『永遠の楽園』
Update:1999.12.23





第7章「微笑」

 降り落ちてくる雨粒は、冷たかった。
 初めのうち雨は、間隔を置いてぽつりぽつりと糸を引くように落ちてきていた。
 やがて数を増したそれは、いつしか視界の全てを覆い尽くす。
 その中を、じっと立ち尽くす私。
 髪と服に雨粒が染み込み、湿ってくるのが分かった。
 風が吹く。
 途端、私の周りに立ち並ぶ無数の薄が、さわさわと揺れ動いた。
 濡れたその身から、水気を振り払おうとするかのように。
 薄の穂先の幾つかが頬に触れ、雨に打たれて濡れたる肌を更に濡らしてゆく。
 水気を吸って、肌にぴたりと張り付いた服が気持ち悪かった。
 いますぐにでもこの場から駆け出し、屋根の下に逃げ込みたい……そんな衝動が、ふと浮かび上がってくる。
 でも私は、それを我慢した。
 どうしてなのかは、自分でも分からない。
 でも、そうするべきだと心の中のどこかが囁くように言葉を紡ぎ、身体は何の疑問も抱くことなくその声に従った。
 再び風が吹いたのは、その時だった。
 今度のそれは先刻と違い、立ちはだかるもの全てを薙ぎ倒そうとするような強い、遠慮仮借のないものだった。
 風は脇目も振らずに、周囲の薄を根本から引き抜かんばかりに打ち振らせながら真っ直ぐに私の方へと向かってくる。
 逃げないと……。
 そう思ったのと、肩口を誰かに掴まれたような衝撃を覚えたのは同時だった。
「……わっ!」
 ぐるりと世界が、勢いよく一回転する。
 雨でぬかるむ地面を踏み締めていた足から、大地の感触が失われる。
 気が付けば私はその場に仰向けに手足を投げ出した姿勢で倒れ伏し、そして雲の中から降り落ちてくる、無数の雨滴の軌跡を目の当たりにしていた。
 肩がずきりと痛んだ。
 でもそれ以外には、特に痛みは感じない。
 どうやら倒れた先にあった薄の群れが、そのしなやかな身体で私のことを受け止めてくれたらしかった。
 地面に手を付き、その場からゆっくりと立ち上がる。
 見ると手のひらが、泥でべったりと汚れていた。
 しばらくの間、視線を落としたままぼんやりと泥まみれの手のひらを見つめ続ける。
 そして思い出したように、まだ綺麗な方の手をスカートのポケットへと伸ばしかけた。
 ハンカチで、汚れを落とそうと思ったから。
 でも手を動かす間もなく、再び風の鳴る音が耳に響く。
 ひょうと、空気を切り裂くような鋭い音色。
 結局汚れた手はそのままに、私はその場から駆けだしていた。
 風のない場所へ。
 それがどこにあるのかは分からない。
 でもきっとどこかにあるはずの、そのどこかを求めて私は走り続けた。
 一瞬後、私が立っていた場所に一陣の突風が吹き荒れる。
 そして、そこに求める姿が見出せなかったことを舌打ちするように、甲高い風鳴りの音だけを残して風は、その場から慌ただしく駆け去っていった。
 今度は避けられた。
 内心で安堵のため息を漏らしかけた瞬間、何か固いものが私の背中をぐいっと強く押す。
 見つかった。
 流れるような軌跡を残しながら傾いでゆく視界と共に、そんな思いが心をよぎる。
 バランスを崩しかけた私。
 咄嗟に大きく足を踏み出して姿勢をどうにか保ち、そしてなおも走り続けようと……。
「あっ!」
 次の瞬間、小さな悲鳴をあげながらその場に倒れ伏してしまう。
 今度は薄たちも守ってはくれなかった。
 ぬかるんだ地面に身体ごと俯せに突っ込んだ私は、周囲に水しぶきを飛散させながら、その動きを止める。
 追い打ちをかけるように、背中を大粒の雨滴が叩く。
 両手を付きながら半身を起こした私の目に映し出されたのは、身体の前半分を泥まみれにした、自分自身の姿だった。
「ふぇ……」
 転んだ上に、服まで汚してしまったことに思わず泣き出しそうになってしまう。
 でも私は、それを必死になって我慢する。
 何故なら、泣いたって仕方がなかったから。
 いま私が泣き出しても……その姿を見ている人は、誰もいなかったから。
 そう、いまここにいるのは私ひとり。
 どんなに泣きじゃくったとしても、誰も助けに来てはくれないことを私は知っていた。

