『永遠の楽園』
Update:2000.03.02





第11章「邂逅」

 どこまでも続く闇が、わたしの前に広がっていた。
 吸い込まれそうな漆黒。
 何かが潜み隠れていそうな、そんな深い深い穴。
「真っ暗ですね……」
「そこら辺は、月明かりも届かないからな」
 すぐ側から戻ってきた返事。
 言葉と一緒に吐き出された祐一さんの息が、視界の端を一瞬だけ白く染めていった。
 これで何度目だろう。
 この時間に、この場所に来るのは。
 人気の絶えた校舎の中は、そこが昼間生徒で満ちあふれている場所とは思えないくらい、冷たい空気に満たされていた。
 でもいま、わたしたちはここにいる。
 戦うために。
 すべてを終わらせるために。
「この闇の……どこかにいるんですね」
「ああ」
 人ならぬ何か。
 雨の日も、晴れの日も……舞が戦い続けた、校舎の中に巣くう「魔」という名の災厄。
 もしかしたらいまも暗闇のどこかから、こちらを見据えているのかもしれなかった。
「祐一さん。相手は、全部で何体いるんですか?」
 視線は暗闇に向けたまま訊ねる。
 すると祐一さんは、手にした剣で床をこつこつとたたきながら思い出すように、
「えーと……確か、前に舞が言ってたな。「魔」は全部で五体いるって。そのうち一体を舞が倒して、それから昨日の夜に俺が二体目を倒したから……」
「五引く二ですから、残りは三体ですね」
「だな」
 うなずく祐一さん。
 ……三体。
 舞に大怪我を負わせ、わたしの額に傷を残し、祐一さんをあれほど苦しめた存在が、まだ三体も残っているのだ。
 でも祐一さんは、今晩中にそのすべてを倒そうとしている。
「大丈夫でしょうか……」
「……?」
「一晩で、全部倒せるでしょうか?」
 言いながらわたしは、床に視線を落としてしまっていた。
 もやもやとした、言葉にならない思いが胸の中にわき起こる。
 それは、未だ相見えることのない未来に対する不安。
「倒す。そして、終わらせる」
 でもそんなわたしの問いかけに戻ってきたのは、少しも迷いの感じられない強い意思を帯びた祐一さんの声だった。
「そうですね。いまからこんなこと言ってちゃ、ダメですよねーっ」
 笑いながら、祐一さんに顔を向ける。
「でも……あんまし無茶はすんなよ、佐祐理さん」
「はい、任せてくださいっ。祐一さんの背中は必ずお守りしてみせます、この佐祐理が」
「いや、そうじゃなくて……まぁいいか」
「あははーっ」
 目を合わせながら、互いに笑みをこぼしてしまう。
 こんな状況で……頭の片隅でそんなことを思ったりしたけれど、でもこれがわたしと祐一さんにとっての普通なのだ。
 気負うことはない。
 いつも通り、いまの自分にできることを精一杯頑張るだけ。
「それで祐一さん。佐祐理たち、これからどうするんですか?」
 表情を戻したわたしは、これからの行動について訊ねる。
 いままでずっと、舞と一緒に「魔」と戦い続けてきていた祐一さん。
 そんな祐一さんの少しでも役に立ちたい、足手まといになりたくないという思いから口にした言葉。
 でも祐一さんの返事は、意外なものだった。
「別に。なにもしない」
「はぇ? なんにもしないんですか?」
「ああ。とりあえずなにもしないで、ヤツが現れるのをじっと待ち続ける」
「探しに行ったりとか、しないんですか?」
 小首を傾げながら訊ね返す。
 すると祐一さんは、口元を少しゆるめながら、
「探すって言ってもなぁ……姿も見えない連中相手に、闇雲に歩き回ったって無駄だって。それに……」
「それに?」
「放っておけば、そのうち嫌でも向こうから来てくれると思う」
「そうなんですか」
「舞が言うには、どうやら俺はヤツらに好かれているらしいんだ。だからあいつと一緒だった時は、ずっと囮役ばかりさせられてたよ」
「はぇー……祐一さんって、色んな方たちから好かれてるんですね。佐祐理、感心してしまいました」
 思わず、そんなことをつぶやいてしまう。
 ちょっとだけ嫌そうな顔をした祐一さんは、困ったように眉をひそめるとため息をつく。
 それから肩をすくめてみせると、
「魔物なんかに好かれても、あんまり嬉しくないけどな」
「あははーっ。でも、それだけ祐一さんに魅力があるってことですよ」
「それってほめてるのか?」
「もちろんですよーっ、祐一さん」
 わたしたちは、廊下の真ん中で背中合わせて魔物が来るのを待った。
 沈黙と静寂を、周囲に従えながら。
「ところで佐祐理さん」
 どれくらい経った頃だろう。
 窓から射し込む月明かりの生み出す影が、少しだけ足下から遠のいた頃、祐一さんの声が久しぶりに鼓膜を震わせる。
 構えを崩したわたしは、ゆっくりと振り返りながら、
「はい、なんでしょうーっ」
