『Never to be forgotten』
Update:1999.03.16
ぽつりと……たれこむように空一面を覆い尽くしていた真っ黒な曇から、一滴の水滴がこぼれ落ちる。
湿り気を帯びた空気を突っ切って地上にたどり着いたそれは、アスファルトの上に小さな染みを生み出し、雨滴としての短い一生を終えた。
その横にぽつりと、新たな染みが穿たれる。
初めのうちは糸のように細い一本の線として落ちてきていたそれは、急速にその数を増すと線から面へとその装いを改め、地を叩き続けた。
ぱたぱた……
人気のない道を、慌ただしげに駆ける足音が響く。
やがて姿を見せた足音の持ち主は、冬物のダッフルコートに身を包むひとりの少女。
右手で握りしめた赤い傘を開きもせずに少女は、雨に濡れるに任せてただひたすら道を走り続けた。
この季節にしては珍しい夕立のような大粒の雨は、雨足をますます強くしながらその中を駆け抜ける少女の身体を覆い隠すように、涙滴のカーテンを広げてゆく。
「…ゅー………っ!」
少女の口からもれた声は、でも叩きつけるような雨音のせいで誰の耳にも届かなかった。
彼女が屋根の下にその身を潜り込ませたのは、それから五分ほどしてからだった。
勢いよく玄関のドアを開け、中へ駆け込む。
そこでようやく足を止めた少女は、全身からしたたり落ちては床に幾つもの染みを作る水滴をそのままに「みゅーっ……」と、どこか悲しげな声をもらした。
「お帰りなさい、繭。すごい雨だったけれど濡れ……どうしたの、その格好?」
物音で娘の帰りに気づいて台所から顔を出した母親は、玄関先で文字通り「水も滴る女」状態の少女――繭の姿に目を丸くする。
「……みゅーっ」
繭は悲しそうに、俯くばかり。
「傘はどうしたの? 朝、ちゃんと持っていったでしょ?」
その問いかけに一瞬だけためらいの様子を浮かべた繭は、のろのろと手にしていた傘を差し出した。
「……まぁ」
少し驚いたような、同時に呆れたような声を上げてしまう母親。
傘は、その中ほどから見事なまでに折れ曲がっていた。
閉じたままだったのではっきりとは分からなかったが、この様子だと生地の方もあちこち破れ目ができているようだった。
これでは傘が使いものになるはずもなく、濡れ鼠になるのも仕方がない。
「……こわれたの」
俯き気味に、母親から目線を逸らしたままそれだけを口にする繭。
母親は、彼女からの叱責を恐れるように視線を足下へと落とし続ける娘の姿を、じっと無言で見つめ続ける。
でもその瞳に、怒りの色は見受けられなかった。
どちらかと言えば何かを待っているような、そんな様子。
一定の間隔を置いて水滴が床をたたく小さな音だけが、言葉を失ったふたりの間を流れる。
どれくらい経った頃だろう、
「うー……ごめんなさい」
不意に面を上げた繭が、母親に向かって見るからに申し訳なさそうな様子で、たどたどしげに言葉を紡ぎ出した。
次の瞬間、彼女は満足げに口元をゆるめる。
そして「ちょっと待ってなさいね」そう言って家の奥に下がった母親は、待つほどもなく大きめのバスタオルを手に姿を現した。
「仕方ない子ね……ほら、びしょ濡れじゃないの」
ごしごしと、タオルで濡れた髪と顔から水分を拭き取ってゆく。
手にしたタオルが、繭から吸い取った水気でじっとりと重みを感じさせるようになってきた頃合いを見計らって、一度手を止めた母親は、
「さ、お風呂に入ってらっしゃい。そのままじゃ、風邪をひいちゃうわ」
「うん……」
背中を押されるように脱衣所へたどり着いた繭は、濡れて肌に張り付いた服をごそごそと脱ぎ始めた。
「いい、繭。ちゃーんと百数えるまでお湯につかってないと、ダメよ」
こくりとうなずく繭。
「じゃあお母さん、お着替えを持ってくるわね」
