『永遠の楽園』
Update:1999.10.26
床を踏みしめる足音だけが、耳朶を打つ。
暗闇に覆い尽くされた廊下のただ中を、俺は窓から射し込む月明かりだけを頼りに歩き続けた。
そこは昼間の世界とは装いを変えた、別世界だった。
光の届かないそこかしこの闇の奥から、人ならぬ何かが俺のことを見つめているような、そんな気がする。
人ならぬもの……。
それは夢でも幻でもなく、確かに存在していた。
廊下を抜け、階段に足を踏み入れる。
一段一段、足元を確かめるようにゆっくりと歩を進めてゆく。
右手に握る両刃の洋剣が、一歩足を動かすたびにかすかに揺れ、その重みがいま俺の置かれている状況をこれ以上ないほど明瞭に心に再認識させる。
やがて昇りきった階段の先には、やはり暗闇と千里光のコントラストに彩られた、宵闇の廊下があった。
その場に立ち止まり、じっと目を凝らす。
暗闇に慣れていた目は、そこに俺以外人っ子ひとりいない静まり返った情景を浮かび上がらせ、そして俺は人ならぬ存在の気配を探るように意識を四周に放ちながら、再び歩き出した。
自らが発する足音以外は、何の変化も生じない廊下。
今日はヤツも姿は現さないのだろうか……沈みきった空気に、まるで湖底に佇むような錯覚を覚えながらそんなことを思う。
そして辿り着いたのは旧校舎に繋がる渡り廊下と交錯する、T字路だった。
あの時と同様、月光はその場に煌々と光を投げかけ、本来なら白いはずの壁面を暗灰色に塗り込めていた。
その場に膝をつき、空いた方の手を床に這わせる。
昨日今日のうちに掃除がされたのか、そこは染みひとつない綺麗なタイル地を俺の目に映し出していた。
でも……俺は知っている。
この床が、紅に染め尽くされていたことを。
それを俺はこの目で目の当たりにし、そしてこの肌で自らの過失を嫌というほど思い知らされたのだ。
一本の電話。
舞につき合っての連夜の学校訪問と放課後の部活動に、心身共に疲れ切っていた俺は、せめて出かける時間まではと思い、夕食を済ませた後うたた寝をしてしまった。
『朝〜、朝だよ〜。朝ご飯食べて学校行くよ〜』
いまでは、すっかり聞き慣れてしまったその声に揺さぶられるようにして意識を取り戻した俺は、手を伸ばして目覚ましのスイッチを止める。
「夜だよ……」
思い切り脱力をもよおしてくれる目覚ましに向かって、そんなツッコミともつかない呟きを漏らしながら時間はと見れば、時計の針はそろそろ学校へと出かける時間を指していた。
大きく伸びをする。
そしれベッドから抜け出した俺は、簡単に身支度を整えてから部屋の片隅に立てかけておいた木刀を手に取る。
佐祐理さんから俺あての電話があったことを知らされたのは、いつも通り夜の学校へと出かけることを一言告げるべく、居間にいるだろう名雪(なゆき)に声をかけた時だった。
「名雪。俺、ちょっと出かけてくるわ」
「いつのものところ?」
「ああ」
「うん、分かった」
ドアから首だけを覗かせてそれだけを伝えた俺は、そのまま玄関に向かおうとする。
その俺の背中にかけられる声。
「あ、そう言えば、祐一が寝てる間に電話があったよ」
振り返ると、ブラウン管に映し出されているニュース番組から目を離した名雪が、何ごともなかったような様子で俺に視線を向けていた。
「電話? こんな時間に、一体誰から?」
「えーとね、倉田さんって女の人から。起こしましょうかって言ったんだけど、
悪いからいいですって」
「……で?」
「うん、それだけ」
「用件とか言わなかったのか、佐祐理さんは?」
「う〜ん、何も言ってなかったと思うよ。その後、すぐ切っちゃったから」
小首を傾げながら、少しの間考えるようなそぶりを見せてから名雪はそう言葉を紡いだ。
「あ。でも切る前にね、祐一ならもうすぐ学校に行くかもしれないって、そんな話しをしたかな」
「なにっ!」
嫌な予感がした。
それは何の根拠もない、ただの思い過ごしに過ぎないものかもしれなかったが、それでも俺の心臓は早鐘のように動悸を早めていた。
「あ、祐一っ!」
それ以上口を開くことなく身を翻した俺は、玄関で靴を履くのももどかしく、脱兎の如く家を飛び出した。
背後から名雪のものらしい俺を呼ぶ声が聞こえたが、その時の俺は一刻も早く学校に赴くことだけしか頭になかった。
突然の佐祐理さんからの電話。
特に用件を告げることもなく、切られた電話。
どうしてなのか?
