『千鶴日記』
Update:1998.06.21





第5章「千鶴」

九月三日

 何年もの間、耕一さんの中でずっと眠り続けていたはずの柏木の血。
 それがいま目覚めようとしていた。
 この家に来てから毎晩のように耕一さんは、夢を通して心の中に住まうもうひとりの自分自身――『鬼』と闘い続けている。
 そして朝になってそのことを訊ねると、彼はいつも「ちょっと恐い夢を見ただけ」とそう、照れ笑いを浮かべるばかり。
 でも、わたしは知っていた。
 彼の中で何が起こっているのかを。
 その先に何が待っているのかを。
 耕一さんも父や、そして叔父さまが辿っていったのと同じ道を、いま歩もうとしているのだろうか。
 そして彼が能力を制御しきれないと分かった時、わたしは……。


九月五日

 朝、テレビのニュースを見たとき、わたしの心は張り裂けそうなばかりに激しく痛んだ。
 画面の中のアナウンサーはひどく落ち着いた様子で、近くの公園で人の手によるものとは思えないほど残酷な手口による猟奇殺人が発生したことを、淡々と告げていた。
 そして、偶然その場に居合わせていた梓のお友達――確かかおりさんという名前――が、行方不明であることも。
 耕一さんと再会したあの日から、ずっと迷い続けてきたわたし。
 でも、もう決断を下さなければならないのかもしれない。
 この事件の犯人がもし耕一さんだったとして、そして耕一さん自身にその自覚がないのだとしたら……これ以上の犠牲者が出る前に、すべての幕を下ろすべきなのだろうか。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 そして何故、わたしが幕引きの役目を負わなくてはならないのだろう。
 全ては家の――柏木の血の秘密を守るためなのだということは分かっている。
 わたしは家長として、たとえそれがどんなに辛く悲しいものだとしても、決断を下さなければならない。
 耕一さん……あなたはまだ、気づいていないんでしょうね。
 家のために、わたしがあなたを殺す決意をし始めていることを。
 わたしたちの運命を紡ぐ歯車は、わたしたちの意思に関係なく既に回り出してしまった。
 でも、もしいま時計の針を逆に戻せるのだとしたら、今度は……今度こそあなたには幸せになって欲しい。
 大好きな、耕ちゃんにだけは……。

                  §

『……もしもし、柏木さんのお宅でしょうか?』
「はい、そうですけど?」
『ああ……よかった』
「あの、どちらさまですか?」
『わたしです。柏木……千鶴です』
「えっ? 千鶴って、あの従姉の千鶴さん?」
『はい』
「急にどうしたの、こんな夜更けに……っと、その前に久しぶりだね、元気だった?」
『ええ……』
「どうしたの、千鶴さん? 久しぶりに声を聞いたのに、何だか元気がないみたいだけど。もしかして、そっちで何かあったの?」
『はい。実は……今日、あなたのお父さまが亡くなられました』
「え?」
『…………』
「嘘だろ。親父が、死んじまったなんて。千鶴さんってば、俺を驚かそうと思って冗談言ってるんだろ。久しぶりだってのに、たちが悪いなぁ」
『…………』
「冗談だよね、千鶴さん?」
『いいえ、本当のことです。賢治叔父さまは自動車の事故で……』
「そんな。だって俺の親父だぜ。何をどうしたって絶対死にそうにもない、あの親父が……死んだって?」
『……はい』
「…………」
『…………』
「……そっか」
『耕一さん、お気を落とさないでください』
「うん。でもさ、お袋も二年前にいなくなっちゃったし……ははっ、これでとうとう俺も、めでたく天涯孤独の身ってやつかぁ」
『耕一さん、それは違います』
「えっ?」
『だって、あなたにはわたしたちがいるじゃないですか。わたしや梓、それに楓と初音。血を分けた家族が……まだいるじゃないですか」
「そっか。うん、そうだよね」
『ですから……お願いだから、そんな悲しいことを言わないで』
「ごめん、千鶴さん。分かったよ。そうだ俺、いまからそっちに行こうと思うんだけど」
『え? でも……』
「なあに、幾ら遠いからったって、いまから夜行に飛び乗れば明日の朝にはそっちに着けると思うよ」
『いえ、そうじゃないんです……あの、耕一さんのご都合の方はよろしいのですか?』
「大丈夫。ご都合たって、どうせバイトとかあてもなくふらふら旅行でもしようかな、なーんて考えてた程度だから。だいいち、それどころじゃないよ」
『ありがとうございます、耕一さん』
「何言ってんだよ、千鶴さん。親父が死んじまったっていうなら、最後くらい息子の俺がちゃんと看取ってやらないと。きっと、成仏もできないだろうしさ。まあ不祥の息子としては、最後の親孝行……になるのかな? ははっ」
『分かりました。それでは妹たちと耕一さんがいらっしゃるのを、お待ちしています』
「うん。千鶴さんたちこそ、気を落とさないでね。声を聞いてると何か、俺なんかより千鶴さんの方が、よっぽど落ち込んでるみたいだからさ」
『ええ……そうかもしれません。でも耕一さんは悲しくないのですか? お父さまが亡くなられて』
「うん。そりゃね、悲しくないといえば嘘だと思う。でもさ、急にそんなこと言われても、何だか実感がわかないんだ。親父がもうこの世のどこにもいないってことが」
『…………』
「それに子供の時、親父に言われたんだ。たとえどんなに辛くても、悲しくても泣くんじゃないって。男ならそんなときこそ、周りのもっともっと辛い思いをしてる人たちを気遣ってあげろって。親父はきっとさ、いま俺にそうすることを望んでるような、そんな気がするんだ」
『そう……ですか』
「でも親父が家を離れてから、もう何年になるのかな。最後に会ったのは、確か……」
『あの……ひとつ、聞いてもいいですか?』
「何かな?」
『耕一さんは……奥様と耕一さんから叔父さまを引き離してしまった、わたしたち姉妹のことを怨んでらっしゃるんじゃないですか?』
「えっ? そんなことないって」
『でも……』
「誤解しないでくれよ、千鶴さん。俺さ、別に親父のことを、ましてや千鶴さんたちのことを怨んだりなんかしてないから。あの時はああするのが一番なんだって、俺だっていまは理解してるつもりだよ」
『…………』
「俺だって親父の立場だったらきっと、千鶴さんたちを見捨てるなんてことはできないと思うし。それにさ……」
『……?』
「お袋の最後の望み――親父にもう一目会いたいってのを、親父はちゃんと守ってくれたからさ。どんなに離れてたって、俺たちのことをずっと思ってくれてたってのが、あの時俺にもよく分かったから」
『叔父さまは、とても立派な方でした。優しくて……温かで……ずっとわたしたちのことを見守ってくれて……』
「……うん、そうだね」
『あ、ごめんなさい。すっかり長話になってしまいました。電車の時間は大丈夫ですか?』
「おっと。そろそろ出ないとまずいかな」
『それでは、くれぐれも気をつけていらしてくださいね、耕一さん』
「うん。ありがとう、千鶴さん。それじゃあ、そっちについたらすぐに連絡するから」
『はい、分かりました』
「じゃあ、切るね」

