『永遠の楽園』
Update:2000.02.18





第10章「未来」

 綺麗だな……。
 満天の星空の中、澄み切った空気を通して煌々と輝きを放ち続ける月を見上げながら、心の片隅でそんなことを思うわたし。
 足元からはさくさくと、雪を踏みしめる音が聞こえてくる。
 空気は冷たかった。
 雲ひとつない晴れ渡った夜空が放射冷却を早めているのだろう、一定の間隔を置いて口から吐き出される息は、真っ白だった。
 後ろ手を組み、そして視線を空に向けたまま歩き続ける。
 瞳には、星空以外の何も映らない。
 まるで世界中にわたしひとりしか人がいなくなってしまったかのような、辺りはそんな静けさに満たされていた。
 視線を戻す。
 途端、星たちが発する輝きに代わって道の両脇に立ち並ぶ家々の窓から漏れる光が、わたしの瞳を貫いた。
 それは生活の灯り。
 穏やかで、平和で、暖かな世界が存在している証。
 その光の下で、いったいどんな人たちが、どんな言葉を交わしながらいまこの時を過ごしているのだろう。
 想像を逞しくして、その情景を脳裏に思い浮かべてみる。
 そして少しだけ羨ましさを感じてしまう。
 何故なら、それはわたしには無いものだったから。
 賑やかな食卓。
 暖かな会話。
 穏やかな微笑み。
 その全てが、まるで手ですくった水が指の隙間からこぼれ落ちていくように、わたしの中から消えていってしまっていた。
 厳しかったお父さま。
 淑やかなお母さま。
 そして、いつだって辛そうな表情を浮かべていた一弥。
 一弥を失ってから……もしかしたら一弥が生まれる前から、わたしの家に「家族」と呼べるようなものは存在しなかったのかもしれない。
 お父さまもお母さまもお仕事で殆ど家にはおらず、一弥が生まれるまでわたしはずっとひとりだった。
 勉強をするときも、食事をするときも、寝るときも……いつだってひとりだったわたし。
 だから嬉しかった。
 弟が、一弥が家にいるようになってからは。
 わたしはもう、ひとりきりじゃなかったから。
 もう少し一弥が大きくなってわたしとお話ができるようになったら、ふたり一緒に色んなことができるのだと信じていた。
 そしてそうするためにも、わたしがお父さまとお母さまに代わって一弥を「正しく」育てなければならないと、そう思ったのだ。
 でも……わたしはいま、やっぱりひとりだった。
 一弥は、たったひとりの弟は、この世界のどこにもいない。
 ずっと「正しい」と思ってしていたことが、逆にその小さな命を削り取っていった挙げ句、一弥という名前の存在は永遠に失われてしまった。
 そしてわたしは、舞と出会う。
 まるで神様が、かつてのわたしの過ちを償う機会を与えてくれたかのように、生き続けることに何の意味も見出すことができなくなっていたわたしの前に、舞は現れた。
 相手に幸せを与えて、みんなで一緒に幸せになる。
 一生懸命に、幸せになる。
 そう、思える相手を。
 いつだってぶっきらぼうで子供っぽくて、他の人とはどこか違った不思議な空気を漂わせていた舞。
 でも誰よりも優しい心を、彼女は持っていた。
 それはわたしだけが知っている、舞の本当の姿。
 わたしはそんな彼女のことが、大好きだった。
 そして舞と出会ってから三年が経とうとした頃、その人はわたしたちの前に現れた。
 祐一さんが。
 上辺だけの姿じゃなく、舞の幾重にも織り込まれた心の内側にある本当の優しさに気付いてくれた、ふたり目の理解者。
 それからのわたしたちは、いつだって一緒だった。
 朝の通学路。
 お昼時の屋上へ続く階段。
 放課後の教室。
 そのどれもが、わたしにとっては何物にも代えることのできない、かけがえのない大切な宝物だった。
 舞の言葉。
 祐一さんの笑顔。
 ふたりと出会ってから紡いできた思い出の全てを、わたしはいまも脳裏にありかりと思い浮かべることができる。
 大切な家族。
 ようやくそれを手に入れることができたのだと、わたしは心から信じていた。
 でもいま、わたしはまたひとりぼっちになっていた。
 側には、誰もいない。
 凍てついた空気の中をわたしは、ひとり雪を踏み締めながら黙々と歩き続けていた。
 やがて曲がり角に差し掛かる。
 足を止め、そこで左右に首を巡らせてみた。
 右に曲がれば、その先にはわたしの家がある。
 それはもうすっかり通い慣れた、通学路。
 でもしばらくの間その場に立ち尽くしていたわたしは、やがて足を左に――普段滅多に踏み入れることのない道に踏み入った。
 街灯と月明かりを頼りに、雪の降り積もった道を歩く。
 途中誰かに追い越されることも、誰かと行き違うこともなく、孤独な世界の中を無言で歩き続けた。
 時間にして十分ほど歩いただろうか、よくやく行き足を止めたわたしは、そして目の前に佇む建物に近づいていった。
 固く閉ざされた、ガラス張りの自動ドアの傍らに備えられているキーを叩く。
 一瞬後、小さな機械音と共に開かれたドアをくぐり抜け、建物の中に足を踏み入れたわたしは、幾つかのドアを横目にやがて目的の場所へとたどり着いた。
 ノブの下に据えられたナンバーロックに、再び数字を入力する。
 かちりと、小さな機械音を立てて開錠されるのを待ってから握り締めたノブを回し、ドアを開いた。
 中は、その半ばほどが暗闇に覆われていた。
 窓から漏れ入る月明かりが、陰影を際立たせるように室内の有り様をうっすらと浮かび上がらせていた。
 玄関で靴を脱ぎ、中に入る。
 冷え切ったフローリングの床が、足の裏に軽い痛みを伴った感触を伝えてくる。
 玄関を入った右手には、廊下が延びていた。
 そしてすぐ右手に、洗面所があった。
 脱衣所も兼ねたその両脇の扉は、お風呂場とトイレに繋がっている。
 少し進んだ右手には、何も物が置かれていないせいで、どこかがらんとした印象のキッチンが、流しのステンレスを月明かりにわずかに艶光りさせながら、静かに佇んでいた。
 流しの前に立つ。
 大きく穴の穿たれた壁の先に、一面の板張りに覆われたリビングが見て取れた。
 目を閉じる。
 そして、想像する。
 ここから見えるだろう、わたしにとってかけがえのない人たちが紡いでゆく、穏やかで暖かな……未来を。