そんな疑問を胸中に浮かび上がらせながら、でも同時に俺はその答えにも気づいてしまっていた。
用件を告げる必要などなかったのだ。
何故なら求める答えを佐祐理さんは、俺ではなく電話に出た名雪の口から聞いていたから。
街灯と月明かりが照らし出す道を風を切って走る抜ける俺の肌に、冬の凍てつくような空気がまとわりついてくる。
それは「寒い」と言うより、恐らく「痛い」と形容した方が正しいだろう感覚だった。
それでも俺は、道をひた走り続けた。
一刻も早く学校にたどり着くべく。
佐祐理さんと舞の、無事な姿をこの目で確かめるべく。
……舞。
そう、あそこには舞がいるのだから、万が一のことがあったとしてもきっとあいつが佐祐理さんを守ってくれるに違いない。
たとえ、我が身がどうなろうとも。
普段はどこか抜けてて目の離せない奴だけど、夜の学校にあっては俺なんかよりも百倍は頼りにできる存在なのだから。
だから、きっと大丈夫。
「舞っ。佐祐理さんっ!」
「はぇ〜……そんなに息を切らせて、どうしたんですか祐一さん」
「よかった、ふたりとも無事で」
「……祐一。遅刻」
「待てっ。遅刻もなにも、俺は時間の約束をした覚えはないぞっ」
「……でも佐祐理は待ってた」
「待ってたって言われてもだなぁ……そもそも俺は、佐祐理さんがここに来るなんてこと聞かされていないんだぞ」
「あははーっ。気にしないでください、祐一さん。佐祐理が、何も言わずに勝手に来ただけなんですから」
学校に着けば、きっとこんな会話が交わされるんだ。
昼間と少しも変わらない、俺と佐祐理さんと舞の三人だけの、楽しくて幸せな時間が繰り広げられるのだ。
でも……。
学校にたどり着き、校舎の中に一歩足を踏み入れた俺を待っていたのは、物音ひとつ立つことのない静寂だけだった。
舞もいない。
佐祐理さんもいない。
光と闇のコントラストに彩られた、無人の廊下だけが俺の来訪を受け入れてくれていた。
そして程なく鼻孔が嗅ぎ取った、空気に乗って流れてくるかすかな匂い。
それは舞と……佐祐理さんの身体から流れ出す、血の香りだった。
うたた寝なんかせずに、ちゃんと俺が電話に出てさえいれば防ぐことができたはずの惨劇を、俺は防ぐことができなかった。
意識を失ったまま、廊下の壁に身体を預けるように座り込む佐祐理さんと、そしてそんな彼女を庇うかのように背中を向ける舞。
傷つき、倒れた二人を前に俺は確信した。
取り返しのつかない過ちを、自らが犯してしまったのだということを。
§
壁面に寄りかかりながら床に腰を下ろした俺は、そのままの姿勢で目に映る光景をじっと見据え続けた。
一面の薄暗闇に覆われた廊下。
人気のないそこは、まるで魑魅魍魎の巣くう魔窟と化した観があった。
うぞりと、俺の中をゆっくりと這い上がってくる、容易には言葉にし難い恐怖にも似た何か。
それは俺の中に残る記憶。
舞が「魔」と称した存在、それと俺自身が相対した時に否応なしに身体に刻み込まれた記憶だった。
佐祐理さんの目にはあの時、ここから何が見えたのだろう。
目には見えないはずの、ヤツの存在を目の当たりにして、一体何を思ったのだろうか。
もしそのことを彼女に訊ねたとしても、きっと「あははーっ」といつも通りのあの笑顔を浮かべながら、そして何ごともなかったように、
「佐祐理がドジだから、怪我しちゃいましたーっ」
そう言うだけなのかもしれない。
いや、きっとそうだ。
それが彼女の優しさなのだ。
いつだって降りかかってきた重荷の全部をひとりで背負い込んで、それでも一生懸命に、みんなで一緒に幸せになろうと悲しいくらいに頑張り続ける佐祐理さんの優しさ。
俺は、そんな佐祐理さんのことだ大好きだった。
雲がかかったのか、窓越しに射し込んできていた月明かりが失われる。
それだけで周囲はまるで帳が下りたような暗闇に覆われ、永遠とも思える静寂が肌をじわじわと侵す。
手をコートのポケットに伸ばす。
暗闇の中、手探りに近い動きだったがすぐにその在処を探り当てた俺の手は、ポケットの中から握り拳ほどの大きさの塊りをひとつ取り出す。
ぱりぱり……。
包装紙を破り取る乾いた音が、しわぶきひとつとして立つことのなかった廊下に流れた。
暗闇の奥からとめどなく沁み出してきていた威圧感にも似た何かを、ひどく日常的なその音が、いとも容易く振り払ってしまう。
ホラー映画でこんなことした日には、雰囲気ぶち壊しだな。
くすりと、口元を弛めながらそんなことを思った俺は、そのまま手にしていたた塊――途中、コンビニで買ってきたおにぎりを傍らに差し出す。
「ほら、舞。お待ちかねの、今日の夜……」
途中まで言いかけて、そこで口をつぐんでしまう俺。
そうだった。
舞は……いないのだ。
気がつけば、いつもそこにいるのが当たり前に思えた心強い相棒の姿は、いまこの学校のどこを探しても見出すことはできなかった。
ヤツに襲われた佐祐理さんを身体ひとつで庇って、怪我を負った舞。
実際、病院にかつぎ込まれてから知った彼女の様態は、俺が想像していた以上にひどいものだった。
付き添いの看護婦に拝み込んで聞いた話では全身の打撲から始まって、胸骨を二本骨折、また背中を中心とする複数箇所の大小様々な裂傷に加えて、内臓も若干痛めているとのことだった。
少なく見積もっても、退院まで数週間はかかるらしい。
でも、あいつは……。
「舞。あーん、して」
差し出された箸の先に摘まれたタコさんウィンナーを、言葉なくじっと見つめやる舞。
「ほら、舞。あーん」
にこやかに、箸の先を軽く揺らしながら同じ言葉を紡ぐ佐祐理さん。
そしてゆっくりと開かれた舞の口の中に、ご丁寧にゴマで目まで描かれたウィンナーは消えていった。
もぐもぐと、何度か咀嚼が繰り返される。
