Never to be forgotten
Update:1999.02.20





Case5 Rumi

 ――いのちみじかし、こいせよおとめ。

 いつどこで、誰から教わったのかはもう覚えていない。
 でもあたしにとってそれは、いつの頃からかお気に入りの歌だった。
 父か母のどちらかから何かの折りに教わったのか、それとも友人の誰かが歌っていたのを聞いたのか。
 もしかしたらドラマか映画のワンシーンを、たまたま覚えていただけなのかもしれない。
 最初のきっかけはともかくあたしは、いつしかひとりでいる時に何とはなしにそれを口ずさむようになっていた。
 乙女が乙女でいられる時間は短い。
 時の流れは、容赦なく乙女を乙女でない存在にしてしまう。
 だから恋を――悔いを残さないよう精一杯頑張れ。
 ゆるやかなテンポで始まる出だしのフレーズを、あたしは自分なりにそう理解していた。
 乙女……そして恋。
 それは中学を卒業するまで、あたしにとって縁もゆかりもないはずの言葉だった。
 中学の三年間を通してずっと、剣道をやり続けてきたあたし。
 元々身体を動かすのは好きだったから、入学式から少し経った頃あたしは、軽い気持ちで剣道部の部室のドアを叩いた。
 でも実際にやってみるとそこは、あたしが想像していた以上にきつい世界だった。
 部室は年中汗臭く、夏には防具を身につけさせられて我慢大会さながらに汗びっしょりになり、冬になれば氷みたいに冷たい板敷きの床を裸足で歩かされる。
 並以上の体力と精神力がなければ、とてもじゃないけど耐えられる代物じゃなかった。
 でもあたしは、そこで頑張り続けた。
 毎日、日が暮れるまでひたすら稽古に励み、腕と脚を痣だらけにしながら少しずつ実力と結果を積み重ねていった。
 楽しかった。
 春。
 一心不乱に素振りをするその周りを、惜しげなく舞い散る桜の花びら。
 夏。
 稽古後の汗だくになった身体に心地よい、縁側から流れ込む涼風。
 秋。
 窓からのぞく青空を横目に、競争さながらにみんなでやった雑巾掛け。
 冬。
 床板からしんしんと伝わってくる、足の裏を刺し貫くような冬の寒さ。
 すべてが思い出となったいまでは、懐かしさばかりを感じる四季折々のそんな思い出。
 それは部活で汗を流し、先輩や後輩も関係なしに部員のみんなと笑いあうことのできた、何よりも幸せな日々だった。
 だからあの頃のあたしは、信じていた。
 くるくると風車が回るように、変わりなく巡り続ける世界がいつまでも――永遠に続くのだと、何の疑問も感じることなく。
 でも……
 永遠なんてなかった。
 そんなもの、どこにもありはしなかった。
 ある日、前触れもなくあたしの腰を襲った、刺すような鋭い痛み。
 腰の故障……たったそれだけのことであたしは、あたしにとっての楽園だと信じていた世界から追放されてしまった。
 あたしは、剣道を失った。
 もう二度と、あの楽しかった世界に戻れなくなってしまったのだ。
 笑えるくらいに呆気なく、行き場を失ってしまったあたしの心と身体。
 でも楽園を――心からの笑顔を浮かべることができる場所を失っても、それでも日常は何ひとつ変わることなく時を刻み続けた。
 それから一年。
 お世話になった先輩の薦めで、あたしは竹刀の握れない女子部員のまま剣道部の部長を一年間勤め上げた。
「髪を伸ばして、リボンをつけろ。そうすれば、違う幸せがおまえを待ってるよ」
 部長として迎えた最後の試合の日に、先輩から贈られたはなむけの言葉。
 それを聞いて、あたしは初めて気がついた。
 いままで一度も意識したことのなかった見知らぬ世界が、本当は手の届きそうなくらいすぐ側に存在しているんだってことを。
 だからあたしは歩き出した。
 いままでとは違う、何かを目指して。
 髪を伸ばして。
 リボンをつけて。
 女の子としての幸せ――恋する乙女になるために。