                  §

八月二日

 今日、耕一さんに叔父さまのご不幸を伝える。
 耕一さんの声を聞くのは、一体何年ぶりだろう。
 すっかり声変わりをしてしまってまるで別人のような声だったけれど、でもわたしは最初の一言ですぐにその声が耕一さんのものだと分かった。
 叔父さまが亡くなられて悲しいに違いないのに、でも耕一さんは自分よりわたしのことを気遣ってくれる。
 その優しさは八年前のあの頃と少しも変わらない、思いやりに満ちたものだった。
 明日には、そんな耕一さんと再び会うことができる。
 叔父さまの死がそのきっかけというのが辛いけれど、それは耕一さんもきっと同じ思いに違いない。
 叔父さまのことを思うとまだ胸が痛む。
 でもわたしひとりが、いつまでも落ち込んでいる訳にもいかない。
 妹たちを励まし、そして心の奥では一番傷ついているに違いない耕一さんを元気づけてあげること……それがわたしの役目なのだから。

                  §

「耕一……どうだ、俺のところに来ないか?」
 それは、意外な一言だった。
 お袋の納骨も済み、この数日というもの慌ただしさと多くの人たちに囲まれて過ごした俺にとっては、久方ぶりに時の流れを緩慢に身体で感じることのできる暇(いとま)だった。
 目の前にいるのは、親父ひとり。
 かれこれ五年近く一度として顔を合わせることのなかった親父だったが、その容貌は全く変わることなく、まるで昨日別れたかのような錯覚をつい抱いてしまいそうになる。
 いや……違う。
 その途端、俺の中のどこかが自分の考えを否定する。
 親父は変わってしまった。
 見た目こそ紛れもなく俺のよく知る親父その人だったが、でもどこかが、何かが変わってしまったような気がして仕方がない。
 それは血を分けたたったひとりの肉親である俺だけが気づくことのできる、小さな変化なのかもしれなかった。
「それって、俺に隆山に来いってことなのか?」
「そうだ」
 躊躇うことなく、即座に反応が返ってくる。
 確かにお袋が逝ってしまったいま、俺がこの街に居続けるべき積極的な理由はない。
 でも……そう思いながらも俺はずっと昔から心の中でくすぶり続けている、小さなしこりの存在を感じ取っていた。
「五年前、俺とお袋を捨てておいて今更それかよ。それっていままでほったらかしの挙げ句、お袋に散々苦労させて死なせちまった、せめてもの罪滅ぼしのつもりか?」
 流れるように、そんな悪態が口を突いて出てきた。
 親父は黙ったままだ。
 ただじっと、俺の瞳を見つめ続けている。
 まるでその眼差しだけで、何かを語ろうとするかのように。
 俺の中に消えることなくずっと漂い続けたこだわり、それはかつて親父が選んだ行動に起因するものだった。
 五年前、俺にとって伯父貴にあたる親父の兄が事故で死んだ。
 そして後に残された四人の娘――千鶴、梓、楓、初音の四姉妹――を、少なくとも彼女たちが独り立ちできるようになるまでの間、誰かが保護者として面倒を見る必要があった。
 不思議なことに、明らかに柏木の血を引いていると分かる一族の係累は、彼女たちを除けば親父と……俺しかいなかった。
 そして親父は決断を下した。
 俺とお袋を残して、彼女たちの保護者となることを。
 あの時の俺は、千鶴さんたちの身に突然降りかかった不幸を子供心に可哀想だと、そう素直に思った。
 だから親父から彼女たちのところに行くと聞かされた時、俺も親父に付いて行って、そして彼女たちを元気づけてあげようなどと、そんな決意までしていた。
 でも俺のそんな思惑は、最悪とも言える形で裏切られた。
 親父は俺に何の断りもなしにひとり隆山へと赴き、てっきり家族全員で彼女たちの許へと向かうのだと信じていた俺は、お袋共々取り残されてしまったのだ。
 置き去りにされたことを知って、当然ながら俺は憤った。
 当時まだ小学生だった俺は、その事実を単純に「親父は、俺とお袋を捨てたんだ」そう理解し、そして俺たちを見捨てた親父を恨み、憎んだ。
 どんな人間でも感情は時の流れの中でやがて薄れ、そして消え去っていくものだと言う。
 でも俺にとって、時の流れは何の役にも立たなかった。
 むしろ月日が流れれば流れるほどに、その間一度として姿を見せない親父に、ただひたすら怒りと憎しみを膨らませていくばかりだった。
 時々思うことがある。
 年に一度だけでも、親父が俺たちのところに戻って来てくれればと。
 恨みがましく上目遣いに親父をじっと睨み付ける俺のことを、大好きだったあの笑顔と共に力強く抱き上げ、
