『永遠の楽園』
Update:2000.02.09





第9章「逡巡」

 突き抜けるような、青い空。
 見上げた瞳に映し出される冬特有の蒼さに満ちたそれは、まるで俺の心を吸い込むかのように、どこまでも澄み切っていた。
 空気は冷たい。
 コートに包まれた身体の方はともかく、外気に直接晒されている首から上の皮膚が、刺すような痛みを絶え間なく伝えてくる。
 空を見上げたまま、大きく息をつく。
 途端、白く染まった吐息が視界を覆い、雲ひとつない紺碧の空を隠してしまった。
 視線を戻す。
 すると赤いタイルに覆われた地面の向こうに静かに佇む、白を基調とした硬質な建物の姿が映し出された。
 降り積もった雪は既に除雪されているらしく、校庭のあちこちにうず高く積み上げられた雪山が、陽光を受けてきらきらと輝いている。
 ここは……どこだろう。
 心の片隅で、そんな疑問を抱く。
 答えはすぐに戻ってきた。
 ここは学校。
 俺はいま、学校に来ているのだった。
 七年ぶりに戻ってきたこの町で、生活という名のたゆたうように流れゆく日々の、かなりの部分を占めている場所。
 学生たちの喧噪に包まれた、平和な世界。
 正門の前にひとり佇みながら、目に映る校舎をぼんやりと眺めつつ、俺はふと違和感にも似た何かを覚えてしまう。
 どうしてか、周囲から人気が失われていた。
 一面に淡い色調の舗装が施されている敷地からも。
 その先に広がる、雪と土に覆われたグラウンドからも。
 青空を背景に静かに佇む、校舎の中からも。
 そのどこからも俺は、人のいる気配と雰囲気を感じ取ることができなかった。
 不思議なほどに静まり返った校内。
 今日、学校は休みなのだろうか。
 そんなことを思いながら視線を落とし、自分の服装を確かめる俺。
「……?」
 そして驚く。
 俺が身にまとっていたのは、漆黒のコートだった。
 またコートの下に着ていたのも、やはり黒一色に覆い尽くされたスーツらしきいでたち。
 どうして、こんなものを俺は着ているのか。
 第一こんな服を、俺は持っていただろうか。
 これじゃ、まるで……。
「……祐一」
 すぐ側で声がしたのは、その時だった。
 慌てて顔を上げると、俺にとってよく見知った存在が、少し離れた場所でぽつんとひとり佇んでいた。
 冬の空気がよく似合う女の子。
 いつだって凛として、でもそうでありながら決して冷たいばかりではない、いつだってそんな空気を彼女はまとっていた。
「舞?」
 小首を傾げながら、彼女の名を口にする。
 返事はない。
 でも、それが毎度のことなのだとすっかり理解している俺は、反応が返ってこなかったことを別段気にする訳でもなく、彼女へと歩み寄った。
 無言で、少し上目遣いに俺の姿を見続ける舞。
 彼女の目の前で足を止めた俺は、そして改めてもう一度首を傾げながら「どした、舞?」そう問いかける。
「…………」
 相変わらず、だんまりを決め込んでいる舞。
 その様に小さくため息をついた俺は、そして改めて関心を彼女の出で立ちに移した。
 舞は制服を着ていた。
 スカートの裾の短さを除けば、どことなくキリスト教の修道僧の僧衣を連想させる、一種独特なデザインのそれ。
 この寒空の下、こんなにも素足を晒してしまって寒くないのだろうかとなどと、男の俺としてはつい余計な心配をしてしまう。
「なぁ、舞。今日って学校、休みなのか? さっきから、誰の姿も見かけないんだけど」
「そう……」
 首を左右に巡らせ、周囲を見渡しながら問いかけた俺に返ってきたのは、そんな分かったような分からないような、何とも曖昧な返事ばかり。
 仕方なく、俺は話題を変えることにした。
「そういや俺さ、今日変な格好してるんだよな。ほれ」
 苦笑気味にそう言いながら、羽織っていたコートを広げてみせる。
 中からは先刻確かめたのと同じ、白と黒のツートンカラーに彩られたスーツが現れた。
「別に変じゃない」
 相変わらずの無表情。
 でも、ようやく舞の口からまともな反応が返ってきたことに、少しだけ嬉しくなる。
 我ながら安上がりだよな……内心自嘲気味に、俺は言葉を続けた。
「そうか? だってこの格好、まるでこれから葬式でもあるみたいな……」
 そこまで口にしかけて、俺は思い出す。
 ああ……そうか。
 そうだったんだっけな。
 どうして忘れていたんだろう、こんな大切なことを。
 その為にいま、俺はここにいるんだというのに。
 何秒か視線を足下に落とし、そして改めて目の前で言葉なく佇む舞の姿を確かめる。
「…………」
 舞は無言で、でも眼差しは真っ直ぐに俺のことを見据えていた。
 まるで何ごとかを、その両の瞳で語ろうかとするかのように。
 普段からこれ以上ないほど口下手な彼女だからこそ、言葉以外の方法で俺に何かを伝えようとしているのだ。
 ちらりと腕時計に目をやる。
「もうじき、時間だ」
「…………」
 俺が全てを思い出したことを察した舞は、ほんの少しだけ表情を変化させながら、そして瞳を伏せつつ小さく頷く。
「そう言えば、佐祐理さんはもう来てるのか?」
 思い出したかのように、舞に訊ねる俺。
「佐祐理は……さっきから側に居てくれてる」
「そっか。まあ考えてみたら、これで最後だもんな。お前の側にいてやりたいって思う佐祐理さんの気持ち、分からないでもないけどさ」
「わたしは嬉しい」
 見開いた瞳を校舎の方へと向けながら、呟く舞。
「そりゃそうだろう。俺だって、もし立場が逆だったら嬉しいもんな」
「そう……」
「舞はどうだ。もし俺がそうなったら、側に居てくれるか?」
「祐一は大切な友達。だから、側にいてあげる」
「ははっ、さんきゅ。でも、今更そんなこと言っても仕方がないわな。じゃあ俺も、そろそろ行くとするか。ほら舞、いつまでもこんなところで油売ってないで、さっさと佐祐理さんのところに戻ってやれよ」
 こくりと頷く舞。
 そんな彼女に向かって笑顔を浮かべながら俺は、更なる言葉を継いだ。
「何たって今日は、お前の……葬式なんだからさ」
「分かってる」
「また後でな、舞」
 俺の言葉に再度頷き返した舞は、身を翻して校舎に向かって駆けていく。
「ったく、あいつは死んでもどっか抜けてるんだよな」
 小さくなってゆく舞の後ろ姿を眺めやりながら、思わずそんな悪態を口にしてしまう俺。
 その刹那、俺の中で何かが弾けた。
 死んだ?