それだけを言い残して、母親は去っていった。
ひとり、その場に残された繭。
しばらくの間、じっと母親が去っていった方を見つめていた彼女は、やがて思い出したように脱ぎかけだった衣類を肌から引き剥がす作業を再開する。
脇に置かれていた洗濯籠の中に服と下着を放り込み、風呂場のドアに手をかけた時、ふとブラインドが上げられたままの窓が目が止まった。
雨はなお勢いを失うことなく、激しく降り続けていた。
無数の水滴がガラスの上で細く長い糸を引き、いずこかへと流れ落ちてゆく。
「みゅー。雨……きらい」
窓の外を眺めるうち、繭の口からそんなつぶやきがもれた。
そう……彼女にとって降りしきる雨は、悲しい思い出を蘇らせるキーワードだった。
雨はいつだって、彼女に悲しい別れを連れてくる。
最初はミュー。
繭にとって唯一心を開くことのできる親友だったフェレットは、雨の日に彼女の前から去っていった。
寂しくて悲しくて、それをどう言葉にしていいか分からないまま、ただ泣くことしかできなかった繭。
それでも彼女は、ミューとの別れを告げることができた。
ミューを公園の裏山に埋葬した日に偶然出会った、新しい「友だち」のおかげで。
そして訪れた二度目の別離も、やはり雨の日の出来事だった。
大切な人。
大好きだった人。
ずっとずっと……見守ってくれていた人。
でも、その人はもういない。
冬の凍てつくような雨が降りしきる中、山と積み上げられたハンバーガーを前に待ち続ける彼女をひとり残して、どこかへと消えてしまった。
だから繭は、雨が嫌いだった。
降りしきる雨を見ていると、大切だった親友との悲しい別れを思い出してしまうから。
大切な「恋人」だった人のことを、思い出してしまうから。
§
黒板の上のスピーカーから、清掃時間の始まりを告げるチャイムが鳴り響く。
教室の後ろへと運ばれてゆく机。
生徒たちは、割り当てられた清掃場所に向かうために教室を飛び出していった。
「まーゆっ!」
机を下げ終えた繭のところに、水色のワンピースを着た小柄な女の子が、三つ編みを揺らしながら駆け寄ってくる。
「……みゃあ♪」
「わたしたちは廊下の当番だよ。ほら、行こっ」
そう言って繭の手をきゅっと握った彼女は、そのまますたすたと早足に廊下に向かって歩き出した。
「繭は、ほうきで廊下をはいてね。わたしはモップで繭がはいた後をふいてくから」
「うん」
掃除箱から取り出した使い古された箒を手に、繭は大きくうなずいた。
彼女のたちの今日の清掃範囲は、教室の前の廊下だった。
「繭、ちゃんとすみっこの方もはいてね」
「うん」
「それから、昨日みたいに窓ガラスをほうきではいちゃダメだからね」
「うん」
「それからそれから……」
繭が箒を動かすたび、彼女の口から新たな言葉が紡がれる。
そのほとんどが掃除の仕方に関する指示だったが、繭は彼女のその言葉にいちいち声を出してうなずきながら、せっせと廊下をはき続けた。
彼女の名前は、美亜。
繭にとって彼女は、学校でできた初めての友だちだった。
美亜と繭が仲良しになったのは、給食の時間に起きたちょっとしたトラブルがそのきっかけだった。
不注意で、牛乳をこぼしてしまった繭。
それを見て、普段から彼女の奇異な行動をからかっていたクラスの男子たちが、まるで鬼の首でも取ったようにやいのやいのとはやし立て始める。
机と床に広がる白い水たまり。
洋服の生地に浮かぶ幾つもの染みを前に繭は、呆然と立ちつくすばかりだった。
かつての彼女なら、ここで泣き出していたに違いなかった。
そうすることでしか感情を表現する術を持っていなかった、あの頃の彼女だったなら。
でも、繭は泣かなかった。
目元まで浮かんでくる涙と嗚咽を呑み込みながら、周囲の遠慮のない歓声にじっと絶え続けていた。
「もう、いい加減にしなさいよ」
