『永遠の楽園』
Update:2000.01.30
気が付くと、朝だった。
窓に下ろされたカーテンの隙間からは、朝の陽光がまるで木漏れ日のように細い糸となって部屋の中に射し込んで来ている。
梢の上でさえずる鳥の合唱や、散歩に興じているのだろう犬の楽しげな嬌声、そして登校中の子供たちの賑やかなお喋り……そんな様々な音色が、空気を伝って部屋の中の空気を微かに震わせていた。
そしてうずくまるように膝を抱えながら、未だ薄暗闇に覆われたまま中でベッドの上にひとり座すわたし。
冬の寒気に晒され、夜の間にすっかり冷え切ってしまった部屋の中の空気は、まるで刺すような痛みと共に肌を苛んで来ていたけれど、でもそのことについてわたしが何かを考えることはなかった。
何故なら……。
いまはもう、何も聞きたくなかったから。
何も感じたくなかったから。
ここで何をする訳でなく、何も考えるでもなしに、ただ時の流れにその身を任せ続けていたかった。
――朝だよ。
鼓膜を震わせる、誰かの呟き声。
その声を心の片隅で聞き流しながら、全てから目を背けるように膝の間に顔を埋めた。
何も見たくなかった。
目に映るものの全てを。
舞を失おうとしている――わたし自身の過失で、刻一刻とその瞬間へと向かって歩み続けている、この世界を。
――学校に行かないと。
また、囁き声が聞こえる。
わたしは知っていた。
それが誰の声なのかを。
どうして、わたしに語りかけて来るのかを。
それはたとえどんなに耳を塞いでも、どんなに大声を張り上げたとしても、それでも必ずわたしに届く声なのだ。
奇妙な浮遊感。
まるで自分の身体が自分のもので無くなってしまったような、そんな感覚。
ずっと昔、その声はわたしに向かって様々な言葉を投げかけてきては、そうして日々の生活をわたしに過ごさせてくれていたのだ。
そう……そこにいるのは「わたし」だった。
わたしであって、わたしでない誰か。
でも、どこまでもどこまでもわたしに付き添ってくる、わたしじゃないわたし。
――ほら、早くしないと遅刻しちゃうよ。
穏やかな声音でわたしを誘うその声に、
「……行きたくありません」
ようやくのことでわたしは、それだけを返す。
学校になんて、行きたくなかった。
行って、それでどうなると言うのか。
どれだけ探し回ったところで、そこに求める姿を、一緒に幸せになろうと思うことのできた大切な人は……いない。
いまのわたしにとって学校は、ただ空虚な、それこそあってもなくても何も変わることのない、そんな場所に過ぎなかった。
舞がいてくれたからこそ、わたしはそこに居続けることができたのだ。
通学路、正門前、教室、屋上、中庭、廊下……わたしのいるどんな所にも、必ず側には舞の姿があった。
そのことをごくごく当たり前の、当然だと思っていた。
ずっとそんな日々が続いていくのだと、何の疑問も抱くことなくわたしは信じていた。
でも、舞はいない。
そして彼女を、暖かな陽射しに包まれた世界から排斥してしまったのは、他ならぬわたし自身の愚かさだった。
罪。
咎。
罰。
償。
かすれがちな、同時に歌うような声で、わたしでないもうひとりのわたしが口を開く。
分かっていた。
全ては、わたしが招いた災厄なのだ。
いつだってそうなのだ。
いつだってわたしは、誰かの犠牲の上で安穏とした生活を享受している、醜くて卑怯で狡猾な存在なのだ。
一弥の時もそうだった。
わたしはわたしの「正しい」と思うことを一方的に弟の一弥に押しつけ、そして姉としての自尊心を満たしていた。
その「正しさ」故に自分が、こんなに立派に育つことができたのだから。
だから、一弥にもわたしと同じように立派な男の子に育って欲しいという、ただそれだけのために。
そう……本当はわたしは、一弥のことなんて見ていなかったのだ。
あの頃のわたしの瞳に映し出されていたのは、倉田一弥という名の鏡に映し出された、自分自身の姿に他ならなかった。
だから一弥は、生きることを拒絶した。
わたしの鏡になることを。
自分でない何かとして、生かされ続けることを。
まだ幼く稚拙だった思考を精一杯に巡らせ、そして倉田佐祐理の映し鏡などではない、倉田一弥としての存在を最後まで保つ為に、世界の全てとの接触を拒み、やがて訪れるだろう緩慢な「死」を選んだ。
その一弥の死の上に身を横たえながら、わたしは未だ生きながらえている。
一度は死を選びかけたわたし。
でも、それは本当に一弥を死を悼んでのことだったのだろうか。
ただ自分を映しだしてくれる鏡を失ってしまったことを儚んでの、我が身可愛さ故の自傷行為に過ぎなかったのではないだろうか。
わたしは汚れた存在なのだ。
常に誰かを犠牲にして、そしてその上で上辺だけの笑顔を振りまきながら生き続ける、卑怯な存在なのだ。
だからなのだろう。
三年前に舞と出会ってから、まるで責め立てているかのようにわたしの心の奥底で感じられていた「死」への強迫観念は、いつしか失われていた。
一緒に幸せになりたい人。
一緒に笑顔を浮かべていたい人。
そんな人に出会えたからなのだと、ずっとそう思っていた。
正しくなかった姉に一弥が教えてくれた、大切な「正しいこと」をようやく見出すことができたからなのだと思っていた。
でも……。
本当に、そうだったのだろうか?