                  §

「佐祐理……おはよう」
 すぐ側から聞こえてきた声に閉じていた目を見開くと、そこにはパジャマ姿の舞が居た。
 まだどこか、眠たそうな様子。
 きっといま起きたばかりなのだろう。
「おはよう、舞っ」
 わたしは笑顔を浮かべながら、舞に朝の挨拶を返す。
 そして作業に戻る。
 吹き抜けの壁越しにリビングの方からわたしに顔を向けていた舞は、小首を傾げながら訊ねてくる。
「……佐祐理、何してるの」
「え? あ、これはね、今日のお弁当を作ってるんだよ」
「お弁当?」
「そう。だって今日の当番は、佐祐理だからねーっ」
 言いながらわたしは、キッチンの壁に貼られている一枚の紙に目を向ける。
 赤のマジックで「当番表」と書かれたその下には、日曜日から土曜日まで七日分の枠が描かれ、その中に一日おきにわたしと舞の名前が書き込まれていた。
 それは一緒に暮らすにあたって、ふたりで決めた約束事。
 食事については、最初はわたしがひとりでやるつもりだったけれど、でも舞が「料理を覚えたい」と言うので、分担してすることにしたのだ。
 最初こそわたしが付きっきりで教えてあげていたものの、一生懸命覚えようとする舞の努力が実を結んだのだろう、いまでは簡単なものなら彼女ひとりで作れるようになっていた。
「でも、今日学校はお休み……」
 お重に詰め込まれていくおかずを見つめながら、ふと思い出したように舞が口を開く。
 一旦手を止めたわたしは、
「あれーっ。舞、昨日寝る前に佐祐理が話したこと、忘れちゃったの?」
「……?」
 困ったように、眉根を寄せる舞。
 そんな彼女にわたしは、手にした菜箸を目の前にかざしながら、
「舞ったら、もしかしてまだ寝ぼけてるんだーっ。ほら、明日は祐一さんと一緒にお昼を食べようって、約束したでしょ?」
 それを聞いて舞は、ようやく何かを思いだしたように、
「……そうだった」
「あははーっ。そう言えば舞、昨日の夜は祐一さんと飲み比べしてて、結構酔っぱらっていたもんね」
 昨日は週に一度の、祐一さんがお泊まりに来てくれる日。
 わたしも舞も、次の日が休みだったから――三人ともまだ未成年なのだから本当はいけないことなんだけれど、昨晩はお酒も入ったちょっとしたパーティになってしまったのだ。
「……少し、頭痛い」
「二日酔いかな。お薬、飲んでおく?」
 こくりと頷く舞に、棚にあった頭痛薬をコップに注いだお水と一緒に差し出す。
 薬を飲み、空になったコップを舞が戻してくる。
「佐祐理は平気そう……」
 受け取ったコップを洗い桶に浸けながら、鼻歌混じりにそれを洗うわたしを前に、少し不思議そうな様子の舞。
「……私と祐一よりたくさん飲んでいたのに」
「あははーっ。お父さまもお酒が強い方でしたから、きっと佐祐理も遺伝的に強いのかもしれませんねーっ」
 冗談混じりに、そんな風に答えてみせる。
「あとは、これとこれを詰めて……はい、できあがりっ」
 最後のおかずをお重の中に詰めたわたしは、中身を冷ますために蓋はしないまま、作業を一旦止める。
 そしてエプロンを外しながら、
「舞、着替えておいでよ。そしたら一緒に、祐一さんを起こしに行こうね」
「……一緒に」
 そう言いながら舞は、少しだけ考えるような素振りを見せる。
「あれ、舞。もしかしてひとりで行きたいの?」
「そんなことはない……」
「あーっ、分かった。佐祐理と一緒だと舞ってば、もしかして『おはようのキス』がやりにくいのかなーっ」
 ぽかっ。
 カウンター越しに、舞のチョップがわたしの額を襲う。
 見れば舞は、照れているのか視線を明後日の方に逸らしながら、頬を少し染めていた。
 そしてぽつりと呟くように、
「……邪魔したくない」
 そんな彼女に、わたしは笑顔を浮かべながら、
「あははーっ。舞ったら、照れてる照れてる。それじゃあ、おはようのキスはふたりで一緒にしよう。舞は祐一さんの右頬に、佐祐理が左の頬にしてあげるっていうのでどうかなーっ」
 わたしの提案に舞は少しだけ困ったように、でも真っ直ぐにわたしの顔を見据えながら、小さく頷き返してくれた。
 穏やかで、平和な朝の始まり。
 でもだからこそ、自分がいま幸せなのだと心の底から信じることのできる、そんな世界の光景だった。