「さっきからずっと気になってたんだけど、佐祐理さんが持ってるそれ……重くないか?」
「……ふぇ?」
 祐一さんが指差した先には、わたしが手にしている一本の剣があった。
 剣と言うにはあまり似つかわしくない、三メートル近い棒のようなシルエットを浮かべるそれは、どちらかといえば槍に近い形をしていた。
 先端には三十センチほどの、根本に近づくほどゆるやかなカーブを描きながら幅広な刃渡りを形作る穂先が、鈍い輝きを発している。
 その穂先の少し下の柄からは、凹形の曲面を描く大きな刃が据えつけられていた。
「あははーっ。大丈夫ですよ、祐一さん。でも佐祐理の力では、扱いがちょっとだけ大変かもしれませんけれどーっ」
「そうか? 俺にはちょっとどころか、全然大丈夫そうに見えないぞ」
「そんなことはありません。こう見えても佐祐理、意外と力持ちなんですよ」
「だって佐祐理さん。さっきから引きずりっぱなしじゃないか、それ」
 祐一さんの言うとおりだった。
 刃どころか柄の部分まで鉄でできているそれはとても重く、本当を言えばわたしひとりの力では持ち上げるのもひと苦労な代物だった。
「なんかごっつい得物だけど、でも振り回せなくちゃ意味ないって」
「……そうですね」
 しごくもっともな言葉に、少しだけ視線を落としてしまう。
「それにしてもこんなもの、一体どこから仕入れてきたんだ? そこら辺で普通に売ってるとは思えないけど」
「はい。これはですね、お家の蔵の中にあったものなんです。ずっと以前、お父さまと一緒に蔵の中をお掃除した時に、佐祐理が見つけたんです」
 わたしの説明に、ふむふむと小さくうなずく祐一さん。
 そして指先で柄の部分を軽くたたきながら、
「で……結局なんなの。これ」
「お父さまの話では『戟』と言う、大昔に大陸の方で使われていた武具だそうです。なんでも剣と槍の長所を掛け合わせた品物で、斬るにも突くにも便利なものだとか」
「ほほぅ」
「これはいまから千年ほど前の宋の時代に作られて、故あってこの国に流れ着いたものなんです。でもそれがどうして佐祐理のお家にあったかまでは、よく分かりませんけど」
「由来は分かったとして、佐祐理さんはなんでこれを持ってきたの?」
 床に突き立てられた穂先と、抱きつくように柄を支えるわたしとを見比べながら、祐一さんはさらに質問を発してきた。
「あははーっ。もちろん、蔵の中にあるもので一番強そうに見えたからに決まってるじゃないですかーっ」
「そ、そうか……しっかし、ここまで持ってくるだけで大変だったんじゃないか?」
「はい、そうですね。ですからお家から、ずーっと引っぱりながら持ってきました。こうしてずるずるーって」
 言いながら柄を小脇に抱えたわたしは、刃先を床に投げ出したまま歩き始める。
 ごろごろと床に穂先がこすれる音が、廊下中に響き渡った。
「ぷっ」
 どうしてなのか、祐一さんが突然吹き出す。
「ほぇ……?」
「あ、ごめん。佐祐理さんがそれを引きずって歩いてる姿、思わず想像しちゃったよ。よくもまあ、誰にも見とがめられなかったもんだな」
「あははーっ。そうですねーっ」
 うなずきながら笑みをこぼすわたしに、祐一さんも笑顔を返してくれた。
 緊張と寒さで固かった空気が、少しだけ柔らかくなる。
「ということで、だ」
「え?」
「佐祐理さんは、こっち」
 そう言いながら祐一さんは、わたしが持っていた戟を掴み取ると、代わっていままで手にしていた諸刃の剣を鞘ごと押しつけてくる。
「……ふぇ?」
「俺と佐祐理さんの体力差を考えたら、こうするのが一番」
「でも、それじゃあ祐一さんが……」
 動きにくいのでは――そう口にしかけた言葉を途中で遮った祐一さんは、悪戯っぽい笑みを口元に浮かべると、
「俺が思うに舞の剣技はさ、スピードと身のこなしの軽さが身上なんだよな。だから、この細身の剣を使っていた。でも俺の場合、力任せに得物を振り回してる方が性に合ってるから、剣よかこれの方がいいと思うんだ」
 柄の中ほどを握って、具合を確かめながら祐一さんはそう言った。
「それにその剣を持ってれば、御利益があるかもしれないしな」
「御利益、ですか?」
 うなずく祐一さん。
「舞が守ってくれるよ……きっと」
 ……舞。
 心の中だけで呼びかけ、祈る。
 頑張るから。
 わたしなんかじゃ舞の代わりにはなれないかもしれないけれど、でも祐一さんのために一生懸命頑張るから。
 だから――
 祐一さんを守ってあげて。
 祐一さんの願いをかなえてあげて。
 そして三人で、あの部屋で一緒に暮らそうよ……舞。
 幸せになるために。
 みんなで一緒に幸せになるために。
 返事を口にする代わりに鞘に収められた剣を、両腕でぎゅっと抱きしめる。
 いまのわたしの、それが精一杯だった。

