『永遠の楽園』
Update:1999.12.08





第3章「夢」

 きれいな夕焼けだった。
 風が吹く。
 そのたびに見えない力に動かされるようにさわさわと、目に映る一面の薄(すすき)野を揺らす。
 撫でるように、頬に触れてくる穂先。
 茜色に染まった空。
 照り返しに、きらきらと輝く薄。
 そのただ中で、ひとり孤独に佇む私。
 それはずっと昔、どこかで見た風景だった。
 懐かしさを抱かせてくれると同時に、でもどうしてか悲しさをも心の奥底に漂わせる光景。
 どうしてなのかは分からない。
 ただ、そう思えるだけだった。
 その中に向かってゆっくりと一歩、私は足を踏み出す。
 胸の辺りの高さで生え揃った、薄の穂先を両手でかき分けながらゆっくりと進んでいく。
 その様はまるで、黄金色に輝く海に半身を浸らせているような、そんな錯覚を私に覚えさせてくれもした。
 どこまでも、どこまでも続く海。
 輝き波打つ……草の海。
 その時だった。

 ――あはははっ。

 遠くから、女の子の声とおぼしき笑い声が耳朶を打つ。
 いつか、どこかで聞いたことがあるような、そんな感じのする声。
「…………」
 声がした方に、ちらりと視線を向ける私。
 でも、そこには何もなかった。
 目を向けたその先に映し出されたのは、夕陽の残照を受けて輝き揺れる無数の薄ばかり。
 気のせいだろうか。
 そんなことを思いながら、視線を戻す。

 ――あはははっ。

 また、声が聞こえてくる。
 それも、さっきと同じ方から。
 改めて声が聞こえてきた方に耳を傾けた私は、それがどこから流れてくるかを確かめようとする。
 すると、かさかさ……と薄をかき分けているらしい、そんな小さな音が聞こえてきた。
 その場に立ち尽くし、無言で薄野を睥睨していた私の目に映し出されたのは、薄の水面から不意にその姿を覗かせた、白い何かだった。
 ちらちらと見え隠れしているそれは、持ち主の動きに合わせるように、風に揺れる薄の穂先とは明らかに異なった動きを見せるていた。
 夕陽のせいで、少し黄ばんで見える白。
 それが距離にして、数十メートルほど離れた場所をぴょこぴょこと忙しそうに動き回っていた。
「……うさぎさん」
 内心の何かに突き動かされるように、私の口からそんな言葉が漏れる。
 そして思い出す。
 いま、視界の中を動き回るそれが何なのかを。
 遠い昔、ずっとずっと独りぼっちだった私にそれをくれた、ひとりの男の子のことを。
 大切な、友だちのことを。

 ――あはははっ。

 笑い声が聞こえる。
 楽しそうな声。
 心からいまを楽しんでいるような、そんな声。
 もしかしたら鬼ごっこでもしているのかもしれない、その声は絶えず場所を変えながら、でも確かに私の耳にまで届いてきていた。
 相手は一体誰なのだろう。
 本当は知っているはずの答えを、改めて確認するように、なおも水面を見え隠れさせるうさぎさんの耳の周囲を見渡す。
 そして、少しだけ落胆する。
 何故ならそこに見出すことができたのが、風に揺れる薄だけだったから。
 始めからひとりで鬼ごっこをしていたみたいに、女の子は時折楽しそうな笑い声を発しながら、私の周りを駆け巡り続ける。
 でもその声は……いつまで経ってもひとつだけだった。