                  §

 台所を後にして、今度はリビングへ向かう。
 カーテンのない窓を通して、真円を描く月が煌々と輝きを放つ姿が見て取れた。
 調度品のひとつとして見当たらない、閑散とした室内。
 その中にひとり孤独に佇む、わたし。
 射し込む月光が、長い影を伸ばしている。
 身じろぎするたびにゆらゆらと揺れ動くそれは、まるでわたしの心の有様を映し出しているかのように不安定で、虚ろげに見えた。
 ゆっくりと、部屋の隅に向かって歩き出す。
 そして足を止めたわたしは、小さく息を吸い込んでから言葉を紡ぎ始めた。
「ここには……ダッシュボードを置きましょう。テレビとビデオ、ステレオも入れないといけませんね」
 言霊が形を成すように、視界の中にうっすらと求めるものの姿が浮かび上がる。
「こちらの壁には本棚を……そうですね、たくさんの本が入るようにできるだけ大きな、天井まで届くような大きな本棚を。舞の好きなお伽噺も沢山入れないと……」
 くるりとその場で身を翻す。
 そして俯きがちに部屋の中央を見据えながら、
「お部屋の真ん中には、ガラス張りの大きなテーブルを置くのがいいでしょうか。それから人数分のクッションを用意して……夏はひんやりと冷たい板張りのまま、冬は暖かな絨毯を敷いて……」
 空虚なままだったリビングが、少しずつ形を整えてゆく。
 様々な調度品があるべき場所に整然と収められ、生活感の失われていた世界が人の住む、温もりに満ちた空間へと変貌を遂げていった。
 そしてわたしの耳に響く、楽しげな声。

 ――あははっ。

 誰の声だろう。
 舞?
 それとも、祐一さん?
 もしかすると、それはわたしの声だったのかもしれない。
 その日が来ることを夢見続け、そしてようやくそれを手に入れようとしていた、わたしの喜びの声。

 ――あははっ。

 笑い声は途切れることなく、わたしの耳朶を打ち続けていた。
 春。
 軽やかなステップを踏みながら、窓の外から流れてくる桜の花びらを見つめつつ、テーブルを囲んでお茶を飲む穏やかなひととき。
 夏。
 ひんやりと肌に心地よい板張りの床の感触と共に、みんなで寝ころんでお昼寝をする静かなひととき。
 秋。
 長い夜、思い思いの姿勢でクッションにその身を預けながら、一杯の紅茶と共に読書に耽る暖かなひととき。
 冬。
 炬燵の上でぐつぐつと煮返る鍋にお箸を伸ばしながら、とりとめのない会話に時の流れを忘れる楽しいひととき。
 全てがいま、わたしの目の前にあった。
 そして全てがいま、わたしの目の前から過ぎ去っていこうとしていた。
 いつしか視界に映し出されていた物全てが色と形を失い、そして閑散とするばかりの情景が戻ってくる。
 何もない世界。
 誰もいない世界。
 他人の犠牲の上で、のうのうと生きながらえている、無様で惨めで卑怯な存在であるわたしが生み出した、虚構の楽園。
 それが目の前にあるものの、本当の正体だった。
 一弥。
 舞。
 祐一さん。
 わたしにとって大切な、大好きな人たちはみんな……そうだった。
「佐祐理は……」
 そこまで言いかけ、そして口を閉ざしてしまうわたし。
 言葉にする必要はなかった。
 何故なら、その呟きを耳にする相手はただひとりしかいなかったし、彼女相手に言葉は必要なかったから。

 ――あははっ。

 また、笑い声が聞こえる。
 でもそれは、さっきまで聞こえていたものとは、何かが違っていた。
 そう、それは嘲りの声。
 出来るはずのない、所詮は夢想に過ぎない未来を探し求めるわたしの愚行を嘲笑う、わたし自身の声に他ならなかった。
 その声から逃げるように踵を返したわたしは、そして廊下を玄関に向かって少し行ったところで、視界の端に立ち並ぶ三つの扉を認めた。
 玄関からすぐ側の位置にあるドア。
 木製の、ありふれたデザインのそのドアに据えられたノブに手をかけたわたしは、ゆっくりとそれを押し開いてゆく。
 リビングと比べてずっと闇の度合いが濃いそこは、六畳ほどの空間が広がっていた。
 中に一歩、足を踏み入れる。
 そして暗闇の中に半ば溶け込むように存在している室内の情景を瞳に収めながら、胸の前で手を合わせたわたしは、ゆっくりと言葉を紡ぎだした。
「……祐一さん、朝ですよ」

