『永遠の楽園』
Update:1999.10.02





第1章「傷」

 見開いた瞳に最初に映し出されたのは白い天井と……そして、煌々と輝きを放つ蛍光灯だった。
 いつか、どこかで見た覚えのあるような光景。
 心の奥底で静かに眠る何かを刺激する、そんな情景。
 でもわたしはそれを果たしていつ、どこで見かけたのかをすぐに思い出すことができなかった。
 どうしてだろう。
 ぼんやりと、未だ醒めやらぬ意識のまま周囲の情景を眺めやる心の片隅で、そんな疑問を抱く。
 その時、ふと鼻先をかすめるかすかな匂い。
 霧でもかかったかのように曖昧模糊としたままだったわたしの記憶が、新たな刺激を覚える。
 そのことを意識した次の瞬間、何の前触れもなく左の手首に刺すように小さく痛んだ。
 そして思い出す。
 いま目の前に広がっている光景と折り重なる、過去のそれを。
 ああ……そっか。
 誰に話すわけでもなしに、内心でひとり合点してしまう。
 そう、わたしは知っていたのだ。
 いま瞳に映し出されているここがどこなのかを、そして嗅ぎ取った匂いが果たして何なのかを。
 ここは、病院なのだ。
 そして先刻から漂ってくる匂いは、病院と聞いて誰もが脳裏に思い浮かべるだろう消毒液のそれに違いなかった。
 白一色に塗り込められた天井。
 眩いばかりの光を放つ蛍光灯。
 鼻につんと香る消毒液の匂い。
 そのいずれもが、わたしにとっては懐かしさにも似た感慨を胸に抱かせると同時に、言葉にはし難い深い悲しみを心の奥底から呼び覚ますキーワードに他ならなかった。
 わたしにとって、ここは……。
 ニガ――テ――ナバショ。
 キ――ライナバ――ショ。
 カナシ――イバシ――ョ。
 ばらばらに解きほぐされた言葉の断片が、完全に形を整えきれないまま浮かび上がり、ちらちらと明滅を繰り返す。
 手首がまた、ちくりと痛んだ。
 それは癒される日が来ることなど決してないだろう、過去の思い出。
 冷徹な現実を目の前に突き付けられるまで、ずっと「正しい」のだと信じていたことが、本当は少しも「正しくなかった」ことを思い知らされた、わたしの愚かさの証。
 ……一弥(かずや)。
 明瞭な映像と共に、脳裏にひとつの名前が浮かび上がってくる。
 一弥は、わたしにとってたったひとりの弟だった。
 そしていまとなってもうこの世界のどこにもいない、思い出の中だけに佇む存在だった。
 一弥が、その短い生涯の最期を過ごした場所。
 その一弥と、姉と弟として初めて遊んだ場所。
 理由は判らなかったが、いまわたしがいる病院こそがその場所なのだった。
 そして、わたしは思い起こす。
 過去を。
 普段は心の奥底に沈めてある、一弥との思い出を。
 いつだって一弥は、何かに怯えているような様子で、わたしを含めた世界のすべてを見つめ続けていた。
 叱咤。
 叱責。
 強制。
 威圧。
 一弥にとっての他人とは、一弥の意志には関係なくそういった楽しからざるものを一方的に押しつけてくる存在でしかなかった。
 そしてそれを誰よりも多く一弥に与え続けていたのは、あの子にとって一番身近な存在であったはずの、他ならぬわたし自身だった。
 姉としてのわたしが、最期の時を迎えるまで「正しい」と信じていたことを貫き続けた結果が、それだった。

 ――ヒトゴロシ。

 どこかから、そんな声が聞こえてくる。
 冷たく、感情の抑揚がどこにも感じられない平板な声。
 それはわたしの心の呟き。
 そう……わたしは、人殺しなのだ。
 この世界で生き続けることに何の喜びも見出せないまま、そこに居続けることを拒絶させ、緩慢な死を一弥に与えたのはわたしなのだった。
 だからわたしもあの時、生きるのを止めようとした。
 簡単なことだった。
 手首に刃を当て、握った手に少し力を入れるだけ。
 次の瞬間、鋭い痛みが手首に走る。
 やがて傷口からあふれ始めた血は手首を伝って膝の上に、そして床の上にととめどなく広がっていった。
 その様をわたしは、まるで他人事のように言葉なく、ぼんやりと見下ろし続けるばかりだった。
 徐々に薄れ始める意識。
 これでわたしも一弥と同じ場所に行けるのかな……意識を失う直前、わたしが思ったのはそんなことだった。
 でも、わたしは死ななかった。
 死ねなかった、と言う方が正しいのかもしれない。
 どれくらい経ったのだろう、手首の痛みに意識を取り戻したわたしの、うっすらと見開かれた瞳に映し出されたのは、いま眼前に輝いているのと同じ蛍光灯と白い天井だった。
 そして今また、わたしは病院のベッドの上で天井を見上げている。
 途端、ふっと身体のどこかに違和感を覚える。
 身体から、吐き出される吐息と共に心だけが遊離していくような、どこか言葉にはし難い感覚。
 同時その感覚に、どこか懐かしさにも似た感慨を覚える
 自分の身体を、まるで他人の身体がそこにあるかのように、頭上から見下ろしている意識。
 一弥を失ってから舞と出会うまでの何年間、わたしの心は身体からは切り離されたまま、喜びや悲しみといった感情を何ひとつとして抱くことなく、空の中をただ虚しく漂うばかりだった。
 考えてみればこの心地を味わうのは、思えば随分と久しぶりのことだ。
 でも……どうしてなのだろう。
 胸中から、そんな疑問がわき起こってくる。
 もしかすると先刻から漂ってくる消毒液の匂いが、わたしの中に眠る一弥の思い出と、そしてあの頃の空っぽだった自分の心を、無意識のうちに思い出させているからなのだろうか。
 ベッドの上に横たわる自分の姿を、心の中で映像として結びながらわたしは、とりとめのない思いに身を任せる。
 そもそもどうしてわたしは、こんな場所にいるのだろう。
 ここが病院なのは判るとして、だとしたら何故わたしはこんな場所にいなくてはならないのか。
 そんなことを思いながら、天井に向けていた視線を動かす。
 周囲に何か、わたしがここにいる理由を知ることができる何かがあるかもしれないと、そう思ったからだ。
 真っ白なカーテンが下ろされた窓。
 どこといった特徴のない花瓶。
 純白の布地が張られた仕切。
 頭上に掲げられた点滴。
 そして傍らに据えられたパイプ椅子に座る、男の人。
 どうやらうたた寝をしているらしいその人は、腕組みをしながら船を漕ぐように頭を軽く前後させている。
 この人は……誰だろう。
 まだ完全に覚醒しきっていない意識がそんな疑問を抱き、そして次の瞬間目の前で眠り続けるその人の名前を思い出す。
 大切な人。
 忘れちゃいけない人。
 わたしたち二人の……親友。
 口中で一度だけ、声にならない声でその人の名前を呟いてから、わたしは言葉を紡ぎだした。
「……祐一さん」

