『千鶴日記』
Update:1998.10.16





Extra01「柏木耕一ヲ攻略セヨ」

三月十五日

 春休みということで、耕一さんがこちらに戻って来られてから、そろそろ一週間。
 妹たちもここ数日は、学校が終わると寄り道もせずにみんな真っ直ぐ家に帰ってくる。
「ま、あんなのでも一応は従兄に違いないからな」
 梓なんかはそう言いながらも普段より楽しそうな様子で台所に立っては、耕一さんの好物ばかりを晩御飯のおかずにしている。
 それは楓や初音にしても同じで、何だかんだ言っては耕一さんの側から離れようとしない。
 もちろん、わたしだって嬉しい。
 だって大好きな耕ちゃん(ちょっと恥ずかしいな)が、すぐ側にいてくれるんだから。
 でも……そう思いながらも、ひとつだけ気になることがある。
 あの夏の日から一半年、わたしと耕一さんは柏木の血の宿命を越えて結ばれた。
 でもあれから彼の態度はいつもと少しも変わりなく、それはお正月にこっちに戻って来たときもやっぱりそうだった。
 何も言ってくれない耕一さん……今更口にするような事ではないのかもしれないけれど、それでもわたしは確かめずにいられない。
 耕一さん……あなたにとってわたしは、一体どんな存在なんでしょう?