                  §

 唇に感じる、ほのかな温もりと柔らかさ。
 目を閉じていたせいだろう、その感触は不思議なくらいはっきりとわたしの意識に焼き付けられた。
 ゆっくりと瞳を開く。
 途端、視界一杯に祐一さんの安らかな寝顔と、その向こうで目を閉じながら彼の頬に顔を寄せている舞の姿が目に飛び込んでくる。
 心臓がどきどきと高鳴るのを感じながら、わたしはゆっくりと祐一さんの顔を覗き込むように折っていた半身を起こした。
 舞と目が合う。
 きっと照れているのだろう、顔を真っ赤にしている舞はわたしと視線が重なった途端、ぷいとそっぽを向いてしまう。
 そんな様子に、思わずくすりと笑みをこぼしてしまう。
「舞……顔が赤いよ」
 我慢しきれずにそう言ってしまったわたしに、舞はちらりと視線を向けてくる。
 そして再び明後日の方を向きながら、
「……佐祐理も真っ赤」
 そして少しだけ間を置いてから、次の言葉を口にした。
「……お猿さんみたい」
「あははーっ。いくら祐一さんが寝てると言っても、でもやっぱりこういうのって照れくさいよねーっ」
 こくりと、同意の頷きを返してくる舞。
 祐一さんは、まだ眠ったままだった。
 わたしたちふたりの「おはようのキス」に気がつくこともなく、口から安らかな寝息を漏らすばかり。
 せっかく勇気を奮い起こしての行動だったのに、そのことに気付いてもらえず少しだけ寂しくなってしまう。
「……祐一、まだ寝てる」
 舞もきっと同じ思いだったのだろう、祐一さんを見つめながらぽつりと呟きを漏らす。
「困ったね。どうしよっか、舞」
「…………」
 わたしの問いかけに、わずかに眉根をしかめるばかりの舞。
 腕組みをしながらしばらくの間次の手を考えたわたしは、でも結局何も思いつくことのできないまま、至ってオーソドックスな方法で祐一さんを起こすことにした。
 祐一さんの肩に手をかける。
 そしてゆっくり、それを動かす。
 ゆさゆさ、と。
「朝ですよー。起きてくださいーっ」
 耳元で、抑えめの声でそう呼びかける。
 反応はない。
 仕方なく、もう一度彼の身体を揺さぶる。
 ゆさゆさ。
「朝ですよー。ご飯の用意もできていますよーっ」
 未だ夢の世界を彷徨っているだろう祐一さんに、今度はわたしの声が届いたのか、ぴくりと閉じられたまぶたが動く。
 そしてひどくゆっくりとした口調で、
「……眠い」
 そう一言、口にする。
「起きて下さい、祐一さんーっ」
 それでようやく目が覚めたかのように、祐一さんの瞳が見開かれる。
 どこかまだ焦点の合っていない、虚ろな瞳。
 その中に、彼の顔を覗き込んでいるわたしと舞の姿がうっすらと映り込んでいるのが見て取れる。
 ぱちぱちと、数度瞬きをしてから祐一さんは小声で「……名雪?」そう呟く。
 ぽかり。
 途端、彼の頭に舞のチョップが炸裂する。
「いてっ」
「あははーっ」
 その光景に、思わず笑みをこぼしてしまうわたし。
「……あれ?」
 首だけを動かして、のぞき込むわたしたちの姿を交互に見比べていた祐一さんは、ややあってから、
「おはよう。佐祐理さん」
 そう言葉を紡ぎながら、布団から身体を起こした。
「おはようございます、祐一さん」
「…………」
「おはよう、舞」
「…………」
「…………」
「…………おはよう」
「もうちょっと早く言えんのかいっ!」
「あははーっ」
 何度となく見慣れた光景。
 でもそれは、だからこそいま、自分が幸せな時の中に居るのだということを感じさせてくれるものなのに違いなかった。
 その場から立ち上がったわたしは、そのままベランダに通じる窓辺へと歩み寄ると、
「今日もいいお天気ですねーっ」
 髪を揺れ流す風を感じながら、空を見上げる。
「……ところで」
「はい、なんでしょう?」
「どうして俺は、こんなところで寝てるんだ?」
「ふぇ? だってここは、祐一さんのお部屋ですよ」
「え?」
 祐一さんは、少し驚いたように部屋の中を見渡す。
 そしてひとしきり視線を周囲に走らせたあと、全てに合点がいったとばかりに手をぽんと叩いてみせると、
「なんだ。ここって、佐祐理さんと舞のアパートじゃないか」
「……違う」
 途端、祐一さんの横に座り込んだままの舞が口を挟んだ。
「違うって、だって実際ここはお前と佐祐理さんの……」
「舞の言うとおりですよ、祐一さん」
 祐一さんがそこまで口にしかけたところで、その言葉を遮るようにわたしは口を開いた。
「このお家はですね、『佐祐理と舞』ではなくて、正しくは『佐祐理と舞と祐一さん』のお家なんですよーっ」
「いや、だからさ……」
 どうしてだろう、祐一さんは急に頭を抱え込んでしまう。
 何か、祐一さんの気にさわるようなことでもしてしまったのだろうか。
 そう思いながら舞の方へと目を向けてみたけれど、彼女はじっと押し黙ったまま祐一さんに瞳を向けるばかりだった。
 沈黙が室内を流れる。
 そしてややあってから顔を上げた祐一さんが、真面目な表情を浮かべながらわたしへと問いかけてきた。
「あの……佐祐理さん」
「はい?」
「ひとつ、聞いていいかな?」
「どうぞーっ」
 即答するわたし。
 その返答に少しだけ不安そうな色を浮かべた祐一さんは、そして言葉を続けた。
「えーと……どうしてふたりがお揃いの――もう卒業したはずの学校の制服を着てるんだ?」
「ほぇ?」
「…………」
「あ……えっと、これですか? 久しぶりに着たのでサイズがちょっと心配だったんですけれど、大丈夫みたいですね」
「へ?」
「ね、舞。大丈夫だよねーっ」
 そう言いながらわたしは、祐一さんの前でダンスを踊るような軽やかなステップで一回転してみせる。
 三年間、ずっと着続けてきた制服。
 ここに来たとき、もしかしたらと思って荷物の中に入れておいたのだけれど、本当に役に立つ日が来るなんて思ってもみなかった。
 でも、だからこそ嬉しかった。
 もう一度祐一さんと、そして舞とこの服を着て一緒に学校に行けることが。
「舞。お前はお前で、何してるんだ?」
 傍らで、両手を広げながら自分の身体を見下ろしている舞に、祐一さんが不思議そうに訊ねかける。
「……大丈夫。わたしも佐祐理もおかしくない」
「だぁーっ、そうじゃないだろうがっ!」
「……?」
「俺が聞きたかったのは、似合ってる似合ってないじゃなくて、どうして何のためにふたりが制服を着てるのかってことなの」
 膝に手を当てながら、舞と祐一さんの会話に耳を傾けていたわたし、
 でも祐一さんは、不意にわたしの方を向いたかと思うと、相変わらずどこか困惑げな様子で口を開いた。
「と言うことで佐祐理さん、説明お願い」
「はい?」
「いや、だから……舞じゃらちが開かないから」
 少しだけ間を置いてから、わたしは言葉を紡ぐ。
「それは、佐祐理たちがどうして制服を着ているかの、説明ですか?」
「そうそう」
 どうしたのだろう、わたしがそう言った途端祐一さんは満足そうに頷き、それから小さくため息を漏らす。
「もちろん、これから学校に行くからです」
「はいーっ?」
 予想もしなかったことを聞かされたかのような、どこか素っ頓狂な声が彼の口から漏れる。
「祐一さんと一緒に登校するのも、久しぶりですね」
「学校って……俺の高校?」
「はい」
「佐祐理さんと舞が卒業した、あの高校?」
「はい」
「ふたりがいま通ってる大学じゃない、あの高校?」
「はい」
「うーむ……」
 そこまで答えたところで、急に腕組みをして考え込んでしまう祐一さん。
「どうしました、祐一さん?」
 小首を傾げながら、わたしはそんな彼の姿を見つめ続けた。
 ぽかっ!
 その途端、舞のチョップが再び祐一さんの頭を襲う。
「こら、舞。誰もいまボケろなんて言ってないぞ」
「……違うの」
「違うわい。真剣に考え込んでたの、俺はっ!」
「……そう」
「あははーっ」
「んで、学校に何しに来るんだ。ふたりは?」
「はい。今日は、三人で一緒にお昼を食べようと思いまして。実は準備はもう、全部終わってるんですよ」
「そりゃまた、えらく手回しのいいことで……」
 苦笑いを浮かべる祐一さん。
「で、学校に行くならやっぱり制服を着なくちゃってことで、佐祐理さんと舞のふたりは久しぶりに袖を通したわけだ」
「はいっ」
 無言でこくりと頷く舞の横で、わたしは満面の笑みを浮かべながら大きく頷いてみせた。