                  §

 目が覚める。
 見開いた瞳に最初に映し出されたのは薄暗闇の中、どこか所在なげな様子で浮かび上がる病室の天井だった。
 しばらくの間、ぼんやりとそれを見つめ続ける。
 身体はそのまま。
 そして心だけを緩やかに活動させながら、目に映るそれとは別のことを考えていた。
 それは、たったいま見ていた夢のこと。
 心からの笑みを浮かべながら、夕陽が空を真っ赤に染める時間までずっと駆け回った薄野原。
 遠い遠い……昔の思い出。
 そして思い出す。
 行かなければ。
 ベッドから半身を起こそうと、身体を動かす。
 途端、何の前触れもなしに全身に痛みが走った。
 怪我。
 そう、私は怪我をしているのだ。
 改めて目を凝らせば、暗闇を通して身体のあちこちに巻き付けられた包帯が浮かび上がってくる。
 そして目を閉じ、身体のどこから痛みが生じているのかを確かめてみる。
 頭―――二カ所。
 右腕――三カ所。
 左腕――一カ所。
 背中――四カ所。
 左足――二カ所。
 右足――一カ所。
 どうやら内蔵の方も少し痛めているのか、痛みこそ感じないものの腹部の奥底に、どこか引きつるような鈍い違和感を覚える。
 それだけを確認してから、閉じていた目を私は見開いた。
 そして、比較的傷の少ない右半身を中心に身体を動かしてみる。
 身体を引き裂かれるような、鋭い痛み。
 痛みに何度となく動きを止めながら、ゆっくりと長い時間をかけて、ようやくのことで何とか上半身を私は起きあがらせた。
 普段の私だったらこの程度の動作など、意識すらすることなくできるはずだった。
 でもいまの私には、それが精一杯だった。
 気がつけば、身体の異常を訴えるかのように動悸が早まり、息も上がり始めている。
 その荒い呼吸の中、私は改めて薄暗闇に覆われている病室の中を見渡す。
 時計を捜したのだ。
 いまが何時なのかを知りたかった。
 多分壁かどこかに掛けられているだろうと思ったのだが、ざっと見た限りどこにもそれらしいものはなかった。
「…………」
 ひとしきり室内を見渡してから、身体の動きを再開する。
 かなりの時間をかけ、途切れ途切れに襲ってくる痛みに耐えながら私は、ベッドからゆっくりと床に足を下ろす。
 素足が床に触れた途端、ひんやりとした感触が返ってくる。
 ベッドに手を付きながら、立ち上がる。
 起きあがった時に比べれば、痛みは思ったよりも感じなかった。
 一歩、右足を動かす。
 その瞬間、身体のあちこちが再度悲鳴を上げ始めたが、完全にそれを無視した私はまた一歩、今度は左足を動かしてみた。
 壁に伸ばした手を支えにそんなことを何回か繰り返した後、辿り着く。
 分厚いカーテンが下ろされた、窓際に。
 手を伸ばす。
 指先に触れたそれは、窓の外の世界を覆っている夜の寒気を吸い込んだように重く、そして冷たかった。
 外からの光を完全に遮っているそれを、ゆっくりと開いてゆく。
 途端開かれた布地の隙間から、さっと光が射し込んできた。
 月の光。
 空のただ中を、浮かぶようにその身を晒している月の、穏やかな光が私の瞳を貫く。
 さらに布地を押し開こうとするが、それ以上腕に力が入らない。
 視線を腕に落とす。
 月明かりに浮かぶ包帯が、くっきりとその白さを私の眼前に晒していた。
 しばらくの間、じっとそれを見下ろし続ける私。
 やがて顔を上げた私は、痛みに悲鳴をあげる身体ごとカーテンの端を握った腕をを動かし、カーテンを開けていった。
 どれくらい経っただろう。
 ようやくのことで、窓に下ろされていたカーテンを私はすべて押し開く。
 さすがに、身体が限界を訴えていた。
 ゆっくりと後ずさる。
 そして、太ももの辺りに柔らかな布団の存在を感じ取ったのを確認してから、腰を下ろした。
 身体の状態を確かめる。
 やはり左半身の方が身体の損傷が激しいのか、痛みは目を覚ました時よりもひどくなっていた。
 どうやら思った以上に、私の怪我は重傷らしい。
 月明かりの下、改めて全身を覆う包帯を見つめやりながら、そんなことを思ったりもした。
 でも、私は行かなければならない。
 学校に。
 「魔」と……戦うために。
 月光に浮かび上がる室内を、改めて見渡す。
 今度は制服と、そして剣を捜してだ。
 調度品らしいものがほとんど見当たらない病室の中はがらんとしていて、そして私の求めるものは室内のどこにも見当たらなかった。
 祐一が、拾ってくれていればいいのだけど……。
 その途端、ちくりと頭が痛む。
 わずかに顔を歪めながら、私は痛む場所に手を当てる。
 そこには包帯が何重にも巻かれていた。
 でも、私は知っていた。
 いまの痛みが、傷の痛みではないことを。
 そう……私ではない私が、痛みに悶え苦しんでいるのだ。
 夜の学校の、闇の奥に身を潜めながら傷ついた身体を癒しつつ、そして私との再戦の時を待ち続けているのだ。
 残念だった。
 いまならヤツ――「魔」を、倒すことができるかもしれないのに。
 今日までずっと戦い続けてきた「魔」との関係に、もしかしたら終止符を打つことができるかもしれないのに。
 でもいまの私には、どうすることもできない。
 私にできたのは、全身から発せられる痛みに耐えながら、窓の外に浮かぶ月をただ眺めやることだけだった。
 所々に雲の浮かぶ、空のただ中に浮かぶ月。
 それは私にとってひどく見慣れた光景だった。
 晴れた夜、いつだって私は学校の廊下で「魔」が姿を現すのを待つ間、こうして月を眺め続けていた。
 ひとりきりで。
 誰も訪れることのない、廊下の真ん中で。
 あの日……祐一が私の前に現れるまで。
 その時だった。
 ずっと気配ひとつ感じることのなかった廊下に、人のものらしい存在をかすかに感じ取る。
 目を閉じ、意識を集中する。
 研ぎ澄まされた神経が感じ取った、ゆっくりとした足取りでこちらへと近づいてくるそれは、どうやら二人いるらしい。
 時折動きを止めては、また歩き出すといった行為を繰り返している。
 やがて、その動きが完全に止まる。
 気配はドアを隔てた、すぐ先の廊下にあった。
「…………」
 そして私は、そこにいるのが誰なのかに思い至った。
 姿など見えなくても関係なかった。
 何故ならそこにいるのは、私にとってはどんなものよりも大切だと思える、そんな二人だったから。
 目は星空の中を浮かぶ月の姿を追いながら、その時が訪れるのを待つ。
 ゆっくりと、背後のドアが開く。
 どうしてか病室の中に足を踏み入れた途端、二人が息を呑んだように動きを止めてしまう。
 そのことを背中越しに気配だけで察しながら私は、今日初めての言葉をゆっくりと口から紡ぎ出した。
「……佐祐理。それと……祐一」

