『永遠の楽園』
Update:1999.12.01





第5章「叱責」

 佐祐理さんが口にしたその一言は、俺の思考をたっぷり十秒は停止させてくれるに十分なものだった。
 改めて、目の前に佇む彼女の顔を見つめやる。
 にこにこと、いつもと変わらぬ朗らかな笑みを浮かべている佐祐理さんは、まるで拝むように合わせた両手の先で俺の返事を待っている。
「え……あっと、だな……」
 うまく言葉が出てこない。
 そんな俺に少し不思議そうな色を浮かべながら、佐祐理さんは「ほぇ……どうかされましたか?」そう、静かに訊ね返してくる。
 気持ちを落ち着けるため、いきなり両腕を広げながら大きく一度深呼吸をしてみせた俺は、
「佐祐理さん、自分で何言ってるか分かってる?」
 ようやくのことで、それだけを口にすることができた。
「はい」
 あっさりと戻ってくる返事。
 相変わらずの朗らかな表情に、俺はどこか拍子抜けするような思いを感じてしまう。
「面白そうって……俺、いま剣の稽古をしてるんだけど」
「あははーっ。いくら佐祐理でも、それくらいのことは分かりますよーっ」
「……あ、そう。じゃあ佐祐理さんは、俺が何をやってるか分かってて、『仲間に入れてくれ』って言ってるんだ?」
「もちろんです」
 こくりと首を縦に振る彼女を前に、考え込んでしまう俺。
 彼女の申し出に、どう返事をしたものかと。
 言わずもがなのことだが一口に稽古と言っても、確かに俺ひとりではやれることがかなり限られてしまうのは事実だ。
 舞が居てくれれば、技量的にはまったく敵わないと分かってはいても、とりあえず誰もいない空気でなく人相手に剣を振るうことができた。
 無論、佐祐理さん相手でも同じことはできないこともない。
 彼女が女の子であることを考慮に入れても、俺の剣を受けることくらいはできるのではないか……と、そう思ったのだ
 ただそんなことを考えながら、同時に俺は素直に彼女の申し出を受け入れることができなかった。
 何故なのか。
 舞なら当然のように頼むことができるのに、佐祐理さんにそれを頼むことについては、どうしてか引っかかるものを感じてしまう自分。
 彼女が女の子だから?
 彼女が剣なんて振るえそうもないから?
 彼女が怪我人だから?
 彼女が……佐祐理さんだから?
 そのどれもが正しく、そして同時にそのすべてが的外れな答えを示しているのかもしれない。
 そもそも彼女は、俺が一体何の目的でこんなことをしているのかを、知っているのだろうか。
 ヤツ――「魔」と戦うために、剣を振り続けていることを。
 舞に代わってヤツを倒すために、毎日放課後になると誰もいないはずのこの場所に来ていることを。
「……祐一さん」
 不意に、自分の名を呼ぶ声が耳朶をたたく。
 意識を現実に引き戻せば、そこにはどこか寂しげな色を浮かべている佐祐理さんの、普段余り見ることのない表情があった。
「佐祐理じゃ、ダメですか? 佐祐理なんかじゃ、祐一さんのお役には立てませんか?」
「え、いや……」
 思わず言葉を濁してしまう。
 そんな俺の言葉をどう受け取ったのか、佐祐理さんはやはり寂しげな様子で、でも口元に弱々しい笑みを浮かべながら、
「あははーっ。こう見えても佐祐理、運動神経いいんですよ」
 彼女が発したその声は、口元に浮かぶ笑みと同様どこか弱々しい。
 舞だったらこんな時、どう答えただろう。
 ふと、そんなことを考えてしまう。
 考えるまでもなかった。
 自分と一緒にいるせいで、彼女を傷つけ続けているのだと思い込んでいる舞なら、この件に佐祐理さんが関わることだけは、何があっても絶対に拒絶するに違いなかった。
 たとえそうした結果、一時的にでも佐祐理さんを傷つてしまうのだと分かっていても。
 「魔」との戦いに彼女を巻き込むことで、その先に待っているだろうそれ以上の辛く厳しい現実のために傷つけてしまうことのないように。
 なら……俺は?
 俺は、彼女を巻き込むことを望んでいるのだろうか。
 相手は未だその正体すら判然としないまま、夜の学校を我が物顔で徘徊し続けている魔物だ。
 ヤツの前に現れたのが仮に女性だからといって、剣技に長けていないからといって手加減をしてくれるようなヤツではない。
 事実、舞はそいつらと三年間、命がけで戦い続けてきた。
 たったひとりで。
 誰の助けも借りることなく。
 そもそも佐祐理さんだって、ヤツの恐ろしさは判っているはずだ。
 彼女の額の一部を未だに覆っているガーゼは、ヤツの存在と、そしてヤツと出会った結果を示す、文字通りの証だった。
 もしかしたら佐祐理さんは、そこまでは考えていないのかもしれない。
 俺の方からは彼女に何の説明もしていない――適当な言い訳で誤魔化したことは何度もあったが――のだから、それも当然だ。
 純粋な興味と好奇心から、俺の相手を努めたいと申し出てくれているのかもしれなかった。
「佐祐理さん、あのさ……」
 さんざん逡巡を繰り返した挙げ句、俺は慎重に言葉を選びながら彼女に向かって口を開く。
 やはり断ろう。
 恐らく舞だったらそうしたように、俺にとっても佐祐理さんは守るべき存在であり、できる限り危険には巻き込みたくなかったから。
 大好きな佐祐理さんを、これ以上傷ついていくのを見たくなかったから。
 そんな俺の思いを感じ取ったのか、俺が次の言葉を紡ぐ前に佐祐理さんは機先を制するように、
「それじゃあ祐一さん、試してみてください」
「え?」
「佐祐理が祐一さんのお眼鏡にかなうか、一緒に練習をしても大丈夫かどうか試してみてください」
 何ごともなかったように、そう言葉を紡ぐ佐祐理さん。
「で、でも……」
 突然のその申し出に、戸惑うばかりの俺。
 気が付くと俺の視線は、彼女の額――未だ癒えきらない傷を被っているガーゼへと向けられていた。
 そう、そうなのだ。
 彼女は怪我をしているのだ。
 それも俺の不甲斐なさ、思慮不足が故に招きよせてしまった災厄に巻き込まれた挙げ句、負った怪我なのだ。