本当に「正しいこと」に、舞という存在を通して気付くことができていたのだろうか。
もしかして、舞の中に一弥に代わる新しい映し鏡を見出したことで、血を分けた弟を失って以来ずっと揺らぎ続けていた、心の平衡を取り戻したに過ぎなかったのではないだろうか。
自分自身の、虚栄心を満たすために。
誰かの犠牲の上に、自らの幸福を築くために。
――行こう、学校に。
何度目になるか分からない、誘いの声。
もうひとりの、わたしの声。
そして、とりとめのない思考の泥沼に落ち込んでいたいまのわたしが、その誘いに抗し続けることは……できなかった。
§
廊下の柱に据えられたスピーカーが、軽やかなチャイムの音色を周囲に向かって放つ。
昼休みの終わりが近いことを告げる、午後の予鈴。
賑々しい声と共に廊下を歩いていた生徒たちが、足早に自分の教室へと戻っていく。
そんな中をわたしは、ぼんやりと窓の外の景色を目に映しながら、ゆっくりとした足取りで歩き続けていた。
卒業を間近に控えた三年生にとってこの時期の授業は、とりあえず出席日数さえ満たしていれば無理をして出る必要のない、半ば自主参加に近いものになっている。
だから教室に戻る訳でもなくわたしは、廊下のただ中をどこへ行く訳でもなく無目的にさまよい歩いていた。
教室に戻っても仕方がなかった。
舞のいない場所に戻ったところで、何の意味もなかった。
階段を下りる。
そして一階の廊下を端にまで辿り着くと、目の前に立ち塞がるようにそびえ立つドアを押し開けて、校舎の外へと足を踏み出す。
風が強かった。
昨晩の大雪が嘘だったように空は綺麗に晴れ渡り、突き抜けるような青空の彼方から陽光がさんさんと降り注いで来ていた。
叩けばひび割れてしまいそうな、そんな凛とした蒼さに覆われた世界。
陽光の眩しさに目を細めながら、雪が降り積もっている中庭の上に足跡を印す。
ふんわりと、土とは違った柔らかな感触でわたしのことを受け止めてくれた雪は、真白な色はそのままに形だけを変化させて、そして静かにそこに在り続けていた。
こんな時期に、中庭に出ようなどと思う物好きな人はいないのだろう、そこは足跡ひとつない清浄な世界だった。
その中に、点々と足跡を残していくわたし。
中庭の中ほどで足を止めたわたしはその場にしゃがみ込み、そして目の前にあった雪を両手でひとすくい、すくい上げる。
冷たかった。
陽光を受けてなお溶け残っている雪は、手のひらに染み込むような冷たさを伝えてくる。
その感触が、わたしの中に存在するひとつの記憶を刺激する。
――そうだね。これは……。
追い打ちをかけるように、わたしに向かって語りかけてくる声。
わたしの声。
心の中だけで小さく頷いたわたしは、そして手の中の雪を見つめる自分の姿を見下ろしながら思い出した。
あの時の、舞の……肌の冷たさを。
「舞、舞っ!」
一瞬とも、でも同時に無限とも思える時が過ぎ去った後。
我に返ったわたしは、地面に縛り付けられたかのように硬直したままだった足を必死に動かし、舞の側へと駆け寄った。
雪は未だ横殴りに強く降り続けていて、風に煽られたわたしは何度となく足を滑らせそうになってしまう。
それでもわたしは、懸命に舞の許へと走り続けた。
倒れる間際に抜き取ったのだろうか、彼女の身体を貫いていたはずの剣は降り積もった雪の上に、どこか所在なげな様子で転がっていた。
膝を付いて俯せに倒れていたせいで、舞の表情を窺うことはできなかった。
でも彼女の背中から染み出して来ている血の赤さが、その置かれた状況を何よりも雄弁に物語っていた。
不安に押し潰されそうになりながら、ようやく舞の側にまでたどり着く。
傍らに座り込み、そして彼女の頭に手を回した。
「……っ!」
途端、わたしの手を言葉にし難い何かが貫く。
それは冷たさ。
たとえようもないほどに凍てついた、温もりの一切を失った冷え切った肌の感触。
これが死、なのだろうか。
心の片隅で誰かが、妙に冷静な声音でそんな言葉を紡ぎ出す。
そしてわたしの身体は、その言葉が紛れもない真実を語っていることを――かつての一弥の経験から――はっきりと自覚していた。
一弥の死。
そして……舞の死。
でもわたしは、それを認めたくなかった。
死の存在など、受け入れたくなかった。
だから心の奥底で紡がれるその言葉を必死に振り払いながら、そして舞の頭をぎゅっと強く抱きしめる。
「舞、舞っ!」
まるで壊れたレコードのように、同じ言葉ばかりが口を突いて出てくる。
舞の名を、ただひたすら口にし続けるばかりのわたし。
でもいまのわたしにとって、他に紡ぐべきどんな言葉も見出すことはできなかった。
どうしてこんなことに。
どうして舞が。
どうしてわたしを、祐一さんを庇ってくれたのか。
どうして、どうして……。
ぐるぐると幾つもの疑問が脳裏をよぎっては、行き場の無いままに消えてゆく。
でもどこからも、そんなわたしの疑問に対する返答もなければ、そして真実の在処を教えてはくれることもなかった。
どれくらい経った頃だろう、雪の冷たさばかりを覚えていたはずの膝頭に、ほんのわずかの温もりを伴った何かが触れてくる。
これは……?