「元気だったか、耕一? しばらく見ない間に、随分大きくなったな」
 ただ一言、そう言ってくれるだけで俺の中で膨らみ続けた憎悪の感情は、積み重なる時の中に霧散していったに違いなかった。
 でもそれは……俺の中だけに存在する、可能性という数字の中だけの現実として終わる。
 絶え間なく、聞く者とていない虚空に向かって吐き出され続ける疑問。
 どうして、連れていってくれなかったんだ?
 どうして、いままで顔も見せてくれなかったんだ?
 どうして、俺とお袋を捨てたんだ?
 どうして、どうして……?
 でも親父は何も言わない。
 無言で、ただ俺のことを見つめやるばかり。
 そしていつしか俺も口を閉ざしたまま、そんな親父の姿から目をそむけることもなく、真っ直ぐに睨み続けていた。
 沈黙という名のベールが、世界の全てを覆い尽くす。
 言葉にし難い緊張と弛緩が、目まぐるしく俺の中を行き来しては、やがてどこへともなく消えていった。
 そんなバランスを先に崩したのは、結局俺の方だった。
「分かったよ……親父」
 大きく吐息をもらしながら、それだけを口にする。
 呆れたような、同時にどこか笑いの感情のこもった声だった。
 そして一度伏せた目を見開くと、相変わらずだんまりを決め込む親父に向かって俺は、口許を緩めて見せる。
 刹那、親父の瞳が困惑を感じさせるようにかすかに揺れる。
「もういいよ。俺……行くよ」
「……いいのか?」
「ああ、俺だってとっくに判ってたんだ。あの時、親父がああするしかなかっただろうってことはさ。でも俺は、それを認めたくなかった。認めたら……その途端、いままでの俺がどっかに消えちまうような、そんな気がしてさ」
 親父に「捨てられた」と、そう短絡した小学生の俺。
 でも俺だって、いつまでもあの頃のままじゃない。
 歳を重ねるにつれて本人の意思だけではどうしようもない、いわゆる大人の事情ってものが世の中にはあるんだってことを知ってしまったから。
 理屈で理解できても感情が拒んでいる状態、それがいままでの俺だった。
 でも、もういいんだ。
 親父は、お袋の最後の願いをかなえてくれた。
 お袋の命の灯火が消える直前に、離れていても最後まで信じ続けた男の顔を見たい……その願いを、親父はちゃんとかなえてくれた。
 お袋の死に顔は、穏やかな笑みを浮かべた安らかなものだった。
 俺が親父のことで悪態をついたときも、お袋はいつだって「耕一にも、いつかきっと分かる時がくるから……」そう答えるだけだった。
 いまだってきっと、俺はお袋の言葉の意味を完全には理解できていないんだと思う。
 でもだからこそ、俺は親父のところへ行くべきなのかもしれなかった。
「それに……いつまでもガキみたいに駄々こねてた自分が、何かいい加減馬鹿馬鹿しく思えてきたしさ」
 半分照れ隠しもあって、どこか自嘲気味にそう呟く俺。
「しばらく見ない間に、随分大きくなったな」
「え?」
「子供だ子供だと思っていたが、お前ももうそんなことが言える歳になっていたんだな」
「何だよ、急に……」
 親父の発した言葉それは、俺が何年もの間求め続けたひとつの答え。
 そして時の流れから取り残されたまま、あの日から暗闇の中でひとりうずくまったままだった俺の心は、いまようやく親父の腕に抱き上げられたのだ。
 だから俺は言う。
「その台詞……あと五年早く聞きたかったぜ」
 次の瞬間、親父の顔には子供だった頃の俺が一番好きだった、満面の笑みが浮かんでいた。

                  §

六月十三日

 今日、叔父さまの奥さまが亡くなられた。
 昼過ぎに奥さまの危篤の知らせを受けた叔父さまは、仕事をお休みして入院先の病院へと向かわれた。
 病院に辿り着いた叔父さま。
 そして奥さまは叔父さまの手を握り締めながら、静かに息を引き取られたそうだ。
 母親に先立たれ、ひとり残された耕一さんはこれからどうするのだろう……病院からかけてきた、受話器越しの叔父さまの声を聞きながら、わたしはそんなことを思った。
 でも夜遅くになって戻ってこられた叔父さまは……ひとりじゃなかった。
 叔父さまの横には少し照れくさそうに、でもあの頃と少しも変わらない優しげな瞳の色を浮かべる耕一さんの姿があったから。
「久しぶり……千鶴さん、だよね?」
 それが耕一さんの、わたしへの最初の言葉。
 わたしは嬉しさで涙が出そうになるのを必死に抑えながら「おかえりなさい、耕ちゃん」それだけを言うのがやっとだった。
 そして叔父さまは、そんなわたしたちの再会を、穏やかな笑みを浮かべながら言葉なく見つめてくださっていた。