                  §

 暖かな春のそよ風が、頬をなでてゆく。
 縁側に座りこみ、何をするでもなく俺は、徐々に春の装いを整えつつある庭の草木をぼんやりと眺めていた。
 実際のところ、俺は暇を持て余していた。
 千鶴さんは仕事、そして梓たち下の三姉妹は共に期末試験の真っ直中なのだ。
 ここ数日のパターンからすると、あともう何時間かで初音ちゃんか楓ちゃんが帰ってくるのだと思うのだが、それにしたところでいますぐどうこうという話ではない。
 駅前を当てもなく散歩するという選択肢もなくはなかったけれど、それもこの何日かでいい加減飽きてしまっていたというのが実状だった。
 で結局、こんなところで年寄りよろしく俺は、庭をぼけらーっと眺めやっているのだった。
 実際陽射しは暖かで、ともすればそのまま寝入ってしまいそうになるほどの、ぽかぽかした陽気が俺を包み込んでくる。
「こ・う・い・ち、さん」
 背後から女性のものらしい軽やかな声が聞こえてきたのは、意識の半ば以上が既に夢の国へと引き込まれかけていた、そんな時だった。
 寝ぼけ眼のまま、肩越しに声のした方に目を向ける。
 そこにいたのは、千鶴さんだった。
 腰まで届きそうな艶やかな黒髪を春風に揺らしながら、後ろ手を組んで俺のことをじっと見つめる双瞳。
 ひょっとして夢でも見てるのかな……ふとそんな思いが胸中をよぎり、思わず小首を傾げてしまう。
「……どうしたんですか?」
 そんな俺に、どこか不思議そうな様子で千鶴さんは訊ね返してきた。
 それでようやくのことで俺は、いま眼の前にいるのが夢でも幻でもない、本物の千鶴さんであることを悟る。
「え? あ、何でもないよ。今日は早かったんだね」
「ふふっ。わたしだって、たまには早く帰ってくる日もあるんですよ」
 嬉しそうに目を細めながらそう言葉を紡いだ千鶴さんは、そのまま俺の横に軽やかな仕草で腰を下ろした。
 鼻先にふと、彼女の匂い――シャンプーだろうか――が漂ってくる。
 そう言えば千鶴さんって、香水とか使わないのかな?
 脈絡なく思い浮かんだそんな疑問を頭の中で転がしながら、俺は相変わらずぼんやりと庭の景色を見つめていた。
 しばらくの間、沈黙が流れる。
 空を駆ける鳥たちの鳴き声と、塀の向こうから聞こえてくる学校帰りらしい子供たちの楽しげな笑い声だけが耳に響く。
 そんな穏やかとも言える静寂を破ったのは、千鶴さんの方からだった。
「す、すっかり暖かくなりましたね」
 不意にそう、どうしてか少しどもり気味に言葉を紡ぐ千鶴さん。
「ああ、そうだね」
「きっとあと半月もすれば桜も咲き始めますし……そ、そうしたら、お弁当を用意してみんなでお花見にでも……い、行きましょうか?」
「ああ、いいねぇ」
 その言葉を聞いて、真っ先に脳裏に思い浮かんだのが満開の桜花ではなく花見酒だったというのは……やっぱり俺って、オヤジなのかもしれない。
「あ、あの……」
 でも千鶴さんはそこで言葉を切ると、そのまま黙り込んでしまう。
 そして会話が途切れ、再び静けさが戻ってくる。
 遠くから鳥のさえずりが、そしてそよ風が木の枝葉を揺れ動かす音がさわさわと、耳の中へと流れ込んでくる。
 彼女が改めて口を開いたのは、それから十秒ほど経ってからだった。
「こ、耕一さん。実はですね、この間なんですけど、初音が……」
「うん?」
「わたしに『本当のお兄ちゃんが欲しいなぁ』って、話してくれたんです」
「お兄ちゃん? 本当の?」
 予想もしなかったその言葉に、思わず聞き返してしまう俺。
 でも千鶴さんは無言でこくこくと、普段あまり見せない仕草で頷くばかり。
 そして顔を俯かせると、何を思ってか両手を膝の上でもじもじとさせながら、
「こ、耕一さんは……これってどういう意味だと思います?」
「え?」
 果たして何と答えたものか、俺は一瞬戸惑ってしまった。
 俺にとって千鶴さんたち四姉妹は、従姉妹というよりは実の姉妹と何ら変わらない存在だったし、これまでだってそう思って接してきたつもりだった。
 でも、もし千鶴さんの言うことが本当なら、初音ちゃんは俺に対してどこか遠慮していたということになる。
「うーん、水くさいなぁ」
 数瞬後、俺の口を突いて出てきたのはそんな一言だった。
「えっ?」
「ひょっとして初音ちゃん、まだ俺にどっか遠慮してるのかな? 俺はいつだって、本物のお兄ちゃんのつもりで彼女に接してたんだけどなあ」
「えっと……耕一さん?」
「確かにここ数日、初音ちゃんも試験だろうからって気をつかって、あまり構ってあげられなかったけれど、やっぱりそれが良くなかったのかな」
 そのまま腕組みをして、沈思黙考に入ってしまう。
 すると脳裏に自然と浮かんでくる初音ちゃんの、あの無垢なる天使の微笑み。
 彼女の「お兄ちゃん」として、やっぱり初音ちゃんにはいつでも朗らかに、明るく微笑んでいて欲しかった。
「あのぉ、耕一さん? そうじゃないんです。わたしはただ……」
 そのために俺にいまできること、それは……。
「よしっ!」
「きゃっ」
 そう一声、膝を勢いよく叩いて目をかっと見開いた俺だったが、その行動が唐突すぎたのか千鶴さんが驚いたように小さく悲鳴を上げる。
「あ。ゴメン、千鶴さん。びっくりした?」
「いえ、あの……はい。少しだけ」
「ついひとりで考えごとしてる気になっちゃって俺、思わず大声出しちゃったよ。ははっ」
 照れ隠しに、頭を軽く掻いてみせる。
「そ、そうですか」
 ほっと胸に手を当てて、安堵の吐息をもらす千鶴さん。
 そして次の瞬間、至って真剣な眼差しで俺のことを見つめやりながら、
「それでですね、耕一さん。わたしがお聞きしたかったのは……」
「うん?」
 急に真顔になった千鶴さんの様子の変化にどこか戸惑いを感じつつ、それでも俺は彼女を見つめ返す。
「ただいまーっ」
 彼女が次の言葉を紡ぎかけたその時、玄関の戸が開く音と共にそんな声が聞こえてきた。
「初音の本当のお兄……」
「あっ。耕一お兄ちゃんと、それに千鶴お姉ちゃんだ!」
 ぱたぱたと軽やかに廊下を駆け抜けて俺たちの前に姿を現したのは、たったいま話題になっていた初音ちゃんその人だった。
「おかえり、初音ちゃん」
 微笑みを浮かべながら、俺は彼女に声をかける。
 そして初音ちゃんも俺に向かって「ただいま」と、あの変わらぬ朗らかな笑みと共に返事を返してくれた。
 ランドセルみたいに背中に背負った通学鞄もそのままに、俺たちと並んで縁側にちょこんと座り込む。
「ねえお兄ちゃん、こんなところで何をしてるの?」
「え? うーん、そうだな。日なたぼっこかな」
「ふーん、そうなんだ」
 納得したように、小さく頷く初音ちゃん。
 そこでふと思い出したように俺は、
「そう言えば初音ちゃん、試験は今日で終わりなんだよね」
「うん、そうだよ」
「そっか。じゃあ今日はいままで遊べなかった分、いっぱい初音ちゃんと遊ぶとするかな」
「ホント? わーい、嬉しいな」
 子供みたいに両手を挙げて、無邪気に喜んで見せる初音ちゃん。
 俺はそんないかにも彼女らしい素直な反応に、気がつくとうんうんと満足げに頷いては相好を崩してしまっていた。
「あ、そうだ。もしよかったら、千鶴さんも一緒にどう?」
 そう、彼女に顔を向けながら同意を求める。
 ……あれ?
 千鶴さんの様子が、少し変だった。
 妙に元気が無いというか、さっきまでとは打って変わって意気消沈したかのように、頭を垂れてしまっている。
「千鶴さん、どうしたの?」
「お姉ちゃん、何だか元気がないよ」
 俺と初音ちゃんは、二人して俯きがちな千鶴さんの顔を覗き込むように、そう訊ねる。
「えっ? あ、何でもないです。そうですね……それじゃあ、何をして遊びましょうか」
 ぱっと表情を明るくして、にこやかに応える千鶴さん。
 でも次の瞬間、やっぱりどこか疲れたようにため息をもらす彼女の様子に、俺と初音ちゃんは首を傾げながらただ顔を見合わせるばかりだった。

                  §

三月十六日

 常務の目を盗んで、今日は会社を早引け。
 そして耕一さんがひとりの時を見計らって、出来るだけさりげなく話を切り出してみた。
 初音が「本当のお兄ちゃんが欲しい」と言っていたことにして、それをきっかけに耕一さんの方からプロポーズしてもらおうと思ったのだ。
 でも、見事失敗。
 もう少しで上手くいきそうだったのに、タイミング悪く初音が学校から帰ってきてしまい、肝心の耕一さんは初音と遊ぶことばかり気にしている始末。
 仕事を途中で放り出してまで、こっそり帰ってきたのに……きっと明日、常務に怒られるんだろうな。くすん。

