『永遠の楽園』
Update:1999.11.23





第4章「家族」

 手にしていたティーカップをお皿に戻す。
 かちゃりと、陶器同士が触れ合うかすかな音色が鼓膜を震わせるのを感じてから、そしてわたしはカップから手を離した。
 顔を上げる。
 すると緩やかに立ち上る湯気の向こうに、テーブルの上で頬杖を付きながら窓の外を眺めている、祐一さんの横顔が映し出された。
 テーブルに置かれたままのコーヒーカップには、少しも口をつけていない。
 立ち上る湯気を通して映し出される祐一さんのその横顔は、憂いのようなものを感じさせる何かに身を委ねているような、そんなどこかぼんやりとしたした色を浮かべていた。
 しばらくの間、瞳に映し出される彼の横顔を、言葉なく見つめ続ける。
 それからわたしは、少し抑え気味の声でゆっくりと「祐一さん」とそう、彼の名を呼んでみた。
 返事はない。
 もしかしたら、声が小さかったせいで聞こえなかったのかもしれない。
 だから数秒待って、改めて「祐一さん」とわたしは声を発する。
「……え?」
 今度は聞こえたみたいだ。
 頬杖をつきながら窓の向こうを眺めやる姿はそのままに、首を少しだけ巡らせてわたしの方へと視線を向けてくる祐一さん。
「っと、ごめん。ちょっとボケてた。で……なに、佐祐理さん?」
「はい」
 小さくうなずきながら、そして言葉を続ける。
「何を見てらっしゃるんですか?」
 そしてわたしも、たったいままで祐一さんが眺めていた窓の外の風景に、目を移してみた。
 いまにも雪が降り出しそうな鉛色の雲に覆われた、商店街の街並み。
 喫茶店の中からのぞく夕方のアーケード街は、きっと晩ご飯の買い物の時間帯なのだろう、買い物袋を手にした主婦の姿があちこちに見受けられる。
 その誰もが、見るからに気忙しげな様子で目の前を通り過ぎてゆく。
 脇目も振らずにまっすぐに、わたしたちの存在などにはまるで気づかないようなそぶりで、ひたすらに家路を急ぐ人波。
 ふと、その情景がわたしの中の何かをちくりと刺激した。
 それは……夢。
 何日か前に見た――ぼんやりとしか内容を覚えていない、夢の中の情景にどこか重なるものを感じてしまったのだ。
 水の中を漂うような感覚。
 道行く人は誰も、わたしのことに気付いてはくれない。
 人々に満ちあふれた、でもお互いの存在になどまるで頓着することのない、雑踏の中の孤独にひとり佇むわたし。
「雪が……降りそうだなって」
「ふぇ? 雪ですか?」
 ようやく紡がれた彼のその言葉に促されるように、思考を中断したわたしは改めて窓の外に目を向ける。
 そして小さくうなずきながら、
「そうですね。朝、佐祐理が見た天気予報でも、夕方から雪が降ると言ってましたから」
「ふーん、そっか」
「ええ。祐一さんは見なかったんですか、天気予報?」
 朝、台所でお弁当を作っている間に、リビングから流れてくるテレビの天気予報を聞くのは、この学校に入学してからいつの間にかわたしの習慣となっていたもののひとつだった。
 理由は簡単。
 その日のお天気によっては、前の晩に考えておいたメニューを変えなくてはならないこともあるからだ。
 二月も下旬に入ったここ数日は、冬の寒さもピークに達したかのように、強い風を伴った雪が昼夜を問わず、降ったり止んだりを繰り返していた。
 そしてそれは、今日もだった。
 小首を傾げながら訊ねるわたしに、祐一さんはちょっと困ったように苦笑いを浮かべながら、
「朝は俺、あんまり余裕がないからなぁ」
「あははーっ。そう言えば祐一さんって、朝はいつもわたしと舞が歩いてる後ろから追いついてきますよね」
 そして思い出す。
 緩やかな陽射しに照らされる通学路を、肩を並べて歩く舞をわたし。
 さくさくと、夜の間に降り積もった雪を踏み分けながら歩く舞は、気になることでもあるみたいに時折、肩越しに背後に視線を送る。
 まるで、誰かが来るのを待っているかのように。
「どしたの、舞?」
 そんな彼女の見るからに不審な態度に、思わず漏れそうになる笑いをこらえながらわたしは訊ねかける。
「落とし物でもしたの?」
 そんなわたしに対する舞の答えは、いつだって同じ。
「……何でもない」
 たったそれだけの言葉を、いつも通りのぶっきらぼうな口振りで紡ぐと、そして何ごともなかったように歩き始める。
 でも本当は、わたしは知っていた。
 舞が何を待っているのかを。
 背後から誰かが近づいてきてくれるのを、今か今かと待ち続けていることを。
 歩調を早めて、あっという間にわたしを追い越していってしまった舞を追いかけようと思った瞬間、足早に雪道を踏み分ける靴音が耳に届く。
 駆け出しかけた足を止めて、そして待つ。
 足音が、さらに近づいてくるのを。
 わたしの背中に、その人が声をかけてくれるのを。
「よぅ、佐祐理さん」
 その声を耳朶に響かせながら、そして先をゆく舞に目を向ける。
 心配なかった。
 舞の耳にも、祐一さんの声はちゃんと届いていた。
 その証拠に、さっきまでは走らなければ追いつけそうもなかった彼女の歩くペースが、すっかり遅くなっている。
 そのことを確認してから、くるりと身を翻したわたしは、
「祐一さん、おはようございます」
 にっこりと微笑みながら、朝の挨拶を口にする。
 そうしてわたしたち――舞と祐一さんとわたしの三人にとっての、いつもと同じ朝が始まる。
 今日も明日も、そして明後日もそうなるのだと、ずっと信じていた。
 でも……。
「――だしたな」
「はい?」
 不意に流れ込んできたその声に、意識を現実に引き戻される。
 見れば窓硝子を挟んだ向こうの世界は、まるで舞台の幕が下ろされたかのような、視界を覆い尽くさんばかりの無数の雪に覆われ始めていた。
「そろそろ出ようか。本格的に降り出す前に、俺も佐祐理さんも家に帰り着かないとマズイしな」
 そう言いながら、すっかり冷めてしまったコーヒーを一息に飲み干した祐一さんは、傍らに伏せて置かれた伝票を手にしながら席を立つ。
「はい、そうですね」
 彼のその言葉にうなずき、まだ三分の一ほど中身の残った紅茶のカップにちらりと視線を送りながら、わたしも席を立った。