                  §

 変化は、一瞬だった。
 暗闇の中の一点がかすかに揺らぎ、次の瞬間わたしたちの前にそれは現れていた。
 空気がぴしりと、爆ぜる音を小さく発する。
「ヤツだ」
 確信したようにつぶやく祐一さんの表情は、真剣そのものだった。
「俺が突っ込むから、佐祐理さんはここにいてくれ」
「はい」
「ヤツ以外にも、まだどこかにいるはずだ」
 全部で三体いるはずの「魔」。
 そのうちの一体はいま目の前に姿を現したけれど、残る二体はこの暗闇の裡のどこかにまだ潜んでいる。
 大きく息を吸い、小声で気合いを入れた祐一さんは、そのまま「魔」のいる方に向かって駆けだした。
 肩掛けに戟を担ぎ、その重さをものともせずに間合いを詰める。
「りゃっ!」
 両手で握りしめた柄を持ち上げ、一気に斬撃用の刃を振り下ろす。
 刃が床をたたく、乾いた音が耳を打つ。
「ちぃっ」
 床板を割り、周囲に破片をまき散らすだけに終わった一撃。
 舌打ちをしながら床に食い込んだ刃を力任せに引き抜いた祐一さんは、「魔」の反撃を避けるために大きく一歩飛び退いた。
 一瞬前まで立っていたその場所を、白く細長い不定型な何かが駆け抜けてゆく。
 身体の動きに追いつかなかったのか、戟の穂先が「魔」の一部に触れ、跳ね上げられた。
「あっ!」
 思わず声を上げてしまうわたし。
 でも祐一さんは、そうなることを最初から予想していたみたいに、跳ね上がる戟を追うように身を泳がせ、バランスを崩した身体ごと「魔」に刃を振り下した。
 視界の中で、祐一さんと「魔」の姿が重なる。
 がらんと、戟が床を打つ音がすると同時に彼の身体が廊下を転がる。
「祐一さんっ!」
 叫びながら駆け寄ろうとしたわたしだったけれど、すぐに身体を起こした祐一さんは、
「危ない。来るなっ!」
 目線でわたしの動きを制しながら、立ち上がる。
 すべてが、一瞬の間の出来事だった。
 祐一さんが「魔」に向かって床を蹴ってから、時間にして五秒も経っていない。
 その間に攻撃と反撃、加えてさらなる攻撃が行われたのだ。
 わたしの目は、そのすべてをとらえていた。
 でも、それだけだった。
 ここで傍観者として、祐一さんが戦う様を黙って見ていることしかできないわたし。
 役立たずのわたし。
 その途端、胸の奥がちくりと痛みを覚えた。
 首を振る。
 いまはそんなことを考えている場合じゃなかった。
 少しでも祐一さんの役に立つことを、手助けをすることを考えなくちゃいけないのだ。
 見れば祐一さんは戟を構え、再び「魔」と向き合おうとしていた。
 息が荒い。
 表情は窺えなかったけれど、肩越しに見える吐き出された息が、さっきより色濃く周囲の空気を染めていた。
 いくら祐一さんでも、あの戟を剣と同様に扱うには力が足りないのだ。
 ちらりと、手の中の剣――舞の剣を見てからうなずく。
 いま、わたしがするべきことはひとつだった。
「だっ!」
 その声に顔を上げる。
 戟を下段に構えた祐一さんが間合いを詰め、弧を描くように刃を振り上げた。
 空気の中を泳ぐように身をくねらせ、斬撃をかわそうとする「魔」。
 このままじゃ当たらない。
「もっと左です。祐一さんっ」
 叫びながら、気がつくとわたしは駆けだしていた。
 祐一さんより先に「魔」が動き出していたのだ。
 このままだと、一瞬の差で「魔」の攻撃の方が先に届いてしまう。
 凍てつく夜の空気が肌の上を流れてゆくのを感じながら、切っ先を正面に向けたまま数メートル離れた場所でわたしは跳んだ。
 瞳に映る廊下の情景が、ざっと線を引きながら流れる。
 次の瞬間、刀身を通して剣先に何かが触れたのを感じ取ったわたしは、右の掌を柄の底に押しあてながら、一気に突き込んだ。

