ドアをゆっくりと開く。
その途端、日差しがいっぱいに俺の目に飛び込んできた。
「……っ!」
薄暗い廊下の明るさにすっかり慣れてしまっていた俺の目は、その変化に咄嗟に反応しきれず、思わず片手で目をかばってしまう。
視界の全てが、きらめく陽光に覆い尽くされていた。
全てを埋め尽くさんばかりの光の圧力に耐えるように、しばらくの間その場にじっと佇んでいた俺だったが、やがて少しずつ明るさに目が慣れてくる。
ようやくのことで、手を目元から離すことができた。
そして改めて、室内の情景に意識を向ける。
「…………」
まるで時の流れが止まってしまったような、静謐に支配された世界。
首を左右に巡らせ、視界に映し出されるそれを何度となく網膜に焼き付けていく。
そこには、様々なものがあった。
敷き詰められた暖色系のカーペットの上に置かれた机やベット、そして衣装棚といった調度品の数々。
壁に埋め込まれる形になっているクローゼットの戸は、いまはその本来の役目を果たすことなく、固く閉ざされたままだった。
室内に一歩、足を踏み入れる。
すると陽光を一杯に受け止めた室内の空気が――廊下のそれとは明らかに違った――暖かに俺を包み込んでくれた。
肌に触れるその穏やかな感触に、わずかに目を細めながらもう一歩足を動かしてみる。
そして、部屋のちょうど真ん中にたどり着いたところで立ち止まると、改めてもう一度ぐるりと室内を見渡す。
そこにあったのは穏やかでありながら、でもどこか閑散とした雰囲気を発する情景だった。
家具などは、俺が見知ったままの状態で置かれている。
でも俺は、どうしてかそこから人の存在感とでも言うべき、生活の匂いを感じることができなかった。
なぜなら……。
そこで思考を一度途切れさせた俺は、足元に無造作に置かれたままになっているものへと目を向ける。
それは段ボールだった。
まだ荷造りの途中なのだろう、ふたが開け放たれたままになっているその中には、適当に詰め込まれたらしい衣類が、目に鮮やかな色彩の断片を織りなしながら見え隠れしていた。
「これは……きっと梓(あずさ)だな。ホント、こういうところは相変わらず大雑把というかガサツというか……」
わずかに口の端を緩めながら、俺は小声で悪態をつく。
意外なことに(本人を前に言った日には殴られそうだが)四姉妹の中で一番家庭的なのは、次女の梓だった。
料理を始めとする柏木家の家事全般は、いまも昔も彼女の専売特許だ。
それでも時折こういったアバウトな行動が目につくのは、やはり持って生まれた性格のなせる技に違いないと、少なくとも俺は――本人に確かめたことはなかったが――確信していた。
部屋のそこかしこに、これ見よがしに段ボールが積み上げられている。
そればかりがやけに目につくのは、恐らくその箱たちだけがこの部屋の中で今という時を感じさせてくれる、数少ない証だからなのかもしれなかった。
そしてそのひとつひとつに、つい先日まで部屋の調度品に納められていた様々なものが詰め込まれているのだろう。
しばしの間、俺はその場にじっと佇み続ける。
そして小さくため息をもらすと、カーテンの開け放たれた窓際に向かって歩き出す。
その時、ふと傍らの段ボールに目が止まった。
「……ん?」
他のものと同様に、それもまた封がされないままその場に放置されている。
でも一応ふたは閉じられているので、中が見えたわけではない。
匂いがしたのだ。
そう、どこか胸に引っかかるような……古本屋などに足を踏み入れると真っ先に感じる、あの古紙特有のすえた匂いが。
何となくその匂いが気になった俺はその場で腰をかがめると膝をつき、そして箱の中身を確かめようとふたに手をかけた。
予想通りだった。
中には、随分と古いものらしい何冊かの本が、きちんと並べられた形で納められていた。
ただ不思議なことに、どの本の背表紙にも表題らしきものは何も書かれていない。
そのことに小首を傾げ、そして好奇心に誘われるまま、中にあった一冊を手に取ってみる。
表紙を見て、俺はようやく合点がいった。
見た目にも鮮やかな白染めの光沢に映える表紙の上には、イタリック調の流麗な金箔の活字で『Memorial』の文字が、言葉なく静かに舞い踊っていた。
「……メモリアル? って、確か記録とかって意味だったよな。でも、一体何なんだろう」
俺の中で、その名もなき本に対する興味がますます高まってゆく。
そして内心に期待にも似た感情を抱きつつ、俺は表紙をそっとめくってみた。
§
七月三十一日
明日は、賢治(けんじ)叔父さまがうちにいらっしゃる。
それに今年は、叔父さまと一緒に彼のお子さん――わたしから見れば従弟になる――も遊びに来ると、母からは聞いている。
その子の名前は、柏木耕一(かしわぎこういち)くん。
わたしより三つ年下の、妹たちと同じまだ小学生。
梓がわたしより五つ下だから、耕一くんはわたしと彼女の間ということになるのかな。
うちはわたしと梓、それに楓(かえで)、初音(はつね)と全員が女の子だから、耕一くんみたいな年の近い身内の男の子というのが、一体どんなものなのかはよく分からない。
だから明日彼に会うのも、楽しみな半分ちょっぴり不安。
明日はクラブの練習があるから、わたしが帰ってくるころには耕一くんはきっと、叔父さまと連れだってこちらに着いていることだろう。
まだ一度も会ったことがないけれど、耕一くんってどんな子なんだろう?
