六月十三日
今日、叔父さまの奥さまが亡くなられた。
昼過ぎに奥さまの危篤の知らせを受けた叔父さまは、仕事をお休みして入院先のご自宅近くの病院へと向かわれた。
でも、すべては手遅れだった。
病院に辿り着いたとき、奥さまは既に息を引き取られていた。
そして叔父さまは、その場で叔父さまの帰りをずっと待っていた耕一さんと再会された。
叔父さまは、身よりのいなくなってしまった耕一さんにこちらに来ることも勧められたそうだけれど、でも耕一さんは叔父さまのその申し出を断り、そして最後まで叔父さまと目を合わせることなく、
「お袋は、親父が来てくれるのを最後まで信じてたよ」
ただ一言、それだけを言って叔父さまの前から去っていったそうだ。
夜遅くになって、叔父さまはひとりこちらに戻ってこられた。
ここに書いた向こうで起こった話はすべて、後で叔父さまから聞いた話。
でもそれを話すときの叔父さまの瞳が、たとえようもなく寂しげだったのが見ているわたしにはとても辛かった。
耕一さん、あなたは叔父さまのことを誤解しています。
叔父さまはいつだって、あなたのことを誰よりも思っているんですよ。
でもわたしに、彼を諭す資格などありはしない。
だって、耕一さんにとっての不幸を生み出した元凶は、他でもないわたしたち姉妹なのだから。
§
玄関の戸が開かれる、からから……そんな軽やかな音。
そしてそれに重なるように「ただいまー」と、明るく軽やかな女の子の声が耳へと流れ込んできた。
食器の片づけを終え、部屋に戻って日記の続きを読もうとちょうど居間を後にしようとしていた俺だったが、その声に足の向きを変える。
スリッパを引きずるだらしない音が、廊下に小さく響く。
そうして程なく辿り着いた玄関には、ちょうど靴を脱いだばかりの初音ちゃんがいた。
俺は笑みを宿しながら、甘えん坊の妹に向かって言葉を紡ぎ出す。
「おかえり、初音ちゃん」
「あっ、耕一お兄ちゃん。ただいまぁ」
外はやはり寒かったのだろう、頬をほのかに赤くさせている初音ちゃんは吐き出す息を白く濁らせながら、いつもと変わらぬ無垢な笑みを浮かべてみせる。
彼女のこの笑顔を見るたびにいつも思うのだが、そこには不思議なくらい邪気がなかった。
それは文字通りの『天使の微笑み』だ。
「どこに行ってたんだい?」
「うん、ちょっと本屋さんに」
そう言って彼女は、小脇に挟んでいた紙袋を俺に向かって嬉しそうに掲げて見せる。
「今日はね、わたしがいつも読んでる雑誌の発売日なんだ」
「マンガ?」
「うん、そうだよ。そうだ、よかったら耕一お兄ちゃんも読む? もし読むんだったら、一緒に読もうよ」
「え、一緒に? 俺は別に、初音ちゃんが読んだ後でもいいよ」
俺は苦笑いを浮かべながら、軽く首を振る。
彼女の甘えん坊は相変わらずだ。
俺に向かって何の屈託もなく「一緒に読もうよ」と言ってくる様は、小さな子供が寝る前に親に向かって「絵本を読んで」とせがんでくるのとちっとも変わらない。
無論、初音ちゃんがそう言ってくれるのは俺のことを頼りになる兄として慕ってくれているからに違いなかったが、それでも多少の照れは感じずにはいられなかった。
「うん……」