 ――だから守らなくちゃっ。

 そう、私は守らなければいけない。
 この場所を。
 短かった夏の日々、私と男の子のふたりで紡いだ何よりも大切な思い出が眠っている、この薄野原を。

 ――ひとりで戦ってるからっ。

 そう、私は戦わなくてはいけない。
 この場所で。
 いつの日かまた、男の子がここに来てくれた時に笑顔を交わしながら遊ぶために、この薄野原を。
 魔物の手から、守り続けるために。
 ゆっくりと立ち上がる私。
 そして頭上を仰ぎ見る。
 あの日、私と男の子を含めた世界中の全てを黄金色に染め尽くしてくれた夕日も、雲に覆われてしまって見ることはできなかった。
 そしていま、陽射しに代わって降り続ける雨が、私の身体を遠慮なく叩き続けている。
 泥まみれの手を、ぎゅっと強く握りしめる。
 その途端、指の隙間から泥水がじくじくと染み出し、なおも振り続ける雨と混ざりあって地面へと伝い落ちていった。
 そして思い知る。
 いまの私には、何もないことを。
 無力だった。
 魔物と戦うどころか、逃げることさえ満足にできないこの非力で、そして無力な身体が悔しかった。
 いまの私は、どこにでもいるか弱い、ただの女の子に過ぎないのだ。
 力が欲しかった。
 私たちの遊び場所を我が者顔で飛び回る魔物と対等に戦えるだけの、誰にも負けない力が。
 強い、強い力が……。

                  §

 それが何なのか、私は知っていた。
 夢。
 遠い昔の、心の奥底で眠り続ける記憶。
 悲しい、思い出。
 石もて追われるように前に住んでいた町から越してきた、新しい世界。
 私は、ただ信じただけだった。
 ただ願っただけだった。
 一心に。
 ひたすらに。
 病気でずっと寝たきりのお母さんが、元気になりますようにと。
 眠り続けたまま目を覚まさなくなってしまったお母さんが、もう一度私に笑いかけてくれますようにと。
 今度こそ、一緒に動物園に行けますようにと。
 私のその祈りが通じたのか、お母さんは目を覚ましてくれた。
 でもそのせいで私たちは、この町から離れなくてはならなくなってしまったのだった。
 生まれて始めて訪れた、普通の女の子としてお母さんと一緒に過ごせることを夢見た、見知らぬ町。
 そこも、私にとっての心安らぐ場所とはなり得なかった。
 口さがない風聞はどこまでいっても追いかけてきて、そして周囲の人々は冷ややかな視線を私たち親子に向け続けた。
 魔女。
 化け物。
 私の背中を追いかけてくるのは、いつだってそんな冷たい言葉ばかり。
 友だちもできなかった。
 学校でも、町中でも、私に近づいてくる人は誰もいない。
 町の人たちは誰もが、ただ恐々とした様子で遠巻きに私のことを見つめているばかり。
 いつだって私は、ひとりぼっちだった。
 誰からも相手にされず、誰からも必要とされることなく、ひとりきりで過ごしてきた長い長い時間。
 それはどれくらい長かったのかすら忘れてしまうほどの、長い時間だった。
 そして出会った……ひとりの男の子。
 不思議な能力を持つ私のことを、誰からも嫌われ、避けられていた私のことを真っ直ぐに受け止めてくれる人。
 私を私として、受け容れてくれる人。
 そう信じることができた人。
 北の町を早足で駆けてゆく、短い夏の日々にふたりで紡いだ、沢山の楽しかった思い出。
「あたし……自分の力、好きになれるかもしれない」
 黄金色の絨毯の上で、空を見上げるように寝そべりながらそう言った私に、男の子はにっこりと笑顔を浮かべながら頷き返してくれた。
 嬉しかった。
 楽しかった。
 言葉を交わすことができて。
 そして紡いだ言葉に返事をもらうことができて。
 男の子は、私がようやく手に入れることが出来た、私のことを心から信じてくれるたったひとりの大切な友達だった。
 そして……夏の終わり。
 空が一面の黄昏に染め尽くされ、微風に揺れ動く薄野の中で別れの言葉を交わす私たち。
「さようなら」
「さようなら」
 男の子は去っていった。
 私の前から。