「どう、おいしい。舞?」
こくり。
あごを動かしながら首を縦に振った舞は、やがて口の中のものを飲み込むと改めて佐祐理さんの方に顔を上げながら、
「……おいしい」
ぽつりと、そう呟いた。
俺と佐祐理さんのふたりで、舞にお弁当を食べさせてあげるために忍び込んだ夜の病院。
途中、見回りの看護婦に見つかりそうになりながらも、何とか舞の病室の前にまで辿り着いた俺たちは、物音を立てないよう注意を払いながらこっそりと中に足を踏み入れた。
もし、舞が寝ていたら――その可能性は高かったが――驚かせてやろうと思ったのだ。
「舞、きっと驚きますね」
「そりゃまあ確かに……驚くだろうなぁ」
もし俺が舞の立場だったら、目を覚まして佐祐理さんと俺の二人が目の前にいたら、それはもうさぞや驚くことだろう。
「あははーっ。少しだけ、わくわくしちゃいますねーっ」
口元に手を当てながら、耳元に向かってささやきかけてくる彼女のその声に、ついくすぐったさを覚えてしまう俺。
幸いなことに、舞の病室は個室だった。
念のためにとドアに押し当てた耳は、病室の中からの何の物音も聞き取ることはなかった。
予想通り、眠っているのだろう。
ドアから耳を離した俺は、傍らで俺からの言葉を待っている佐祐理さんに向かって小さくうなずき、そしてドアをそっと押し開いた。
癒しの眠りについているだろう舞を起こさないよう、そっとゆっくりと。
でも……俺たちのそんな思惑は呆気なく裏切られる。
忍び足で病室内への侵入を果たした俺と佐祐理さんの目に最初に映し出されたもの、それはベッドの上で上半身を起こし、壁に穿たれた硝子窓の向こうに広がる月夜を眺める、舞の姿だった。
「…………」
その姿に、一瞬心を奪われてしまう俺。
綺麗だった。
思わず嘆息を漏らしてしまいそうなほどに、綺麗だった。
窓から射し込む千里光のただ中に浮かび上がる彼女の姿は、いままで見てきたどんな舞よりも美しく思えた。
患者用の寝衣を身にまとい、身体のあちこちから包帯を見え隠れさせているその姿はひどく儚げで、痛々しいものだった。
いや、だからこそ降り注ぐ月明かりに気怠げに身を預ける彼女の姿に、形容のしようのないほどの感慨を抱いてしまったのかもしれない。
そしてそれは、佐祐理さんも同じだったのだろう。
俺の傍らで、まるで時の流れから取り残されてしまったかのように語るべき言葉を失ったまま、ただじっと舞の姿を見つめやるばかり。
そうしてどれくらいの時が経っただろう、不意に窓の外に視線を向け続けているはずの舞の口が動く。
「……佐祐理。それと……祐一」
まるで俺たちの来訪を始めから知っていたみたいに、ぽつりと俺たちの名前を紡ぐ。
刹那、止まったままだった時が動き出した。
「何だ……気がついてたのか」
苦笑いを浮かべながら、俺は立ち止まったままだったドアの前を離れ、舞の佇むベッドに向かって歩き出す。
「…………」
でも彼女は無言のまま、なおも窓の外の夜空を眺めやるばかり。
舞が無口なのはいつものことだったけれど、部屋の空気が醸し出す言葉にはし難い雰囲気が、俺の口から疑問を放たせた。
「……舞?」
首を傾げながら、彼女の顔をのぞき込む。
いつの間にか俺の背後にまで近付いてきていた佐祐理さんも、肩越しに言葉なく舞の様子を窺っている。
「…………」
相変わらず、だんまりを決め込んだままの舞。
「…………」
「…………」
つられるように口を閉ざしたまま、ただ時の流れに身を任せるばかりの俺と佐祐理さん。
――くるるるる……。
そうしてどれくらい経った頃だろう、静謐に覆い尽くされていた室内の空気を不意に震わせる、奇妙な音。
余りに間の抜けたその音色に、俺は思わずコケそうになってしまった。
佐祐理さんもきっと同じだったのだろう、俺の背中に手を付いて顔を突っ込ませそうになるのをかろうじて防いでいる。
そして舞はと言えば……表情こそ変わりなかったが、視線をその音の発生源らしい自分の腹の辺りに落としながら、
「……お腹空いた」
「他に言うことはないのか、おまえはっ!」
「あははーっ。ほら舞、差し入れだよーっ」
途端、緊張に満ち満ちていたはずの病室内の空気が弛緩する。
でもそれは、そうあることがいつだって当たり前に思えていた、温かで穏やかな雰囲気に他ならなかった。
――くるるるる……。
また耳に、誰かの腹の音が流れてくる。
その音にはっと我を取り戻す俺。
「……舞のこと、どうこう言えた義理じゃないか」
ひとりごち呟きながら、苦笑を漏らす。
二度目の空腹音は、回想の中の舞ではなく現実に腹を空かせた俺自身の胃袋が発した悲鳴だった。
左手に掲げられたまま、誰の手にも受け取られることのないおにぎりが、雲の隙間から射し込んでくる月光に映えていた。
何だか、生活臭いよな……。
これがドラマで、そして手にしていたものが十字架だったならクライマックスシーン間違いなしなんだろうけど、生憎俺の手の中にあったのは何の変哲もないおにぎりだった。
これが俺たちには……お似合いってことか。
内心でそんなことを思いながら、もう一度笑みを漏らす。
そして差し出したままだった腕を戻すと、今度は口元へと持っていったおにぎりにぱくりと噛みついた。
「……すっぱい」
噛み潰された梅干しの酸味が、口の中一杯に広がる。
「う〜む。さすがにこれは、ちょっと酸味が強すぎると思うぞ。なぁ?」
もぐもぐと咀嚼を繰り返しながら、誰に言うわけでもなしにそんな呟きをもらしてしまう。
返事は、どこからもない。
当然だった。
いまここにいるのは、俺ひとりきりだったから。
いつも傍らで、一緒になって差し入れを食べていた舞は……いない。
その現実に心の奥底で耐え難い何かを感じてしまった俺は、咄嗟にもう一口おにぎりを頬ばる。