 舞が?
 だっていま、舞は俺の目の前にいたじゃないか。
 俺は……一体何を言ってるんだ。
 いまし方、目の前で展開されていた出来事が不意に現実感を喪い、心にのしかかって来るかのように重みを増した。
 視界がぐにゃりと歪む。
 動悸が心の動揺を現すようにどうしようもなく高まり、胸の奥が締め付けられるような痛みを覚える。
 まるで悪いものでも食った後のように、喉の奥が嘔吐感に満たされた。
 なおも小さく映し出される、舞の後ろ姿。
 いまにも消えてしまいそうなほど小さく、弱々しいものに感じらる、その姿。
 だから俺は、俺に背中を向けて駆けてゆく彼女に向かって――。

                  §

「舞っ!」
 叫びながら飛び起きる。
 心臓が、破鐘のように鼓動を刻んでいた。
 吐き出される息が、静謐に満たされていた室内に不協和音を奏でる。
 これ以上ないほど大きく見開かれた瞳に映し出されたのは、夜の暗がりに覆われた自分の部屋の光景だった。
 自らの口から発せられる荒い息だけが、室内に低くこだまする。
 しばらくの間、自らの身に何が起こったのかすら理解できないまま忘我状態を続けていた俺だったが、やがて精神が落ち着きを取り戻し始めた。
 夢。
 そう、俺は夢を見ていたのだ。
 それも「最悪の」と形容を付けるべき、とびきりの悪夢を。
 舞の死。
 そのことを、当然のように受け止めている俺。
 舞本人と彼女の葬儀の話をするという、余りにも現実感のない、それ故に滑稽さと薄ら寒さを感じさせる情景。
 吐き気がするような光景だった。
 同時に気付く。
 それが、俺の弱い心が生み出した幻影だということに。
 遠からず現実のものとなるだろう、彼女の死を受け入れることを拒み、それ故に戯画化された幻にすがることで精神の平衡を保とうとする、心の防衛機制。
 佐祐理さんを、そして俺を庇って「魔」の前に立ち塞がった舞。
 未だ癒え切らぬ、傷ついた身体を精一杯に広げて。
 一片の微笑みを残して。
 雪が横殴りに吹きすさび、視界の殆どが白のベールに埋め尽くされる中、俺はその光景を見てしまった。
 貫かれる肢体。
 純白の雪をじわじわと染めあげてゆく、紅の染み。
 そして……。
「……違う」
 かすれるような声で、俺は否定の言葉を口にする。
「舞はまだ……死んでない」
 それは事実だった。
 あの時「魔」が放った剣を、その身体で受け止めた舞。
 彼女は自らを貫いたそれを引き抜くと、そして全ての力を使い切ったかのようにその場に倒れ伏した。
 雪上を、舞を中心にじわじわと広がってゆく赤い染みは、傷口から流れ出た血だった。
 佐祐理さんの口から放たれた、悲鳴にも似た舞の名を口にする叫び声を聞いてから後の記憶を、俺ははっきりと覚えていない。
 気がつくと俺は、急速に生気を失っていく舞を背負いながら、ひたすら病院への道を駆け続けていた。
 辿り着いた病院では、舞が姿を消したことで大騒ぎになっていた。
 そして、更なる重傷を負った彼女を俺たちがかつぎ込んだことで、騒ぎは更なる波紋を広げていった。
 事情を問われる暇も与えられることなく、血相を変えた何人もの医者と看護婦に囲まれ、連れ去られていく舞。
 行き先は、彼女の病室ではなかった。
 担架に乗せられた舞が潜ったドアの上には、白地のプレートに無味乾燥な活字で「集中治療室」と、それだけが書かれていた。
 病院にたどり着いた時点で、俺のできることはもう何もなかった。
 廊下に据えられたソファに腰を下ろし、傍らに座す佐祐理さんと一緒にただひたすら舞の無事を祈ること以外は。
 これだけの大騒ぎになったのだから、警察沙汰になるだろうことを半ば覚悟していた俺。
 でも予想に反して、事は全て内密のうちに処理されていった。
 病院側としても、入院患者が夜半に勝手に病室を抜け出した挙げ句、瀕死の傷を負って戻ってきたとあっては、何らかの形で管理責任が問われるだろうことは必定だった。
 しかし幸か不幸か、時間が遅かった上に吹雪いていたこともあり、舞を病院にかつぎ込む姿は誰にも見られていないらしかった。
 また途中彼女の身体から流れ落ちた血も、朝方まで降り続けた雪が全て覆い隠してくれたのだろう、その線から騒ぎが広がることもなかった。
 結局僥倖に近い幾つかの偶然と、そして何より「大人の事情」というヤツが、あの日の出来事の全てをうやむやに、文字通り始めから何もなかったことにしてしまったのだ。
 ただひとつ、死の淵へと追いやられた舞の容態を除けば。
 俺は思う。
 どうして舞は、あの日学校に来たのか。
 そしてどうして、俺を庇ってあんなことをしたのか。
 脳裏に、あの時肩越しに振り返りながら舞が浮かべた微笑みが蘇る。
 いつだって仏頂面で、滅多に笑みなど浮かべることのない舞が見せた、穏やかな笑顔。
 舞は何を言いたかったのだろう。
 何を伝えたかったのだろう。
 でもいまの俺には、その問いかけの全てに返すべき答えを、どこからも見出すことができなかった。
 人の気配を察したのは、その時だった。