                  §

 ふと、背後に人の気配らしきものを覚える。
 抱え込んだ膝の間に顔を埋めながら、無限とも思える長い時間を、身じろぎひとつすることのなかったわたし。
 こんな時間、それもこんなところに一体誰が。
 そんな疑問が浮かび上がる。
 でもそれは一瞬のことで、疑問はすぐに意識の片隅へと追いやられていってしまった。
 いまは、何も考えたくなかった。
 何も見たくなかった。
 何故ならいまのわたしは、わたしの中に存在する幸せな時間連鎖の中にその身を浸していられること、ただそれだけを望んでいたから。
 現実なんか見たくなかった。
 辛く、悲しいばかりの世界と正面から向き合うだけの意志も力も、いまのわたしのどこにもありはしなかった。
 一弥のいない世界。
 舞のいない世界。
 そして、祐一さんがいなくなってしまうかもしれない世界。
 全部全部、わたしのせい。
 わたしの「正しくない」行いが、他人の犠牲の上に成り立っているわたしの生が、彼らを傷つけ、苦しませているのだ。
 もう……たくさんだった。
 膝を掴んでいる手に、力を込める。
 室内に満たされた夜の冷気にかじかんでいた指先は、でもわたしの指示に従ってぎゅっと膝を握り締める。
 そして膝の間に顔を埋め、きつく目を閉ざしながら世界を拒絶し続けた。
 このまま、こうしていよう。
 ずっとこうしていよう。
 そうすれば、これ以上誰も傷つくことはない。
 わたしさえいなくなってしまえば。
 この世界の誰の前からも、姿を消してしまえば。
 そして気がつく。
 いまわたしが抱いたのと同じ思いを、かつて三年前の手首を切った日にやはり抱いていたことを。
 あの時、どうしてわたしはそう思ったのだろう。
 何がわたしにそうさせたのだろう。
 一弥が死んでから五年の歳月を経て始めて、自らの命を絶つことに思い至ったわたし。
 どうして、あの時だったのか。
 何が五年もの間、死への衝動を抑え込んできたのだろう。
 もう何も考えたくなかったはずなのに、でも一度わき起こった疑問はそれを心の奥底へ追い払おうとすればするほどに、わたしの中で明瞭な姿を形作りながら、漂い続けていた。
 その時だった。
 肌に感じる空気の微かな動きを通して、その誰かがこちらに近づいて来ることに気がつく。
 ずっと存在を無視していた背後に佇む気配の持ち主が、何か行動を起こしたらしい。
 身じろぎひとつすることなく、座り続けるわたし。
 やがて背中に、何かが触れてくる感触を覚える。
 制服の生地を通して伝わってくるそれは、最初のうちこそ無機質な触感を伝えてくるばかりだった。
 でもしばらくするうちに、ほのかに温かい何かがわたしの身体へと流れ込んできていた。
 それは……人の温もり。
 室内の空気と同様に冷え切っていたわたしの心は、背中から感じ取るその温もりにどうしてか安堵のようなものを感じてしまう。
 何故なのだろう。
 誰なのかすら分からない人の温もりに、どうしてわたしは安堵を覚えてしまうのだろう。
 その疑問は、次の瞬間氷解した。
「……佐祐理さん」
 呟くような、どこか元気のない弱々しい声。
 その声が誰のものなのかを、わたしは知っていた。
 大切な人。
 大好きな人。
 そして知っていたからこそ、耳朶を通して体内に響き渡るその声を前に、心の動揺を隠すことができなかった。
「祐一……さん……」
 そこにいたのは、間違いなく祐一さんだった。
 どうしてこんなところに……当然ともいえる疑問が浮かび上がる。
 ここは祐一さんも舞もその存在すら知らないはずの、わたしだけが知っている秘密の場所のはずだった。
「中庭から……見えたんだ。佐祐理さんの姿が」
 まるでわたしの心の裡を読んだかのように、祐一さんがぽつぽつと言葉を紡ぎ始める。
「最初は、どうしようか迷ったんだ。何か、こっそり後をつけるみたいでイヤな感じがしたからさ。それに佐祐理さん、俺に会うことを何となく避けてるみたいだったから」
「そんなことは……」
 膝の間に埋めていた顔を上げる。
「いや、本当は違うのかもしれないな。避けていたのは、俺の方だったのかもしれない」
「…………」
「自分の力の無さが情けなかったんだよな、実際。俺が間抜けだったばっかりにバレンタインの夜、佐祐理さんと舞に怪我をさせてしまった。昨日だって舞がいなかったら、俺は佐祐理さんを守りきれなかった……」
 そこで言葉が途切れる。
 少し経ってから、背後で小さくため息の漏れる音がする。
「舞がいなくても何とかできる、何とかする……そう思ってやったことだったけど、でもその結果は舞を更に傷つけただけだった。ふたりの仇を打とうと思って始めたことだったのに、その挙げ句がこの体たらくじゃおかしくって涙が出てくるよな」
「そんなに……自分を責めないでください。祐一さん」
 ようやくのことで、わたしはそれだけを口にする。
 そして、自分の愚かさを呪う。
 わたしがこうして現実から逃げている間、祐一さんはずっと自分を責め続けていたのだ。
 舞を、そしてわたしを守り切れず傷つけてしまった、自らの非力を厭いながら。
 どうして、そのことに気付いてあげられなかったのだろう。
 舞も祐一さんも、いつだって自己犠牲が過ぎる人なのだということに、どうして思い至らなかったのだろう。
 膝に回していた手を、ゆっくりと解く。
 両手を床に当てながら上体を起こすと、程なく背中が祐一さんの背中に触れる。
 窓の向こうに広がる、澄み切った空気を通して光輝く月と星が綺麗だった。
 目を閉じながらわたしは、そして一度だけ小さく息を吐いてから言葉を紡ぎ始めた。
「祐一さん。佐祐理のお話、聞いてくれますか?」
「……ああ」
 頷く祐一さんの身体の動きを、触れ合う背中を通して感じ取る。
「佐祐理には、夢がありました。小さな小さな、手のひらに乗ってしまうくらいの、本当にささやかな夢です」
 目を開く。
 途端、視界の中央に煌々と輝く月が飛び込んできた。
「ずっとずっと佐祐理が欲しかったもの、それは……家族でした」