             §

 こつんと、頭に何かが当たる感触。
 頭の上を軽く跳ねたそれは、弧を描きながら机に広げたノートの上に転がり落ちる。
 それは、四つ折りにされた紙片だった。
 ちらりと周囲に目配せする。
 誰とも目が合わない。
 と言うことは、これを投げてきた犯人はあたしの知る限り、ひとりしかいなかった。
 周りから見えないように、手の中でこっそり開けてみる。
 薄い罫線が等間隔に引かれた、どうやら元はノートの一部だったらしいその中央に、オレンジの蛍光ペンで『眠いぞ』の三文字が踊っていた。
 一目見ただけで男の子のものだって分かる、汚い字。
 思わず「はぁっ……」と、小さくため息をついてしまう。
 それから紙片の余白に、筆箱から取り出したピンクの蛍光ペンを滑らせる。
『バカ』
 それがあたしの返事だった。
 肩越しに振り返りもせずに勘だけでぽいと、元通り四つ折りにしたそれを投げ返す。
 かさかさ……どうやらうまく届いたらしい。
 返答は思いのほか早く、その内容はいかにもあいつらしいものだった。
『バカと言ったやつがバカ』
 追い打ちをかけるように、次の紙つぶてが飛んでくる。
『よって、今日から七瀬のあだ名はバカバカ星人』
 毎度のことと思いつつ、それでもやっぱりあいつ――折原の臆面のない言いぐさに、少しだけ腹が立った。
 蛍光ペンを握りしめる右手に、思わず力が入ってしまう。
 それからは、わけの分からない罵詈雑言の応酬だった。
『なら、あんたはエロエロ星人よ』
『なんでだよ?』
『見たまんま』
『そんなことはない。オレは好青年』
『「自称」好青年ね』
『だったら七瀬は、「他称」暴力暴虐豪快豪気女だ』
『勝手に言葉を作るなっ!』
『そんなことはない。大体こうして自らの造詣を深め、同時に救いのないバカバカな七瀬に温情をもって知識を恵んでやっているのだ。感謝するように』
『誰がバカバカよ。そんなくだらない話をするために、あたしの乙女の時間を邪魔するんじゃないっ!』
「……乙女?」
「そうよっ! 藤村の『初恋』を心の奥に刻み込み、恋に恋するセンチメンタルな少女の心の移ろいを味わう……乙女にしか為せない技よ」
「七瀬なら『ナメないでよ……七瀬なのよ、あたし! こんなちんけなリンゴ、チマチマ食ってられるかぁっっ!』とか叫んで、豪快に丸かじりしてる方がよっぽどお似合いだ」
「するかっっ!」
 周囲からの冷たい視線を感じたのは、拳を固く握りしめながらそう、折原に向かって叫び返した時だった。
 え……叫んだ?
「あ、あれっ?」
 慌てて両手を口元に当てながら左右を見渡せば、呆気にとられたといった感じの視線が、教室中からあたしに集まっていた。
 教卓には無言のまま、こめかみに青筋を立てている現国教師の姿。
 しまった……後悔とそして羞恥の思いが、身体の中からふつふつとわき起こってくる。
 折原の言葉につい熱くなってしまい、挙げ句いつの間にか筆談というプロセスを、あたしはすっ飛ばしてしまったのだ。
「え、えっとぉ……」
「……七瀬」
「はいっ」
「藤村を愛読してくれるのは、先生嬉しいぞ」
「あ、ありがとうございます」
「でもな……そういう話は、少なくとも授業が終わってからやってくれ」
「そうよそうよー。七瀬さんったら、授業妨害よぉー」
 背後から他人事のように聞こえてくる、誰の声かすぐに分かるわざとらしい女言葉。
 言うまでもなく、折原だった。
「ぐっ……」
「おいこら、相手をしていた後ろのおまえも同罪だ! 七瀬、それに……」
 先生が折原の名を口にしようとしたその時、どうしてかそこで言葉が途切れてしまった。
 間の抜けた感じの、そんな静けさ。
 不思議に思ったあたしの瞳に映ったのは、困惑げに眉をひそめる先生の姿だった。
 まるで折原の名前をど忘れしたみたいな、そんな表情。
 もう三学期だっていうのに、受け持ちのクラスの生徒の名前を忘れてしまうなんて、ちょっと可笑しかった。
 思わず「ぷっ」と吹き出しそうになってしまう。
 クラスのみんなだってきっと――でもそんなあたしの想像を裏切るように、どうしてか教室は静まり返ったままだった。
 時の流れが止まってしまったみたいな、そんな静けさ。
 視線を感じる。
 けどそれはさっきと違って、あたしに向けられたものじゃなかった。
 クラス中の眼差しが、折原に向けられていた。
 非難というより、顔見知りしかいないはずの場所に部外者を見つけた時に浮かべるような、そんな冷たい視線。
 ――あんな人、クラスにいたっけ?
 ――どうして、おかしいよ。
 ――知らない人が……気持ち悪い。
 そんな言葉にならない言葉が、空気を伝って肌を刺すように伝わってきた。
 そして追い打ちをかけるように、教卓から投げかけられた一言。
「キミは……誰だっけ。もしかして、転校生かい?」
「なに言ってんだよ、先生っ!」
 怒鳴り声と、机に両手を叩きつける小気味いい音が耳に飛び込んでくる。
 どきりと心臓が高鳴るのが、自分でも分かった。
「え? あ、折原か……」
 夢でも見てたような、どこか間の抜けた声。
 同時に居心地の悪い空気に包まれていた教室に、ざわめきが戻ってきた。
 止まったままだった時計の針が、再び動き始める。
 誰もがいま何が起こったのか理解できないように、首を傾げたり周囲のクラスメートと顔を見合わせたりしている。
 その中をあたしは、じっと折原の顔を見つめていた。
 さわさわとざわめき立つ教室の中で言葉なく立ちつくす折原の表情が、あたしにはどこか寂しげに見えた。
「……折原」
 つぶやくように口を開くあたし。
 でもそれは、折原の耳に届かなかったみたいだった。
 あたしの中のどこかで、あたしじゃない誰かがささやくように歌を口ずさみ始める。