俺のその返答に、ほんの少し残念そうな表情を浮かべる初音ちゃん。
どうやら何の気なしに口にしたつもりの俺の言葉は、彼女にとっては予想外の反応だったらしい。
心の中で俺は、自らの愚かさに対して舌打ちをして見せた。
甘えん坊の初音ちゃん。
でも同時に彼女は誰に対しても、一度だってわがままを口にしたことがなかった。
それはまだ親に甘えたい盛りの年頃に両親を失い、姉妹だけで柏木の家を守っていくことを余儀なくされた結果、無意識のうちに彼女が自らに課した枷だったのかもしれない。
親父が来るまでの間、千鶴さんはその小さな身体をいっぱいに広げて、妹たちを守り続けてきた。
自らがどれだけ傷つこうとも、それを全く厭うことなく。
ただひたすら、愛する妹たちの顔から笑みを失わせないことだけを望み続けて。
そして初音ちゃんは、彼女のその思いを子供なりに感じ取っていたのだろう。
だから彼女は、いつだって他人に対して一歩引いてしまうような、そんな子供らしからぬ遠慮する術を身に付けてしまったのだ。
決してわがままなんか言わない、聞き分けのいい妹という役柄を自分自身に課したのだ。
でももしそう訊ねても、きっと彼女は「そんなことないよ」と、あの無垢な笑みを浮かべながら首を横に振るに違いない。
そして同時に、こう思うのだ「自分のことで、余計な心配をかけさせてしまった」と。
心の中に、小さな傷を残しながら。
だから俺は何も聞かない。
その代わりに俺はにっこりと笑みを浮かべ、俺の肩より低い位置にある彼女の頭にぽんと手を乗せながら、
「よーし、じゃあ一緒に読もうか」
「えっ?」
俯かせたままだった顔に、驚いた様子で俺の方を仰ぎ見る初音ちゃん。
「俺も本当はさ、初音ちゃんと一緒に読みたかったんだ」
「ホント?」
「ああ。けどさ、何かちょっと照れ臭くてね」
そう言って照れ隠しに俺は、鼻の頭を軽く掻いて見せる。
そんな俺の仕草がおかしかったのか、ようやく明るい表情を取り戻した初音ちゃんは、くすくすと口許を手で押さえながら笑みをこぼす。
ようやくいつもの空気が戻ってきた。
そのことに俺は安堵の思いを抱きながら、
「さ、それじゃあどこで読もうか。俺の部屋に来る?」
「ううん、今日はわたしの部屋に行こう」
「いいの?」
「うん。読み終わったら、お兄ちゃんと別のことして遊びたいから」
その言葉に、ふといつか彼女の部屋でしたトランプのことを思い出してしまう。
あの時は確か二人で神経衰弱をやって、俺は彼女に完敗を喫していた。
その雪辱を晴らす、いい機会かもしれない。
「よし、分かった」
俺は目をわずかに細めながら、そう頷き返す。
そして俺たちは、静寂に包まれた廊下を歩き始めた。
半歩ほど前の頭ひとつ分低い辺りで、初音ちゃんの髪が柔らかに揺れ動いている。
どことなく彼女の足取りが軽やかに思えるのは、きっと買ってきた雑誌を読むのが楽しみで仕方がないに違いなかった。
いや、それとも俺と一緒に読めることが嬉しいのだろうか。
そんなことを想像するうち、自然と口の端が緩んできてしまう。
その時ふと、俺はどうしてか彼女のその服装に既視感に似た何かを感じてしまった。
……はて?