舞の髪に埋めていた顔をほんのわずか上げ、それが何なのかを確かめようとする。
「……!」
そこにあったのは……紅だった。
汚れない純白に覆われた雪面を穿つように、じわじわと広がっていくその染みは、間違いなく舞の身体から流れ出る、血だった。
降り続ける雪は、まるでそれを覆い隠そうとするように新たなベールを作り出していたけれど、でもその努力をあざ笑うかのように血流は、更なる赤い染みをそこに描き続けていた。
不思議な光景。
白いはずの雪が、紅に染め上げられてゆく刹那の時。
何の前触れもなく脳裏に一面の紅に染め上げられた夕焼けの空が、そしてその空の下でいつか舞と交わした会話が思い出される。
それはほんの一ヶ月ほど前の、学校から帰る途中での出来事。
「わぁーっ。綺麗な夕焼けだよーっ、舞」
「……うん」
「きっと明日もいい天気だね」
「…………」
「ね、舞。舞は、夕焼けは好き?」
「あまり……好きじゃない」
「え。こんなに綺麗なのに、どうして? 佐祐理は好きだけどな、夕焼け」
「……綺麗だけど、でも血の色みたいだから」
血の色。
そう、確かに舞の言うとおりだった。
目の前でなおも広がっていく血の池は、あの日の舞の言葉通りまるで夕焼け空を雪の上に描いたように、どこまでも紅かった。
雪の冷たさと、血の温もり。
その両者がない交ぜとなって、わたしの中の記憶を何度となく刺激し続ける。
――舞の言うとおりだったね。
不意に、頭の中に響く声。
穏やかな、でもどこか平板な口調のその声は、まるでわたしの思いを代弁するようにゆっくりと言葉を紡ぐ
だからわたしは、
「うん。本当に……血の色みたいだね」
氷のように冷たくなった舞の身体を抱きしめながら、そして小さく頷きながら同意の言葉を漏らした。
その時だった。
耳朶を、どこか間延びした軽やかな音色が震わせる。
意識を回想から現実に引き戻せば、目の前には両手ですくい取った染みひとつない白い雪片が、言葉なく佇んでいた。
どうやら、本鈴が鳴ったらしい。
わたしは手中の雪を払い落とすと、そして校舎の中に戻るべくその場からゆっくりと立ち上がった。
§
階段を上る。
全部で十二段あるそれを上り切った先にある、小さな踊り場。
そこで一旦足を止めたわたしは、手すりに手を付きながら残る半分の階段の先にある目的地に目を向けた。
屋上に続くドアの手前にある、小さな空間。
何の変哲もない場所。
でもそこはわたしたち――わたしと舞と祐一さんの三人――にとって、忘れることのできない場所だった。
暖かな日常。
穏やかな時間。
退屈で平凡で、でもだからこそ幸せをかみしめることのできた、そんな大切な世界。
そこは紛れもなくわたしたちにとっての楽園、そう言える場所だった。
あの日までは。
止めていた足を動かす。
一歩一歩、心の裡にある何かを確かめるように階段を踏み締めながら、目的地へと近づいていくわたし。
視界の中には、誰もいない。
いまは授業中なのだから、当然と言えば当然のことだった。
けれどもその事実は、わたしにどうしてか安堵にも似た思いを抱かせてくれた。
そう、わたしは恐れていたのだ。
もしここに祐一さんがいたら、どうしようかと。
でもそれは、昨日のことを彼から難詰されることを心配したからではなかった。
祐一さんは優しい。
だから何よりもまず、自分の不甲斐なさを責めてしまうのだ。
そしてそんな祐一さんだからこそ、きっとわたしのことを気遣って、昨日のことには決して触れようとしないに違いなかった。
でもそんな彼の優しさが、いまのわたしにはかえって辛い。
いっそ面と向かって罵倒してくれた方が、どれだけ楽か分からなかった。
「佐祐理さん、あんたさえ来なかったら……」
冷ややかな視線を浮かべながら、低い声音で呟く祐一さん。
「あんたのせいで、舞は傷ついたんだぞっ!」
少し興奮気味に、まくし立てるように怒声を発する祐一さん。
「なんでだよ。なんで、佐祐理さんの代わりに……舞がこんな目に遭わなくちゃいけないんだよっ!」
悲しげに、目を伏せながら言葉を吐き出す祐一さん。
そのどれでも良かった。
わたしの狡くて卑怯で、汚れた心を非難してくれさえすれば、それで十分だった。
でもわたしの知る祐一さんなら、きっとそのどれも選ばないだろうことも、わたしは知っていた。
いつも通りに、何ごともなかったように平静を装いながら、
