八月二日
ようやく耕一くんと、ちゃんとお話をすることができた。
たったそれだけのこと。
でも昨日のことがあっただけに、わたしにはとても嬉しい出来事だった。
朝食後、縁側に座り込んでいた耕一くんを見かけたわたしは、そっと側に近寄ってみた。
そしてびっくりさせないように、できるだけ静かな声で「何をしているの、耕一くん?」そう話しかけた。
それでもいきなり現れたわたしに、耕一くんは最初少しだけびっくりしたような様子だったけれど、すぐににっこりと笑顔を浮かべると「あのね、空を見ていたんだ。ここの空ってボクが住んでる町よりずっと高くて、キレイなんだよ」そう、わたしに返事をしてくれた。
それからわたしは、耕一くんの横に座ってしばらくの間この町で見ることのできる四季折々の出来事について話してあげた。
あとで梓にその話をしたら「千鶴姉ちゃんだけずるいぞ」って、ずいぶん文句を言われてしまった。
でも梓たちは一日中彼と一緒にいられるのに、わたしはクラブで昼間は耕一くんと会えないんだから……これくらいはいいよね。
八月三日
…………だった。
そう言えば今日、初めて耕一くんがわたしの名前を呼んでくれた。
夕方、母に頼まれた買い物から帰ったとき、ちょうど初音と一緒に玄関の近くにいた耕一くんが「お帰りなさい、千鶴お姉ちゃん」って。
最初の日にあんなことがあったから、もしかしたら耕一くんはわたしのことを避けているのかもしれないとも思ったけれど、それでもこの何日かで、少しずつうち解けてきてくれているような気がする。
でもそんな気持ちがわたしの中で膨らんでいくのと同時に、気がつくといつの間にか危ないことをしていないだろうかなんて思いながら、彼の姿を探している自分に気がつく。
どうしてなんだろう?
わたしは耕一くんより三つも年が上だし、やっぱり姉として妹たちを気づかうような気持ちを彼にも抱いてしまうのかな。
§
八月に入ってからの千鶴さんの日記は、記述のその多くが俺のことに関する話題で埋められていた。
しかもそこにあったのは、いまとなっては記憶に殆ど残っていない出来事ばかり。
最初の出会いこそ、お互いにとってどちらかといえば気まずいものだったけれど、でもだからこそ俺は俺なりに、そして彼女は彼女なりに、お互いに相手とできるだけ親しく接しようとしていたのかもしれない。
あの頃の俺にとって、千鶴さんとはまさしく「年上の憧れのお姉さん」以外のなにものでもなかった。
そして一方で彼女にとって俺とは「ある日突然現れた、出来の悪いやんちゃな弟」のようなものだったのだろう。
あの時俺たちが相手に対して抱いていた気持ちは、おそらく異性間が抱く恋愛感情というより、むしろ家族愛に近いものだったのかもしれない。
ひとりっ子だった俺は姉としての千鶴さんになつき、そして千鶴さんは妹たちに注いでいたのと同様の愛情を俺に注いでくれた。
だからこそ俺は、千鶴さんに嫌われたくなかった。
せっかく手に入れることのできた「お姉ちゃん」を、自分の心ない一言で失ってしまうことを何より恐れたのだ。
その思いは、立場を逆にする千鶴さんにしてもきっと同じだったのだろう。
あの日の出来事――さし伸べた手をすげなく拒まれてしまう――を二度と繰り返さないように、俺に対してはいつだって優しくも、でもどこか遠慮したような接し方しかできなくなってしまっていた。
いま思えば、最初のボタンを掛け違えてしまったのだ。
それ故に俺と千鶴さんの心は、どれだけの年月を経ても一定の距離を置いたまま、それ以上は容易に近づくことがなかった。
まるでそうすることが暗黙の了解だったかのように俺は弟としての、そして彼女は姉としての役柄を演じ続けてきた。
再会を果たした、八年後のあの日まで。
姉と弟……でもその関係は、俺の中で目覚め始めた『鬼』の存在によって大きく歪み、変化を余儀なくされていった。
その先に待ち受けていた、悲劇という名の試練を経るまで。
無意識のうちにそんなことを内心で考えてしまっていたせいだろう、ページをめくりはするものの字面を追うばかりの俺だったが、数ページ先の一文にふと目が止まった。
「ん?」
わずかに首を傾げながら、改めて意識をそれに集中する。
そこには、こう書かれていた。
§
八月七日
わたしは、梓にはなれない。
だって、わたしはわたしだから。
だから自分のできることを、一生懸命にやっていくしかない。
でも本当は、耕一くんとあんなことができる梓を……すごくうらやましいって、思うことがある。
§
「何だこりゃ?」
思わず、そんな素っ頓狂な声を上げてしまう。
他の日のものと比べると随分と短い文面だったが、何とも曖昧でどこか意味深なものを感じさせる内容だった。
「あんなことって、何だろう?」
思わず首をひねってしまう。
そしてちょっとエッチな想像が思い浮かび、慌ててそれを頭の中から振り払う俺。
当時の俺は確か十一歳、そして梓は二つ下の九歳だった。
いまだってそうなのだが、あの頃から梓は見た目通りの活発な――口より手が先に出るという意味での――女の子で、短めの髪とボーイッシュな服装が相まって俺なんかよりよほど男の子然とした雰囲気を漂わせていた。
一方の俺は俺で、そんな梓のことを従姉妹たちの中で一番つき合いやすい遊び相手と認識していたから、どこか外に出かける時は大抵彼女と一緒だった覚えがある。
でも俺と彼女の間にあったのはあくまで「歳の近い遊び相手」としての関係であって、それ以上でもそれ以下でもなかった。
にも関わらず千鶴さんはそんな梓のことを「うらやましい」と、そう言っている。
これは一体、どういうことなのだろう?