                  §
 空が見える。
 真っ青な、夏色の空。
 左右には薄の根っ子が数え切れないほど立ち並んで、視界を邪魔している。
 そんな中に大の字に寝ころびながら、私は待っていた。

 ――今日も来てくれるかな?

 どこからともなく、ささやくように聞こえてくるその問いかけ。
 私は「……来てくれる」とそう、目は青い空に向けたまま答える。
 何故なら、約束をしたから。
「また明日」
 そう言って、別れ際に約束したから。
 だから、きっと来てくれるに違いない。
 かさかさ……薄を、誰かがかき分ける音が聞こえてくる。
 その音を耳に響かせながら、徐々に近づいてくるその気配を私はじっと待ち続けた。
「よっ」
 すぐ近くから、声。
 でもその声は、私にかけられたものではなかった。
 その証拠に視界にはさっきと同じ青空が広がるばかりで、声の主の姿はどこにも見当たらない。
「あっ、来てくれたんだね!」
 また声がする。
 女の子の、嬉しそうな声が。
 私は理解した。
 ここで誰かを待っている私以外の誰かがいて、そして彼女の方には待ち人が来てくれたのだということを。
「まあ……昨日、約束してたから」
「うんっ。ありがとう」
 でも、別に悲しくはなかった。
 私の許に、ずっと待ち続けていたはずの誰かが来てくれなくても。
 何故ならその代わり彼女のところに、彼女が待ち続けていた人がちゃんと来てくれたから。
 私じゃない……もうひとりの私のところに。
「じゃあ、今日は何して遊ぼうか?」
「鬼ごっこ!」
「よーし、今日こそは負けないぞーっ」
 威勢のいい男の子のその言葉と共に、薄をかき分けて走り去ってゆく足音がふたつ、耳朶を打つ。

 ――あはははっ。

 笑い声。
 女の子の、心からの喜びの声。
 抜けるような青空を眺めながら聞くその声は、どうしてかとても懐かしくて、そしてどこか心躍る何かを私の中に蘇らせてくれた。
 不意に、風が吹く。
 その流れに押されるように、一面の空に覆われていた視界の端に揺れ動く薄の穂先が見え隠れする。
 それはこの北の町に訪れた短い夏の終わりを感じさせる、どこか涼やかなものだった。
 目を閉じ、風の存在を肌で感じる。
 どれくらいそうしていただろう、閉じていた目を見開いた私は、いつしか紅に染まり始めていた空を改めて眺めやる。
 もう、足音は聞こえてこなかった。
 でも二人は、いまもきっと鬼ごっこを続けているに違いない。
 私のいる、ここからは離れた別の場所で。