                  §

 穏やかな波間を漂うような、暖かな感触。
 全身でそれを感じながら俺は、遠く近く寄せては消えてゆく様々な情景を眺め続けていた。
 そこにあったのは過去。
 俺にとっては、未だに後悔の念を傍らに侍らしながらでしか思い出すことのできない、古の記憶だった。
 でもいま俺が見ていたのは、そんなほろ苦い思い出とは少しばかり異なった光景だった。
 千鶴さんからの電話。
 それは深夜にかかってきた、親父の死を知らせる電話だった。
 久しぶりのはずなのに、でもどうしてか千鶴さんの声は何かに耐えているかのように、重苦しかった。
 そして告げられた親父の死。
 でもそれを聞いても不思議と、俺の中では何の感慨もわかなかった。
 俺にとって親父とは、遠い過去の彼方に消え去っていった、過去の思い出に過ぎなかった。
 そう、千鶴さんたちにとっては昨日今日の出来事だったとしても、俺には七年前、既に父親は失われていたのだから。
 親父が死のうがどうしようが、正直な話どうでもよかった。
 だから帰郷を勧める千鶴さんの言葉に、俺は言を左右にして曖昧な答えしか返さなかった。
 それが現実だった。
 結局彼女の説得に応じる形で盆も過ぎた頃ようやく隆山へと向かい、そして俺はそこで八年前から止まったままだった、俺にとっての運命の歯車を再び回し始めてしまう。
 いまでも、時折思うことがある。
 もし俺があの時もっと違った選択をしていたら、その先にはどんな運命が待っていたのだろうかと。
 もっと早くから親父が抱えていた苦しみを理解してやり、そしてその親父の重荷をたったひとりで受け継ぎ、誰の助けも得られずに苦しみ、傷つき続けた千鶴さんの心を、俺が少しでも癒してあげることができたなら。
 それはお袋が逝き、親父との再会を果たしたときもそうだった。
 あの時親父は、ひとりになってしまった俺にむかって「俺のところにこないか?」と、そう誘いかけてくれた。
 それが俺に対する愛情からなのか、それともお袋を死なせてしまった自責の念によるものなのかどうかは、肝心の親父が死んでしまったいまとなっては知る術もない。
 まだ未成年だった俺にとって、それはあの時点で存在した選択肢の中では最善のものに違いなかった。
 でも俺は、その誘いを拒んだ。
 親父への反発が、孤独に対する恐怖に打ち勝ったが故の拒絶だった。
 自分は捨てられたのだという、ある意味子供じみた親父に対する屈折した思いが、俺の中では未だ命脈を保ち続けていた。
 そしてその思いは、お袋を殺したのも詰まるところ俺たちを見捨てた親父のせいなのだという、そんな結論すら導き出してもいた。
 だから俺はお袋の実家からの援助を受けながら、それでも親父から差し出された手だけは何があっても拒み続けた。
 でもいま俺の目の前を浮かんでは消えてゆく幾つもの情景は、そんな俺の記憶とはどこか乖離を見せていた。
 親父が死んだとき、俺はすぐに隆山には向かわなかった。
 お袋が死んだとき、俺は親父からの誘いを頑として拒んだ。
 それは、あり得なかった過去の情景。
 でもそれに覆い被さるように聞こえてくる千鶴さんの日記の文面は、まるでそれこそが唯一の事実であったかのように、確固たる調子で俺の耳に流れ込んで来ていた。
 果たして、どちらが俺にとっての真実なのだろう。
 もしかすると、いま見ているものこそが本当の過去なのだろうか。
 未だぼんやりとした意識のまま思考を巡らせていた俺は、やがてひとつの疑問に至る。
 もしいま見たものこそが真実なのだとしたら、俺と千鶴さんとの出会い――八年前、初めて俺が隆山を訪れたあの日――は、一体どんなものになり得たのか。
 差し出された手を拒み、そして千鶴さんの心を傷つけてしまった子供だった俺。
 あの時の俺に、もっと相手を気遣う思いやりがあれば……。
 心の片隅でそんなことを思った途端、まるで何処かへと流されてゆくように俺の意識は再び混濁し始めた。