彼女の言う通り、千鶴さんは千鶴さん以外の何ものでもないし、梓はやっぱり梓だった。
そして俺は、傍目で見るぶんには水と油とばかりにいつも喧嘩ばかりしていたこの姉妹が、実は意外と相手のことを信頼していることを知っていた。
何となくそのことが気になった俺は、翌日の日記にも目を通してみる。
でもそこにはクラスの友だちの家に夏休みの宿題をしに行ったとかいった、そんなごくありふれた内容があるばかりで、前日の梓云々については何ひとつ触れていなかった。
「うーん……」
思わず腕組みをしながら考え込んでしまう。
実はそれほど大したことでもないのかもしれなかったが、胸の中で何かがもやもやしているようで妙に心地悪い。
その時だった。
誰かが、俺の名前を呼んでいるような気がしたのは。
いま俺がいる千鶴さんの部屋は、廊下の一番奥まった突き当たりにあるせいで、居間からの声はかなり聞こえにくい。
いっそのこと、部屋ごとにインターホンでも置けばいいのに……そんな思いが浮かんだりもするが、無い物ねだりをしたところで仕方がない。
日記を傍らに置いた俺は、その場から立ち上がるとドアを開けて廊下に半身だけ乗り出し、そして耳を澄ましてみた。
「……ういちぃ」
やっぱり俺のことを呼んでいるようだ。
どうやら、声の主は梓らしい。
俺は今度こそ部屋を後にして廊下に身を乗り出すと、声がした方――台所の方だった――に向かって歩き出した。
「あ、いたいた」
廊下の角にさしかかると、そこで居間から出てきた梓と鉢合わせる。
「呼んだか?」
「あんたねぇ、呼んだかじゃないよ。さっきから、何度あたしに大声を出させれば済むと思ってんだよ」
腰に手を当て、少し眉根を寄せながら俺のことをじろりと睨み付ける梓。
どうやら俺の反応が遅かったことが、少々ご不満らしい。
まったく、勝手なヤツだ。
「わりいわりい。で?」
我ながらあまり誠意を感じさせない言い方で、片手で軽く梓を拝みながら俺は話を進める。
まだどこか不満そうに、でも少しだけ表情を弛めた梓は、
「あ、そうそう。実はあんたに取って欲しいものがあんのよ。あたしじゃ手が届かなくてさ」
「何だそりゃ。踏み台でも使えばいいだろうが」
「それが見つかんないから、こうして困ってるんだよ。部屋から椅子を取ってくるのも面倒くさいしさ。耕一ならたぶん届くと思うから、ちょっとこっち来てくんない?」
そう言いながら、梓は苦笑いを浮かべる。
要するに、こいつにとって俺は椅子と同じということか。
「この……不精者め」
梓には聞こえないように口の中だけで小さく呟いてみせたつもりだったが、どうやらコイツの耳は自分の悪口には敏感に出来ているらしい。
いきなり俺を睨み付けたかと思ったら、
「ぬぅわぁにぃぃぃ! このあたしが、耕一みたいなグータラ男にそんなこと言われる筋合いなんてどこにもないぞ。大体あんた、いまは居候の身なんだからちょっとくらいこの家のために貢献したっていいだろ!」
腕まくりをするような格好で、これ以上ないほどマジな目つきで顔を寄せてくる。
ヤバい。
梓の言う通り、俺がグータラであることは自他共に認める事実だった。
それだけに、とっさに梓に対して反論することができなかった俺は、自らの形勢不利を素早く悟る。
この場を丸く収めるには、恐らくアレしかないだろう……そう即座に判断した俺は、梓お得意の回し蹴りが来る前に次の行動に移った。
「……分かりました、梓さま。仰る通りにいたしますから、何なりとこの哀れなわたくしめにご命令ください」
自分でも、情けないほど卑屈な言葉遣いを発する。
これでへらへらと愛想笑いに揉み手でもした日には、立派な「中間管理職の悲哀を味わうサラリーマン」が一丁あがりなのだが、さすがにそれは俺のプライドが許さなかった。
「ふん。最初からそう言えばいいんだよ、まったく……」
梓は梓で、持ち上げられてすっかりご満悦なのか、泣いた烏が――この場合は怒った虎かもしれない――の喩え通り、すっかり機嫌が良くなっている。
