそれだけで……ぼくは幸せだったんだ」
「浩平っ!」
大切な人の名を叫びながら、わたしは手を伸ばす。
でも……目の前にいるはずの浩平を、手を伸ばせば届く場所にいるはずの浩平を、わたしの手は掴むことができなかった。
「ごめんな、み……」
浩平の紡いだ言葉、それを耳にした瞬間理解する。
それはわたしじゃない、他の誰かのために紡がれた言葉だった。
だからわたしは首を振る。
「違うよっ、浩平。わたしは瑞佳だよ。そんな名前じゃないもんっ!」
「…………」
「だからいつもみたいに呼んでよ、瑞佳って。名前じゃなくたっていいよ。ほらっ、昔みたいに長森……って!」
空を掴むばかりのわたしの手。
「もう、行かないと……」
「どこに行くんだよ、浩平っ。嫌だよっ、浩平がいなくなっちゃうなんて、わたし絶対に嫌だもんっ!」
波に打たれた砂の城が崩れていくみたいに、さらさらと無数の粉となってその身を風に吹き流させてゆく浩平。
それを止めようと、浩平の背中に両手を回すわたし。
でもわたしのその行為をあざ笑うように、両腕は虚しく宙を抱きとめるばかりだった。
「さよなら」
それが最後の一言。
残されるわたしに向けられた、別離の言葉。
「行っちゃ嫌だよっ!」
その声は、浩平の耳には届かなかった。
ひとりぼっちで、世界のただ中に取り残されてしまったわたし。
「はぅぅっ……」
浩平の姿が完全に消え去った後、わたしは力尽きたようにその場にひざまずく。
床に手をつく。
視界がじんわりとにじみ始めていた。
やがてコンクリート敷きの床の上に、瞳から流れ出した涙滴が小さな染みをぽつぽつと穿ち始める。
秋の終わりを感じさせる冷たい夜風が、肌を撫でてゆく。
そして泣き続けるわたしの背中を、煌めく無数の星空が言葉なく見つめていた。
§
不意に、背後から肩を叩かれた。
窓際の席で夕日を見つめるうち、いつの間にかうたた寝をしてしまったわたしは、突然のことにびくりと身体を震わせ、慌てて振り返る。
寝ぼけ眼のせいなのか、それとも窓から射し込んでくる陽射しのせいなのか、そこにいるのが誰なのかがすぐに分からなかった。
だからかもしれない。
わたしは、心の中の願望をそのまま口にしそうになってしまう。
大切な人の名前を。
「こ……」
「瑞佳。こんなとこで、なにしてんの?」
違った。
この声は、女の人のもの。
夕日に慣れてきた瞳にやがて映し出されたのは、同じクラスの七瀬さんだった。
頭の左右に長く伸ばしたお下げを軽く揺らしながら、不思議そうに首を傾げている。
「はぅー……ごめんなさい」
「うん、別にいいけど」
微笑みながら七瀬さんは、わたしの前の席に腰をおろす。
「で、どうしたの。こんな時間に?」
「え? あ、うん……」
「この時間じゃ、部活だってとっくに終わってるはずなのに……もしかして忘れ物?」
屈託ない様子で、七瀬さんはそう問いかけてきた。
そんな彼女にわたしは、返事の代わりに曖昧な笑みを浮かべながら、反対に「七瀬さんこそどうしたの?」そう訊ね返してみた。
「あたし? あたしはクラブ見学の後、図書室で調べ物をしてたらね」
「そうなんだ」
ちょっとだけ他人行儀な話し方。
二年の冬に、このクラスに転校してきた七瀬さん。
運悪く席が浩平の前になったせいで彼女は、毎日のような浩平のお節介と悪戯に迷惑そうな様子をしながら、でも何日かたってからはそれなりに順応してすごすようになっていた。
昼休みに、わたしと浩平と七瀬さんの三人でお弁当を食べたこともあった。
でも三年に進級してから――浩平がいなくなってしまってから、彼女と話をすることはほとんどなかった。
理由は簡単。
だってわたしと彼女の間を繋いでいたのは、浩平の存在だったから。
そして浩平という存在がこの世界のどこからも失われてしまったいま、わたしと七瀬さんとの間に残ったのは、ただのクラスメートとしての関係だけだった。
そんな彼女が、わたしの前にいる。
「夕焼け、綺麗だね」
机に頬杖をつきながら外を眺める七瀬さんが、ぽつりとつぶやく。
つられるようにわたしも、目を茜色の空に転じた。
瞳に映る世界のすべてが、大地の中へと没しようとしている陽光の作り出す紅一色に染め上げられていた。
その美しさに心を奪われるまま「……うん」と、小さくうなずくわたし。
静かな時間が流れていった。
時の流れを体現するように少しずつ、その色合いを濃くしてゆく夕暮れ時の空。
それを言葉なく見つめる、わたしたち。
「ね、瑞佳。最近あんた、なんか元気ないよね」
「えっ? そっかな?」