『……らっ!』

 その瞬間だった。
 突然頭の中に誰のものとも分からない、言葉のかけらが飛び込んでくる。
 驚きの声を上げる間もなく、わたしの声に戟の軌道をとっさに修正した祐一さんの一撃が空気と、白く霞む「魔」をまとめて切り裂いた。
 途端、剣先に覚えていたはずの固い感触が失われる。
 そのまま力が抜けたように、ぺたりと床の上に座り込んでしまうわたし。
「佐祐理さん……さんきゅ……な」
 気がつくと、床に突き立てた戟にすがるように床に膝をついた祐一さんが、切れ切れな呼吸の中から言葉を紡いできた。
「あ、はい。佐祐理、夢中だったので自分でもなにをしたのかよく分からないですけど……お役に立ててよかったです。あははーっ」
 思わず、笑みを浮かべてしまうわたし。
 でも頭の中では、まったく別のことを考えていた。
 さっき「魔」に剣を突き立てた時に、頭の中に響き渡った声みたいな何か。
 あれは何だったのだろう。
 誰の声だったのだろう。
「佐祐理さん、立てるか?」
「はぇ?」
 顔を上げると、いつの間にかその場から立ち上がっていた祐一さんが、わたしに手を差し出してきていた。
「あ、はいっ」
 彼の手を握り、立ち上がる。
「とりあえず……ひとつ」
「さっきので、倒せたんでしょうか?」
「手応えはあったから、たぶん」
「はい」
 闇の奥をじっと見据えたまま紡がれたその言葉に、小さくうなずき返す。
「ちょっと疲れたな。ここいらで、ひと休みしたいところだな」
「……無理だと思います」
「え?」
 驚く祐一さん。
 わたしが次の言葉を口にする前に、少し離れた――誰もいないはずの場所の空気が、ぱちぱちっと小さく爆ぜた。
「団体様のお着きかな?」
「そうみたいですね」
「じゃダブルスってことで、前衛は俺が行く。で、佐祐理さんは後衛」
「はい……分かりました」
 わたしの返答に満足そうに口元をゆるめた祐一さんは、大きく息を吸うと、
「行くぜ、佐祐理さんっ!」
「はいっ」
 その声に背中を押されるように、わたしは床を蹴った。

                  §

 祐一さんの後を追って走り出したわたし。
 窓越しに射し込んでくる月明かりの下に、「魔」はいた。
 ゆらゆらと、まるで水面に映し出されているみたいに揺らめくその姿。
「おりゃっ!」
 気合いと共に、右側の「魔」に向かって穂先を突き込む祐一さん。
 それを視界の端にとらえながら、わたしはもう一方の「魔」と向き合い、手にした剣を構えつつ間合いを取った。
 目の前の「魔」に、祐一さんの邪魔をさせないために。
 それが相棒であるわたしの、いまできることのすべてだったから。
 頭の片隅で、いつか中庭で祐一さんから教わったことを思い出す。
 左手で柄を握り、右手は軽く添えるだけ。
 足は利き足を残して、残った方の足を半歩後に下げる。
 かかとを浮かせ気味にしてつま先に体重をかけながら、相手の動きに合わせて円を描くように位置を少しずつ変え、その軌跡をたどるように残った足を寄せる。
 すっと、目の前の「魔」が動いた。
 反射的に刀を頭上に掲げたわたしは、右足を大きく踏み出しながら一気に振り下ろした。
 流れる影を、剣がかすめる。
 そのまま廊下を駆け抜けたわたしは、振り返りざま剣を横に薙いだ。
 空を切るのとは明らかに違う、鈍い感触を覚える。
 当たった!