横から声がしたのは、その時だった。
見ればそこには、雑巾を手に男の子たちにきつい視線を向けるひとりの女の子がいた。
その子には見覚えがあった。
前にやはり牛乳をこぼしてしまった時、そして休み時間に男子に悪戯をされた時に自分をかばってくれた女の子。
名前は……思い出せない。
そうこうするうちに、はやし立てる男子を黙らせた女の子は手際よく床と机から牛乳を拭き取ると、ポケットからハンカチを取り出して繭に差し出してきた。
「……?」
彼女が何を言いたいのか分からず、首を傾げるばかりの繭。
「どうしたの? お洋服にしみちゃう前に、早くふいた方がいいよ」
ようやく意図を理解できた繭は「うん」と小さくうなずくと、受け取ったハンカチで服の上にこぼれた牛乳を拭き取った。
「……ありがとう」
たどたどしくそれだけを口にした繭に、女の子はにっこりと笑顔を浮かべながら、
「うん。それじゃあね」
そう言い残して、自分の席へと戻っていった。
次の日の朝、教室で会った美亜が口にした「友だちになろう」の一言で、繭と彼女は友だちになったのだった。
あれから半年。
明るく理知的で、いつだって繭を飽きさせることなく言葉を紡ぎ続ける美亜。
言葉の少なさを有り余るほどの行動力で補い、また徐々にではあったけれど周囲の世界との折り合いの付け方を覚え始めた繭。
そんな奇妙な取り合わせのふたりは、でも気がつけばいつしかクラスにとって必要欠くべからざる存在となっていた。
いまでは繭をいじめようとする者は、ひとりもいない。
何故なら彼女にちょっかいを出す輩には、美亜を中心としたクラスの女子たちからの手痛いしっぺ返しが待っていたから。
こうして、ようやく心から学校生活を謳歌できるようになった繭。
そんな彼女の側には、いつだって美亜がいた。
「……てる? 繭ったらっ!」
「ふに?」
ふと我に返ると、間近から顔をのぞき込む美亜がいた。
ようやくのことで得られた繭からの反応に、美亜はしょうがないなといった様子で両手を腰に当てながら、
「もう……わたしの話、ちゃんと聞いてた?」
「ううん」
悪びれる様子ひとつ見せることなく、ぷるぷると首を振る繭。
半年のつき合いで、彼女のそんなリアクションにもすっかり慣れてしまったのか、小脇に抱えていたモップの柄を右手から左手に持ち替えた美亜は、
「あのね。よかったら今日も一緒に遊ぼうって言ったの。繭、今日はお家のご用とかある?」
「ううん、ない。だからみゃあ、いっしょに遊ぼ」
「うん」
繭の返答に、満足げに目を細める美亜。
「じゃあどこで遊ぼうか。わたしの家に来る? それとも、近くの公園に行こうか?」
「みゅー……」
美亜の提案に、どうしてか繭は少し困ったような表情を浮かべていた。
その顔つきが、彼女なりの否定の意志を示していることを知っている美亜は、小首を傾げながら、
「あれ、繭。もしかして、どこか行きたいところがあるの?」
「うー……うん」
「だったらわたし、そこでもいいよ」
そう言って、美亜は屈託ない笑顔を浮かべた。
「でも、めずらしいね。繭が、行きたいところがあるなんて言いだすの」
「そう?」
美亜の言葉に、不思議そうに首を傾げて見せる繭。
そんな彼女に美亜は、くすくすと見るからに楽しげな笑みをこぼすと、
「そうだと思うよ。じゃあ頑張って、早く掃除を終わらせようね」
「うん♪」
§
靴底を通して伝わってくる、土の感触。
それは明け方まで止むことなく降り続けた雨水を吸い込んで、ひどくぬかるんでいた。
歩くたび、敷き詰められた枯れ葉と土の混じりあった地面が「ぐちゃり」と不快な音を立てる。
その中を繭は、美亜の一歩前を黙々と歩き続けていた。
あれから十分ほどで掃除を終え、カバンを手に学校を後にしたふたり。
