『永遠の楽園』
Update:1999.09.13
鼻孔がかすかに嗅ぎ取ったそれは……間違いなく血の匂いだった。
一面の薄暗闇に覆われた屋内。
瞳に映し出されるのは、ただひたすらの虚無ばかり。
昼間は生徒たちの喧噪で賑わうばかりの場所だったはずのそこも、夜の帳の降りたいまとなっては、訪れる者に無言の威圧を感じさせるばかりの見知らぬ世界と化していた。
切れ切れな荒い息が、口からもれる。
冬の夜の寒気に晒されたそれは、途端まるで煙幕でも張っているかのような白濁の障壁を視界の中に作り出す。
家からここまで全力で走ってきたせいで、足の筋肉は悲鳴をあげんばかりに俺の意識へと疲労を訴えてきていた。
ともすれば気ばかり急いてしまう意識を必死に抑え込みながら、押し開いたドアの中へと一歩、俺は足を踏み入れた。
かつんと、人気のない廊下に足音が小さく響く。
背後で煌々と輝いている三日月の光が、暗闇に包まれた廊下の上に俺の影を長々と描き出す。
その影を追うように、また一歩足を動かす俺。
月光が生み出した影法師は、俺の身体の動きに合わせてゆらゆらと揺れ動き、まるで行くべき先を指し示すかのように、廊下の先へ先へと進み続けた。
昇降口を横目に角を折れた先には、教室が立ち並ぶ長い廊下があった。
俺は祈った。
そこに、いつも通りの情景が広がっていることを。
窓から射し込む月夜の照り返しの下、一種幻想的な世界のただ中に剣を片手にひとり佇む彼女の姿があることを。
無言で俺を見据える双瞳が、そこにあることを。
彼女の姿を認めた俺は内心で安堵の吐息を漏らしながら、そして表面は何ごともなかったかのように「よぅ」と、軽く挨拶を交わすのだ。
それで、万事が丸く収まる。
初めて出会ったあの日から今日まで、毎晩のように過ごしてきた俺と彼女の、ふたりきりの夜の時間が――闘いの時が始まるのだ。
そうあって欲しかった。
ただそのことだけを願い信じて俺は、闇の奥底へと延びてゆく廊下を視界に収めた。
でも……。
彼女は、そこにいなかった。
俺の目に映し出されたのは、教室の壁と平行して立ち並ぶ窓から射し込む月明かりに浮かび上がる、人気ない廊下だけだった。
「舞(まい)……いるんだろ?」
ゆっくりと周囲を見渡しながら、口を開く。
そして耳に届くかすかな残響と共に幾ばくかの間、返答を待つ。
しかし水を打ったように静まり返った校舎のどこからも、俺の呼びかけに対する反応は返ってこなかった。
「なぁ、隠れてないで出てこいよ」
なおも冗談めいた口調で、言葉を紡ぎ続ける俺。
別に、本気で冗談を言った訳じゃない。
そうしなければ、多分耐えきれなかったからだ。
どれだけ否定しても、そんな俺の努力を嘲笑うように頭の中を巡り続ける悪夢に、負けてしまいそうだったから。
廊下の奥へと、再び歩き始める俺。
こつこつと、足音ばかりが凍てつかんばかりに冷え切った無人の廊下の空気をわずかに震わせる。
その時俺は、不意につま先に何かが引っかかる感触を覚えた。
からんと、小さく乾いた音を立てて廊下の上を転がっていくそれ。
ちょうどその場所が、射し込む光の影に入ってしまっているせいで、一見それが何なのかまでは判然としない。
腰を屈め気味に、目を凝らしながら俺は闇に覆われた床をのぞき込んだ。
「…………」
そこにあったのは、一本の剣だった。
見た感じ結構な年代物らしいが手入れはきちんとされているのだろう、鈍い輝きを放つ刃先の光沢から一目でそれがイミテーションでも何でもない本物だと判る、諸刃の洋剣。
それが誰のものか、俺は知っていた。
そして次の瞬間、俺の鼻がかすかに嗅ぎ取った匂い。
「舞っ!」
咄嗟に剣を拾い上げ、その場を駆け出す。
限界だった。
いままで必死に抑え込んでいた不安は最早抑えようもなく、俺は舞の姿を求めて夜の廊下を駆けた。
一階には……いない。
突き当たりまで一気に駆け抜け、何の気配も感じないことから即座にそう判断した俺はそのまま傍らの階段を一気に駆け上がり、二階の廊下へと飛び込む。
気忙しげに左右を見渡す。
しかしそこも一階と同様、人影ひとつ見当たらない無人の世界だった。
昼間の世界とは打って変わった、薄ら寒さすら感じさせる不気味で虚無な光景が、物言わずただ広がるばかり。
無意識のうちに俺は、手にした剣を強く握り締めていた。
これがなくて、一体どうやってあんなのと戦うっていうんだよ……内心で悪態にも似た、そんな思いを抱いてしまう。
そう――俺の手中にこの剣があるいま、舞は素手でヤツと相対しているに違いないのだ。
舞は、あいつらのことを「魔」と呼んでいた。
人とは異なる何か。
正体すら判らないまま、それを倒すことだけを使命として自らに課し、入学以来の三年間ずっと、彼女が闘い続けた存在。
「くそっ……」
意識の底からわき起こってくる、後悔にも似た思いに耐えかねるようにそう吐き捨てた俺は、さらなる高みを目指して階段を二段飛ばしで駆け上がる。