                  §

 目の前に掲げられている傘の柄が、わたしたちの歩みに合わせるように軽く上下に揺れ動いている。
 ちょっと可愛らしい感じの、小振りな折り畳み傘。
 そしていまそれを握っているのは、わたしじゃなかった。
 視線を傘の柄から、それを持つ手に移す。
 わたしの手なんかよりずっと大きくてがっしりとした、男の人の手。
 ゆるゆるとその元を辿るように視線を左に移していくと、程なく祐一さんの姿が映し出された。
 正面から吹き込んでくる雪からわたしのことを庇うように、祐一さんは少し傘を傾けながら歩いている。
 何となくその様子を、じっと見つめてしまうわたし。
 やがてわたしのそんな眼差しに気づいたのか、まっすぐ前を見ていたはずの彼の瞳がわたしの方へと向けられる。
 ほんのわずかの間、視線が重なる。
「祐一さん、肩に雪が積もってますよ」
「え? ああ……」
 どう見てもわたしの方に寄せられている傘のせいで、祐一さんの左肩はすっかり雪が降り積もってしまっていた。
 その様を見つめやりながら、降り積もった雪を手で払い落としながら何でもない様子でうなずく。
「居候、三杯目はそっと出し――ってね」
 何を思ってか急にそんなことを言いだして、そして少し悪戯っぽい目で祐一さんは笑みを浮かべて見せた。
「はぇ……何ですか、それ?」
「いやまあ、何というか。要するにアレだ、これは佐祐理さんの傘なんだから、まずは持ち主の身の安全が優先されるべきかな、などと店子の俺としては思うわけだ」
「ごめんなさい。佐祐理の傘が小さいせいで……」
「いや。むしろ世話になってるのは俺なんだから、別に佐祐理さんが謝ることはないんだけど」
 腕を軽く上下させ、祐一さんは傘の上に降り積もった雪を振り落としながら言葉を紡ぐ。
「そもそもは、傘を忘れてきた俺が悪いんだしさ」
 舞のお見舞いに訪れた病院からの帰りに寄った、喫茶店。
 降り始めた雪を目にして、そこを後にしたわたしたち。
 でもお店のドアを開け、ショーウィンドの前に佇んだわたしたちの前に広がっていたのは、視界のすべてを埋め尽くすばかりの、白また白の情景だった。
 窓越しに降り始めた雪片を見てからまだ数分しか経っていなかったのに、まるで朝からずっとそうだったみたいな勢いで、雪は降りしきっていた。
 これがもし雨だったら、きっと「バケツをひっくり返したみたいな」そんな形容がぴったりだろうと思える状況に違いない。
 でもいま、わたしたちの前で降りしきっているのは、雪だった。
 だからこの場合は「白のベールで覆われたような」そう表現するのが、きっと正しいのだろう。
 そして祐一さんが、学校に傘を忘れてきてしまったらしいことをわたしたちが知ったのは、そのすぐ後のことだった。
「わざわざ遠回りまでさせちまって、悪いな。佐祐理さん」
「あははーっ。気にしないでください、祐一さん。困った時はお互いさま、って言うじゃありませんか」
 わたしの返答に、無言で微笑みを返してくる祐一さん。
 そして言葉が途切れた。
 深々と途切れることなく降り続ける雪のせいだろう、周囲は水を打ったような静けさに包まれていた。
 耳に届くのは、わたしと祐一さんが踏みしめる足音だけ。
 吐き出すたびに真っ白に染まる息が、そんな静寂に覆われた世界にほんのわずかなアクセントを生み出している。
 わたしのすべてを包み込んでくる、静謐に満たされた世界。
 どうしてだろう、その静けさが心の中のどこかを癒していってくれるような、そんなことをふと思ってしまう。
 だからかもしれない。
 傍らを無言で歩く祐一さんに、とりとめもない質問をしてしまったのは。
「祐一さんは……雪は好きですか?」
「え?」
 突然のわたしの問いかけに、ちょっと戸惑ったような色を顔に浮かべてみせる祐一さん。
 でも、すぐに表情を戻すと、
「どうかな……」
 ぽつりと、それだけを口にする。
 そして視線を、音もなく降り続ける雪の先へと向けながら、ゆっくりとした口調で、
「……あんまり好きじゃないな、俺は」
 紡がれたその声はどうしてなのだろう、どこか寂しげとも悲しげとも感じられる、そんな雰囲気をわたしに抱かせてくれる。
 そのことが気になって見上げるように祐一さんへと向けられた視線は、でもわたしに見られることを避けるように、明後日の方に背けられてしまった彼の表情を捉えることはできなかった。
「そう言う佐祐理さんはどうなんだい。雪は好きか?」
 妙に平板に感じられる言葉が、鼓膜を震わせる。
 どこか感情の欠け落ちた、それはまるで演劇の台本を読み上げるような声。
 彼の声に、ふとそんな印象を抱いてしまう。
 普段聞くことのない祐一さんのその声に、わたしは少しだけ気圧されるようなものを感じながら、