妹たちを可愛がってくれる、思いやりのある優しい男の子だといいな。
耕一くんは、もう寝ちゃってるのかな。
いくら夏休みだからといっても、耕一くんはまだ小学生なんだからもう寝てるよね。
まだ会ってもいないのに、いつの間にかそんなことを考えている自分が不思議、ふふっ。
あっ、気がつけばもう十一時。
もうこんな時間だし、明日はクラブが早いからもう寝なくちゃ。
だから今日の日記はこれでおしまい。
お休みなさい……耕一くん。
§
そこまで読んで俺は、一度開いたページから目を離す。
「これって……日記?」
間違いなかった。
そして文面を見る限り、これは千鶴(ちづる)さんの日記以外には考えられなかった。
しかも開いたページは、偶然にも俺が彼女と出会った八年前の夏休みのときのものだ。
俺の来訪を親から聞かされ、心の中で出会いの時に心躍らせる中学生の千鶴さんが、そこにはいた。
思わず、あの頃の思い出が脳裏に蘇る。
いまでもはっきりと思い出すことのできる、あの日の出来事。
千鶴さんが日記に書いていた通り、俺はあの年夏休みを利用して親父の実家である、ここ隆山を訪れていた。
俺にとってそこは生まれて初めて訪れる、ある意味何の馴染みもない他人の住む土地にすぎなかった。
でもそこには、俺の来訪を心待ちにしている従姉妹たちがいたのだ。
いつだって優しく、そして暖かな長女の千鶴さん。
俺以上に活発で、じゃじゃ馬以外の何ものでもない次女の梓。
まるで日本人形のように、いつも物静かだった楓ちゃん。
そんな姉たちのことを誰よりも慕っている、甘えん坊の初音ちゃん。
あの夏の彼女たちとの出会いは、駅を降り立って以来好奇心でいっぱいだった俺の心を、一層満たしてくれるものだった。
そして彼女たちの中でも、俺が一番に心惹かれたのは……年上のお姉さん然とした千鶴さんだった。
濡れ羽色の艶やかな黒髪も暖かな色合いに満ちた瞳も、あの頃から千鶴さんは掛け値なしの綺麗な人だった。
そんな彼女との出会いは、俺にとって衝撃以外の何ものでもなかった。
……耕ちゃん。
脳裏に、ふと俺の名を口にする千鶴さんの暖かな声音が蘇ってくる。
思わず回想に耽ってしまった俺だったがそこで一度思いを断ち切ると、再び目の前の段ボールの中をのぞき見た。
そこには俺が抜き取った一冊分の隙間だけを作って、相変わらず無地の背表紙が整然と並んでいた。
ひょっとしなくても、これ全部が千鶴さんの日記なのだろうか。
試しにもう一冊、箱から抜き出してみる。
するとそこにもやはり同様に『Memorial』と、金箔で銘打たれた表紙が現れた。
「うーん……」
思わず腕組みをして考え込んでしまう俺。
この箱に入っているのは、その全てが彼女が過去に――俺に出会う前から、そして出会ってから以後も――書き続けてきた日記に違いなかった。
その場から立ち上がり、俺は一旦窓辺に身を寄せる。
既に蒼空の高みに向かって昇り始めた太陽は、その身に相応しい輝きを周囲に向かって放ち続けている。
冬とはいえ、屋内にいるせいか空気は暖かかった。
そして、肌の上に光の粒が遠慮なく降り落ちて来るのを感じながら、俺は幾ばくかの思考に身をゆだね続けた。
何を考えていたのかと問われれば、言うまでもない。
いま俺の目の前で白日の下にさらされようとしている千鶴さんの日記、これをどうすべきかだった。
要するにこれ以上先を俺は読み進むべきなのか、それとも読むべきではないのか。
つまりはそういうことだ。
本来日記とは、その目的からして極めてプライベートな性格を持つものであることは、今更言うまでもない。
人には話せないこと聞かれたくないこと、そんな第三者には決して読まれたくないだろう書き手の心の機微――本心がそこに綴られているのだ。
偶然にも俺は、千鶴さんのそんなプライベートな世界を垣間見てしまった訳だが、だからといって果たしてこれ以上無遠慮にその中に足を踏み入れてしまってよいものかどうか、正直難しい問題だった。
「読むべきか、読まざるべきか……うーん」
首をひねりながら、相変わらず悩み続ける俺。
本音を言えば、この先に書かれた内容を知りたかった。
俺との最初の出会いから八年後の再会の時まで、彼女が何を思い、そして何を願いながら生きてきたのか。
また『鬼』という名の、もうひとりの自分自身からの狂気を従えた誘惑に毎夜苛まれる俺を見て、千鶴さんが何を感じていたのか。
いつから俺のことを従弟の「耕ちゃん」ではなく、ひとりの男性――「耕一さん」として意識するようになったのか。
そして何故、あの時俺を殺そうと思い詰めるにまで至ったのか。
いまとなっては確かめようのないそんな幾つもの疑問に、この日記は間違いなくひとつの解答を示してくれるに違いなかった。
