『永遠の楽園』
Update:1999.12.15





第6章「犠牲」

「……それで」
 耳朶を打つ、抑揚の余り感じられない声。
 そしてその声音を追いかけるように、すぐ脇のベッドから俺へと向かって注がれる視線。
「いやまあ、それでだな……」
 困ったように頭をかきながら、俺は言葉を濁した。
「…………」
「…………」
 でもベッドの上で半身を起こしている舞は、そんな俺の内心の困惑をはなから見透かしているかのように、口を閉ざしたままただじっと瞳を向け続けるばかり。
 静寂に包まれた病室内で、互いの視線だけが交錯する。
 その静まり返った雰囲気がそう思わせるのだろうか、俺を見据え続ける彼女の瞳にふっと吸い込まれるような錯覚を覚えてしまう。
 慌てて気を取り直す。
 同時に俺は彼女のその視線に、それを浮かべる相手への非難の意志が含まれていることにも、気付いていた。
 それが、何に対する非難であるかも。
 言葉以上に雄弁に語りかけてくる、舞の双瞳。
「と、とりあえず、手負いにはできたと思うぜ。最後の一撃は、自分で言うのも何だけど確かな手応えがあったから」
 放っておくといつまでも続きそうな奇妙な睨めっこに先に根負けした俺は、天井に視線を逸らしながらそれだけを口にする。
「…………」
 でも、舞の表情は変わらない。
 怒っているのか呆れているのか、もしかしたらその両方なのかもしれない。
 普段から舞は、感情というものを殆ど表に出さない奴だったから。
 再び訪れる沈黙。
 気まずさから天井に視線を這わせるばかりの俺と、そんな俺の顔を穴が空くほどじっと見据え続ける舞。
 そう、舞が聞きたかったのはヤツとの戦いの結果なんかじゃなかった。
 そんなことより、もっともっと大切な存在の安否を、俺の口から聞きたがっているのだ。
 どれくらい沈黙が続いただろう、それ以上の無駄な抵抗を諦めた俺は、肩を落とし気味に大きくため息をつきながら視線を戻し、そして口を開く。
「すまん……舞」
「…………」
 そう言いながら、俺は頭を下げる。
「佐祐理さんは……」
 その名前を口にした瞬間、ぴくりと舞の身体が震えるのが分かった。
 顔を少し上げ、上目遣いに彼女の様子を窺う。
 普段は微塵も窺えないはずの舞の表情に、一片の感情――畏れや不安といった類の――が見え隠れしていた。
 俺は頭を垂れたまま、一呼吸間を置く。
 そしてもう一度「佐祐理さんは……」と、重苦しい口調で同じ台詞を口にしながら、ゆっくりと顔を上げた。
 目の前には無言で、人形のような色を見せる舞が俺の次の言葉を待っている。
 ごくりと一度唾を呑み込んだ俺は、次の瞬間真剣そのものだった表情を緩めると破顔一笑、
「……無事だよ」
 何ごともなかったように、そうにこやかに告げてみせた。
「…………」
「…………」
「……無事?」
 ぽかんと、煽るだけ煽った挙げ句にようやく口にした俺の言葉が信じられないといった、そんな顔つきだ。
「ああ。佐祐理さんは、かすり傷ひとつ負ってないぜ」
「…………」
 心の中で思わずしてやったりとばかりに、小さな喝采を叫んでしまう俺。
 そして更に言葉を続ける。
「俺が時間を稼いでいる間に、うまく逃げおおせてくれたよ」
「…………」
「で、校門で落ち合ってから佐祐理さんを家まで送って、それで昨日の一件はお終いってね」
 冗談っぽく、大袈裟なゼスチャーで両の手のひらを掲げながら肩をすくめて見せた俺だったが、肝心の舞は相変わらず口を小さく開いたままだった。
 さすがに心配になってきた俺は、舞の顔の前で手をひらひらと動かし、
「舞? おーい、聞こえてるかぁ」
 ぽかっ。
 途端、脳天を空手チョップが炸裂する。
 予想外の奇襲だった。
「ぐわっ」
 思わず知らず、仰け反ってしまう俺。
 ぽかぽか。
 ぽかぽかぽか。
 ぽかぽかぽかぽか。
 ぽかぽかぽかぽかぽかっ!
 なおも止まない攻撃。
 それは、最初のうちこそ大した痛みも感じない程度の攻撃だったけれど、気がつくと段々と力が加わってきている。
 ヤバい……目がマジだ。
 両手で頭を抱えながら、盗み見た舞の表情の真剣さに気がついた俺は、
「ギブアップだ、ギブアップ。俺が悪かったから、もうやめろって。舞っ」
 敵わないとばかりにそう叫びながら座っていたパイプ椅子から飛び退き、彼女の攻撃圏内からの待避を図った。
「ちょっとした冗談だってのに、そんなに怒るなよ」
「……祐一の冗談は、たちが悪すぎる」
 あれだけの連続攻撃だったにも関わらず息ひとつ切らせていない舞は、俺に向かって非難の言葉を口にする。
「はいはい。俺が悪うございました、と」
 ため息混じりに、改めて椅子に腰を下ろした俺は、
「確かに、舞相手にこの手の冗談は少しブラックすぎたな」
「…………」
「今度はもう少し笑えるジョークを用意して持ってくるから、楽しみにしていてくれ」
「……もういらない」
 ぷいと、機嫌を損ねたように俺から視線を逸らしてしまった。
 仕方のない奴だな。
 そんな彼女の様子に俺は苦笑いを浮かべながら、傍らのテーブルに置いてあった籠からリンゴとナイフを手にすると、
「お詫びにリンゴ剥いてやるから。食べるだろ、舞?」
 返事はない。
 仕方がないので、舞の返事を待つことなく俺はリンゴの皮を剥き始める。
 そして半ばほどまで剥きかけたところで、ふと舞の機嫌を直す方法を思いついた俺は、早速それを実行に移してみる。
 しゃりしゃり……。
 静かな病室内に、リンゴの皮をそぎ落とすナイフの音だけが小さく響く。
 最初のうちはこつが掴めずにちょっと苦労したが、それでも何とか目的通りのものを俺は作り出すことに成功した。
「ほーら、舞。お前の好きなうさぎさんだぞぉ」
「……うさぎさん?」
 差し出した俺の手の上には、女の子の弁当なんかでよく入っているリンゴのうさぎが二羽、ちょこんと仲良く並んでいた。
 実際佐祐理さんの弁当の中にも、いつもお約束のようにこれがある。
 理由は簡単。
 舞が、うさぎが大好きだからだ。