「うん。みんな心配してるよ。さっきみたいに時々、心ここにあらずって感じでぼーっとしてるって」
……心。
わたしの心は、一体どこにあるんだろう。
浩平がいなくなってからも、世界は何ひとつ変わることなく、淡々と時計の針を進め続けていた。
刻一刻、見知らぬ明日へ向かって進んでいく世界。
そしてあの日――浩平がいなくなった瞬間に留まり続けることを願ったわたしも、否応なしに未来へと向かって押し流されていた。
かつて信じていたもの。
そうあることを願っていたもの。
でもそれは……雨上がりの夕暮れ時、川沿いの小道をどこまでも追いかけていった虹に手が届かなかったように、最初からありはしなかったのだ。
永遠なんて、どこにもなかったのだ。
「わたしね……最近よく夢を見るんだ」
自然と口をついて出てきた言葉。
「夢って、どんな夢?」
こんなこと七瀬さんに……浩平のことを忘れてしまった彼女に話したって仕方ないのに、心の片隅でそう思いながらも口は動き続けた。
「退屈で穏やかで変わりばえがしなくて……でもね、わたしにはとっても幸せな毎日が続く夢なの」
「なんか、見てるだけでますます眠くなりそうな夢ね」
少し呆れた様子の七瀬さん。
「あはは、そうだね。わたし以外の人が見ても、ちっとも面白くない夢かもしれないね。でもその夢にはね、とっても大切な人が出てくるんだよ」
「大切な?」
「うん。ずっとずっと、誰よりも長い時間を一緒にすごしてきた一番大切な人」
目を伏せながら、一度言葉を切る。
脳裏で夢で見た情景を思い起こしながら、わたしは口を開く。
「その人はね、何度も何度もわたしの夢に出てくるんだ。朝、わたしの部屋に窓から入ってきて起こしてくれたり、お昼にはふたりでお弁当のおかずを取り合ったり……それから、一緒に月のない夜の空を眺めたりもしたかな」
「へえ。瑞佳って幼なじみ、いたんだ?」
少し羨ましそうな顔つきで、口を開く七瀬さん。
わたしは無言のまま微笑みを浮かべ、でも胸の奥底でちくちくと刺すような小さな痛みを覚えながら言葉を続けた。
「でもね、もういないんだ」
「いないって……もしかして死んじゃったの?」
「ううん、違うよ。わたしを置いてきぼりにしてね、遠くに行っちゃったんだ」
「ふーん。でもそれなら、手紙か電話でもすればいいじゃない」
「そだね……」
違うんだよ、七瀬さん。
浩平は、行ってしまったんだよ。
どんなに手を伸ばしても決して届くことのない遙か彼方の、空の高みの向こうに。
「だからわたしね、夢を見るの。もしその人とずっと一緒にいられたら、きっとこんなことをしてるんだろうなって、そんな夢を」
そこで言葉が途切れる。
わたしたちは、何となくその静寂の中に身を委ねるように、ゆらゆらと黄昏に映える教室の中を漂い続けた。
……浩平。
……会いたいよ。
……早く、戻ってきてよ。
……ずっとずっと、待ってるんだよ。
沈黙が心の奥底から紡ぎ出してくる、幾つもの思い。
いつしかわたしの心を埋め尽くしたそれは、外にあふれ出ようとする。
「瑞佳、もしかして泣いてるの?」
その声で我に返ると、すぐ目の前に心配そうな顔つきでわたしをのぞき込んできている七瀬さんがいた。
慌てて首を振ると、無理矢理に笑顔を作りながら、
「そ、そんなことないよっ。泣いてなんか……いないよ」
「無理しない方がいいよ。泣きたい時は、泣いた方が楽になることだってあるしさ」
「うん。ありがと、七瀬さん。でも……」
「でも……?」
そこで言葉を切ったわたしに、七瀬さんは次の言葉を待つように首を傾げている。
だからわたしは今度こそ満面の、いまのわたしにできる最高の笑みを浮かべながら言葉を紡ぎ出した。
「……約束なんだ、うんっ」
そう、わたしは待ち続ける。
約束した通り浩平がいなくなってからも、寂しさに負けそうになっても一生懸命に笑い続けながら。
引きつりそうな限界の笑顔で、笑いながら。
そして戻ってきてくれた時、今度こそわたしたちだけにしかできない「普通」の――親友としての、家族としての、そして恋人同士としての思い出をいっぱい作っていくのだ。
だからそれまでは、ふたりで作った思い出を大切に抱えながらわたしは待ち続ける。
七瀬さんや住井くんたちクラスのみんなや先生、血を分けた家族だったはずの由起子おばさまでさえ、浩平のことを全部忘れてしまった。
でも……だからこそわたしは、浩平のことを忘れない。
大切な親友のことを。
大切な家族のことを。
そして誰よりも何よりも大切で大好きな、恋人のことを。
何があっても、決して……