「う〜、すっぱい」
人気のない、薄暗闇に覆われた廊下に響く俺の声。
そして時折周囲の空気を震わせる、海苔の千切れるぱりぱりという何とも生活臭に満ちた音色だけが、その夜俺が耳にしたもののすべてだった。
結局その夜、俺の前に「魔」が姿を見せることはなかった。
§
雪が降っていた。
見渡す限り空一面を覆い尽くしている雲から、純白の雪がとめどなく降り続いていた。
風はない。
まるで世界中が眠り込んでしまったように、物音ひとつとして立つことのないそのただ中を、傘も持たずに俺――ぼくはじっと立ち尽くしていた。
すべてを、雪が覆い尽くしてゆく。
家も。
道も。
車も。
そして……人も。
様々な形、様々な色を浮かべていたはずの世界の何もかもが、やがて降雪に閉じ込められていくにつれて形を曖昧に、そして少しずつ白一色に染め上げられていった。
手を差し出す。
するとすぐに手のひらの上に舞い降りた雪のひとひらは、ほんの瞬きする間だけその無垢な白さをぼくの目に焼き付け、そして溶けて消えていってしまう。
不思議と、溶けた雪に冷たさは感じなかった。
そしてすぐに舞い降りてきた次なるそれが、ぼくの手のひらの上で刹那の生涯を終える。
そんなことを繰り返すうちに、手のひらだけでなく全身に降りかかってきた雪は、ぼくのことも自分と同じ色に染めようとするように、薄いベールを覆い被せ始めていた。
何気なく、頭上を振り仰いでみる。
視界が薄黒い雪雲と、それを背景に妖精が舞い踊るように右に左にとその身を躍らせながら眼前に迫ってくる雪。
その時ふっと、空から雪が降ってくるのではなく、ぼくの方が空を駆け上っているみたいな、そんな錯覚を抱きそうになってしまう。
身体が本当に浮かび上がっているような気もしたけれど、でも空に向けていた顔を足元に向けると、ぼくの足は地面をしっかりと踏みしめていた。
当たり前と言えば当たり前のことだったけれども、でももしかしたらと心の片隅でそんなことを思っていたぼくとしては、ちょっとだけ残念だった。
そうする間も、深々と雪は降り続けた。
そして、その中に言葉なく佇むぼく。
……〜……〜……。
ふと、誰かの声が聞こえたような気がした。
辺りを見渡してみる。
でも目に映し出されるのは、時を追うごとに白さを増してゆく世界と、ぼく自身だけだった。
気のせいだったのだろうか。
小首を傾げながらそんなことを思ったぼくは、そして改めて顔を雪空に向けようとする。
……〜……〜……。
その途端、また声のような何かが耳に流れ込んでくる。
間違いなかった。
誰かが、この近くにいる。
こんなに沢山雪が降っているその中にぼく以外の誰かがいて、そしてぼくのことを呼んでいる。
もう一度、左右に視線を巡らせる。
気がつくととめどなく舞い散り続けた雪が、まるでカーテンのようにぼくの視界を遮っていた。
でもぼくは、今度こそ見つけることができた。
いまのぼくと同じように、降り積もる雪のただ中にひとり立ち尽くす、小さな女の子の姿を。
そんなに離れた場所じゃない。
少し歩けば、すぐにたどり着けそうな距離だった。
だからぼくは足を動かした。
さくっと、一歩進むたびに踏みしめた雪が小さな悲鳴をあげる。
真綿のように柔らかくて、でも何かを踏んだようには思えない、そんな不思議な感触。
「ねぇ……」
どらくらい歩いただろう、女の子の姿を雪に邪魔されることなく確かめられるくらいの距離にまで近づいてから、ぼくは口を開いた。
女の子は何も言わない。
ただじっと、ぼくのことをそのつぶらな瞳で見据えるばかり。
そして彼女のその瞳の裡に、どうしてかぼくはどこか寂しそうな色を見出してしまった。
どうしてそんな瞳をしているのだろう。
こんな所に、ひとり寂しく佇んでいるからなのだろうか。
もしかしたら、ぼくには分からないもっと別な理由があってのことなのかもしれなかった。
でも、彼女は口を開いてはくれなかった。
寂しげな瞳を揺らしながら、無言でぼくに視線を送るばかり。
だからぼくも黙り込んで、そして女の子の目をまっすぐに見つめ返した。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………ふぅ」
先に根負けしたのはぼくの方だった。
途中から、何だかにらめっこでもしているような気になってしまい、そのうち黙っていることが我慢できなくなってしまったのだ。
でも彼女は、相変わらず表情ひとつ変えることなく、ぼくのことをじっと見つめやるばかりだった。
そして唐突に、こんな所で顔も名前も知らない女の子とにらめっこをしてることにおかしさを覚えてしまったぼくは、思わず笑みを浮かべてしまう。
その瞬間だった。
女の子の口元が、ふっと弛んだのだ。
まるでぼくの笑みに唱和するように、固く結ばれていた口から白い歯がのぞいたのだ。
たったそれだけのことだったけど、でも今度こそ返事をしてくれるに違いないと信じたぼくは、彼女に向かって言葉を紡ぎだした。
「ねぇ、こんな所で何をしてるの?」
§
『……だよ〜……べて……よ〜』
聞き慣れた声が、遠くからかすかに耳朶をたたく。
未だ醒めやらぬ微睡みの中、ゆっくりと頭をもたげ始める意識。
もぞもぞと布団の中から手を伸ばした俺は、枕元に置かれたそれのスイッチを押す。
『朝〜、朝だ――』
かちりと音がして、声は止んだ。
そのまま布団から半身を起こた俺は、窓辺から射し込む朝日を眺めやりながらぐっと一度伸びをする。
「……朝か」
目をこすりながら、ベッドから抜け出す。
少し寝不足な感じだが、身体を動かしているうちに抜けていく程度のものだから、多分平気だろう。
ひとりごちうなずいた俺は、そのまま着替えに入る。