 俺の視線に気付いたのだろう、ちょっと訝しげな様子で上目遣いに自分の額に目を向けた彼女は、やがてはっと表情をこわばらせる。
 次の瞬間の彼女の行動は、俺の予想を越えたものだった。
 額のガーゼに手を当てた佐祐理さんは、ほんの一瞬何かを躊躇うようにそこで手を止める。
 そして意を決したように小さく一度うなずくと、ガーゼを固定しているテープごとそれを引き剥がしてしまったのだ。
「あっ!」
 思わず、声を上げてしまう俺。
 隠すものもなく外気に晒さるばかりの佐祐理さんの額には、まだ抜糸も終わっていない傷痕が、克明に刻まれていた。
 しかしそんな声とは裏腹に身体の方は、想像もしなかった突然の成り行きに反応しきれず、ただ立ちすくむばかりだった。
 そんな俺に向かって、手中のガーゼへと視線を落としながら佐祐理さんが口を開く。
「祐一さんは、佐祐理のこれが気になるんですよね?」
「…………」
「でしたらこれを取ったら、佐祐理の相手をしてくれますか?」
「それは……」
 違う、と言いかけて俺は口をつぐむ。
 俯かせたままだった顔を上げた佐祐理さんと、目が合ってしまったからだ。
 そしてそこには嘘偽りのない、俺の本心からの答えを望む彼女の、真摯な眼差しがあった。

                  §

「それじゃあ、勝負は三本勝負だ。俺か佐祐理さんのどちらかが、先に二本取った方が勝ちってことでいいか?」
「ええ。それでも構いませんが……できれば、五本勝負にしませんか?」
 ちょっと考えるようなそぶりを見せた後、佐祐理さんはそう言葉を紡ぐ。
「五本? どうして?」
 彼女の意図が分からず、即座に問い返す俺に、
「だってその方が、いっぱい楽しめるじゃありませんか。あははーっ」
 たったいま手渡したばかりの木刀を、右手でゆらゆらと軽く揺らしながら佐祐理さんは笑顔を浮かべる。
 その笑みにつられるようについ首を縦に振ってしまった俺は、うなずいてから自らの過ちに気付いた。
 いつの間にやら、すっかり佐祐理さんのペースになってしまっている。
 内心で、つい苦笑いを浮かべてしまう俺。
 別に今日に始まった話ではないが、彼女の「朗らかな傍若無人」とでも呼ぶべきこの行動パターンに、どうしてか俺はからきしだった。
 人徳の為せる技とでも言うのだろうか、見るからに楽しげな様子で周囲をぐいぐいと引っぱっていく強引な佐祐理さんのペースに、俺も舞もいつだってまったくと言っていいほど抵抗の術を持っていなかった。
 正確には抵抗する意思すらなかった、と言うべきだろうか。
 何故なら、それが佐祐理さんだから。
 決して自分のためなどではなく、どんな時も相手のことを思いやった結果としての傍若無人なんだと、俺たちは知っていたから。
 初めて出会ってからまだ二月と経っていない彼女だったけど、でもそういうことを理解するのに月日の長さは関係ない。
 人間なんて、たった一日で旧知の親友になれることもあれば、不倶戴天の仇敵になることだってあるのだから。
 そして佐祐理さんは、俺にとっては間違いなく前者の存在だった。
 顔を上げる。
 そこには、白一色に染め上げられた雪の上で俺の次なる言葉を待つ、佐祐理さんの姿があった。
「じゃ、始めるか」
 できるだけいつもと同じそぶりを装いながら、口を開く。
「はいっ」
 数メートルほど離れた場所で、木刀を手に佐祐理さんが小さくうなずく。
 俺と佐祐理さんとの間に存在するのは、凛と張りつめた空気と、そして降り積もった雪ばかり。
 決して戯れや、お遊びでこの場に望んでいる訳でないことは、真剣そのものの表情が言葉以上に語っていた。
 ゆっくりと手にしていた木刀を構える。
「行くぜ」
 それが合図だった。
 ざっと雪を踏みしめながら一歩、佐祐理さんの方に近付く。
 そんな俺の体捌きを瞬きと共にただ見つめやるばかりの彼女の懐へ、一気に間合いを詰める。
 かん、と剣先が触れた瞬間、俺は右手を軸に時計回りに柄を支えている左手を捻った。
 思わず「りゃっ!」と、気合いが口から漏れてしまう。
 佐祐理さんの刀を巻き込むように、俺の刀が小さな円を描く。
 次の瞬間、突然の予期せぬ方向からの応力に耐えかねるように絡め取られ、彼女の手を離れた。
 俺の頭上を、くるくるとその身を回転させながら飛び越えていったそれは、雪上に突き刺さるように落ちた。
 そして、文字通り佐祐理さんの目の前で寸止めされた俺の刀。
「ふぇ〜……」
 彼女の口から、感嘆とも畏怖ともつかないそんな呟きが漏れ出たのは、それから十秒ほど経ってからのことだった。
 上目遣いに、眼前の刀を見つめやる佐祐理さんの横を薙ぐように下段に構え直しながら、残心と共に身体を引く。
 そして俺は「ふぅ」と、大きくため息をついた。
「まずは一本……だな」
「祐一さんって、とてもお強いんですねーっ」
 空っぽになってしまった両手と、俺の顔を交互に見つめながら感心したように佐祐理さんが口を開く。
「まあ、それなりに練習はしてきたからな」
 誉められたことに照れくささにも似た思いを抱きながら、背後の雪に突き刺さったままの刀に歩み寄り、それを引き抜く。
 そしてそれを彼女に手渡しながら、
「どうする。まだ、続けるか?」
「はい。もちろんです」
 佐祐理さんはにっこりと微笑みを浮かべながら、大きくうなずいた。
 そんな彼女に「そっか……」と、そんな曖昧な返事を返すことができなかった俺だったが、本音を言えばここで止めたいところだった。
 確かにここしばらく鍛錬を続けていたお陰で、剣を振るう腕に関しては多少なりとも上達しているつもりだ。
 とはいえ、まだまだ素人に毛が生えたレベルに過ぎない。
 たったいまの技にしても、たまたま上手くいったからよかったようなものの、実際のところは半分以上僥倖のなせる技だということは俺自身、百も承知しているつもりだった。
 もし、ここに舞がいたらきっと、
「……偶然」
 の一言で済まされてしまうだろうことは、想像に難くない。
 だから俺としては、ここで佐祐理さんに「もう止めましょう」と、そう言って欲しかったのだ。
