『千鶴日記』
Update:1999.08.25





Extra02「夏の残り香」

「耕一さんっ!」
 間近から飛び込んでくる俺の名前を口にする誰かの声と、そして次の瞬間襲ってきた脳天をかち割るような鋭い痛み。
「ぐわっ!」
 その痛みに、反射的にテーブルに突っ伏したままだった顔をあげた俺の瞳に映し出されたのは、ひとりの女性の姿だった。
 少し古ぼけた感じの蛍光灯の明かりに映える、濡れ羽色の長い黒髪。
 贅肉の存在を微塵も感じさせることなく、緩やかな曲線を描きつつあごの所でひとつに収束している、表情を形作る輪郭。
 どこか線の細さのようなものを感じさせる、柔らかな物腰。
 でもそんな彼女の、俺を見据える瞳の色は、冷たさのようなものを否応なしに感じさせてくれるものだった。
 凍り付くような、冷たい瞳。
 その中に俺は、憤りとも怒りともつかない感情の因子を感じ取り、それ故に少どこか気後れにも似た思いを抱いてしまう。
 一体何を……怒っているんだろう?
 寝起きばなの、未だ覚醒しきっていないどこかぼんやりとした意識で、そのことに微かな疑念を抱く。
 そして、ずきずきとなおも鈍い痛みを発し続ける後頭部を両手で押さえながら、俺は彼女に向かって非難の声を上げてみせた。
「ほ、本の角でぶつってのは、ちょっと酷いんじゃない……千鶴さん?」
 言いながら視線を、彼女が手にしている本――国語辞典に向ける。
 俺の顔つきは、きっといかにも恨めしげなものだったに違いない、加害者たる千鶴さんは険しかった表情を緩めると、
「あ、ごめんなさい。痛かったですか?」
「そりゃあもう。頭が二つに割れちまうかとと思ったよ」
 なおも非難の手を緩めない俺。
 すると千鶴さんは、どこかバツの悪そうな様子で俺の顔と手の中にある国語辞典とを、何度か見比べる。
 が、そのうちハッと何かを思い出したように、
「も、もうっ。何言ってるんです! 元はと言えば、居眠りをしてる耕一さんが悪いんじゃないですか。いまがどういう状況なのか、分かっているんですか?」
「……状況?」
 改めて俺は、周囲の状況に目を向けてみる。
 たったいままで俺が突っ伏して寝こけていたテーブルの上には、本とノートが山となってうず高く積み上げられている。
 そして傍らには、飲み干され空になった何本もの栄養ドリンクの瓶と、コーヒーカップが転がっていた。
 緊迫した空気。
 襲い来る睡魔。
 容赦ない一撃。
 そこにあったのは……贔屓目に見ても、文字通りの修羅場だった。
 何気なく、机上の本の一冊を手に取ってみる。
 どうやら高校の教科書らしいそれは、表紙にこれでもかと言わんばかりの明瞭な活字で『現代国語』の四文字が穿たれていた。
「えっと……」
 記憶の底を浚うように、少しだけ考える。
 俺はいま、大学生のはずだ。
 そして目の前には、現国の教科書がある。
 上記の事実関係から、少なくともこれは俺の教科書じゃない。
 と言うことは……。
 そこまで思考を巡らせたところで、ようやくはっきりしてきた意識が自らの置かれた立場を思い出す。
「ああ、そっか。これって、初音ちゃんの教科書だっけ」
 言いながら、手の中の本を裏返す。
 すると俺の推論を裏付けるように教科書の右下隅に、いかにも女の子らしい可愛らしい文字で「柏木初音」と、そう書かれているのを瞳が見出す。
 うんうんと、満足そうに頷く俺。
「もうっ。しっかりしてください、耕一さん」
 俺のその言葉を待っていたかのように、千鶴さんが再度声を張り上げる。
 それはいま、俺たちが置かれた状況を疑念の余地なく簡潔に代弁してくれる言葉だった。
「九月一日の朝まで、あと十四時間二十五分しかありません。それまでに頑張って、初音の夏休みの宿題を終わらせないといけないんですから!」

                  §

 ことの発端は、一本の電話だった。
 夏。
 照りつける太陽と、突き抜けるような青空。
 今年の夏は、ここ数年続いた冷夏がまるで嘘だったかのような、文字通りの真夏の陽射しに満ち溢れる日々が続いていた。
 夏らしい夏、そう言ってしまえば聞こえはいいかもしれない。
 しかし……。
 貧乏学生の悲しさで、文明の利器たるエアコンなんて夢のまた夢の俺の部屋。
 次善の策――実際は唯一の選択肢であると同時に、最後の命綱なのだが――たる扇風機が、それこそモータが焼き切れそうな速度で回転している。
 しかし、人間の耐えられる限界まで高まった温度と湿気の中では、羽根はただ虚しく熱気をかき回すばかりで、俺の不快指数は止まるところを知らずに上がり続ける一方だった。
 額から流れ落ちる汗。
 それは頬を伝い、あごに溜まり、やがて小さな雫となってあぐらをかいている俺の膝の上に落ち、そして飛散する。
 一粒。
 二粒。
 三粒。
 ……ぷち。
 頭の中で、何かが切れる音がした。
「だぁぁぁぁーーーーっ!」