 ――いのちみじかし、こいせよおとめ。

 限りある命。
 いつか必ず終わりのくる、幸せな時間。
 大好きな折原があたしの側にいてくれること。
 あたしが大好きな折原の側にい続けること。
 小さな願い。
 ささやかな夢。
 女の子の幸せ。
 乙女の恋。
 でも……
 でもあたしは楽園が――あたしにとっての剣道という名のそれが呆気ないくらい簡単に失わてしまったように、いつか必ず終わりを迎えることを知っていた。
 永遠なんて、どこにもないことを。

             §

 いつの頃から、あいつを好きになったんだろう。
 あいつ――折原浩平との出会いは、どう考えても最悪のそれに違いなかった。
 親の仕事の都合で、否応なしにさせられた引っ越し。
 初めて歩く慣れない町中で道に迷ってしまい、遅刻ぎりぎりで通学路を駆けた転校初日。
 そんな時、曲がり角から突然飛び出してきた相手が折原だった。
 お互い予想もしない出会い頭のことで、体当たりをかまされた挙げ句あたしは、ものの見事に道端へ転がされる羽目になってしまった。
 すりむいた顔が、ヒリヒリと痛かった。
 顔は乙女の命なのに……心の中ではそう思ったあたしだったけど、実際に口を突いて出てきたのは罵詈雑言の山。
 新しい学校で、今度こそ理想の乙女を目指そう。
 心中に秘めたあたしのその思いは、あいつとの出会いで呆気なく挫折してしまった。
 それ以来折原の存在は、あたしにとっていつだって鬼門だった。
 朝の登校――
「あれ、七瀬」
「あれ、七瀬、じゃないいぃっっ! あんた……あんな勢いでぶつかってきておいて、さらに肘鉄入れるなんて、ムチャクチャよっっ!」
「完璧に入ったと思ったんだけどなぁ……」
「女の子にすることかっっ!」
 授業中――
「おい七瀬、何かして遊ぼう」
「うるさいわね。見ての通り、本を読んでるのよ。邪魔しないで」
「本なんてどうでもいいだろ。いつものように、豪快に電話帳でも裂いて見せてくれ」
「いつやった、そんなことっ!」
 昼休み――
「よし、七瀬ー、飯食おうぜー」
「…………」
「お、弁当かぁーっ、その卵焼きうまそうだなぁ……もらいっ!」
「ああっ!」
「おぉ、甘くてうまいな」
「なにすんのよ、ばかぁっ……!」
 そして放課後――
「よし、七瀬、今日はおまえの家に泊まってくな」
「うん、見たいビデオがあったんだぁ。一緒に見よ……って、だからいつからそんな仲になってんのよっ!」
 迷惑なヤツ。
 出会って数日の折原への印象は、控えめに言ってもその程度だった。
 それなのにどうして、あんなはた迷惑なヤツをあたしは好きになってしまったんだろう。
 変なヤツ。
 子供みたいなヤツ。
 不躾なヤツ。
 わがままなヤツ。
 お節介なヤツ。
 でも……どうしてか憎めないヤツ。
 ふと気がつけば教室で、校庭で、朝の通学路で、放課後の中庭で自然と折原の姿を探してしまっている自分に驚く。
 どうしてなんだろう?
 あたしの中を、そんな疑問が何度となく浮かんでは消えてゆく。
 答えは簡単だった。
 それは……あいつが、あたしを乙女にしてくれたから。
 折原浩平という名の男の子だけが……あいつだけがあたしを乙女に――ずっとそうなることを願い続けた存在にしてくれたからだった。
「いいかげんにしやがれえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーっっ!!!!」
 あの日、せっかく焼いてきたクッキーが散乱する教室で、バカ女の仕打ちに我慢に我慢を重ねた果てに堪忍袋の緒が切れかけたあたしのことを、かばうように怒鳴ってくれた折原。
 その一言が、乙女としての夢を守ろうとし続けてきたあたしの想いを救ってくれたのだ。
 折原への恋心。
 ガサツで、わがままで、身勝手で……その上少しも優しいそぶりを見せてくれないヤツ。
 でもそれが、あたしの恋だった。
 乙女の恋として、いままでずっと夢見ていた世界とは少しだけ……全然違うものだったかもしれない。
 でも、それが恋だってことに違いはなかった。
 あたしは折原のことが好きだったし、折原もあたしのことを好きでいてくれた。
 だから、いまはそれでいいと思う。
 折原を好きになって、あたしは初めて本当の意味で「恋する乙女」になれたんだから。