 でも現実――と言うより佐祐理さんの好奇心――は、俺が思っている以上に奥深いものらしく、彼女は再び手にした木刀を構えながら、
「さあ、今度は負けませんよーっ」
 にこやかに、そう言い放ってくる。
 苦笑いを浮かべながら、それでも俺は彼女がこの「勝負」に飽きるまでつき合ってあげることにした。
 中段に構え、呼吸を整えながら剣先に佐祐理さんの姿を捉えながら腰を少し落とす。
「それじゃあ、今度は佐祐理の方から行きますねーっ」
 そう言うや否や、ぱたぱたと駆け寄ってきた佐祐理さんはおもむろに俺の方に刀を振り下ろした。
「えい、えい、えい、えいっ!」
 体捌きも何もない、腕だけで手中の刀を振り回している。
 実際問題、生まれてこの方剣なんて握ったことなどないだろう彼女だから、そうなってしまうのは当然と言えば当然かもしれない。
 しかし型はともかく、その振りの早さはかなりのものだ。
「ととっ……」
 後ろ足に重心を傾け気味に、その連続技(?)刀で受け流す。
「えい、えい、えい、えい、えい、えい、えい、えい、えい、えいっ……えい、えい、えい、えい、えい、えい、えい、えい、えい、えいっ……」
 最初のうちこそそれなりに余裕だった俺も、流石に一分以上も途切れることのない彼女の打ち込みに焦りにも似た何かを覚える。
 この細い身体のどこに、これだけの持久力が……息切れひとつすることなく、しかも笑顔を浮かべたままなおも続く攻撃を受け流しつつ、その先にある佐祐理さんの肢体を瞳に映し出しながら、ふとそんなことを思ってしまう。
 そして視界の端に、俺の後退に伴ってじりじりと前進を続ける彼女の両足を映し出した刹那、身体が勝手に次の行動に移っていた。
 繰り出された刀身が振り戻された瞬間を狙って、後ろ足に傾けていた重心を前足に移す。
 そして柄を胸元に引き寄せながら、そのまま身体ごと彼女の柄にぶつける。
「せいっ!」
「わっ」
 突然の俺の反撃にバランスを崩したのか、小さな悲鳴をあげながら後ずさる佐祐理さん。
 思った通りだった。
 イメージ通りの展開に俺は心の中でほくそ笑み、そして背後へと飛び退きながら振りかぶった刀を彼女の柄本へと振り下ろす。
 手首より少し上の部分――剣道で言う小手の部分だ――に刀身が重なるのをこの目で確かめた俺は、手のひらに刀を通して伝わってくる小さな衝撃を覚えた瞬間、手首を返す。
 残心を残しながら顔を上げれば、そこには得物を失って言葉なく立ちすくむ佐祐理さんと、そして雪上に転がる木刀が映し出されていた。
「よしっ」
 これで二本目だ。
 嬉しさの余り、思わずガッツポーズを取りそうになる俺だったが、そんな喜びも手首を押さえながら眉根をしかめる佐祐理さんの表情を見るまでだった。
「だ、大丈夫か、佐祐理さんっ!」
 慌てて駆け寄る俺。
「あははーっ。また取られちゃいましたねーっ」
 俯かせていた顔を上げ、俺に向かって笑みを浮かべる佐祐理さん。
 でもその顔は、どこか痛々しげなものだった。
 そして俺は彼女のその表情が、てっきり手首の痛みなのだとばかり思いこんでしまった。
「ごめんな。打つとき、咄嗟に手加減したつもりだったんだけど……」
 そう言いながら彼女の制服の袖を捲り、打突部の具合を確かめる。
 文字通り雪のように白い佐祐理さん肌は、幸いなことに染みひとつ、腫れひとつ見当たらなかった。
 とりあえず怪我はしてないようだ。
 それを確かめてほっと安堵のため息をもらした俺の耳朶を、間近からの届く彼女の声が震わせる。
「……違うんです、祐一さん」
 視線を右手から、佐祐理さんの顔へと移す。
 そこには、どこか痛々しげな色を浮かべる彼女の姿があった。
「別に、打たれたところが痛かったからじゃないんです。当たったのは……右手でしたから」
「え?」
「佐祐理じゃ、やっぱり祐一さんのお役には立てないのかな……って、そう思ったら少しだけ悲しくなってしまったからなんです」
「……佐祐理さん」
 こんな時、何て言えばいいんだろう。
 咄嗟に気の利いた言葉が出てこない、そんな機転の効かない自分の頭が呪わしかった。
 そしていま、佐祐理さんに悲しい思いをさせているのは、他でもない俺自身の行動が故なのだ。
 分かっていたはずなのに。
 佐祐理さんがただ「面白そう」という理由だけで、こんなことをしようと言い出した訳じゃないってことを。
 自分が相手役を勝って出ることで、少しでも俺の役に――それが引いては舞の役に立つことなのだと信じて、いまここに居てくれているのだ。
 沈黙が、俺たちの間を包む。
 凍てついた冬の空気が、絶え間なく肌を刺激してくる。
 そうしてどれくらい経った頃だろう、俺は一度だけ息を大きく吸い込むと、できるだけ明るい声を作りながら、
「……足捌きがさ、良くないと思うぜ」
「ふぇ?」
 突然のことに、ちょっとびっくりしたような様子で俺を見つめ返してくる佐祐理さん。
 そんな彼女に向かって、俺はにっこりと微笑みながら、
「俺、小学校の頃に柔道をやってたから少しだけ知ってるんだけどさ、剣道とか柔道には他のスポーツなんかと違って、独特な足捌きがあるんだよ」
 そして身体を起こすと、刀を構えながら姿勢を取り直す。
「ほら。こうして利き足を残して、残った方の足を半歩後に下げる。こうすると重心の移動が楽になるから、動きが軽くなるんだよ」
「……そうなんですか?」
「試しに、佐祐理さんもやってみな」
「あ、はい」
 言われるがままに、落ちていた刀を拾い上げて見よう見まねで中段の構えを取る佐祐理さん。
「そうそう。それで前に打ち込むときは前足に重心をかけ気味にして、体重ごと刀を振り下ろす」
「えいっ」
 びゅっ、と寒気を引き裂くように刀身が振り下ろされる。
「で、残った後ろ足は、前足の踵を追いかけるように摺り足で……」
「こう、ですか?」
「ああ。そんな感じ」
 大きくうなずきながら、俺は口元をゆるめる。
 最初こそ、どこかぎこちない風で身体を動かしていた佐祐理さんだったけれども、やがて慣れてきたのか動きの固さが取れ、滑らかに前後の体重移動ができるようになる。