「よっ、佐祐理さん。今日は遅かったな」
そう言ってくれるに違いなかった。
それが辛かった。
だから本当は今日、ここに足を踏み入れたくなかった。
祐一さんと顔を合わせる機会を、出来る限り減らしておきたかった。
でも……そう思うわたしがいるのと同時に、もうひとりの「わたし」――頭上を漂う心だけの「わたし」――は、ここを訪れることを望んでいた。
それを拒む術を、わたしは持っていなかった。
だからいま、ここにいる。
そしていまこの場所に、わたし以外の誰もいないという事実に、内心で安堵の吐息を漏らしている。
程なく、階段を上り切る。
コンクリートが敷き詰められたそこはどこか寒々とした、でもそれ故に普段と変わらぬ佇まいを見せていた。
そしてわたしは、床の片隅に何かが置いてあることに気が付く。
「……?」
小首を傾げながら、暗がりに置かれたそれをのぞき込む。
それは、小さな包みだった。
――手に取らないと。
もうひとりの「わたし」に促されるまま、その場にしゃがみ込んで包みに手を伸ばす。
手にした瞬間、それはかさりと小さな音を立てた。
わずかな重み。
何かが入っているみたいだ。
――袋を開けて。
折り畳まれた袋の口を開き、そして中をのぞき込む。
総菜パンがひとつ。
袋の中にあったのは、それだけだった。
中央に切れ込みが入った、程良い色合いに焼き上げられたパンに、幾つかの具が無造作に詰め込まれている。
お昼休みの食堂で見かける、ごくごく普通の調理パン。
どうしてこんなものがここに……そんなことを思いながらわたしは袋の中に手を入れ、パンを取り出した。
同時に小さな紙片が、ひらりと床にこぼれ落ちる。
「ふぇ?」
どうやらパンと一緒に袋の中に入っていたものらしいそれは、ふたつに折り畳まれていた。
パンを落とさないよう気を付けながら、それを拾い上げる。
そして紙片を開いたわたしの目に飛び込んできたのは、急いで書き殴った感じの、見覚えのある字だった。
『これ食って元気出せ』
たったそれだけの、至って簡潔な文章。
知らない人間が一目見ただけでは、誰が誰に宛てて書いたのかすら判然としない一文。
でもわたしには、それだけで十分だった。
それを誰が書いたのか、わたしには分かっていたから。
そしてその誰かが誰に宛てて書いたのかも、わたしには全部分かっていたから。
「……祐一さん」
やっぱり、祐一さんは来ていたのだ。
今日、この場所に。
きっと昼休みの間中ずっと、買ってきたこのパンに手を付けることなく、わたしが姿を現すのを待ち続けてくれていたに違いなかった。
優しい祐一さん。
大切な祐一さん。
大好きな祐一さん。
わたしのせいで舞を傷つけてしまったというのに、それでも祐一さんはこんなわたしのことを気遣ってくれている。
その思いが嬉しかった。
同時に、悲しかった。
壁に背中を預けながら、その場に座り込む。
そして祐一さんがわたしにと残していってくれた、本当なら祐一さんのお昼になるはずだった総菜パンの包装を解く。
冷え切った場所に置いてあったせいですっかり冷たくなってしまっていたそれは、でもわたしの鼻孔にふんわりと微かな食材の香りを漂わせてきた。
そして思い出す。
考えてみれば、昨日の晩から自分が何も食べていないということに。
そのことに思い至った途端、唐突にお腹がくーっと、小さく空腹を訴えてきた。
「あははーっ。現金なお腹ですねーっ」
思わず笑みをこぼしてしまう。
わたしの笑い声は虚しく周囲の空気を震わせるだけで、どこからも反応が返ってくることは無かった。
でも、それで十分だった。
手にしたパンを一口、ぱくりと頬ばる。
――おいしいね。
口中に広がる、久方ぶりの食感に「わたし」が口を開く。
幸せそうな口調で語りかけてくるその「わたし」に向かって、小さく同意の頷きを返しながらわたしは言葉を紡ぎだした。
「祐一さん……とっても、おいしいですよ」
§
誰かに呼ばれたような気がしたわたしは、閉じたままだった目をゆっくりと見開く。
どうやら、いつの間にか眠り込んでしまっていたらしい。
軽く頭を振って眠気を払いながら辺りを見渡すと、視界に一面の薄暗闇に覆われた階段の情景が映し出された。
辺りは水を打ったような静けさに包まれていた。
階下の廊下からも、何も聞こえない。