『……のがく……っ』

 まただ。
 さっきと同じ何かが、誰かがわたしの中に入り込んでくる。
 女の子の声。
 それは幼い感じの、でもどこか悲しげな色を帯びた声だった。
 後ろに飛び退くと背中に何かが当たる。
 祐一さんだった。
 戟を構えたまま、荒い呼吸を繰り返しながらもう一体の「魔」と相対している。
「怪我はないか、佐祐理さん」
「平気です」
「上等。それじゃあ、援護してくれ」
「はいっ」
 うなずくと同時に身を翻したわたしは、少し腰を落としながら祐一さんの横をすり抜け、そのまま前に飛び出す。
「えいっ!」
 わたしの動きを予想していたみたいに「魔」は身体をくねらせ、攻撃をかわした。
 でもそれこそが、わたしたちの狙いだった。
 わたしの剣を避けた「魔」が移動した先、そこに祐一さんが渾身の斬撃を加えたのだ。
 たたきつけるような破壊音がした次の瞬間、空気と一緒にそこにいた「魔」の身体に大きな亀裂が走っていた。
 かなりの深手だったのか、ゆらりと「魔」がその場から逃走を図ろうとしていた。
 気がつくとわたしは、逃げる「魔」の後を追っていた。
「佐祐理さんっ!」
 背中を、祐一さんの声が追いかけてくる。
「とどめを刺します」
「ひとりじゃ危ない。戻ってこい、佐祐理さんっ」
「大丈夫です」
 振り返ることなく、目は少し先をふらふらと縫うように中空を漂う「魔」をとらえたまま言葉を返す。
 廊下の端で進路を変えた「魔」は、階段を二階に向かって上っていく。
 身体ごと手すりにぶつかるようにして無理矢理進路をねじ曲げたわたしは、そのままの勢いで階段を駆け上った。
 二階の廊下に足を踏み入れたところで、ようやく行き足を止める。
 左右を見渡す。
「いたっ」
 探し求めるものは左手の廊下、旧校舎につながる渡り廊下がある方に移動しかけていた。
 突然「魔」の頭上にある蛍光灯がぱしっと弾ける音と共に砕け散り、廊下の上にガラスの破片を撒き散らす。
 きらきらと、月明かりを反射しながら舞い落ちるガラス。
 蛍光灯は「魔」の動きに合わせて次々と弾けては、廊下に帯状の煌めき広げてゆく。
 それはまるで、ガラス製の絨毯のようだった。
 後を追うわたしの足下からは、踏みしめたガラスの破片が砕ける固い音が小さく鳴り響く。
 さっきの一撃が効いているのか、思った以上にスピードの出ていない「魔」の動き。
 これなら何とか……そう思った瞬間だった。
 逃げる「魔」と入れ替わるように、真正面から突っ込んでくるもう一体の「魔」の姿を瞳がとらえたのは。
「きゃっ!」
 とっさに立てた剣に「魔」がぶつかり、衝撃を受け止めきれなかったわたしはそのまま後ろに跳ね飛ばされてしまった。

『……たりで……ろうよっ』

 脳裏を、少女の声が走る。
 でもわたしはすぐにそれを頭の中から振り払い、立ち上がった。
 そして気がつく。
 剣が、手中から失われてしまっていることに。
 慌てて探す。
 それはすぐに見つかった。
 でも剣とわたしの間には、白く不定型な身体を揺らめかす「魔」が立ちふさがっていた。
 ……どうしよう。
 一瞬迷いが生じる。
 その途端、「魔」がわたしに向かって突っ込んできた。
 考えるよりも先に、身体が動いていた。
 ほんの少しだけ身体をひねって、紙一重のところで「魔」を避けたわたしは床に転がる剣を拾い上げると、そのまま廊下を駆ける。
 身を翻した「魔」が後を追ってくるのが、背中に感じる気配で分かった。
 このまま逃げ続けてもらちがあかない。
 どうにかして、体勢を立て直さないと。
 その時だった。
「こっちだ、佐祐理さんっ!」
 祐一さんの声。
 声は廊下の先、渡り廊下につながっている角の向こうから聞こえてきた。
 姿は見えない。
 でもわたしには、それだけで十分だった。
 スピードを限界まで速め、壁に突き当たる直前に腰を落としたわたしは、体重移動だけで一気に角を曲がりきった。
 視界に飛び込んでくる祐一さんの姿。
「跳べっ!」
 その意味を考える暇もなく、言われるままに思い切り床を蹴った。
 宙を舞ったわたしの足下、そこには槍のように曲がり角に向かって突き出された戟の穂先があった。
 一瞬遅れて姿を見せた「魔」が角を曲がり、突っ込んでくる。
 貫かれる肢体。
 文字通り串刺しにされた「魔」は、もだえ苦しむように白い身体を揺らめかせ、次の瞬間まるで霧が晴れるみたいにその姿を消してしまった。
 右足が、床に触れる。
 そのまま片足を軸にして身体を百八十度回転させたわたしは、床に座り込んだままの祐一さんの許に駆け寄った。
「祐一さんっ!」
「一丁上がり……かな」
 暗がりの中、笑顔を浮かべる祐一さん。
 でもどうしてだろう、その表情はどこか苦しそうだった。
 喜びと言うより、苦笑いを浮かべているみたいに見える祐一さんの様子に、わたしは違和感を覚えてしまう。
 答えは、すぐに見つかった。
 暗がりの中、床の上にうっすらと浮かび上がる、少し歪んだ円弧を描いている何か。
 水がもれているみたいに、じわじわとそれは広がりを見せてゆく。
「ふぇ。祐一さん……?」
「ドジっちまったよ、ははっ」
 それは……血。
 祐一さんの身体から流れ出た命の糧――血液を画材に使って、キャンパス代わりの床の上に描き出された芸術。
 いつか、どこかで見た光景。
「怪我をしてるんですね、祐一さんっ!」
 傷のありかはすぐに分かった。
 血だまりは、床に投げ出された祐一さんの左足の、太股の辺りを中心にじわじわと染みを広げていっていた。
 手を伸ばし、そっと血だまりに触れてみる。
 水みたいな……でもかすかに粘り気のある血液特有の肌触り。
 指先に覚えたその感触は、わたしの心の奥底で眠り続けていたはずの幾つかの記憶を呼び覚ました。
 同じだった。
 三年前、手首を切った時にそこからあふれ出たものと。
 昨日の夜、舞の身体から流れ出たものと。
「ひどい……」
 口に手を当てながら、つぶやくわたし。
「とりあえず……移動しよう」
 痛みに耐えるように眉をしかめながら、つぶやく祐一さん。
「でも、その怪我では……」
「まだヤツらを、全部倒せたわけじゃない。ここにいたんじゃ危険だ。どこかもっと……ヤツの進路を限定できる場所を……」
 傷の痛みに表情を歪めながら、戟を杖に立ち上がろうとする。
 祐一さんの身体を支えようと彼の左腕を肩に回したわたしは、そのままゆっくりと腰を上げてゆく。
 わたしの方が背が低かったから、杖代わりにはならないかもしれない。
 でも少しでも……そう思っての行動だった。
「……行きましょう」
 わたしの言葉に小さくうなずいた祐一さんは、ゆっくりとその場から歩き出す。
 廊下を、ふたり分の靴音を響かせながら歩き続けるわたしたち。
 やがてたどり着いた階段で向きを変えた祐一さんは、無言のまま一段また一段と上の階に向かって歩いていった。
 歩くたび、傷口から流れ出た血が床に小さな染みを作ってゆく。
 階段を上り続けた先にあったのは、屋上の手前にある踊り場だった。
 わたしたちにとって、小さな楽園だった場所。
「ここは?」
「ふぅ……到着」
 小さく息をついてから口元をゆるめた祐一さんは、背中を預けるように壁にもたれかかるとその場に座り込んでしまった。
 横で膝をついたわたしは、とりあえず止血だけでもしておこうと髪を結わえていたリボンを外し、傷口に巻きつける。
「佐祐理さん……そんなことしなくてもいいよ。汚れちゃうって」
「構いません」
 気遣うように口を開く祐一さんに、わたしはそれだけを返す。
 傷がかなり痛むに違いない、ぎゅっとリボンを太股に巻きつけるたびに祐一さんの表情が苦痛に歪んだ。
「祐一さん……大丈夫ですか?」
「ははっ。平気平気、って言いたいところだけど……ぐっ……ちょっと平気じゃないかも」
 額から脂汗を流しながら、それでも笑顔を作ろうとする祐一さん。
 痛いに決まってる。
 こんなにたくさん、血が出ているのだから。
 苦しいに決まってる。
 こんなにたくさん、血が出ているのだから。
 沈黙が流れる。
 どれくらいそうしていただろう、わたしは祐一さんに向かってぽつりと口を開いた。
「ごめんなさい、祐一さん」
「どうして……佐祐理さんが……謝るんだ?」
「だって……」
 喉まで言葉が出かかったけれど、でも出てこない。
 悲しくて。
 ただ、悲しくて。
「……佐祐理が役立たずで、邪魔ばかりしたせいで……祐一さんの足手まといになってしまったせいで……」
 ようやく出てきた言葉を最後まで口にする前に、不意に頭を抱きかかえられる。
 大きくて、暖かな祐一さんの腕。
「別に……佐祐理さんは関係ないって。これはさ、ただ単に……俺がドジだったから……こうなっただけだって。だから佐祐理さん……が気にすることは全然ないんだぜ」
 抱きかかえられたまま、視線を落とす。
 するとそこには、巻きつけたリボンの上にじわじわと紅の染みを広げてゆく、祐一さんの太股があった。
 まただ。
 わたしはまた、こうして生きながらえている。
 傷つき、苦しむ祐一さんの横でわたしは、当然のような顔で生を享受していた。
 頬に感じる祐一さんの身体は、とても温かい。
 でも……だからこそ、いまもわたしの中にある卑怯で狡くて汚れた心の存在が、何より疎ましかった。