                  §

 ほとんど口の中だけで紡がれた、その呟き。
 でもその声が耳に届いたのだろうか、わたしが祐一さんの名を口にした途端、彼はぱっと目を見開く。
 そして声の在処を確かめるように、きょろきょろと何度か周囲に顔を巡らせてから、最期にわたしの方へと視線を向けてきた。
「佐祐理……さん?」
 ささやくような、かすれ声。
 どうしたんだろう。
 いつもなら、もっとはっきりした口調で話してくれるのに。
 もっと朗らかな、優しい声でわたしの名前を呼んでくれるのに。
 そんなことを思う間もなく、祐一さんの口から漏れてきたのは、大きな安堵のため息だった。
 小首を傾げるわたし。
 そんなわたしに向かって、祐一さんは微笑みを浮かべながら、
「このまま……ずっと佐祐理さんが目を覚まさなかったら、どうしようかと思っちゃったよ、俺」
「……え?」
 状況がいまひとつ理解できなくて、首を傾げることしかできない。
 そんなわたしの反応が気になったのだろう、表情から笑みを消して真顔に戻った祐一さんは、
「佐祐理さん、俺のこと分かる?」
 目の前で手をひらひらさせながら、訊ねてかけてきた。
「はい。祐一さんです」
「一足す一は?」
「二です」
「じゃあ、この指何本?」
「三本です。ふぇー……祐一さんって器用に指を曲げられるんですね」
 人差し指と薬指だけを折り曲げて、親指と中指と小指だけを一本おきに立てる彼の右手の器用さに、思わず感心してしまう。
 そんなわたしの声に、今度こそ安心したように表情を弛めた祐一さんは、椅子の背もたれに身体を預けて寄りかかった。
 椅子の軋む音が、室内に小さく響く。
 わたしは首だけを彼の方に向けたまま、彼の姿を言葉なく見つめ続ける。
 もう結構遅い時間なのだろう、ドアの向こうの廊下からは足音ひとつ立つことなく、しばらくの間静寂だけわたしたちの間を漂う。
 静かな時が流れる。
 そして先に口を開いたのは、祐一さんの方だった。
 点滴を受けているために布団の上に投げ出されたままだったわたしの手をそっと握った彼は、わずかに目を細めながら、
「命に別状がなくてよかったよ」
 小声で、それだけを口にする。
「あははーっ。どうしたんですか、祐一さん。まるで佐祐理が……」
 思わずそう言葉を紡ぎかけた途中で、自分がいまいる場所がどこなのかに気づいて口を閉ざす。
 そう、ここは病院。
 わたしは何らかの事故に遭って、ここに運び込まれたのだ。
 事故……。
 そして思い出す。
「……舞」
 その言葉を口にした瞬間、祐一さんの表情がはっと強張る。
 まるでその名前をわたしが口にすることを望んでいなかったかのような、そんな顔色の変化。
「舞は……どこにいるんですか?」
 でもわたしは、訊ねずにはいられなかった。
 夜の学校。
 バレンタインのチョコを舞と祐一さんに手渡そうと、夜遅くになってからようやくでき上がった手作りのチョコを持って学校に向かったわたし。
 舞と祐一さんの二人が毎晩学校にいることは、ずっと以前から知っていた。
 わたしたちが祐一さんと知り合う前から、入学以来の三年間、舞はたったひとりで夜の学校に居続けていた。
 まるで、何かを待ち続けているかのように。
 でもそこで舞が何をしようとしていたのか、わたしは知らない。
 そのことについて何度か訊ねたこともあったけれど、いつだって舞は「佐祐理には関係ない」の一点張りで、そこで何をしているのかをわたしには教えてはくれなかった。
 舞はそんな時いつだって、どこか悲しそうにも困ったようにも見える表情を浮かべる。
 だからいつからか、わたしはそのことを訊ねることを止めていた。
 舞を困らせたくなかったから。
 大切な友だちを、悲しませたくなかったから。
 昔から舞は不思議なところのある子だったから、きっとそれに関係する何かなのだろう。
 そう思って、自分を納得させたのだ。
 でも……今日だけは。
 どうしても今日中に、二人にチョコを手渡したかった。
 大好きな二人の喜ぶ顔が見たかったから。
 大切な親友の幸せな顔が見たかったから。
 計画を遂行するにあたって、わたしはまず祐一さんの家に電話をした。
 行き違いになってしまっては困るし、今日も学校に行くのかどうかをそれとなく確かめておこうと思ったのだ。
 何度かの呼び出し音の後、電話に出たのは、わたしとそう変わらない年頃と思える声の女の子だった。
 学校から帰ってきてすぐ、祐一さんは寝てしまったらしい。
 女の子は「起こしてきましょうか?」と言ってくれたが、わたしのためにそこまでさせるのは申し訳なく思い、その申し出は断った。
 でも彼女から、
『多分、もうすぐ起き出して学校に行くと思いますよ。何でも負けられない勝負があるらしくて。本当に男の子って……』
 その話を聞かされて、わたしは学校に行くことを決心した。
 そして……。
 舞のことを訊ねるわたしから、視線を逸らすばかりの祐一さん。