 そして舞が喜んでくれることを知ってるから、佐祐理さんは毎日の弁当に必ずリンゴのうさぎを入れているのだ。
 その事情を知ってるからこそ俺は、彼女の機嫌を取るためにリンゴを剥いたのだった。
 案の定俺の言葉に反応して、舞は視線をこちらに向けてくる。
 そして程なく手の上のそれを目にすると、小首を傾げながらそれをじっと見つめやっていた。
 リンゴのうさぎなんて初めて作ったから、出来は余りよくない。
 耳の長さは左右で不揃いだし、それに身体の方もあちこちにでこぼこがあって不格好なことこの上なかった。
 でも舞は、口を閉ざしたままじっとそれを見据えている。
「舞、うさぎさん好きだろ?」
 こくりと、小さく頷く。
「ほら、ふたつとも食べていいんだぜ」
「……可愛くない」
「あ、お前そう言うこと言うか。俺がせっかく剥いてやったというのに……なら、食わなくてもいいぞ。俺が食うから」
「……食べる」
 そう言ってベッドの上に下ろしたままだった手を上げた舞は、並べ置かれたうさぎの片方を手に取ると、口へと運んでいった。
 しゃりっと、湿った音が彼女の口から漏れる。
 そして殆ど間を置かずに舞の口から「……うさぎさん」その言葉が紡がれたのを聞いて、ようやくのことで俺は安堵のため息を漏らした。

                  §

 意識を取り戻したのは、その瞬間だった。
 薄暗闇に覆われた視界。
 ガラス越しに流れ込んでくる街灯の発する光だけが、黒々としたシルエットを浮かべるばかりの世界に、弱々しげな光明を俺に向かって投げかけてきていた。
 ……夢?
 たった今まで目の当たりにしていた情景が、全て俺の中だけに存在する作り物だったとでもいうのか。
 不明瞭な、現実と虚構の境目。
 半ば以上夢の残滓を引きずった精神状態のまま、瞳に映し出される夜の校舎をぼんやりと見据え続ける俺。
 頬に、ちくりと痛みにも似た何かを覚える。
 怪我をしたのだろうか。
 その痛みで、ようやく心の一部を現実に引き戻した俺は、床に投げ出されたままだった左手をゆっくりと持ち上げ、頬に当てる。
 でも手のひらが感じ取ったのは、ひんやりと夜の寒気に冷やされた肌の感触ばかりだった。
 そして気が付く。
 街灯の光を受けて、床一面に煌めく氷の粒のような何かに。
 何だろう……。
 心の片隅で疑問を抱くと同時に、外からの光と共に肌を刺すような冷気が奔流となって屋内に流れ込んできていることを知覚する。
 そう、俺の周りでほのかに煌めくそれは、ガラスの破片に違いなかった。
「……寒ぃ」
 無意識に、口から紡がれた一言。
 それが切り替えのスイッチだったかのように、霞がかかってぼんやりとしたままだった意識が、徐々に明瞭さを取り戻してきた。
 右手に、軽く力を入れる。
 途端、手のひらに固く細長い何かの存在を覚える。
 棒状に細長く伸びるそれは――剣だった。
 ヤツを、「魔」を倒すために必要にして不可欠な武器。
 軽く頭を振って、未だ意識の那辺に残っている霧を全て打ち払った俺は、手中の剣を杖にしてその場から立ち上がる。
 改めて周囲を見渡せば、案の定俺が座り込んでいた壁際を中心に左右数メートル範囲の窓ガラスが、粉微塵に粉砕されていた。
 間違いなく、ヤツの仕業だった。
 そして思い出す。
 裂帛の気合いと共に、ヤツに向かって撃ち込んだ斬撃。
 柄を握り締める両手に感じ取った、生ある存在の中へと切り込んでいく鈍い衝撃。
 体重を剣先に乗せて、一気に切り抜いた剣。
 そして俺は、その身を傷つけられた痛みに耐えかねるように身悶えをさせたヤツの身体に降り飛ばされ……。
「佐祐理さんっ!」
 ようやく全ての顛末を思い出すことのできた俺は、内心の何かに突き動かされるように佐祐理さんの名を叫ぶんだ。
 でも返答は、どこからも戻ってこなかった。
 そのことに内心で不安を感じると同時に、不思議と安堵の思いを抱きもしてしまう。
 佐祐理さんからの返事がどこからもないのは、少なくとも彼女が俺の声が聞こえない場所にいるだろうことを意味していた。
 無論のこと最悪の事態――逃げ切れずに「魔」に襲われ、返事ができない状態に陥っている――が頭の中をよぎらなくもなかったが、当然のことながら俺の心はそれを認めることを拒絶していた。
 きっと彼女は無事だ。
 この場から、うまく逃げおおせてくれたに違いない……そう思ううちに、ふと先刻見た夢の情景が思い出される。
 そう、さっきのあれはきっと予知夢なのだ。
 明日になれば病院に舞の見舞へと赴いた俺は、そして夢で見たのと同じ行動を取って彼女をからかうのだ。
 たちの悪いその冗談に、舞は夢で見たのと同様に怒り出すに違いない。
 そして、そんな彼女の機嫌を取るべく苦笑しながら、俺はリンゴを剥いてやるのだ。
 しかめ面を浮かべてリンゴを食べる、舞の横顔を見つめながら。
 夢の内容を反芻しながら、そしてまだ見ぬ明日の世界の有様を脳裏に思い描きながら、俺は必死に心の平静を保つべく努力し続けた。
 そうするしかなかったから。
 そうしなければ、音もなく背後に忍び寄ってくる不安に、自分自身の想像に押し潰されてしまいそうだったから。
 大切なものを失う悲しみ。
 冷厳と眼前に展開される現実を前に、自らの無力さに苛まれる痛み。
 この目で確かめることのできない現実は、それ自身が招き寄せる悪夢となって俺の中で渦巻き続けていた。
 廊下の少し離れた場所からぴしりと空気の爆ぜる音が響いたのは、佐祐理さんを捜すべくその場から離れようと俺が足を動かしかけた、その時だった。
「……!」
 息を飲みながら、闇の奥へと視線を投げる俺。
 瞳に映し出されるのは、暗闇の淵に虚ろに浮かび上がる人気のない廊下の情景ばかり。
 でも……俺には判った。
 そこに、ヤツがいることが。
 姿の見えない存在。
 しかし疑問の余地なく、確かにそこに存在している生ある何か。
 人にあらざる、人を害する存在。
 ヤツはまるで、俺がその場から動き出そうとするのを待っていたかのように、不意にその存在を露わにした。
 ……待っていた?