 ――ねぇ、助けてほしいのっ。

 一縷の望み。
 もしかしたら男の子は私が待つこの野原に来て、私と一緒に遊んでくれるかもしれない。
 そんなことを心の中で願いながらついた、小さな嘘。

 ――魔物がくるのっ。

 でも私を信じてくれたはずの男の子は、みんなと同じように私の能力が恐くなり、そして逃げ出してしまった。
 受話器越しに耳朶を震わせる「だから、またいつか遊ぼうよ」そんな男の子の言葉が、虚しかった。
 もう戻っては来てくれない。
 男の子とふたり、薄野原で鬼ごっこをすることも、隠れん坊をすることも無いのだ。
 また、ひとりぼっちなのだ。
 でも……。
 それでも私は、諦めることができなかった。
 たったひとりの友達なんだと、そう信じたかったから。
 私のことを受け入れてくれる人だと、そう信じたかったから。
 ふたりの遊び場所を守るために、一緒に魔物と戦ってくれるのだと信じたかったから。
 信じる心。
 それが……私の能力の源。
 だからあの日、電話を切った私はその場から駆けだした。
 もくもくと夕立雲が立ちこめ、いまにも雨が降り出しそうな空の下を、ただひたすら野原に向かって駆け続けた。
 戦う為に。
 魔物から、私の信じるものを守る為に。
 降りしきる大粒の雨の中、魔物に弄ばれるように泥まみれになりながら、それでも戦う力を欲し続けた私。
 遠い遠い昔の、記憶。
 意識の片隅で、自分がいま夢を見ているのだとはっきりと自覚しながら、私はその回顧の調べに身を任せる。
 たゆたうような心地で、時の流れに流され続ける私。
 だから不意に視界が切り替わり、目の前にいままで見ていたのとは別の何かが現れても、別段驚きはしなかった。
 その光景にも、見覚えがあったから。
 そう……それは夢。
 私の中で眠り続ける、過去の情景。

                  §

 振り抜いた竹刀の柄から、右手を外す。
 踏み足を大きく跳躍させながらわずかに腰を捻ると、肩から剣先まで一本の線となったそれは、狙いを違うことなく正面の目標を打ち抜いた。
 手のひらに覚える、確かな手応え。
「……面っ!」
 残心と共に、傍らを駆け抜ける。
 視界の効かない防具の中から、流れ去る風景を目に移し続けるうち「面あり。一本っ!」そんな一言が、傍らの審判の口から高らかに宣言された。
 開始線に戻る。
 蹲踞の後、互いに剣を収め摺り足で数歩後ずさり礼をする。
 それで終わりだった。
 ゆっくりと道場の壁際へ歩み寄った私は、剣を傍らに置いてその場に座り、面紐を解く。
 面を外した途端、中に籠もっていた熱気が霧散してゆく。
 入れ替わるように流れ込んできた周囲の清涼な空気が、火照った頬に心地よく感じられた。
 微かに目を細めながら私は、その空気が醸し出す穏やかな雰囲気にその身を預けた。
 ふと、視線を感じる。
 それも好意的なものを感じることのない、どこか不躾な空気を伴ったものを。
 まるで射抜くような鋭さに満ちた、視線。
 それが誰の発したものかは分かっていた。
 でも私は、閉じていた目を開き身体はそのままに視線だけをわずかに動かす。
 少し離れた場所にたむろしている、数名の胴着姿の女の子たちの中のひとり、それが視線の主だった。
 たったいま終えたばかりの試合で、竹刀を交わした相手。
 真っ直ぐに私のことを見据える眼差しは、鋭い。
 文字通り、憎悪の想いを裡に秘めている視線だった。
 理由はひとつ。
 いまの試合で、私に負けたことが原因に違いなかった。
 薄野原のただ中で、無力感と共にしとどに雨に打たれながら頼るべき力を求めた私は、それを剣に求めた。
 姿の見えない相手、人ならぬ存在である魔物と戦う為には、素手ではなく武器を持つ必要があると思ったから。
 そして私は、町で剣道教室を開いている道場の門を叩いた。
 三年前の夏の終わり、私は八歳だった。
 私は今年で小学六年生となり、この道場の女子の中では一番の剣の使い手である高校生の彼女と試合い、勝った。
 別にそのことに何の感慨もない。
 ただ私の剣技の方が、彼女より優っていたから勝つことができた、それだけのことだ。
 だから彼女が、どんな思いで私を憎悪の込められた視線で見据え、睨み続けていようがどうでもよかった。
 私の中に存在する思いはただひとつ、いまの自分の力でヤツに――「魔」に勝てるかどうかだけだった。
 夜毎、野原を徘徊し続ける魔物たち。
 昼は学校に通い道場で稽古を積み、そして夜になると野原に赴きヤツが現れるのを待ち続ける……それが三年前から今日に至るまでの、私にとっての日常の全てだった。
 全部で五体いるらしいヤツを倒すどころか、未だ一太刀を浴びせるのが精一杯の私だったけれど、それでもかつてのように一方的に弄ばれるようなことだけは無くなっていた。
 少なくとも魔物の攻撃を察知し、それを避け、受けるだけのことは可能になっていた。
 でも……所詮はそれだけ。
 戦いは終わらない。
 毎夜、ヤツが姿を見せるのをひとり待ち続け、そして剣を交える日々。
 失ったものは多かった。
 笑顔、母親、心、思い出……沢山のものを私は失い、捨ててきた。
 そして見渡せば私の周りには、相変わらず私以外の誰の姿も見出すことはできないまま。
 魔物が現れて以来、私は能力を使えなくなっていた。
 信じる能力。
 お母さんを助けた能力。
 どうしてなのかは分からなかったけれど、でも私は別段その理由を知りたいとも思わなかった。
 あれから三年が経ったいまも、私を見つめる周囲の視線は突き放したような冷たさに満ちあふれていた。
 時々、訳知り顔で私に近づいてくる人間はいる。
 でもそれもさして時を置くことなく、ふと気が付けばいつの間にか姿を消してしまう。
 そして私は、再び孤独の中にその身を置くのだ。
 昼の、生徒たちで満ち溢れた教室の中でも。
 夜の、魔物が徘徊する廊下の中でも。
 別にそれを悲しいとか、寂しいとか思うことはなかった。
 何故なら私にとってそれは、そうあることがしごく当然の、ごくごく当たり前の光景だったから。
 いままでも、そしてこれからも私は孤独と共に歩み続けるのだろう……何の疑問もなく私はそう思い、信じていた。
 あの夏の日、初めて信じることができると思っていた男の子が、みんなと同じように私から逃げていってしまったことを思い知らされた結果として。
 そして私は、魔物と戦い続ける道を選んだ。