「ええ、大好きですよ。去年の冬は、舞が佐祐理の家に遊びに来たときには、いつも雪合戦をしたりかまくらを作ったりして遊んでいました」
「……そっか」
「あとですね、うさぎさんも二人でたくさん作りました」
「はは。舞の奴、好きだもんな。雪うさぎ」
 少し間を空けて、そして背けていた視線をわたしの方に戻した祐一さんは、口元に笑みをたたえながらそれだけを口にする。
「そう言えば……祐一さんもずっと昔、この町に住んでいたんですよね」
 それはいつだったか、祐一さん自身の口から聞いたはずの話だった。
 階段の踊り場でお昼を一緒に食べているときだったか、朝の登校時だったか、それとも別の機会だったかまでは、よく覚えていない。
 ずっと昔にこの町を離れ、そして何年かぶりにここに戻ってきた……確かに祐一さんはそう言っていた。
「ああ。まだ小学生にもなっていない、小さかった頃の話だけどな」
「それでしたら、久しぶりにこの町に戻ってきた時は、とっても懐かしかったんじゃないですか?」
「……どうかな」
「はぇ……違ったんですか?」
 想像していたのとは全然違った彼のその反応に、思わず小首を傾げてしまうわたし。
 そして祐一さんは、目線は正面を見据えたまま
「雪が……降っていたから」
 真っ白な息を吐き出しながら、それだけを口にする。
「…………」
「駅の改札を出て、最初に俺の目に映ったのは一面の雪景色だったよ。真っ白になったその上にどんどん、どんどん雪が降り積もっていくんだ」
 その時の記憶を心の中から引き出すように、ぽつぽつと自分が発した言葉を噛み締めるように続ける祐一さん。
「子供の頃、そんな景色を毎日見ていたはずなのに……でも、その時雪を見て俺の頭の中に最初に浮かんだのが……何だったか分かるかい。佐祐理さん?」
「……さぁ、何なんでしょうね。佐祐理には分かりませんねーっ」
 首を傾げて微笑みを浮かべながら、応えるわたし。
 そして祐一さんは、何を思ってか口元をわずかにゆるめながら、
「その時、俺の中にぼんやりと浮かんできたのは……『悲しい』って、そんな言葉だったんだ」
「悲しかったんですか、雪を見て?」
「ああ、どうしてなんだろうな。なにか根拠があってそう思ったわけじゃないし、だから俺にもそう感じた理由はよく分からないんだけど、でもあの時はそれしか浮かばなかった」
 悲しい……雪。
 世界を真綿のように覆い尽くす雪景を前に、何年かぶりに訪れた生まれ育った町に戻ってきた町で、祐一さんが最初に抱いた感慨。
 その思いは、一体どこから来ているのだろう。
 何が、祐一さんに「悲しい」思いをさせているのだろう。
 他人が無思慮に触れてはいけない何か、他人には無遠慮に触れられたくない何かが、そこにあるのだろうか。
 そんな小さな疑問が、胸中に浮かび上がる。
 でもわたしは、それが正しい答えだということに気がついていた。
 何故なら、わたしも祐一さんと同じだったから。
 ――一弥。
 心の奥底で、いまなお消えることなくくすぶり続けているその名が、不意に浮かび上がってくる。
 ちくりと、胸が痛む。
 償うべき咎。
 背負うべき罪。
 わたしの中にいまも淀み続けているそれと同じ何かが、祐一さんの心のどこかにも存在しているのだ。
 ずっと以前、出会って間もない頃の祐一さんに抱いた、自分と似たものを感じさせる何か。
 そしてわたしは、口を開く。
「前にも言いましたけど、やっぱり似てますね」
「ん?」
 言葉が足りなかったのか、首を傾げる祐一さん。
「覚えていませんか。ずっと前の朝、祐一さんと舞の三人で一緒に学校に行く途中で、祐一さんが佐祐理と似てるってお話したこと」
「えーと。それって確か……」
 目を閉じ、少し考え込むようなそぶりを見せる祐一さん。
 そして程なく、記憶の海から求める何かをたぐり寄せたかのように、ぱっと目を見開くと、
「もしかして、佐祐理さんと舞の二人の雰囲気が似てるとか、そんな話をした時だったっけ?」
「はい。舞もそうでしたけど、佐祐理には祐一さんも――その、背負っていたものが似てる感じがしました」
「似たもの同士だってか? 俺は平々凡々と生きてきたからな。何にもないよ」
 肩をすくめながら、ちょっと冗談めいた口調のそんな返事が祐一さんの口から返ってくる。
 聞き覚えのあるその言葉に、わたしは笑顔を浮かべながら、
「あははーっ。あの時と同じ返事ですね」
「え、そうか?」
「はい」
 うなずくわたし。
「俺と佐祐理さんと、それに舞がねぇ……」
 何となく釈然としない様子で、祐一さんは首を傾げている。
 その彼の横顔を、言葉なく見つめるわたし。
 そんなわたしたちの周囲を、まるでベールで覆うように視界を閉ざそうとする真白雪が、深々と降り続いていた。