                  §

「こ・う・い・ち、さん」
 障子の向こうから声がしたのは、夜の九時を少し回った時分だった。
 布団の上で梓から借りた雑誌を読んでいた俺は、傍らにそれを放り出すと半身を起こす。
「えと、千鶴さん?」
 声だけを頼りにそう言葉を返すと、音もなく開かれた障子の向こうに姿を見せたのは、予想通り千鶴さんだった。
 風呂上がりなのか、昼間より艶っぽさを増した黒髪がやけに色っぽい。
 思わず生唾を呑みそうになってしまった俺は、慌ててそれを押し止めた。
 開け放たれた障子の前に座す彼女は、そんな俺の思いをよそに楽しそうな口調で、
「あの……もしよろしかったら一緒に、少しお酒でも飲みませんか?」
 ちょっと虚を突かれてしまう。
 正直、千鶴さんの方から「一緒にお酒を飲もう」なんて言い出してくるとは、思いもよらなかったからだ。
 しかし実際の話、この家の中で大っぴらに酒を飲めるのは俺と、目の前にいる千鶴さんの二人だけなのだ――あとの三人はまだ未成年だから。
 それに彼女とて鶴来屋の会長を務める者として、たまには酒でも飲んで晴らしたい憂さのひとつやふたつはあるに違いない。
 一瞬の間にそこまで思考を巡らせた俺は、ふたつ返事で「いいよ」と、その場から立ち上がりながらにこやかに応えた。
 嬉しそうに相好を崩す千鶴さん。
 そして彼女の後について居間に足を踏み入れたとき、俺が最初に感じたのは、かすかに鼻につく何かの匂いだった。
 ……何だろう?
 香しいようにも思えるのだが、でも同時にまるでこの世のものとは思えない何かを意識の奥底に感じさせる異臭。
 内心でその未知なる存在に小首を傾げつつ、無意識のうちに鼻をくんくん嗅がせていると、
「あ。いま、台所でおつまみを作ってるんです」
 目ざとく俺の反応に気付いた千鶴さんが、落ち着いた様子で口を開く。
 もしかして晩飯の残りものでも温めてるのかな……内心のどこかに引っかかるものを感じながら、それでもそう独り合点して、俺はちゃぶ台の前に腰を下ろした。
 どうやら宴の準備は、既に整えられていたらしい。
 眼前には栓の抜かれたよく冷えたビールが何本かと、コップが二つ置いてあった。
 俺の正面に腰を下ろした千鶴さんが差し出すビールの注ぎ口をコップで受け止め、そしてご返杯よろしく彼女のグラスにも泡立つそれを注いであげる。
 お互いの口から発せられた「乾杯」の言葉と共に、グラスの中身は喉を通って胃の中へと流れ落ちていった。
「くはーっ、うまい。まさに五臓六腑に染み渡るうまさだねぇ」
 いかにもオヤジっぽく、そんな感想を口にしてしまう俺。
「さあ、どんどんどうぞ」
 千鶴さんは見るからに楽しげに目を細めながら、早速空になった俺のグラスに次の一杯を注いでくれた。
 こうして和やかな雰囲気を維持したまま、しばしの時が流れる。
 それから十五分ほど経った頃、とりあえず用意されていた瓶がひとしきり空になった頃合いを見計らって、俺はそろそろと話を切りだしてみた。
「ねえ千鶴さん。そう言えば、つまみが全然ないんだけど」
 最初の何杯目かまではともかく、さすがにアルコールだけではそろそろ口元が寂しくなってきている。
 俺がその一言を発した瞬間、彼女の口許がにやりと歪んだ……ような気がした。
 まるで待ち構えていたかのように「それじゃあ、ちょっと待っていてくださいね」そう言って音もなく立ち上がった千鶴さんは、そのまま台所へと姿を消す。
 何故だろう、すごく嫌な予感がした。
 それは俺の理性が発した警告というよりは、本能が――『鬼』としての俺が敏感に感じ取った、命の危険とでも言うべきものだったのかもしれない。
 先刻、居間に足を踏み入れた時に嗅ぎ取った異臭。
 逃げろ……そう、内心のどこかが叫ぶように言葉を発していた。
「お待たせしました、耕一さん」
 千鶴さんが台所から戻ってきたのは、次なる行動に移ろうとした、まさにその時だった。
 お盆に、湯気の立つ何かを乗せている。
 そして程なく俺の前に差し出されたのは、一杯の味噌汁だった。
「……はい?」
 箸と共に目の前に置かれたそれに視線を落としつつ、俺は思わず呟いてしまう。
 味噌汁とおぼしきそれは、どこからどう見てもやはり味噌汁以外の何ものでもなかった。
 ビールのつまみに味噌汁……千鶴さんって、やっぱり偉大だ。
 その取り合わせの余りの奇抜さに、内心で思わず感心してしまう俺。
 そして視線を器から逸らすとそこには、お盆を膝の上に立てたまま、にこにこと何が嬉しいのか目を細めながら俺の方を見つめやる千鶴さんがいた。
「さあ遠慮なくどうぞ、耕一さん」
「は、はあ」
「あら、どうかなさいました?」
「いやこれって……味噌汁だよね」
「はい」
「もしかして、晩御飯の残り?」
 一縷の望みを託して、俺は訊ねる。
 しかし運命は、数多の人間を絶望の淵に追いやったのと同様の非情さをもって、俺に降りかかってきた。
「いいえ。さっき、わたしが作ったんですよ」
 屈託無く返ってくる言葉。
 その言葉が死刑の判決を前にした被告人のように、何度となくエコーを繰り返しながら耳の奥で響き渡るを感じながら、改めて俺は目の前にある「それ」に目を向けた。
 匂いこそ、確かに味噌汁のそれだ。
 そして一方の具といえば、白い不定型な謎の物体――もしかすると豆腐の成れの果てだろうか――と、青菜らしきものだった。
 それ以上何か危険なものが入っていないか、俺は箸で入念に調査する。
「あの……耕一さん?」
 見るからに怪しげなその行動に、彼女は不思議そうに小首を傾げながら俺の名を口にする。
 その目はあからさまに「早く食べてください」と、そう語っていた。
 事ここに至って、俺はようやくひとつの事実に思い当たる。
 自分が、巧妙な罠にかけられたことを。
 そう、彼女からの誘いも、ちゃぶ台に置かれたビール瓶も、全ては俺にこの味噌汁を飲ませんがために千鶴さんが用意した甘い餌、奸計にすぎなかったのだ。
 自らの浅はかさと愚かさを、俺は思い知る。
 そして覚悟を決めた。
 千鶴さんのために死ねるなら、何より本望じゃないか、と。
 悲壮とも言えるその決意に、我ながら思わず胸の奥がじんと熱くなってきてしまう。
 決意も新たに固く閉じていた目をくわっと見開いた俺は、そのまま一気呵成に器の中身を流し込む。
 口中を熱い何かが通り過ぎてゆく感触……俺の記憶に残っていたのは、そこまでだった。
 そして次に俺が意識を取り戻したのは、翌朝のことだった。