 ぱっと見、いかにもお嬢さま然とした佐祐理さんと運動なんて相容れないもののような気もしたのだが、確かに「運動神経はいい」という彼女の言葉に嘘はないようだった。
 やがて彼女の口から、
「あ、何となくコツを掴んだ気がします」
 嬉しそうな表情と共にそんな言葉が漏れた頃合いを見計らって、俺は手にしていた刀を握り直した。
 そして、ゆっくりと佐祐理さんの方に向き直る。
 胸中には小さな疑問が漂っていた。
 本当に、これでよかったのだろうかと。
 もしかしたらこうすることで俺は、佐祐理さんを俺と舞の二人だけの問題だった「魔」との戦いに、彼女の意志に関わらず巻き込んでしまっているのではないだろうかと。
 もしここにいるのが俺ではなく舞だったら、きっと違った答えを見出しているのかもしれない。
 たとえ今この時、大切な人に悲しい思いを抱かせたのだとしても、それが正しい答えなのだと信じて。
 でも、俺は嫌だった。
 目の前で、大切な人が――大好きな人が悲しい顔を浮かべながら、佇んでいるのを見るのが。
 いつだって笑顔でいて欲しい人が、辛い思いを抱きながら佇んでいるのが。
 胸の奥が、ちくりと痛んだ。
 それと同時に脳裏に、ぼんやりとした映像が浮かび上がってくる。
 雪。
 黄昏。
 紅。
 そして……悲しげな表情を浮かべている、誰か。
 何だろう。
 誰だろう。
 まるでピントが壊れたテレビのように、ぼやけた映像ばかりを映し出していたそれは、やがて現れた時と同じように唐突に俺の中から消える。
 気を取り直すように頭を軽く振った俺は、そして佐祐理さんに、
「じゃあ三本目、始めるか」
「はいっ。佐祐理、今度は負けませんからねーっ」

                  §

 目覚ましが鳴っている。
 どこか気の抜けた感じな名雪の声が、鼓膜を通して俺の意識を何度となく刺激する。
 無意識のうちに手を伸ばして鳴り響くそれを止めた俺は、ゆっくりとベッドから起きあがり、針が指す文字盤の数字を確かめた。
 時間だ。
 光の失われた、夜の帳の中にうっすらと浮かび上がる部屋の情景。
 床に足を下ろした俺は壁に掛けておいたコートを羽織り、そのまま部屋を後にした。
 階段を下りたところで、名雪とばったり出くわしてしまう。
 部屋に戻るところだったのだろうか、いまにもこの場で寝入ってしまいそうに思える、そんないかにも眠たげな顔つきだ。
「うにゅ。祐一、お出かけ?」
 謎の枕詞を口にしながら、訊ねてくる。
 そんな名雪に向かって、
「ああ。ちょっとな」
 うなずきながら俺は、彼女の横をすり抜けて玄関へと足を踏み入れた。
「みゅ。いってらっしゃ〜い」
「おう、行って来るぜ」
 靴を履き、ドアを押し開く。
 その途端、身も凍らんばかりの寒風が、遠慮の二文字など知らないかのように俺の周囲を埋め尽くす。
「どわっ」
 慌ててドアを閉める。
「な、何なんだこの寒さは……」
「寒いよ〜、ゆういち〜」
 いまの一撃ですっかり眠気が覚めてしまったのだろう、名雪が羽織った半纏の前をかき合わせながら呟きを漏らした。
「外が寒いのは、別に俺のせいじゃないぞ」
「祐一がドアなんか開けるから、それで寒くなったんだよ〜。だから祐一が悪いんだよ〜」
「んなこと言ってもだな、ドアを開けないと外に出れないだろうが……」
 ため息混じりに、そう言い返す。
「また学校?」
 いつの間にか真顔に戻った名雪が、寝間着の袖をすり合わせるように前屈みになりながら訊ねてきた。
 無言でうなずく俺。
 少しの間、何かを考えるように黙り込んでいた名雪は、やがて少しだけ訝しげな様子で、
「そう言えば祐一、最近はずっと手ぶらなんだね」
 名雪の言う通りここしばらくの間、夜の外出の際に俺は身体ひとつの手ぶら状態で学校へ赴いていた。
 何故なら、自分用の得物をわざわざ家から持っていく必要がなくなっていたから。
 別にこれがなくとも剣が――舞がいつも使っていた洋剣を、学校の中庭に隠してあるからだった。
 だから俺が以前この家の物置で探しだし、そして護身用にと使い続けていた木刀は、近頃は放課後の中庭以外の場所で使われることはなくなっていた。
「まあな」
「ふーん。じゃあ、もしかして……相手の子と仲良しになったんだ」
「え?」
 それは予想外の一言だった。
 気がつくとすっかり日課となってしまった俺の夜の外出を、名雪は「男の子同士が友情を深め合うために喧嘩をしに行ってる」のだと、すっかりそう信じ込んでいた。
 実際、前にそんなことを言われたことがある。
 だからたったいまの発言も、そんな彼女の想像の延長線上にあるものに違いなかった。
「どうかな。まだ仲良しには……なってないと思うけどな」
 とぼけるように、それだけを口にする。
 実際問題、人外の存在たるヤツらとは意思の疎通すら図ることが可能かどうか判らないのに、そもそも仲良しになることなんてできるのだろうか。
 どう考えても不可能としか思えない。
「じゃあ、まだ喧嘩してるんだ」
「客観的には、そういうことになるかな」
「だったら主観的には?」
「……同じだな」
 少しだけ間を置いてそう言うと、名雪はどこか呆れたような様子でため息を漏らしながら口を開く。
「祐一、出かける前になにか食べてく? 簡単なものでよかったら、わたしが作ってあげるよ」
「突然だな」
「だって祐一、これからいっぱい身体を動かすんでしょ。なら、ちゃんと食べていった方がいいと思ったから」
 確かに、名雪の言う通りかもしれない。
 どうせ途中のコンビニで、ヤツを待っている間に食べるものを買っていこうと思っていたから、文字通り彼女の提案は渡りに舟だった。
「で、何を作ってくれるんだ?」
 期待を込めてそう訊ねかける俺に、目を閉じながら少しだけ考えるようなそぶりを浮かべた名雪は、
「ビーフシチュー」
「却下」
「どうしてだよ〜」
 皆まで言い切る前に提案を否決して見せた俺に、不満そうに抗議の声を上げる名雪。
 そんな彼女に、俺はため息をつきながら、