                  §

 縁側からは、庭に立ち並ぶ木々が一望にできた。
 俺はそこに座り込み、何をするでなく自然に満ち溢れた情景をじっと眺め続ける。
 その時の俺は、どうしようもなく暇だった。
 夏休みを利用して初めて訪れた、ここ隆山の柏木本家。
 俺がこの家の戸を期待に胸膨らませながら叩いたとき、そこには三人の見知らぬ女の子が、俺の来訪をいまや遅しと待ち構えていた。
 彼女たちの名前は……梓、楓、そして初音。
 みんな俺よりも二つから四つくらい年下の、見るからに可愛らしい女の子たちだった。
 ひとりっ子だった俺は、そんな彼女たちの心からの歓迎に最初こそ戸惑いを感じてしまったものの、すぐに打ち解けることができた。
 次女の梓は、気がつくと俺のことを「なあなあ、耕一ぃ」とすっかり呼び捨てだし、末っ子の初音ちゃんに至っては、まだ二言三言しか話をしていないのに、もう俺を「お兄ちゃん」と呼んで慕ってくれている。
 でもそんな彼女たちもいまは家にはおらず、俺はひとりぼっちだった。
 学校で行われている水泳の課外授業に出かけてしまって、夕方まで帰ってこないからだ。
「……つまんないなぁ」
 俺は突き抜けるようにどこまでも真っ青な空を見上げつつ、ぽつりとそんな呟きをもらす。
 その時だった。
 玄関の方で、ドアが開く音がしたのだ。
 きっと誰か――もしかしたら、早めにプールを切り上げてきた梓たち――が帰って来たに違いない。
 素早くその場から立ち上がり、足早に玄関へと向かう。
 そして廊下を半ばほどまで行ったところで、俺は思いもよらぬ人物と出くわしてしまった。
 そこにいたのは、想像していた梓たちではなかった。
 明らかに俺より年上の、セーラー服を身にまとった綺麗な女性が、少し戸惑い気味の視線を向けながらその場に佇んでいた。
 肩越しに流れるような黒く艶やかな髪と、暖かな輝きに溢れる瞳。
 それらがどうしてかひどく印象的で、心を掴んで離さない。
 誰だろう……そう思った次の瞬間俺は、この家には梓たちの上にもうひとり女の子の姉妹がいることを思い出した。
 きっと、この人がそうなんだ。
 確か、名前は……。
 既に梓たちから聞かされているはずなのに、どうしてかすぐに彼女の名前を思い出すことができなかった。
 まっすぐに俺を見据える彼女の瞳を見つめ返しているうち、不思議と心臓がどきどきしてきてしまう。
 魅入られたように、その場に立ちすくむ俺。
 そして言葉を忘れてしまったかのように、俺はただ呆然と彼女を見つめるばかりだった。
 そんな俺の様子がおかしかったのか、彼女はつぶらな瞳をわずかに細めて微笑みを浮かべ、俺の背丈に合わせるように腰を折りながら、
「こんにちは。初めまして、耕一くん。わたしが、長女の千鶴です」
 そっと、俺に向かって手を伸ばしてくる。
 照れくささもあって、一瞬その手を振り払いたい衝動に駆られる。
 でも結局、彼女に頭を撫でてもらいたいという欲求がそれに打ち勝ち、俺は上目遣いに徐々に近付いてくる彼女の手をじっと見つめ続けた。
 やがて髪に、柔らかな感触を覚える。
 慈しむように優しく髪を撫でる、千鶴さんの手の動き。
 嬉しさと、そして照れくささで俺ははにかむようにわずかに目を細め、それでも身じろぎひとつすることなく、千鶴さんの手の感触を感じ続けた。
 俺が素直に撫でられたことで安心したのだろうか、彼女はそのまま俺の顔をのぞき込むような姿勢を取ると、
「わたしね、耕一くんに会えてとっても嬉しいの。あなたのこと、これから「耕ちゃん」って呼んでもいいかしら?」
「う、うん。いいよ」
「ありがとう……耕ちゃん。そうだ耕ちゃんもわたしのこと、本当のお姉さんだと思って甘えていいからね」
「うん、千鶴……お姉ちゃん」
 間近に見える、千鶴さんの暖かな笑顔。
 顔から火が出そうなほどの恥ずかしさを覚えながら、ようやくのことで俺はそれだけを口にした。
 俺のその一言がよほど嬉しかったのか、千鶴さんは相好を崩しながら俺の身体を優しくそっと抱きしめてくれる。
 そして、
「これからもよろしくね、耕ちゃん……」
 耳許で、小さくそう囁いた。
 全身で彼女の身体の暖かさと柔らかさを感じ取っていたその時の俺は、物も言えずに壊れた人形よろしく、ただ何度も首を縦に振るばかりだった。

                  §

九月六日

 全てが、いま終わろうとしている。
 既に第二、第三の犠牲者も出てしまった。
 わたしは自分の目で、それを確かめた。
 犯人は、紛れもなく『鬼』の能力を持つ――柏木の血を引く誰かに間違いなかった。
 それを行ったのが果たして耕一さんなのかどうか、いまからそれをわたしは確かめに行こうとしている。
 もし耕一さんが今回の一連の事件の犯人だったら……わたしはこの手で、彼の命を断たなくてはならない。
 でも彼の能力は、既にわたしを遙かに凌ぐほど強大なものになってしまっている。
 逆に、わたしの方が返り討ちに合ってしまう可能性も高い。
 それだけは、何とかして避けなければならない。
 たとえわたしが、この命を失うことになるとしても。