途中までは何ごともなかったように、いつもと同じ下校路を肩を並べて歩いていた。
美亜が喋り、繭が「ほえー」と感心する……そんないつもと変わらぬ光景。
でも商店街に面する曲がり角で繭は不意に足を止めると、アーケードの先に目を向けた。
「どうしたの、繭?」
「うん。こっち……いくの」
「え? でもこっちは商店街だよ。先生から、寄り道でそっちの方には行っちゃいけませんって言われてるし……」
困ったように言葉を返す美亜だったが、繭は彼女の手をぎゅっと握りしめるとそのままアーケードに足を踏み入れる。
「あ、繭っ!」
驚いて声を上げる美亜。
でもこういう時の繭の頑なさを知っている彼女は、数歩行ったところで諦めたように手を引かれるまま歩き出した。
まだ午後も早い時間だったが、商店街は行き交う人々で賑わいを見せ始めていた。
「あ、山葉堂だっ」
きょろきょろと辺りを見渡していた美亜が、不意に嬉しそうな声を上げる。
その声に振り向いた繭に向かって、
「あそこのワッフル、とってもおいしいんだよ。時々、お母さんが買ってきてくれるんだ」
「わっふる……」
「おいしいたい焼き屋さんもどこかにあるってお母さん言ってたけど、もしかしたらこの近くにあるのかな」
そう言いながら、美亜は改めて周囲に視線を巡らせ始める。
「はんばーがー♪」
と、今度は繭。
山葉堂とは反対側の並びに、バーガーショップを見出したのだ。
ぱたぱたと、店の方へと駆け寄ってゆく繭。
そして何を思ってか店の前に掲げられた看板を見上げるように、じっとその場にたたずみ続けた。
「もう繭ったら、急に走り出さないで」
慌てて後を追ってきた美亜の声が、背中から聞こえる。
「どうしたの、繭?」
「はんばーがー……てりやきばーがー……」
「……食べたいの?」
「うー……ううん」
美亜の問いかけに一度はうなずきかけた繭だったが、すぐにぷるぷると首を横に振る。
「でも繭って、ハンバーガー好きなんだよね」
「うん」
弱々しくうなずく。
「なら、やっぱり食べたいんじゃないの?」
「ううん……はんばーがー……食べたくない……」
「そっか。まだお腹が空いてないんだね」
「みゅー」
美亜は彼女のどこか矛盾する言動を、好意的に解釈してくれた。
でもいまの繭にとってハンバーガーは、好きであると同時に嫌いな食べ物でもあった。
何故ならハンバーガーは、悲しいことを思い出させてくれる食べ物だから。
最後に泣いた日……大切な「恋人」を待ち続けていた間、ずっと目の前にあった食べ物だったから。
だから、好きだけど嫌い。
「……行こ」
何かを振り切ろうとするように、再び美亜の手を握りしめた繭はその場から駆け出す。
そのまま商店街をわき目もふらずに駆け抜ける。
全力で駆けていた繭の足がようやくその勢いを弱めたのは、高台に設けられた公園が視界に入り始めた辺りでだった。
公園の入り口で立ち止まった繭は、久しぶりに訪れた場所だからなのかここが目的の場所に違いないことを確かめるように、辺りをきょろきょろと見渡す。
ややあってから、すぐ横で息も絶え絶えな様子の美亜に向き直ると、
「あっち……」
「えっ、きゃっ!」
そう言って、今度は階段が立ち並ぶ小山をのぼり始めた。
最初のうちこそ公園らしいたたずまいを見せていた風景が、奥へ進み続けるうちに、樹々が鬱蒼と生い茂る静謐に包まれた世界へと変わってゆく。
繭と美亜のふたり以外誰もいない中を、何かを探すようにきょろきょろと周囲を見渡しながら歩く繭に、少し不安になってきたらしい美亜が「ねぇ、どこに行くの?」と訊ねる。
でも繭はその問いかけに答えず、無言で彼女の手を引いて歩き続けるばかり。
美亜が何度目かになる問いかけを発しようとした、その時だった。
不意に彼女の足が止まる。
そして、すぐ後ろにいる美亜の方を振り返りながら、