 ――どうして?

 どこかから、そんな問いかけが聞こえてくる。
 それは私よりと同じか少し下くらいの、やや舌足らずな女の子の声だった
 誰だろう……心の片隅でそんな疑問を抱きながら、でも同時に私はその問いかけに答えを返していた。
 守らなくてはいけないから。

 ――何を?

 夕日の照り返しを受けて、一面の黄金色に映えるあの薄野原を。

 ――何から?

 私の嘘が生み出した、魔物という名の存在から。

 ――何のために?

 戻ってきてくれるのを待ち続ける為に。

 ――誰を?

 大切な、信じることのできた友達を。

 ――でも結局は逃げちゃったんでしょ、男の子は?

 そうかもしれない。
 でも……それでも私は、魔物と戦い続ける。
 私とあの男の子とを繋ぐ絆は、それしか――あの薄野原しかなかったから。
 それ以外に、私にできることはなかったから。
 戦い続けることしか。
 手にした剣だけを頼りにそれを振るい続け、いつ終わるとも知れない戦いにその身を投じることしか。
 いつの間にか、私を見つめる眼差しが失われている。
 目を向ければ、彼女がいたはずの場所からは誰もいなくなっていた。
 そのことを確認してから、私は改めて視線を道場の外に広がる秋晴れの青空に転じる。
 夕闇が迫っているのだろう、空の西半分はその色を淡い青から深い紫へと転じ始めていた。
 そしてその境目を縁取る、真っ赤な夕焼け空。
 陽は既に家々が立ち並ぶ視界の先に没し、その姿を見ることは能わない。
 訪れる夜。
 ヤツ――「魔」との戦いの時。
 昨日は結局最後まで姿を現さなかったが、今日はどうだろう。
 そんなことを思う私の背中に、今日の稽古の終了を告げる太鼓の音が重々しい響きとなって覆い被さってくる。
 傍らの竹刀を手にした私は立ち上がり、練習生たちが三々五々と集まり始めた道場の中央に向かうべく、その場を離れかける。
 ちらりと、肩越しに背後に目を向ける。
 陽光を失い、黒ずんだ肢体を浮かべる雲が点々と散りばめられた空を覆い始めた闇は、刻一刻とその勢いを増していた。
 夜の訪れは、もう間もなくだった。