 意識を現実へ引き戻された俺は、気配を感じた方――ドアへ視線を向ける。
 暗がりを通して俺がそこに見出したのは、細く開かれたドアの隙間から室内を覗き見ているらしい、ふたつの瞳だった。
 無言の時。
 先に口を開いたのは、俺の方だった。
「覗きか? 趣味悪いぞ、名雪」
「違うよ」
 俺の悪態を、つき合いの長さ故かさらりと受け流す名雪。
「ね、祐一」
「……なんだ?」
「中、入ってもいい?」
 少しだけ考える。
 冷え切った部屋の中を支配する沈黙が、少しだけ心に重しとなってのしかかってくる。
 ややあってから、俺は「ああ、いいぞ」それだけを返した。
「お邪魔しまぁす」
 律儀に挨拶をしながら部屋の中へ足を踏み入れた名雪は、壁際に設けられた照明のスイッチに手を伸ばしかけるが、でも俺は彼女のその行動を制止する。
「電気は付けるな」
「どうして?」
「寝るときは俺、いつもオールヌードなんだ。でも、お前がどうしても俺の裸が見たいっていうのなら、好きにしろよ」
 つとめて平静を装った声音で、そう言い放つ。
 裸で寝てるなんて、もちろん嘘だった。
 身にまとったパジャマ代わりのトレーナーは、全身に噴き出した寝汗のせいでべたべたと肌にへばりついて気持ち悪く、そしていまなお確かに俺の身体を覆っている。
 名雪に部屋の明かりをつけさせたくなかったのには、別の理由があった。
 いまの俺の顔を見られたくなったのだ。
 悪夢におびえ、そんな夢を見てしまった自身にに対する自己嫌悪を募らせるばかりの、不様な姿を晒している俺を。
「祐一の裸なんて、わたし見たくないよー」
 名雪は、俺の嘘を真に受けたかのように少し困った声を発しながら、でも明かりはつけないままに俺の方へと歩み寄ってきた。
 そしてベッドの傍らの床に、ぺたりと座り込む。
「ね、祐一。何かあったの?」
 口を開きかけた俺の機先を制するように、訊ねかけてくる名雪。
 いつだってどこか眠そうな、間延びした感のある彼女の口調とは少し違った、至って真面目な声音。
「何のことだ?」
 とぼける俺。
「うー……何のことだ、じゃないよっ。さっきから三十分おきくらいに、廊下越しに祐一の部屋の方から『あー』とか『うー』とか、苦しそうな声が聞こえてきてたんだよ」
「空耳だな」
「……その後、『まいっ』って祐一がおっきな声で叫んでるのも?」
「他人のそら似だ」
「その日本語、何だか変だよ。祐一」
「じゃあ同姓同名」
「ますます変」
 薄暗がりの中、目の前の名雪が不満そうに眉根を寄せているのが見て取れる。
 その様に俺は、どこか後ろめたさにも似たものを感じてしまう。
 だからそのまま視線を天井へと視線を逸らして、黙り込んでしまった。
 そんな俺の態度をどう思ったのだろう、名雪はまるで母親が子供に話しかけるような穏やかな声音で、
「怖い夢、見たの?」
「…………」
「悲しい夢、見たの?」
「…………」
 俺は答えない。
 もし彼女の問いかけに答えてしまったら、心の奥底に抑え込んでいるもの全てが噴き出してしまいそうだったから。
 怖い夢。
 そう、俺が見たのは怖い夢。
 まだ生きているはずの舞の「死」を目の当たりにする夢が、恐くないわけがない。
 悲しい夢。
 そう、俺が見たのは悲しい夢。
 俺と佐祐理さんにとって大切な存在である彼女を失う夢が、悲しくないわけがない。
 それきり室内に、静寂が戻ってくる。
 ベッドから半身を起こし、相変わらず視線を天井に向けたまま、言葉の接ぎ穂を捜すように目だけを左右に動かし続ける俺。
 その時だった。
 布団の上に投げ出されたままだった左手に、何かが触れてくる感触を覚える。
 見れば差し出された名雪の手が、俺の手をきゅっと掴んでいた。
「……?」
 そのまま視線を、名雪へと向ける。
 暗がりの中で表情は判然としなかったが、どうやら彼女は微笑んでいるらしい。
 そんな俺の推測を裏付けるように、やがて名雪の口から紡がれた言葉は穏やかで、優しい口調だった。
「手を繋いでてあげるね。これなら祐一も、きっと安心して眠れるよ」
「……恥ずかしいって」
 言いながら掴まれた手を軽く揺らしながら振り解こうとするが、思いの外強い名雪の握力がそれを許さない。
「ダメだよ。お姉さんの言うことを聞きなさい、祐くん」
 唐突に彼女の口から紡がれた言葉に、少しだけ驚いてしまう。
「懐かしい呼び名だな、それって……」
「そう言えば幼稚園の頃以来かもしれないね。祐一のことを、こんな風に呼ぶのって」
 名雪の言う通り、俺がまだこの町に両親と一緒に住んでいたずっとずっと昔、彼女は俺のことを「祐くん」と、そう呼んでいたことがあった。
 まだお互いに自分が男だとか女だとかを自覚することもない、何をするにも一緒だった小さかった頃の、遠い昔の思い出。
 いつからだろう、名雪が俺のことを「祐くん」でなく「祐一」と呼ぶようになったのは。
 よく思い出せない。
 俺の中に確かに存在しているはずの過去の記憶は、でも未だその大半が目覚めの時を待ちながら、静かに眠り続けるばかりだった。