「あのな。いまからシチューなんて作ってたら、でき上がるまで俺はどれだけ待たされると思ってるんだ?」
「え〜、そんなにかからないと思うよ。すぐだって」
「だから、具体的には何時間だ?」
「うーん。そうだね……頑張って二時間くらいかな」
「それのどこがすぐ、なんだよ。やっぱり却下」
「う〜……」
 上目遣いに恨めしそうな視線を俺の方に送ってくるが、それを完全に無視して俺は改めてドアに向き直った。
 計画は、原案通りで変更なしだ。
 途中でコンビニに寄って夜食を調達後、学校に向かうとしよう。
「ねぇ、祐一……」
 不意に背中に降りかかってきた名雪の声に、俺は肩越しに振り返る。
 するとそこには、たったいままでふくれっ面をしていたはずの名雪の、穏やかな微笑みがあった。
 それはまるで夢の中で出会った、名前も分からない女の子と同じ、どこか少女然としたあどけなさを強く感じさせる笑みだった。
「もしかして……」
 途中まで何か言いかけた名雪は、でもそこで口を閉ざしてしまう。
「何だ?」
「ううん。何でもない」
「途中で止められたら、余計気になるぞ。言いたいことがあるなら、はっきり言えよな」
「やっぱりいい。祐一が決めたことに、わたしがどうこう言っても仕方がないと思うから」
 そして、ゆっくりと右手を上げながら、
「行ってらっしゃい、祐一」
 俺を見送ろうとするかのように、軽く振る。
「お、おう……」
 名雪のその態度から、これ以上の会話は無用だろうと判断した俺は、再びドアの方に向き直るとノブに手をかける。
「あんまり無茶しちゃダメだよ、祐一」
「分かってるって」
 そして今度こそドアを押し開け、外に向かって足を踏み出した。
 空は晴れていた。
 雲ひとつないそこには、冬の澄み切った空気を通して満天の星空が広がっている。
 さっきドアを開けた時、既に一度この身で思ったよりも風が強い。
 そのせいで星の輝きが、ちらちらと瞬くように揺れ動いていた。
 風に吹き上げられたのだろうか、雪片らしい小さな粒が何度となく視界を横切り、無数の星々で占められた夜空のただ中でふわふわと浮き沈みを繰り返しながら刹那の輪舞を舞い踊る。
 その情景に心奪われるように立ち止まり続けてどれくらい経っただろう、頬を刺すような外気の冷たさに我に返った俺は、小さくため息をつくと、
「……行くか」
 ひとりごち、呟きを漏らす。
 そして吐き出される息の白さを目の当たりにしながら、そして俺は学校への道のりを辿るべく一歩、足を踏み出した。

                  §

 星明かりだけが頼りの、薄暗闇に覆われた廊下を歩く。
 誰もいない世界。
 ひとりぼっちの世界。
 自分の放つ足音だけが周囲の空気をわずかに震わせ、姿の見えない誰かにその存在を誇示するように一定のリズムを刻み続ける。
 通用口から校舎の中に足を踏み入れて数分、目的地にたどり着いた俺は足を止め、そしていつも通りに教室の壁に背中を預けながら、手にしていた袋の中から今日の夜食を取り出した。
 言うほど大したものではない。
 いわゆるバランス栄養食と言われる類の、スティック型の携帯食料だ。
 いつ「魔」が襲ってきても大丈夫なように、常に臨戦態勢――片手で剣を持ちながらの食事だから、仕方がないと言えば仕方ない。
 とはいえ、いかにも味気ないのも事実だった。
「はぁ……」
 内心のそんな思いを現すように、思わずため息が漏れてしまう。
 そして手にしたクッキー状のそれを一口かじると、ぱさぱさに乾燥したそれを咀嚼する。
「うむ、美味い。この極限まで水分を抜いて乾燥させた生地の舌触りといい、ほのかに舌に感じる合成調味料の味覚といい、まさに……」
 そこまで言いかけて、言葉を切る。
 自分で言っていて、何だか馬鹿らしくなってしまったからだ。
「はぁ……馬鹿らし」
 内心の思いを素直に口にしながら手早く携帯食の残りを口中に放り込み、そして今度は買ってきた缶コーヒーの蓋を片手で開ける。
 それで口の中のものを胃袋へと流し込むと、今日の夜食は終わりだった。
「せめて、肉まんにでもしておくべきだったか……」
 ひとりごち呟きをもらしながら、俺自身を除いて人影ひとつ見あたらない校舎の中を見渡す。
 静謐に包まれた世界。
 月明かりと暗闇とが生み出すコントラストが際立つ、どこか幻想的な印象を抱かせてくれる光景。
 そして、その中にひとり佇む俺。
 こうして夜の学校のただ中にひとり佇むようになってから、既に一週間以上が経過していたが、それでも未だ完全な孤独というものに俺は慣れることができていなかった。
 一時間が経ち二時間が過ぎ、そしてふと気がつけば舞がいまこの場にいてくれれば……ぼんやりとそんなことを考えてしまっている、自分の存在に我に返るのだ。
 でも、どれだけ待っても舞は来ない。
 そのことを知っているからこそ俺は、夜の学校のただ中にひとりその身を晒し続けているのだ。
 こうして夜の学校でヤツの訪れを待ち続けるのは、いまの俺にとっての義務であり、責務であり、そして贖罪の行為に他ならなかった。
 大切な人を傷つけた存在に対する復仇の念。
 大切な人を守ることができなかったことに対する悔悟の思い。
 そして――。
「……佐祐理さん」
「はい?」
 内心を占める、忸怩たる思いがあふれ出てくるように紡がれた一言。
 戻ってくるはずがないその呟きに返された返答に、思わず心臓が飛び出しそうになるほど驚いてしまった。
 驚愕の余り、身体中の関節がまるで錆び付いたように動きを固くする。
 そして固まった首を、ぐぎぎと横に巡らせると……。
「どわーーーーーーーーーーっっっ!」
 あるはずのない姿を視界の中に見出してしまった俺は、端なくも思いっ切り叫び声をあげながら、廊下を挟んだ窓際の方へと飛び退いてしまった。
 挙げ句勢い余って、窓硝子に頭を思い切りぶつけてしまう始末。
「ふぇ〜……大丈夫ですか、祐一さん?」
 両手で頭を抱えながらその場に座り込んでしまった俺の頭上から、心配そうに声を掛けてきたのは……間違いなく佐祐理さんその人だった。
 一体、何がどうなってるんだ?