小首を傾げてほんの少しの間思考を巡らせたわたしは、視界の暗さからどうやらいまが放課後で、しかもかなり遅い時間だろうことに思い至る。
ゆっくりと立ち上がる。
冷え切った床に長時間座り込んでいたせいで、腰の辺りに鈍い痛みを覚える。
その痛みにわずかに眉根を寄せながら、傍らに置いておいた紙包みを手にわたしは、階段を下り始めた。
こつこつと一定の間隔を置いて刻まれるわたしの足音だけが、静まり返った校舎の中に低く遠く響き渡る。
まるで世界中で存在しているのが、自分ひとりになってしまったかのような、そんな薄ら寒い錯覚を抱いてしまいそうになるほど、校舎の中は寂寥感に満ち満ちていた。
でもそれは、わたしに相応しい世界かもしれなかった。
誰かの犠牲の、不幸の上に安穏とした日々を過ごしていたわたしにとって、他者とは所詮自らの幸福を確認するための鏡に過ぎなかった。
そんなわたしには、孤独の煉獄こそが犯した罪を償うべき世界としてお似合いだった。
一弥を死なせたわたし。
そしていま、舞を死なせようとしているわたし。
――わたしは、いつだってそう。
誰かに守られ、そしてその誰かを傷つけながら、わたしは当然のような顔をして生を享受し続けているのだ。
そんなわたしに、誰かを好きになる資格があるのだろうか。
好きになるという行為そのものが、所詮は新たな贖罪羊を見出すための儀式に過ぎないのではないか。
――そんなわたしに、生きる価値はあるの?
だからなのだ。
だからわたしはあの時、頭上を漂う「わたし」の声に従ってこの世界での生を終わらせるべく、手首を切ったのだ。
手首に感じる、鋭利な金属の感触。
撫でるようにナイフを握った手を手前に引く……それだけで全てが終わるはずだった。
――でも本当に、死のうと思ったの?
切り裂かれた傷口から止めどなく流れ出す血が、スカートと床を真っ赤に染めてゆく。
やがて、そのまま意識を薄れさせていったわたしは……。
でも、わたしは死ねなかった。
自分では結構深く切ったつもりだったけれど、どうやら死に至るまでには幾らか足りなかったらしいその傷は、一生残るだろう傷痕となってわたしの身体に刻まれただけに終わった。
今度やるときは、もっと深く切ろう。
包帯の解けた手首の傷を見下ろしながら、あの時のわたしはそんなことを思ったりもした。
――やっぱり死ぬ気なんて、なかったんだ。
そうなのだろうか。
でも……そうなのかもしれない。
本当に死ぬ気だったのなら、どうして傷の深さが足りなかったと知った時に、もう一度手首を切らなかったのか。
生きる意志がないのなら、同じ行為をもう一度繰り返すくらい何でもないはずなのに。
それは即ち、わたしに死ぬ意志など初めからなかったということだ。
死ねなかったのではない。
死ななかったのだ。
――そして、また死なせるんだ。
また?
そう……自分だけ生きながらえ、そしてわたしはまた死なせようとしているのだ。
大切な存在を。
――大切だと思い込もうとしていた存在を。
大好きな彼女を。
――大好きだと思い込もうとしていた彼女を。
無意識のうちにもうひとりの「わたし」と言葉を取り交わしながら、ただひたすらに階段を下りる足を動かし続けていたわたしは最後の一段を下り、そして一階へとたどり着く。
廊下に向かって一歩足を踏み出しながら、身体の向きを変えたその時だった。
階段を下りている間ずっと薄暗闇に覆われていた視界が、唐突に光の奔流に呑み込まれる。
黄昏。
夕暮れ時の陽光が、窓を通して廊下一杯に広がっていた。
突然の光量の増大に瞳孔の変化が追いつかず、思わず手で目を覆ってしまう。
しばらくの間、その場に立ち尽くすわたし。
そして目が慣れてきた頃合いを見計らって、覆っていた手を離したわたしの目に映し出されたのは、予想もしない光景だった。
そこにあったのは、一面の薄野原だった。
本来あるべき廊下はどこにもなく、代わって黄昏に映えるように穂先を揺らす薄が、視界の全てを覆い尽くしていた。
「…………」
言葉を失い、ただ呆然とその情景を目の当たりにするばかりのわたし。
もしかしてわたしは、夢でも見ているのだろうか。
本当のわたしは、まだ屋上前の踊り場で眠っていて、そしていまも夢の中を漂い続けているのだろうか。
そうなのかもしれない。
そうとでも思わなければ、眼前に展開している光景を理解することはできそうになかった。
――覚えていないの?