             §

 手にしたバケツが、やけに重く感じられた。
 足を一歩動かすたび、中の八分ほどを占める濁った水が小さく揺れては飛沫を作り出す。
 スカートに跳ねないように気をつけながら、ゆっくりと足を動かし続けたあたしは、ようやく廊下の端にある流しにたどり着いた。
「んしょっ……と」
 小さなかけ声と共にバケツの泥水が勢いよく排水溝に流れ込み、やがてすべてが呑み込まれてしまった。
 蛇口をひねる。
 真新しい透き通った水が、勢いよくバケツの中に飛び込んでいくのを見つめるうち、いつしかあたしは歌を口ずさみ始めていた。

 ――生命短し、恋せよ乙女。

 バケツの底にたまった水が、ゆるやかにその身を揺らす。
 その様をのぞき込むあたしの顔を、陽射しのかすかな明滅と共に映し出しながら、少しずつかさを増してゆく。
 手鏡みたい……ふと、そんなことを思ったりもした。

  ――黒髪の色あせぬまに。
   ――こころの炎消えぬまに。
    ――今日はふたたび来ぬものを。

 リズムを取りながら、そこまで歌い終えた時だった。
 誰もいないとばかり思っていた背後から、ぱちぱちと拍手が聞こえてきたのは。
「えっ?」
 慌てて振り返る。
 流し場から少し離れた屋上に続く階段の、ちょうど真ん中くらいの場所にあいつがいた。
 口元に笑みを浮かべ、少し俯き加減にあたしに視線を向けながら。
 胸が詰まる。
 でも、どう反応すればいいのか分からないまま立ちつくしていたあたしにできたのは、言葉なく折原を見つめること、ただそれだけだった。
「うまいもんだ」
 おもむろに、そんなことを口にするあいつ。
「そういや、七瀬の歌って初めて聞いた気がするな」
 ゆっくりとした足取りで階段を一段ずつ下りながら、こちらに近づいてくる。
 あたしはただ、そんな折原の顔を見つめやるばかり。
「どうした……七瀬?」
 さっきから一言もしゃべらないあたしの様子が気になったのか、一旦足を止めたあいつはそう言って少し首を傾げて見せた。
 軽く唇をかむ。
 それから目の前の折原をにらみ付けながら、口を開く。
「……なんで」
「え?」
「なんで昨日、学校サボったの?」
 昨日、折原は学校に来なかった。
 遅刻ぎりぎりの時間に、幼なじみの瑞佳と一緒に教室へ飛び込んでくるあいつと朝の挨拶を交わすのが、最近のあたしの日課だった。
 でも朝、あたしが教室に足を踏み入れた時、瑞佳はもうそこにいた。
 自然な様子で、登校してきた他のクラスメートと楽しげに雑談の輪を咲かせていた。
 そして空いたままの、あたしの後ろの席。
 今日は一緒じゃないのかな。
 でもたまにはそういう日もあるよね……そんなことを思いながら席についたあたしだったけど、結局一時間目の授業が始まってからも折原は姿を現さなかった。
 一時間目、二時間目、三時間目、四時間目。
 昼休み、五時間目……そして六時間目。
 放課後になるまで、あたしの後ろの席は空いたままだった。
 それは次の日――つまり今日も、まるで録画済みのビデオを見てるみたいに繰り返された。
 ぽっかりと穴が空いたみたいに主のいない席。
 不思議だったのは、普段からかなり目立つ生徒だったはずの折原の欠席を、クラスの誰ひとり話題にしなかったことだった。
 その事実はあたしの中に、小さな不安を呼び起こした。
 現国の授業の時の出来事。
 冷たい視線。
 固い空気。
 思い出しただけで背筋が寒くなる、そんな光景。
 あたしの問いかけに折原は、困ったように視線をそらしてしまう。