                  §

「……りんご」
 耳元でささやかれる声。
 不思議なくらい穏やかに感じられる祐一さんの口から流れ出たその一言は、この場にひどく似つかわしくないものだった。
「ほぇ……?」
「……りんご」
「どうしたんですか、祐一さん。お腹が空いてるんですか。もしかして、りんごが食べたいんですか?」
 落としていた視線を上げ、すぐ側にある祐一さんの顔を見る。
 暗がりの中で細かな表情までは読み取れなかったけれど、その眼差しが穏やかな色を帯びていることだけは分かった。
 そしてすぐに理解する。
 祐一さんが、何を求めてその言葉を口にしたのかを。
 だから一度顔を伏せたわたしは、ゆっくりと顔を上げると、
「……ごりら」
 小声で、そうつぶやいた。
 祐一さんの口元が、少しだけゆるむ。
「らっきょう」
「うし」
「しばづけ」
「けがに」
「にんじ……じゃなくて、にら」
「らくだ」
「だ、だいとくじなっとう」
「ふぇ……なんですか、それ?」
 耳慣れない言葉に、思わず小首を傾げてしまう。
「京風の納豆。黒くてあんまりネバネバしてなくて、納豆嫌いの関西人が唯一存在を認めてるらしい納豆」
「そうなんですか。祐一さんって物知りなんですねーっ。でしたら佐祐理は……うま」
「まめ」
「めだか」
「かれーらいす」
「すかんく」
「くしかつ」
「祐一さん、さっきから食べ物ばっかりですね。つばめ」
「それを言ったら佐祐理さんの方こそ、ずっと動物シリーズじゃないか。め、め、め……めんたいこ」
「こよーて」
「てっぱんやき」
「きつつき」
「きぅい。終わらないな」
「そうですね……いるか。終わりませんね」
「俺が思うにだ、やっぱ自爆するヤツがいないからかな。からすみ」
「あははーっ。それって舞のことですね。舞としりとりすると、いつだってすぐ終わっちゃうんですよねーっ。みずどり」
「りんご……って。げげ、しまった」
「あーっ、同じのを言いましたね。祐一さんの負けです」
「武士の情けだ。もう一度チャンスをくれ」
「あははーっ。残念ながら佐祐理は武士じゃありませんから、ダメですーっ」
 それきり、お互いに黙り込んでしまう。
 たったいままでわたしたちを包み込んでいた穏やかな雰囲気が、周囲の凍てつきそうなほどの空気に浸食されるように霧散していった。
 祐一さんの横で階段の先にある暗闇を見据えていた視線を、ほんの少しだけ上向かせる。
 視界の端に映る、祐一さんの横顔。
「どうして……なんでしょうね」
「ん?」
「祐一さんとこうしていると佐祐理は、なんだかとっても懐かしいような、そんな気がするんです。ずっと昔にも、同じことがあったような……」
 自分でもどうしてなのか、分からなかった。
 文字通りの死が目の前で口を開けて待ち構えているような、そんな状況だというのに。
 舞の死。
 祐一さんの死。
 そして、わたしの……死。
 考えないようにすればするほど、わたしの中でそれは確実な未来となって鮮明なイメージを意識の上に焼きつかせる。
 でもわたしは、いま自分が不幸だとは思わなかった。
 舞と出会えたから。
 祐一さんと出会えたから。
 弟の一弥を失ってから、この世界で生き続けてゆくことに何の意味も目的も見出すことのできなかったわたし。
 生きているのか。
 死んでいるのか。
 それすらもよく分からないまま、曖昧な境界線の上でわたしじゃないわたしと互いに交錯し続けた日々。
 その先に、いまがある。
 倉田佐祐理という「ヒトゴロシ」の女の子と一緒にいてくれる舞と、祐一さんに出会えた未来があるのだ。
「……そうだな。どうしてかな、俺もそう思うよ」
 耳元で紡がれる言葉。
「おかしな話だよな。佐祐理さんと舞のふたりに出会ってから、まだ二ヶ月も経ってないはずなのにさ」
「関係ありませんよ」
「……?」
「出会ってからの時間なんて関係ないと、佐祐理は思います。舞も祐一さんも、佐祐理にとってはかけがえのない大切な存在ですから。それは、たとえわたしたちが死んでしまっても変わりません。未来永劫に」
「ああ……まったくだ」
 そう言って、わたしの頭に回した腕の力を少しだけ強める祐一さん。
 大切な人が側にいてくれている確かな存在感にわたしは、わずかに目を細めるばかり。
 ぱしっ。
 ガラスが弾けるような、そんなかすかな音色が聞こえたのはその時だった。
「……来た」
 つぶやきと共に、わたしから身体を離す祐一さん。
 何が、は聞く必要なかった。
 「魔」だ。
 さっき逃がしてしまった一体が、ここまで追ってきたのだ。
 壁に寄りかかりながら手にしていた戟を支えに立ち上がった祐一さんは、そのままゆっくりと階段のきざはしへと歩き出す。
 後を追ったわたしは、祐一さんの次の言葉を待つ。
「まだ……遠い」
 あるはずのない両足で床を踏みしめているみたいに、一定の間隔を置いて空気の爆ぜる音が空気を震わせる。
「どうするんですか?」
 返事はない。
 祐一さんは何か考え込むように黙り込んだまま、じっと目の前の虚空を見据えていた。
「佐祐理が行きましょうか」
「いや……」
 視線だけをわたしの方に向けながら、小さく首を振る祐一さん。
「でも祐一さん……その怪我では……」
「…………」
「……まさか」
 祐一さんが、どうしてわざわざ逃げ場のないこんな場所――袋小路に移動したのか。
 逃げたわけじゃなかった。
 左右のふさがれた狭い場所に「魔」を引き込むことで、足の怪我というハンデを少しでも埋め合わせて……祐一さんはまだ戦うつもりなのだ。
 頭の中でそんな思いが閃いたのと、祐一さんの身体が動いたのは同時だった。
 すぐ下の踊り場にまで「魔」が近づいてくる頃合いを計ったように、戟の柄の先を思い切り床にたたきつけた祐一さんは無傷の足で床を蹴り、宙を舞う。
「ダメです、祐一さんっ!」
 右手でくるりと戟を回転させて穂先を真下に向けた祐一さんは、両手で柄を握りしめると重力の見えざる手に導かれるまま、凍てつく宵闇の中を落下してゆく。
 次の瞬間鳴り響く、刃が固い何かに打ちつけられる鋭い音色。
 勢いを殺しきれなかった祐一さんは、そのまま踊り場の上をごろごろと二転三転、肩口から壁にぶつかってようやくその動きを止めた。
「祐一さんっ!」
 二段とばしで階段を下り、側に駆け寄る。
 かなり強くぶつけたのだろう、肩に手を当てあてながら痛みに顔を歪める祐一さんの表情が瞳に飛び込んできた。
「いきなり飛び降りるなんて、無茶ですっ」
「…………」
「大丈夫ですか?」
「……失敗した」
「え?」
 その途端、すぐ間近で空気が爆ぜた。
 意識がその音を知覚した瞬間視界が糸を引くように横に流れ、すぐ目の前を「魔」が疾駆してゆく。
 祐一さんがわたしを抱きかかえながら、跳んだのだ。
「……っ」
 無理に足を動かしたせいで傷が痛むのか、声にならない声を上げながら祐一さんは表情を歪めていた。
 視線を巡らせる。
 眼前を駆け抜けていった「魔」は、間合いを取るように少し離れた場所にいた。
「一時、退却しましょう」
 小声で問いかけるわたし。
 祐一さんの怪我のひどさを考えれば、ここは退くべきだった。
「佐祐理、一生懸命頑張ります。頑張って祐一さんを背負って、校舎の外まで走ります」
 わたしの提案に、祐一さんは口元を歪める。
 もしかして……いや、もしかしなくても祐一さんは微笑みを浮かべているのだ。
 傷の痛みに耐えている表情を、精一杯ゆるめて。
「これを……」
 わたしの前に差し出されたもの、それは彼の側に駆け寄った時に床に投げ捨てたままになっていたわたしの――舞の剣だった。
「ふぇ……これで、どうするんですか……」
「勝つことは考えるな」
 まっすぐにわたしを見据えながら、はっきりとした口調で祐一さんが言う。
「受けるか、避けるかだけでいい」
「祐一さん……」
 次の瞬間、目をわずかに細めた祐一さんは、
「ヤツが俺を狙うか、佐祐理さんの後を追うか。確率は二分の一だ」
「…………」
「分の悪い賭だけど、でもいまはこれくらいしか思いつかない。頼む、俺を信じてくれ。佐祐理さん」
 沈黙。
 永遠とも思える一瞬が過ぎ去った後、わたしは祐一さんに向かってこくりと首を縦に振ってみせた。
「祐一さんは、佐祐理のパートナーなんですよね。だから信じます、祐一さんの言葉」
「さんきゅ」
 微笑みを浮かべながら、顔を寄せてくる祐一さん。
 目を閉じる。
 やがて額にほのかな温もりを覚えたわたしは、ゆっくりと目を開き、もう一度祐一さんの顔を見上げる。
「……来るぞ」
「はい」
「行けるな」
「はい」
「走り出したら、後ろは振り返るな。前だけを見て……そして中庭へ」
「はい」
「よーし、いい子だ」
 祐一さんのその言葉と同時に背中をぽんと軽くたたかれたわたしは、それをスタートの合図に床を蹴った。
 それは目の前にいた。
 白い影。
 わたしと祐一さんにとっての、死を具現化した存在。
 すれ違いざま、横薙ぎに払った刀身が「魔」の甲羅のように固い肢体を打ったけれど、その感触を確かめる間もなく一息に階段を駆け下りる。
 わたしは、廊下を次の階段に向かって走り出した。