                  §

三月十八日

 夜、耕一さんをお酒に誘って、その場でわたしのお手製のお味噌汁を飲んでもらった。
 予定では、

 「うん。美味いよ、千鶴さん!」
 「本当ですか?」
 「ああ、こんなに美味い味噌汁は初めてだよ」
 「耕一さんに気に入ってもらえてわたし、嬉しいです」
 「こんな美味い味噌汁なら俺、毎日でも飲みたいよ。そうだ千鶴さん、俺と結婚して作ってくれないかな?」
 「はい、喜んで!」

 ……こうなるはずだったのに。
 どうしてかお味噌汁を口にした耕一さんはその場でいきなり気絶してしまい、結局朝になるまでずっと意識を失ったままだった。
 計画は完璧だったのに、何が悪かったのだろう?
 お豆腐だけでは具がさみしいと思って、庭に生えていた「春の七草」を摘んできて中に入れてみたんだけど、もしかして何か間違っていたのかしら。
 でも、この程度でわたしは挫けたりなんかしない。
 耕一さんからプロポーズしてもらえる日まで……ファイト、千鶴!

                  §

三月二十一日

 ご近所の新婚夫婦から、お子さんを一日預かる。
 生後まだ半年ほどの、本当に可愛らしい女の赤ちゃん。
 この子を優しくあやすわたしの姿を見れば、父性本能を刺激された耕一さんがきっと……そんな計画だった。
 でも赤ちゃんは、わたしが抱き上げようとするとどうしてかすぐに泣き出してしまって、それは何度やっても結果は同じだった。
 そのくせ、横にいた楓が抱いてあげると気持ちよさそうに目を細めている。
 どうして?
 わたしのあやし方に、何か間違いがあるとでもいうのだろうか。
 梓は「子供ってさ、純真なだけに千鶴姉の本当の怖さを本能的に感じ取ってるんだよ」なんて言うし、耕一さんは耕一さんでそんなわたしのことを笑っているばかり。
 もう、誰のためにこんな苦労をしてると思ってるのかしら。
 耕一さんの……ニブチン。

                  §

三月二十三日

 どうやらニブくて鈍感な耕一さんには、いままでみたいな回りくどいやり方ではダメらしいことに気づいた。
 と言うことで、今日はもっと直接的な方法を試してみる。
 とりあえず家中から婚約――と言うか、結納――をイメージさせるものをかき集めてきた。
 ものの本を見ると、
  松魚節(鰹節)、長熨斗、家中喜多留(柳樽)、寿留女(鯣)
  子生婦(昆布)、友志良賀(麻糸)、末広(扇子)
 一番品目の多い形式で、こんなところらしい。
 でも書いてある中の半分も、それが結納と一体どんな関係があるのか、わたしにはよく分からない。
 それはさておき、集めた品を廊下や居間、それと耕一さんの部屋にわたしがやったと分からないようこっそり置いて回ったのだけれど、彼の目に触れるより先に梓に見つかってしまい、ひどく怒られてしまった。
 拾い集めた昆布や鰹節を両手で抱えながら梓は、
「いくら千鶴姉が救いようがないほどの料理下手だからって、何も食べ物を床にバラまいてウサを晴らすことはないだろ?」
 そう、呆れたように言う。
 わたしだって、好きで料理が下手なわけじゃないのよ!
 いくら何でも、そこまで言わなくたっていいじゃない……くすん。