                  §

「おかえりなさい」
 玄関に足を踏み入れたわたしたちを迎えてくれたのは、穏やかで優しい口調に満ちた、そんな一言だった。
 見ればエプロンを身にまとった綺麗な女の人が、玄関先の廊下に佇みながらわたしと祐一さんのこと静かに見つめている。
 ……誰だろう。
 もしかして、祐一さんのお母さまだろうか。
「ただいま、秋子さん」
 先に言葉を発したのは、祐一さんだった。
 穏やかな口調で帰宅の挨拶を口にしながら、そしてわたしの方へと視線を送ってくる。
 秋子さん、と呼ばれたその女性は祐一さんの視線に促されるように、表情は穏やかなままわたしへと顔を向ける。
「祐一さんがお友だちを家に連れてくるのは、これが初めてですね」
「え……あ、うん。ほら、途中でいきなり降り出してくれたもんだから、傘に入れてもらったんだ。で、せっかくだから傘のお礼も兼ねて、小降りになるまでお茶でもと思ってさ」
「あら、そうだったんですか。えーと……」
 そこで秋子さんは、少し困ったように頬に手を当てる。
 そう言えば、まだ自己紹介もしていなかったことに気がついたわたしは、深々とお辞儀をしながら、
「初めまして。倉田佐祐理と申します」
 そして顔を上げると、満面の笑みを表情に宿す。
「初めまして……佐祐理さん。水瀬秋子です。どうぞ、ゆっくりしていってくださいね」
「はいっ。ありがとうございます」
 にっこりと、返事を返すわたし。
 でも秋子さんは不意に口をつぐんでしまうと、そのままわずかに眉根を寄せながらわたしの顔を見つめ返してくる。
 表情からはつい今し方まで浮かんでいた微笑みが消え、まるで何かを訝しんでいるかのような、そんな色が見え隠れしていた。
「あの……佐祐理の顔に、なにか付いてますか?」
 何秒かの沈黙の後、小首を傾げながらわたしは訊ねる。
 途端、はっと表情をゆるめた秋子さんは、
「あら、ごめんなさい。以前、どこかでお会いしたことがあったような気がしたものだから」
「ふぇ? 佐祐理とですか?」
「ええ……でも、気のせいだったみたいですね。ごめんなさい。さ、立ち話もなんですから、どうぞ上がってくださいな」
 そう言って、きっと夕食の準備の途中だったのだろう、ぱたぱたと家の奥へと戻っていってしまった。
 そして、それまでわたしと秋子さんのやりとりを横で見ているばかりだった祐一さんは、
「それじゃあまあ、秋子さんのお許しも出たことだし、遠慮なく上がってくれ。佐祐理さん」
「あの……祐一さん」
 靴を脱ぎかけている祐一さんに向かってわたしは、口を開く。
「ん。なに?」
「本当に、佐祐理なんかがお邪魔しちゃっていいんですか?」
 喫茶店を出たときに降り始めた雪は、いまも歩くのが困難なほど強い勢いで降り続けていた。
 だから祐一さんが「ウチで少し様子を見た方がいいんじゃないか」と言われたとき、深く考えることもなくその申し出をわたしは受けた。
 でもよく考えてみれば、いまは食事時。
 もしかしたらわたしは、家族の団欒を邪魔する存在なのではないだろうか、そう思ったのだ。
 でも祐一さんは、わたしのそんな問いかけに、
「全然平気だって。秋子さんってさ、賑やかな方が好きな人だから」
 そしてどこか悪戯っぽい笑みを浮かべながら、
「それに秋子さんのことだから、今頃佐祐理さんも晩飯を食べていくって、すっかりその気になってると思うぜ」
「ふぇ〜……そうなんですか?」
「ま、行けば分かるって。さ、遠慮はいらないから、上がった上がった」
 そうして背中を押されるように、わたしは祐一さんの家に足を踏み入れた。
 玄関からまっすぐ延びる廊下の右手には、硝子越しに雪に覆われた真白な庭が広がっていた。
 その廊下を抜けて右手のドアを開くと、そこがリビングだった。
 ドアを開けた途端、ほど良く暖められた部屋の空気がわたしを包む。
 そしてコトコトと何かを煮込んでいるらしい音と、芳しい匂いがわたしの聴覚と嗅覚を刺激した。
「いま夕食の準備をしていますから、もう少し待ってくださいね」
 流しの前で、背中を向けたまま秋子さんが言葉を紡ぐ。
「あ、そうそう。佐祐理さん、なにか苦手な食べ物とかありますか?」
 突然降られた話題に、咄嗟に答えに詰まってしまう。
 でもすぐに気を取り直すと、
「あははーっ。佐祐理、好き嫌いはありませんから、何でも大丈夫です」
「……そうですか。今日はビーフシチューを作りましたから、是非食べていってくださいね」
「あ、はいっ」
 返事をしながら傍らの祐一さんに顔を向けると、彼は予想通りといった顔をしながら軽くウィンクをしてみせてくれた。
 その時だった。
「祐一、おかえり〜」
 さっき通ってきた廊下へと通じる側のドアが開かれ、背後から女の人の声が聞こえてくる。
「おう、いま帰ったぞ」
 振り返ればそこには、白のセーターとチェック地のミニスカートに半纏を着込んだ、わたしと同じくらいの女性が佇んでいた。
 向こうもわたしの存在に気づいたのだろう、少し不思議そうな様子でこちらを見つめている。
 その顔に、わたしは見覚えがあった。
 前に祐一さんのクラスに行った時、やっぱりどこか不思議そうな顔つきでわたしのことを見ていた人だ。
「え〜と……もしかして、前にどこかで会ったことあります?」
 少し戸惑い気味の、そんな問いかけ。
「はいっ。確か祐一さんの教室で、一緒にお掃除をした時にお会いしてると思いますよ」
「あ、やっぱり」
「あははーっ。初めまして……じゃないですけど、でもやっぱり初めましてですよね。倉田佐祐理と言います」
「えっと……わたしは、水瀬名雪です」
 お互いに名前を口にしながら、ぺこりとお辞儀をする。
「あれ? 倉田さんって……もしかして、前に祐一に電話を……」
「あ、はい。それも佐祐理だと思います」
 小首を傾げながらそんな疑問を口にする彼女に向かって、わたしはこくりとうなずき返す。
 多分それは、あの日――バレンタインの日のことに違いない。
 祐一さんと舞が学校に行くかどうかを確かめようと、夜遅くにわたしは電話をかけた。
 その時電話口に出たのが、名雪さんだったのだ。
 途端、少し緊張気味だった表情を楽しげに綻ばせた名雪さんは、
「わぁ〜。すごい奇遇ですね」
「あははーっ。本当に、そうですねーっ」
「……なんか違うと思うぞ」
 不意に横合いから、祐一さんが声をかけてくる。
 その表情は、どこか不満そうな様子。
「はぇ? どうしたんですか、祐一さん?」
「あ、祐一。いたんだ」
 そして、名雪さんがそう言った途端……。
 ぽかっ。
「痛いよ〜、祐一」
 祐一さんにはたかれた頭を押さえながら、恨めしそうな目つきで祐一さんを見上げる名雪さん。
 でも祐一さんは、両手を腰に当てながら名雪さんを見下ろすように、
「馬鹿者。先に俺に声をかけてきたのは、おまえの方だろうが。もしかしてまた歩きながら寝てるのか?」
「う〜。わたし、そんな器用なことできないよ〜」
「嘘をつけ、嘘を。寝ながら飯を食べるのが特技のおまえのことだ、人と話しながらだって平気で寝てそうだぞ」
「はぇ〜……そうなんですか?」
「そんなことないよ〜」
「いや、まったくその通りだ」
 左右から、同時に紡がれる言葉。
 そしてまた、祐一さんと名雪さんの二人の間で、とりとめのない言葉の応酬が始められる。
 何だろう……心の奥底から、言葉にし難い何かが浮かび上がってくる。
 ほんのわずかの間考え、そして答えに行き当たる。
 それは、穏やかな日常。
 日々の積み重なりが生み出す、言葉になどしなくても解り合うことのできる家族の絆の温もりに、わたしの心が揺れていたのだ。
 そしてその温もりは、記憶の中に眠るわたし自身の日常の光景と、いつしか折り重なっていた。
 祐一さんと舞の間で交わされる、たわいのない会話。
 その様子を、横で笑みをこぼしながら見つめているわたし。
 どんな時でも、祐一さんは祐一さんだった。
 舞と一緒にいた時の祐一さんと、そしていま名雪さんと一緒にいる祐一さん。
 どこかぶっきらぼうな口振りだけど、でも決してそれだけじゃない優しさを言葉の端々に感じることができるから。
 それがわたしの知っている、わたしの大好きな祐一さんだった。
「名雪、お夕飯の準備を手伝ってちょうだい」
 台所から顔だけを覗かせた秋子さんが、わたしたちの方に向かって声をかけてくる。
「あ、はーい」
「じゃあ、佐祐理もお手伝いしますーっ」
 名雪さんの後を追って、わたしも台所に向かおうとする。
「さて、俺はどうするかな」
 名雪さんがいなくなって、どこか手持ちぶたさと言った感じの祐一さんが、ぽつりと呟きを漏らす。
「それでしたら祐一さんも、一緒にお手伝いをしましょうーっ」
「ん、そうだな。じゃあ、佐祐理さんと二人で皿でも並べてるか」
「はいっ」
 楽しげな様子でうなずく祐一さんに笑顔を返しながら、わたしたちは秋子さんと名雪さんが待つ台所へと向かった。