 耕一さん……あなたのことを、誰よりも愛しています。
 だから、だからお願い……。

                  §

 頬に、ほのかな温もりを覚える。
 床に直接顔を擦りつけているのとは異なる、それは柔らかでいて同時に優しい感触だった。
 そして誰かが髪を撫でるゆっくりとした、でも穏やかな動き。
 ……誰だろう?
 ぼんやりとそんなことを思いながら、たゆたうように揺れ動くばかりの意識を徐々に取り戻してゆく。
 目を開けると、そこは黄昏に包まれる世界と化していた。
 紅に染め尽くされた世界。
 まるで視界の全てに血が振りまかれたように、俺の瞳はただ赤い単色に埋め尽くされたその情景を映し出し続けた。
 そして再び、髪を撫でる手の動きに気づく。
 横を向いたままだった頭をゆっくりと上に向け、わずかに口許を緩めながらそこにいるだろう彼女に向かって言葉を紡ぎだした。
「帰ってたんだ?」
「…………」
 彼女は何も言わない。
 ただ黙って、頭の上に置いた手を緩やかに動かすばかり。
 どうやら俺は、彼女に膝枕をされているらしかった。
 確か――頭の中で、寝入ってしまう前の記憶がぼんやりと思い浮かんでくる。
 でも結局、途中でその作業を止めてしまう。
 そしてもう一度目を閉じた俺は、何も言わずにそのまま、彼女のしたいようにさせてあげることにした。
 静かに流れてゆく時間。
 それは、俺がずっと求め続けた安息の世界だった。
 まるでこの世界に存在しているのが俺と彼女の二人だけになってしまったかのような、そんな錯覚にも似た思いを抱かせてくれる、穏やかな空気が周囲を押し包んでいた。
 着衣を通して頬に伝わってくる温もりと、一定のリズムで髪を撫でる手の動きが、俺の意識を眠りへと誘う。
 水面を揺れる浮船の上にいるかのような、そんな不思議な感覚。
 どれくらい経った頃だろう、ずっと閉ざしたままだった俺の口から、何の前触れもなくぽつりと言葉が紡がれる。
「あのさ……俺、夢を見てたよ」
「……夢?」
 そこで初めて、彼女の少し不思議そうな声音が周囲の空気を震わせる。
「うん。とっても懐かしい夢。ずっとずっと、もう何年も昔の……俺がまだ小さな子供だった頃の夢」
「そうですか」
「その夢にはさ、色んな人が出てきた。親父とお袋もいたし、梓や楓ちゃん、それに初音ちゃんもいたよ。みんなで花火をしたり、そう言えば水門まで釣りに行ったりもしたよ……」
「わたしは……その夢に、わたしはいましたか?」
 穏やかな、でもどこかおもねるような口調。
 気がつくといつの間にか、俺の頭に乗せられた彼女の手の動きがぴたりと止まっていた。
 膝の上から、俺は間近に映る彼女の表情をじっと見つめやる。
 そこにはどこか不安げにかすかに揺れ動く双瞳が、俺の答えをじっと待ち続けていた。
 一度、小さく息を呑む。
 乾いた唇を舌で軽く湿らせると、俺は小さく頷きながら口を開いた。
「もちろん。いまみたいに優しく髪を撫でてくれてたし、それに俺のことを『耕ちゃん』って呼んでくれたよ……千鶴さん」
 俺の返答に、嬉しそうに目を細める千鶴さん。
 そして恐らくは彼女にしか浮かべることのできないだろう、穏やかな微笑みを満面に宿しながら「ありがとう、耕一さん」そう、囁くように言葉を紡ぐ。
 多少の名残惜しさを感じつつ、それでも俺は彼女の膝枕と別れを告げゆっくりと身体を起こした。
 そして一度大きく伸びをしながら、
「うーん、いつの間に寝ちゃったんだろう?」
「ふふっ。暖房も入っていないこんなところで寝ていたら、風邪を引いてしまいますよ」
「うん。昼はお日様のお陰で結構暖かかったんだけど、さすがにこの時間になると冷え込んでくるね」
 にこやかに笑みを浮かべながら、無言で俺の言葉を首肯する千鶴さん。
「でも千鶴さん、いつ帰ってきたの?」
「ええ、三十分くらい前です。初音に聞いたら、耕一さんがこちらにいらっしゃるって聞いたので……」
「そしたら俺が、大口開けて眠りこけていたと」
「はい……あ、でも大口は開けていませんでしたよ。気持ちよさそうに、寝息は立ててましたけれど」
 一度首を縦に振ってから、慌ててそう付け足す。
 そこにいるのは、紛れもなく俺のよく知る千鶴さんだった。
 姉として母として、そしていまはかけがえのない大切な人として……いつだって俺のことを見守ってくれた千鶴さん。
 彼女の笑顔の裏に隠された、辛く悲しい記憶の数々。
 そのことにかつての俺は何ひとつとして気付くことなく、また彼女の方からそれを明かしてくれることもなかった。
 何故なら彼女は、俺たちのためだけに生き続けてきたから。