嫌な予感がした。
それは学校にたどり着くまでの間もずっと感じていたものだったが、時を追うごとに俺の中で大きくなる一方だった。
そして校舎に足を踏み入れたときから時折鼻を突く、この匂い。
静謐に覆われた校舎の中を、俺の足音だけが高く響き渡る。
しかし俺の耳にはいま、それはまったく聞こえていなかった。
ただ舞の――大切な親友の無事な姿を、この目で確かめたいという思いだけが体内を支配していた。
程なく、三階へとたどり着く。
「はぁ……はぁ……」
さすがに一息に階段を駆け上がったせいで、一度は落ち着きを取り戻したはずの息が再び切れ始めていた。
両手を膝に付き、必死に呼吸を整えながら周囲に視線を送る。
タイミングの悪いことに月が雲の中に隠れてしまったのか、頼るべき光を失ってしまった俺の瞳は、そこに暗闇以外の何ものも見出すことはできなかった。
もしこの階にも舞がいなければ、あとは屋上か……もしかしたら校舎の外に出ているのかもしれない。
そんなことを思いながら一歩、足を動かす。
ぴちゃり。
すると足下から唐突に、そんな湿った音色が返ってきた。
「……水?」
どこか、蛇口が開けっぱなしの水道から漏れているのだろうか。
俺の中でわずかばかり残されていた、尚も冷静な思考を保ち続ける部分がふとそんなことを考える。
そして空いた方の手で、床にたまったそれに触れようとした刹那だった。
風に流される雲の向こうから月が、再び中天へと姿を現した。
同時に廊下を覆い尽くしていた漆黒のベールが、まるで舞台の開幕を告げるようにさっと取り払われる。
そして、俺は見た。
廊下のずっと先、旧校舎へとつながる渡り廊下へ突き当たる壁際でうずくまるようにその身を縮こまらせている、小さな影を。
影は、身じろぎひとつしない。
まるで……既にこと切れてしまっているかのように。
そして俺の足下にたまっている何かは、その影のある場所から緩やかな曲線を描きながら、細く長く伸びてきていた。
指先にそれが触れる。
冷たく、でも水とは明らかに異なった粘り気を感じさせるそれは……人の身体から流れ出した血に他ならなかった。
「……ははっ」
思わず俺の口から、そんな笑いともつかぬ声が漏れてしまう。
そう、余りに現実感がなかったのだ。
眼前に広がる光景が。
指先が覚えた感触が。
鼻孔が嗅いだ匂いが。
でもいま、俺の眼前に現出していたのは夢でも幻でもない、紛れもない現実の光景だった。
腰を上げる。
そして、影に向かって歩き出す。
時折、靴底から血溜まりを踏みしめるぴちゃりという音が耳朶をたたくが、それは俺の意識に何の影響も与えなかった。
徐々に、視界の中に映し出される影が大きさを増してゆく。
どれくらい歩いただろう、やがて影は明瞭な人の形を取り始め、そして俺の瞳はそこにふたつの制服姿を見出した。
……ふたつ?
そのことを自覚した刹那、心臓が飛び上がらんばかりに鼓動を早める。
まるで誰かをかばうように俺に向かって背中を向けていたのは、髪型とそれを結ぶリボンの柄から、舞に間違いなかった。
臙脂色の制服の背中に黒く大きな染みができているのは、ここがいまなお糸のように床を這い続ける血の流れの源なのだろう。
ちりちりと火に炙られているような、そんな違和感を側頭部に覚える。
そして舞の肩越しにのぞく、もうひとりのよく見知った顔。
「佐祐理(さゆり)……さん……」
自分でその名を口にしておいて、信じられなかった。
もしこれが夢なのだとしてら、とびきりの悪夢に違いなかった。
そしてもしこれが厳然たる現実なのだとしたら、俺に対する神ならぬ悪魔の心ない悪戯としか考えられなかった。
「……どうして」
全身の力が抜けたようにその場に膝を付きながら、どこからも返ってくるはずのない問いかけを口にする俺。
膝に冷たい感触を覚える。
それは、舞の血。
親友の佐祐理さんを守るために、剣を失った舞が選ぶことができた、たったひとつの選択。
壊れた人形のように俺は、もう一度「……どうして」と、呟きを繰り返す。
そして視界の端に捉えた、力無く床に投げ出された彼女の手からこぼれ落ちたらしいそれを見て、俺はその答えを見出した。
「ああ、そっか……」
そこにあったのは、奇麗なラッピングとリボンが施された小箱がふたつ。
きっと佐祐理さんは、今日中にどうしても俺と舞にこれを渡そうと思い、そしてここに来たのだ。
彼女は知っていたのだ。
俺たちが、毎夜学校にいることを。
視界の中に浮かび上がる、ふたつの小箱。
でもそれは、まるで心ない何者かに踏みつぶされたように見る影もなく無惨にひしゃげ、潰れていた。
視線を移し、改めて佐祐理さんの顔を見つめやる俺。
意識を失ったまま、そして額から血を流す彼女は、でもどうしてなのかどこか安らかな表情を浮かべていた。
そのことにかすかな疑問を抱きながら、俺は言葉を紡いだ。
「……そう言えば今日は、バレンタインだっけ……な、佐祐理さん?」