 次の瞬間俺は、怒りとも嘆きともつかない奇声を発しながら、半ば衝動的に目の前の扇風機を蹴倒していた。
「…………あぅ」
 そしてTシャツにパンツ一丁という、何ともしまらない出で立ちのまま畳の上に横倒しになり、じたばたと首を振ることもままならないその身を揺らしながら、なおも熱気を送り続けようとするそれを睨み付ける。
 この……役立たの腐れ扇風機め。
 心の中で悪態をつく俺。
 やらずもがなの無駄な運動をしたせいで、俺の身体は前よりも増して一層汗だくになっていた。
 ダメだ、このままでは脳味噌まで溶けてしまう。
 暑さと湿気のせいで、当社比で八割方機能の低下している思考能力の、残りわずかな部分でそう判断を下した俺は、
「図書館にでも行って……涼んでくるかな……」
 ぽつりと、そんな呟きを漏らした。
 しかし同時に、そこにたどり着くまでに堪え忍ばなくてはならないだろう夏の直射日光の存在を考えると、途端に気力が萎えてしまう。
 電話が鳴ったのは、その時だった。
 部屋の状況と、それに連動した俺の精神状態とはかけ離れた、軽やかで涼しげな電子音。
 窓際に置いてある受話器に手を伸ばす。
「だーっ、ちちちっ」
 窓からの直射日光をもろに受けていたせいで、プラスチック製のそれは火傷をしそうなくらいに熱くなっていた。
 と言うか、何となく熱で溶けて柔らかくなってるような気がする。
「は、はい……ちちっ……もしもーし」
 手のひらにへばりついてくる熱さに耐えつつ、とりあえず口を開いた俺だったが、受話口から返ってきたのは意外な人物の声だった。
「耕一さん!」
「へ? その声は……」
 間違いない。
 忘れるはずもないこの声は、千鶴さんだ。
「ち、千鶴さん? ど、ど、どしたの急に」
 予想もしなかった相手からの突然の電話に、戸惑い気味に言葉を返す俺。
 でも千鶴さんは、そんな俺の反応に頓着する様子もなく、どこか切迫した感じの声音で、
「は、初音が。初音が大変なんですっ!」
「初音ちゃんが?」
 その一言に、いまのいままで熱と湿気のせいで弛みきったままだった俺の意識が、まるで冷水を浴びせられたかのように緊張感を取り戻す。
 そして未だ火傷しそうな程の熱量を保ち続けている受話器を、無意識のうちにぎゅっと握りしめながら、
「落ち着いて、千鶴さん。そっちで何かあったのか?」
「お願いです、耕一さん。一刻も早くこちらに来てください。でないと……初音が!」
「わ、分かった!」
 一方的に言葉を紡いでくる彼女のその剣幕に、俺は気圧されるようにそれだけを答えると、すぐにそちらに向かう旨を伝えて受話器を切る。
 そして取るものもとりあえず下宿を飛び出してから、きっかり三時間後――俺は隆山温泉にたどり着いていた。
 もしかしたら過去の所要時間の記録を塗り替える、自己新だったかもしれない。
 列車のドアが開くのももどかしくホームに飛び降り、そのまま一気に改札を抜け、駅からは全力疾走で千鶴さんの待つ柏木邸へ向かう。
 俺の住む町と比べれば、こっちの方が多少陽射しは和らいでいるような気もするが、それでも太陽は俺の頭上でぎらぎらと輝き続けていた。
 走る間中、額といわず首筋といわず全身から汗が吹き出してくる。
 でも俺はそんなことには一切お構いなしに、ただ大切な家族の無事だけを祈りながら、我が家へと連なる道のりをひた走り続けた。
「初音ちゃん!」
 呼び鈴も鳴らさずに玄関の扉を力任せにこじ開け、その場で靴を脱ぎ捨てた俺はそのまま廊下を一息で走り抜け、そして初音ちゃんの名を叫びながら居間に飛び込む。
「あっ、耕一お兄ちゃん! お帰りなさーい」
「…………………………へ?」
 思わず口をあんぐりと開けたまま、その場で固まってしまう俺。
 それもその筈、居間で笑顔と共に俺を出迎えてくれたのは、どういうことか当の初音ちゃん本人だったのだから。
 初音ちゃんは、汗だくの俺の姿を一目見ると「うわー、大変だ。ちょっと待っててね、お兄ちゃん」とそう言い残して台所へと姿を消す。
 そしてややあってから、お盆に麦茶を乗せて戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「え? あ、ああ……ありがと」
 とりあえず言われるままにコップを手に取り、それを喉に流し込む。
 よく冷えていたその麦茶は、汗をかいたせいでこれ以上ないほどに水分を欲していた俺の身体に染み込むように、一気に吸収されていった。
 それでようやく一心地つくことのできた俺は、改めて彼女に向かって訊ねかける。
「ねえ初音ちゃん。これって、一体どういう……」
「あら、耕一さん。早かったんですね」
 背後から、紡ぎかけた言葉を遮って声をかけてきたのは、俺の来訪を知って自室から出てきたらしい千鶴さんだった。
 にこにこと、何が嬉しいのか相好を崩しながら俺のことを見つめている。
 千鶴さんまで……一体どうなってんだ、これは?