 でも彼のそんな態度は言葉以上に、舞の身に何か良からぬことが起こっているらしいことを語っていた。
「舞っ!」
 わたしは横たわっていたベッドから跳ね起きようとする。
 途端、右の額に強い痛みを覚える。
 無意識に額に手を当てると、そこには患部を覆うガーゼを固定するように包帯が幾重にも巻かれていた。
「……え?」
「ダメだよ、佐祐理さん。佐祐理さんの傷だって、さっき縫ったばかりでちゃんまだと塞がってないんだから」
「傷、ですか。佐祐理、もしかして怪我をしてるんですか?」
 両肩に手を当てて、わたしの動きを押し止めようとする祐一さんの顔が目の前に映し出される。
「額を……三針」
 とても言いにくそうな、そして悲しそうな顔つきで、祐一さんは顔を逸らしながらそれだけを口にする。
 それがいま、額が痛む理由らしかった。
「そうですか……」
 呟くようにそれだけを答えて、わたしは顔を俯かせる。
 正直、落胆の思いを隠せなかった。
 きっとそれが祐一さんにも伝わったのだろう、わたしの肩に掛けていた手を離した彼は、
「心配しなくても大丈夫だって。前髪に隠れて、傷って言ったってほとんど見えないから」
 間近に聞こえてくる祐一さんの声。
 それはきっと、怪我した事実を聞かされたことでわたしが落ち込んでいるのだと思って、慰めての言葉だったのだろう。
 でも、本当は違うのだ。
 その時わたしの内心を占めていたのは「また舞に迷惑をかけてしまった」そんな思いだった。
 舞はいつだって、わたしに負い目を感じていた。
 そのことを言葉にすることは決してなかったけれど、わたしには舞のその思いが痛いほど伝わってきていた。
 入学以来、舞の周囲には何かと問題が絶えなかった。
 廊下の硝子を始めとする学校の備品を壊してしまったりすることは、それこそ日常茶飯事だった。
 それは多分、夜毎学校に居続けていることと無関係ではないだろう。
 そして舞の側に居続けたわたしがその出来事に巻き込まれて、怪我をしたりすることも……。
 そんなことわたしはちっとも気にしてなかったけれども、自分のせいでわたしが傷ついていくのだと、少なくとも舞はずっとそう思っていた。
 でも、本当は逆なのに。
 わたしの方こそ、舞に迷惑をかけているのだ。
 彼女はただ純粋に――本当に不器用なほど純粋に、自分の果たすべき何かをまっすぐに見据えているだけなのに。
 でもわたしは、そんな舞が大好きだった。
 だから、彼女と一緒に思い出を紡いでいきたかった。
 一緒に幸せになりたかった。
 その結果、どんなに傷つくことになったとしても、それだってわたしにとっては舞と二人で紡いだ大切な思い出なのだから。
「……祐一さん」
 ゆっくりと顔を上げる。
「ん?」
「教えてください。舞は……舞の様態は、どうなんですか?」
 言葉が途切れる。
 祐一さんはわたしの目をじっと見据えたまま、言葉を探すようにわずかに瞳を揺らすばかり。
 どれくらい経った頃だろう、
「……分からない」
 吐き出すように言葉を紡いだ祐一さんの表情は、これ以上ないほど辛そうなものだった。
「え?」
「ごめん、佐祐理さん。俺にも、舞の様態は分からないんだ」
 無意識のうちに、ぎゅっと手を握り締めてしまうわたし。
「どうして、なんですか?」
「舞は、いま……面会謝絶中なんだ」

                  §

 足元に、世界が広がっていた。
 ゆらゆらと、まるで水面から中をのぞき込んでいるような、不定形に揺れ動く街並み。
 その揺らぎの中に、無数の人たちの営みがあった。
 家々が立ち並ぶ道を行き来する無数の人々。
 車道には、絶えることのない車の流れがあった。
 そして歩道には買い物帰りらしい大きな袋を両手で抱えた、お母さまと同じくらいの年格好の婦人もいたし、普段お父さまが身につけているようなスーツにきっちり身を固めた殿方もいた。
 そして手にしているのは風車だろうか、楽しげな笑みを浮かべながらその人並みを縫って走り抜けてゆく子供たち。
 でも……そこにわたしの居場所はなかった。
 わたしの足は地面から数十センチほど浮かび上がったまま、ふわふわとまるで水の中を漂う木切れのようにその行き先さえ知ることもできずに、ただ流されるばかり。
 自分が自分でないような、そんな不思議な感覚。
「あの……」
 傍らを通り過ぎる殿方に声を掛ける。
 でもその方の耳にはわたしの声は届かなかったのか、殿方はそのまま何事もなかったかのように歩み去ってしまった。
 それから何度か、同じように近くを通りかかった人に声をかけてみたが、結果はいつも同じだった。
 誰もわたしの声を聞いてくれない。
 誰もわたしに気がついてくれない。
 まるでこの世界のどこにもわたしなんか存在していないかのように、揺らぎ続ける街並みは、冷たくそこに佇み続けた。
 どうしてなのだろう。
 どうして、誰もわたしのことに気づいてくれないのだろう。
 決して触れることのない、足元の路面を俯きがちに眺め下ろしながら、心の中でそんな呟きを漏らす。

 ――判らない?