 何気なく抱いた自らのその思いに、でも次の瞬間、馬鹿馬鹿しさを覚えてしまう。
 そんなはずがない。
 俺に襲いかかってきたはずのコイツが、どんな理由があって俺が意識を取り戻すのを待つ必要があるというのだ。
 でも……。
 こいつは一体、いつからここにいたのだろう。
 今、忽然と姿を現したのだろうか。
 それとも……俺が意識を取り戻し、そして動き出すのをその場でじっと息を潜めながら待ち続けていたのだろうか。
 根拠はない。
 ただの勘と言ってしまえばそれまでだ。
 でもどうしてか俺には、ヤツがずっとそこに居続けていたような、そんな気がして仕方がなかった。
 人ならぬ存在。
 俺にとって大切な……佐祐理さんと舞のふたりを傷つけた存在。
 忌むべき、憎むべき存在。
 ずるりと、割れた窓から吹き込む寒気でかき乱された空気が揺れる。
 コンマ数秒のうちにそれが何を意味するかを知覚した俺は、半ば反射的にその場から飛びずさった。
 一瞬遅れて、俺が居た場所の空気をヤツが切り裂いてゆく。
 その動きを追って、先に床を踏んだ右足を軸に水平に構えたままだった剣を横に薙ぐ。
 気休めのつもりの一撃だったが、どうやら俺が思っていた以上にヤツの動きは鈍かったらしい、刀身の半ばほどに衝撃を感じた俺は意外な感を抱きながらつま先に力を入れながら、剣を振り抜いた。
 空気が震える。
 それはもしかすると、文字通りその身を切り裂かれる痛みにヤツが発した叫びだったのかもしれなかった。
 剣を振り抜く遠心力にその身を預けたまま、くるりとその場で半回転した俺は軸足で床を蹴り、駆け出した。
 佐祐理さんの安否を、彼女の無事な姿をこの目で確かめるために。

                  §

 しゃりっ、しゃりっ……。
 一定の間隔を置いて鼓膜を震わせる、舞がリンゴを食べる音。
 その小さな咀嚼音は、でも俺の中で確かな存在感と共に響き続けていた。
 意識を、目の前の舞に戻す。
 まるでその存在を慈しむかのように、手の中のうさぎにじっと視線を落としていた舞は、やがて小さな口を開いてまたひと口食べる。
 そんな彼女の横顔を、言葉なく見つめるばかりの俺。
 こうしていかにも少女然とした舞の様を眺めていると、俺より彼女の方が年上なのだという現実が、何だかたちの悪い冗談のように思えてしまう。
 面映ゆいと言うか気持ちが落ち着くと言うか……そんなどこか言葉にし難い思いが、折り重なるように心の中で揺れ動く。
 幼い娘を持つ父親にでもなったかのような、不思議な気持ちと一緒に。
「…………」
 不意に、舞の口の動きが止まった。
 目の前にあったリンゴに落としていた視線を上げ、ゆっくりと俺の方へ顔を向ける。
 そして小首を傾げる俺に向かって、何を思ってか舞は手の中にあった食べかけのリンゴを差し出してきた。
「……どうした?」
 彼女の意図するところが分からず、訊ねる俺。
「…………」
 でも表情ひとつ変えることなく、無言で俺を見つめ続ける舞。
「…………」
「…………」
 沈黙が続く。
 窓外からの鳥のさえずりだけが、遠く低く俺の耳に軽やかな音色を響かせる。
 気まずさとは違った、どこか穏やかな空気。
 緩やかに上下する波間に身を横たえているのとも、芝生の上で小春日和な陽射しに身を晒しているのとも違う、そんな何か
 部屋の中を満たしていた静寂を先に破ったのは、その状況を作り出した張本人である舞の方だった。
「……お腹いっぱい」
 思わず、座っていた椅子から転げ落ちそうになってしまう。
 背もたれにしがみついて、かろうじて身体のバランスを保った俺は呆れたように、
「そういうことを、勿体ぶって言うんじゃないっ!」
「…………」
「大体お前、まだひとつしか食べてないじゃないか。それだけで腹が一杯になったっていうのか?」
 こくりと、無言で頷く舞。
 そして改めて俺の目の前に、手中のうさぎを差し出しながら、
「……祐一。食べて」
「はいはい」
 舞が口にする、この手の突拍子もない言動にすっかり慣れてしまっていた俺は、それ以上何も言わずにリンゴをつまもうと手を伸ばしかける。
 でも俺は、それを手にすることができなかった。
 手にしたリンゴごと舞が、すっとその位置をずらしてしまったからだ。
「おいこら、舞……」
「…………」
 軽く抗議の声を上げる俺に、相変わらずの仏頂面で応える舞。
 でも次の瞬間彼女が取った行動に、正直俺は意外なものを感じずにはいられなかった。
 俺と目を合わせるのを避けるように視線を逸らしながら、舞は俺の口元へと手にしたリンゴを差し出して来る。
 それを摘む彼女の手は細かった
 夜の学校で、本物の剣を振り回して「魔」と戦っているようには見えない。
 いま目の前にいる彼女が、夜の学校で幻想的な剣舞を見せていたのと同一人物だとは、とても思えなかった。
 彼女の意図を図りかね、少しの間思案に暮れた俺は、ややあってから全てを理解する。
 そして思わずぽんと、手を打つ。
 見れば相変わらず視線は明後日の方に向けたまま、それでも舞はリンゴを俺の前に掲げ続けていた。