                  §

「……ぃ!」
 右斜め後ろに微かな気配を察知すると同時に、頭上へと跳躍する。
 左手を伸ばす。
 近い将来、天井となるだろう部分にはむくみの鉄骨が縦横に走り、その中のひとつに指先が触れた瞬間、思い切ってそれを掴む。
 重力に抗するように左手一本で空中に留まった私の足下を、目に見えない何かが駆け去ってゆくのを、気配だけで察する。
 それを確かめてから改めて腕に力を込めて懸垂の要領で鉄骨の上へ登り、そして再び剣を構える。
 あちこち穴だらけの建物の隙間から、月明かりが射し込んできていた。
 その光を浴びて浮かび上がる自分の影が、階下へと長く延びている様を視界の端に留めながら、私は意識を研ぎ澄ました。
 魔物の、次なる攻撃に備えて。
「……っ!」
 額の右側にちりっ、と違和感を覚える。
 声にならない声と共に、手にした剣を無造作に薙ぐ。
 剣先に固い何かが叩きつけられるような感触を覚えながら、剣の流れに身を任せるように跳躍した私は、柄を持つ右手に左手を重ねると一気に体重を剣に乗せ、振り抜いた。
 空気が揺らぐ。
 声にならない魔物のその雄叫びを肌で感じつつ、私は着地の体制を取る。
 しかし、そこには何もなかった。
 私が降り立とうとしている場所は鉄骨と鉄骨の中間地点、冬の凍てついた寒気以外には何も存在していない虚空だった。
 その先に足場となるべき床が存在しているかどうかは、月明かりだけでは光量が不足していて、判然としない。
 でも私は、躊躇うことなく闇の最中へと身を躍らせていた。
 瞬きをするほどの時が流れ、つま先に空気とは異なる感触を覚える。
 頭で考えるより先に反応した身体が膝をバネに、それでも多少の衝撃を覚えながらその場に降り立つ私。
 そこは前後に突き抜けるように空間の穿たれた、廊下とおぼしき場所だった。
 微かに疲労を覚え、床に片膝を付く。
 剣を床に立てながら姿勢を保った私は、そして改めて周囲の情景に意識を向けてみた。
 視界の右側には壁面らしい建材を穿つように、まだ硝子ははめられていない枠だけの窓が外界の夜景を映し出しながら建ち並ぶ様が映し出される。
 反対側は多分教室になるのだろう、あちこちが穴だらけの床板が敷き詰められていた。
 人っ子ひとり姿を見出すことのない、未完成の建物。
 そしてそれこそが、私が何年もの間魔物と戦い、守り続けてきた場所の現在の姿に他ならなかった。
 無骨な鉄骨とコンクリートの森に埋め尽くされたそこに、かつての薄野原の面影は微塵も見出すことができない。
 でもその先に垣間見ることのできる古ぼけた印象の校舎は、生い茂る薄の間を駆け抜けたあの頃と少しも変わらない佇まいを、私の前に晒し続けていた。
 野原を取り囲むように鉄柵が組まれたのは、短い夏が終わりを告げ、涼しげな秋風が吹き始めた頃のことだった。
 最初は何をしようとしているのか分からなかった。
 程なく野原を一面覆い尽くしていた薄が全て刈り取られ、地肌をさらけ出したその上を沢山のトラックとスコップやツルハシを手にした人足が歩き回る情景を目にして、ようやく私は理解した。
 ここに、新しく何かが建てられようとしていることを。
 秋が早足で通り過ぎ、長い冬がもうそこまで来ている頃、そこは私が知っている場所とは全く違った姿をさらけ出すようになっていた。
 地面は大きく掘り返され、そして大きな鉄骨が何十本と立てられた。
 足場が組まれ、柱となるのだろう鉄骨を結ぶように大小様々な建材が据え付けられ、建物としての形を整えてゆく。
 その様を私は、建築現場の道ばたから毎日見つめ続けた。
 日が没し、その場所から全ての人気が失われた後、私にとってのもうひとつの日常が始まるのだ。
 ヤツ――「魔」との戦いが。
 野原が姿を消し、そこが人の手の入った場所に姿を変えていっても、でも魔物は姿を消すことなく居座り続けていた。
 そして、その魔物を倒すために戦い続ける私。
 聞いた話ではいまはまだ未成のこの建物も、完成の暁には学校の新校舎として使われるようになるらしかった。
 中学を卒業して高校に進学する一年半後、多分私はこの校舎で日々を過ごすようになるのだろう。
 昼は生徒として。
 そして夜は……魔と戦う一個の存在として。
 周囲に気を放つ。
 しかしどこからも、何の気配も感じ取ることはできなかった。
 どうやらさっきの一撃で傷を負ったらしいヤツは、姿をくらましたようだった。
 今日はもう、私の前に姿を現すことはないだろう。
 ゆっくりとその場から立ち上がり、そして手にしていた剣を収める。
 ちきりと、かすかな鍔鳴りを響かせたそれは、抜き身の刀身を寒気に晒しながら降り注ぐ月光にその身を反射させていた。
 駅前の商店街にある古道具屋で偶然手に入れた、この倭刀を使い始めてそろそろ二年が経とうとしている。
 使い勝手は良好だったが、贅沢を言えば私が振り回すには少々重すぎる点と、片刃故に咄嗟のヤツの攻撃につい逆刃で応じてしまう点だけが、難点と言えば難点かもしれない。
 可能ならば両刃の、細身の洋剣のようなものが手に入れば……視線を傍らの刀に落としながら、ふとそんなことを思ってしまう。
 暗闇の中、建物の外へ向かって歩き出す私。
 その道すがら、脳裏では今度あの古道具屋に行ってみようかと、私は考え始めていた。