 初音ちゃんが大変だったんじゃないのか?
 深まるばかりの疑問を胸に、追求の矛先を彼女に向けるべくその場で身を翻した俺は、改めて口を開きかける。
「耕一さん。さあ、こちらですよ」
 しかし千鶴さんは俺に口を開く暇を与えることなく、俺を何処かへと案内しようとする。
「えっ? あ、ちょっと……」
「ほーら、耕一さん。早く早く」
「いや。だから、そうじゃなくて……俺は……」
 そして訳の解らないまま、引きずられるように連れて行かれたそこは、客間の一室だった。
「ここは……」
 小声で呟きを漏らしながら何気なく部屋の中を見渡した俺は、そしてそこに奇妙なもの見出した。
 畳の敷き詰められた部屋の中央には、樫の木で作られた大きなテーブルが据えられていた。
 その上には、うずたかく積み上げられた大小様々な種類の本の山があった。
 部屋に足を踏み入れ、テーブルを挟んで置かれた二枚の座布団の手近にあった方に腰を下ろしながら俺は、山の一番上にある本を手に取る。
「……?」
 それは、数学の問題集だった。
「耕一さん」
 いつの間に移動したのか、テーブルを前に座した千鶴さんがこれ以上ないほどの真面目な声音で俺の名を口にする。
 そして顔を上げた俺の目に映し出されたのは……誰が見ても、間違いなく「奇異」と判断するだろう装いの千鶴さんだった。
「ち……千鶴さん?」
 一瞬息を呑み、そしてようやくそれだけを口にする。
 額に巻かれた鉢巻き。
 ちょうど額に当たる部分に描かれた真紅の日の丸を挟むように、誰がどう見てもアナクロな「七生」と「報国」の四文字が踊っていた。
 それが何なのかは、俺にもすぐに分かった。
 でもそれをどうして千鶴さんが、については皆目見当もつかなかった。
 ことの成り行きを未だに理解できないまま、餌を求める魚のようにただ口をぱくぱくさせるばかりの俺。
「初音の一大事です」
 そんな俺をよそに、千鶴さんは厳かに言葉を紡ぎ出した。
「……初音ちゃんの?」
「はい。今日が二十九日ですから……タイムリミットまで、あと三日しかありません」
 彼女のその言葉を耳朶に響かせながら、俺は改めてテーブルの上に置かれた物に目を移す。
「耕一さん。さあ、頑張りましょう」
 そしてだめ押しのように、にこやかに紡ぎ出された彼女の言葉。
 俺は、全てを理解した。
 そう……千鶴さんに、まんまと担がれたのだということを。

                  §

「……ちさんっ!」
 すぱーんっ。
 その声が耳朶を叩くと同時に、脳天を痛みを伴った嵐が走る。
「ぐわっ! は、はいっ……起きてます起きてます」
「嘘おっしゃい。もう、これで何度目だと思ってるんですか? 起こすわたしの身にもなってください」
 言いながら、手にしたハリセンを空いた方の手でぱんぱんと叩く。
 あの、何かすごく楽しそうなんですけど。
 言葉とは裏腹に、やけに気合いの入った様子の千鶴さんには聞こえないよう、囁くような小声で呟きを漏らす。
「……何か言いました?」
 慌てて首を振る。
 そんな俺を前に、視線を落としながら小さくため息をついた彼女は、そして改めて俺に向き直ると、
「いいですか、耕一さん。宿題を始めてからまだ一日、正確には二十四時間と十三分しか経っていないんですよ。それなのに、こんなところで力尽きていてどうするんですか?」
「でもさぁ……」
 思わず愚痴をこぼしかけてしまった俺。
 しかし俺は、皆までそれを口にすることはできなかった。
 何故なら……正座をした膝の上に手を置いた千鶴さんが、上目遣いにじーっと俺の方を見据えていたから。
 こ、怖い。
 無言の圧力とでも言うのだろうか、気圧されるように思わず座布団の上から後ずさりそうになってしまった俺だったが、それでも何とか勇気を奮い起こして口を開く。
「俺、これでも文系なんだけど……そんな俺がどうして数学、物理、化学なんて理系科目の担当なわけ?」
 手にした数学の問題集で、ひらひらと自分を扇ぎながら訊ねる。
 もしかして痛いところを突かれたのか、ちょっとだけ困ったように眉根をひそませた千鶴さんは、つっと俺から視線を逸らしながら、