俺は今度こそ心の中でだけ梓に向かって悪態をつきながら、大人しく彼女の後について台所に入った。
程なく梓が立ち止まったのは、流しの脇の古びた食器棚の前だった。
「ここか?」
「ほら、あそこ。棚の上の奥の方に、ちょこっとだけ見えてる鍋があるだろ。あれを取って欲しいんだ」
梓はそう言って、棚の方を指差す。
確かに彼女の言う通り、海苔の缶やら食器類の入った箱やらが雑然と積み上げられたその先に、ちらりと土鍋の取っ手らしきものが見える。
確かにあの位置では踏み台のひとつでもないことには、梓の身長じゃちょっと取るのは無理かもしれなかった。
「……あれか。で何だ、今日の晩飯は鍋物でもするのか」
「そうだよ。ほら今日なんか特に寒いからさ、こういう日はみんなで鍋でもつついてるのが一番だろ」
「ああ。まあ、確かにそうだな」
うんうんと頷きながら、俺は梓の意見に同意する。
ただ俺の場合、鍋そのものよりそれに合わせて出てくるだろう熱燗の方に期待を胸膨らませていたりする。
ぐつぐつと程良く煮立った鍋の横に並べられたお銚子。
そして「はい耕一お兄ちゃん、どうぞ」と、にっこり微笑みを浮かべた初音ちゃんが、俺に向かってお酌をしてくれる姿がふと脳裏に思い浮かぶ。
うーん、いいなぁ。
「……耕一?」
思わず妄想モードに入ってしまった俺に、訝しげな視線を向けてくる梓。
「え? あ、いや、何でもない」
その視線に思わず冷たいものを感じ、慌てて意識を現実に引き戻した。
多少の動揺は隠せないまま、それでも梓からの視線を避けるように俺は棚の前に立つ。
そして少し背伸びをすると、周りにある雑多な障害物を落とさないよう気を付けながら、鍋に向かって手を伸ばした。
めでたく手中となった鍋は、思いの外重かった。
「ほれ、重いから気をつけろよ」
そう言いながら梓に鍋を手渡した俺は、鍋を取るときに髪に落ちてきたホコリを軽く振り落とす。
「サンキュー、耕一。いやぁ、やっぱりあんたって役に立つねぇ」
「まったく……現金なヤツ」
「へへっ」
待望の鍋を手に入れた梓は、さっそくそれを洗うべく流しに向かう。
やがて蛇口から、さらさらと水の流れ出る軽やかな音が俺の耳へと流れ込んできた。
「なあ、梓よお……」
しばらく経った頃、俺はぽつりと口を開いた。
鍋を洗いながら気分良さげに鼻歌なんか口ずさんでいた梓だったが、俺のその声に口を一度閉じると、
「ん、なに?」
「お前さあ、千鶴さんのこと……羨ましいとか思ったことある?」
「何だよ、やぶからぼうに」
「いや、ちょっとな」
俺のその問いかけは、どうやら梓には唐突なものだったらしい。
背中を向けたままだったので顔つきこそ分からなかったが、どこか訝しげな口振りから、恐らく声と同様な顔つきを浮かべているのに違いなかった。
「千鶴姉をねぇ……」
それきり梓は言葉を切ってしまい、結果何とはなしにお互いに黙り込んでしまうような形になってしまった。
蛇口から規則正しく流れ出る水が鍋を打つ軽やかな音だけが、俺たちを包み込む。
そんな中を俺はたゆたうように佇み続け、そして梓は鍋を洗い続けた。
「……これでよしっと」
数分後、土鍋を洗い終えたのか、そんな呟きをもらしながら梓は流しから鍋を取り出す。
そして、俺の方を振り返りながら、
「あ、そうそう。さっきの千鶴姉が羨ましいとかどうとかだけどさ、確かに羨ましいって言うか、すごいって思うところはあるよ」
「へえ。どんな時なんだ、それって?」
「千鶴姉の、あの我慢強さ、それから執念深さかな」
「何だそりゃ?」
「え? だって千鶴姉ってさ、何が楽しいんだか知らないけど、いっつもにこやかーにしてるだろ。なーんか、いかもに偽善者だよねえって感じ。耕一もそう思わない?」
「うーん……」
俺は腕組みをしながら考え込んでしまう。
そう言われれば確かに、こう言っちゃ何だが千鶴さんってときどき本心がどこにあるのか俺にも分からなくなる時があった。
微笑みを浮かべながら、でも心の中では涙を流しているような……。