                  §

「舞ーっ!」
 背中にかけられたその声に足を止め、ゆっくりと振り返る。
 昇降口の所に、いつもと変わらぬ朗らかな笑顔を浮かべている、私の大切な親友――佐祐理がいた。
 ぱたぱたと駆け足で駆け寄ってきた佐祐理は、少しだけ息を切らせながら、
「一緒に帰ろ、舞」
 こくりと、無言で頷き返す。
 その返答に満足そうに目を細めた佐祐理は、流れるような動作で私と肩を並べると校門に向かって歩き出した。
「もう桜が満開だねーっ」
 佐祐理の口から発せられたその言葉に視線を上げる。
 校庭に植えられた桜の樹からこぼれ落ちた花びらが、微風に乗って私たちの周りにも流れてきていた。
 その流れの中に手を差し出す。
 手のひらに、全く重さを感じさせないままにひとひらの花びらが、ゆらゆらとその身を揺らしながら舞い降りてくる。
「あーっ。蝶々だよ、舞っ!」
「……ちょうちょさん?」
 佐祐理が指差す方を見ると、確かに底には一羽の紋白蝶が桜の花びらたちと調子を合わせるように、空のただ中を軽やかに飛んでいた。
 言葉なく、ただその様を見つめやるばかりの私。
 すると蝶々さんは、右に左にとその身を揺らしながら、少しずつ私たちのいる方へと近づいて来た。
「こっちに来るね」
「…………」
「綺麗だよねーっ」
「…………」
 程なく頭上を飛び越えていった蝶々は、私の視界からは見えなくなってしまった。
 首を巡らせ、背後を仰ぎ見ようとする。
 でもそんな私の動きを、どうしてなのか分からないが佐祐理が少し慌てたような素振りで制する。
「あーっ。舞、動いちゃダメっ!」
「……?」
 とりあえず言われるままに、身体の動きを止める。
 それで安心したように微笑みを浮かべた佐祐理は、そしてまるで内緒話をするかのように声を潜めながら、
「いまね、舞の髪に蝶々が止まってるんだよ」
「……本当?」
「うん。羽をね、ゆっくりと閉じたり開いたりして、ちょっと休憩してるみたいだよ」
 くすくすと、笑みをこぼしながら状況を説明してくれる佐祐理。
 でも私には何も見えなかったし、ましてや蝶々さんがどんな様子なのかも分からなかった。
「……佐祐理」
「ん、何?」
「私も見たい」
「気持ちは分かるけど……でも舞の頭の上に止まってるんだから、ちょっと無理じゃないかなーっ」
「……そう」
 そう答えながら、小さく息をついた瞬間だった。
 佐祐理が突然「あっ!」と声を発した途端、目の前をついさっき見たばかりの蝶々さんが羽をはためかせながら、彼方へと舞い去ってゆく。
「ふぇー……行っちゃったね」
「ちょうちょさん……」
 多分その呟きが佐祐理には残念そうな調子に聞こえたのだろう、両手を合わせてにっこりと微笑みながら、
「それじゃあ今度、蝶々さんが佐祐理の頭に止まってくれた時は、舞に見せてあげるね」
「……分かった」
 頷く私。
 そんな私に向かって佐祐理は、どうしてかとても嬉しそうな様子で言葉を紡ぐ。
「あははーっ。でも蝶々さんが髪に止まってるときの舞、何だかとっても綺麗な髪飾りをしてるみたいだったよ」
「…………」
「舞も、普段からもっとお洒落とかすればいいのに。そしたらきっと色んな男の子から声がかかるって、佐祐理は思うんだけどなーっ」
「男の子……?」
 予想もしなかった佐祐理の言葉に、問い返す私。
 佐祐理はうんうんと、大きく頷きながら、
「春ってね、恋の季節なんだよ。だから舞も、好きな男の子のひとりくらい作らなくちゃ」