「お姉さんたって……一ヶ月も違わないだろ」
「でも、お姉さんはお姉さんだよ」
 囁くように小さな、でもどこか楽しげな声が耳朶を打つ。
 そして掴んだままだった手の力を、まるで何かを伝えようかとするように、ほんの少しだけ強くする。
「……名雪?」
「わたしは……何もできない女の子だから、祐一の悩みを解決してあげたり、傷ついた心を癒してあげることはできないけど……」
「…………」
「でもね……そんな時、一緒にいてあげることは出来るよ。こうして、祐一はひとりぼっちじゃないんだよって、そのことを教えてあげるくらいのことは出来るんだよ」
 手を握る力が更に強まる。
「わたしの右手はね、いまこの時だけは祐一の手を握るためだけに存在しているの。そして祐一の左手は、わたしと手を繋ぐためにいまここにあるの」
 吹き出た汗が熱を吸ったのだろうか、左手だけが保ち続けているその温もりを感じながら、俺は頭を枕の上に横たえる。
 そして右手をゆっくりと持ち上げなら、口を開く。
「じゃあ、俺のこの右手は何のためにあるんだ?」
 沈黙。
 俺と名雪の口から漏れる微かな吐息だけが、耳朶をわずかに震わせる。
「それは……祐一が考えること」
 長い長い静寂の後、紡がれた一言。
「祐一が、祐一にとっての大切な誰かに『キミはひとりぼっちなんかじゃないんだ』って、そのことを教えてあげるためにあるんだよ、きっと」
「……そっか」
「うん……」
 まぶたを閉じ、俺は宵闇以上の漆黒が漂う世界に身を置く。
 眠れる自身はなかった。
 恐らくは三十分もしないうちに再びの悪夢にうなされ、布団から跳ね起きることになるのだろう。
 逃れられぬ悪夢。
 償わなくてはならない過失。
 守るべき誰か。
 忘れてはいけないはずの何か。
 そんな、とりとめない思考の断片が漂う海を前にする俺の耳元に、名雪のいかにも名雪らしい励ましの言葉がこだました。
「ふぁいとっ……だよ、祐一」

                  §

 カツカツと黒板を叩く、白墨の無機質な音。
 その音の上を、教科書を読み上げる教師の読経の声がわずかな不協和音と共に重なり、周囲に波紋を広げてゆく。
 そんな中、何をするでなしにただそこにいるだけの俺。
 耳朶を叩く声と音の全ては、意識をかすめること無く右から左へと流れてゆく。
 目に映る世界は、俺の淀んだ精神を反映するかのように、ゆらゆらと揺れ動いていた。
 時を追うごとに蓄積されてゆく疲労と、そして無力感。
 身体の随所が覚える、普段なら感じることのないひきつるような奇妙な違和感は、恐らく怪我をした体組織があげる悲鳴に他ならなかった。
 でも俺は、それを明確な「痛み」として感じることができなかった。
 鈍磨しきった意識と神経が、本来なら激痛を覚えるに足るはずのそれを、単なる違和感にまで貶めているのだ。
 自覚はあった。
 それが何故なのかという。
 多分壊れかけているのだ、俺は。
 佐祐理さんを守ることができず、舞を死の淵に追いやったそんな不甲斐ない心と身体が自身のものなのだと認めることを、拒絶しているのだ。
 いつだって役立たずな俺。
 いつだって無力な俺。
 いつだって守られてばかりの俺。
 舞を、そして佐祐理さんをなす術なく傷つけられた挙げ句に得られた結論が、それだった。
「――くん、相沢君っ!」
「……?」
 不意に意識に割り込んできた声に、現実へと引き戻された俺。
 ゆっくりと顔を上げると、そこには見慣れた顔がひとつ。
 多分繰り返し俺のことを呼び続けていたのだろう、からきし無反応な俺に少しご機嫌斜めの様子だった。
「……香里?」
「何が『……香里?』よっ。さっきからずっと呼んでるんだから、返事くらいしなさいよね」
「ああ」
 のし掛かってくるような疲労感を押し隠しながら、視線を香里に向ける。
 美坂香里。
 クラスメートであり、かつ名雪の親友でもある彼女。
 成績は学年トップクラスの上に運動神経は抜群、おまけに結構な器量好しと非の打ち所のない存在だ。
 多少言動のきついところもあるが鼻につくほどではなく、個人的にはそれすらも彼女の魅力のひとつと数えてもいいと思っている。
 そんな彼女が、いま俺の目の前にいる。
 鈍磨した意識が、特に命じた訳でもないのにそんな目の前で俺を見下ろす彼女に関する印象を、滔々と語り出していた。
「相沢君、どうしたの?」
 ぼんやりとした視線を向け、生返事を返したきり黙り込んでしまった俺を訝しむように、腰に両手を当てながら香里が俺の顔を覗き込んでくる。
「相沢君、何だか疲れてるみたいね」
「ああ……疲れてるぜ」
「それって、もしかして名雪と関係がある?」
 何の脈絡もなく、名雪の名を口にする香里。
 俺は小首を傾げながら、
「なぁ香里。どうしてそこで、名雪の名前が出てくるんだ」
「だって……」
 そう言いながら視線を右に巡らせたそこにあったのは、机に突っ伏すように寝入る名雪の姿だった。
 安らかな寝顔。
 教室内の喧噪を通して、口元から微かに漏れ聞こえてくる寝息。
 見事なまでに熟睡していた。