                  §

 頭上には、満天の星空が広がっていた。
 降り積もった雪の上を歩くたびに、きゅっきゅっと雪が踏み締められる小さな音が周囲に響く。
 息をするたび真っ白な吐息が、星空を映し出しているわたしの視界の半ば以上を覆い隠してしまう。
「すっかりいい天気だな」
 傍らの祐一さんが、わたしと同じように白く濁る息を顔の周りに作りながら言葉を紡いだ。
 そんな彼の一歩前を歩いていたわたしは、すぐ後ろを歩く祐一さんの方へくるりとその場で身を翻しながら、
「今日はお星さまが、とってもきれいですねーっ」
「ホントにな。ただ……寒いのが難点だな」
「あははーっ、それは仕方がありませんね。これだけの雪が降って、その上このお天気ですから、寒くならない方がおかしいと思いますよーっ」
 そしてもう一度、今度は前に向き直ると雪道を歩き始める。
 夕ご飯をご馳走になったわたしが祐一さんの家を後にしたのは、夜もずいぶん遅い時間になってからだった。
 雪がなかなか小降りにならなかったのもあったけれど、でも本当は祐一さんとその家族――秋子さんと名雪さんとの団欒の場から離れがたいものがあったというのが、わたしが暇乞いをするのが遅くなった理由だった。
 穏やかな物腰で、一緒にいるだけで何となく心が暖まるような気持ちにさせてくれる秋子さん。
 どちらかといえば、わたしたちの会話に耳を傾けるばかりで口数こそ少なかったけれども、同時にすべてを見通しているかのような、そんなどこか不思議な空気を秋子さんはその身にまとわせていた。
 そして、名雪さん。
 祐一さんとは従姉妹の間柄の彼女は――きっと母親似なのだろう、秋子さん以上におっとりとした物腰で穏やかな空気を、常に放ち続けていた。
 出会ってからまだ数時間しか経っていなかったけれど、でもそんな時間の短さを感じさせないくらいに、わたしは秋子さんと名雪さんの二人のことが大好きになっていた。
 普段わたしは、あまり人見知りをしない。
 大抵の人とは初めましての挨拶を交わしてからすぐに、まるで何年も前から友だちだったようなうち解けた雰囲気で会話を交わすことができた。
 人によっては、それをわたしの特技だと言ってくれたりもする。
 そして周りの人たちからは、よく「倉田さんって、きっと世の中人みんながいい人に見えるんだろうね」そんなことを言われていた。
 そんな時、いつだってわたしは「あははーっ、そんなことありませんよー」と曖昧な言葉を返すばかり。
 でも……。
 わたしは知っていた。
 少なくともここに、血を分けた実の弟を望まざる死へと追いやった「悪い人」がひとり、いるのだということを。
 決して許されることのないだろう存在が、誰からも何の咎めを受けることもなく、未だに生きながらえていることを。
 結局のところわたしがしていたのは、ただ社会的生活を維持するために、他人との接点を維持していただけにすぎなかった。
 わたしの頭上に漂い浮かぶ、もうひとりのわたし。
 彼女が「あ、笑うんだ」そう言えばわたしは笑い、「首を傾げるの?」と言えば首を傾げてみせる……ただ、それだけのこと。
 心でなく、身体が生き続けていくためにそれを求めていたから、そうしていただけにすぎなかった。
 だからどんな時も、誰と何を話していてもわたしは、その相手に対して何の興味も感慨も抱くことはなかった。
 舌の上を言葉が滑り、空気を震わせる――わたしにとって他人との接触とは、その程度のことにすぎなかった。
 あの春の日に……舞と出会うまでは。
「佐祐理さん。あんまり早く歩くと、転ぶぜ」
 とりとめのない思いに身を任せるうち、いつの間にか歩調が早まってしまっていたのだろう、振り返るとわたしより少し遅れて雪道を歩く祐一さんが、苦笑いを浮かべていた。
「あ、ごめんなさい。ちょっと早かったですかーっ」
 そう言いながら、歩く速度をゆるめる。
 すぐに追いついてきた祐一さんはわたしと肩を並べると、
「なんか楽しいことでもあったのかい、佐祐理さん?」
「ふぇ? どうしてですか?」
「いや、いきなりスキップなんかしだすから」
「佐祐理、スキップなんかしてました?」
 祐一さんにそう言われるまで、わたしは自分の身体の動きについてまったく頓着することがなかった。
 内心で忸怩たる思いを抱きながら、でもそんな心の揺れとは関係なく動き回る身体。
 一弥を失ってから、乖離し続ける心と身体。
「ああ。そのままどっかに飛んでいっちゃったら、どうしようかと思ったよ」
 言ってることは冗談そのものなのに、でも表情はこれ以上ないほど真面目なものを祐一さんは浮かべている。
 そのギャップが、わたしの口から笑みをこぼさせる。
「あははーっ。佐祐理がもしうさぎさんだったら、きっと月まで飛んでいくんでしょうけどねーっ」
 そう言いながら、わたしはぴょんとその場で飛び跳ねて見せる。
 途端、見事着地に失敗して足を滑らせてしまうわたし。
「わっ」
「……おっと」
 視界がくるりと反転して星空から真白な雪が瞳に映し出されたと思った瞬間、ぐっと身体が引き寄せられる。
 見ればいつの間に近づいてきたのか、祐一さんの顔が間近に見て取れた。
 突然のことに、心臓がどきりと高鳴る。
 でも祐一さんは、そんなわたしの思いに気付かなかったようにいつもと同じ口調で、
「ほーら、言わんこっちゃない。大丈夫か、佐祐理さん?」
「え……あ、はい。大丈夫だと思います、祐一さん」
 腰を抱きかかえられたまま、身体をひねり気味に顔を上向かせながらようやくそれだけを言葉にするわたし。
 星空を背景に、祐一さんの笑顔が双瞳に映し出される。
「まだ怪我だって治りきってないんだからさ、いくら気分が良いからって、頼むからあんまり無茶はしないでくれよ」
「あははーっ。ちょっと、無茶でしたね」
 そしてちくりと、額が疼く。
 もうほとんど治りかけている、額の傷。
 わたしの罪の証。
 償わなくてはならない、咎の証左。
「佐祐理さん、立てるかい?」
 そう言いながら、祐一さんの腕に預ける格好になっているわたしの身体を起こしてくれる。
 ゆっくりと足を雪の上に下ろしたわたしは、そしてようやく自分の足だけで立つことができた。
「助けてくださってありがとうございました、祐一さん」
「ははっ。佐祐理さんのお役に立てて何よりだよ。それにまあこれくらい、お安いご用だって。さ、行こうか」
 少し照れくさそうな表情を浮かべながら、歩き出す祐一さん。
 でもわたしは、その場に立ち尽くしたまま祐一さんの大きな背中を見つめ続けていた。
 内心で、小さな逡巡がわき上がる。
 どうしてなのだろう。
 どうしてか、わたしはいま祐一さんの姿にどきどきしている。
「佐祐理さん?」
 わたしが立ち止まったままなのに気付いたのだろう、少し離れたところでこちらに顔を向けながら、祐一さんがわたしの名を口にする。
 その呼びかけに応えるようにわたしは、
「あの……祐一さんさえ、もしよろしかったらなんですけど……」
「うん?」
 点々と雪道を照らし出す街灯の下で、わたしの言葉を待つ祐一さん。
 切れ切れに吐き出される息が、その度にわたしの瞳から彼の姿を覆い隠してしまう。
 凍てつくような寒さ。
 鈍く疼き続ける額の傷。
 そしてわたしは、次の言葉を紡ぐ。
「佐祐理がまた転んだりしないように、手を繋いでもいいですか?」
 沈黙。
 それきり口を閉ざしてしまったわたしと、わたしの言葉にちょっとびっくりしたような色を浮かべている祐一さん。
 その様子に、少しだけ後悔の思いが体内からわき上がってくる。
 何となくばつの悪い思いを抱いてしまったわたしは、彼の視線から逃れるように視線を落としてしまう。
 そして思う。
 どうして、こんなことを言ってしまったのだろう。
 祐一さんは、舞にとっての大切な人なのに。
 そして舞が大好きな祐一さんだからこそ、わたしも祐一さんのことが大好きなのに。
 それなのに……。
 さくさくと、雪を踏み分ける足音。
 間近に迫ってきたその音に少しだけ顔を上げると、目の前に手が差し出されていた。
 もう少しだけ顔を上げる。
 そこには、穏やかな表情で口元を綻ばせる祐一さんがいた。
「ふぇ?」
「手、繋ぐんだろ?」
「え……っと、いいんですか?」
 躊躇いがちに訊ねるわたし。
 そんなわたしに向かって祐一さんは、
「大切なお姫さまにもしものことがあったら、後で何を言われるか分かったもんじゃないしな」
 祐一さんの言葉には誰が……の部分が抜けていたけれど、でもわたしにはすぐに分かってしまった。
 そう、わたしたちにとってそれはひとりしかいない。
「あははーっ。そうですね」
 笑顔を浮かべながら、わたしは差し出された祐一さんの手に自分の手をそっと重ねる。
 その手は夜の寒気に触れ続けていたせいで、ひんやりと冷たかった。
「それじゃ、ゆっくりいこうぜ」
 穏やかな声音で発せられる、その一言。
 そして思い出す。
 以前、同じ言葉を祐一さんが口にしていることを。
 あの日、夕暮れの商店街のただ中で、やはりわたしに向かって紡がれていたことを。
 だからわたしは応える。
 満面の笑顔で、
「はい、祐一さん」
 と、そう一言。
 冷え切っていたはずの祐一さんの手に、暖かなものを感じる。
 それは、わたしの錯覚だったのかもしれない。
 でもいまのわたしには――心のどこかで、家族の温もりを求めていたわたしにとってそれは、紛れもない確かな現実だった。