制服のズボンに足を通しベルトを締めかけたその拍子に、脳裏にふっと何かのイメージが蘇る。
「…………」
一面の降雪。
そのただ中に佇む、ひとりの女の子。
まっすぐに俺のことを見据えるその瞳はどこか寂しげだったけど、でも俺が笑みを浮かべたらその女の子の方も笑い返してくれた……。
それは夢。
そう、つい先刻夢の中で出会った少女のイメージだった。
映えるように艶やかな長い髪。
触れただけで割れてしまうそうな、硝子細工みたいな細い身体。
ひどく寂しげな、でもその中に深い想いが存在しているような、言葉にし難い何かを感じさせる瞳の色。
いつか、どこかで会ったことがあるような、そんな気がして仕方がなかった。
でもどうしてか、何も思い出せない。
あの子は誰だったんだろう。
「ま、夢だし……」
そんな呟きをもらして半ば強制的に思考を中断させた俺は、そのまま部屋を後にした。
途中、廊下を挟んだ向かいにある名雪の部屋のドアをたたく。
「名雪ー、朝だぞーっ」
どんどんと何度かドアをたたくうち、中から「……うにゅ〜」と声が聞こえたのを確認してから、俺はリビングに向かうべく階段に足を踏み入れた。
「おはようございます、祐一さん」
「おはようございます」
キッチンでは、既に秋子(あきこ)さんが朝食の準備をしていた。
そんな平凡で穏やかな日常の存在に、何とはなしに幸せを思いを抱きながら、テーブルにつく俺。
「……おはようございまふ〜」
そうするうちに、程なく制服を身につけた名雪が、寝ぼけまなこをこすりながら姿を現した。
いつも通りの朝。
いつも通りの光景だった。
「なあ、名雪」
ようやく目も覚めたのか、横で嬉しそうにパンにいちごジャムを塗りたくっている名雪に向かって口を開く。
「ん、なに〜?」
にこにこと、見るからに幸せそうな様子で相好を崩したまま、俺の方へと顔を向ける彼女の瞳をじっと見つめる。
じぃ〜っ……。
「どうしたの、祐一?」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………くー」
「寝るなっ!」
パンを手にしたまま、器用に寝入ってしまった名雪にお約束のツッコミを入れながら、近づけていた顔を離す。
多分、半分は冗談だったのだろう。
すぐに目を見開いた名雪は、ジャムを塗り終わったパンをくわえながら、
「ね、祐一。何を見てたの?」
どこか不思議そうな様子で訊ねかけてくる。
「ん。いやまあ、目を……」
「目……って、わたしの? わたしの目、なにかついてた?」
さすがに「夢に出てきた女の子の瞳と比べていた」とは言いにくく、だから俺は彼女から目を逸らしながら、コーヒーをぐいと一息に飲み干すと、
「目を開けたまま寝てる、名雪の目」
そんな、分かったような分からないような言葉を口にして、そして「ごちそうさま」を口にしながら立ち上がった。
違うな。
口の中だけで、そんな呟きをもらす。
夢での出来事だけにそれほど自信があるわけじゃなかったけど、少なくとも雪の中に佇む女の子が浮かべていた瞳の色は、名雪のそれとは明らかに異なったそれだった。
それじゃあ一体、誰なのだろう?
舞だろうか?
それとも……佐祐理さん?
途端、どうしてか胸の奥底がちくりと痛む。
まるで思い出せない何かを咎めるように、忘れられてしまった何かが哀切の呟きをもらしたかのように。
もしかしたらそれは、俺が自らの意志をもって封じ込めてしまった、七年前以前の記憶と何か関係があるのかもしれない。
でも……分からなかった。
思い出すことのできない、思い出。
その日以前の思い出を、まるで自分の記憶とは思えないくらい曖昧にしか思い出すことのできない、俺の心。
過去の記憶を、思い出として想起することのできない今の俺には、明確な結論を下すべき材料が何ひとつなかった。
居間の壁に掛けられた、針時計に目を向ける。
そろそろ出かける時間だ。
いま家を出れば、ちょうど川岸の道あたりで佐祐理さんと合流できるはずだった。
いつの間にか、身体に抜き難く染みついてしまった習慣。
そして玄関に向かって歩き出そうとした俺の背中を、名雪の少し情けない抗議の声が追いかけてきた。
「寝てないよ〜」
§
放課後になると、それまで校内を占領していたどこか緊張感に満ちた静けさは姿を消し、変わって喧噪と賑わいに満ちた空気に満たされる。
本日のホームルームもつつがなく終了し、クラスメートたちもそれぞれの放課後を過ごすべく、三々五々教室から姿を消していった。
クラブに向かうヤツ。
見たいテレビでもあるのか、足早に下駄箱へと向かうヤツ。
帰りに寄り道でもするつもりなのか、どこに行こうかと周囲に群れ集う友人と騒々しく相談しながら廊下を歩いてゆくヤツ。
そんな中、カバンを手に席を立った俺は、後ろの席で(六時間目の授業中からずっと)机に突っ伏したまま寝こけている北川に向かって、間違いなく聞こえてはいないだろうとの確信を抱きながら挨拶を口にした。
「祐一」
声がした方に振り向くと、カバンを手にした名雪が俺の前にいた。
「いまから部活か?」
「うん、そうだよ。祐一は?」
「俺も部活だ」
そこでちょっとだけ変な顔をする名雪。
「ひとりで?」
「そう、ひとりで」
「ふーん……あれ? でもそう言えば祐一、前に顧問がいるって言ってなかったっけ?」
このところ、毎日行っている剣の鍛錬。
と言っても小学校の頃、柔道をちょっとかじった程度しかまともな運動の経験のない俺だったから、剣術に関しては素人同然なのは言うまでもない。
そんな訳で「鍛錬」といっても、せいぜいが木刀片手にひたすらそぶりをしている程度のものだったが、それでも何もしないよりはマシだろうと思い、今日もいまから中庭に向かおうとしているところだった。