「相沢君は朝からずっと景気の悪そうな顔をしてるし、名雪は名雪で朝からずっと居眠りしっぱなしでしょ。わたしじゃなくたって、相沢君と名雪のふたりに何かあったんじゃないかって思うわよ、普通」
 肩をすくめながら、少し呆れたように言う。
 香里がいわんとするところは、分からなくもなかった。
 でもいまの俺に、彼女とのコミュニケーションを続けようとする意志――正確には気力は、無かった。
「何もない……以上」
 だから俺は、これ以上無いほど素っ気ない一言で香里との会話を終わらせるべく、それだけを口にしてみせた。
「本当に?」
 どこか疑わしそうな様子の香里。
「本当だ」
「本当に本当なの?」
「だから、本当だって言ってるだろ」
 今日に限ってやけに絡んでくる香里のその態度と、彼女が普段見せる至って淡泊な言動との間に、どことなく違和感のようなものを感じてしまう。
 そんな俺に向かって、どこか小悪魔めいた笑みを浮かべた香里は、
「そう。じゃあ……」
 くるりとその場で身を翻したかと思うと、何を思ってか未だに眠り続けている名雪にいきなり抱きついてみせた。
「名雪は、わたしが貰うわね」
「……うにゅ?」
 抱きつかれた拍子に目が覚めたのだろう、背中に香里を負ぶったま、ま名雪が身体を起こそうとする。
「重いよー」
 途端、香里の存在に気付いた彼女は、どこか寝ぼけた口調のまま抗議の声を発する。
 そんな名雪に向かって香里は、
「だめよ、名雪。あなたはわたしが貰ったんだから」
 楽しそうに言葉を紡ぐ。
「……誰から?」
「もちろん、相沢君からよ」
「え……?」
 状況が掴めないのか、一瞬きょとんとした表情を浮かべる名雪。
 そして次の瞬間、与えられた少ない情報から現状をどのように解釈したのか、不意にぷっと頬を膨らませると、
「いくらお母さんから貰ったお小遣いが足りないからって、わたしを香里に売るなんてひどいよ。祐一」
「待て。別にお前を売ってなんかいないぞ、俺は」
 いきなり非難の矛先を向けられた俺は、楽しそうな様子で名雪の髪に顔を埋める香里を睨み付けながら、きっぱりとそう言ってのける。
「そうよ、タダで貰ったんだから」
「え? それってもしかして、わたしにはお金を払う価値もないってこと? なんか……それも嫌だな」
 タダと聞かされて、更に不満そうな表情を浮かべる名雪。
 ……全く。
 内心で小さくため息をつきながら、俺は言葉を紡ぐ。
「お前なぁ、それじゃあ一体どっちの方がいいって言うんだよ。我がままな奴だな」
「うー……売られるのは嫌だけど、タダはもっと嫌」
「じゃあ百円」
「安いよー。今時それじゃあ、缶ジュースも買えないよー」
「分かった分かった。じゃあ大負けに負けて、四十六円と八十二銭ってところでどうだ」
「どうして安くなっちゃうんだよっ。それに、その中途半端な金額の根拠が分からないよー」
「それはだな、名雪って何となく四十六円八十二銭って感じだからだ」
 段々自分でも、何を言ってるのか分からなくなってきてしまう。
 それは名雪にしても同じなのだろう、目もすっかり覚めたのか彼女の口元にはいつしか楽しげな笑みが浮かんでいた。
 そして気がつく。
 香里が何を意図して、こんな子供じみた真似をしてみせたのか。
 訳の分からないうちに巻き込まれた名雪にしても、多分途中からそのことに気付いていたのだろう。
 だから俺はふたりとの会話を中断して席を立ち、そして教室のドアに向かって歩き出す。
「祐一、どこ行くの?」
「ちょっと目覚ましに、外の空気吸ってくるわ」
 肩越しに振り返りながら、返事をする。
「外は寒いよ」
「だから、目覚ましになるんだろうが」
「あ、そっか。じゃあ、風邪を引かないうちに帰ってくるんだよー」
 そう言いながら、ひらひらと手を振る名雪。
 軽く手を上げながら、そして視線を相変わらず名雪に抱きついたままの香里に向ける。
 彼女は笑っていた。
 でもそれは、ついさっきまで浮かべていた悪戯っぽい笑みではない。
 どこか満足そうで、同時に誇らしげな笑顔だった。
 そんな彼女に俺は、殆ど声にならないくらいの小声で「さんきゅ」と言葉を紡ぐ。
 聞こえるはずのない、俺のその言葉。
 でも香里は、まるでその呟きをちゃんと聞き取ったかのように、ほんのわずか目を細めてみせた。
 再び歩き出す俺。
 ふたりのお陰で、少しだけ軽くなった心。
 行くべき場所はひとつ。
 そこは、俺が在るべき場所に他ならなかった。
 大切な人と、大切な時間を紡いできた場所へと赴く為に、俺は昼休みの喧噪に包まれる廊下に足を踏み入れた。

                  §

 喩えて言うならそこは、祭りの終えた後の神社の境内が漂わせるだろう、そんな静けさに包まれていた。
 寒々とした空気。
 まるで誰からもその存在を忘れられてしまったような、そんな悲しさとも寂しさともつかない何かに満たされた世界。
 それはかつて俺が、何度となく経験してきた感傷に他ならなかった。
 軽やかな音色と共に祭囃子が賑やかに鳴り響く中を、夜店で買い込んだ様々なものを手に駆け回る子供たち。