 放課後の、こんな時間になってから学校に来たこと自体不思議だったけど、本当はそれ以上の疑問があたしの中で渦巻いていた。
 でもそれをいま、口にするわけにはいかない。
「色々忙しくてさ」
 少し間を置いてから、ぽつりとそれだけを言うあいつ。
「出かけてたの?」
「いや、ずっと家にいた」
「じゃあ、ちっとも忙しくないじゃない」
「まったくだ」
「なに言ってんのよ。だったら学校くらい、ちゃんと来なさいよね」
「だから、今日は来ただろ」
 どこか心外そうな声。
 肩を落とし、心底呆れたようにため息をつきながらあたしは、
「放課後のこんな時間になって、今更のこのこ出て来たってちっとも意味ないでしょ!」
「それもそうか」
「で、なにしに来たの? まさか掃除をしに来た……わけないか」
 両手に腰を当てながら、ちょっとバカにしたみたいな視線を折原に向ける。
 本当は嬉しかった。
 二日ぶりに折原の顔を見ることができて、言葉を交わすことができて嬉しかったのだ。
 でも口をついて出てきたのは、そんな思いとは裏腹なものばかり。
 不器用なあたし。
 可愛くないあたし。
 脳裏に浮かんだ言葉に、少しだけ自己嫌悪してしまう。
 でもそんなあたしをよそに、折原は腕を組みながら何やら考え込んでるみたいだった。
 ややあってから、
「七瀬に会いたかったから、かな」
 少しだけ端んだ口から放たれたのは、そんな予想もしない一言だった。
 気恥ずかしさと、あいつも同じ思いだったんだという嬉しさとで頬が火照ってくるのを感じてしまう。
 だから次の瞬間あたしは、小さく「うん」と返事をしていた。
「えっと、その……きょ、教室には行ったの?」
「いや」
 首を振る折原。
「だったらあたしがここにいるって、よく分かったね」
「愛の力だ」
「……臆面もなく、よくそんな恥ずかしいことが言えるわね」
 冗談混じりに、あたしは肩をすくめて見せた。
 本当に言いたかったこと、思ったことを素直に口にできずに、挙げ句の果てにまったく反対のことを口にしてしまうあたし。
 本当は嬉しかった。
 折原の口から「七瀬に会いたかった」と、そう言ってもらえたことが。
 本当は寂しかった。
 昨日と今日の二日間、折原に会えなかったことが。
「七瀬……?」
 あたしの中をかき乱す、幾つもの相反する思い。
 それが知らず知らずのうちに、口を突いて出る言葉とは裏腹に顔に出てしまったのかもしれなかった。
 あたしは何も答えず、視線をそらす。
 そんなあたしの態度にどこか困ったような顔色を浮かべたあいつは、唐突にあたしの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
 言葉にならない言葉。
 でもそれだけであたしには、折原が何を言おうとしたか全部分かった。
「……うん」
 そのまま折原の背中に両腕を回し、胸に顔を埋める。
 横でバケツからあふれた水が流しの上へと勢いよく流れ落ち、ぱしゃぱしゃと軽やかな跳躍音を立てていた。
 その水音をぼんやりと聞きながら、折原の温もりを感じ続ける。
「七瀬、水があふれてるぞ。おまえのことだから、どうせ一気飲みでもするつもりだったんだろ?」
「……ばか」
 つぶやくようにそう言って、背中に回した腕にぎゅっと力を入れる。
 幸せだった時。
 あたしが、一番輝くことのできた時。
 大好きで大切な、あたしの前に現れた――ちょっとだけ無粋な白馬の王子様と一緒にすごすことのできた、何より幸せだった日々。
 でも……
 それが学校で折原の姿を見た……最後だった。