 矢継ぎ早に襲い来る予想外の出来事に、すっかりパニック状態の俺。
 そしてそんな俺の思いをよそにすっと音もなく腰を落とした彼女は、そして硝子にぶつけた俺の後頭部を、いたわるように優しく撫でさすってくれる。
 柔らかな手の感触が、髪を通して伝わってくる。
 どれくらいそうしていただろう、気がつけばいつの間にか後頭部の痛みと内心の驚きも共に収まり、ようやくのことで紛れなく目の前に存在する現実――佐祐理さんに向かって口を開くことができるようになった。
「あの……佐祐理さん、だよな?」
「はい。佐祐理ですーっ」
 むに。
 薄暗闇に覆われた周囲の雰囲気にひどく似つかわしくない、にこやかな声音で返事をする彼女の頬をつねる。
「いひゃいでふーっ、ゆういひひゃん」
 指先に感じる真っ白な肌のその感触に、どうやら目の前にいる佐祐理さんが夢でも幻でも、ましてや誰かが俺をからかおうと化けているわけでもないらしいことを理解する。
「うーむ、やっぱり本物か……」
「頬を急につねるなんて、ひどいです。祐一さん」
「あ、ごめん」
 両手で頬を押さえながら言葉を紡ぐ佐祐理さんに、慌てて謝る俺。
 そして何故、よりによってこんな時間のこんな場所に彼女がいるのかを改めて確認するべく、
「で、佐祐理さん。何でこんなところに?」
 きっと俺のその言葉を待っていたのだろう、頬から手を離した彼女は、そして傍らに床に置いてあった包みを取り上げると、
「はい。祐一さんがお腹を空かせているのではないかと思いまして、お夜食をお持ちしましたーっ」
「は?」
「あははーっ。祐一さんのお好きなものばかり詰めてきましたから、いっぱい食べてくださいねーっ」
「えーと」
「飲み物の方も温かい紅茶を用意してきましたから、心配はご無用です」
「…………」
「敷物も持ってきてあるんですけど、どこに敷きましょうか……ほぇ、どうかされましたか、祐一さん?」
 黙り込んだまま返事を返さない俺に、両手を合わせながらにこにこと楽しそうな表情はそのままに、小首を傾げる佐祐理さん。
 無言でじっと、その顔を見つめやるばかりの俺。
 ぐるぐると、明瞭な言葉にはし難い思いがとりとめもなく心の中に浮かび上がっては消えてゆく。
 目の前にいる、大切な人。
 彼女はいつだって、朗らかな笑みを浮かべている。
 そんな彼女のことが、俺は大好きだった。
 でも彼女は、未だ癒されることのない心の傷を持っている。
 そして俺は、そんな彼女に怪我を負わせてしまった。
 自らの思慮不足が故に。
 でも彼女は何も言わない。
 それどころか自分を責め、そして俺にはいつもと変わらぬ暖かな笑みを浮かべ続けてくれている。
 それなのに……。
 どうして……。
「バカ野郎っ!」
 そして俺は、自分でもびっくりするほどの大声で、彼女のことを怒鳴りつけていた。
 突然のことに、大きく目を見開いて言葉を失う佐祐理さん。
 でも俺は構わず言葉を続けた。
「何で来るんだよ! ここが危険な場所だってことは、佐祐理さんだって知ってるはずだろっ。いつ、どこからヤツが襲ってくるか判らないんだぞっ!」
 そしていまもヤツが潜んでいるに違いない、廊下の先に浮かぶ暗闇を手で指し示す。
「ふぇ……」
 かすれるような小さな声音でそれだけを口にして、佐祐理さんは悲しげに表情を崩す。
 はっと、我に返る俺。
 そして眼前で表情を翳らせている彼女のその様子に、胸の奥でちくりと小さな痛みを覚えながら、さらに言葉を継ぐ。
「佐祐理さんだって、前にヤツに遭って……怪我までしてるんだぜ。なのに、どうして来ちまうんだよ。もし万が一、佐祐理さんの身になんかあったら……俺はどうすればいいんだよっ」
 そこで黙り込んだ俺は、そして佐祐理さんの顔を見つめる。
 彼女は俺の頭ごなしの叱責に、瞳にどこか悲しげな色をたたえながらじっと耐えているようだった。
 やがて佐祐理さんは、俺の視線を避けるように顔を俯かせてしまう。
 その姿は――俺がそう仕向けたのだと分かってはいても、やはり見ていて痛々しかった。
 同時に、罪悪感にも似た何かを感じてしまう。
 いくら彼女の身を案じたからとはいえ、いきなり頭ごなしに怒鳴りつけてしまうというのは、ちょっと拙かったかもしれない。
 でも……同時に思う。
 たとえどんな理由があるにせよ、彼女にはここに来て欲しくなかった。
 佐祐理さんに、夜の学校は似合わない。
 彼女には暖かな陽射しに包まれた世界の中で、いつだって楽しげに微笑んでいて欲しかった。
 そして何より自分の大切な人を、自らの非力さ故に守りきることもできないまま傷いていくのを見るのは、もう嫌だった。
 たとえその時佐祐理さんを悲しませることになったとしても、もしそうしなったなら確実に訪れるだろう悲劇を避けることができるなら、俺としては選ぶべき選択肢はなかった。
「邪魔ですか……佐祐理……」
 ぽつりと、小さな呟きをもらす佐祐理さん。
 顔を俯かせているため、表情は窺えない。
 でもそこにあるのが寂しげなものであろうことは想像に難くなく、そして俺の中の罪悪感はますます大きく膨れ上がっていった。
 思わず「ごめん」と、そう口にしてしまいそうになるのぐっと堪える。
 そして思い出す。
 放課後の、中庭での一件を。
 あの時の勝負は、結局二勝二敗の引き分けに終わっていた。
 以前、一緒にゲーセンに行ったときに彼女の尋常ならざる飲み込みの早さについては目の当たりにしていたし、頭では理解していたつもりだった。