「そ、それは……」
「それは?」
「だから……」
「だから?」
「つまり……」
「つまり?」
 そこで言葉が途切れる。
 沈黙。
 静寂。
 無言。
 時間にして三十秒ほどのことだったろうか、雨戸の下ろされた廊下の先から遠く聞こえてくる虫の音だけが、俺の耳を刺激する。
 そして破局が訪れたのは、次の瞬間だった。
「わ、わ、わたしだって、文系だったんだから仕方がないじゃないですか! それに耕一さんは、まだ現役の大学生なんですよ。だったらもう卒業してしまったわたしなんかより、よっぽど理系の知識があるに決まってます!」
「うわぁ、ひでえ理屈」
「ひどくありません。合理的、と言ってくださいっ」
「横暴だぁ」
「違いますっ。もう、耕ちゃん。お姉ちゃんの言うことを聞きなさい!」
「むむ、今度はそう来るかぁ。じゃあこっちも……千鶴お姉ちゃんは横暴だー、強引だー、強圧的だー」
 何か、段々訳の分からない展開になってきている。
 思うに俺も千鶴さんも、睡眠不足のせいで気分が高ぶっているに違いない。
「もうっ!」
 鋭い瞳で俺のことを見据えながら、ハリセンを振り上げる千鶴さん。
 そんな彼女に向かって俺は、両手を口に当てながら学生運動家よろしく、
「我々はぁ、体制からの如何なる暴力にも屈しないぃ。言論の自由を守るためぇ、我々はぁ、最後まで闘い続けるだろぅ。造反有理、資本家粉砕、プロレタリアート独裁万歳、人類は皆兄弟ぃー」
 最後の方は自分でも何だか違うような気がしたが、この際は深く考えることなく良しということにしておく。
 さて、と。
 叫ぶだけ叫んで少し気分がすっきりしたところで、改めて千鶴さんはとばかりにテーブルへと目を向ける俺。
「……げ」
 面を伏せたまま、じっと黙り込んでいる千鶴さん。
 心なし身体が震えているような、そんな気がしないでもない。
 そして彼女を中心に四周に放たれている空気が、理性でなく本能をもって俺に「危険」の存在を告げていた。
 マズい。
 もしかしなくても、ちょっとやりすぎたかも。
 やはり「鶴来屋」の会長という、正真正銘の資本家たる彼女に幾ら何でもアレはマズかったかもしれない。
 それとも……。
 刹那、千鶴さんの顔が上がる。
 そして彼女の瞳に紅の輝きを認めた刹那一陣の風が吹き、俺はその場に組み敷かれていた。
 首に回された両手は、がっちりと気道と血管を押さえている。
「ぐぇ……ぢ……ぢずる……ざん……」
 まともに声も出せない中、それでも何とか絞り出すように言葉を吐き出した俺は、彼女の腕を掴む。
 能力を――『鬼』の能力を出さないと。
 しかしそう思う気持ちとは裏腹に、能力を発動する暇も与えられないまま、俺の意識は薄らいでゆくばかりだった。
 目の前にある千鶴さんの顔からは一切の感情が失われ、真っ赤な血の色に染まった瞳だけが殺伐の意思を感じさせるように、鈍い輝きを発していた。
「ぐ、ぐるじ……ちょ、ちょーく……ちょーく……だって」
 万力で締め上げるように、ぎりぎりと彼女の指が首にめり込む。
 自らの肉の切り裂かれてゆく嫌な感触が、酸素不足のためにぼんやりとし始めた意識の片隅で自覚される。
 こ、これは、マジでヤバイ……。
 そう思った途端だった。
 締められた時と同じくらいの唐突さで、首に回された圧迫感が抜けるように失われる。
 そして胸の上に、何かが当たる感触。
「……?」
 涙目で何度かげほげほと咳き込み、ようやく回復した呼吸を整えながら何が起こったのかを確かめようと、胸元に視線を向ける。
「あの、千鶴さ……」
 言いかけた言葉を途中で止める。
 それが相手の耳に届かないだろうことに、気付いたからだった。
「……寝ちゃってるよ」
 すやすやと、千鶴さんは口から小さな寝息を漏らしながら俺の胸に顔を埋めていた。
 たったいままでの出来事が、まるで嘘のように思える安らかな寝顔。
 考えてみれば、当然と言えば当然の結果なのかもしれない。
 結果の如何に関わらず『鬼』の能力は、その発揮にかなりの体力の消耗を伴う。