 一度だけくすりと笑みを漏らした俺は、そしてリンゴを一口かじった。
 水気の混じった咀嚼音が、病室の中を静かに響く。
「うん。見てくれは悪いが、味は悪くない」
 口の中のものを呑み込んでから、小さく頷きながら俺は口を開く。
「……切ったのは祐一」
「ははっ、そういやそうだったな」
「まだある……」
 言いながら舞は、まだ半分ほど残っているうさぎを、あんぐりと開かれた俺の口の中へぽいと放り込んだ。
 そして水気を払うように軽く手を振ると、何を思ったか舞はおもむろにベッドから床に足を下ろし、その場で立ち上がろうとする。
「舞、お前何してんだ?」
「……散歩に行く」
「散歩?」
 小首を傾げながら問い返す俺に、こくりと頷く舞。
「……この時間はいつも、外の庭を歩いてるから」
「ふーん。何か、犬の散歩みたいだな」
「……犬さん?」
「いや、違う――こともないか。毎日同じ時間に散歩に出かけてるなんて、犬の散歩みたいなもんか」
 冗談交じりの口調で、俺はそう言う。
 そんな俺に舞は、少しだけ何ごとか考え込むような素振りを見せていたが、やがて、
「……そうかもしれない」
「んじゃあまあ、おつき合いしましょうか。舞のお散歩に」
 言いながら、腰を下ろしていた椅子から立ち上がる俺。
 そんな俺に向かって舞は、
「……好きにすればいい」
 こちらを振り返りもせず、そしていかにも舞らしいぶっきらぼうな口調でぽつりと、そんな言葉を返してきた。

                  §

 まただ……。
 廊下を走りながら軽く舌打ちした俺は、俺の意思を無視して頭の中を流れ続けるその映像を振り払うべく強く頭を振る。
 何なんだ、これは。
 どうして舞が出て来るんだ。
 誰が、何の目的で俺にこんなものを見せようとするのだ。
 ヤツの一撃をくらった挙げ句、朦朧とした意識のまま現実と夢想の間を彷徨っていただろう一瞬。
 その最中に垣間見た、記憶のどこを探っても存在しない舞との会話。
 たったいま俺の中を流れていたのは、まるでその時見ていた幻想――夢と言った方がいいのかもしれない――の続きとしか思えないものだった。
 意識ははっきりしているのに。
 夢など見るはずがないのに。
 間違いなく俺はいま夜の校舎のその身を置き、そして佐祐理さんの姿を求めて、廊下のただ中を走り続けているはずだった。
 瞳は現実を映し出しながら、同時に意識はそれとは異なる世界を目の当たりにしている。
 病室の中。
 冗談交じりに、佐祐理さんの無事を伝える俺。
 怒る舞。
 彼女の機嫌を取るべくリンゴを剥く俺。
 そして、差し出されたうさぎのリンゴを食べる舞。
 でも……。
 俺の中に、そんな過去の出来事は存在していなかった。
 そもそも未だ終わってすらいないはずの今日の出来事を、舞に伝えている記憶など存在するはずもなかった。
 どう考えても、変だった。
 夢、なのだろうか。
 走り続ける足の動きはそのままに、思考だけを忙しく巡らせながら俺は考え続けた。
 幻想。
 妄想。
 白昼夢。
 そんな言葉が、目まぐるしく意識の底から浮かび上がっては消えてゆく。
 床を踏み締める両足の感触と、肌の上を流れ去っていく寒気は、そこが紛う方なき現実であることを雄弁に物語っていた。
 断じてこれは、夢などではなかった。
 でも、だとしたら……。
 気がつくと俺の意識の中から、白昼夢とでも言うべき舞の姿は消え去っていた。
 そこにあったのは、人気のない夜の校舎だけ。
 内心でそのことに安堵の思いを抱きながら、そして思考をいま俺が置かれている状況の判断へと移す。
 いま俺はひた走っている廊下の先にあるのは……昇降口だった。
 そこは何日か前、俺がヤツに手傷を負わせた場所。
 本当は通用口を通って校舎の外に出たかったのだが、ヤツとの位置関係から俺は、本来の目的地とは反対の方向に走る羽目に陥っていた。
 この時間、当然ながら昇降口のドアは全て施錠されている。
 と言うことはどこかで方向を変えない限り、俺は校舎の外に出られないという訳だった。
 上の階に出て、そこの廊下を逆走して通用口にまでたどり着くという手もあったが、すぐにその考えを放棄する。
 間違いなくヤツは、俺のすぐ近くにまで迫って来ているはずだった。
 階下へと駆け下りるのならともかく、上りでヤツとの追いかけっこに勝つ自信は……正直なところ、余りない。
 ならどうする。
 あの時のように、昇降口でまたヤツを罠にかけるか。
 同じ相手に同じ手が二度も通用するのか、流石に一抹の不安を感じなくもなかったが、結局のところいまの俺に選択の余地など無かった。
 肩越しに背後を振り返る。
 目には見えないが、間違いなくヤツが俺の後を追ってきていることを肌で確かめた俺は、視線を元に戻した。
 暗闇に覆われた廊下を疾駆し、やがて目的地をその目に見出す。
 昇降口脇の階段。
 それを支えるかのように設けられた、一本の支柱。
 左手に持っていた剣を素早く右手に持ち替え、そして空いた手を階段の支柱を掴むべく横へ伸ばす。
 あと五メートル、四メートル、三メートル……。
 指先が鉄製の支柱に触れた、その瞬間だった。