「……いいよね、千鶴さん?」
答えがないだろうことを知りつつ、それでも俺は誰に言うでもなくそんな呟きをもらす。
そして当然のことながら、どこからも返答はなかった。
だって彼女は……。
俺は窓から離れると、箱の上に置きっぱなしだった日記を手に取る。
そして手近にあった箱のひとつに腰を下ろすと、さっき読んだその次のページ――俺と初めて出会った日のページに目を落とした。
§
八月一日
今日、初めて賢治叔父さまのお子さん、耕一くんに会った。
でもそれは、昨日わたしが考えていたような、楽しいばかりの出会いじゃなかった。
クラブの練習も終わって学校を出て、家に帰り着くと廊下に見慣れない男の子が、わたしの方を少し驚いたような顔でじっと見ていた。
わたしには、その子が耕一くんなんだとすぐに分かった。
まるで梓を男の子にしたような、想像していた通りの元気そうな子。
子供らしい純真な瞳が、とても印象的だった。
わたしは耕一くんと出会えた嬉しさで、初めましてとあいさつをしながらつい彼の頭をなでようとしてしまった。
楓や初音に、いつもしてあげているようなつもりで。
でも耕一くんはその手をはねのけると、少し困ったような目でわたしを見つめ返してきた。
その目を見るうちに、胸がちくりと痛んだ。
それは手をはねのけられた痛さじゃない。
耕一くんに、わたしを拒絶されてしまったような、そんな気持ちになってしまったせいの痛みだった。
とても悲しかった。
もしかすると、わたしは耕一くんに嫌われているのだろうか。
夜になってから、そのことを母に話してみたけれど「あの年頃の男の子って、そういうものなのよ」とそう、笑いながら言ってくれただけだった。
母の言う通りなのかもしれない。
でも、もし耕一くんがわたしのことを嫌っていて、だからあの時わたしの手を払いのけたのだとしたら……。
明日会ったら、今度はちゃんとお話をしよう。
そして「耕ちゃん」って呼んであげよう。
今日はきっと、耕一くんの機嫌が少し悪かっただけなのかもしれないから……。
§
いま思えば千鶴さんとの出会いこそが、俺の初恋だったのだろう。
あの日、玄関から「ただいま」と女性のものらしい聞き慣れない声がしたとき、俺は無意識に声のした方に足を向けていた。
その時既に顔見せを終えていた梓たちから、名前だけは聞かされていた千鶴さんに違いないと、そう思ったからだ。
俺の予想は当たっていた。
そこに俺が見出したのは、夏服のセーラーを身にまとい、そして艶やかな黒髪を背中に流し
た綺麗な女性の姿。
それが千鶴さんだった。
息子である俺が言うのも何だが、俺のお袋も綺麗な女性だったと思う。
でも千鶴さんは、それに決して勝るとも劣らないだけの可憐さと、艶やかさを放っているように、その時の俺には感じられた。
だから俺は彼女と廊下で相対した途端、息を呑んで何ひとつ言葉を発することができないまま、ただ彼女を見つめることしかできなかった。
「こんにちは。初めまして、耕一くん。わたしが、長女の千鶴です」
それが最初の一言。
穏やかでいて、そして慈しむような優しげな口調だった。
俺に目線を合わせるように膝に手をつきながら少し腰をかがめ、微笑みを浮かべながら千鶴さんは話しかけてきた。
そして、俺に向かって伸ばされた彼女の手。
恐らく彼女が日記に書いていた通り、それは俺に出会った嬉しさから差し出された手だったに違いなかった。
でも俺は、それを咄嗟に払いのけてしまった。
別に嫌だったわけじゃない。
ましてや、千鶴さんが嫌いだからそうしたわけじゃなかった。
ただ……恥ずかしかったのだ。
あの時の俺にとって、まるで女神のように思えた綺麗な女性に頭を撫でられるのが、照れ臭かったにすぎなかったのだ。
だから俺は、彼女の手をはねのけた。
いかにも子供らしい、深く考えることのない直截的な判断で。
でも、差しのべた手を拒絶された方は、少なくともそう思ってはいなかった。
子供だった俺の、子供だったからこそできた大人げのない行為は、あの時の千鶴さんの心に小さな傷跡を残して終わった。
八年後に再会を果たしたとき、彼女が俺に接するときに見せた優しくも、でもどこか遠慮しているかのようにも思える態度。
その裏には、俺が原因で生み出された小さなしこりがあったのだ。
改めてよく見ると、紙の上に点々と小さな染みがついているようにも思える。
もしかするとそれは、千鶴さんの涙の跡なのかもしれなかった。
「ごめんよ、千鶴さん……」
日記に目を落としたまま、ぽつりと呟きをもらす。
でもその言葉は、いまこの場に悄然と佇む俺以外の、誰の耳にも届くことはなかった。