 右手には、的当てで手に入れたおもちゃの鉄砲を。
 左手には毒々しいまでの赤一色に染め上げられ、水飴にその全面を包まれた林檎飴。
 そして額には、特撮ヒーローのマスクを象ったお面。
 何の気兼ねもなく心からの笑顔を浮かべことのできた、その楽しかった時が長ければ長いほど、祭りが終わった後に襲ってくる脱力感もまた大きいのだ。
 いま俺の目の前にあったのは、まさにそれだった。
 心のどこかにぽっかりと穴が空いてしまったような、そんな感覚。
 過去を、幸せだったと思うことのできた一時を忘れることができず、俺はただ呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。
 楽しかった時。
 心からの笑顔を浮かべることのできた、大切な誰か。
 ほんの一、二週間前まで、いま俺の両の目が捉えているこの場所に、間違いなくそれは存在していたのだ。
 俯き加減に階段を上りきり、人気のないその場に足を踏み入れた俺は、そのまま踊り場の一角に腰を下ろす。
 コンクリートの床が、固く冷たい感触を返してきた。
 染み込むように伝わってくるその感触に、どうしてか違和感を覚えてしまう。
 そして俺は気がつく。
「そっか……そうだよな」
 俺が祭りのただ中に居ることができた頃――佐祐理さんと舞のふたりの姿を見ることができた頃、ここにはいつだって敷物が敷いてあったのだ。
 多分それは、佐祐理さんが家から持って来ていたものだったのだろう。
 ピクニックなんかでよく使われる、どこにでもあるような四角い敷物。
 それを敷いたところで、床から伝わってくる寒さをしのげるとはあまり思えない代物だったけれど、でも俺はこの場に腰を下ろしていて、冷たいと思ったことはなかった。
 何も変わっていないはずなのに。
 ここに居るのが、俺ひとりだけということを除けば。
 いや、だからなのだ。
 俺が固く冷たいと感じているのは、もしかすると身体が覚える物理的な冷たさだけではないのかもしれない。
 本当に寒さに打ち震えているのは、心の方なのだ。
 舞のいない世界。
 佐祐理さんのいない世界。
 そこには、肩を落として悄然と立ち尽くす俺が存在するばかり。
 必要欠くべからざるものを失った余りにも寒々とした光景に、俺の心が耐えきれないと悲鳴をあげているのだ。
 そこまで考えたところで、自然と口元が緩んできてしまう。
 別に、何かおかしいくてそうした訳じゃない。
 自らの中に存在する、いままで微塵も気がつくことすらなかった、弱々しい己の姿に、思わず自嘲の笑みを浮かべてしまったのだ。
 ……俺って、こんなに弱い奴だったんだな。
 それが正直なところだった。
 名雪に支えられた俺。
 香里に励まされた俺。
 舞に助けられた俺。
 佐祐理さんを必要としている俺。
 そう、俺は待っているのだ。
 佐祐理さんがこの場に姿を現して、そして俺に向かってあの無邪気な微笑みを浮かべて見せてくれることを。
 ゆっくりと目を閉じる。
 そして想像の揺り籠に、その身を任せる。
「わっ。今日は早いんですね、祐一さん」
「何となく一番乗りしてみたい気分だったんだ、今日はさ」
「あははーっ。確かにそういう日ってありますよね。佐祐理も時々、舞とどっちが先に着けるか、よーいどんで競争することがあるんですよ」
 微笑みを振りまきながら手際よく踊り場に敷物を敷いた佐祐理さんは、その上にお重を広げてゆく。
「へぇ。でもスピード勝負じゃ、舞の方に分があるんじゃないか?」
「そんなことありませんよ。こう見えても佐祐理、運動神経は結構いいんですからーっ」
「そんなもんかね」
「あーっ、祐一さん。その目は佐祐理の言うこと、信じてませんね」
「だってなぁ……」
「分かりました。それじゃあ今度、三人で競争しましょう。明日のお昼は、誰が一番先にここに着けるか競争です」
「おし。その勝負、乗った」
「あははーっ。佐祐理、負けませんからねーっ」
 そうして始まる、穏やかで暖かな時間。
 くるくると風を受けて回り続ける風車のように、変わりばえのない、でもだからこそ幸せなんだと感じることのできる世界。
 そこにあることを、当たり前だと信じて疑わなかったもの。
 でもその全てがまるで塵芥のように風に吹き払われ、その後に荒涼たる無味乾燥な世界が姿を見せる。
 まるでそんな光景こそが、俺に似つかわしいと言わんばかりに。
「なんで……」
 そこまで言いかけて、言葉を切ってしまう。
 同時に次に続くべき言葉の代わりに口元を歪めると、唐突に大声で笑い出したい衝動に駆られてしまう。
 弱い自分を嘲笑いたかった。
 悪し様に罵ってやりたかった。
 守るべき者に守られ、支えるべき者に支えられ、あまつさえ妄想のぬるま湯に逃げ込もうとしてる、そんな無様で惰弱な自分自身を。
 床に手を付く。
 そのまま両腕に体重を預けながら俺は、天井を仰ぎ見るように上体を仰け反らせる。
 その時、指先にかさりと紙に触れる感触を覚える。
 見ればそこには、小さな包みがあった。