                  §

三月二十六日

 この数日、仕事もろくに手につかないままずっと考えていたけれど、さすがに次の手が何も思いつかない。
 それにしてもわたしがこうまでして頑張ってるのに、どうして耕一さんは何も気付いてくれないのだろうか。
 もしかして本当にわたしのこと、何とも思っていないのかしら。
 そんなことを思った途端、心の奥底で嫌な考えが浮かび始めてしまう。

 わたしの身体だけが目当てだったのかも。
 わたし以外に、実は本命の女の子がいるのかも。
 わたしみたいな年増には、興味が無くなってしまったのかも。

 どんなに否定しても、それでも消えることのない疑い。
 耕一さん、わたしはあなたの本当の心を……知りたいです。

                  §

三月二十七日

 考えれば考えるほどに、分からなくなるばかり。
 だってわたしが知ってる耕一さんは、もう十年も前のまだ彼のことを「耕ちゃん」と呼んでいた頃と、そしてここ半年ほどのこちらに戻ってきているときの思い出だけなのだ。
 中学生や高校生だったころの彼のことを、わたしは何も知らない。
 もしかして、大学の方に誰か好きな相手でもいるのだろうか。
 それとも、向こうでつき合っている誰かが……。

 やめよう。
 わたしは耕一さんを信じているし、きっと耕一さんだってわたしのことを同様に信じてくれているに違いない。
 だから、今日はもう寝よう。
 明日、耕一さんにとびっきりの笑顔を見てもらうために。

                  §

三月三十日

 できることなら、夢を見ているのだと思いたかった。
 誰かに、嘘なんだと言って欲しかった。
 でもわたしは……この目で、確かに見てしまった。
 昼間、車で移動中の街中で見かけた耕一さんの姿。
 車を止めて、窓から声をかけようとしたわたしの目に止まったのは、彼の横を歩く可愛らしい女の子の姿だった。
 小柄で、丸眼鏡のよく似合う子。
 わたしの知らない、誰か。
 どうしてか胸がちくりと痛んだ。
 それでも、わたしは「ただの知り合いだろう」そう思い込むことで、その場は何とか自分を納得させた。
 でも夜、家に帰り着いて耕一さんと話をしているうちに、わたしの中でくすぶっていた思いは疑念に変わった。
 今日は何をしていたのかと何気なく訊ねたわたしに、耕一さんは「一日中ゲーセンで遊んでいた」と、そう言ったのだ。

 耕一さんの……嘘つき。

                  §

三月三十一日

 糸の切れた人形。
 電池の切れたままの時計。
 それは半年前のあの日まで、わたしの中で確かに存在していた、もうひとりのわたしに他ならなかった。
 心の奥底に消え去ったはずのそれがいま、再び姿を露わそうとしている。
 朝、仕事に出かけると偽って、わたしはこっそり耕一さんの後を付けた。
 一縷の望みを抱きながら。
 信ずるべき、たったひとつの何かが失われずに済むことを祈りながら。
 でも、現実は残酷だった。
 駅前で人待ち顔で佇む耕一さんの前に現れたのは、昨日車から見かけたのと同じ、あの女の子だった。
 二人はわたしの見ている前で腕を組むと、デートよろしく楽しげな様子でアーケード街を歩き始め、やがて人混みの中に姿を消してしまった。
 それでもう、十分だった。
 自分のしていたことが、愚にもつかない独り芝居だったのだと気が付くには。
 そう、ヒロインを演じているのだと勝手に思い込み、ひとり舞い上がっていたわたしは、実はただの通行人に過ぎなかったのだ。
 そして物語は、端役たるわたしとは何の関係もなく幕を閉じてしまった。
 でも、悲しくなんて……ない。
 だってそんなこと、わたしには……最初から……分かっていた……ことだから。