 しかし最初の二本を俺が取り、そして「コツを掴んだ」と口にしてからの三本目以降の佐祐理さんは、まるで別人だった。
 天賦の才とはきっとああいうのを言うのだろう。
 俺の必死の抵抗も虚しく、次の二本は呆気なく彼女に連取されてしまい、そこで日が暮れてしまったことでかろうじてドローに持ち込んだのだった。
「あははーっ。佐祐理、とっても楽しかったですーっ」
 空の半ば以上が夜の帳に覆われた中で、吐き出す息も白く楽しげに言葉を紡ぐ佐祐理さん。
 そんな彼女を前に、俺は切れ切れな呼吸と共に「そ、それは何より……」そう言いながら、同時に内心では安堵のため息をついていた。
 少なくとも俺が負けなかったことで、彼女が夜の学校にまで同行するなどと言いだす危険だけは避けられたかな、と。
 でもいま、佐祐理さんは俺の目の前にいる。
 しかも俺が予想もしなかった目的――俺に夜食を食べてもらおうという、ただそれだけのために。
 沈黙が周囲を押し包む。
 気まずい。
 自らが招いた事態とはいえ、誰もいない二人きりのこの場でお互いに押し黙り続けるというのは、どうにも気まずい。
 だから俺は、頭の中で必死になって口にすべき言葉を探し続け、そしてようやくのことで、
「食べてる間……だけだぞ」
「ほぇ?」
 ゆっくりと顔を上げる佐祐理さん。
 そんな彼女に向かって、俺はできるだけ優しい笑顔を浮かべるように努力をしながら言葉を継ぐ。
「俺のためにせっかく持ってきてくれた佐祐理さんの手料理、食べないと勿体ないからさ。でも、これ食べたら佐祐理さんは家に帰るんだぜ」
「祐一さん……」
「ほーら、返事は?」
 悪戯っぽくそう言う俺に、ようやくいつものペースを取り戻したらしい佐祐理さんは、
「はい。判りましたーっ」
 そうにっこりと、笑顔を浮かべてくれた。

                  §

「なあ、佐祐理さん。そういや何で制服着てるんだ?」
 ようやくのことで和やかさを取り戻した空気の中、俺はふと脳裏に浮かんだ疑問を口にする。
 佐祐理さんは、にっこりと微笑みを浮かべながら、
「祐一さんはご存じありませんでしたか? 校則に書いてありますよ。『休日を問わず、校内では制服を着用のこと』って」
「なにっ、そうだったのか。全然知らなかった……」
「あははーっ、普通はそうですよね。でも、夜の学校に制服っていうのもなんだか変ですよねーっ」
 そこで言葉を切ると、何を思ってか佐祐理さんはその場でくるりと一度ターンをしてみせる。
 スカートの裾が、身体の動きに合わせてふわりと揺れ動く。
 黒と白のコントラストに包まれた廊下のただ中に、うっすらと浮かび上がる佐祐理さんの肢体は、どうしてかとても綺麗に思えた。
「そんじゃま、食べるとしましょうか」
 手にした剣はそのまま――何かあったとき、即座に反応できるよう――に、俺は佐祐理さんを促す。
「祐一さん。これって、本物なんですか?」
「え? ああ、一応本物みたいだな」
 切れ味に関しては、下手なナイフ以上にナマクラだけど……と言いかけて、止めておく。
 その代わりに俺は、手中のそれを彼女の目の前に掲げて見せた。
 両刃のしつらえられた、年代物の洋剣。
 片刃でかつ反り返しのある日本刀と違って、直線的でいかにも幾何学的なデザインな代物だ。
 佐祐理さんと舞の二人が「魔」に襲われたあの夜、廊下に投げ出されたままになっていたのを拾って以来、これはずっと俺の手の中に在り続けていた。
 舞に代わって。
 ヤツを、「魔」を伐つために。
「前は舞が愛用してたんだけど、いまはとりあえず俺が借りてる……ことになるのかな」
「ふぇ〜……本物の剣なんですねぇ。刃があると言うことは、やっぱりちゃんと物が切れるんでしょうか?」
 のぞき込むような仕草で剣へ顔を寄せながら、呟く佐祐理さん。
 苦笑いを浮かべつつ俺は、
「俺もそう思ってさ、一度バナナを持ってきたことがあったんだ」
「バナナ、ですか?」
「ああ。ほら、テレビとかでよくやってるだろ。空中に放り投げたバナナを刀ですぱすぱっと食べ頃サイズに輪切りにしてくれる芸」
 そして左手で、バナナを放り投げる仕草をして見せる。
「いつだったかな……夜食代わりにと思って一房持ってきて、舞にやって見せてくれって頼んだんだ」
「それで、上手く切れたんですか?」
「……べちゃ」
「はぇ?」
 突然の謎の擬音に、小首を傾げる佐祐理さん。
 俺は忍び笑いを漏らしながら、放り投げたバナナが舞の剣で切られるどころか床にたたきつけられたこと、見事潰れてしまったことなど一連の経過を身振り手振りを交えながらすべて話した。
「あははーっ。それは残念でしたねーっ」
「まったくだ。あんなに切れない剣だとは思わなかったぜ。しかも当の舞までが、あまりの切れなさに『……私も驚いた』なんて言いだす始末だ」
 あの時の舞の言葉を脳裏で反芻しながら、肩をすくめる俺。
「いいなぁ。佐祐理も……その時の舞、見たかったなぁ」
「……佐祐理さん?」
「佐祐理たちと出会ってから、祐一さんは毎日、舞とそうして同じ時間を過ごしてきたんですね。二人だけの時間を」
 その声は、どこか寂しげなものだった。
 もしかして佐祐理さんは、自分だけが仲間外れにされていたことを羨んでいるのだろうか。
「祐一さんは、佐祐理の知らない舞を知ってるんですね……」
「でもそれを言ったらさ、俺より佐祐理さんの方がずっと長い間舞と一緒にいるんだぜ。俺なんか、舞に関しては知らないことだらけだって」
「あははーっ、そう言えばそうですね」
 そこでふと、沈黙が訪れる。