             §

 夜中に目が覚める。
 夢を見ていた。
 とても幸せな夢だったような気がしたけれど、でもどんな夢だったかは覚えていない。
 どれだけ楽しかった夢も、目が覚めてしまえばそれでお終い。
 その先に待っているのは、現実。
 かちかち……枕元に置かれた目覚まし時計の針が、その冷たい現実をあたしに押し付けるように、無機質に時を刻んでいた。
 時は流れる。
 でもあたしは、その流れから取り残されたままだった。
 あの日折原から届けられたドレスを身にまとい、待ち合わせの約束をした公園であいつのことを待ち始めた瞬間から、あたしの中の時計の針は一秒たりとも動いていなかった。
 ずっと、ただひたすらあたしにとっての王子様――折原が来るのを待ち続けるあたし。
 誰も知らない王子様。
 忘れられた王子様。
 あたしの思い出の中にしか存在しない……王子様。
 あいつが姿を消してしまった後も日常は、まるで最初からそんな人なんて存在していなかったみたいに、何ごともなくすぎていった。
 小学校からの幼なじみで、クラスの中では一番つき合いが長かったはずの瑞佳でさえ、折原のことを全部忘れてしまっていた。
 忘れてないのは……あたしだけ。
 約束をすっぽかされた翌日、事故にでもあったんじゃないかと心配になって訪れた折原の家の前で、あたしは見てしまった。
 ゴミのように無造作にうち捨てられた、机や椅子、ベッドといった様々なものを。
 それで十分だった。
 家族にも、幼なじみにも忘れられ、この世界に存在した証のほとんどすべてを失ってしまった折原。
 永遠を手に入れてしまった折原。
 折原浩平という名の男の子は、もしかしたらあたしが見た夢の中だけの存在だったのかもしれない……平穏に流れてゆく世界をぼんやり眺めていると、ふとそんな思いに囚われてしまう時があった。
 その途端、あたしの中の記憶が、手ですくった水が指の隙間からこぼれ落ちてゆくように消え始める。
 慌ててそれをかき集め、掌に残った思い出のかけらを前にほっと安堵のため息をもらす。
 その繰り返しだった。
 でも、こぼれた水を全部集めることはできない。
 取りこぼした水の量が増えてゆくにつれて、あいつの記憶はあたしの中でも確実に薄らぎ始めていた。
 忘れちゃいけない。
 あたしが忘れたら、あいつは本当にどこからもいなくなってしまう。
 二度と帰ってこれなくなってしまう。
 心の中で繰り返しあいつの名前を呼びながら、自分の身体を強く抱きしめる。
 パジャマ越しに伝わってくる肌の温もりが……寂しかった。
「明日はさ……学校で会おうよね」
「ああ」
「ちょっとくらいなら、べたべたしてもいいからさ」
「ああ」
「じゃあね」
「ああ、また明日な」
 小さな約束。
 果たされないままの約束。
 止まったままの時計の針。
 そして気がつけば――まるで湖に張り詰めた春先の氷のように――溶け消えていきそうになるあいつとの思い出のかけらを必死にかき集め、ただ待ち続けるだけの毎日。
 忘れない。
 忘れちゃいけない。
 あいつのそばに居た頃の、一番輝いていた自分を。
 あいつのために綺麗でいられた、あの頃を。
 だからあたしは、公園に行く。
 あいつからの最初で、そして最後になってしまったプレゼントを……パーティドレスを身にまとって。