                  §

「……耕一さん」
「え? あ、千鶴さん?」
 障子の向こうから流れてきた声は、確かに千鶴さんのものだった。
 でも俺は、そんな彼女の声にどういう訳か違和感にも似た、心のどこかに引っかかる何かを感じ取ってしまう。
 何故だろう?
 そのことに一瞬思考を巡らせた後、すぐにその理由に思い当たる。
 調子が違うのだ。
 ここしばらくは、千鶴さんが俺に話しかけてくるときは決まって「こ・う・い・ち、さん」と、どこか弾むような声を発していた。
 それが今日に限って、どこか沈むような感じだったのだ。
 音もなく開かれる障子。
 でもどうしてか、千鶴さんは部屋の入り口で姿勢を正して座り込んだまま、それ以上動こうとしない。
 布団の上で胡座をかいていた俺は、そんな彼女の様子に小首を傾げながら、
「どうしたの、千鶴さん。もっと中に入れば?」
「……いえ、ここで結構です」
 千鶴さんは、小さく首を振るばかりだった。
 そして一度顔を俯かせ、口中で何かを確かめるように二言三言ばかり言葉を紡ぐと、つっと面を上げる。
 真っ直ぐに俺のことを見据える瞳。
 それは、思わず気圧されてしまいそうになるほどに真剣なものだった。
「……耕一さん」
「は、はいっ!」
 自然と声がうわずってしまう。
 でも俺には、自分のその所業を内心で笑うだけの暇さえ与えられなかった。
「……わたしに、何か話すことはありませんか?」
 平板な、何の抑揚もない声。
 感情の凍りついた、いや……最初からそんなものなど存在していなかったかのように、それは冷え切ったものだった。
 そして俺は、彼女のその声を以前にも聞いたことがあった。
 あの夏の日。
 突然の事故死を遂げた親父に線香を立てるため、八年ぶりに訪れたここ隆山で初めて知り、そして取り戻した過去の記憶。
 数百年の歳月を越えて、柏木の血に付きまとう――『鬼』の宿命。
 千鶴さんはその重荷の全てを、たったひとりで支え続けていた。
 愛する三人の妹たちの笑顔と、そして俺という存在を守るためだけに。
 朗らかで、にこやかで、暖かな……そんな俺たちがよく知る千鶴さんの微笑みの下には、孤独と寂寥に打ち震えながら、それでもなお歯を食いしばって耐え続けるもうひとりの彼女がいたのだ。
 俺がそのことを知ったのは、宿命という名の歯車が既に回り始めた後だった。
 それでも俺たちは、ここまで来ることができた。
 死の恐怖を乗り越え、心から笑顔を浮かべることのできる、暖かな陽光の射し込む朝を迎えることができたはずだった。
 それなのにいま目の前にいる千鶴さんは、笑顔を取り戻す前のあの頃の彼女に戻ってしまっていた。
「話すことって……ははっ。な、何のことかな?」
 ようやく口から発せられた、冗談混じりの口調。
 でも千鶴さんは、そんな返答を一顧だにすることなく、まるで俺の心の奥底までをも見透かすかのように、視線を固定するばかり。
 室内を支配する、沈黙という名の帳。
 先に口を開いたのは、千鶴さんの方だった。
「……耕一さん。今日のお昼間、どちらに行かれてました?」
「え?」
 それは予想もしない一言だった。
 同時に脳裏に、今日一日の行動が浮かび上がってくる。
「えーと、今日は――うん、一日中パチンコ屋に籠もってたよ。いやあ、これがなかなか厳しい勝負でね。出るかと思うと止まるし、もうダメかと思ったらリーチがかかるしで……」
「……嘘です」
 俺が必死に組み立てようとしたアリバイは、そんな彼女の冷めきった一言で呆気なく突き崩されてしまう。
 その声は、俺の嘘をはなから見切っているかのようだった。
「ホントだって。ほら、その証拠に今日の勝ち分で財布がこーんなに……」
「……いつも通りの、薄っぺらなままですけど」
 ぐぐっ。
 いくらそれが事実だとしても、そうも冷静に言われてしまうと、俺としてもさすがにちょっと悲しいよ、千鶴さん。
 内心の悲しみをぐっと堪え、俺は更なる言葉を紡ぐ。
「じゃ、じゃあ、一日中本屋で立ち読みに明け暮れてたってのは、どう?」
「……何ですか、その「じゃあ」って言うのは?」
「え、えーと」
 どうやら、完全に墓穴を掘ってしまったらしい。
 日頃の大ボケぶりからは程遠い、千鶴さんの余りに鋭すぎるそのツッコミに、俺はただ言葉に窮するばかりだった。
 いつもの彼女なら、恐らくこの辺で「もう、耕一さんったら」そう、にこやかな笑みを浮かべてくれたに違いない。
 でも現状でそれを望むのは、想像するだにおぞましい「お淑やかな梓」なる存在をこの世に求める以上に難しいだろうことは、考えるまでもなかった。
「お答えできないなら、わたしが答えて差し上げます」
 否応なしに言葉を失った俺に向かって、千鶴さんは静かに言葉を紡ぎ出す。
「耕一さん。あなたは今日、どなたかと待ち合わせをされていました」
「えっ!」
「お昼過ぎの駅前。そこに現れたのは眼鏡のよく似合う、可愛らしいお嬢さんでしたね」
「ち、千鶴さん。ど、ど、どうしてそれを?」
「そして落ち合ったお二人は、仲睦まじく腕を組まれて、そのままアーケード街の方へ……」
 呆然の二文字。
「いやっ、あの……別に俺は、由美子さんとは何も……」
「……由美子さんって仰るんですか、彼女」
 墓穴の二乗だった。
 無意識のうちに俺は千鶴さんから目を逸らそうとするが、ますます厳しさを増すばかりの彼女の追求は、それすらも許してはくれなかった。
「……嘘つき」
 胸に突き刺さる一言。
 彼女の声は先刻と変わらぬ冷静さを保っており、だからこそ彼女のその声音からは悲しみが一層感じられて、それが辛かった。
「……何も仰ってくださらないんですね」
 ぽつりと、表情に寂しげな何かを浮かべながら顔を俯かせる。
 そして再び顔を上げた彼女は、もはや俺のよく知る普段の彼女ではなくなっていた。
 漆黒に覆われていたはずの瞳の光彩は、まるで血をたたえているかのように真紅の色に染め尽くされ、明確な殺意を俺に投げつけてくる。
 そこに居たのは――ひとりの『鬼』だった。
 肌に触れる空気が、急激に冷え込んでいくような錯覚を覚える。
 そして俺の体内で眠りについていたはずの、もうひとりの『鬼』としての柏木耕一が、ゆっくりとその身をもたげ始めた。