「んーっ?」
腕組みをして、思わずそんな間の抜けた声を発してしまう俺。
俺の目の前では、彼女が身にまとっている見るからに暖かそうなコートの赤い生地が、髪の色との間に強いコントラストを放っている。
それを目の当たりにするうちにやがてぼんやりと、脳裏にその赤いコートを身につけた誰かのものとおぼしき姿が浮かんでくるのだが、具体的にそれが誰なのかまではっきりと思い出すことができなかった。
その何とも言えない歯切れ悪さに、我ながらもどかしさを感じてしまう。
しばらくの間、記憶の奥底をさらうように小首を傾げていた俺だったが、傾いた視界の中をふわりと揺れた赤のコートに、意識を現実へと引き戻された。
「どうしたの、耕一お兄ちゃん?」
「え?」
「何だか、難しい顔をしてるよ」
「あ、うん……」
俺の方を振り仰ぎながら、そして俺に合わせるように小首を傾げて見せる初音ちゃん。
いまひとつ確信を持てないまま、ためらいがちに俺は、
「ねえ初音ちゃん。そのコートってさ、初音ちゃんのだよね?」
「うん、そうだよ」
「そうだよなぁ……」
疑問を抱かせる余地なく、即座に帰ってきた彼女の返答。
でも何故か、俺の中のどこかが納得していなかった。
そんなどうにも煮え切らない俺の態度に、心配そうな表情を浮かべていた初音ちゃんだったが、ややあって「あ、そう言えば……」と、何かを思い出したように小さく声をあげる。
そして微笑みを浮かべながら、
「お兄ちゃんが何を言いたかったのか、わたし分かったよ。うん、このコートはね、本当はわたしのじゃないんだ」
「え?」
「これってね、千鶴お姉ちゃんのお下がりなんだよ」
にっこりと、目を細めながら言葉を紡ぐ初音ちゃん。
それで俺も、ようやく納得がいった。
確かに初音ちゃんのものにしては、ちょっとサイズが大きいような気はしてたのだが、まさか千鶴さんのものだったとは。
「前にお姉ちゃんがね、サイズがちょっと小さくなったからって、わたしにくれたんだ」
「ふーん、そっか」
「でも、耕一お兄ちゃん。どうしてこのコートが、千鶴お姉ちゃんのものなんだって知ってたの?」
「うん、そうなんだよなぁ。何で知ってるんだ、俺?」
思わずその場で腕組みして、考え込んでしまう。
以前どこかで、千鶴さんがこのコートを着ているのを見たことがあっただろうか。
もしそうならすぐに思い出せてもよさそうなものだったが、現実には初音ちゃんの言葉を聞いた後も、俺の記憶は明瞭さを欠いたままだった。
何故だろう。
しかしどれだけ考えても、俺はその疑問に対してはっきりした答えをどこからも見出すことができなかった。
「ねえお兄ちゃん、本当に思い出せないの?」
「ああ、全然」
「そっか……そうだ、いいこと思いついたよ! あのね、わたしの部屋にお姉ちゃんがこれを着てるときにみんなで撮った写真があるの。それを見れば、耕一お兄ちゃんもきっと何か思い出すんじゃないかな」
「写真かぁ。なるほどね」
ひとりごち頷いてしまう俺。
そんな俺に向かって、初音ちゃんも満足そうに頷きながら、
「じゃあ本を読む前に、まず写真からだね」
「よし、そうと決まれば善は急げだ。行こう、初音ちゃん」
「うん!」
§
「えーと、確かこの辺に……あっ、これかな!」
初音ちゃんがアルバムを求めて本棚の捜索をしている間、俺は何となく手持ちぶさたといった感じで、彼女の姿を無意識に目で追い続けるばかりだった。
その間、絶え間なく鼻腔をくすぐる甘い石鹸の香りが、いかにも女の子の部屋といった雰囲気を醸し出している。
正直、男の部屋じゃこうはいかないと思う。
大学の近くに下宿していた頃の俺の部屋なんて、いつだって石鹸ならぬ煙草のヤニの臭いがぷんぷんしていたものだった。
床に散乱するゴミの山、そしてヤニで黄ばんだ襖や壁紙……梓が見れば、きっとあまりの惨状に呆れ返るに違いなかった。