 ――あはははっ。

 私のその想像を裏付けるように、吹き続ける風に乗ってかすかな笑い声が聞こえてくる。
 切れ切れに届くその声。
 それは私の中に眠っていた、忘れかけた何かを思い出させてくれるような、そんな温もりに満ちていた。
 でも……。
 心の中だけで、小さく呟きをもらす私。
 そして心の奈辺から表層へと流れ着いたその言葉は、訪れるはずの未来を確実に指摘していた。
 私は知っていた。
 それが、何なのかを。
 悲しい思い出。
 悲しい別れ。
 同時にすべての始まりとなった、あの日のことを。
 そう、私は知っているのだ。
 間もなく訪れようとしている別れの時、夏の終わりが……目の前に迫っていることを。

                  §

「……祐一」
 病室を出ようと、ドアにまで差し掛かった祐一を呼び止める。
「ん?」
 足を止めて、私の方を振り返る。
 その顔はいつもと同じ、どこか飄々としたものだった。
「……少し話がある」
「話?」
 そう言って小首を傾げる祐一に、うなずき返す私。
 そして先に廊下に出て、ドア口から私と祐一のことを見ている佐祐理に視線を向ける。
 できれば、佐祐理には聞かせたくない話だった。
 私はじっと、彼女を見つめ続ける。
 額の一部を覆っている、白いガーゼが痛々しかった。
 それを見るたびに、胸が痛む。
 佐祐理を守ることができなかった私。
 その私の罪を示す、証。
 私と一緒にいるせいで傷ついていくばかりの佐祐理に、何もしてあげることのできない……無力な私。
 わずかに、佐祐理の瞳が揺れる。
 そして私の思いが伝わったのか、まっすぐに私を見つながら小さくうなずき、そして傍らの祐一に向かってにっこりと笑みを浮かべながら、
「祐一さん。佐祐理は、先に下のロビーに行って待ってますね」
 祐一の返事を待つことなくそれだけを言い残して佐祐理は、ぱたぱたと足早に廊下へ姿を消した。
 ドアの閉まる音を最後に、静寂が病室の中を訪れる。
「で……話ってなんだ?」
「……」
「……」
「……行くの」
 しばらく間を置いてから、それだけを口にする。
 でも祐一は、それだけで私の言わんとしたところをすべてを理解してくれたように、小さくうなずきながら、
「ああ」
 小さくそう一言、呟いた。
「……そう」
 そんな答えを口にすることしかできない私。
 佐祐理と別れた祐一はこれから一度家に帰り、そして誰もいない夜の学校へと赴く。
 ひとりで、「魔」と戦うために。
 どうしてなのだろう。
 どうして祐一は、「魔」と戦おうとするのだろう。
 最初に祐一と出会ったのは、やはり夜の学校でだった。
 「魔」が姿を見せるのを、ただひたすら待ち続けていた私の目の前に、何の前触れもなく祐一は姿を見せた。
「よぉ。なにやってるんだ、こんな時間に」
 最初の一言は何気ない、昼間の学校で見知った誰かに話しかけるような、そんなありふれた言葉だった。
 夜の学校には似つかわしくない、ごく普通の言葉。
 だから私は、その呼びかけを無視した。
 目の前にいる人物に、見覚えがなかったから。
 名前も知らない誰かを、不用意に戦いに巻き込みたくなかったから。
 でも祐一は――名前を知ったのは次の日だった――その日から、何を思ってか私のいる夜の学校に毎夜、姿を見せるようになった。
 いつも何か、私と二人で食べる差し入れを持って。
 そして気がつけば、いつの間にか祐一の存在は私の中で、佐祐理のそれと同じくらいに大切なものとなっていた。
 大切な友だち。
 昼は、佐祐理と祐一の三人で。
 そして夜は、祐一と二人きりで過ごす毎日。
 でも……私は心配だった。
 佐祐理がそうだったように、いつか祐一も私と一緒にいるせいで傷ついてしまうのではないかと。
 ずっと一緒にいたいと思う私の思いが、祐一を取り返しのつかないトラブルに巻き込んでしまうのではないかと。
 実際「魔」と戦うには、祐一は訓練も経験も不足していた。
「……ひとりでは危ない」
 だから私は、そんな言葉を紡ぐ。
 いまの祐一の実力で「魔」に勝てる可能性は、冷静に考えて万が一にもないことが分かっていたから。
「大丈夫だって。これでも、少しは鍛錬もしてるんだぜ。舞だって、中庭でやってたアレに協力してくれてたじゃないか」
「…………」
 私は何も言わず、ただ祐一の顔を見つめ返すだけ。
 それで十分返答になったのだろう。
 見るからに不満そうな顔色を浮かべた祐一は、
「そりゃ舞に比べたら、俺なんて全然だけど……でもこんな時だからこそ、少しは頼って欲しいと思うぜ」
「……頼る」
「ああ。いつも守られてばっかりってのも、男としてちょっと癪だからな。こんな時ぐらい、いいとこ見せてやるよ」
 そう言って「へへっ」と、祐一は笑う。
「……祐一じゃ、あいつには勝てない」
 それは事実だった。
 落ち着いて非我の実力差に思考を巡らせば、私でなくとも祐一自身にも分かっているはずのことだ。
「…………」
「…………」
 それきり、お互いに黙り込んでしまう。
 視線を逸らすように、顔を俯かせてしまう祐一。
 私はそんな祐一の姿を、私はただじっと見つめやるばかり。
 そんな沈黙がどれくらい続いただろう、水を打ったように静まり返っていた室内に、祐一の声が響く。
「でも、俺は行くぜ」
「……どうして」
「どうしても」
「これは私の問題。祐一には関係な……」
「違うっ」
 言いかけた私の言葉は、祐一の強い口調に遮られる。
 そして顔を上げてまっすぐに私の目を見据えた祐一は、真剣そのものの表情を浮かべながら、
「……仇だから」
 吐き出されるように紡がれた、その一言。
 その言葉の意味が分からず、小首を傾げるばかりの私。
 祐一はそれ以上何も言わずにその場で身を翻すと、佐祐理が待つロビーへと歩み去ってしまった。
 ベッドの上で、廊下へと続くドアをただ無言で見つめやるばかりの、私ひとりを残して。