             §

 あの子に会ったのは、そんなある日のことだった。
 授業が終わると寄り道もせずにまっすぐ家に帰ったあたしは、いつものようにクローゼットから取り出したドレスに袖を通す。
 簡単に身だしなみを整えてから、家を後にした。
 目的地は、通学路の途中にあった。
 小高い丘を造成したらしい公園――緑に覆われたその中に足を踏み入れたあたしは高台へ続く階段をのぼり、あいつとの待ち合わせ場所だった木立のたもとで足を止めた。
 ぼんやりと空を仰ぎ見る。
 そこには、生命の息吹を感じさせる新緑に覆われた梢の隙間を通して垣間見える、初夏の青空が広がっていた。
 春から夏へと、季節は確実に移ろい変わり始めていた。
 春物のドレスで出かけるにはそろそろ辛いかな……そんなことを思ったりもする、暖かな陽射しだった。
 たゆたうような時が流れる。
 ふと気がけばいつしか日は傾き始め、空は少しずつ茜色にその身を染め始めていた。
 その中をあたしは、何をするわけでもなくただ立ちつくすばかり。
 今日もあいつは来なかった。
 日がすっかり暮れたのを確かめてからあたしは、諦めのため息をひとつだけもらして家路につくのだ。
 明日こそは、あいつが迎えに来てくれることを信じて。
 当たり前のように「よう、待たせたな」そう言って、姿を見せてくれるのを期待して。
 その時だった。
 ドレスに合わせて肩口でひとつにまとめていた後ろ髪を、いきなり誰かに思いきり引っ張られた。
「きゃっ!」
 バランスを崩して仰向けに転びそうになったあたしは、目の前の木の枝をとっさに掴んでどうにか姿勢を保つ。
 ドレスを汚さずに済んだことに、安堵の吐息をもらしてから、
「誰よ、急にっ! 危なく転ぶとこだったじゃないっっ!」
 両手で髪をかばいながら振り返る。
 もしかしたら……そんな期待にも似た淡い思いが、久しく忘れていた怒声をあたしに上げさせていた。
 でも期待は、呆気なく裏切られてしまう。
「みゅーっ……」
 そこにいたのは、あいつじゃなかった。
 その代わり、あたしのよく知っている子だった。
 半年近く前になる冬のある日、あいつと瑞佳がふたりしてどこからか連れてきた女の子。
 人との関わりを、うまく処理できない女の子。
 気がつくとその子は、本当ならあたしが着るはずだった制服を着て、折原の隣りの席で授業を受けていた。
 ほんの一週間ほどしか姿を見かけた覚えはなかったけど、あたしの髪が気に入ったのか、少しでも隙を見せるといまみたいにぐいぐいと力任せに髪を引っ張られては、涙が出るほど痛い思いを何度となくしたものだった。
「あんたか……久しぶりだけど、元気だった?」
 意外すぎる出会いに髪の痛みもすっかり忘れて、あたしは女の子――椎名繭の頭を撫でながら訊ねる。
「うん♪」
 にっこりと、人なつこい笑みを繭は浮かべて見せた。
 それから見るからにもの欲しそうな様子で、あたしの首筋――と言うより髪の毛を、じっと見つめてきた。
「もしかして……触りたいの?」
 肩越しに手を首筋に回して、後ろ髪を胸元へ引き寄せながら問い返す。
 即座に「うん♪」と元気のいい返事が戻ってきた。
 少しだけ考え、「痛くしちゃダメだからね」とそれだけを言って、押さえていた髪から手を離す。
「……楽しい?」
「うんっ♪」
「そっか」
 繭は見るからに嬉しそうに、髪を弄んでいる。
 あたしは彼女の肩に手を置きながら、紅の夕暮れ空の中にぽつんと輝く一番星を瞳に映し続けた。
「ねぇ、あんたさ……」
 どれくらい経った頃だろう、いつの間にか空の八割方が宵闇に覆われてしまった空を見上げながら口を開く。
「……折原浩平って、覚えてる?」
 久しぶりだった。
 心の中で、そして夢の中では数え切れないほど紡いできたはずの名前。
 でも、あたしひとりを置き去りにしたまま回り続ける現実世界の中で、あいつの名前を口にするのは本当に久しぶりのことだった。
 だって存在しなかった人の名前なんて、誰も必要としないから。
 それを必要としているのは、あたしだけだから。
 髪をいじる手を止めた繭は、ちょっと考え込むように小首を傾げて見せる。
 しばらくしてから戻ってきたのは、
「みゅー。おりはら……こうへい? ううん、知らない」
 そんな予想通りの答え。
 だから別に落胆も、悲しみも覚えたりはしなかった。
「だれ? おりはらこうへい?」
 飽きもせずに髪いじりを再開した繭が、顔だけをあたしの方に向けて首を傾げながら訊ねてくる。
 どう答えたものか、あたしは一瞬だけためらった後、
「あたしの……王子様」
 ぽつりと、それだけを口にした。