 不意に声がする。
 顔を上げると、わたしのいる場所から少し離れた場所、無数の車が行き交う横断歩道の真ん中にひとりの女の子が佇んでいた。
 視線はまっすぐに、こちらを見据えている。
 もしかしてあの子には、わたしの姿が見えているのだろうか。
 わたしの声が聞こえているのだろうか。
「えっと、あの……そんなところにいると、危ないですよ」
 長い髪を、間近を通り過ぎてゆく車が生み出す風に好きに遊ばせながら、それでも女の子は少しも臆することなくその場に佇んでいた。
 そして、女の子の口がゆっくりと開かれる。

 ――あなたはひとりでも平気なんでしょ。

 抑揚のない声だった。
 でもその声に、わたしは聞き覚えがあった。
 誰の声だったろうか。
「ひとりで……平気?」
 オウム返しに訊ね返すわたし。

 ――そう。

「そんなことありません。佐祐理は……大切な人たちと、一緒の思い出をたくさん作りたいと思っています」
 大切な人。
 一緒に幸せになりたい人。
 一生懸命に幸せになりたいと思える人。
 心の底から本当にそう思える存在が、いまのわたしには少なくとも二人いるはずだった。

 ――無理よ。

 でも女の子から返ってきたのは、そんな冷たい返答だった。
「どうしてですか?」
 問い返すわたし。
 車の流れは一向に途切れることなく、そして信号はいつまでたっても赤になることはなかったけれど、女の子はそんなことまったく気にした風もなくその場に佇み続けていた。
 そして一歩、わたしの方に向かって歩き出しながら言葉を紡ぎだす。

 ――だってあなたは、ヒトゴロシだもの。

 次の瞬間、荷物を一杯に積んだトラックが女の子の背後から忽然と姿を現し、そしてスピードを微塵もゆるめることなく彼女を押し潰す。
「……っ!」
 一瞬の出来事だった。
 わたしは身じろぎひとつできないまま、ただ目の前で起きた惨事を見つめ続けるばかりだった。
 女の子は無事だろうか。
 早く、助けを呼ばないと。
 その時だった。
 不意に、周囲から視線を感じる。
 周りを見渡せばいつの間にか足を止めた無数の殿方、婦人がわたしのことを言葉なくじっと見つめていた。
 やがて、どこからともなく紡がれ始める声。

 ――ヒトゴロシ。

 それは間違いなく、わたしに向かって放たれたものだった。
 わたしに視線を向ける誰もが、思い思いの出で立ちとと表情で、でも同じ言葉を唱えていた。

 ――ヒトゴロシ。

 ――ヒトゴロシヒトゴロシ。

 ――ヒトゴロシヒトゴロシヒトゴロシ。

 ――ヒトゴロシヒトゴロシヒトゴロシヒトゴロシ。

 ――ヒトゴロシヒトゴロシヒトゴロシヒトゴロシヒトゴロシ。

 ――ヒトゴロシヒトゴロシヒトゴロシヒトゴロシヒトゴロシヒトゴロシ。

 ゆらゆらと揺らめく街並み。
 その中を水の中に浮かぶように、地に足をつけることなくふわふわと漂い続けるわたし。
 そして、そんなわたしの耳朶を打つのは、無数の人々が口々に唱える「ヒトゴロシ」の斉唱だった。
 それは夢。
 わたしの心が生み出した、とびきりの悪夢。
 でもわたしは、この夢のすべてを否定することはできなかった。
 何故なら彼らが口を揃えて言うように、わたしがヒトゴロシなのはまったくの事実だったから。
 わたしが……弟の一弥を死なせたのだから。

                  §

 吐き出される息が、凍てついた朝の空気に触れて白く濁る。
 見上げれば雲ひとつない空はどこまでも蒼く、触れただけでひびが入りそうな硝子細工みたいな澄んだ色を視界一杯に浮かび上がらせていた。
 さくっさくっと、足を動かすごとに一面に積もった雪を踏み分ける小さな足音が耳朶をたたく。
 不用意に頭を揺らさないよう気をつけて歩いているつもりだったけど、それでも時々額が疼いた。
 その度にわたしは歩みを一旦止め、わずかに目を細めながら痛みが引くのを静かに待った。
 そしてまた、ゆっくりと歩き始めるのだ。
 家を出てからもう、どれくらいそんな止まっては歩くといった動作を繰り返したことだろう、気が付くとわたしは公園の前で足を止めていた。
 ブランコと砂場と滑り台、あとは木製のベンチが幾つかあるだけの、本当に小さな公園。
 降り積もった一面の雪に覆われたそこは足跡ひとつなく、新雪が陽光にきらめくその様はとても綺麗だった。
 でもわたしが足を止めたのは、その情景に目を奪われたからではなかった。
 傷が痛んだからでもない。
 公園の前で足を止め、待ち続けることが、いつしかわたしの身体に染みついた習慣となっていたからだった。
 そこはわたしと舞の、毎朝の待ち合わせ場所だった。
 いつだって先に公園にいるのは舞で、ブランコや滑り台、そして時には樹の枝に腰を下ろして、わたしの来訪をひとり待ち続けていた。
「おはよう、舞」
 わたしがそう朝の挨拶を口にすると、少しだけ間を置いてから舞は、
「……おはよう」
「あ、舞ったらいいな。今日も一番に足跡つけてるーっ」
「……佐祐理もつける」
「あははーっ。うんっ。一緒にしよっ、舞っ」
 そうして、わたしたちの一日が始まる。
 季節によって踏みしめるものは――春は桜、夏は水たまり、秋は落ち葉、そして冬は雪と移ろい変わっていったけれども、でもそれがわたしたちにとっての平穏で、変わりばえのない日常に他ならなかった。
 昨日と同じ今日。
 そして今日と同じ明日。
 積み重なる時の流れの中をわたしたちは歩いていくのだと、少なくともわたしはそう信じていた。
 でも……。
 公園のどこにも、舞の姿はなかった。
 どれだけ待ち続けたとしても、今日ここに彼女が来ることはない。
 そのことを誰よりもよく知っているわたしは、だからため息をひとつついてからその場を離れる。
 手にしたカバンとお弁当が、やけに重く感じられた。