「家族?」
「はい。朝起きたら笑顔で『おはよう』って挨拶をして、一緒に朝ごはんを食べて、出がけには『いってらっしゃい』と言ってあげられるような、そんなどこにでもあるような家族の存在が、佐祐理の欲しかったものでした」
 脳裏に浮かび上がる、たったひとりの弟の顔。
 いつだってどこか苦しそうな、辛そうな表情を周囲に見せ続けていた一弥。
 そして、一度だけ浮かべてみせてくれた笑顔。
「前にもお話したことがありますよね。弟の一弥のこと」
 数秒ほど間を置いて、背中越しに「ああ……」と祐一さんの同意の声が聞こえてくる。
「佐祐理にとって一弥は、たったひとりの家族でした。そして一弥にとっても佐祐理は、この世界でたったひとりの家族だったんだと思います。でも家族であるはずの佐祐理が、一弥にこの世界で生き続けることを拒絶させた原因だったんです。姉である佐祐理の『正しい』と思っていた……でも本当は少しも『正しくない』行いのせいで、一弥は死を選ぶしかなくなってしまったんです」
「佐祐理さん。それは……違うと思うぜ」
 わたしのことを気遣ってだろう、慰めの言葉をかけてくれる祐一さん。
 でもわたしは、強く首を振りながら言葉を続けた。
「いいえ。佐祐理は、いつだってそうやって生き続けてきているんです。誰かを犠牲にして、大切な人たちを傷つけて、その上でのうのうと生を享受し続けている……倉田佐祐理という女の子は、そんな卑怯で狡くて、汚い存在なんです」
 そこまで一気に言葉を吐き出してから、一度口を閉ざす。
 静寂がわたしたちを覆う。
 祐一さんは何も言わなかった。
 ただ背中をわたしに預けながら、じっとそこに座り続けていた。
 幻滅しているだろうか。
 こんな佐祐理のことを、嫌いになってしまっただろうか。
 胸の奥にちくりと刺すような痛みを覚えながらわたしは、少し声音を落とし気味に、再び言葉を紡ぎ始めた。
「一弥がいなくなってから、佐祐理に家族はいませんでした。勿論お父さまもお母さまもいましたけれど、でも佐祐理にとっての家族は一弥だけだったんです。そうして三年前の春、佐祐理は……手首を切りました」
 不意にぴくりと、祐一さんの身体が震える。
 そして少し遠慮がちな様子で、訊ねかけてくる。
「佐祐理さん、ひとつ訊いていいかな?」
「はい」
「どうして……三年前だったんだ?」
 もっともな疑問だった。
 同時にそれは、わたし自身未だに答えを見出すことができていない疑問。
 どうして三年前だったのか。
 どうして一弥が死んでから五年も経って、初めて手首を切ろうなどと思い立ったのか。
 もうひとりの、わたしでないわたしに手首を切るように促されたから……そう言ってしまうのは簡単だった。
 けれども、それなら何故「わたし」はあの時にそれを促したのか。
「ごめんなさい、祐一さん。佐祐理にも、どうしてなのかは分からないんです」
「そっか……」
「でもその後、どうして同じことを繰り返さなかったのかは分かります」
「何故?」
「舞と……出会ったからです」
 一弥を失ったわたし。
 舞と出会ったわたし。
 どちらも同じわたしだったけれど、でも舞と巡り会うことでわたしは初めて幸せになることの意味、価値に気がつくことができたのだ。
「……祐一さん」
「ん……?」
「ここはですね、佐祐理の夢がかなうはずの場所だったんです」
「夢が?」
「はい。このお部屋はですね、お父さまのお知り合いの不動産屋さんに紹介をしてもらった場所なんです。まだ舞には話していなかったんですけれど、学校を卒業したら……舞と一緒に住もうって、そう思って借りたお部屋なんです」
 卒業したら。
 それは未だ現実のものとはなっていない、未来に属する世界の出来事。
 そして舞が、この部屋でわたしと一緒に暮らすことに同意してくれるかどうかも、まだ分からなかった。
「でも……それって、佐祐理の勝手な思い込みですよね。こんな人を不幸にしかできない『ヒトゴロシ』の女の子となんて、一緒に住んでくれる人なんて……いる訳ありませんよね。あははーっ」
 それがいまのわたしにできる、精一杯。
 できるだけ明るく、できるだけ冗談めいた笑みを浮かべてみせることだけが、祐一さんに余計な気遣いをさせない為の、ただひとつの方法だった。
 ちゃんと笑えているだろうか、わたしは。
 祐一さんもつられて一緒に笑ってくれるぐらいの、無邪気な笑いになっているだろうか。
 そう思った刹那だった。
 床についたままの左手の上に、重ねるように温かな何かが置かれる。
「……ふぇ?」
 そこにあったのは、祐一さんの手だった。
 わたしの手をすっぽりと覆ってしまいそうな程の、大きな手。
「無理しなくてもいいんだぜ、佐祐理さん」
 背中合わせに座っているから、祐一さんがどんな表情を浮かべているかは分からない。
 でも、わたしには分かっていた。
 間違いなく祐一さんが、微笑んでくれていることを。
「佐祐理さんがいっぱい我慢してきてること、俺は知ってるから。だからこんな時はさ、無理して笑わなくたっていいんだ」
 祐一さんの口からゆっくりと紡ぎ出されたそれは、周囲の空気をわずかに震わせながら、わたしの耳朶へと達する。
 そしてまるで溶けた雪が土の中に染み込んでいくように、ゆっくりゆっくりとわたしの心の中に入り込んでいった。
「ふぇっ……」
 目頭が熱くなる。
 そう思った途端、瞳に映し出されていた星がじんわりと滲み始め、その姿を曖昧なものにしていった。
 肌を何か、暖かいものが伝う。
 頬を伝ったそれが雫となり、膝の上で小さな飛沫をあげた瞬間、わたしはようやくそれが涙だということに気がついた。
「……うっ……ぐすっ……はうっ……」
 ぽつぽつと落ちてゆく涙滴が、スカートの上に小さな染みを作ってゆく。
 重ねられたままの祐一さんの右手が、ぎゅっとわたしの左手を握り締める。
 まるで、何かを語りかけてくるように。
 その手の温もりに身を任せるようにそっと目を閉じたわたしは、そのまま声を殺して泣き続けた。
 心の中に積み重なった悲しみの全てを、吐き出すように。