 背中に、まるで岩か何かを叩きつけられたような強い衝撃を覚え、そして勢いのままに跳ね飛ばされる。
「がはっ!」
 背骨が、そして背中の筋肉が、突然かかったその応力に耐えかねるように断末魔の悲鳴をあげる。
 ……読まれた。
 横に流れる視界を目の当たりにしながら、同時に心の片隅にそんな思考の断片が浮かび上がる。
 新たな衝撃は、その数瞬後に訪れた。
 多分身を庇うべく無意識のうちに身体をひねっていたのだろう、次なる打撃は左肩に襲いかかってきた。
 叩きつけるように肩から突っ込んだ俺は、激痛に表情を歪めながらそこでようやく動きを止め、ずるずると床の上に崩れ落ちる。
 手にしていた剣を離し、左肩に右手をあてる。
 からんと、剣が床を打つ金属音が俺の耳朶を叩いた。
 途端、再度の激痛が俺の意識を苛む。
 目をきつく閉じながらその痛みに耐えた俺は、そしてゆるゆると瞼を開いた。
 もしかしたら、骨が折れたかもしれない。
 心の片隅でそんなことを考えながら、そして身体を背中に触れている壁に預ける。
 ひんやりとした感触が、背中越しに伝わってきた。
 そして視界の端に映し出される、街灯の光に浮かび上がる校舎の外の光景を目にして、俺は初めて気がついた。
 いま身体を預けているのが壁面でなく、ガラス製のドアであることに。
 ぶつかった衝撃のせいだろう、結構な分厚さがあるはずのガラスの表面には不規則なひび割れが縦横に走り、そして本来なら透き通っているはずのその身を白く濁らせていた。
 ぼんやりとその光景を見ながら俺は一瞬だけ思考を巡らせ、そして結論にたどり着く。
 そうか、ここは……。
 そして俺は、ひび割れたガラスの先に広がる世界の中に、求める姿を見出す。
 校門近くの街灯の下、粉雪が舞い散る中をどこか所在なげな様子で、こちらに視線を向けているらしい人影。
 ここからだと校門まで結構距離があったから、流石に顔までは判別がつかなかったけれど、でもそれだけで十分だった。
 俺は確信していた。
 そこにいるのが、間違いなく彼女であることを。
「よかった……佐祐理……さん……無事……」
 呟くようにそう言葉を紡ぐうち、意識が少しずつ揺らぎ始める。
 もしかして、頭も打ちつけられていたのだろうか。
 ぼんやりと霞み始めた視界の中、ようやくのことで俺が巡らせることができたのは、そんな思いだけだった。

                  §

 目の前で、不意にバランスを崩す舞。
 慌てて手を伸ばした俺は、咄嗟に彼女の腕を掴んで、どうにか倒れかけた彼女の身体を支える。
「…………」
 腕を掴む力が強すぎたのだろうか、舞がわずかに顔をしかめる。
 それを見て俺は、慌てて手に込めていた力を緩めた。
「大丈夫か、舞?」
 彼女の顔をのぞき込むようにしながら、訊ねかける。
「……平気。ちょっとバランスを崩しただけ」
「お前、ここんとこずっと寝たきりだったんだから、そんな急に起きあがったりしたら、ふらつくに決まってるだろ」
「……そうかもしれない」
 顔を俯かせ気味に首肯の言葉を口にする彼女に、表情に苦笑を浮かべてみせた俺は、
「ほら、手伝ってやるよ」
 そう言いながら舞の肩へと手を回し、バランスを崩さずに歩き続けられるように身体を支えてやる。
「…………」
 ちらりと視線だけを動かして俺の方を見た舞だったが、結局それ以上は何も言わずに素直に俺に身体を預けてきた。
 左足を庇うような仕草で、ゆっくりと歩き出す舞。
 彼女より背が高いせいで、間近から見下ろすような視点からその様を眺めていた俺は、そこでふと疑問を抱く。
 そう言えば――。
 少し前に見た情景を記憶の中から引き出す。
 そして、その疑問が単なる思い違いでないことを自分なりに確かめた後、俺はその疑問を口にしてみた。
「なぁ舞……」
「……?」
「お前さぁ、前に来たとき確か右手で松葉杖ついてなかったか?」
「…………」
 返事はない。
 しかしドアに向かっていた彼女の歩みが止まったことが、間接的にではあったが俺の疑問が正しかったらしいことを示唆していた。
 畳みかけるように、疑問を言葉にする。
「医者は両足を怪我してるって言ってたけど、でも左足の方は骨にも筋肉にも異常はないって話だったぜ。なのにどうしてお前はいま、怪我が酷い方の右足じゃなくて左足を庇うんだ?」
「…………」
「もしかしてお前、俺に何か隠してないか?」
「…………」
「…………」
「どうして……そう思う」
「勘だ」
 あっさりとそう一言、答える俺。
 実際、何か根拠があって言ってる訳じゃなかった。
 ただ何か、俺の中で舞の振る舞いに疑問というか、どこか違和感のような覚えていただけに過ぎなかった。
 でも俺の疑念は、どうやら当たらずとも遠からずのものだったらしい。
 再び足を動かし始めた舞は、そしてゆっくりとした口調で俺の疑問に対する返答を紡ぎ始めた。
「左足は、ずっと前から動かない」
「動かない? ずっと前って、いつからだよ」
 それは予想外の返答だった。
 だが俺の驚きをよそに、舞は言葉を続ける。
「……ここに来る前から」