不意に「わたし」が言葉を紡ぐ。
覚えていない、とはどういうことなのだろう。
――忘れちゃってるんだ。
風が吹く。
途端、周囲を取り囲んでいた薄が大きく揺れ動き、頬や手足をくすぐるように撫でてゆく。
その感触に、心のどこかが反応する。
「佐祐理は……」
一歩、足を踏み出す。
ざざっと、踏み締められた薄の茎が揺らぎ、傾ぐ。
「……知っています。この場所を」
西に大きく傾いた太陽。
少し離れた所にある小山の麓まで一面に広がる、薄野原。
そして風に揺れる薄の先で見え隠れしている、どこか古ぼけた感じのする木造の校舎。
瞳に映し出される部品のひとつひとつが、わたしの中の何かを刺激する。
忘れていた何か。
心の奥底に眠らせていた何か。
わたしの「正しくなかった」行いで一弥を失ってなお、生き続ける意味をわたしに与えてくれた……何かを。
§
賑やかな喧噪。
あちこちから聞こえてくる、子供たちの笑い声。
店先に並べられた様々な商品を前に、学年も性別もまちまちな子供たちが楽しげな表情を浮かべている。
そこが何なのか、わたしは知っていた。
駄菓子屋さん。
学校や公園、そして野原で遊んだ帰りがけに子供たちがお小遣いを手に集う、子供たちだけの楽園。
それがいま、わたしの目の前にあった。
ベーゴマ。
スナック菓子。
凧。
わた菓子。
ヨーヨー。
糸あめ。
チョコレート。
メンコ。
みんな楽しそう。
お店から少し離れた場所に立ち尽くしながら、彼らの楽しげな様子を見つめやりながらそんなことを思う。
でも……。
そこに、わたしの居場所はなかった。
何故なら、そう言った場所で買い食いをすることを、甘やかすことなく威厳をもってわたしを育ててくれたお父さまから、固く戒められていたから。
わたしを「正しい子」に育ててくれたお父さまの仰られたことだから、わたしは素直にその言に従い、決してそこには立ち寄らないようにしていた。
あの日、たった一度だけ自ら望んで「悪い子」になった時を除いては。
「おや、お嬢ちゃん。こんにちは」
不意に声がかけられる。
見ればそこには、割烹着を身にまとった結構なお年の小柄なご婦人が、こちらを穏やかな眼差しで見据えながら微笑んでいた。
「…………」
何も答えることのできないわたし。
でもその人は、わたしのそんな反応などさして気にもしていないように、相変わらず目を細めたまま、
「また来てくれたんだね。この間はいっぱい買っていってくれて、ありがとうね」
「……あ、はい」
頷きながら、ようやくそれだけを口にする。
「今日も、弟さんに何か買っていってあげるのかい?」
「…………」
この人は、知っている。
あの日、両手に抱えきれないほどのお菓子とおもちゃを買ったわたしが、誰のためにそうしたのかを。
視界を遮られながら、ふらふらとそれをお座敷にまで持っていったわたしにこの人は、穏やかな声音で「おや、そんなに沢山。誰に持っていってあげるのかね?」そう訊ねてきた。
だから、わたしは答えたのだ。
この世でたったひとりの弟と、一緒に遊ぶ為なのだと。
少しの間、見上げるようにその人の顔を見つめ続け、それからわたしは小さく首を振って見せた。
「今日は……お金を持っていませんから」
「おや、そうなのかい。残念だね。それじゃあ、お父さんかお母さんにお小遣いを貰ったらまたおいで。今度は、弟さんと一緒にね」
穏やかに紡がれたその言葉にわたしは、頷くことも返事を返すこともできなかった。
この人は、何も知らないのだ。
一弥の為にこのお店でお菓子やおもちゃを買っていくことに、何の意味も無くなってしまったことを。
もう「悪い子」になる必要など、無くなってしまったことを。
「おばちゃーん。これちょーだーい!」
お店の方から、男の子の朗らかな声がする。
その声につられるように視線を向けると、そこにはわたしと同じくらいの年齢の男の子と、その横に並んで立つ腰まで届く髪をお下げに編んだ女の子の姿があった。
「はいはい。ちょっと待っておくれよ」
「おばちゃん、今日はこれとこれね」
「えーと、全部で百五十円さね。はい、ありがとさん。しかし坊主も、毎日毎日よく来てくれるねぇ」
「うん。だって僕、もうすぐ帰らなくちゃいけないから」
「おや、そうなのかい?」
「だから、それまでにこのお店のもの全部食べて……」
少し離れた店先から、そよ風に乗って聞こえてくる楽しげなそんな会話を耳にしながら、わたしは身を翻す。
ここに、もう用はなかったから。