                  §

 どれくらいの時間が経っただろう。
 ほんの数分のことのようにも思えたし、何時間も何日も経っていたかのようにも思える、そんな曖昧な時の流れ。
 閉ざされた瞳に映し出されるのは、漆黒の闇。
 でも、少しも不安じゃなかった。
 恐くはなかった。
 何故ならそうしている間もわたしは、握り締められた手を通して祐一さんの存在をずっと感じることが出来たから。
 側にいてくれる人の存在を、温もりを感じていたから。
 いつしか、瞳の裡からとめどなく溢れ出ていたはずの涙は止まっていた。
「なぁ、佐祐理さん」
 わたしが落ち着きを取り戻すのを待っていたように、祐一さんがゆっくりと口を開く。
「覚えてるかな。前に、ふたりでゲーセンに行った日のこと」
「……はい」
 忘れるはずがない。
 あの日見た、空一杯に広がる黄昏の美しさを。
 夕焼けに照らされて、全身を真っ赤に染めながら祐一さんが言ってくれた言葉を。
「やっぱり俺じゃ、一弥の代わりにはなれないのかな。佐祐理さんの支えになってあげることは……できないのかな」
「それは……」
 そこで言い淀んでしまうわたし。
 そして考える。
 たったひとりの弟だった、一弥のことを。
 祐一さんは、いまはもうこの世界のどこからもいなくなってしまった一弥の代わりになってくれると、そう言ってくれた。
「あの時、俺は『急いでるわけじゃない』って言ったけど……でも、いまの佐祐理さんを見てるのは辛すぎるんだ。いまの俺が一弥の代わりになれるとは思わないけど、でも形だけでも家族になってあげることで、佐祐理さんの顔に笑顔が戻ってくるのなら、俺は……」
「祐一さん……それは駄目です」
 途中で言葉を遮るわたし。
 ぴくりと身体を震わせ、祐一さんはそれきり黙り込んでしまう。
 目を開く。
 泣きはらしたせいで視界はまだどこかぼんやりとしていたけれど、でも輝く月の姿は、はっきりと見て取れた。
 ほんの少しだけ、姿勢を右に崩す。
 そして床についた右手に体重をかけながら、重ねられた祐一さんの手はそのままに左手をほんの少しだけ浮かした。
 ゆっくりと、左手を捻る。
 刹那、ちくりと手首に残っている傷痕が痛む。
 その痛みを無視したわたしは、指先を彼の指に絡めながらきゅっと握り返した。
「……佐祐理さん?」
 一度だけ小さく息を吸い、そしてできるだけ穏やかな口調でわたしは言葉を紡いだ。
「佐祐理は、祐一さんのことが大好きです。でも祐一さんを一弥の、家族の代わりにすることはできません。だって……」
「だって……?」
「だって祐一さんはもう、佐祐理の大切で――大好きな家族なんですから」
 最後の一言を口にしながら、重ねた手に力を入れる。
 わたしの思いが通じたのか祐一さんも、強くわたしの手を握り返してきてくれた。
 それが嬉しかった。
 それが幸せだった。
「佐祐理にとって祐一さんは、どんな時でも祐一さんです。だから一弥として見ることはできません。でもその代わり、パートナーになることはできると思うんです」
「パートナー……つまりは相棒ってことだな」
「あははーっ。そっちの方が、何となく格好いい響きですねーっ」
 それは一生懸命に、いまのわたしが持っている精一杯の勇気を振り絞って作った笑顔。
 本当は泣きたかった。
 だけれどそれは、悲しい涙じゃない。
 わたしの言葉を何も言わずに受け容れてくれた祐一さんの優しさに対する、安堵の涙に他ならなかった。
 でも、わたしは泣かない。
 そうすることが自分自身にとっての、そして「相棒」である祐一さんにとって一番の、わたしらしさだと思ったから。
 だから、わたしは笑う。
 一生懸命に笑うのだ。
「祐一さん……こっちを向いてくれますか?」
「いいのか?」
「はい」
 繋がれた手はそのままに、ゆっくりと振り返ってくる祐一さん。
 同様に、腰を捻りながら振り返るわたし。
 影に覆われていた彼の表情が、月明かりを浴びてくっきりとした陰影を描きながら、わたしの視界の中に刻まれる。
 目の前に大きく映し出される祐一さんに、少しだけ顔を寄せる。
 唇に、ほのかな温もりを覚える。
 そしてゆっくりと、突然の出来事に目を大きく見開くばかりの祐一さんを見つめながら、顔を離した。
「えっと……あの」
 ことの成り行きが理解できないように、祐一さんは目を白黒させている。
 そんな彼に向かって、頬が熱くなってゆくのを隠せないままに、それでもできるだけ明るい口調で、
「これは契約の契りです。佐祐理が、祐一さんの相棒になったという」
 その一言に、ようやく合点がいったかのように少しだけ表情を綻ばす祐一さん。
 そして今度は、照れ笑いを浮かべながら、
「了解」