「……面倒くさいから、いい」
 そう答えながら、でも脳裏にはひとりの男の子の姿がぼんやりと浮かび上がっていた。
 遠い昔、一緒に遊んだ男の子。
 私に、うさぎさんの髪飾りをくれた男の子。
 ずっと嫌いだった自分のことを初めて好きになれそうと、そう思わせてくれた男の子。
 でも私は、その子の顔をはっきりと思い出すことができなかった。
 ずっと昔の思い出だったから。
 何年もの間、殆ど思い出すこともなく眠らせてきた記憶だったから。
 忘れたくて、でも忘れたくない……そんなどこか曖昧な思い出だったから。
「ふぇ? どうしたの、舞?」
 その場に立ち止まって黙り込んでしまった私の顔を、不思議そうな様子でのぞき込んでくる佐祐理。
 私は「何でもない」そう答えながら、歩き出す。
「ね、舞」
 校門を抜け、川沿いの道を歩いている途中で口を開く佐祐理。
 視線を向けると、どうしてか佐祐理は少しだけ恥ずかしそうに頬を染めながら、
「もしもの話だよ。もし佐祐理と舞のふたりが、同じ男の子のことを好きになったら、その時舞はどうする?」
 質問の意味がよく分からなかった。
「あははーっ。だから例えばの話だよ」
 顔の前で手をひらひらとさせながら、言葉を継ぐ。
 小首を傾げながら、少し考える。
 そしてややあってから、
「……何もしない」
「えーっ! どうして、どうしてっ?」
 見るからに、私の返答が意外だったような様子で訊ね返してくる佐祐理。
「だって……」
 途中まで言いかけた言葉を、そこで呑み込む。
 私には、果たさなければならない目的があるから。
 夜の学校に姿を見せる魔物と戦い、その全てを倒すという、もう何年もの間抱き続けてきた目的が。
 気が付けば、あれから九年近くの月日が流れていた。
 でも未だに私は、魔物の一体も倒すことができないままだった。
 力が及ばないからではない。
 いままでも何度となく、ヤツを手負いにするところまでは成功してきた。
 この学校に入ってからも、あともう一息という所まで魔物を追いつめたことは数えただけで五回はあるはずだった。
 でも、私にできたのはそこまでだった。
 傷を負った魔物は、その身を癒すためにしばらくの間姿を隠してしまい、そして再び私の前に現れた時には、元通りにまで回復してしまっていたから。
 そんなことを何度となく繰り返しながら私は、今日までの日を過ごしてきた。
 そんな私に、男の子を好きになっている暇はない。
 私はただ「魔」を倒すという目的の為だけに、いまこの時を生き続けているのだから。
「佐祐理はね、もしそうなったら喜んで舞に譲るからねっ」
 黙り込んでしまった私の言葉を待ちきれなかったのか、口を開く佐祐理。
「……どうして?」
「だってそうすれば、舞は幸せになれるでしょ」
「でも、それだと佐祐理は幸せになれない」
 それは嫌だった。
 佐祐理は大切な友達だったから。
 佐祐理のことが大好きだったから。
 だから佐祐理には、誰よりも幸せになって欲しかった。
 佐祐理を悲しませるようなことをする存在を私は、たとえどんな理由があっても許すことができなかった。
 でも佐祐理は、言い返す私に佐祐理は小さく首を振ってみせる。
 そして、いつもと同じ穏やかな声音で、
「あははーっ。佐祐理にとってはね、舞の幸せが佐祐理の幸せなんだよ。だから舞が幸せになれば、佐祐理も幸せになれるの」
「……そう」
「うん、そう。だから舞、佐祐理と一緒に幸せになろうねーっ」