                  §

 空虚な世界。
 肌に触れる空気は凍り付いたかのように冷たく、目に映る世界は生活の温もりをまったく感じさせないものばかりだった。
 周囲を見渡す。
 すると、視界に様々な調度品が映し出された。
 壁に掛けられた風景画。
 木製の大きなテーブルと椅子。
 綺麗な彫刻が施された食器棚。
 黒檀が鈍い輝きを発しているピアノ。
 そのどれもが、わたしには普段から見慣れている調度品の数々だった。
 そう、ここはわたしの家なのだ。
 十八年前に生まれ、育ち、そしていまに至るまでに無数の思い出を紡いできた自分の家。
 でも……。
 その情景に、わたしは何の感慨も抱くことができなかった。
 調度品は冷たく「物」としてそこにあるばかりで、何ひとつとして話しかけてくることはない。
 家の中は、わたしひとりきりだった。
 誰もいない家。
 ひとりきりの家。

 ――お似合いだね。

 不意に声がする。
 くすくすと、笑みの織り混ざった女の子の声。
 耳朶を打つその方に目を向けると、居間から庭へと通じる窓硝子の向こうに、女の子がひとりぽつんと佇んでいた。
 長い髪。
 つぶらな瞳。
 白い肌。
 薄い黄色のワンピースの裾が、風に吹かれてふわふわと揺れ動いている。
 どこかで見たことがあるような、そんな子だった。
「何が、ですか?」
 窓越しに返事を返すわたし。
 そして口にしてから、窓を開けなければわたしの声が届かないだろうことに気がつく。
 だから止めていた足を、窓辺に向かって動かそうとする

 ――あなたもそう思ってるんでしょ?

 でもそんなわたしの動きは、彼女の声に遮られてしまう。
 瞳は、まっすぐにわたしを見据えたまま。
 まるでわたしの心の裡までをも見透かしたような、ふたつの澄んだ眼差しがそこにあった。
 だから何が……そう言いかけて、口をつぐんでしまう。
 彼女の言葉が何を意味しているのかに、気がついたから。
 穏やかな表情を保ったままわたしの言葉を待つように、視界のただ中に佇み続ける少女。

 ――誰もいないね。

 そして待ちきれなかったように、歌でも歌うようななだらかな声音が彼女の口から発せられた。
 ゆっくりと、紡がれる言葉。

 ――ひとりぼっちだね。

 そう、わたしはひとりだった。
 この世から「倉田一弥」という名前が、誰にとっても記憶の中でしか存在し得なくなったあの日から、わたしはずっとひとりぼっちだった。
 わたしに家族はいなかった。
 もちろん、わたしを生み育ててくれたお父さまとお母さまは存命だった。
 でもそこにいたのは「お父さま」と「お母さま」という名を冠した、でもわたしとは何の関わりのない存在にすぎなかった。
 どんなときも威厳を失うことなく、厳しかったお父さま。
 子供の頃わたしは、そんなお父さまのお陰で自分はこんなにも「正しい子」に育つことができたのだと、ずっとそう信じてきた。
 そして一弥がいなくなってから、お父さまは優しくなった。
 一弥を死なせたわたしの心が空虚さに満たされ、そして為す術もなく漂うばかりだった間、ただ物静かにそこにいるばかりだった。
 そしてお母さまも、以前ほどわたしに向かって笑みを浮かべてくれることがなくなった。

 ――きっと、恐かったんだよ。

 女の子が言う。
 窓硝子を挟んで相対するわたしは、その言葉に何も返事をしなかったけれど、でも彼女の正しさを心の奥底で認めていた。
 そう、お父さまとお母さまは恐かったのだ。
 わたしの行いが。
 虚無に満たされ、そして何をしでかすか傍目には分からない、倉田佐祐理という名の娘の存在が。
 自分のことを「わたし」ではなく「佐祐理」と呼ぶようになったわたし。
 何の感情も抱くことができなくなったわたし。
 ふわふわと自分の上空を漂いながら、なおも生きながらえる自身を見下ろし続ける、もうひとりのわたし。
 そして……手首を切ったわたし。
 そんなわたしの顔色を窺うように、お父さまもお母さまもいつだって優しくわたしに接し続けてくれた。
 家族としての思いやりを込めて。
 家族としての気づかいを込めて。
 でも……。