 少しの間俺は、そのまま傍らに無造作に置かれたその紙袋に視線を注ぎ続ける。
 それは俺が持ってきたものだった。
 ここにくる前、食堂の購買部で買ってきたパン。
 昨日からろくに食事も取っていなかった腹に、少しでも詰め込んでおこうと思って買ってきたものだった。
 姿勢を戻す。
 そして改めて包みを手にした俺は中に手を入れ、パンを取り出す。
 程良い色合いに焼き上げられているパンの中央には、切れ込みに沿って幾つかの具が詰め込まれていた。
 どこにでもあるような、ごくありふれた調理パン。
 食欲は、全くといっていいほどなかった。
 いつもなら二口三口で食べきれるはずのそれを前に、ただじっと見つめやるばかりの俺。
 どれくらいそうしていただろう、やがて小さくため息を漏らした俺は手中のパンを、そのまま袋の中に戻した。
 次の瞬間、まるでタイミングを計っていたかのように、ジーと雑音混じりの空電音を発したスピーカが、チャイムの軽やかな音色を鳴り響かせ始める。
 予鈴だった。
 五分後に鳴る本鈴をもって、昼休みは終わりを告げる。
 そのことを頭の中で確認しながら俺は、改めて周囲を見渡してみた。
 俺以外、誰もいない空間。
 冷え切った上にひどく沈鬱な雰囲気を漂わせるこの場所は、かつて楽園だった場所の朽ち果てた姿だった。
 いつの日か、ここにあの笑い声が戻ってくる日が来るのだろうか。
 舞と佐祐理さんと俺の口から発せられる、心からの笑顔が。
 いや、違う。
 戻さなければならないのだ。
「っと……」
 呟きながら俺は、制服のポケットのあちこちをひっくり返すように探し回る。
 程なく見出された生徒手帳とボールペン。
 とりあえずこれだけあれば目的はどうにか果たせそうだと、ひとりごち頷いた俺は、手帳のページをめくって、まっさらな無地のページを一枚破り取る。
 そして壁に向かって紙を押し当てながら、その上に手にしたペンで文字を書き連ねた。
 急いで書いたせいで、少し乱雑な筆跡になってしまった自らの文字を確かめた俺は、ふたつに折ったそれをパン袋の中に入れる。
 そして床の上のできるだけ目立つような位置に、袋を置いておく。
 もし佐祐理さんがここに来たら、真っ先にこれを見つけてくれるように。
 でも、同時にそれを否定するもうひとりの自分の囁き声が聞こえてくる。
 いまの俺に、こんなことをする資格があるのだろうか。
 舞の死を心のどこかで肯定しているような夢を見、一方でそのことに気力を消耗してゆくばかりの、弱く不様なこんな俺に。
 ちくりと、胸に刺すような痛みを覚える。
 それは多分、俺の中に居るもうひとりの俺が、叱咤の意味を込めて伝えてくる言葉にならない何か。
 佐祐理さんは、俺以上に傷ついているのだ。
 それなのに、自分だけが悲劇の主人公のように落ち込み、感傷に浸っていてどうするっていうのだ。
 床に付いた膝を立てた俺は、階段をゆっくりと下り始める。
 教室に、俺がいま居るべき日常へと戻るために。
 途中、一度だけ足を止めた俺は、そしてたったいままで居た場所を肩越しに振り返る。
 人気の無いそこは、まるで時が止まってしまったかのように、しんと静まり返っていた。
 楽しかった時が、幸せな時間連鎖がいつまでも続くのだと、そう信じることができたはずの場所は、でも俺に何も語りかけてはこない。
 ただ無言で、そこに在り続けるばかりだった。
 寒々しさばかりを感じさせるその光景を前に、小さく頷く俺。
 そして今度こそ教室へと戻るべく、さっきよりも少しだけ歩調を早めながら階段を駆け下りていった。
 廊下に鳴り響く、チャイムの音色を耳に響かせながら。

                  §

「祐一、帰らないの?」
 見れば既に帰り支度を終えたのか、鞄を手に席を立った名雪が小首を傾げながら俺に視線を向けていた。
「そうだな……」
 曖昧な言葉を返す俺。
「名雪は、今日も部活か?」
「うん。そうだよ」
 にっこりと微笑みながら頷く。
「今日の練習も体育館だから、思い切り走れないのはちょっと残念だけど、でも冬なんだから仕方がないよね」
「春になれば、嫌でも思い切り走れるようになるさ」
「そうだよね」
 自分で口にした言葉にも関わらず、俺はその一言にどうしてか現実感を感じることができなかった。
 あと一月もすれば、長かった冬も終わりを告げる。
 この街の春の訪れは暦より少し遅いから、桜が咲き出すのは多分四月も半ばを過ぎてからのことだろう。
 その時、俺は何をしているのだろう。
 どんなことを考えているのだろう。
 誰と一緒にいるのだろう。
「祐一も、今日は部活?」
 ぼんやりと思考を巡らせていた俺を現実に引き戻すように、名雪が訊ねてくる。
「そうだな……」
 少しでも舞の助けになればと思って始めたはずの、剣の鍛錬。
 最初はひとりきりだった。
 でも数日後、俺のその行動を知った舞は余り嬉しそうな様子ではなかったが、それでも練習につき合ってくれるようになった。
 舞が入院するまでの、たった三週間ほどの間の師弟関係に過ぎなかったけれど、それでも俺が「魔」に圧され気味とはいえある程度互して闘えるようになったのは、彼女の指導があればこそだった。