 それに加えて現状の極度の寝不足状態では、途中で精根尽き果てて寝入ってしまうのも仕方のないことだった。
 思わずくすりと、笑みをこぼしてしまう俺。
 そして持ち上げた右手を彼女の頭に乗せ、流れ落ちる黒髪をゆっくりと撫でてゆく。
「ん……」
 小さく呟きながら、わずかに身じろぎを見せる千鶴さん。
 でも目を覚ますことはなく、すぐに表情を穏やかなものに和らげると再び穏やかな寝息を立て始める。
 指先に覚える細く、柔らかな感触。
 その心地よさに身を任せ、飽きることなく手を動かしていくうち、いままで姿を潜めていたはずの寝不足がまたぞろ顔をもたげてくる。
「仮眠……取ろうかな」
 それは甘い誘惑に違いなかった。
 そして睡魔からの誘いに抗しきることのできなかった俺は、千鶴さんの温もりを肌に感じながら、意識を急速に薄れさせていった。

 俺が再び意識を取り戻したのは、それから三時間後。
 先に目を覚ましたらしい千鶴さんの俺の名前を呼ぶ声と、同時に振り下ろされた彼女の右の拳によってだった。
 しかも……グーの。

                  §

「ごめんね、耕一お兄ちゃん」
 心から申し訳なさそうにそう言う初音ちゃんに、俺は何も言えなかった。
 気がつけば一連のドタバタ劇から一昼夜が過ぎ、いよいよ舞台は大詰めを迎えつつあった。
 深夜の二時過ぎ。
 最後の追い込みを前に用足しに部屋を離れた俺は、ついでに眠気覚ましのコーヒーでも煎れようかと台所に向かった。
「えーと、豆はどこかな……」
 ごそごそと、勝手のよく分からないまま戸棚をあさり始めた横合いから、何の前触れもなくすっと差し出される袋。
「え?」
 少しびっくりしながら向けた視線の先には、両手で抱えたコーヒー豆の袋を差し出す、初音ちゃんの姿があった。
「……初音ちゃん」
「わたしが煎れるから。そこに座って待ってて、耕一お兄ちゃん」
 にっこりと微笑みを浮かべながらそう言った初音ちゃんは、慣れた手つきで豆を挽き、それをコーヒーメーカーにセットする。
 ことこと――お湯の沸く小さな音だけが、台所の中に響き渡る。
 椅子に座ったままテーブルにあご肘をつきながら、俺は何をするでなしにぼんやりと、瞳に映る初音ちゃんの後ろ姿を見つめ続けた。
 沈黙が流れる。
 でも、だからといって気まずさを感じている訳じゃない。
 そこにあったのは、どちらかといえば穏やかな空気を多分に含んだものだった。
「ごめんね、耕一お兄ちゃん」
 不意に、背中を向けたままの彼女の口から紡がれた言葉。
 肩越しに流れてくるその言葉は元気のないもので、そしてここからでは伺うことのできない表情も、きっとそれと同様に違いなかった。
 彼女の言葉の意図するところが掴めず、小首を傾げるばかりの俺。
「本当はわたしが自分でやらなくちゃいけないことなのに、千鶴お姉ちゃんとお兄ちゃんの二人に全部押しつけちゃって……」
「ああ、そのことか」
 ようやく合点のいく俺。
「気にすることないって。自慢じゃないけど俺も高校の頃は、夏休みの宿題なんて最後の最後までほったらかしにしてたもんだよ」
「……本当?」
 相変わらず、肩越しに交わされる会話。
 俺は、照れ笑いを浮かべながら小さく肩をすくめると、
「本当だって。あのぎりぎりで間に合うかどうかっていう、スリルとサスペンスがたまらなくてね。何だか、久しぶりにあの頃の感覚を思い出しちゃったよ」
 途端くすくすと、初音ちゃんの口から小さな笑みがもれる。
 スリルとサスペンスに関しては、実は冗談じゃ済まなかったかもしれなかったことについては、とりあえず黙っておく。
「何だかんだ言って俺も結構楽しんでるから、だからあんまり気にしなくていいからね、初音ちゃん」
「……うん」
 その反応にようやく安心することのできた俺は、音もなく椅子から立ち上がるとそのまま彼女の背後に歩み寄る。
 ちょっとした悪戯心。
 持ち上げた右手の人差し指で、初音ちゃんの背中を背骨に沿ってパジャマの上からつっとなぞってみる。
「ひゃぅっ!」