 ――ヒトゴロシ。

 どこかから、そんな声が聞こえてくる。
 そう、わたしは「ヒトゴロシ」だ。
 まだ小さく、幼かった弟の一弥から生を奪い取ったのは、他ならぬこのわたしだった。
 そしてわたしはいま、舞の命まで奪おうとしている。
 いつだって誰かを傷つけ、踏みにじり続けているというのに、そのくせ自分だけは安穏とした生を享受し続けている、倉田佐祐理という存在。
 そんなものに……どれほどの価値があるというのだろうか。
 ぽんと、背後から肩をたたかれたのはその時だった。
「よぅ、佐祐理さん」
 振り返ればそこには、わたしに向かって浮かべられた、いつもと変わらない祐一さんの笑顔があった。
 いま、ここに舞はいない。
 でも祐一さんは、ここにいてくれている。
 目に映るものすべてが夕陽で赤く染まっていた、放課後の商店街。
 二人で寄った、ゲームセンターからの帰りしな。
「俺は佐祐理さん、大好きだからな」
 まっすぐにわたしの目を見据えながら、祐一さんはそう言ってくれた。
 少しだけのびっくりと恥ずかしさ、そして一杯の嬉しさがわたしの胸の中に広がってゆく。
 そしてさらに言葉を重ねるように「代わりになれないかな、俺が一弥の」と、そう言ってくれもした。
 それはきっと、祐一さんなりの優しさに満ちた告白……だったのだろう。
 嬉しかった。
 こんなわたしのことを「好き」だと、そう言ってくれたことが。
 出会ってまだ一月も経っていなかったけれど、それでも大切で、大好きな存在だと思える祐一さんに、そう言ってもらえたことが。
 でも……。
 いまのわたしに、その言葉を受け止める資格はなかった。
 何故なら、わたしは「ヒトゴロシ」だから。
 償うべき咎を未だ背負い続けている、罪人だったから。
 舞と一緒に幸せになるために、わたしはまだまだ頑張り続けなくてはならないのだ。
 だから、いまはまだ祐一さんの想いに応えることはできない。
「佐祐理さん……?」
 祐一さんの顔を見やりながら、じっと言葉なくその場に立ちつくしていたわたしのことを訝しむような彼の声音が、耳朶を打つ。
 その声に意識を現実に引き戻されたわたしは、内心のどす黒い思いを慌ててうち払うと、
「あ、祐一さん。おはようございますーっ」
「おぅ、おはよう」
 ようやく浮かんだいつもと同じわたしの笑顔に、どこか安心したように表情を穏やかなものへと戻す祐一さん。
 そして軽く手を上げながらわたしと肩を並べた彼は、ペースを合わせるように歩調を少しゆるめてくれた。
「今日もいいお天気ですね」
「ああ。風もないし、これで寒くなければ言うことなしなんだけどな」
「あははーっ。冬なんだから、仕方ないですよ」
「まあ、それはそうだ」
 そこで言葉が途切れてしまう。
 周囲からは、空気の流れに乗って同じく登校途中の生徒たちが交わす賑々しい会話が聞こえてくる。
 でもわたしたちは、会話を続けることができなかった。
 何故ならいまここに、舞がいないから。
 わたしと祐一さんの、どちらにとっても必要欠くべからざる存在が、ぽっかりと穴が開いてしまったように抜け落ちてしまっているから。
「そ、そう言えばさ……」
 祐一さんも同じことを思っていたのだろう、まるでこの場の気まずい空気を振り払うように少し慌てたような様子で言葉を紡ぐ。
「はい?」
「今日は包帯してないみたいだけど、怪我の方は……」
 そこまで言いかけて、はっと口をつぐんでしまう。
 言わずもがなのことを口にしてしまったとばかりに、祐一さんは見るからにばつの悪そうな顔色を浮かべながら、視線を逸らしてしまった。
 まるで彼のその表情に反応するかのように、不意に額に突き刺すような痛みを覚える。
 突然の痛みに耐えかねたわたしはその場に膝を付くと、そして無意識のうちに額に手を当てながらその場に崩れてしまった。
 手から離れたカバンとお弁当が、傍らの雪上に小さな音を立てて転がる。
「佐祐理さん、大丈夫かっ!」
 頭上から飛び込んでくる、祐一さんの声。
 額を押さえたまま、それでも彼を心配させないよう顔を上げたわたしは、できるだけ明るい風を装いながら、
「あははーっ。そんな大袈裟にしなくても、佐祐理は大丈夫ですよ、祐一さん。ちょっと……疼いただけですから」
「…………」
 でも祐一さんは黙り込んだまま、じっとわたしの顔を見つめやるばかり。
 そして次の瞬間、ぐいと引き寄せられたわたしの身体は、そのまま祐一さんの腕の中で抱きしめられていた。
「ふぇ?」
「……ごめん、な」
 耳元でささやかれる言葉。
 それはいまにも消えてしまいそうなほど小さく、弱々しい声音だった。
「え? いまなんて……」
「…………」
「祐一さん。周りの人がみんな、佐祐理たちのこと見てますよ」
「…………」
「あははーっ。やっぱり、ちょっと恥ずかしいですねーっ」
「…………」
 わたしの髪に顔を埋めたまま、何も答えてくれない祐一さん。
 祐一さんのことは大好きだったから、彼に抱きしめられ続けることは、多少の恥ずかしさを除けば少しも嫌じゃなかった。
 でも、返事をしてくれないのには困ってしまう。
「祐一さ……」
 そこまで言いかけたとき、
「……ごめん、な」
 ついさっき紡がれた言葉が、再度わたしの耳朶を打つ。
「祐一さん。どうして、謝るんですか?」
「さぁ……」
 わたしからの問いかけは、そんな曖昧な言葉にうち消されてしまう。
 でも、わたしには分かっていた。
 祐一さんが何を思って、その言葉を紡いだのかを。
 どんな思いで周囲の好奇の目を厭うことなく、わたしのことを抱きしめてくれているのかを。
 でも……本当は違う。
 祐一さんは、少しも悪くない。
 これは、わたしが負うべき咎なのだ。
 思慮に欠けた不用意な行動で舞を傷つけてしまった罪に対する、わたしが償わなければならない、罰なのだ。