 と、それだけを口にした。
 やがてその場から立ち上がった祐一さんは、繋いだ手の向こうからわたしのことを見下ろしながら言う。
「そろそろここを出よう。いい加減、風邪を引きそうだ」
「はいっ」
 手を引かれ、立ち上がる。
 そのまま玄関へと向かうわたしたち。
「祐一さん、これからどうするんですか?」
 しばらく続いた沈黙の後、そんな問いかけを傍らの祐一さんに向かって投げかける。
 靴を履きながら、少し考えるように小首を傾げていた祐一さんは、
「うーん。とりあえずは、佐祐理さんを家まで送っていかないとな。こんな時間に女の子をひとり歩きさせるのは危ないし」
「それから?」
「自分ちに帰る」
「それから?」
「風呂にでも入って、冷えた身体を暖める」
「それから……学校に行くんですね」
 途端、靴紐を結んでいた祐一さんの手の動きが止まる。
 そして、後ろ手を組みながら覗き込むように祐一さんを見下ろしていたわたしにと、目を向けてくる。
「やっぱ……分かっちまうか」
 少し困ったように眉根を寄せながら、呟く祐一さん。
 小さく頷きながらわたしは、
「当然ですよ。佐祐理は、祐一さんの相棒なんですからーっ」
「……じゃあ、俺が次に言いたいことも分かるよな?」
 真剣な眼差しがそこにあった。
 そして彼のその瞳が何を語ろうとしているのか、わたしにはすぐに分かってしまった。
 でも……。
「分かりません」
「嘘だ」
「佐祐理は頭が悪いですから、分からないです」
「だったら、はっきり言うぜ。佐祐理さんは来ちゃ駄目だ。今日はこのまま帰って、家で大人しくしてるんだ」
「嫌です。佐祐理は……祐一さんと学校に行きます」
「佐祐理さんっ!」
 叱りつけるような一言。
 祐一さんがどうしてそんなことを言うのか、わたしには嫌というほど分かっていた。
 傷つけたくないのだ、わたしを。
 大切な人を守りきれなかった辛さ、傷ついてゆく姿をただ見ているばかりの悲しさを、祐一さんはもう味わいたくないのだ。
 だから、ひとりで行こうとしているのだ。
 人ならぬ何かが居る、夜の学校へ。
 たったひとりで、全てを終わらせようとしているのだ。
 今日、この夜に。
「祐一さん、佐祐理たちはみんな同じなんです」
「いきなり何を……」
「聞いてください。いつか、言いましたよね。佐祐理も舞も、そして祐一さんも『似てる』って。佐祐理たちは、みんな同じものを背負ってるんです。だからそれを乗り越えなければ、前に進めないんです」
「…………」
「舞と出会ったとき佐祐理は、ふたりで一緒に、一生懸命に幸せになろうと誓いました。佐祐理はあんまり頭がよくないから、難しいことは分かりません。でも幸せになるって、楽しいことばかりじゃないと思います。辛いことや悲しいことを乗り越えてこそ、その先にあるかもしれない幸せに一緒に辿り着けるんじゃありませんか?」
「でも俺は……」
「佐祐理はもう、祐一さんの相棒なんですよね。だったら一緒に行きましょう。一緒に同じ道を歩いて、そして一緒に幸せになりましょう」
 それきり沈黙が、わたしたちの間を流れる。
 真っ直ぐにわたしを見据える祐一さん。
 そんな祐一さんを、視線を逸らすことなく見つめ返すわたし。
 そうしてどれくらい経っただろう、不意に大きくため息をつきながらその場から立ち上がった祐一さんは、
「何だか、舞に似てきた気がするよ。佐祐理さん」
「ふぇ……?」
「無鉄砲なんだか無茶なんだか、つき合わされる俺の方も、そんじょそこらの根性じゃ追いつきゃしないって」
 そう言って肩をすくめてみせた祐一さんは、わたしの頭をぽんと叩きながら苦笑いを浮かべてみせる。
「ひとつだけ約束するよ」
「……?」
「佐祐理さんの言う通り、俺は学校に行く。今日で全てを、ヤツとの決着をつけるために。多分それがいま、舞のために俺ができる唯一のことだろうから」
 そこで言葉を切った祐一さんは、一度目を閉じる。
 そして顔を俯かせたと思った次の瞬間、ぱっと面を上げるとこれ以上ないほどの真剣な眼差しを浮かべながら、
「でもな……たとえどんな形で終わるにしても、佐祐理さんだけは、この身に代えても守ってみせるから。あんな思いはもう……二度としたくないから」
 こんな時、わたしは何と答えるべきなのだろう。
 一瞬、思考が脳裏を駆けめぐる。
 答えはすぐに出た。
 そして、導き出された答えに従うべく身体を動かす。
 ほんの少しだけ首を傾げ、そして目の前にいる大好きな人に向かって満面の笑みを浮かべながらわたしは、
「はいっ!」
 そう一言、大きく頷いてみせた。
第11章に続く

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