それはそれで、俺にとっては慣れ親しんだ香りであり色彩だったのだが、まあ他人に威張れる類のものではない。
「耕一お兄ちゃん、お待たせーっ」
そんなことを考えているうちに、ようやくお目当てのものを見つけたらしい初音ちゃんが、いつの間にか俺の前に座り込んでいた。
ぺたりと両脚の太ももを摺り合わせるような、可愛らしい女の子座り。
ミニのスカートを着ているせいで、その見るからに柔らかそうな太ももの動きが、手に取るように俺にも分かってしまう。
思わず生唾を呑み込みそうになってしまうのを、慌てて耐え忍ぶ。
煩悩退散、煩悩退散。
そして俺は表情を取り繕いながら、
「見つかった?」
「うん」
にこやかに頷きながら、初音ちゃんは床の上にアルバムを広げる。
年季故かアルバムとその中に収められた写真は、ぱっと見どこか色褪せた感じがした。
最初のページから、順にめくっていく。
それはどうやら彼女の小学校入学から以降の思い出を綴じたものらしい。
見るからに身体の半分はあるだろう、大きなランドセルを背負って満面の笑みを浮かべる微笑ましい姿や、運動会なのか鉢巻きを締めた体操着姿などが、ゆっくりとめくられてゆくページの合間に見え隠れする。
でも初音ちゃんはそこで手を止めることなく、緩やかなペースでアルバムの中の時間を進めていった。
そして残り数ページといったあたりで、ようやく彼女の動きが止まる。
「あっ、これこれ。ほら、これだよ。耕一お兄ちゃん」
「ん? どれどれ……」
俺は初音ちゃんと顔を並べて、彼女が指差す一枚の写真に目を落とす。
途端ふわりと、彼女のシャンプーの匂いが俺を包んだ。
そして次の瞬間、思わず「へえ……」そんなため息にも似た声を発してしまっていた。
ごくごくありふれた、一葉の写真。
そこには、よそ行きの服装をした初音ちゃんを中心に千鶴さんと梓、そして楓ちゃんの四姉妹が立ち並んでいた。
背景に写っている古ぼけた建物は、学校の校舎か何かだろうか。
フレームの中の千鶴さんを始めとする姉妹の誰もが、いまより少し幼い顔立ちをしていることから、多分五、六年くらい前の写真なのだろう。
「この写真ってね、わたしの小学校の卒業式の時に撮ったものなんだ」
俺の想像を裏付けるかのように、初音ちゃんが口を開く。
ということは、千鶴さんはこの時は十九歳……高校を卒業してちょうど大学に進学した頃になる。
「ほら。千鶴お姉ちゃんが着てるコート、わたしがさっき着てたのと同じやつでしょ?」
「うん……」
生返事を返しながら、俺はじっと写真の中で微笑みを浮かべる千鶴さんを見つめ続けた。
俺と再会したときよりも、少しだけ髪が短い千鶴さん。
でもそこにいたのは、紛れもなく千鶴さんだった。
姉として母として、いつだって妹たちのことだけを考え、そして生き続けてきた彼女がそこにいた。
「ねえ、初音ちゃん」
ふと何かを思い出したように、俺は口を開く。
「なあに?」
「この時千鶴さんさ、もしかしてコートに車が跳ねた水をかけられて、すごいショック受けてなかった?」
「うーん、どうだったかなぁ……」
当時のことを思い出そうとするように、写真を前にわずかに目を細めて見せる初音ちゃん。
でもすぐに、ぱっと表情を明るくすると、
「うん、そうそう。お兄ちゃんの言う通りだよ。お姉ちゃんたちね、確か卒業式に少し遅れて来たの。それで後で梓お姉ちゃんにどうしてってわけを聞いたら、車に泥を跳ねられてコートが汚れちゃって、千鶴お姉ちゃんが凍りついちゃってたから遅れたんだって言ってたよ」
くすくすと、小さな笑みがこぼれる。
そしてその場から立ち上がった彼女は、ハンガーにかけてあったコートを手に戻ってきた。
「ほら、たぶんこれだよ」