                  §

「はい、祐一さん。沢山ありますから、どんどん食べてくださいねーっ」
 そう言いながら、手にしたお重を差し出すわたし。
 お重の中には、いつも通り朝早くから準備して持ってきた、お弁当のおかずが一杯に詰め込まれていた。
「それじゃ、遠慮なく」
 屋上へと続く階段の先にある、ドアの前の踊り場。
 ピクニック用の折り畳みのシートが広げられたそこは、文字通りわたしたちだけの指定席だった。
 真冬のこんな時期に、さすがに屋上に出ようとする人はいない。
 だからここには、わたしたち以外の誰かが足を踏み入れようとすることはまずなかった。
 お箸を伸ばしてきた祐一さんは、卵焼きをひとつまみ持ち上げる。
 そして一度それを目の前にまで持ち上げると、色形を確かめるようにひとしきり眺め渡してから、ぱくりと口に含んだ。
「お味はいかがですか、祐一さん?」
 傍らに置いていたポットを持ち上げ、カップにお茶を注ぐ。
 そしてそれを祐一さんの方に差し出しながら、わたしはゆっくりと咀嚼を繰り返す彼に向かって訊ねかけた。
「……うん」
 空いた方の手でカップを受け取った祐一さんは、口の中のものをごくりと飲み込むと、
「文句なく美味い。ホント、佐祐理さんの料理はいつ食べても美味いよ」
「ありがとうございます」
 彼のその賛辞に、わたしはにっこりと微笑みを浮かべながらお礼を口にした。
「これだけのものが作れるるなら、明日からお嫁に行っても大丈夫だよ、佐祐理さんは。うん、俺が保証するよ」
 少しおどけた口調で、そんなことを言う祐一さん。
 わたしは彼が紡いだ「お嫁さん」という言葉に、少しだけ頬が熱くなってくるのを感じながら、
「あははーっ。そう言ってもらえると嬉しいですけど、でも佐祐理なんてまだまだですよ」
「そんなことないと思うけどなぁ」
「いえ、そんなことありますよ。佐祐理の作るものなんて、お母さまの作られたお料理と比べたら全然ダメですから」
 そう返事を返しながら、わたしも箸で摘んだ卵焼きを口に含む。
 何度か咀嚼をするうちに、少し甘みの利いた卵の柔らかな食感が口の中一杯に広がる。
 そんなわたしの姿を見て、また祐一さんが卵焼きを食べる。
 しばしの間、心地よさを伴った沈黙が、わたしたちの間に流れた。
「それに……」
 口の中を空にしてからわたしは、改めて言葉を続ける。
 まだ口をもぐもぐとさせている祐一さんは、次のおかずへと箸を伸ばしかけながら、顔だけをわたしの方へと向けていた。
「佐祐理みたいなダメな女の子をお嫁にもらってくれるような、そんな物好きな殿方なんていませんよ。あははーっ」
 すると止まったままだった箸を動かし、お重の中から鳥の唐揚げをつまみ上げた祐一さんは、それを口の中に放り込むと、
「ほれじゃあは」
「はい?」
 きっと一口で飲み込むには少し大きすぎたのだろう、頬を一杯に膨らませながら何とか言葉を紡ごうとしている。
「ほれ、りっほうほふる」
「ふぇ? 祐一さん、何を言ってるのか分かりませんけど」
 小首を傾げるばかりのわたしを前に、困ったような色を浮かべる祐一さんは、やがて口の中の唐揚げをごくりと一気に飲み込むと、
「それじゃあ俺、立候補する、って言ったの」
「何の立候補ですか?」
「もちろん、佐祐理さんをお嫁さんにもらうためのだよ」
 咄嗟に、祐一さんの言葉が理解できない。
 そして次の瞬間、
「ふぇ〜……祐一さんは、佐祐理なんかをわざわざ、お嫁にもらってくれるんですか?」
「おぅ。佐祐理さんなら、相手にとって不足はないぜ」
「でも、きっと後悔しますよ」
「そうか?」