                  §

 背後に感じる気配。
 祐一さんの言いつけを守って振り返りはしなかったけれど、でもすぐ後ろにそれがいることだけは感じることができた。
 すれ違いざまに打ち込んだ一撃が功を奏したのか、祐一さんの読み通り「魔」はわたしの後を追ってきていた。
 怒りに我を忘れているように。
 受けた痛みを、そのままわたしに返そうとするように。
「はっ……はっ……」
 息が切れる。
 吐き出した息が目の前を真っ白に染め、その中を突き抜けながらわたしは走り続けた。
 やがてたどり着いた廊下の端、階段の前で波打つ漆黒の闇に向かって跳躍。
 しわぶきひとつ立つことのなかった空気がわたしの動きに合わせて揺らぎ、肌の上を滑るように流れ去ってゆく。
 一息で踊り場に着地したわたしは、そのまますぐ側にあった手すりを掴むと勢いのままぐるりと弧を描いて身体の向きを変える。
 背後に流れる髪の先に、何かが触れるような感触があった。
 速い。
 地を蹴ることでしか前に進むことのできないわたしと違って、「魔」は空気をかき分けて一気に距離を詰めてきていた。
 手すりから手を離し、そして二度目の跳躍に入る。
 その一瞬の最中、思考を巡らせる。
 中庭にたどり着くまでに存在する障害は、少なくともふたつあった。
 ひとつは、まばたきをするたびに視界の中で大きくなってきている一階の廊下。
 正面には窓ガラスと壁があったから、まっすぐ進むわけにはいかない。
 このままだと壁の手前で再びターンをしないといけなかったけれど、さっきの踊り場と違ってそこには支えになるものが何もなかった。
 勢いを殺さず、うまく曲がりきれるだろうか。
 そしてふたつ目の障害は、校舎と中庭との間を分かつドアだった。
 鍵は開いているだろうか。
 もし鍵が開いていても、外に出るには一度足を止めてドアを押し開けないといけない。
 いまでさえ、全力で走ってかろうじて「魔」に追いつかれずに済んでいるのというのに、足を止めるなんて自殺行為以外の何ものでもなかった。
 当然のことだったけれど、いまのわたしに自殺の意志はない。
 約束だから。
 このまま中庭にたどり着くという、約束を果たさなくてはならないから。
 それが相棒としてわたしに運命を託してくれた祐一さんに、いましてあげられる唯一のことだったから。
 答えはひとつしかなかった。
 一階の廊下に、宙を舞っていた右足が触れる。
 靴底を通してその存在を感知した瞬間わたしは、左足が床に着く前に右足のバネだけで三度目の跳躍に入った。
 目の前のガラスへと。
 立ちはだかる障壁に向かって剣を立て、そのまま一気に突っ込む。
 剣先が固いガラスの表面に触れた次の瞬間、わたしの体重と加速度に抗しきれなかったガラスは軽やかな音色と共に砕け散った。
 反射的に身体を丸める。
 身体のあちこちに、何かで引っかいたような鋭い痛みを覚えた。
 記憶のある痛み。
 それは三年前、刃が手首を切り裂いた時と同じ痛み。
 ぐるりと世界が回った後、わたしは降り積もった雪で白一色に染め上げられた校庭に身を投げ出していた。
 意識よりも身体が先に反応し、立ち上がる。
 痛みはあまりない。
 肩から地面に突っ込んだものの、どうやら降り積もった雪がクッションになって衝撃をやわらげてくれたみたいだった。
 走り出そうとした矢先に、背中に気配を感じる。
「……きゃっ!」
 背中にたたきつけるような衝撃を受け、視界が再び回転した。