 ――仕方ないよね。

 とりとめもなく紡がれるわたしの思いを遮るように、そんな言葉が耳に流れ込んでくる。
 見れば女の子は、楽しげな様子でにっこりと目を細めていた。
 そして言う。

 ――だってあなたは「ヒトゴロシ」なんだから。

 そして「くすくす」と、どこか悪戯っぽい忍び笑いが鼓膜を震わせる。
 ヒトゴロシ。
 夢の中で、そして現実の中で何度となく聞かされてきた言葉。
 そう、わたしはヒトゴロシなのだ。
 一弥を死に追いやり、舞に瀕死の重傷を負わせ、犠牲と屍の上でのうのうと生を享受し続けているわたし。
 だからわたしには、家族を持つ資格はない。
 だからわたしには、誰からも愛される資格はない。
 だからわたしには、誰も愛する……資格なんてないのだ。
 顔を上げる。
 気が付くと女の子は、まるで空気の中に溶け入ってしまったかのように、視界から姿を消していた。
 ……誰なのだろう、あの子は。
 静寂と孤独に包まれた世界にひとり佇みながら、心の片隅でわたしはそんな小さな疑問を抱く。
 でも、答えはどこからも返ってはこなかった。

                  §

 黒板の上に据えられているスピーカーから、終業を告げるチャイムの音色が流れ出す。
 その途端、先生の口から漏れるどこか抑揚の欠け落ちた朗読の声と、ノートの上を走るシャーペンの硬質な音色に包まれていた教室の中に、ほっと安堵のため息をつくような空気が流れた。
「きり〜つ」
 日直の号令の声と共に、手にしていたシャーペンを置いたわたしは席を立ち、教卓に向かって礼をする。
 そして先生がドアの向こうに去った次の瞬間、教室に日常のざわめきが戻ってきた。
 今日は、担任の先生が研究日でお休み。
 だから終業後のホームルームがないわたしたちのクラスにとっては、一足早い放課後の訪れだった。
 そして教室のあちこちで、クラスメートたちが何人かずつ集まって雑談に興じている姿を横目に、わたしは手早く帰り支度を済ませる。
 手荷物はふたつあった。
 ひとつは通学カバン。
 卒業も間近となった二月のいま、カバンの中に入っているのは必要最低限――授業に使う教科書やノート程度――のものだったから、重さは大したことはない。
 そしてもうひとつの荷物は、チェック地の大きめの風呂敷に包まれながら、机の上でわたしの手に掴まれるのを待っていた。
 それは、お弁当箱。
 朝家を出たとき、その中にはご飯とおかずが一杯に詰め込まれていた。
 二重になっているその一段目には、炊き立ての白米を。
 そして二段目には、鳥の唐揚げとミニハンバーグを主なおかずに、卵焼き、ポテトサラダ、それにデザートにうさぎ剥きのリンゴを詰めてあった。
 そして放課後の時間のいま、お重の中は綺麗に空っぽになっていた。
 全部、祐一さんが食べてくれたのだ。
 舞の姿を学校で見かけなくなってから、一週間が経とうとしている。
 そして最初の何日かは、ついいつもの癖でわたしと舞、そして祐一さんの三人分のお弁当を用意してしまっていた。
「あははーっ。二人では、ちょっと多すぎますね」
 その日、いつもの食事場所――屋上に通じる階段前の踊り場に敷かれたシートの上に広げられた、三人分のおかずとご飯が詰め込まれたお重を前に、苦笑をこぼしながらわたしは口を開く。
 わたしは元々、あまり食べる方ではなかった。
 それに祐一さんは祐一さんで、わたしのお弁当とは別に食堂でパンを買ってきていたから、お弁当の方はおかずを幾つかつまむ程度。
 考えてみれば、わたしが持ってきたお弁当を一番たくさん食べていたのは、舞だったのだ。
 綺麗に配列された、でもどう考えても多すぎるおかずを前に、思わず黙り込んでしまうわたしたち。
 その沈黙を破ったのは、祐一さんだった。
「実はさ……俺のクラス、四時間目が体育だったんだ」
 まるで大切なことをうち明けるように、わたしの方に少し身を寄せながら言葉を紡ぐ祐一さん。
「ほぇ、そうだったんですか?」
「ああ。お陰でいま、腹ぺこなんだ。さぁ、食うぞぉ」
 そう言ってお箸を手にした祐一さんは「いただきます」の言葉を合図に、まるで親の仇のようにおかずを食べ始めた。
 結局その日のお弁当の殆ど――わたしは十分の一も食べていない――を、祐一さんは食べてしまった。
 そして祐一さんが、ポットから注いだ紅茶を差し出すわたしに向かって、
「ごちそうさま。佐祐理さんの料理、相変わらず美味かったよ」
 にっこりと微笑みながらそう言ってくれたとき、身体の中に何とも言えない暖かな思いがわき上がってくるのわたしは抑えることができなかった。
 何故なら、わたしは知っていたから。
 祐一さんのクラスが、本当は四時間目が体育じゃなかったことを。
 四時間面、わたしのクラスも体育だった。
 そしてグランドは、昨晩の雪で埋もれて使えなかったから、もし祐一さんのクラスが体育だったなら体育館でその姿を見かけたはずだった。
 でも体育館にいたのは、わたしたちのクラスだけ。
 そう……祐一さんは、わたしのために空いてもいないお腹を空いたと言って、そして舞の分までお弁当を食べてくれたのだ。
 きっとわたしが、残ったお弁当を前に悲しい思いをしないように。
 そしてそれが、祐一さんの優しさなのだ。
 机の上のお弁当箱に手を伸ばしながら、そんなことを考えるわたし。
 手にしたお重は、軽かった。
 二人分のお弁当。
 毎日、残さず全部食べてくれる祐一さん。
 そろそろ、祐一さんのクラスもホームルームが終わる頃だろうか……壁に掛けられた時計を見てそんなことを思ったわたしは、荷物を手に机を離れる。
 そして教室のドアの前で、一度だけ後ろを振り返る。
 窓の外に広がる鉛色の空とは対照的に、放課後のどこか浮き立つようなざわめきに満ちた室内の情景が目に映る。
 でもそこに……わたしが求めるものはない。
 わたしはひとりぼっちだった。
 何故なら、舞がいないから。
 舞の席だけが、まるでそこだけが喧噪から切り離されてしまったように、ぽっかりと浮き上がっていた。
 そしてふっと、自分の心が身体から遊離していくような、そんな違和感を覚えてしまう。
 ドアの前で言葉なく佇むわたしの姿を、その頭上からぼんやりと見つめやっているもうひとりのわたし。
 ……わたしじゃない、わたし。
 そして次の瞬間、わたしの意識は元の場所に戻っていた。
 自分にとって大切なはずの人たちを傷つけ、犠牲にしていくことでしか生きながらえていくことのできない、厭うべき身体の中に。
 ヒトゴロシの……身体の中に。
 踵を返す。
 そして今度こそ、わたしは喧噪に包まれる教室を後にした。
 二年の教室に、祐一さんを迎えに行くために。
 今日も二人で――わたしと、そして舞の大好きな祐一さんと一緒に、舞のお見舞いに行くために。