「ええ。だって佐祐理は、本当に何にもできない女の子ですから」
 それは本当のことだった。
 いつだって、わたしは何もできない女の子だった。
 ずっと昔、まだ小さかった頃にお父さまに連れられていった大人ばかりが集まる場所で、そこにいる誰からも可愛がられたわたし。
 みんながわたしのことを「礼儀正しい子だ」と言って、にこやかな笑顔を浮かべてくれていた。
 でもわたしは、その人たちに何もしてあげることができなかった。
 深々とお辞儀をしながら、そしてただ「ありがとうございます」と、そうお礼を告げるだけ。
 お人形のように。
 そう、まるでゼンマイ仕掛けのお人形のように……。
「それに、佐祐理が祐一さんを独り占めしてしまったら、きっと舞に怒られてしまいます」
「舞に? どうして?」
 不思議そうに、首を傾げる祐一さん。
 わたしは、どこか釈然としない様子の祐一さんに向かって「あははーっ」と笑みをこぼしながら、
「だって舞も、佐祐理と同じくらい祐一さんのことが好きですから」
「それは違うだろ」
「そんなことありません。舞は、祐一さんのこと大好きですよ」
「そうかなぁ……」
 まだどこか、わたしの言葉を疑っているらしい様子の祐一さん。
 そして何を思ったのか、お箸を持ったまま腕組みを始めると、思い悩むようにう〜んと考え込んでしまった。
 ……舞。
 本当ならお昼のこの時間を過ごしているのは、わたしと祐一さんと、そして舞の三人のはずだった。
 でもいま、舞はいない。
 朝の通学路。
 授業中の教室。
 そして、屋上前の踊り場でのお昼休み。
 そのどこにも、舞の姿は見当たらなかった。
 当然だった。
 そんな冷たい現実を作り出したのは、わたしだったのだから。
 わたしの思慮に欠けた行動こそが、舞をこの場所から遠ざけている理由に他ならなかったのだから。
「……どっちかって言うと、俺が舞に怒られるような気がするな」
「え?」
 その声に、意識を現実に引き戻される。
 見ればいつのまにか腕組みを解いた祐一さんが、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「佐祐理さんを嫁にもらった日には、舞のやつ絶対に『……祐一に、佐祐理はあげない』とか言いだすぜ」
「あははーっ。それじゃあ祐一さんが佐祐理をお嫁にもらうためには、まず舞のお許しを得ないといけないですねーっ」
 祐一さんのその言葉に、脳裏に真顔で彼が言うとおりの言葉を紡ぐ舞の姿が思い浮かんできてしまう。
「確かに、そう言うことになるか……う〜む」
「祐一さん、頑張ってくださいねーっ」
 朝とは打って変わって、わたしたちは笑顔で舞の名前を口にすることができていた。
 それは、わたしたちが知っていたから。
 一昨日の晩から、病院でずっと眠ったままだった舞の意識が戻ったことを、休み時間にかけた電話で、病院の看護婦さんから教えてもらっていたから。
 だからわたしは笑えた。
 だから祐一さんも笑えた。
 舞のことで。
 いまここにはいないけど、でもわたしと祐一さんのふたりにとって大切な存在である、舞の話題で。
「祐一さん。今日の放課後、なにか用事とかありますか?」
 訊ねるわたしに、祐一さんは真顔で大きくうなずきながら、
「用事か? 大切なのがひとつあるぞ」
「あははーっ。実は、佐祐理もあるんです。大切な、とっても大切な用事なんですよねーっ」
 そしてお互いに顔を見合わせ、一呼吸置いてから、
「舞のお見舞いーっ!」
「舞の見舞いだ」
 これ以上ないほどの満面の笑みを浮かべながら、わたしたちは同時にその言葉を紡ぎ出した。