 ――生命短し、恋せよ乙女。

 気がつくと、いつしか口が歌声を発し始めていた。
 唐突に歌い出したあたしのことを、やっぱりというか繭が少しだけびっくりした様子で見つめている。
 でもあたしは、構わずに歌い続けた。

  ――あかき唇あせぬまに。
   ――あつき血潮のひえぬまに。

 あの日から、時計の針を止めたままのあたし。
 だからあたしの唇はずっと紅いままで色あせることはなかったし、血潮が冷えたりすることもなかった。
 何も変わらない。
 あの頃の……あいつのそばに居た、一番輝いていた頃のままその場に留まり続けている。
 あいつのために綺麗でいられた、あの頃に留まり続けている。

    ――明日の月日はないものを。

 いまのあたしに、明日はない。
 あるのは、あいつが迎えに来てくれるのを待ち続けるばかりの、今日という日だけ。
 今日の次に来るのは明日ではなく、やっぱり今日。
 折原のいない今日。
 あたしが明日へと歩き出すことができるのは、あいつのいる今日とは違う、新しい別の今日を迎えることができた時だけなのだ。
「いのち……みじかしこい……せよ……みゅーっ?」
 あたしが口ずさんだその歌に興味を持ったのだろうか、髪を弄んでいたはずの繭が、不意にたどたどしくうろ覚えな様子で歌詞を紡ぎ始める。
「乙女」
「……おとめ」
 小さくうなずくあたし。
 あたしたちは手を繋ぎながら、ゆっくりとしたリズムで声を合わせて歌い始めた。

 ――生命短し、恋せよ乙女。
  ――あかき唇あせぬまに。
   ――あつき血潮のひえぬまに。
    ――明日の月日はないものを。

 ひとしきり歌い終えた頃には日はすっかり暮れ、辺りは真っ暗になっていた。
 少し肌寒さを感じさせる夜風が、吹き抜けてゆく。
 点々と一定の間隔を置いて設けられた外灯が、生い茂る樹々を自らの放つ光でぼんやりと浮かび上がらせていた。
「……お腹すいた」
 暗がりの中、横からぽつりとつぶやきがもれる。
「そうね……」
「みゅーっ」
「なにか食べて帰る?」
「うんっ♪」
 繭はうなずきながらきゅっと、あたしの手を握り返してきた。
 最初から答えは分かっていたけど、あたしは「なに食べたい?」と訊ねる。
「はんばーがーっ!」
「はいはい……あんたのことだから、そう言うと思ったわよ」
 ため息混じりに肩をすくめる。
 そして公園の出口に向かって繭の手を引きながら、
「じゃあ、行こっか」
「みゅーっ」
 階段を下りきったところであたしは立ち止まり、背後を振り返った。
 誰かに名前を呼ばれたような、そんな気がしたのだ。
 でも、誰もいなかった。
 暗がりに覆われ、外灯とそして上弦の月の光を浴びてうっすらとシルエットを浮かび上がらせるばかりの高台。
 そこは魔女の呪いで時計の針を止められてしまったあたしが横たわる、眠りの森だった。
「みゅーっ?」
「……ううん、何でもない」
 不思議そうに首を傾げる繭に、小さく首を振りながら笑みを浮かべる。
 そう、あたしは待ち続けるのだ。
 どんな時も大切で大好きな人のことを想い、いつか迎えに来てくれる日を夢見て待ち続けること……それは乙女にしか為せない技なのだから。

 ――いのちみじかし、こいせよおとめ。

 あたしを乙女にしてくれた折原。
 だからあたしは、あいつのことを忘れない。
 何があっても、決して……
Case6に続く

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