 突然のことにびっくりしたのだろう、彼女は素っ頓狂な声をあげながらその場でぴょんと飛び上がってみせた。
 そして力が抜けたようにその場にうずくまると、上目遣いで俺の方を見上げながら、
「あうぅ。耕一お兄ちゃーん、急に何するの。びっくりしたよぉ」
「あ、ごめんごめん。ちょっとしたお茶目……」
 すぱーん。
 皆まで言い切る前に、背後からはたかれる俺。
 その勢いに流されるまま、首がぐきっと嫌な音を立てながら九十度傾く。
「くぅぉんの、馬鹿耕一ぃぃっ! 真夜中にこんなとこでアンタ、ぬぅあに初音にセクハラかましてやがんだーーっ!」
「あ、梓? それに……楓ちゃんまで」
 ぐぎぎと傾いだままの首を巡らすと、そこにはスリッパ片手に眼光鋭く俺のことを睨み付ける梓と、その傍らに佇む楓ちゃんの姿が飛び込んできた。
「ったく。耕一にしちゃあ珍しく良いこと言ってるなって、人が感心してやった途端、これだもんな……」
「珍しいは余計だ」
「へへん。まあそれはともかくとしてだ……耕一にそう言ってもらえれば、わざと宿題をやらないでため込んでた初音の努力も報われるってもんだよ。なぁ、初音?」
「お、お姉ちゃんっ!」
 慌てて梓の言葉を止めようとする初音ちゃん。
「わざと?」
 梓のその言葉に、俺は傍らの初音ちゃんに目を向ける。
 すると一瞬だけ俺と目を合わせた彼女は、申し訳なさそうな様子で顔を俯かせてしまう。
「……初音を、怒らないでやってください」
「そうそう。姉思いの初音が、この子なりに一生懸命考えてやったことなんだからさ」
「……?」
 楓ちゃんと梓のその言葉に、ことの次第が理解できない俺はただ首を傾げるばかりだった。
 そんな俺を見かねてか、視線を落としたままだった初音ちゃんがぽつりと口を開く。
「千鶴お姉ちゃんがね……とっても寂しそうだったの」
「え、千鶴さんが?」
 突然出てきた千鶴さんの名前に、思わず訊ね返してしまう。
「……うん。夏休みになってからも耕一お兄ちゃん、ずっと向こうにいたままだったでしょ」
「ああ」
「千鶴お姉ちゃんね、お休みに入ってから毎日わたしたちに言ってたんだよ。『早く帰って来てくれないかな、耕一さん』って」
「……俺」
「ううん、いいの。わたしにも分かってるから。だってお兄ちゃんには、お兄ちゃんの都合があるんだし」
 顔を上げ、にっこりと微笑む初音ちゃん。
 でもいまの話を聞いた俺の心に、その笑顔は正直痛かった。
「でもね、お盆が過ぎてから千鶴お姉ちゃん、何も言わなくなっちゃった。耕一お兄ちゃんのことをちっとも口にしなくなって……でも、見ててとっても寂しそうだった」
「ということで、あたしと楓と初音の三人で一芝居打ったわけだ」
 初音ちゃんの言葉を継ぐように、梓が口を開く。
「実際あたしは陸上の練習でそれどころじゃなかったし、楓は楓で今年は受験だろ……あの千鶴姉なら、絶対耕一に助けを求めるだろうって踏んだんだ」
「で、まんまと引っかかった俺がここにいる……と」
 自らを指差しながら自嘲気味に呟きを漏らすと、悪戯っぽい笑みを浮かべながら梓が頷く。
 傍らの楓ちゃんは恥ずかしそうに少し頬を染めながら、そして初音ちゃんはあの例の「天使の微笑み」を浮かべながら、俺に向かって頷いて見せてくれた。
「何だかなぁ」
 天上を仰ぎ見ながら、俺は思わずそんなぼやきを口にしてしまう。
「わざわざそんな回りくどいことしなくたって、一言そう言ってくれれば俺だって……」
「何言ってんだよ。休み前にあたしが電話したとき、さも面倒くさそうに『バイトが忙しいから当分帰れそうにない』って言ったのは、どこのどいつだぁ?」
「う。そ、それは……」
「大体、あたしたちよりバイトの方が大事なのか、耕一は。それにそこまでして稼いだ金で、一体全体何をしようってんだ?」
 捲し立てるようにそう言って梓は、俺を睨み付けてくる。
 その剣幕に助けを求めるように視線を泳がせると、やはり俺の言葉を静かに待つ楓ちゃんの視線とぶつかってしまう。
 初音ちゃんはと言えば……こちらもいまにも泣き出しそうな瞳で、俺の顔を見上げている。