顧問――と言うのが正しいのかどうか疑問だが――たる舞が入院中でいないのは多少心許なくはあるが、この際仕方がない。
「顧問はだなぁ、現在療養中だ」
「そうなんだ。それで祐一の部活って、どこでやってるの? グランドとか体育館で姿を見かけないけど、運動部なんだよね?」
「それは……秘密だ」
とりあえず名雪には部活と言っているものの、実際問題俺のしていることが学校行事なのかと問われれば難しいところがあった。
別に活動内容を学校に届け出ている訳でなし、部どころか同好会ですらないのが実態だった。
「うー」
俺の返答が不満だったのだろう、少し拗ねたように上目遣いでこちらを見つめてくる名雪。
「そ、そう言えば名雪、時間大丈夫なのか?」
話題を逸らそうとわざとらしく腕時計を見ながらそう言った俺だったが、どうやら本当に時間が押していたらしい。
「わ。大変だ、急がないと遅れちゃう」
余り切迫感のない――いつものことだが――声を発しながら、手にしたカバンを抱え直した名雪は、
「祐一、途中まで一緒に行こっ」
「おぅ」
断る理由も別になかったので素直に名雪の後について、教室を後にする。
そのまま廊下を並んで歩き、一階へと続く階段に足を踏み入れた。
「じゃあな」
階段を下り、いつも通りとばかりに下駄箱へ向かって歩き出した名雪の背中に声をかける俺。
「えっ?」
足を止めて、慌ててその場で身を翻す名雪。
背後から「どこいくの〜」そんな彼女の声が追いかけてくる。
振り返りもせずに片手を軽く上げただけの俺は、そのまま人の流れに逆らうように校舎の奥に向かって進み続けた。
やがて辿り着く、一枚のドアの前。
スチール製の、いかにも頑丈そうなドアを重々しく押し開き、そしてその先にある場所――中庭に足を踏み入れる。
夜のうちに降り積もったのだろう、足跡ひとつない雪景は射し込んでくる陽射しをものともせず、真綿のごとき情景を俺の目にさらけ出していた。
階段を下り、雪を踏みしめる。
見た目以上に凍っていたそれは、多少のへこみを生じたさせただけで俺の体重を受け止めてみせた。
そのまま灌木の立ち並ぶ茂みに歩み寄り、真冬だというのに青々とした葉を生やしているその中に手を突っ込む。
程なく指先が、求めるものを見出す。
がさがさと葉を揺らしながら取り出されたそれは、一本の木刀だった。
何週間か前に、水瀬家の物置からの中から発掘した、少し古ぼけた感じのする木刀。
それは俺が、毎夜得体の知れぬ「魔」と戦い続ける舞の少しでも助けになればと思い、手にしたものだった。
そのまま茂みから離れた俺は、周囲に障害物のない場所に移動する。
持っていた木刀を、改めて左手で柄の先を握り直し、その手に被せるように右手を添える。
腕全体をゆるゆると持ち上げながら、同時に左手を少し押し気味に、右手を引き気味に動かす。
やがて持ち上がった剣先が、正面を見据える俺の視線と重なり合った。
中段の構え。
ゆっくりと息を吸い込みながらさらに木刀を上段にまで上げると、そして半歩前に構えた右足を呼吸を止めたまま勢いよく踏み込み、突き出すような感じで刀を降り抜く。
びゅっ――。
陽射しを受けてなおも凍てつかんばかりに冷え切った中庭の空気を、振り下ろされた木刀が小気味良い音を立てて切り裂いた。
刹那の残心と共に踏み出した足を元の位置に戻した俺は、先刻と同じ動作を繰り返した。
絶え間なく耳朶を打つ、外気と刀が生み出す空気の擦過音。
最初のうちこそ、脳裏で手順を思い描きながらそぶりをしていた俺だったが、気がつくとただひたすら、無心で刀を振るうようになっていた。
誰もいない中庭。
空気の切り裂かれる音だけが、繰り返し繰り返しこだまする。
吐き出される息は、その場の寒さを推し量るかのように真っ白だったが、でも俺の額にはいつしか汗が浮かび始めていた。
どうして俺は、こんなことをしているのだろう。
誰のために、何のためにこんな人気のない場所で、黙々と刀を振るい続けなければならないのか。
楽しくなんか少しもない、そんな行為を。
わずかに残されていた雑念が、一心にそぶりに打ち込む行為を邪魔をするかのように、そんな言葉を吐き出す。
舞のためなのだろうか?
自分のためなのだろうか?
それとも……。
判らなかった。
いや、本当は判っていたのかもしれない。
でもいまの俺には、夜の学校を徘徊するヤツに一矢報いたいという、その思いだけで十分だった。
俺にとっての大切な存在を――佐祐理さんと舞を傷つけたことに対する、仇を討ちたいという思いだけで。
もうどれほど刀を降り続けただろうか、最期のひと振りとばかりに持ち上げたそれを、跳躍と共に俺は振りおろしかける。
その時だった。
「あーっ、祐一さん。こんなところに居たんですかーっ」
「だぁっ……」
横合いから唐突に飛び込んでくる、朗らかな声音。
踏み込みの直前という絶妙のタイミングで発せられたそれは、気勢を削がれてしまった俺の足を見事滑らせてくれた。
視界が急速に回転し、そして目から火花が飛び散るような衝撃。
「…………ぅ」
バランスを崩して後頭部を地面にしたたか打ちつけた俺は、挙げ句青色から茜色へと徐々にその色合いを変え始めている大空を見上る羽目となっていた。
「ほぇ? 祐一さん、大丈夫ですか?」
その視界のただ中に、にゅっと佐祐理さんの顔が割り込んでくる。
膝に手を付きながら俺の顔を覗き込んできている彼女は、何が起こったのか状況がイマイチ理解できていないのか、小首を傾げている。
「…………」
「…………」
何となくのお見合い状態。
そのうち、いまの位置関係だと佐祐理さんのスカートの中が容易に見えてしまうことに気付いた俺は、背中と後頭部に走る痛みを顔に出さないようこらえながら、半身を起こした。
「うー……」