 闘エ、サモナクバ死アルノミ……。

 眼前の「敵」を前に、そいつはまだ見ぬ血の予感に打ち震えるように、俺にそう語りかけてきていた。
 何を馬鹿な……俺は咄嗟にそう叫び返そうとする。
 そんな内心の葛藤が、我知らず一瞬の隙を生み出したに違いなかった。
 部屋の入り口に座していたはずの千鶴さんが、文字通り人智を越えた素早さと跳躍力で眼前にその身を晒したと思った瞬間、俺はその場に仰向けに押し倒されていた。
 後頭部から背中にかけて、布団の柔らかな感触を覚える。
 そして正面には、馬乗りのまま無言で俺を見下ろす千鶴さんの、紅の双瞳があった。
 俺は、死を覚悟した。

                  §

 覚悟を決めて、ゆっくりと目を閉じる俺。
 千鶴さんの手にかかって死ねるなら、まあそれも本望かな……死を前にしてそんな自嘲的な思いにひたることのできる自分が、何故か可笑しかった。
 胸を貫かれるのだろうか。
 それとも、頸動脈を切り裂かれるのだろうか。
 できれば一息に死ねた方が楽でいいななどと、そんな想像を意識の片隅で巡らせながら、静かに最後の時を待つ。
 そして頬に覚える、空気の揺れるかすかな感触。
 次に来るだろう衝撃に備えて、俺はわずかに身体を固くした。