 四面楚歌――正確には三面だが――の状況だった。
 俺は諦めにも似た心境で肩を落としながら、ため息をひとつつく。
「……絶対に内緒だぞ」
 三人が小さく頷く。
 そして手招きをして俺の側にまで三人を集めると、彼女たちの耳元で二言三言ぼそぼそと囁いてみせた。
「くぅーっ。やるねぇ、耕一っ」
 途端、照れ笑いを浮かべた梓が、力任せに思い切り俺の背中を叩く。
 台所中に小気味良い音を響かせたそれは、間違いなく背中に真っ赤な手形が付いているに違いない一撃だった。
「うん。絶対に喜んでくれると思うよ、耕一お兄ちゃん」
 満面の笑みと共に、嬉しそうにそう言葉を紡ぐ初音ちゃん。
 そして自分の左手の薬指を見つめながら、何を思ってか恥ずかしそうに頬を真っ赤に染める楓ちゃん。
「絶対絶対、ぜーったいに千鶴さんには内緒だぞ」
 三者三様な彼女たちの反応を前に、正直うち明けてしまったことに少しだけ後悔の念を抱きながら、固く口止めをする俺。
「分かってるって。ほら、コーヒーが出来てるよ。さっさと千鶴姉んとこ持っていきな」
「耕一お兄ちゃん、頑張ってね」
「あと一息です、耕一さん」
「おう」
 梓から二人分のコーヒーの乗せられたお盆を受け取り、そして三人に見送られながら俺は台所を後にした。
 部屋で俺の帰りを待っているだろう、千鶴さんの姿を脳裏に思い描きながら。

                  §

 雨戸の向こうから、雀がさえずる軽やかな音色が聞こえてくる。
 でも俺は、その鳴き声を右から左に聞き流しながら、一心に目の前にある計算式と取っ組み合っていた。
「えーとだなぁ、ここでxにこの数字を代入したらこうなるから、それを今度はyの式の方に展開してっと……」
 傍らで開きっぱなしの教科書に記された公式を横目で確認しながら、大学生活ですっかり鈍りきった脳をフル回転させる。
 この手の数学の公式を目にするのは、自慢じゃないがそれこそ受験以来のことだった。
 最初のうちはあーでもないこーでもないと、ひたすら式と頭をこねくり回すばかりだったけれど、やがてようやくのことで導き出せた答えらしきものをノートに書き込む。
「うしっ。これで終わりっと!」
 手にしていたシャーペンを机の上に放り出し、そのまま重力に引かれるまま畳に向かって俺は倒れ込んだ。
 柱に掛けられた時計に目を向ける。
 時計の針は、夜明けから既に一時間ほどが経過しているだろう時刻を指し示していた。
 どうにか間に合った――最初に思ったのはそんなことだった。
 そして蛍光灯の輝く天井に向かって安堵の吐息をもらしながら、ゆっくりと横たわらせていた身体を起こす。
「千鶴さん、全部終わ……」
 そこまで言いかけて、俺は途中で言葉を紡ぐのを止めてしまう。
 彼女の耳に、俺の言葉は届いていなかった。
 テーブルの上に置かれた両腕に頭を乗せて、千鶴さんは安らかな寝息をたてていた。
 俺は音を立てないようようにそっと立ち上がると、部屋の片隅にきちんと畳んで置かれていたカーディガンを手にする。
 それは初音ちゃんが「夜はまだ冷えるから」と、俺たちのためにわざわざ用意してくれたものだった。
 千鶴さんの背後に歩み寄った俺は、そっとそれを彼女の肩に掛けてあげる。
「……んっ」
 途端、俺の気配を察したのか千鶴さんは小さく身じろぎをひとつすると、閉ざしていた目をゆっくりと開く。
「おはよう、千鶴さん」
 彼女の顔をのぞき込みながら、小さく言葉を紡ぐ。
「……耕一さん? えっ!」
 どこか慌てた様子でテーブルから跳ね起きた千鶴さんは、きょろきょろと部屋の中をひとしきり見渡した後、
「わたしったら、いつの間にか眠ってしまったんですね。ご、ごめんなさいっ」
 そう、申し訳なさそうに口を開いた。
 その慌てふためく様子がおかしかった俺は、口許をわずかに緩めながら、
「平気だよ。もう全部終わったから」
「えっ、全部って……宿題全部がですか?」
「そうだよ」
 俺が紡いだ言葉の意味が咄嗟に理解できないのか、少しの間小首を傾げていた千鶴さんだったけれど、すぐにぱっと表情を明るくすると、