「そんな前から……。でもだったら、どうして松葉杖を付いてた時はお前、右足を庇ってたんだ?」
「あの時は、右足の方が怪我が酷かった」
「酷かったって……そういう問題か?」
 何ごとも無かったようにそう言ってのける舞に、俺は呆れてしまう。
 でも同時に、いかにも舞らしい答えだとも思った。
「でもちゃんと医者には診てもらってるんだろ? だったら、じき治るんじゃないのか」
 その言葉に、目を伏せながら小さく首を振る舞。
「どうしてだよ、怪我なんだろっ! 歩けないくらいの怪我なのに、どうして医者が気が付かないんだよ!」
「……祐一、うるさい」
 耳元で突然生じた怒声に舞は、眉根を寄せながら不機嫌そうに抗議の言葉を口にする。
 そしてなおも不満の声を上げかけた俺の機先を制するように、俺の瞳を見据えながら彼女は言葉を続けた。
「外傷はない。だから医者は気付かない。ただ……」
「ただ?」
「骨が腐ってる……」
「え?」
「……ような気がする」
「そんなこと……ある訳ないだろ」
 咄嗟に言葉を返す。
 俺の周囲を震わせたそれはしかし自信のない、弱々しい声音にしかならなかった。
「でも、左足は中から黒くなり始めている」
「それだって、そんな気がするだけなんだろ」
 返事は無い。
 そして俺たちは、ドアの前にまでたどり着いた。
 ノブを回し、そしてドアを開く。
 途端、部屋の中とは異なった、冷え切った空気が俺たちの周囲を覆う。
 廊下は、無住の地だった。
 入院患者の姿はおろか、看護婦や医者の姿さえ見出すことのない、まるで世界からうち捨てられしまったかのような情景だった。
「なぁ、舞」
 寂寥感漂う光景を前に、俺は言葉を紡ぐ。
「その……左足の怪我の原因、心当たりはあるのか?」
 俺の言葉に、舞は言葉なく小さく頷く。
 そして、付け足すようにややあってから、
「……ある」
「…………」
 無言のまま次の言葉を促す俺に、俯かせていた顔を上げた舞は、真っ直ぐに俺の顔を見据えながら、
「この怪我は、わたしと――」

                  §

 誰かがガラスを叩いているらしい、鈍い音。
 どんどん……。
 鼓膜を通して意識の中へと流れ込んできたそれが、小刻みに震える波となって何度となく俺を揺さぶり続けた。
 やがて混濁したままだった意識が、現実へと引き戻される。
 閉ざされていた目をゆっくりと見開き、そして音がした方に向けると、そこに俺は意外な姿を見出した。
「……佐祐理さん?」
 ガラス越しに、ややくぐもった感じの声で「祐一さん、祐一さんっ!」と、彼女が俺の名前を繰り返し口にしているのが聞こえた。
 俺はここだよ、佐祐理さん……。
 声を出す代わりに右手をゆっくりと彼女の前に掲げ、それを左右に軽く振ってみせる。
 俺が意識を取り戻したことに安心したのか、真剣そのものだった佐祐理さんの表情が微かに綻んだ。
 ようやく意識がはっきりしてくる。
 どうやら、また夢――と言っていいのかどうか疑問だったが――を見ていたらしい。
 さすがに三度目となると、いい加減俺の方も混乱を覚えることもなくその出来事を受け入れていた。
 原因も理由も、未だに分からない。
 でも同時に、それがただの妄想でも幻想でもないだろうという、一種予感めいた何かを感じてもいた。
「ドアを開けてください、祐一さんっ」
 佐祐理さんの声。
 投げ出されたままの足に力を入れて右足だけ膝立ちの姿勢をとった俺は、辺りを見回す。
 それはすぐに見つかった。
 いま、俺が頼ることのできるただひとつのもの――舞の剣は、すぐ側の床の上に俺が気付くのを待っていたかのように転がっていた。
 右手で掴んだ剣を杖代わりにその場から立ち上がった俺は、そして佐祐理さんに向かって首を振ってみせる。
「祐一さんっ!」
「ダメなんだ、佐祐理さん。まだ……ね」
 その呟きが彼女に届いたかどうかを確かめることなく、俺は改めて廊下の先の虚空に身体を向ける。
 そこに……ヤツはいた。
 目には何も映らない。
 でも、俺には分かっていた。
 先刻と同様、俺が意識を取り戻すのを待ち続けていたかのようにヤツが、じっとそこに佇み続けていただろうことを。
「待たせたな。さぁ、続きを始めようぜ」
 剣を構えながら、それだけを口にする。
 俺のその言葉を、ヤツが理解できたのかどうかは分からなかった。
 そして返答として返ってきたのは、空気の爆ぜる小さな音だった。
 左肩は相変わらず痛む。
 でも、耐えきれないほどではない。
 力の入らないまま鍔近くの柄元に添えられた左手を庇うように、柄の先を握る右手に力を入れる。
 そして肩越しに背後を振り返って、
「危ないから後ろに下がってろ、佐祐理さんっ!」
 それだけを叫ぶと、前方に向かって思い切って跳躍する。
 背後から何か声がしたような気がしたが、ヤツを倒すことに全ての思考を振り向けていた俺の意識に、それは届かなかった。
 意識を研ぎ澄ます。
 耳朶を打つ周囲の雑音が急速に消えてゆき、水を打ったような静寂のただ中にその身を置いた俺は、視線を正面の虚空へと据える。
 ゆっくりと呼吸を繰り返す。
 来る!