 お互いに脳裏で、舞のことを思い出していたのだ。
「はい、祐一さん。どうぞ」
 そうこうするうちに、俺の前にひとつの弁当箱が差し出される。
 それは、昼食用に彼女が持ってきているいつものお重に比べれば、ふた回りほど小さな弁当箱ではあった。
 でも中には、とても夜食とは思えないほどの豪勢かつ大量のおかずに満ちあふれている。
「えーとだな……」
「はい?」
 何と言ったものか、言葉に迷ってしまう。
 ええい、仕方がない。
 ここは思ったことを、そのまま口にしてしまおう。
「あのさ。俺、いまこれを持ってるから、さすがに箸を使って食べるのはちょっと無理だな…」
 そう言って、右手で握っている剣を掲げてみせる。
 それで事情を理解してくれたのだろう、ちょっとだけ困ったような表情を浮かべる佐祐理さん。
「でも、手で食べるのはお行儀が悪いですよね」
「まあ……確かにそうだけど」
「あ、そうだ。佐祐理、いいことを思いつきましたーっ」
 少し思案げな様子を見せていた彼女は、やがてぱっと表情を明るくすると、
「はい、どうぞ」
 左手の上に蓋の開いた弁当箱を置き、そして右手に持った箸でおかずをつまみ上げると俺の方に差し出してくる。
「……佐祐理さん」
「はい?」
「それってもしかして……」
「はい。佐祐理が、祐一さんに食べさせてあげますーっ」
 そう言って、さらに端を寄せてくる。
 にこにこと屈託ない佐祐理さんのその微笑みに、思わず知らず口を開きそうになってしまう。
 が、同時に心の片隅に居座り続けている羞恥心が、かろうじてその行為を思い止まらせる。
 そんな俺の内心の葛藤にはまったく気付いていないように、佐祐理さんは、
「はい、祐一さん。あーん、してください」
「え。あ……」
「あーん」
「いや、その……」
「あーん」
「だから……」
「あーん」
「……あーん」
 結局俺は、彼女の要求に屈服した。
 考えてみたら、そもそも俺が佐祐理さんからの「お願い」に耐えきれるはずもなかった。
 口の中に、卵焼きが転がり込む。
 程良い柔らかさに焼き上げられたそれは、舌の上でほのかな甘さを発しながら咀嚼されていく。
 いつものことながら、やっぱり佐祐理さんの料理は美味しかった。
 だから俺は、佐祐理さんから発せられた「美味しいですか?」の問いかけに、素直に「うん」と答えてしまう。
 そしてその言葉を口にしてから、また気恥ずかしさを覚えてしまう。
 こんな時間のこんな場所に、俺たち以外には誰もいやしないのだと判ってはいるのだが、それでもやはり照れくささを抱いてしまう事実には変わりない。
「次は何を食べたいですかーっ」
「…………」
「次も、佐祐理が食べさせてあげますからねーっ。あははーっ」
 見るからに嬉しそうに、まっすぐに俺の目を見つめやりながら訊ねかけてくる佐祐理さん。
「……そこの、タコさんウィンナー」
 数秒の沈思黙考を経て、俺はそれだけを口にする。
「はい。それじゃあ、あーんしてください」
 再び差し出される箸。
 そして俺は、今度こそ素直に――抵抗を諦めたという意見もある――彼女の向かって大きく口を開けて見せた。
 その時だった。
 正面の空間から、ぱちりと空気が爆ぜる音が聞こえたのは。
 来た。
 咄嗟にそう判断した俺は手にしていた剣を握り直すと、そして佐祐理さんを背中で庇うように、音のした方と彼女との間に身体を滑り込ませる。
「ふぇ……祐一さん?」
「しっ」
 タコさんウィンナーを箸で摘んだままの姿勢で、小首を傾げながら声をかけてくる佐祐理さんを小声で掣肘して黙らせる。
 そして目を閉じる。
 右か、左か……。
 舞ほどの判断能力はないにしても、俺の中に蓄えられたここしばらくの実戦経験を総動員して、ヤツの次の動きを必死に探る。
「佐祐理さん、避けろっ!」
 そして次の瞬間、俺は叫び声を上げながら背後の佐祐理さんを抱きかかえるように横っ飛びに壁に向かって跳んだ。
「きゃっ」
 突然のことに、彼女の口から小さな悲鳴があがる。
 そしてたったいままで俺たちが立っていた場所を、目には見えない何かがうなりを上げて通り過ぎていった。
「ヤツが――『魔』が現れた」
 腕の中の佐祐理さんを立たせながらそれだけを言うと、そしてヤツが飛び去っていった方に向かって走り出す。
「あっ、祐一さん!」
「俺が時間を稼ぐから、佐祐理さんはすぐに校舎から離れるんだ」
「でも、それじゃあ祐一さんが……」
「俺のことはいいから、早く逃げろっ!」
 剣を構えながら肩越しに背後を振り返った俺は、立ちすくむ佐祐理さんにそう叫んで、そして正面に向き直った。
 長期戦は、どう考えても俺の方に分が悪い。
 ヤツが複数体存在していることは、既に周知の事実だ。
 俺が一体にかかずらわっている間に、もしかしたら別の一体が逃げようとしている佐祐理さんを襲わないとは限らない。
 そうなったら、まさに奴らの思う壺だ。
 だが俺の不安は杞憂に終わった。
 すぐ先で折り返してきたのか、俺が追っていた「魔」は再びこちらに向かって疾駆してくる。
 勘だけを頼りに相手との間合いを計る。
 そしてここだという頃合いを見計らって、俺は天井に向かって思い切り飛び上がった。
「祐一さんっ!」
 佐祐理さんの叫び声。
 その声を心の片隅で意識しながら、
「だぁっ!」
 裂帛の気合いを込めて、ヤツに向かって剣を振り下ろした。
第6章に続く

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