子供だけが幸せを享受できるこの楽園のどこにも、わたしの居場所は無かったから。
角を曲がるとき、一度だけ店の方を振り返る。
するとさっき見かけた男の子と、偶然に目が合ってしまった。
十メートルほどの距離。
たったいま買ったばかりのお菓子を口にくわえながら、まるで何か語りかけてくるかのようなその瞳に、どこか不思議な印象を覚えてしまう。
……何だろう。
心の片隅で、そんな疑問を抱く。
でも、それは一瞬のこと。
歩き続けるわたしの視界から、男の子の姿はすぐに消えていってしまった。
それから、どれくらい歩いただろう。
どうやってそこにたどり着いたのかもよく覚えていなかった。
でも気が付くとわたしは、見渡す限りに薄が林立している、そんな誰もいない世界のただ中をひとり歩いていた。
風が吹くたび、その勢いに押し流されるように薄の穂先が右に左にと揺れ、わたしの頬を撫でてゆく。
くすぐったいような気持ちいいような、そんな不思議な心地。
そんな中をわたしは、どこに行くあてがある訳でなしに、ただ漫然と歩き続けた。
やがて歩き疲れ、その場に座り込んでしまう。
四周は薄に囲またこの場所からだと、わたしという存在は野原の外にいる誰の目にもとまらない違いなかった。
「…………」
何もない世界。
ひとりぼっちの、わたしだけの世界。
誰にも気付かれることなく、誰にも必要とされることなく、ただそこにいるだけの存在。
静かだった。
耳に流れてくるのは、ただ風の音だけ。
誰の声も聞こえない。
不意に世界中で存在しているのが、わたしだけになってしまったかのような、そんな錯覚を抱いてしまいそうになる。
そう……ここにいれば、わたしは「正しい子」にも「悪い子」にもなる必要はないのだ。
何故なら、ここにいるのはわたしだけだったから。
誰かの為に、倉田佐祐理という女の子を演じる必要は、もうどこにもないのだから。
小さくため息をつく。
そして思う。
いてもいなくても変わらないのならば、いっそいなくなってしまった方がいいのではないだろうか。
ずっと「正しくない」ことを「正しい」ことだと信じ込み、その挙げ句にたったひとりの弟を死なせてしまった、愚かな姉。
そんな存在が、生き続けることにどんな意味があるのだろう。
なら、いっそのこと……。
薄野原の中で、ぎゅっと膝を抱えながらそんなとりとめのない思考に身を任せる。
ぐるぐると答えを見出せないまま空回りをするばかりだった思いは、でも少しずつひとつの結論に向かってまとまりを見せ始める。
がさがさ……遠くから音がしたのは、その時だった。
吹き抜けてゆく風が薄を揺らしているのとは違う、誰かがこの中を歩いているような、そんな音。
誰だろう。
そう思うと同時に、わたしのことに気付くことなく、そのままどこかに行ってくれることを願う。
邪魔をされたくなかった。
あと少しで何かが見つけ出せるような、そんな気がしていたから。
でもそんな願いも虚しく、草をかき分ける音は少しずつこちらへと近づいてくる。
そしてすぐ近くでがさっと音がした後、再び戻ってきた静寂。
風の音と、そしてそれに揺られる薄のさわさわという音色だけが、膝の間に顔を埋めたままのわたしの耳に流れ込んでくる。
「……見つけた」
不意に声がしたのはその時だった。
聞き慣れない声。
でもその声音は穏やかで、どこか優しげな何かを感じさせるものだった。
ゆっくりと顔を上げる。
わたしの瞳に映し出されたのは、さっき駄菓子屋さんの店先で見かけた男の子だった。
「ずっと探してたんだ」
「……ふぇ?」
突然のことに、どう答えたものか分からない。
言葉にならない言葉を小さく紡ぎながら、ただ小首を傾げて見せるばかりのわたし。
「…………」
「…………」
互いに次の言葉を見出せないまま、無言で視線を交わすばかりのわたしと男の子。
何をしに来たんだろう。
わたしに、何か用があるんだろうか。
見覚えのない男の子。
ついさっき、ほんの一瞬目を合わせただけの相手なのに、どうしてこんなところまでわたしを追いかけてきたのだろう。
「あのさ……」
言葉を失ってからどれくらい経っただろう、不意に何かを思いだしたように男の子はズボンのポケットに手を入れる。
「……?」
言葉なくその様を見つめるわたしの前に程なく差し出されたのは、包み紙にくるまれた小さなチョコレートだった。
きっと、さっきの駄菓子屋さんで買ってきたのだろう。
男の子の顔と、そして手の上のそれを交互に見比べるわたし。
これをわたしにくれると言うのだろうか。
でも、どうして?