目がちかちかして、まともに言葉が発することができない。
「あ。もしかして、佐祐理が声をかけたせいで転んでしまったんですか?」
俺の様子から素早く事態の一端を理解したのか、佐祐理さんは少し申し訳なさそうな顔色を浮かべながら、
「すみませんでした、祐一さん」
「い、いや……別に謝ることはないよ。あれしきのことで、簡単に転んじまう俺の方が悪いんだから」
「そうなんですか? でも……」
それでもなお、何か言葉を紡ごうとする佐祐理さん。
その刹那、俺の瞳は彼女の額の一角を覆っている大きめのガーゼを視界の中に見出した。
ちくり、と胸が痛む。
それは俺のうかつさが招いた現実。
大切な何かを守りきることのできなかった、悔恨の証。
「そ、そう言えば佐祐理さん。もしかして俺のこと捜してたの?」
それ以上の彼女の言葉を封じるように、手にしていた木刀を支えに勢いよく立ち上がった俺は、少しどもりながら口を開く。
そんな俺の思いが通じたのだろうか、ぱっと表情を明るいものに一転させた佐祐理さんは、
「はい。祐一さんのこと、ずっと捜していたんですよ」
「ずっと? どうして?」
首を傾げる俺。
「あーっ。もしかして祐一さん、佐祐理との約束忘れてるんですか?」
そう言いながら、少し悲しそうな表情を浮かべる佐祐理さん。
どうやら俺は、彼女と何か約束をしていたらしい。
約束……約束……。
「……あ」
と、そこでようやくひとつの記憶に思い至る。
そう言えば昼休み、いつものように屋上前の踊り場で昼飯を食べていた時に、放課後一緒に舞の見舞いに行く約束をしていたのだった。
習慣でついここに来てしまったが、すっかり忘れてた。
よりによって佐祐理さんとの約束をすっぽかしてしまったことに、内心ばつの悪い思いを抱きながら、目の前に佇む彼女に目を向ける。
伏し目がちに顔を伏せてしまった佐祐理さんの表情は、俺の位置からでは前髪に隠れてしまって窺うことができない。
一体何と謝ったものか思案するうちに、そんな俺の機先を制するように、
「祐一さんが、佐祐理との約束を忘れるなんて……佐祐理は傷つきました」
「えっ?」
彼女の口から紡がれたその一言が、俺の胸に鋭く突き刺さる。
「えっと俺……その、だな……」
動揺の余り、上手く言葉が出てこない。
いまの俺にとって、佐祐理さんを傷つけてしまったという事実は、どんなことよりも重い過失に他ならなかった。
大切な人を守ることのできなかった俺。
そしていままた、大切な人の心を傷つけている俺。
自責と、自嘲の念が意識の奥底からふつふつとわき起こってくる。
「あははーっ」
重苦しさばかりを感じさせる、俺と佐祐理さんとの間に流れていた空気を振り払ったのは、彼女のそんな朗らかな笑い声だった。
俺のことを見つめやるその瞳は、いつもと変わらぬ温かなものだった。
それを見て、俺は内心でほっと安堵の吐息をもらす。
「よかった。俺、佐祐理さんに嫌われたらどうしようかと思ったよ」
苦笑いを浮かべ、頭をかきながらそんな言葉を紡ぐ。
すると佐祐理さんは、
「前にも言いましたよね。佐祐理は祐一さんのこと、ずっと好きです。だから大丈夫ですよ」
こういうことを、少しのてらいもなく言ってのけるところが佐祐理さんらしいとは思うのだが、でもやっぱり照れくさい。
そんな気恥ずかしさを隠すようにその場で身を翻した俺は、手にしていた木刀を元あった茂みの中へと戻した。
「そう言えば祐一さん、何をなさっていたんですか?」
俺が戻ってくるのを待っていたかのように、小首を傾げながら佐祐理さんが訊ねてくる。
「え? あー、これはだな……腹ごなしの運動ってところだ」
正直に「魔物と戦うための鍛錬だ」と言うのはさすがに躊躇われたので、少し冗談めいた口調でそう返事を返す。
「ふぇ〜……お昼も佐祐理のお弁当、あんなにたくさん食べてたのに、もう夕御飯を食べられたんですか。男の方ってすごいんですね〜」
「う、いやまぁ……そんなところだ」
何か、妙な誤解をされてしまったみたいだったが今更後にも引けず、曖昧に言葉を濁す俺。
そして校舎へと続くドアの方に歩き出しながら、
「さてと……俺のせいで少し遅くなっちまったけど、行こうか」
そう、言葉を紡いだ。
§
腹から背中へと突き抜ける衝撃。
その圧力に抗しきれずに、宙を舞う俺の身体。
しまった……内心で舌打ちをしながらそんな思いが心をかすめたのは、壁に打ち付けられた痛みが背中を走った瞬間だった。
「かはっ……」
そんな声ともつかない声を吐き出しながら、ずるずると床に崩れ落ちる。
完全な油断だった。
夜の学校に足を踏み入れてから二時間ほど経った頃だろうか、しわぶきひとつ立つことのなかった廊下のただ中で、いい加減緊張を維持しきれなくなった俺が大きな欠伸をした、その刹那だった。
まるでその瞬間を、物陰でずっと待ち焦がれていたかのようにぴしりと、空気の割れる鋭い音色と共にヤツは姿を現した。
出会い頭の、強烈な一撃。
肺腑からすべての空気を強制的に吐き出さされた俺は、咳き込むように呼吸を再会しながら足に力を込める。
もしここにいたのが俺じゃなく舞だったらとしたら、こんなヘマはしない。
それどころか、表情ひとつ動かすことなくヤツの攻撃をかわしてみせたに違いなかった。
でもいま、ここにいたのは俺だった。
舞はいない。
剣技も、そして立ち会いも未だ半可通な俺ひとりきりなのだ。
ようやく立ち上がった俺は、四周に目を凝らす。
半ば暗闇の底に没した廊下は、しかし俺の目に硬質な風景を浮かび上がらせるばかりで、ヤツの片鱗さえ窺わせることはなかった。
ぴしり。
正面からの、空気が爆ぜる音。
勘だけを頼りに、身体ごと左へ飛び退いた俺の傍らをざっと鋭利な空気の塊が走り抜ける。
かわせたっ!