「ここ」
それだけを口にした。
「え?」
その言葉に促されるように辺りを見渡してみた彼女の目には、でも樹々と枯れ葉が映し出されるばかり。
結局繭の言葉の意味が分からなった美亜は、ただ首を傾げるしかなかった。
そんな彼女をよそにその場にしゃがみ込んだ繭は、地面を覆っていた落ち葉を手が汚れるの構わずに払いのけ始めた。
「繭?」
「…………」
数分後、落ち葉の下からぬかるんだ地面と共に、比較的形の整った丸石が現れた。
繭は、無言でその丸石をじっと見つめていた。
その横顔に何かを感じたのか、彼女の側に歩み寄った美亜は膝に手をつきながら、目の前の石をのぞき込む。
「……おはか」
「お墓、って誰の?」
その瞬間、無表情だった繭の顔に表情が生まれる。
心の裡からとめどなくあふれてくる何かを、一生懸命に我慢しているような顔。
「みゅー」
ぽつりと紡がれたそれは、日ごろ彼女の会話の端々に口癖のように見受けられたそれとは明らかに違う響きを持っていた。
「たいせつな、友だち」
そう言ったきり、地面にぺたりと座り込んでしまった繭は、両手でその石の表面を何度も何度もなで続けた。
楽しかった思い出。
悲しかった思い出。
打ち寄せては消えてゆく記憶の波にその身を任せるように繭は、雨露に濡れる石を無言でなで続けた。
ふと気がつくと、美亜が目を閉じながら墓石に向かって手を合わせていた。
「みゃあ?」
繭のつぶやきに美亜は、合わせた手はそのままに目だけを見開くと、
「だって繭の大切なお友だちなら、わたしにも大切なお友だちだもの。だから、ね?」
かすかに目を細め、穏やかな声でそう言う。
「うん……ありがとう、みゃあ」
思い思いの姿勢で、目の前で眠る大切な友人に祈りを捧げる繭と美亜。
周囲に生い茂る樹々と、晴れ渡った空だけがそんなふたりのことを言葉なく静かに見守っていた。
§
「ね、ねえ繭。みんな見てるよ……」
不安そうな美亜の声。
彼女の心配は当然で、周囲に姿を見せている制服姿の男女のほとんどが、興味ありげな眼差しをふたりに向けていた。
でも一方の繭は、そんなことお構いなしに廊下を、どこかに向かって歩き続けていた。
ミューの墓参を終えた繭たちが次に赴いたのは、丘のたもとにある学校だった。
所々破れて穴の空いているフェンスをくぐり抜けて入り込んだそこは、美亜にとってはまったく見知らぬ世界。
誰かに見つかったらどうしよう。
怒られたらどうしよう。
そんな不安ばかりが先立つ中、美亜は繭の服の袖をぎゅっと握りしめていた。
行き交う生徒たちの不思議そうな視線をものともせず、やがてふたりがたどり着いたのは食堂とおぼしき場所だった。
入り口で足を止めた繭は、何かを探すように辺りを見渡す。
食堂には部活前の腹ごしらえなのか、思い思いの場所に陣取っては食事を取っている生徒たちの姿がちらほらと散見された。
「♪」
不意に嬉しそうな声を上げた繭は、ぱたぱたと美亜を置き去りにして食堂の一角へと駆けて行ってしまう。
「あっ、繭!」
慌てて後を追う美亜。
「もぅ、急に走り出さないで」
数秒遅れて繭に追いついた彼女は、不安げな声でそう言い募った。
でも美亜の言葉がまったく聞こえていないのか繭は、じっと目の前にある空っぽのカゴを見つめ続けていた。
「どうしたの、繭?」
「はんばーがー……」
ぽつりと繭がつぶやく。
どうやら彼女は、購買のハンバーガーを買いたかったらしい。
時間が時間だけに、昼時にはいたはずの売り子のおばちゃんの姿もなく、加えて売り物のパン自体ひとつも置かれていなかった。
「どうしたのかな……?」
繭が口を開きかけた瞬間、背後から声をかけられる。
慌てて振り向くと、そこには柔らかな笑みを浮かべた女性が、彼女たちの背丈に合わせるように膝を折りながら穏やかな眼差しを向けていた。