この男の子は、どうして見ず知らずのわたしなんかに、せっかく買ったお菓子をくれると言うのだろうか。
分からなかった。
こんなわたしに、そんなことをしてくれる男の子の心が。
そんな思いのまま戸惑いの表情を浮かべていたせいだろう、しばらくの間無言だった男の子は、やがて笑顔を浮かべながら小さく頷くと、
「あのさ、これ食べ……」
§
ぱちんと、頭の中で何かが弾ける。
そして次の瞬間、まるでテレビの画面が切り替わるように、視界が一転する。
そこにあったのは、たったいままで目の前に存在していたはずの薄野原ではなく、見慣れた校舎の廊下だった。
日もすっかり傾いてしまったのか、射し込んできていたはずの西日もいつの間にか周囲から失われ、辺りは一足早い夜の帳に覆われ始めている。
窓から垣間見える旧校舎の一角がかすかな残照だけが、先刻まで黄昏に覆われていた世界の名残として、瞳に映し出されていた。
気を取り直すように小さく頭を振りながら、そして思う。
いまのは何だったのだろう。
夢でも見ていたような、そんな心地だった。
もしかしたら、本当にそうだったのかもしれない。
黄昏は、人の心を狂わす……そんな話を以前、何かの本で読んだ覚えがあった。
逢魔が刻。
まだ夜が星と月だけの支配する世界だった頃、人々は夕暮れ時をそう呼んで、黄昏を人ならぬ何かと人が出会う刻限と信じ、畏れた。
魔。
ふと脳裏に浮かんだその言葉には、聞き覚えがあった。
それは舞と、そして祐一さんが夜の校舎の中で戦い続けてきた、人ならぬ存在。
わたしの大切な人たちを傷つけてきた、何か。
突然、背中に悪寒にも似た寒気を覚える。
誰かにじっと、冷たい眼差しで見据えられているかのような、そんな感覚。
背後を振り返る。
でも人気の無いそこには誰の姿も見当たらず、薄暗闇に沈む廊下の情景が静かに広がるばかりだった。
「ふぅ」
小さく吐息を漏らす。
そして昇降口に向かって歩き出そうとした、その時だった。
――くすくす。
笑い声。
小さな女の子とおぼしき、まるで鈴の音を鳴らすような可愛らしい音色。
それが耳朶を打つ。
慌ててもう一度、背後を振り返る。
でもやっぱりそこに、誰かの姿を見出すことはできなかった。
まるで湖底のようにしんと静まり返った廊下は、わたし以外の誰の存在も許すことなく、冷たくその場に佇むばかり。
誰?
そこに誰かいるのだろうか?
胸中の不安が顔を覗かせるように、そんな問いかけが心の奥底から浮かび、言葉とならないまま消えてゆく。
――あははっ。
また声。
今度はさっきよりもはっきりとした調子で、しかも明らかに何かを満喫しているような、そんな楽しげな笑い声だ。
でも不思議と、その声が一体どこから聞こえてくるのか、わたしには全く分からなかった。
まるでどこか、遠くから聞こえてくるようにも思える。
でも同時に、すぐ間近から発せられているようにも感じられる。
「あの……どなたか、そこにいらっしゃるのですか?」
問いかけを口にする。
でも返答は、どこからも返ってこなかった。
そして女の子の声もさっきの笑い声を最後に、それ以上はどこからも聞こえてくることはなかった。
どれくらいの間その場に立ち尽くしていただろう、ますます暗みを増してゆく廊下の情景を視界に収めながら、何度目になるか分からないため息を口から漏らしたわたしは、止めていた足を再び動かす。
今度こそ、学校を後にするために。
その時になって、ふとひとつの事実に思い至る。
一瞬、そのことに疑問を抱いたわたしだったけれど、すぐにその理由に合点がいったように小さく頷くと、
「……そう、なんですね」
確かめるようにひとりごち、そんな呟きを漏らす。
さっき耳にした声。
間違いなくそれは、わたしじゃない別の誰かの声だった。
気がつけばいつの間にか、もうひとりの――引き裂かれた心の片割れである「わたし」の声は、どこからも聞こえてこなくなっていた。