                  §

 女の子の背中が見える。
 背丈の足りなさを台に乗って補い、両手で電話の受話器を抱えながら、受話器の向こうにいる誰かに向かって呼びかけ続けている。
 顔は見えない。
 声も聞こえない。
 でも顔が見えなくても、声が聞こえなくても私には彼女が誰に何を訴えようとしているのか、そのすべてを理解していた。
 そして……その結果も。
 やがて女の子の口元から受話器が離れ、両手で持っていたそれを、ゆっくりと電話機におろす。
 その背中には、悲しみの感情が浮かんでいた。
 ようやく見つけることのできた、心から信じることのできる存在。
 その誰かに裏切られた悲しみを。

 ――ねぇ、助けてほしいのっ。

 本当は怖かったのだ。
 辛く悲しいことばかりが続く、真実を知ることが。

 ――魔物がくるのっ。

 いままで私に近づいてきたみんなと同じように、私の『力』が恐くなって逃げ出してしまったのだと思い知らされることが。
 だから嘘をついた。
 男の子が、戻ってきてくれることを祈って。
 大切な友だちと、もっと一緒にいられることを願って。

 ――だから守らなくちゃっ……ふたりで守ろうよっ。

 でも……。
 電話機に向かって視線を落としていた女の子が、何かを思い立ったように顔を上げる。
 そして乗っていた台から勢いよく飛び降りると、足早にどこかへ向かって駆け出した。
 相変わらず女の子の顔は見えない。
 でも彼女の顔には、きっと何か思い詰めたようなそんな決然とした表情が浮かんでいるに違いなかった。
 私は知っていた。
 女の子が、どこに向かおうとしているのかを。
 そう……彼女はいまから戦いに赴こうとしているのだ。
 二人の遊び場を、夕陽の照り返しを受けて黄金色に輝く穂先を風に揺らす、あの薄野原へ。