装ってると言うと少し聞こえが悪いが、きっとそこには何があっても他人には決して見せようとしない、もうひとりの――そして本当の彼女がいるのかもしれない。
俺はかつて、そんな彼女の一面を垣間見たことがあった。
いつだってにこやかに、そしてこの柏木の一家の主として敢然と妹たちの生活を守り続けてきた千鶴さん。
でもそんな彼女の微笑みの裏に、まるで糸の切れた操り人形のように生きることを、そしてその意味すらをも見失ってしまった、もうひとりの彼女がいることを。
どちらかが嘘という訳ではない。
きっとそのいずれもが、本当の千鶴さんなのに違いなかった。
冗談混じりの口調だったが、梓は梓なりにそんな千鶴さんの影の側面には気づいているのだろう。
それを本人に向かって口にすることは、決してないだろうが。
「大体さあ、千鶴姉を見習った挙げ句にあたしまで千鶴姉みたいな貧乳になっちまったら、どうしてくれるんだよ」
「そ、それは……」
思わず絶句してしまう。
同時に俺は、千鶴さんの胸を脳裏に思い描いてしまった。
うーん、確かに小振りだとは思うけど、でもあの手の中にちょうど収まる程良い大きさがま
た……って、いかんいかん。
慌てて煩悩を振り払った俺は、口許をひくつかせ気味に取って付けたような追従笑いを浮かべて見せる。
「あははっ、冗談だって」
一体どこまで本気なのやら……口からは、呆れ気味のため息がもれるばかりだった。
§
八月十日
今日も、朝早くから夕方までクラブの練習。
だからわたしがそのことを知ったのは、家に帰り着いてからだった。
朝わたしは、出かけに梓から「今日は、耕一とみんなで水門まで釣りに行くんだ」そう聞かされていた。
わたしはその水門が、家から木立の生い茂る小道を歩いた先の河原にある、ずいぶん昔に作られたものだと知っていたから、彼女に「気をつけて行ってきなさいね」そう注意した覚えがあった。
でも居間にいた梓と楓、そして初音のどこか青ざめた顔つきを見た途端、わたしは水門で妹たちの身に何かがあったことを知った。
そして彼女たちの側にいるはずの耕一くんの姿が見えないことに、言葉にできないほどの不安をかきたてられてしまった。
梓から耕一くんが客間で寝ていることを聞き出し、いてもたってもいられずに客間に向かったわたしを待っていたのは、どこか疲れた様子の母と、そして賢治叔父さまの二人だった。
母も叔父さまも、なぜか耕一さんの寝顔をじっと見つめながら、でも一言も言葉を交わさないままその場に座り込んでいた。
その時のわたしには、それがとても不思議に思えた。
母に耕一さんの様子を聞いても、ただ「大丈夫だから」と言うばかり。
それは、賢治おじさまも同じだった。
昼間、水門で一体何があったのだろう?
そして、耕一くんの身に何が起こったのだろう?
梓たちにそのことを聞いても、彼女たちの記憶もどうやら混乱しているようで、いまひとつ要領を得ない。
夜遅くになって、ようやく耕一くんが目を覚ました。
でも彼は、昼間のことを何ひとつとして覚えていなかった。
§
台所から部屋へと戻り、読みかけのまま開きっぱなしになっていた日記を手にした俺の目にいきなり飛び込んできたのは、そんな記述だった。
そう、これこそが全ての始まり。
柏木の血の宿命という名の、千鶴さんと俺の前に静かに佇む湖面に向かって投げ込まれたひとつの小石。
それが生み出した波紋の影響は、俺と彼女とではその受け止め方が全く違っていた。
俺にとってそれは、八年の歳月を経るまで体内に封印されていた事実だった。
でも千鶴さんにとっては、それからしばらく後に訪れることになる両親の死を予兆させる、不吉な暗示に他ならなかった。
そう言えば……俺の中でふと疑問がわき上がる。
日記の記述と俺の記憶をたどる限り、この時の千鶴さんはまだ柏木の『鬼』の血について何も知らないようだった。
それなら彼女は、一体いつそのことを知ったのか?
そして千鶴さんが、自らのうちにも潜む柏木の『鬼』の能力の存在に気付いたのは……いつ頃からだったのだろう?
ひとつの疑問がさざ波となって、俺の中で徐々にその輪を広げ始めていた。