初音ちゃんが指差したコートの裾近くには、目を凝らして見れば確かに小さなシミのようなものが点々と、紅の生地の上に穿たれている。
しかしそれは、じっと目を凝らさなければ分からないほどの、かすかなシミだった。
「でも耕一お兄ちゃん、よくそんな昔のこと知ってたね。わたしだって、お兄ちゃんに言われるまですっかり忘れてたのに。あ、もしかして梓お姉ちゃんか誰かから聞いてたの?」
「う、うん。まあ、ね……」
曖昧な返事を返すばかりの俺。
そう、俺はこの日の出来事をすべて知っていた。
でもそれは誰かから話を聞いたからでも、ましてやその場に俺がいたからでもなかった。
俺は、読んでいたのだ。
§
三月十五日
今日は、初音の小学校の卒業式。
梓も楓も学校の方は試験休みに入っていたので、みんなで行くことにした。
初音はわたしたち姉妹の中でも一番の甘えん坊さんだから、前の晩にそのことを話したらとても喜んでくれた。
でもそれはわたしたち姉妹の中でも、初音が両親の温もりを一番覚えていないからなのだ。
彼女が小学校に上がってまもなく、父も母も共にこの世からいなくなってしまった。
それ以来、わたしはずっと彼女の母親を演じてきた。
決して楽しいことばかりじゃなかった。
でもそれで初音のあの笑顔が見れるのなら、わたしはいくらでも彼女たちのためにそうし続けようと思う。
そう言えば小学校へ向かう途中、車に泥をかけられた。
そのせいで、お気に入りの赤のコートを汚してしまった。
あれは生前に母がわたしに贈ってくれた、大切な形見の服だったのに……とても悲しい。
それは母とわたしの大切な思い出を汚されてしまったような、そんな気持ちから生じたものだった。
点々と、染みの付いたコート。
クリーニングに出せばきっと綺麗になるとは思うけど、その全てを洗い清めることはできないに違いない。
何故ならあの時……小さな粒となって生地を伝い落ちる水滴が、コートの生地の色のせいでまるで返り血のように見えてしまったのだ。
わたしの手はもう、あの水滴のように真っ赤に染まってしまっているのかもしれない。
そしていつか、大切な人をこの手で殺めなければならない、そんな日が来るのだろうか。
母が、父にそうしたように……。
§
親父はこの時、既に『鬼』に心を苛まれ始めていた。
そして千鶴さんは、それが最後にどんな結末に至るのかを――少なくとも両親がどのように人生の幕を下ろしたかを、知っていた。
それを親父から聞き出したのか、彼女の両親が何か書き置きでも残していたのかまでは分からない。
でも千鶴さんは、いつか自らの手で親父の命の灯火を吹き消さなければならない日がやってくることを、心の中で予感していたのだ。
そして彼女の脳裏には、親父と並んで俺の姿もそこに浮かんでいたのかもしれなかった。
「それでね……」
初音ちゃんが何か話している。
でも俺の耳にそれは、意味をなす言葉として流れて来なかった。
ただ記号としてのそれを意識のどこかが受け取り、そして曖昧な相づちを返すばかり。
目の前の写真の中で、穏やかな笑みを浮かべる千鶴さん。
いまの俺にはその微笑みが、まるで心の中では涙を流しているような、そんな泣き笑いの表情に思えて仕方がなかった。
§
七月二十四日
耐えられない。
耐えられない。
耐えられ……ない。
どうしてわたしたちばかりが、いつだってこんな苦しみを味わわなくてはいけないの?
悲しみを負わなければならないの?
こんな思いは、父と母の時だけでもう十分なのに。
その上、わたしたちから叔父さままでをも奪おうとする柏木の血が、憎い。
わたしはいま、心と身体がバラバラになってしまいそうな、胸を引き裂かれるような思いに駆られている。
もしかしたら、もう限界なのかもしれない。
叔父さまがいなくなってしまったら、わたしは一体どうすればいいの?