 ――待ってるからっ……ひとりで戦ってるからっ。

 ひとりきりで。
 魔物が徘徊する、薄野のただ中で。
 いつの日か二人の遊び場所を守るために、男の子が再び私の前に姿を見せる日が来るまで。
 薄がすべて刈り取られ、その姿を消してしまっても。
 野原だった場所に柵が巡らされても。
 やがて取り払われたその柵の中から、真新しい建物が姿を現しても。
 私は戦い続ける。
 すべての「魔」を倒すまで、ずっと……戦い続けるのだ。

                  §

 半身を起こしたまま、窓の向こうに目を向ける。
「…………?」
 左腕に違和感を覚えたのは、その時だった。
 部屋の明かりは落とされている。
 消灯時間はとっくに過ぎていた。
 だから外から流れてくるのは、時々忙しそうに廊下を駆けてゆく看護婦の足音だけ。
 窓から射し込んでくる街灯の明かりを頼りに、私は左腕に目を向ける。
 肘から少し上の、骨の辺り。
 じんわりと身体の中から広がってくる、疼くような痛いような……そんな微妙な感覚。
 右手を患部に当ててみる。
 全身に怪我を負っている私の身体の中でも、左腕は比較的怪我の箇所と、そして傷が浅かった。
 だから右手が触れた部分にも特に傷らしい傷はなく、ただ痛みとは違った変な違和感を覚えるだけだった。
 そして思い出す。
 この感覚が、何なのかを。
 以前にもこれと同じような違和感――その時は左腕ではなかったが――を、何度となく抱いたことがあることを。
 ベッドから下りた私は、右腕で左腕を押さえながら窓辺へと歩み寄る。
 窓の外には、月光と街灯の明かりの中に浮かび上がる、夜の街並みが静かに佇んでいた。
 この先にいるのだ。
 祐一が。
 ひとり学校に赴き、「魔」と戦おうとしている祐一が。
「……祐一」
 気がつかないうちに、そんな言葉が口から漏れる。
 大丈夫だろうか。
 祐一の力で、無傷で「魔」と相対することができるだろうか。
 その瞬間、私の中で冷静な計算が働く。
 答えは……否。
 剣捌きも体術も、まだまだ素人の域を抜けない祐一ひとりでは、余程の僥倖にでも恵まれない限り、傷ひとつ付けることはできないに違いない。
 なら現状で一番望ましいのは、何の変化もなく時間だけが流れること。
 「魔」と出会うことなく、学校を後にしてくれること。
 そんな願望が、ふと心の奥から浮かんでくる。
 実際、私にとっての「魔」との戦いは、そのほとんどが「魔」が姿を現す時を待ち続けることに費やされていた。
 何をきっかけに、いつ現れるかすら皆目予想もできない「魔」の行動。
 今日かもしれない。
 明日かもしれない。
 誰ひとり訪れる者のない夜の学校の廊下で、そうして私はひたすらに「魔」の出現を待ち続けた。
 私にとって、頼ることのできるただひとつの――剣を片手に。
 左腕の違和感は相変わらずだった。
 そしてそれは、祐一が私の予想を覆してヤツに一矢報いたことを、言葉以上に雄弁に物語っていた。
 明日、ここに来た祐一はきっと言うだろう。
「舞っ。おまえは無理だって言ったけど、でも俺ひとりでも何とかなったぜ。ヤツに手傷を負わせることができたぜ」
 誇らしげに、そう。
 その時、私は何と言えばいいのだろう。
 ありがとう、そう言うべきなのだろうか。
 でも、祐一は知らない。
 魔が傷つけば、一緒に私も傷ついていくことを。
 私が傷つけば、一緒に魔も傷ついていくことを。
 そう……いまも学校の中を徘徊しているはずの「魔」は、既にその身に傷を負っている存在なのだ。
 もしかすると、今日の「魔」が相手なら祐一でも互角に戦えるかもしれない。
 でも、それだけ。
 私の身体が快復すると共にヤツもその身を暗闇の奥で癒し続け、そして再び相見えるのだ。
 夜の学校で。
 剣を手にした、この私と。
 窓の外に広がる街並みは、何も言わずに私の前に佇み続けていた。
 その中を舞い落ちてくる、小さな何か。
 雪だった。
 闇一色に覆われた空から降り注いでくる白いそれは、寝静まった家々の姿を覆い隠してゆく。
 言葉なく、その様を見つめ続ける私。
 左腕の違和感は、いつの間にか治まっていた。
第4章に続く

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