 ぽふっ。

 だがそこに訪れたのは、俺が予想だにしないものだった。
 ……え?
 顔面一杯に勢いよく押しつけられる、想像とは全く異なる妙に柔らかな感触の何か。

 ぽふっ、ぽふっ。

 顔に当たるたびに不定形に形を変えてゆくその何かは、何度となく俺から離れては、刹那の時を置いて再び舞い降りてきた。
 恐る恐るといった感じで、俺は目を見開く。
 そして視界に映し出された光景は、一瞬前まで考えもしないものだった。
 そこには千鶴さんがいた。
 でも、俺が驚いたのはそのことじゃない。
 彼女が手にしている――どうやらそれが、さっきから俺の顔に打ち付けられていたものらしい――が、余りに意外すぎるものだったからだ。
 馬乗りの姿勢のまま俺のことを見下ろす千鶴さんが、その両手でしっかりと握り締めていたのは……枕だった。
 その時になってようやく、千鶴さんの瞳の色が普段と同じ澄んだ黒に戻っていることに気がつく。
「耕一さんの……嘘つき、嘘つき、嘘つきっ……」
 眼前で展開される、完全に想像の埒外だった現実の光景に言葉を失ったまま、呆然と目の前の千鶴さんを見つめやるばかりの俺。
 普段の千鶴さんも照れ隠しの時など、まるで少女のような可愛らしい仕草を見せる時は確かにあった。
 でもいま目の前にいる千鶴さんは、それすらも明らかに凌駕していた。
 そう……それは自分の望みがかなえられなかったがために駄々をこねる、小さな女の子さながらの姿だった。
 しかも、あの冷酷無比な『鬼』と化した状態からの変貌だ。
 余りのその落差に、自然と口許が緩んでくるのを抑えられなかった。
 しばらくの間はそのまま千鶴さんの好きなようにさせていた俺だったが、放っておくといつまで経っても事態に変化が起きそうにもなかったので、やがて「よっと」と声をかけながら身体を起こす。
 途端、俺の上にいた千鶴さんはバランスを崩してしまった。
 突然のことに「きゃっ」と小さな悲鳴をあげた彼女は、そのまま枕を抱き締めながらころんと綺麗に一回転し、そして再び俺と相まみえる。
「うーーーっ……」
 何やら悔しそうに唇を噛みしめながら、潤んだ瞳で上目遣いに俺のことを睨みつけてくる千鶴さん。
 何か、無茶苦茶可愛いんですけど。
 こんな時に何だが、いまの千鶴さんは見た目にも非常に新鮮だった。
 そして俺は言葉ひとつ口にできないまま、何とも可愛らしい仕草で睨み付けてくる千鶴さんと視線を交わし続けた。
 どれくらい経った頃だろう。
 不意に手にしていた枕を、俺の方にえいっとばかりに投げつけてきた千鶴さんは、そのまま女の子座りの姿勢で床に手を付きながら、ぽるぽろと涙をこぼし始めてしまった。
「わあっ! ち、千鶴さん、何も泣かなくても……」
 さすがの俺も、これには笑いごとではなくなってしまう。
 でも彼女の涙は一向に止まらない。
 そして嗚咽でしゃくり上げる声で、たどたどしくも言葉を紡ぎ始めた。
「わたし……ずっとしんじていたのに。こういち……さんなら、きっと……だって。それなのに……どうして……」
 何のことやら、さっぱり分からない。
「でも……しかた、ないですよね。わたしのことなんか、こういち……さんは……もう……あきてしまったん……ですから」
「はあ?」
 思わず知らず、どこか間の抜けたそんな声を出してしまう。
「えーとさあ、何だかさっぱり分からないんだけど、どうして俺が千鶴さんのことを飽きなくちゃいけないわけ?」
「だって!」
 ぱっと顔を上げた千鶴さんは、妙に確信めいた口調で、
「わたしなんて、どうせトロいしボケてるし、梓より胸は小さいし、楓ほどお淑やかでもないし、初音みたいに優しくないし……それに家事だって炊事だって洗濯だって掃除だって全然できない、グズでノロマな亀だし……」
 一息にそれだけを口にすると、再び瞳をうるうると潤ませてしまう。
「だから、耕一さんがわたしみたいな年増じゃなくて、もっと若い子に走ったって、何も言えない……」
 千鶴さんが言葉を発することができたのは、そこまでだった。
 何故なら俺が、彼女の身体を強く抱き締めたから。
 一瞬「あっ」と小さく声を上げた千鶴さんだったが、程なくゆっくりと目を閉じてその身を俺に委ねてくる。
「ねえ、千鶴さん。俺はさ……仮にもし千鶴さんがいまと全然違う人だったとしても、それでも俺は千鶴さんのことを好きになってるって、そう思うよ」
 そう言葉を紡ぎ始めたのは、しばらく経ってからだった。
「え?」
「だって俺が好きなのは、柏木千鶴って名前の女の子の全部なんだから」
 俺の胸に顔を埋めながら「耕一さん……」と、少し恥ずかしそうにかすれるような小声で呟く千鶴さん。
 そんな彼女の髪を、俺は優しく撫でながら、
「だから、俺に教えてくれないかな。どうして急に泣き出したりなんかしたのかを、さ」
 そのまま口を閉じ、彼女の言葉を待つ。
 数瞬の間を置いてからつっと顔を上げた千鶴さんは、そして俺に向かって小声で言葉を紡ぎ始めた。
「わたし……本当は不安だったんです。耕一さん、あれから何も言ってくれないし、それに態度だってちっとも変わらないし……もしかしたら、夢でも見てたんじゃないか、って」
「…………」
「それであの日、車から耕一さんがわたしの知らない女の人と歩いているのを見たら、急に悲しくなってきちゃって、それで……」
「わざわざ変装して、俺たちの後を付けたのかい?」
「えっ?」
 きょとんとした様子の千鶴さん。
「変装するなら、もう少し目立たない格好をした方がいいと思うよ」
「わたし……目立ってました?」
「そりゃあ、まあ。だってこの季節に、思い切り襟を立てたフロックコートにサングラスと帽子でしょ。誰がどう見たって、あからさまに怪しいよ」
「結構自信あったんですけど。……くすん」
 やれやれ、これじゃ仕方ないか。
 ため息と共に、内心でひとりごちそんな呟きをもらした俺は、一旦彼女から身体を離す。
 そのまま壁際に向かうと、ハンガーで掛けてある上着のポケットに手を突っ込み、そこから小箱を取り出した。
 千鶴さんに背中を向けたまま箱を開いて中身を一度確認した俺は、それを一旦手の中に収めると、その場でくるりと振り返る。
「ねえ千鶴さん。左手、ちょっと貸してくれる?」
「え? あ、はい」
 差し出された彼女の手を取った俺は、そのまま彼女の薬指にいま小箱から取り出したばかりのものを、ゆっくりとはめてあげた。
 曇りひとつなく、銀色の光沢に彩られた金属製のそれ。
「本当はさ、もうちょっとタイミングを見計らってもっとこう……雰囲気のある時に切り出したかったんだけどね」
 照れ隠しに頭をかきながら、苦笑いする俺。
 でも当の千鶴さんは、まるでいま目の前にある現実が信じられないといった様子で、呆然と自分の指にはめられたそれ――指輪を見つめていた。
 不意にぽろりと、彼女の瞳からこぼれ落ちた雫が頬を伝う。
「えっ。わっ、また!」
 慌てて何か言おうとする俺だったが、そんな俺の言葉をさえぎるように小さく首を振った千鶴さんは、
「大丈夫です、耕一さん。だって……さっきのは悲しい涙でしたけど、今度のは……嬉しい涙ですから」
 わずかに語尾を震わせながら、ゆっくりと顔を上げる。
 そして俺のことを真っ直ぐに見つめる彼女の顔には、文字通りの泣き笑いの微笑みが浮かんでいた。
「ありがとうございます、耕一さん。わたし……今日という日が、一生のうちできっと一番幸せな日です」
「そ、そう?」
 慈しむような微笑みを浮かべながら、指輪のはめられた手を何度も撫でさする千鶴さん。
 その笑みは、本当に幸せそうなものだった。
「何だか……」
「はい?」
 言いかけて途中で止めてしまった俺に顔を向けながら、千鶴さんは小首を傾げて見せる。
「いやね……泣いた烏がもう笑った、って感じがしたからさ」
 自然と、そんな言葉が口を突いて出てきていた。
 それを聞いた千鶴さんは最初ははにかむように、そしてすぐに悪戯を見つけられた子供よろしく、目を細めながら舌をちろりと出して、
 「……てへっ」
 小さくそう、言葉を紡ぐ。
 そんな彼女に俺は、言葉なくただ目を細めるばかりだった。

                  §

三月三十一日(続き)

 言葉にできないほど、幸せ。
 だから、今日はもう寝ちゃいます。
 耕一さんからもらった、大切な指輪を眺めながら。
 おやすみなさい……大好きな耕一さん。
Extra01 End

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