                  §

 肩越しに振り返った先には、祐一の視線があった。
 信じられない何かを見たような、そんなどこか驚きに満ちた表情を顔に浮かべている。
 でも私にとってそれは、暗闇に包まれた病室の中で夢から目を覚ましたときに既に感じていた予感だった。
 祐一が戦っている。
 魔物と。
 夜の帳が下りた学校のただ中で、私に代わってひとりヤツを相手に剣を振るっている。
 行かなくては。
 パイプ椅子の背に畳み掛けられていた裾長のガウンを羽織り、そして寝静まった病院の廊下を出口に向かって私は歩き出す。
 動かない左足がもどかしかった。
 祐一の協力のお陰で、いままで手傷を負わせるのが精一杯だった「魔」を、私は初めて倒すことができた。
 そしてその瞬間から、私の左足はその動きを止めてしまった。
 まるであの時に倒した魔物が、左足そのものだったかのように。
 いや、多分そうなのだろう。
 魔物が傷つけば、私も傷つく。
 そして私が傷つけば、魔物も傷ついてゆく。
 そのことは何年もヤツと戦い続けていくうち、とうの昔に気が付いていたことだった。
 私と魔物は、見えない糸で繋がっている。
 理由は分からない。
 でも、現実に「魔」を倒すと共に動きを止めてしまった左足が目の前にある以上、いまの私にはそれだけで十分だった。
 そして祐一は、そのことを知らない。
 バレンタインの日、佐祐理を「魔」から守りきれなかった挙げ句に負った私の怪我は、ほぼ完治していた。
 それは裏を返せば、魔物の傷も癒えているということだ。
 祐一が危ない。
 傷の癒えた五体満足な状態の魔物を相手に、祐一の実力ではどう考えても勝ち目があるとは思えなかった。
 病棟を出る。
 運が良かったのか建物を出るまでの間、誰にも会うことはなかった。
 外は小雪がちらつき始めていた。
 空を覆い尽くす雲から、白い粒が無数に降り落ちてくる。
 建物の前で一度足を止めた私の髪に、肩に、粉雪は止めどなく舞い落ち続けていた。
 でも私はお構いなしに、学校へと続いている道のりを歩き始めていた。
 動かなくなってしまった左足の負担を少しでも減らすよう、まだ機能を維持している右足を精一杯使って。
 いまの私にできる、一番の速度で。
 時折右腕に違和感を感じるのは、祐一が「魔」と戦っている証拠に違いなかった。
 祐一の振るった剣がヤツの身体に与えている打撃が、そのまま私の身体にトレースされているのだ。
 ちりちり……。
 骨の表面にかすかな痛みと共に小さな染みが広がっていくような、そんな言葉にはし難い不思議な感触。
 でもその違和感は、すぐに治まる。
 祐一の攻撃は、やはり殆どヤツにダメージを与えられていなかった。
 病院を出たときにはちらつく程度だった雪は、いまでは視界を遮るほどにまで勢いを増していた。
 風が冷たい。
 ガウンと、そしてパジャマを通して素肌にまで寒気が染み込んでくる。
 でも、私は歩き続けた。
 ただ一心に、学校を目指して。
 祐一の無事な姿を、自分のこの目で確かめるために。
 そしてようやくのことで正門の前にまでたどり着いた私が目の当たりにしたのは、道すがらずっと感じ続けていた不安が現実と化した光景だった。
 力尽きたかのように、地面に片膝と左手を付いている祐一。
 その傍らで、呆然と立ち尽くす佐祐理。
 そしてふたりの視線の先には、まるで糸で吊っているかのように空中で揺れ動く、私の剣があった。
 それだけで、祐一たちが置かれた状況の全てを理解する。
 意識より、身体が先に反応していた。
 殆ど視界の効かない吹雪をかき分けるように、私は持てる力の全てを解き放って佐祐理たちの居る場所に向かって駆ける。
 白一色に覆われたベールのわずかな隙間から、微かに何かが煌めくのを瞳が捉えた。
「危ないっ!」
 祐一の叫び声が耳朶を打つ。
 でも私の意識は、それを全く聞いていなかった。
 いまの私は、既に使い物にならなくなっていた左足に加えて、右腕もその機能を停止していた。
 二体目の「魔」を、祐一が倒していたのだ。
 そのことを意識の片隅で自覚しながら一気に間合いを詰め、そして右足だけで思い切り大地を踏みきる。
 片足だったせいで、いつもほどの跳躍距離は取れなかったけれども、それでも私は何とか剣撃に晒されようとしている佐祐理と、その佐祐理を身を挺して庇おうと飛び出した祐一の前に降り立った。
 崩れそうになるバランスを懸命に保ちながら、肩越しに背後を振り返る。
 雪に覆われた視界の先に祐一と、佐祐理の姿が認められた。
 佐祐理。
 そして、祐一。
 誰よりも何よりも大好きで、大切なふたりの友達。
 さっき見た夢の中で……そして私の中に残る思い出の中で、佐祐理は「舞の幸せは佐祐理の幸せ」と、そう言ってくれた。
 それは私も同じだった。
 佐祐理が幸せになってくれれば、私は幸せなのだ。
 佐祐理が幸せになってくれなければ、私は幸せになれないのだ。
 そして佐祐理の側には、祐一がいてくれる。
 だから少しも心配はしていなかった。
 きっと祐一なら、世界中の誰よりも佐祐理のことを幸せにしてくれるだろう、そう信じているから。
 大好きな佐祐理。
 大好きな祐一。
 そんなふたりを守るために、武器もなく利き腕も失い、そして片足までもがれた私に選択の余地は無かった。
 ゆっくりと口を開く
 最後に伝えたかったこと。
 ずっとずっと、誰からも手を差し伸べられることなく孤独の淵に佇んでいた私と同じ時を過ごしてくれた、かけがえのないふたりに告げるべき言葉。
 春の日も。
 夏の日も。
 秋の日も。
 冬の日も。
 ずっと私の思い出が、佐祐理や……祐一と共にありますように。
 口許にいまの私にできる精一杯の微笑みを宿しながら、そしていつしか音を失った世界のただ中に向かって私は、
「……ありがとう」
 呟くように、それだけを口にした。
 踵を返した刹那、腹部に切り裂かれるような激痛を覚える。
 痛みは一瞬だった。
 次の瞬間、全身から力が失われたようにその場に膝をついた私は、ようやくこの手に戻ってきた剣の柄を手にする。
 手の中に覚える、確かな感触。
 同時に、雪の白と夜の黒に染め分けられていた視界が不意にぐにゃりと歪み、ゆっくりと揺れ動いた。
 遠くから、私の名を呼ぶ声が聞こえたような、そんな気がする。
 でもそれが誰のものなのか、私には分からなかった。
第8章に続く

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