「ありがとうございます、耕一さん」
「何言ってんだよ、千鶴さんってば。二人で一緒に頑張ったんだから、お礼なんか言いっこなしだって」
「で、でも……はい」
 嬉しそうに、そして照れくさそうに微笑む千鶴さん。
「そうだ。千鶴さん、ちょっと外に出てみないか」
「え、外にですか?」
「ああ。もう夜も明けてるみたいだし、久しぶりに外の空気を吸ってみたいなってね」
 俺の提案を、千鶴さんは二つ返事で承諾してくれた。
 廊下へ出た俺は、少し立て付けの悪くなっている雨戸の一枚を、ゆっくりと開ける。
 途端、眩いばかりの朝日が俺と千鶴さんの身体を包み込んできた。
「うわ!」
「きゃっ、眩しい!」
 ここ数日続いた果てしなく不摂生な生活のせいもあって、思わず声を合わせて小さな悲鳴をあげてしまう俺たち。
 そして互いに顔を見合わせて笑みを浮かべながら、庭先へと足を踏み入れた。
 庭の奥に向かって歩いてゆく千鶴さんの後を追うように数歩遅れて、ゆっくりと歩く俺。
 根っからのぐーたらな俺にとって、こんな時間に外を出歩くことなんてここ数年絶えて久しい出来事に違いなかった。
 だからだろう。
 一種言葉にし難い、懐かしさにも似た何かを感じさせる空気の香りに、どこか戸惑いにも似た思いを抱いてしまったのは。
 これは、一体何の匂いだろう。
「どうかしましたか、耕一さん?」
 そんなことを思っているうちにいつの間にか歩みを止めてしまったのだろう、少し先で立ち止まって俺の方を振り返る千鶴さんが、小首を傾げていた。
「え? あっと、この時間の空気って何だか不思議な匂いがするなぁ、なんて思ってね」
「匂い……ですか?」
「うん。何か懐かしいような、そんな感じがしたもんだから」
 すると千鶴さんは、くすりと小さく笑みをこぼす。
「千鶴さん?」
「耕一さん、この香りはですね……残り香なんですよ」
「残り香?」
「ええ。一年で、この時期のこの時間でしか香ることのない、逝く夏が発する残り香」
 そして千鶴さんは、視線を俺から頭上に広がる青空に転じると、
「もうすぐ……一年ですね」
 ぽつりと、呟くように言葉をもらす。
 俺は「何が?」とは、あえて訊ね返さなかった。
 何故なら、その一言で全てが理解できたから
 そう――俺にとって千鶴さんが、そして千鶴さんにとって俺がかけがえのない存在となってから、もうすぐ一年。
「ねえ、千鶴さん」
「はい?」
「もし……もし俺が一昨日戻って来なかったら、千鶴さんはどうするつもりだったの?」
 それは、心の奥にふと浮かんだ疑問。
 でもどうしてか、いまこの場で訊ねずにはいられない疑問だった。
 少しだけ、躊躇うように視線を落とす千鶴さん。
 そして彼女が顔を上げたとき、そこにあったのは一片の陰りもない満面の笑みだった。
「帰って来てくれましたから」
「え?」
「耕一さんは、いまここに居てくれてます。そうじゃありませんか?」
 何も返す言葉が思いつかなかった。
 だから俺は、ただ無言で頷く。
「そう言えば、耕一さんとはまだ挨拶もしてませんでしたね」
「確かに……そう言えばそうだ」
 そう問われて初めて、こっちに戻ってきてからはひたすら状況に振り回されるばかりで、落ち着いて千鶴さんと話もできていなかった事実に思い至る。
 改めて気がついたその事実に、何となく照れ臭さを覚えてしまった俺は、思わず頭を掻きながら彼女の言葉に頷き返した。
 そんな俺の様子がおかしかったのだろう、
「くすっ。お帰りなさい……耕一さん」
 小さく笑みをこぼしながら、俺に向かって手を差し伸べてくる。
「ただいま、千鶴さん……」
 そして、彼女の手を握り返す俺。
 晩夏の残り香が漂う朝露の中、握りしめた千鶴さんの手はひんやりとした、でも喩えようのないほど柔らかなものだった。
 それは俺にとって、誰よりも大切な人が確かにそこにいる、何よりの証だった。
Extra01 End

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