                  §

 足元に触れる何か。
 からからんと、どこか間の抜けた金属音を響かせながら廊下の上を転がったそれは、バケツだった。
 掃除の時くらいしか、使う用がないはずのそれ。
 きっと誰かがしまい忘れたのだろう、そのバケツは本来あるべき流しの脇ではなく、廊下の隅に投げ出されるように横になっていた。
 その場にしゃがみ込んだわたしは、そして思わず蹴飛ばしてしまったバケツに両手を伸ばし、横になったままのそれを起こしてあげる。
 手に触れたそれは、金属特有のひんやりとした冷たい手触りを返してきた。
「……ふぇ?」
 そしてバケツを前にわたしは、思わずそんな声を出してしまう。
 それはどういう訳か、本来なら滑らかな曲面を描いているはずのバケツの表面が、まるで何かにたたかれたようにあちこちが歪んでいたからだった。
 バケツが歪んでいること自体は、それほど不思議な話ではない。
 いまわたしがしたように、掃除中に不注意から足で蹴飛ばしてしまうようなことは、それこそ日常茶飯事なのだから。
 でもいま目の前にあるその歪みは、わたしの目から見ても足で蹴っただけとは思えない歪み方をしていた。
 そう……まるで棒か何かでたたいたかのような。
 それで思い出す。
 少し前、舞が入院してしまう前に小耳に挟んだ噂のことを。
 それは放課後、どこへ行くのか教室からすぐに姿を消してしまう舞を探して、学校中を走り回っていたときに、耳にしたものだった。
 廊下で不思議そうな顔をしながら、下級生の女の子たちが話していたのは「放課後になるとタライやバケツや消化器を持って歩いている女の子がいる」そんな内容だったけれど、でもわたしにはすぐにそれが舞のことなんだと判った。
 だってそんな変なことをする女の子なんて、舞しかいないから。
 そしてきっと、舞にだけしか分からない意味と目的があって、そうしているに違いないのだ。
 いま、わたしの目の前にある奇妙な形に歪んだバケツ。
 それはもしかしたら、舞が持って歩いた結果そんな形になってしまったのかもしれなかった。
「早く行かないと、また祐一さんがどこかに行っちゃいますねーっ」
 ひとりごちそんな呟きをもらしながら立ち上がったわたしは、ゆっくりと手近の流しへと近づき、手にしていたバケツを流しの脇に戻した。
 それから、足早に二年生の教室へ向かう。
 少し前にホームルームが終わっていたらしいそこは、わたしのクラスと同様既に放課後の雑然とした賑わいに満たされていた。
「祐一さん、お迎えにあがりました。一緒にお見舞いにいきましょうーっ」
 ドアの脇から顔だけをのぞかせながら声を発したわたしだったけれど、でも教室の中に祐一さんの姿はなかった。
「祐一なら、ついさっき出ていっちゃいましたよ」
 これから部活に向かおうとしていたのだろうか、カバンを手にしている見知った女の子――名雪さんが、ちょっと不思議そうな色を浮かべている。
「ふぇ〜……そうなんですか?」
「ええ。なんだかこのところ、放課後になると何も言わずにすぐどこかに行っちゃうんですよね」
「部活でしょうか?」
 一番ありそうな可能性を口にしてみる。
 でも名雪さんは、相変わらず半信半疑といった感じの顔つきをしたまま、
「う〜ん、そうかもしれませんけど……どうなんでしょうね」
 そんな、どこか曖昧な返事を口にするばかりだった。
 名雪さんとの会話をそこまで思い出して、ぴんとくる。
 祐一さんは、きっとあそこにいる。
 目の前で静かに佇むバケツを前にそのことを確信したわたしは身を翻し、そして廊下を駆けだした。
 階段を一階に向かって駆け下り、立ち並ぶ教室を左手に見ながら廊下の端にあるドアに向かって走り続ける。
 金属製の、どこか重々しげな印象を感じさせるそのドアの前でようやく足を止めたわたしは、空いた方の手をノブにかけ、肩をドアに押し当て体重をかけながらゆっくりと押し開いた。
 刺し貫くような、冬の寒気がこじ開けられたドアの隙間を通って、わたしの肌の上を流れ去ってゆく。
 その冷たさに、思わず身体を縮こまらせながら目を閉じてしまう。
 やがてゆっくりと見開かれた双瞳に映し出されたのは、一面の雪に覆われた中庭と、そして求める人の姿。
 祐一さんだ。
 数日前、やはり舞のお見舞いに一緒に行こうとあちこちを探し回っていたときに見かけたのと同様、祐一さんは木刀を振りかぶった姿勢で身じろぎひとつすることなく、正面を見据えていた。
 そして次の瞬間「はっ」と声を発しながら、それを振り下ろす。
 校舎の中へと続くドアの前で、わたしは祐一さんのその姿を言葉なく見つめ続けるばかりだった。
 何となく、声をかけるのがためらわれたのだ。
 目の前の虚空を見つめやる祐一さんの眼差しは真剣で、まるで目に見えない何かと相対しているかのような、緊張感がわたしにまで伝わってくる。
 どうしてなのだろう。
 祐一さんは、何と戦おうとしているのだろう。
 そんな疑問が胸の中に浮かんでくる。
 同時にその答えは、わたしの中に既に存在していた。
 そう、夜の学校だ。
 舞と祐一さんの二人が、何かの目的を持って毎日訪れ続けていた場所。
 そして……わたしを庇って、舞が傷ついた場所。
 額の治りかけの傷が、まるでその時の記憶を再びわたしの中に刻むかのようにちくりと痛んだ。
 ――ヒトゴロシ。
 悲しい思い。
 苦しい思い。
 痛い思い。
「あれ、佐祐理さん?」
 再び木刀を振りかぶりかけた祐一さんが、傍らに佇むわたしの存在に気付いたのは、その時だった。
 意識を現実に引き戻されたわたしは、
「あははーっ。祐一さん、やっと見つけましたーっ」
 そう言って、石段を下りて雪に覆われた中庭に足を踏み入れる。
「今日も、食後の運動ですかーっ」
「まあ、そんなところかな」
 手にした木刀を肩に乗せ、とんとんと上下させながら答える祐一さん。
「なんだか、祐一さんひとりで同好会の活動をしているみたいですね。でも、ひとりだと大変じゃないですか?」
「うーん、そうだな。確かにひとりきりだと、せいぜいそぶりくらいしかできないってのが一番の難点だな」
「そうですよねーっ」
 腕組みをしながら、うんうんとうなずく祐一さん。
「それでしたら……」
 胸の前でぽんと、両手を合わせるように軽くたたくわたし。
 そしてにっこりと笑みを浮かべながら、祐一さんに向かってわたしは言葉を紡ぎだした。
「……佐祐理も、仲間に入れてくれませんか?」
第5章に続く

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