 両親を失い、そして親父までをも失ってなお、千鶴さんは俺たちのために、俺たちの笑顔だけを生きる糧として、ともすれば断ち切れそうになる心をこの世界に留め続けてきた。
 千鶴さんは全ての重荷を自分ひとりで抱え続け、そして俺たちの幸せだけを祈り続けてくれたのだ。
 でも……いまは違う。
 俺は、彼女のためにここにいる。
 千鶴さんの重荷を少しでも軽くしてあげるために、心の痕を少しでも癒してあげるために、この場所で俺は生きているのだ。
「……耕一さん?」
 俺の顔をじっと見つめていた千鶴さんが、不意に黙り込んでしまった俺のことを不思議そうな様子で、そして小首を傾げながら口を開く。
 その声に意識を現実に引き戻された俺は慌てて、
「え? あ、何?」
「いえ、何だか真剣な顔をしていたので……何を考えてたんですか?」
「う、うん。まあちょっと……」
 頭をかきながら、何となく言葉を濁してしまう。
 いっそのこと「千鶴さんのことだよ」とでも言えれば格好良かったのかもしれないが、さすがに照れ臭くてそこまでは口にできなかった。
 そんな俺の反応がおかしかったのか、千鶴さんは口許に手を当てながら、
「ふふっ。おかしな耕一さん」
「そ、そう? あははっ」
「ええ」
 そんな穏やかでいて、どこか間の抜けた会話が室内を流れた。
「そ、そう言えば腹が減ったなぁ」
 話題を切り替えようと、取って付けたようにそう切り出す俺。
 実際のところ、俺の腹は恥ずかしげもなく悲鳴をあげる寸前くらいにまで空いていたのは事実だった。
 俺のその一言に、千鶴さんは何かを思い出したように小さく手を打つ。
「あ、そう言えば梓から、もうすぐ食事だって言われてたのをすっかり忘れてました」
 そしていかにも可愛らしい仕草で、ちろりと舌を出してみせる。
 千鶴さんの鈍さに、この時ばかりは内心で感謝した。
「了解。じゃあ、居間の方に行こうか」
 そう言って、その場から立ち上がりかけた時だった。
 小脇にでも挟んだままだったのか、俺と千鶴さんの間にぱさりと軽い音を立てて一冊の本が落ちる。
「あら、耕一さん。何か落ちましたよ?」
「え?」
 そう言って振り向きかけた次の瞬間、俺の中で体温が数度下がった。
 伸ばしかけた千鶴さんの手の先にあるのは、間違いなく彼女の日記だった。
 どうやら部屋の中が薄暗くなってきてるせいで、彼女はまだそれが自分の日記だとは気づいていないようだ。
「あっ、千鶴さん! だ、ダメっ!」
 慌てて彼女より先にそれを回収しようとする俺。
 しかし寸刻の差で彼の本は、千鶴さんの手中に収まってしまった。
「どうしたんですか、耕一さん。そんなに慌てて」
「あ。いや、その……」
「変な耕一さん。あら? これは……」
 万事休す。
 最悪の事態だった。
 千鶴さんは身じろぎひとつすることなく無言のまま、手の中のそれにじっと視線を落としている。
 俺は俺で、そんな彼女の反応を食い入るように見つめるばかり。
 いつしか室内一杯に、これ以上ないほどの緊張感に満ちた空気が溢れ始めていた。
 無限とも思える時が流れたと思われた頃、やがて千鶴さんが俺に背中を見せたままゆらりと立ち上がる。
 固唾を呑んで俺は、彼女の言葉を待つ。
「……耕一さん」
 それは感情の存在を微塵も感じさせない、冷たく重い声音だった。
 そして俺は、彼女のその声が何を意味しているのかを、これまで嫌と言うほどに知らされていた。
 反射的に俺は「は、はいっ!」と、何とも情けない上擦った声をあげてしまう。
「これを……どうして耕一さんが、お持ちなんですか?」
「そ、それは。あはは……」
 背中を、冷たいものが流れるのを感じた。
 冗談抜きで、室内の温度が一気に数度は下がったような錯覚を抱いてしまう。
 同時に体内に眠る、もうひとりの俺の血が騒ぎ始めた。
 この場合それが果たして何を意味しているのかを、俺は知っていた。
 そう、もうひとりの俺は感じ取ったのだ――狩るべき獲物、しかも自らと同等の能力を持つ強敵の存在を。
 ま、まずい……。
 俺が何か言葉を紡ごうと口を開きかけたとき、タイミングを合わせたように千鶴さんがくるりと振り返る。
 そこに浮かぶ表情に、俺は開きかけた口をそのままに凍りつかせてしまった。
 目に映る全てを切り裂かんばかりの冷ややかな鋭い視線と、その源泉である紅に染め尽くされた瞳。
 そこにいたのはもはや俺のよく知る千鶴さんではなく、ましてや人間ですらなかった。
 そう、ひとりの『鬼』だった。
 心の片隅でそのことをはっきりと自覚しながら、同時に俺は死を覚悟した。