 舞が学校に来れなくなってから一週間ほどは、またひとりきりでの練習が続いた。
 たったひとつの目的の為に。
 俺の大切な人たちを傷つけた「魔」に、たとえ叶わぬまでも一矢報いたいという、そのことだけを考えながら。
 昨日の放課後、今度は佐祐理さんが俺の練習につき合ってくれた。
 それは自分を庇ったが為に怪我を負ってしまった舞に対する自責の念から発した行動だったのか、それとも俺の役に立ちたいという思いからだったのかは分からない。
 そして昨夜。
 佐祐理さんと、そして舞の仇を討った俺。
 しかしその代償があれなのだとしたら、どう考えても俺たちの方が失ったものの方が大きすぎた。
「……行くかな」
 呟くようにそう口を動かすと立ち上がり、名雪と一緒に教室を後にする。
「じゃあな、名雪」
「うん。祐一も、部活頑張ってね」
「ああ……」
 名雪に別れを告げた俺はそのまま廊下を抜け、中庭へと続く昇降口のドアを押し開いた。
 廊下の暗がりからいきなり陽光の射し降る世界の中に飛び込んでしまった俺の目は、しばらくの間そこに何ものをも見出すことができなかった。
 左手で目を庇いながら、中庭に足を踏み出す。
 踏みしめる雪の柔らかな感触が効かない視界と相まって、まるで雲の上にでもいるような、そんな不思議な感覚を俺の中に生み出していた。
 少しずつ、目が慣れてくる。
 白銀に埋め尽くされた大地と、さざ波ひとつ立たせずにその水面を紺碧に映えさせる虚空。
 夕暮れ時までには少し暇があるのだろう、やや西へと傾き始めているものの太陽は、冬の寒気を振り払うべく懸命の努力を続けていた。
 そして雪原の上に、俺はそれを見出す。
 点々と無謬の地に穿たれた、小さな足跡を。
 その場に膝をついた俺は、陽光の下で微かな陰影を浮かべているそれをじっと見据える。
 雪跡の固まり具合からして、それが形作られてからさほど時間は経ってないだろう――少なくとも今日の朝以降――ことは判別できた。
 そして、この時期のこんな場所にわざわざ足を踏み入れるだろう物好きの正体は……考えるまでもなかった。
 佐祐理さんだ。
 いつかは分からないが、彼女がここに来ていたのだ。
 もしかすると、昼休みに俺が屋上前のあの場所で佐祐理さんを待っていた時、彼女はここに居たのかもしれない。
 根拠など何もない、単なる憶測に過ぎない思いだった。
 でも俺は、いつしかそうに違いないと確信していた。
 佐祐理さんは、ここで何をしていたのだろう。
 何を見ていたのだろう。
 何を考えていたのだろう。
 間違いなく言えること、それは彼女が決して楽しい思いを抱きながら、陽光が降り注ぐこの光景を見ていたのではないということだった。
 昨日の夜、病院の前で別れてから、俺は今日まだ一度も佐祐理さんの姿を見ていない。
 朝の通学路でも。
 昼の屋上へと続くあの場所でも。
 放課後の廊下でも。
 でもこの足跡を前に、少なくとも彼女が学校には来ているらしいことを確かめることができた俺は、内心微かに安堵の思いを抱いた。
 それから何時間か、俺は無心で刀を振り続けた。
 未だ俺の心の中の一角を穿ち、喪失感とも罪悪感ともつかない負の感情を放ち続ける暗闇の存在を忘れるかのように。
 気がつけば周囲はいつしか薄暗闇に覆われ始め、恐らくは西の空を茜色に染めていただろう太陽は、いましも地平線の下に没しようとしていた。
 夜が来る。
 校内を我が物顔で徘徊する、人ならぬ存在たる「魔」が姿を現す、冬の長く厳しい夜が。
 そして俺は……。
 手にした木刀を雪面に突き刺し、大きく一度吐息を漏らす。
 日が没すると共に急速に夜の装いを整え始めた外気に触れたそれが、白濁しながら霧散していった。
「……帰るか」
 傍らに突き立つ剣を取り直して茂みに元通りにそれを隠すと、校舎の中に戻るべくきびすを返す。
 その時だった。
 視界の端に、新校舎と旧校舎との間から垣間見える情景のただ中に、ぽつりと佇む人影を捉えたのは。
 夕闇に覆われている上に距離もあったせいで、そこにいるのが誰なのかを判別するのはひどく難しかったけれど、何故かその姿に引っかかるものを感じた俺は、その場で足を止めじっと目を凝らし続けた。
 そこにいるのは、いでたちからしてどうやら女生徒らしかった。
 肩から腰まで、小柄な身体のその全てを覆い隠す長い髪。
 そして後頭部に結わえられているチェック地の大きなリボンが、遠目に見てもはっきり見分けられた。
 瞳に映し出されたそれを認識した瞬間、鼓動がどきりと跳ね上がる。
 驚き。
 喜び。
 困惑。
 様々な思いがない交ぜとなって、心の中に浮かび上がっては消えてゆく。
 そして俺は、まるで金縛りにでもあったかのようにその場に呆然と立ち尽くしたまま、無意識のうちに呟きを漏らしていた。
「……佐祐理……さん」
第10章に続く

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