「……ほえ?」
「え、えっと。あの、その……」
突然のことだったので、繭はともかく美亜の方も言葉にならない言葉しか出てこない。
そんな彼女たちの様子に、優しく目を細めた女性は、
「ここのパンはね、お昼休みにしか売ってないんだよ」
「はんばーがー……ないの?」
名も知らぬ女性を警戒してか、やや腰を引きながらも上目遣いに繭は問い返す。
でも女性の方は、繭の言葉に屈託のない笑みを返しながら、
「そっか。ハンバーガーが食べたかったんだね」
「……うん」
「いくつ欲しかったのかな?」
ひーふーみーと指を折り始める繭。
やがて、ぱっと大きく広げた右手を差し出すと、
「んーとね、いつつ!」
繭の要求に少し思案するような顔つきを浮かべた女性は、やがて小さくうなずくと、
「うん、分かったよ。じゃあね、あそこのテーブルでちょっとだけ待っててくれないかな」
「……うん」
「はい」
素直にうなずいた繭と美亜は、厨房の方へと歩み去ってゆく女性の背中を見送りながら、彼女が示したテーブルの前に腰を下ろした。
「ねえ、繭。あのお姉さん、他の人たちと違って制服着てなかったけれど……もしかして先生なのかな?」
ひそひそと、声を落としながら口を開く美亜。
しかし繭はと言えば、嬉しそうに身体を揺らしながら「はんばーがー、はんばーがー」と、先刻の商店街の一件など忘れたみたいに鼻歌を口ずさんでいた。
「お待たせー」
数分ほどして戻ってきた女性が持つトレイの上には、繭が所望したハンバーガーが、それこそ山と乗せられていた。
少なく見積もっても、二十個はあろうかという量だ。
「わあ♪」
その光景に、思わず繭が歓声を上げる。
「厨房のおばさんにね、無理言って作ってもらっちゃったよ」
くすりと、どこか悪戯っぽい笑みをこぼしながら、女性はふたりの正面の席に腰をおろす。
そしてハンバーガーの影に隠れるように置かれていた紙コップを、繭たちの方に差し出しながら、
「飲み物は、ジュースでよかったかな?」
「♪」
「はい、ありがとうございます」
繭の分も合わせて丁寧に礼を告げる美亜だったが、ふと思い出したようにどこか緊張した面もちを浮かべると、再び口を開いた。
「あの……お姉さんは、ここの学校の先生ですか?」
「え? 残念だけど、ちょっと違うかな」
「そうなんですか。制服を着てないから、てっきり……」
「わたしね、ここの卒業生なんだ。家が学校のすぐ前にあるから、時々こうやって遊びに来たりしてるんだよ」
穏やかな笑みを浮かべながら、彼女は答える。
「あ。そう言えば自己紹介もしてなかったね。わたしはね、川名みさきって言うんだ。よろしくね、えーと……」
慌てて美亜は、自分の名を告げる。
そして、次はとばかりに横の繭に目を転じると……
「はぐはぐ」
そこにはふたりの会話もそっちのけで、いつの間にやらハンバーガーにかぶりついている繭の姿があった。
「もう、繭ったら……」
「あははっ。えっと――繭ちゃんは、お腹が空いてたんだね」
「はぐはぐ……うんっ!」
「じゃ、わたしたちも食べよう。ねっ」
そう言って、みさきもハンバーガーを食べ始めた。
「ほえー……」
数分後、食べかけのハンバーガーを手にしたまま、繭は思わず驚きの声を上げてしまう。
それはたったいま目の前で繰り広げられた、みさきの食事風景に向かって上げられた感嘆の声だった。
別に彼女が、大口を開けて意地汚い食べ方をしたわけじゃない。
ただ、異様なまでにスピードが速いのだ。
食べ始めてまだ五分とたってないのに、トレイに山積みされていたはずのハンバーガーは、いつの間にか半分以上が消えていた。
ちなみに繭は、ようやくのことでふたつ目に取りかかったところで、美亜に至ってはまだひとつ目すら食べきっていなかった。