誰か教えて。
出口の見えないこの暗闇から……助けて。
八月一日
柏木賢治死去。
死因、飲酒運転による崖からの転落。
八月二日
今日、耕一さんに叔父さまのご不幸を伝える。
電話越しとはいえ、耕一さんの声を聞くのは一体何年ぶりだろう。
すっかり声変わりをしてしまってまるで別人のような声だったけれど、でもわたしには最初の一言だけで、すぐそれが耕一さんの声なのだと分かった。
近いうちに焼香に来てくれるとのこと。
妹たちにとっても耕一さんの来訪は、叔父さまの死で悲しみに暮れるばかりの彼女たちの心を少しでも癒してくれる、何よりの朗報となるだろう。
でも、どうしてだろう。
叔父さまの死を知った耕一さんの声はとても冷静で、まるで他人事のような様子だった。
生前に叔父さまから聞かされていた通り、耕一さんはいまでも叔父さまのことを恨んでいるのだろうか。
そして、わたしたちのことも。
八月七日
叔父さまの初七日。
でも、耕一さんはまだ来ない。
そしてわたしの心は、いまも引き裂かれたまま。
叔父さまが亡くなられてから全ての希望を失い、打ちひしがれたままのわたしと、妹たちのために姉として、そして母親代わりとしての責務を果たそうとする、もうひとりのわたし。
それがわたしの心と身体を、ばらばらに切り裂いてゆく。
わたしの生きる意味、それはただ妹たちのためだけ。
でも、もしいまそれが失われてしまえば……わたしは一体どうなってしまうのだろう。
八月十八日
誰かのために自分を犠牲にすること、果たしてそれは本当に正しいことなのだろうか?
でもわたしには、最初から選択の余地などありはしない。
わたしは柏木本家の家長として、たとえその先にどんなに辛く悲しいことが待っているのだと分かっていても、決断を下さなければならない。
今日、耕一さんが叔父さまの供養のためにこちらに来た。
わたしと初音の二人で駅まで迎えに行ったのだけれど、再会した耕一さんはすっかり大人びていて、思わず見違えてしまうほどの立派な姿だった。
それでも彼の瞳は、八年前の夏休みに初めて会った時から少しも変わらない、あの優しい色合いを失っていなかった。
でも……わたしは感じてしまったのだ。
耕一さんの中に、あの時より一層大きく育った『鬼』の存在を。
§
油が切れて立て付けが悪くなったような、そんな金属質のかすかなきしみ音と共にドアが開かれる。
使い古したボストンバックを肩から担いだ俺は、そのままホームの上へと降り立った。
途端、夏の焼け付くような日差しが全身に降り注いでくる。
「あっちーーっ……」
海辺の街特有の、湿気をふんだんに帯びた熱気が遠慮呵責なく全身にまとわりついてくる。
つい先刻まで空調の程よく効いた、心地よい空気の中にいた俺の身体は、その唐突な変化に全身からどっと汗を吹き出すことで応えた。
思わず手を団扇代わりにして顔に風を当てようとするが、真夏の陽光はそんな俺の努力を嘲笑うかのように容赦なく照り続けてきていた。
片手で目を陽射しから庇いながら、頭上に広がる空を見上げる。
そこには、突き抜けるようなどこまでも続く紺碧の空があった。
同じ空とはいえ、この街の空はその蒼さからして俺が住んでいる都会のそれとは、全く趣を異にしている。
そしてそれは俺の中で何年もの間眠り続けていた、セピア調の懐古の思いを抱かせてくれる情景に他ならなかった。
俺ひとりを残して周囲から乗降客の姿が消えた頃合いを見計らって、ようやく改札に向かって足を動かしだす。
駅の様子は、俺の知るそれとはかなり変化を見せていた。
記憶の中では木造平屋建ての、いかにも田舎町然とした風情だった駅舎も、いつの間にそうなってしまったのか、鉄筋コンクリート造りの近代的な駅ビルに建て替えられている。
親父の手に引かれ、避暑に訪れたのだろう観光客の群れに混じってまだ小学生だった俺がこのホームに降り立ったのは、かれこれ八年も前のことだ。
そして時の流れは、俺のそんな記憶をもはや風化した過去へと変化させてくれた。