                  §

 がさがさと、茂みをかき分けながら前に進む。
 冬なのに青々と葉を茂らせるその中は、夜の冷気に触れて固く凍りついたような感触を触れる肌に感じさせてくれた。
 懐中電灯の光に照らし出された部分だけが、周囲の暗闇から切り取られたみたいに、ぽっかりと視界の中に浮かび上がっている。
「なあ、佐祐理さん……」
 背後からのささやき。
 耳朶をたたくその声音には、どこか困ったようなそんな響きが混ざっていた。
「はい、何ですか?」
「その……俺が前に行った方がいいんじゃないか?」
「ほぇ? どうしてですか?」
 目の前を照らし出していた丸い光が、持ち主の手の動きに追随するように左右に軽く揺れる。
 わたしは動かしていた膝と手を止めて、肩越しに背後を振り返った。
 暗闇にぼんやりと浮かび上がる影。
 祐一さんだった。
「なんかさ、こんな場所を佐祐理さんに先に行かせちゃったら、男の俺の立場が無いって言うかさ」
「あははーっ。大丈夫ですよ、祐一さん。こう見えても佐祐理、探検ごっことか大好きですから」
「あ……そう」
 夜。
 放課後に舞のお見舞いに行ったわたしたちは一旦家路についた後、そして夜になって再び、病院の前で落ち合った。
 目的は、舞にわたしのお弁当を食べさせてあげるため。
「少しくらい、会わせてくれたっていいじゃないかよなぁ」
 面会の家族や患者さんたちの姿が散見されるロビーの前で、見るからに不満そうな様子で言葉を吐き出す祐一さん。
「でも、仕方ないですよ。面会時間に遅れたわたしたちが悪いんですから」
「そりゃまあ、そうだけど」
 学校を終え、わたしたちが病院に辿り着いたとき、折悪しく既に今日の面会時間は終わってしまっていた。
 祐一さんは何人かの看護婦さんに交渉していたけど、それも結局「規則ですから」の一言で、すべてが徒労に終わったみたいだった。
「舞に、佐祐理さんの弁当食わせてやりたかったな……」
「……そうですね」
 そのまま視線を床に落とす。
 そこにはよく磨き上げられたタイルが、覗き込むわたしの姿をうっすらと浮かび上がらせていた。
 祐一さんの言うとおり、わたしも舞にお弁当を食べて欲しかった。
 お昼の残りものだったけど、舞のことだからきっとそんなこと関係なしに、喜んで食べてくれたに違いない。
「せっかく祐一さんが、舞の分にっておかずを残しておいてくれたのに……残念ですね」
「別にまあ、俺のことはいいんだけどさ」
 そこで言葉が途切れる。
 ゆっくりとした歩調でロビーを歩いていたわたしたちは、お互いに黙り込んだまま、そして病院を後にした。
「そうだ」
 不意に祐一さんが口を開く。
 そしてわたしの方に顔を向けながら、
「いっそ、忍び込んでみるか」
「どこにですか?」
「もちろん、この病院にだよ。夜にこっそり舞の病室に忍び込んでさ、それで今度こそ佐祐理さんの料理を食べさせてやるんだ」
 そこまで言ってから、悪戯っぽく目を細める祐一さん。
「ふぇ〜……でも見つかったら、きっと叱られますよ」
「平気だって。見つからなければいいんだろ」
 ちょっとだけ考え込む。
 夜に病院に忍び込むこと、それはきっと悪いことなのだろう。
 でも、もしそうすることで舞にお弁当を食べさせてあげることができるのだとしたら……。
「どう、佐祐理さん?」
 わたしの顔を覗き込むように、祐一さんは小声で訊ねかけてくる。
 そんな彼に向かって、わたしはにっこりと微笑みながら、
「ちょっとだけ、面白そうですねーっ」
「よし。そうこなくっちゃな」
「それで、どうするんですか?」
「そうだな……一旦ここで別れて、夜にもう一度ここで落ち合おう。なーに、これだけの広さの建物なんだから、忍び込む場所なんて幾らでもあるさ」
 品定めをするように、背後にそびえ立つ病棟を眺め渡す祐一さん。
 わたしもその場でくるりと身を翻すと、そして彼が眺めているのと同じものを見据えた。
「それじゃあ、八時にここな」
「はいっ。佐祐理、頑張ってお弁当作りますねーっ」
 そしていま、わたしたちはここにいる。
 舞のために作り直したお弁当を手に、どこか入り込める場所はないかと周囲をぐるりと歩くうちに見つけた、茂みの中に穿たれた隙間。
 それは子供が探検ごっこにでも使っていたかのような、四つん這いになってようやく潜り込めるくらいの、小さな空間だった。
「祐一さん。そこに枝が張りだしていますから、気をつけて……」
 肩越しに祐一さんの方を振り返ると、どうしてなのか明後日の方を向いている彼の顔がまともに枝にぶつかる。
「ぐわっ」
 少しだけ、遅かったようだ。
 鼻をぶつけてしまったらしい祐一さんは、痛みを我慢するように両手を顔に当てて、その場でうずくまってしまった。
 それを見て、額の傷が少しだけ疼いた。
 わずか一日だったけれどもそれなりに治癒しているのか、それとも他の理由があるのだろうか、傷はいまではほとんど痛みを感じなくなっていた。
「大丈夫ですか、祐一さん?」
「何とか……」
「ちゃんと前を見てないと、危ないですよ」
「いや。……でも」
「はぇ? どうしたんですか、祐一さん」
 何か言いかけて、でもどこか困ったような様子でわたしから視線を逸らしてしまう祐一さん。
 何だろう……?
 そのまま躊躇うように周囲に視線を泳がせていた祐一さんは、やがて諦めたように、
「前を見てると……見えちゃうからさ」
「ふぇ? 何がですか?」
「え〜とだな、その……佐祐理さんのスカートの……中が……」
 そこまで言われて、わたしは初めて自分の身なりに気がついた。
 茂みの隙間を先に見つけたのは、わたしだった。
 だから特に考えなしに、わたしから先に中に入り込んでしまったのだけれど、そう言えばわたしはいまも制服を着たままだった。
 彼の言葉に、少し頬が熱くなる。
 でもこの狭さでは、今更順番を入れ替えるわけにもいかない。
「あははーっ。恥ずかしいですから、あんまり見ないでくださいねーっ」
「……努力します」
 茂みを抜けたのは、それからすぐだった。
 不意にぱっと視界が開け、月明かりに照らし出された病院の敷地が瞳に映し出される。
「祐一さん、抜けましたよーっ」
「お、おうっ」
 振り返ると、祐一さんもちょうど茂みを抜け出したところだった。
 わたしより身体が大きかったせいであちこちぶつけていたのだろう、ちょっと疲れたような様子で立ち上がる。
 それを確かめてから、目の前で言葉なく佇む病棟を見上げる。
 ここに舞がいる。
 三年前のあの日、一緒に幸せになろうと心に決めた大切な親友が、わたしのせいで傷ついた身体をここに横たえている。
 心の中でだけ、彼女の名前を口にする。
 そして一度だけ小さくうなずいたわたしは、傍らの祐一さんに向かって、
「さぁ、頑張って舞の病室を探しましょうーっ!」
第2章に続く

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