「ん? どうしたの?」
ふたりの視線に気づいたように、食事の手を止めて顔を上げるみさき。
そして何を思ったのか、
「心配しなくても、大丈夫だよ。これはおやつだから、ちゃんと五つは残しておいてあげるからね」
分かったような分からないような、そんな言葉を口にした。
§
「ねえ、繭ちゃんはどうしてここに来たの?」
食後のお茶を口にしていたみさきが、不意に繭に向かって訊ねる。
美亜はいない。
空になったトレイを返しにいったついでに、三人分の飲み物のお代わりをもらいに行ってるのだ。
「もしかしてこの学校に、繭ちゃんか美亜ちゃんのお兄さんかお姉さんでもいるのかな?」
「うー……うん」
中身を飲み干してしまい、空になったカップをころころと横に転がしながら、少しためらいがちに返答を口にする繭。
「そっか。それで、そのお兄さんかお姉さんには会えた?」
「ううん」
ぷるぷると繭は、首を振って見せた。
その返答に少しだけ意外そうな表情を浮かべたみさきは、でもすぐに元通りの微笑みを取り戻すと、
「それじゃあ、こんな所でわたしなんかとお話してちゃダメだよ。早く探しに行ってあげないと……」
その問いかけに対する繭の返答は、先刻と同じものだった。
「ううん。いいの……」
「どうして? もしかして、ケンカでもしてるのかな?」
「うー……けんかしてない」
みさきの言葉に繭は、ちょっとだけ不服そうに口をとがらせて見せる。
彼女のその反応にみさきは「そっか」とだけ口にすると、何を思ってか不意に話題を切り替えた。
「そうだ。よかったらその人の名前、教えてくれないかな。もしかしたら、わたしの知ってる人かもしれないしね」
「……なまえ」
「繭ちゃんさえよかったら、だけどね」
みさきの顔をじっと見つめる繭。
さわさわと周囲から立ちのぼる生徒たちのざわめきが、彼女の耳元に流れ込んできた。
どれくらい経った頃だろう、ぽつりと繭が口を開く。
「……こーへー」
「え?」
「おりはら……こうへい」
ゆっくりと紡がれた彼女の言葉に、記憶の底を手繰るように目を閉じ、小首を傾げて見せるみさき。
三十秒ほどして、再び目が開かれる。
でもみさきから戻ってきた答えは、繭が思っていた通りのものだった。
「うーん、やっぱりわたしの知らない人みたいだね。思い出せないよ」
「みゅー……うん」
誰も知らない名前。
自分しか覚えていない名前。
繭は知っていた。
ある日を境に、学校に来なくなった浩平。
それと同時に、どうしてか折原浩平という男の子のことを全部忘れてしまった、母親やお姉ちゃん――瑞佳や七瀬たち。
いなくなってしまった人のことは、みんなすぐに忘れてしまう。
その事実を繭は、彼女なりにそう理解していた。
彼女にとっての大切な存在は、みんなそうだった。
ミューが死んだ。
そしてミューのことを覚えているのは、いまでは自分ひとりだけ。
浩平がいなくなった。
そして彼のことを覚えているのは、やっぱり自分ひとりだけ。
「……ごめんね」
見るからに、申し訳なさそうな様子のみさき。
「うううん。へーき」
少しも気にした風もなく、にっこりと笑いながら繭は言った。
たとえ彼女を除いた世界中のすべての人たちが彼のことを忘れても、でも繭だけは最後まで忘れずにいられる自信があったから。
何故なら……
大切な人だから。
大好きな人だから。
大切で、大好きな「恋人」だから。
だから繭は頑張る。
いつの日か彼女のところに戻ってきてくれた時、一生懸命に頑張った自分を見てその人が何て言ってくれるかに思いを馳せながら。
その人が、自分をずっと見守ってくれる日が来ることを信じて。
だから繭は、誰に向かって言うでもなく、いまの彼女にできるたったひとつの言葉を口にして見せた。
「……ぜーったいに、わすれないんだもぅん」