                  §

「痛つつつーーーっ!」
「耕一さん。お願いですから、じっとしててください」
「そ、そんなこと言ったって……し、染みるぅ!」
 先刻から室内には、俺の口から発せられた何とも情けない叫び声ばかりが響き続けていた。
 俺は……際どいながらも、未だに生を享受していた。
 自らが蒔いた種とはいえ理性のたがが外れ、持てる能力の枷を捨て去って全力を発揮した千鶴さんを抑えきることは、いかな俺の『鬼』の能力を持ってしても一苦労だった。
 能力の制御に関しては、やはり彼女の方に一日の長がある。
 結局あちこち傷だらけになりながら、何とか彼女の持久力が切れるのを待つのが俺にできたことの全てだった。
 そしていま、俺は理性を取り戻した千鶴さんの手で、彼女自身が作り出した傷の手当をしてもらっていた。
 我ながら、よくこれだけの傷で済んだものだと思う。
「でも千鶴さん、どうしてそんな染みる薬なの? いまどき、もっと染みない普通の薬もあるでしょ?」
「何言ってるんですか。耕一さんにはこれで十分ですっ!」
 まだどこか不機嫌そうな千鶴さんは、つんつんした様子でそう言いながら、脱脂綿に浸した薬液を俺の患部にぐいと押しつけてくる。
「…………っ!」
 大口を開けて、言葉にならない叫びを発する俺。
「もう、信じられません! 人の日記を勝手に読むなんて」
「……ごめん」
 素直に謝るしかなかった。
 確かに、千鶴さんからすれば他人に日記を読まれて怒らないわけがない。
 彼女が仕事から戻ってくるまでに戻しておけば大丈夫だろうと、そう踏んだ俺の見込みは文字通り甘かったわけだ――読んでるうちに寝入ってしまったのは完全な誤算だったが。
 千鶴さんはそっぽを向いたまま、俺の方を見ようともしない。
 そんな彼女に向かって俺は、小さくため息をつきながら、
「勝手に日記を読んだのはごめん、俺が悪かった。でもさ……俺、知りたかったんだ」
 千鶴さんからは、何の反応もない。
 でも俺は構わずに続けた。
「千鶴さんの……心の苦しみを」
「え?」
 その言葉に、ようやく千鶴さんは俺の方に顔を向けてくれた。
 俺は彼女の目をまっすぐに見つめながら、できる限りの誠意を込めて言葉を紡ぎ続けた。
「千鶴さんってさ、昔から辛いことも悲しいことも……いつだって、自分ひとりで全部抱え込んじゃって来ただろ。でも俺、もっと言って欲しかった。もっと教えて欲しかった」
「…………」
「だって、俺は千鶴さんのことが大好きだから。大好きな千鶴さんの心を、少しでも軽くしてあげたかったから」
「……耕一さん」
「こんな頼りない俺だけど、それでも千鶴さんの役に少しでも立ちたいって思う」
 そこで言葉を切って、改めて千鶴さんを見つめやる。
 いつしか顔を俯かせていた千鶴さんは、やがて俺の視線に応えるように顔を上げると、嬉しそうに微笑みを浮かべてくれた。
「ありがとう……耕一さん。ごめんなさい」
 俺は、そっと彼女を抱きしめる。
「あっ!」
「誰よりも愛してるよ、千鶴さん」
「……わたしもです」
 そして互いに、そっと顔を近づけてゆく。
 あともう少しで……そう思った瞬間、頭上から響く罵声が全てを台無しにしてくれた。
「くぅおらぁ、耕一ぃ! このあたしがメシだーってさっきから呼んでるってのに、聞こえないのかぁ!」
 まるでそうするのがお約束だったかのように、おたまを片手に梓がタイミング良く部屋の中に飛び込んでくる。
「げげ、梓っ!」
「あ、あら」
 そして俺たちの姿を視界の裡に認めた途端、ふるふると身体を怒りに震わせながら、
「耕一ぃ、それに千鶴姉も……あんたたちさあ、いい加減時と場所を考えたらどうなんだよ。まったく、ところ構わずいちゃいちゃいちゃいちゃと……」
 そう言って、じろりと俺たちに鋭い眼光を送りつけてくる。
 だが俺は梓のその態度に臆することなく、かえってせっかくのいいところを邪魔された不満のはけ口をぶつけ返すように、
「ふん、大きなお世話だ。大体、お前にそんなこと言われたって、独りもんのやっかみにしか聞こえないぜ」
「ぬぅわんだとぉ!」
 梓の憤怒の叫びと、俺に向かって彼女が手にしたおたまが飛んでくるのとは同時だった。
 いかん、ヤブヘビだったか。
 そう思う間もなく、俺の頭におたまがクリーンヒットする。
 梓が普段から口より手の方が数百倍は早いヤツなのだと知っていながら、俺はそれを避けきれなかったのだ。
「ふ、不覚……」
 そのまま俺は、崩れるように床に倒れ伏す。
 天地が左右に振れる視界の中を、いま頭に当たったおたまが床を転がるのが見て取れた。
 ぼんやりとかすれる意識の中に、千鶴さんの声が遠く響く。
「だ、大丈夫ですか、耕一さん! 梓っ!」
「ふん。自業自得だろ」
「も、もう。そんな言い方はないでしょ」
 千鶴さんのその言葉は姉として、妹の不実をたしなめようとする思いから発せられたに違いなかった。
 でも梓はそんなことに頓着することなく、にやりと笑みを浮かべながら、
「何だよ。大体さぁ、千鶴姉にあたしのことを非難する資格なんてないと思うけどなぁ」
「ど、どうしてよ?」
 訝しげな顔つきの千鶴さん。
 そんな彼女に向かって梓は、勝ち誇ったような顔つきで言った。
「明日には旦那になるはずの新郎を、どこの世界の妻になるだろう新婦が傷だらけにするってんだ? それに比べればあたしのしたことなんて、ホント大したことないよねぇ」
「こ、これは夫婦の間のことなんだから、梓には関係ないでしょ!」
「おやおやぁ、夫婦になるのは明日からでしょ? 確か今日はまだ、ただの従姉弟同士のはずだけど」
「も、もう! あなたはいつだって、ああ言えばこうなんだから」
「相すみませんねぇ。何せ、姉の教育が行き届いているもんで。へらへら」
「梓っ!」
「もう、千鶴お姉ちゃんも梓お姉ちゃんも、こんなところでケンカなんかしちゃダメだよ」
「耕一さん……大丈夫ですか?」
 どうやら楓ちゃんに初音ちゃんまでもが、騒ぎを聞きつけて駆けつけて来たらしい。
 部屋の中が一気に賑やかになっていくのを、俺はどこかぼんやりした意識のまま感じ取っていた。
 そして、内心で苦笑を浮かべる。
 これが俺にとっての幸せなのかもしれない、と。
 騒ぎは一向に治まることなく、賑やかさを増すばかりの目に映る情景。
 そしてそこには、俺にとって愛すべき女性と、その家族たちの心からの笑顔があった。
「千鶴日記」完

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