そのまま壁に手を付いた俺は、勢いに任せてヤツが駆け抜けていったのとは逆方向に向かって走り出す。
「はぁ、はぁ……」
緊張か、それとも恐怖なのか、ほんの数メートル走っただけなのに呼吸が乱れ始めていた。
情けない……そんな自嘲的な思いが湧いてくるが、なおも足を止めることなく俺は走り続けた。
ヤツが追ってくる。
別段背後を振り返った訳では――ヤツの姿は人の目には見えないのだから、振り返ったにしても結果は同じだった――ない。
肌で感じたのだ。
圧倒的とも言える、その存在感を。
ひしひしと迫り来るプレッシャーを、それこそ全身で。
全力で床を蹴りながら、俺は走り続けたその先に何があったかを思い出そうと必死に頭を働かせる。
そして弾き出された回答に一縷の望みを抱きながら、俺は廊下の終わり――下駄箱が立ち並ぶ昇降口に辿り着いた。
剣を手にした利き腕はそのままに、左腕を水平に伸ばす。
確か、この辺に……。
そう思った途端、左手が固い何かを探り当てる。
内心で「ビンゴ!」そんな喝采を上げながら、手のひらに当たったそれを固く握り締め、そして足だけはなおも全力で回転させ続ける。
それは昇降口横の剥き身の階段を支える、一本の細い支柱だった。
どうにも装飾としか思えないそれを昼間見かけたときは、果たしてそんなもので階段を支えきれるのだろうかと、そう思ったりしたものだった。
しかし鉄製のそれは、少なくとも俺の掛けた加重に耐えてくれた。
その結果、勢いがついたままの俺の身体は左回りに掴んだそれを中心に、ぐるりと回転を始めた。
頭に何かにぶつかったような気がしたが、それを完全に無視する。
そして、ちょうど四分の三回転した辺りで手を離す。
そのまま腰だめに姿勢を落としながら、柄を握っていた右手ごと掴むように左手を重ねると、剣を突き出すように前方の廊下に向かって突っ込んだ。
間に合うか……南無三。
刹那、空気以外は何もないはずのその場所に、何かが剣先に触れたような感触を覚える。
ずぶり――。
間違いなく、手応えがあった。
それは生ある何かを切り裂いたという、俺にとって生まれて初めての体験に他ならなかった。
そして同時に貫いた剣先から何か――もしかしたらそれはヤツの意識なのかもしない――が、俺の意志を無視して流れ込んでくる。
痛み。
悲しみ。
怒り。
様々な感情がない交ぜにされた、言葉にはし難い思考の奔流に、そんな事態を想像すらしていなかった俺は、一瞬だったが我を忘れてしまう。
何なんだ、これは……。
呆然と、途方に暮れる俺。
その刹那、脳裏で何かが弾けた。
でもいまの俺には、それが何だったのかを深く考えるだけの余裕を与えられていなかった。
気がつくと、眼前に壁が迫ってきていた。
咄嗟に剣を左に振り払いながら掴んでいた左手を離し、その遠心力を利用して重心が崩れるままに身体を思いきり左に捻る。
もろに肩から壁へと突っ込んでいった俺は、骨が軋むほどの痛みを肩口に覚えながら、それでも何とか意識だけは保つことに成功した。
ずるずると、またしても壁を伝うようにその場にくずおれる俺。
肩が発する痛みに、思わず顔をしかめてしまう。
もしかすると、骨が折れているかもしれない。
でも俺は、壁に背中を預けるようにして座り込みながら、それでも戦う意志だけは失っていないことを示すように剣だけは眼前に掲げ続ける。
ヤツが俺の前に現れてから、時間にしてまだ五分も経っていない。
そうであるにも関わらず全身が、寸刻を置かずに絶え間ない疲労と痛みに悲鳴を上げていた。
もしヤツがいま襲ってきたら、完全にお手上げだった。
「はぁ、はぁ……」
必死に呼吸を整えながら、俺はヤツの再訪を待ち続けたが、しかしヤツはどこからも姿を現そうとしない。
「逃げた……のか?」
俺の口がようやくその言葉を紡ぎだしたのは、それから数分が経ってからのことだった。
倒したとは、いくら楽観的な俺でもさすがに思えなかった。
せいぜいが手傷を負わせた程度だろう。
でも、俺は満足だった。
少なくとも、俺のこの手でヤツに一矢報いることができた。
佐祐理さんと舞の二人に傷を負わせた「魔」に、同じく手傷を負わせることができたのだ。
自己満足と言えば、確かにその通りなのかもしれない。
それでも構わなかった。
夜の学校で、ずっと舞の足を引っ張り続けるばかりだった俺の、そして自らの不注意で消え難い傷跡をその身に刻ませてしまった佐祐理さんへの俺ができる、これがせめてもの償いだった。
「佐祐理さん……舞……ごめんな」
そんな言葉が、自然と口を突いて出てくる。
返事はない。
その代わりに周囲の空気を震わせたのは……俺の腹が発した「ぐぅ〜っ」という、何とも情けない空腹音だった。
「…………おい」
せっかくのいい雰囲気を、自分で台無しにしてしまった。
自嘲気味に口元を歪めながら、そして俺は身体が発する欲求に答えるべく、何か食べるものはないかと上着のポケットを探り始める。
「あ……」
程なくポケットから出てきたのは、ひとつの小さな箱だった。
綺麗な包装紙とリボンで包まれていたはずのそれは、まるで心ない誰かによって踏みにじられたかのようにひしゃげ、潰れていた。
それは佐祐理さんからの贈り物。
あの日、俺と舞に渡そうとわざわざ夜の学校にまで持ってきてくれた、バレンタインのチョコレートだった。
しばらくの間、手の中のそれを言葉なくじっと見つめやる。
そして内心の何かに応えるように小さく一度うなずいてから、箱を包むラッピングをほどき始めた。
やがて現れたのは、手作りらしいハート型のチョコレートだった。
チョコの中心には「大好き」と、これまたホワイトチョコで丁寧に文字が綴られている。
「ははっ……佐祐理さんらしいや」
箱の潰れ方に比して、端が多少欠けていたことを除けばさほど中身が痛んでいなかったことに安堵の思いを抱きながら、思わず笑みをこぼしてしまう俺。
一口かじる。
ぱきりと、小さな音がして割れたチョコレートの片割れが、口の中で甘い味わいを広げてゆく。
「……甘い」
無意識のうちに、そんな言葉を紡いでしまう。
どちらかと言えば辛党の俺。
でもいま口にしているそれは、俺にとってはどんなものよりも美味しく感じられて仕方がなかった。
それはこのチョコレートが、佐祐理さんからの贈り物だったから。
大切で、大好きな佐祐理さんが、俺のために作ってくれたチョコレートだったから。
でも……。
心の片隅で、そんなささやかな満足感に浸るのを遮ろうとする声がする。
このチョコレートを食べる資格が、俺にはあるのだろうか。
バレンタインのあの日、俺は誰よりも大切で、誰よりも大好きな人を守ることができなかった。
俺は……無力だった。
「佐祐理さん、ごめん。そして……ありがとな」
ぽつりとそんな呟きを漏らしながら、もう一口チョコをかじる。
昇降口の硝子戸から月明かりの射し込む、夜の校舎でひとりきりで食べたチョコレートの味は……甘く、そして少しだけ悲しかった。