まるで初めてこの地を訪れた旅行者のように、俺は右に左にせわしなく視線を巡らせながらやがて改札――さすがに自動改札ではなかった――を通り抜ける。
そこで一度、立ち止まる。
改札の前から見た街並みも、やはり俺の記憶の中に残る情景とはかなりの様変わりを見せていた。
瀟洒なアーケードの中を溢れる、観光客とおぼしき人並み。
八年前、親父に手を引かれてやはりこの場に立ったとき、俺は一体どんなことを感じたんだろう……ふとそんな思いが胸中をよぎる。
きっと、いまと同様お上りさんのように視線を左右に泳がせていたに違いなかった。
思わず口の端が弛む。
「あっ、きっとあの人だよ。耕一お兄ちゃーん!」
不意に横合いから女の子のものとおぼしき明るく軽やかな声がしたのは、俺が再び歩き出そうとしたその時だった。
反射的に、声がした方に顔を向ける。
するとそこには、見るからに艶やかな黒髪を豊かにたたえている綺麗な女性と、まだ少女と言った方がよさそうなあどけない笑顔を浮かべている女の子が、二人して俺の方に視線を向けながら並び立っていた。
その姿に一瞬だったが、既視感のようなものを覚えてしまう。
ほんのわずかの間、訝しげに眉根を寄せた俺は、すぐにはっと大きく目を見開きながら改めて彼女たちの姿を見つめやる。
二人は共に微笑みを口元に宿しながら、同時にどこか懐かしそうな眼差しを俺に向かって浮かべていた。
「もしかして……初音ちゃん?」
横合いで静かに佇む女性をその場に残し、俺の方へと駆け寄ってきた少女に向かって、小首を傾げながらそんな言葉を紡ぎ出す。
「うん。久しぶりだね、耕一お兄ちゃん!」
「ああ……本当に」
俺は八年前から比べると、随分と女の子然とした容姿になった初音ちゃんの顔を見下ろしながら目を細める。
「今日はね、お姉ちゃんと一緒に耕一お兄ちゃんのお迎えに来たんだ」
「そっか、ありがと」
そう言って、彼女の頭を軽く撫でてあげる。
俺のその反応が嬉しかったのだろう、初音ちゃんは八年前と何ひとつ変わることのない、あの天使の微笑みを浮かべながら「さ、行こう」そう言って俺の手を取った。
彼女の手に引かれるままに、一度止めた足を再び動かす。
「千鶴さん……だよね?」
そして少し離れたところで俺と初音ちゃんが戻ってくるのを待っていた、千鶴さんとおぼしき年長の女性に向かって、それだけをようやく紡ぎ出した。
彼女は、俺がすぐに自分のことを思い出してくれたのが嬉しかったのか、にっこりと笑みを浮かべながら頷く。
そしてわずかに目を細めながら、
「おかえりなさい、耕一さん」
彼女の発した、それが最初の言葉だった。
それは「お久しぶり」でも「お元気でしたか?」でもない、俺の帰りを優しく迎えてくれる一言。
たとえどれほどの歳月が流れたとしても、俺にとって彼女の言葉はいつだって甘く、そして不思議と暖かな気持ちを抱かせてくれるものだった。
お袋が死んでからこの方、俺にとって寝る場所はあっても本当の意味での帰る場所はもうないのだと、ずっとそう思っていた。
でもいま、俺はそれが間違いだったことを知った。
俺にはまだ帰るべき場所と、その帰りを優しくそして暖かく迎えてくれる家族がいたのだ。
だから俺は応える。
「……ただいま」
満面の笑みを浮かべながら、その一言を。
穏やかに笑みを浮かべる千鶴さんのその姿は、懐かしさもあってかあの時の俺にはやけにまぶしく感じられて仕方がなかった。
そのせいだろう。
俺は、気付いてあげることができなかった。
彼女の瞳の裡に潜む、暗くうち沈んだ闇の輝きを。
俺の中で、再び目覚めの時を迎えつつある『鬼』の存在を敏感に感じ取り、絶望と悲嘆に打ち震える彼女の心を。
八年という長い歳月を経て、凍りついたままだった時間が動き出す。
でもそれは同時に、俺と千鶴さんにとっての運命の歯車がゆっくりと回り始めたことをも意味していた。
悲劇という名の終幕に向かっての。