 そう思った刹那、目の前の空気がぱちりと爆ぜ、凍り付いたように動きを止めていた空気が揺れた。
 柄元に置いた左手はそのままに、肩口まで剣を持ち上げる。
 ヤツの動きは、思った以上に鈍重だった。
 もしかすると俺の攻撃が効いていて、ヤツに多少なりとも手傷を負わせることができているのだろうか。
 右手を柄の底に当てながら突きの構えを取った俺は、間合いを一気に詰めるべく跳んだ。
 ふたつに切り裂かれる、凍てついた空気。
 何かが剣先に触れ、その堅牢さに反発するように刀身がかすかに歪む。
 次の瞬間、剣先の一点に集中された力がぷつりと殻をうち破り、剣はそのままヤツの体内深くを差し貫いた。
 そのことを意識の片隅で自覚した俺は、最後の力を込めて剣をヤツの中へと押し込み、その反動を利用して後方へと飛び退く。
 声にならない雄叫びが、空気を震わせるのが肌で感じられる。
 文字通りの断末魔の叫びだ。
 気が付くといつしか俺は、全身からわき起こってくる歓喜に背中を押されるように口元を歪めていた。
 ……俺が、倒したのだ。
 ヤツを。
 佐祐理さんを、そして舞を傷つけた「魔」を。
 もし身体の痛みさえなければ声を上げて、その場で笑い出してしまいそうなくらいの、余りに呆気ない幕切れだった。
 見れば、既に存在を停止したらしいヤツの中に食い込んでいた剣が、所在なげに下駄箱の傍らに転がっている。
 俺は誇らしげな思いと共にそこに歩み寄り、そして剣を取る。
 ずっしりとした重量感を手に返してくるそれを掲げながら俺は、ガラス戸の向こうで俺の無事を喜んでくれているだろう佐祐理さんの居る方へ向き直りかける。
 その時だった。
 横合いから脳天を射抜かれるような、強烈な打撃を受けたのは。
 ヤツを倒したことで、つい気の緩みを許してしまった俺は、その一撃に受け身を取ることすらできなかった。
 視界がぐにゃりと歪む。
 頭を鷲掴みにされ、そのまま放り投げられたように空中を舞った俺は、勢いのままにガラス戸に叩きつけられた。
「がっ!」
 咄嗟に両手で頭を庇ったお陰で、頭から突っ込むことだけは避けることができたが、代わりに両手に激痛を覚える。
 そしてガラスに生じていた亀裂が、二度目の衝撃に耐えかねるように、ガラス特有の軽やかな破壊音と共に砕け散った。
 考えるよりも身体が先に反応したのだろう、身体を丸めた俺は受け身の姿勢のまま地面を二転三転して、ようやくその行き足を止めた。
 後を追うように、ぱらぱらと無数のガラスの破片が降り注いでくる。
 止めどなく降りしきる粉雪と混じり合ったそれは、何とも幻想的な光景を俺の前に現出させていた。
「祐一さん、大丈夫ですかっ!」
 俺の名を呼びながら、ぱたぱたと駆け寄ってくる足音。
「来るなっ!」
 未だなお存在し続けている脅威を前に、俺は怒声を発して彼女――佐祐理さんをこの場から遠ざけようとする。
 しかしそんな俺の言葉などまるで耳に入っていないかのように、足早に傍らへと駆け寄ってきた佐祐理さんはその場に跪き、そして強い力で俺の頭をぎゅっと抱き締めた。
「佐祐理は祐一さんを……ずっとずっと、待ってたんですよ」
「……ああ」
 視界一杯に広がる、佐祐理さんの身体。
 制服越しに頬へと伝わってくる、彼女の身体の温もりと柔らかさが、傷つき冷え切った肌に心地よかった。
 そして視界の端には、振り続ける雪が垣間見えていた。
「もし祐一さんの身に何かあったら、佐祐理は、佐祐理は……」
 そこで口を閉ざしてしまう佐祐理さん。
 ゆっくりと側頭に回された彼女の戒めを解きながら俺は、そしていま浮かべることのできる精一杯の笑顔を顔に宿しながら、
「ごめん、佐祐理さん。話は……後でな」
「え?」
 涙目のまま、きょとんとした表情を浮かべる佐祐理さん。
「まだ、終わってないから」
 彼女を庇うように背中に回し、手にした剣を支えに立ち上がった俺は、
「タイマン勝負だってのに、横からしゃしゃり出てくるってのは、ちょっとばかり卑怯じゃねえか?」
 そこにいるだろう、ヤツに向かって言葉を投げつけた。
 我ながら迂闊だった。
 どうして、こんな単純なことを失念していたのだろう。
 そう、ヤツは一体だけではなかったのだ。
 舞の口から、そのことはとうの昔に教えられていたというのに、いまのいままで俺はそのことに全く思い至らなかった。
 自らの愚かさを、内心で罵る。
 俺たちが初めてヤツを倒すことができた、一月のあの日。
 ヤツを倒せたことに対する思いを興奮気味に口にする俺を前に、舞は相変わらずの冷静な居ずまいで「……残り四体」と、確かにそう言った。
 さっきの一撃が、もしヤツの致命傷になったのだとしたらこれで通算二体を仕留めたことになる。
 でも、冷静に考えればようやく二体を倒せただけなのだ。
 逆に言えばまだ三体残っていることになり、そしてそのうちの一体が、いま俺たちの前に文字通りの「死」を司る存在として佇んでいた。
「祐一さん、無茶です」
 上着の袖を引きながら、小声で佐祐理さんが言葉を紡ぐ。
「まだ……大丈夫だって」
 やせ我慢と知りつつも、強がりを口にする。
 正直、関節と言わず筋肉と言わず身体のあちこちにガタが来てる自覚はあった。
 戦っているうちに口の中のどこかが切れたに違いない、言葉を口にしながら同時に鉄っぽい苦みを感じる。
「だって、あちこち怪我をしてるんですよ……それ以上無理をしたら、祐一さんの身体が壊れてしまいます」
「ここまで来たら、後には引けないって」
 そう言いながら一歩、にじるように足を進める。
 咄嗟に受け身を取ったとはいえ、やはり地面に叩きつけられた時の衝撃で筋肉を痛めたらしい。
 一歩足を動かすたびに、全身を貫くような鋭い痛みが走る。
「それに……」
 それでも俺は歩いた。
 戦いに巻き込まないよう、少しでも佐祐理さんとの距離を取るために。
 どうしてなのかは分からないが俺が来るのを待っているらしい、ヤツとの間合いを少しでも詰めるために。
 十歩ほど歩いたところで、行き足を止める。
 そしてゆっくりと佐祐理さんの方に顔を向ける、
 振り向いたそこには真っ直ぐに俺のことを見据えながら、いまにも泣き出しそうな色を見せる彼女の表情があった。
 普段の、朗らかな笑顔ばかりを記憶に焼き付いている俺にとって――こんな時に不謹慎な思いだとは思いつつ――滅多に見せることのないだろう佐祐理さんのその表情に、どこか新鮮なものを感じてしまう。
 だからかもしれない、俺は口元をわずかに緩めながら、
「俺も一応男だから……こんな時、好きな子のことは何があっても守ってあげないとな」
「……祐一さん?」
「あちこちガタガタだから、どこまでやれるかは判らないけど……でも俺、諦めだけは悪いんだよ」
 そして、体内に残された最後の力を振り絞って地を蹴る。
 勢いを強め始めたらしい雪が、街灯の光を除いて漆黒に染め尽くされている視界の半ばほどを、白のベールで覆っていた。
 右か、左か。
 肉眼ではなく、気配を探るように意識を四周に発しながら、俺は校舎に向かって疾駆し続けた。
 風切る雪の音色が耳朶を打つ。
 その刹那、
「右です、祐一さんっ!」
 背後から、佐祐理さんの叫び声。
 その言葉の意味を確かめる暇もなく、言われるがまま殆ど反射的に剣を右に薙ぐ。
 途端、確かな手応えを手のひらに感じた。
「だっ!」
 振り抜いた剣はそのままにその場で身を翻した俺は、そして素早くヤツの未来位置を計算してそこに向かって剣を振り下ろす。
 見事ヒットした刀身は、確実にヤツの身を引き裂いたようだった。
 そして剣を引こうとした瞬間、ぐいと身体が引っ張られる。
 剣をその身に突き刺さしたままに、ヤツがその身をよじったのだ。
 咄嗟のことに、また疲労の限界に達していた俺の身体はその変化に反応しきれず、握っていたはずの手を柄から引き剥がされてしまう。
 そして腹にヤツの尾の一撃を受けた俺は、そのまま背後へと吹き飛ばされてしまった。
 背中から地面に着地した俺は、骨が軋む嫌な音を身体で感じながらうめき声を発するのが精一杯だった。
「祐一さんっ!」
「くそっ」
 地面に手を付きながら、膝立ちに立ち上がる。
 そして唯一の得物を奪い取られた事実に、思わず舌打ちしてしまう。
 傍らに駆け寄ってきた佐祐理さんは、跪きながらそんな俺を前に不安そうに瞳を揺らしていた。
 ヤツの方から距離を取ったのか、十四、五メートルほど離れた場所で、まるで糸にでも吊られたように剣が宙空を漂っていた。
 不安定に、ゆらゆらと。
 何とかして、アレを取り戻さなければ……必死に思考を巡らす俺だったが、妙案は何も浮かんでこなかった。
 唇を噛みながら、俺は正面を見据える。
 勝ち誇ったかのように、手中にある剣を揺れ動かしているヤツの姿。
 そして次の瞬間、まるで俺の思考を読んでいたかのように無造作な仕草で剣が俺の方へと投げつけられる。
「危ないっ!」
 その切っ先がどこを向いているかに気付いた俺は、残された力を振り絞って佐祐理さんの前に飛び出していた。
 佐祐理さんの叫び声。
 瞬きする間に、急速に近づいてくる剣先。
 吹き抜けてゆく雪片。
 まるでコマ落としのかけられたビデオの映像でも見ているかのように、世界がゆっくりと動いてゆく。
 数瞬後、自らに何が訪れるのかをはっきりと自覚しながら、でも同時に俺は内心を安堵の思いに満たしていた。
 これでいいんだ。
 少なくとも、これで佐祐理さんは傷つけずに済む。
 大切な、大好きな女の子を守ることはできる。
 その思いに、いままで意識の奥底でずっと眠り続けていたらしい何かが刺激される。
 守れなかった思い。
 守れなかった約束。
 守れなかった生命。
 所詮それは、自己満足に過ぎないのかもしれない。
 でも……それでも俺は満足だった。
 恐らくは人生で最後になるだろう瞬きをしたその刹那、俺は眼前に信じられないものを見出し、驚愕に目を見開いてしまう。
 突然視界の最中に現れた人影が、そこにあった。
 降りしきる雪の中、はためくように揺れ動く長い髪。
 細くしなやかな肢体を覆い隠すパジャマにガウンという、どう考えてもこんな場所には似つかわしくない服装。
 そして肩越しに、俺へと向けられた眼差し。
 その口元には……穏やかな微笑みが浮かんでいた。
 咄嗟のことに声ひとつ上げることのできない俺に向かって、その瞳の主はまるで何かを伝えようとするかのように一度だけ小さく口を動かすと、正面に向き直った。
 何……だって?
 混乱するばかりの意識。
 俺は何か言葉を紡ごうと、口を開きかける。
 その瞬間、視界を覆わんばかりの突風が、殴りつけるように吹き抜けた。
 反射的に顔を背け、風雪から身体を守る。
 閉ざされる視界。
 そして横殴りの風が吹き去った後、俺がそこに見出したのは……その身を剣で深々と貫かれた彼女の――舞の姿だった。
 信じられなかった。
 いま、この目に映し出されている現実が。
 全てが夢だと思いたかった。
 たちの悪い、悪夢だと。
 目を覚ませばそこには、俺の顔をのぞき込むように身を寄せている舞と佐祐理さんのふたりがいて、そして口を揃えてこう言ってくれるのだ。
「おはよう」
 そう、にこやかに。
 でも……それは夢。
 そんな俺の想像こそが、虚しい夢に過ぎなかった。
 絶え間なく頬を打つ雪片の冷たさと、そして痛む身体はいま目の前に起きた出来事が夢でも幻でもない、確かな現実であることを嫌と言うほど物語っていた。
 目の前に立ちはだかっていた影が、ゆっくりと力を失ったように跪き、雪のベールを背負いながらその場に倒れてゆく。
 白い世界。
 全てが、雪の白さに覆い尽くされた世界。
 そんな中に一点の赤い染みが生じ、そしてじわじわと浸食していくように周りに広がってゆく。
 それは、俺の記憶の奥底に残っていた光景。
 もうずっとずっと昔の、いつかどこかで目の当たりにしたはずの辛く、そして悲しみに満ち溢れるばかりの過去の情景。
 でも俺は、それが自分にとって何を意味しているのかを知らなかった。
 何も分からないまま、心の奥底から溢れ出てくるそれを眼前の情景に折り重ねるばかり。
 どうしてだろう、気が付くと頬を熱いものが伝い始めていた。
 悲しかった。
 辛かった。
 そして、どうしようもなく……心が痛かった。
 言葉を失ったまま、呆然と現実という名の冷厳な光景を見据えるばかりの俺。
 思考が、たったいま眼前で繰り広げられた出来事を何とか理解しようと、目まぐるしく回転を繰り返していた。
 でも、ひとつとして答えは得られない。
 俺の思考は、ただ虚しく空回りを続けるばかり。
 そしてそんな俺を現実へと引き戻してくれたのは、悲痛な音色に染め尽くされた、佐祐理さんの叫び声だった。
「まいぃぃぃーーーーーっ!」
第7章に続く

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