『……とだよっ!』

 声がする。
 さっきから、何度となくわたしの中を駆け抜けていった声。
 舞い上がった雪が霧のように周囲を覆い、月光の下で雪片がきらきらと瞬くような輝きを浮かべていた。
 二転三転して勢いを失ったところで、ようやく地面に手をつく。
 そして見た。
 視界の中央、雪煙の向こうから近づいてくる「魔」の姿を。
 起きあがりざまに握りしめていた剣を大きく薙いだわたしは、視界の中で切っ先が「魔」と重なった瞬間、その手を離す。
 そのまま結果も確かめずに、雪の上を走り出した。
 背後から、金属が固い何かにぶつかり弾かれる硬質な音が響く。
 それが何の音だったかは、確かめるまでもなかった。
 駆けだしてから十メートルも進まないうちに、雪に足を滑らせてしまったわたしは、その場に倒れ込んでしまう。
 舞い上がる夜の雪。
 顔を上げる。
 そしてわたしは、自分がいまどこにいるのかを知り、安堵の吐息をもらした。
 中庭。
 祐一さんとの、約束の場所。
 わたしはたどり着くことができたのだ。
 身体を起こす。
 雪面に手をついて腰をひねりながら、背後に目を向ける。
 月光の下で、生き物のようにゆらゆらと不定型にその身を揺らし続ける白い何か――それこそが、わたしにとっての「死」に他ならなかった。
 手にしていた剣も失われてしまったいま、わたしにできることは何もない。
 待つこと。
 それだけがわたしが選ぶことのできる、たったひとつの行動だった。
「…………」
 無言でじっと、目の前の「魔」に視線を注ぐわたし。
 数え切れないほどの星を従えながら「魔」の背後で煌々と輝く月が、どうしてかとてもきれいに思えた。
 その時だった。
 月を覆い隠すように、さっと黒い影が走ったのは。
 次の瞬間、その正体が何なのかに気がついたわたしは言葉を失ってしまう。
 人影。
 視界の中で、急速にその姿を大きくしていくそれは……祐一さんだった。
「っ……!」
 まっすぐにわたしと「魔」のいる場所――中庭の中央を見据えながら、穂先を下に戟の柄を両手で握りしめている。
「ざ……」
 空気を通して耳に届く、祐一さんの声。
 でも何を言っているのかまでは、よく分からない。
「……せぃっ!」
 わたしの視界の中で祐一さんと「魔」の姿が折り重なった瞬間、凍てついた空気を引き裂くような裂帛の気合いと共に、その白い身体を細く鋭い穂先が貫いた。
 刃は自らの重みで、「魔」の背中を一気に引き裂いてゆく。
 四散するように砕け散る肢体。
「祐一さんっ!」
 中庭の一角に積み上げられていた雪だまりに、盛大に雪を吹き上げながら飛び込んだ祐一さんの姿を瞳が認めた瞬間、わたしは悲鳴に近い叫び声を上げながら駆けだしていた。
 身体のあちこちが痛む。
 でもそのすべてを無視してわたしは、ひたすら足を動かし続けた。
 永遠とも思える長い長い時を経て、ようやく雪山の側にまでたどり着く。
「祐一さん……祐一っ!」
 膝から滑り込むようにその場で足を止め、雪をかき分けようと必死に両手を動かした。
 求める姿は、すぐに現れた。
 仰向けの姿勢で、夜空を見上げるように大きく手足を広げて横たわる祐一さんの目が、ゆっくりと開かれる。
 重なる視線。
 無言のまま、互いに見つめあうばかりのわたしたち。
 どれくらい経った頃だろう、ほんの少し口元を歪めた祐一さんは、
「よぅ、相棒」
 ゆっくりとそれだけを口にした。
 胸の奥が熱くなってくるのを自覚しながら、それでも精一杯の笑顔を浮かべながらわたしは返事を口にした。
「……はい」
「約束守ってくれて……ありがとな」
「はい。でも……無茶苦茶です、祐一さん」
「仕方ないだろ。階段の上からでもダメだったんだから。ならもっと高いところからって、そう思ってさ」
「それで屋上から……信じられません」
「ない知恵しぼって、色々計算したんだぜ。あの高さからでも、たぶん「魔」を斬った反動でなんとかなるかな、とか」
 返事の代わりに、祐一さんに向かってそっと手を伸ばす。
 指先が、祐一さんの頬に触れる。
 夜の空気と雪のせいで、肌は冷えきっていた。
 撫でるようにゆっくりと、頬に当てた掌を動かすわたし。
 祐一さんは何も言わずに、くすぐったそうに少し目を細めるだけだった。
「倒せた……な」
 長い沈黙の後、つぶやくようにそう言う祐一さん。
 わたしはうなずきながら、
「はい。倒しました」
 そして一瞬の間を置いてから、
「……祐一さんが」
 そう、つけ加えた。
 何故ならわたしは、何もしていなかったから。
 わたしは祐一さんの側にいただけで、最後まで足手まといにしかならなかったから。
「それ……違うぜ」
 でも祐一さんは、首を振りながら身体を起こそうとする。
「ダメです、祐一さん。じっとしていてください」
 わたしのその言葉を無視して、祐一さんはなおも身体を起こそうとし続ける。
 途中何度も、痛みに顔をしかめながら。
 やがて視線の高さが同じになる。
 祐一さんは苦痛に歪む表情を必死に抑え込み、ほんの少しだけ口元をゆるめると、
「俺と佐祐理さんの、ふたりでだ」
「ふたり……」
「そうだ。俺たちふたりで、舞の仇を討ったんだ」
「……仇」
「ごめんな、佐祐理さん。女の子の顔と身体に、あっちこっち傷をつけさせちまって」
 そう言いながら、わたしの頭を撫でる祐一さん。
 ゆっくり、ゆっくりと。
 顔を俯かせ、ぎゅっと目を閉じるわたし。
 そうしないと、涙が瞳からあふれてくるのを我慢できそうになかったから。
 髪を撫でるその動きを通して、彼の言葉にならない思いが染み込むように心の中に浮かんでは消えてゆく。
 わたしなんかより、ずっと深い傷を負っているはずの祐一さん。
 本当ならこうして言葉を交わせることすら不思議なくらいなのに、でも祐一さんは自分の身よりわたしの……こんな役立たずのわたしの身体を心配してくれている。
 悲しい思い。
 嬉しい思い。
 辛い思い。
 幾つもの相反する思いが心の中で浮かんでは、消えてゆく。
 やがてゆっくりと顔を上げたわたしは、
「大丈夫です、祐一さん。こんな傷物の女の子でも、きっと貰ってくれる物好きな方は世の中にいらっしゃると思いますからーっ」
 笑顔を浮かべながら、冗談めいた口調で言葉を返す。
 一瞬、不思議そうな表情を浮かべながら首を傾げた祐一さんだったけれど、でもすぐに納得がいったように小さくうなずくと、
「違いない。少なくともここにひとり、その物好きがいるんだからな」
「はい。あははーっ」
 わたしたちの笑い声が、夜の中庭の空気を震わせる。
 自分たちがいま置かれた状況を考えたら、笑うことなんでできないはずだった。
 でも……それでも、わたしたちは笑った。
 傷だらけのぼろぼろの格好のまま、お互いに顔を合わせて小さな笑みをこぼし続けた。

                  §

「……腹減ったな」
 つぶやくように祐一さんがそう言ったのは、教室の壁に背中を預けるように座り込んで少し経った頃だった。
 中庭から一番近い教室。
 とりあえず寒さをしのぐために、歩くこともままならない祐一さんを抱きかかえるようにわたしたちは、そこに足を踏み入れた。
「ふぇ……お腹が減ったんですか、祐一さん?」
 最初は冗談かと思った。
 満身創痍とも言えるこの身体の状態で、食欲がわくなんてとても信じることができなかったから。
 本当なら、いますぐにでも病院に行くべきなのだ。
 足の怪我はようやく出血が止まり、包帯代わりに巻いたリボンは固まった血で赤黒く染め上げられていた。
 雪が受け止めてくれたとはいえ、かなり強くぶつけたのか祐一さんの右腕はほとんど動かなくなっていた。
「ああ。腹減った」
 左手でお腹の辺りを押さえながら、視線は天井に向けたまま口を開く祐一さん。
「なにが、食べたいんですか?」
「そうだなぁ。贅沢を言えば……牛丼」
「牛丼ですか」
 もしかしたら……祐一さんのその言葉に、記憶のどこかが刺激された。
 そして思い出す。
 三年前の、舞との出会いを。
 食堂でふたりで一緒に食べた、牛丼の味を。
「また……三人で食べたいですね」
 そう口にしたきり、わたしは黙り込んでしまう。
 わたしたち以外誰もいない校舎の中は静かで、寂しかった。
 でも、ひとりじゃない。
 いまわたしの横には、祐一さんがいてくれる。
 だから平気だった。
 わたしたちにできることのすべては終わり、後は遠からぬ未来として訪れるに違いない悲しい出来事を待つばかり。
 本当は、三人でいたいのに。
 穏やかで平和で退屈で……でもだからこそ幸せを感じることのできる日々を、舞と祐一さんとわたしの三人で過ごしていきたいのに。
 わたしたちの楽園で。
 でも、それはかなわぬ夢だった。
「ひとりで……泣いて……」
 不意に、横からつぶやきがもれる。
 見れば祐一さんが、少しだけ目を細めながら口を動かしていた。
「……ふたりで耐えて……」
 小首を傾げ、彼の横顔を見つめるばかりのわたし。
 突然どうしたんだろう。
 そんなことを思いながら瞳に映し出される祐一さんの表情は、どこか遠い昔を思い出しているみたいな、そんな顔つきだった。
「……三人で……笑う」
 そこで口を閉じた祐一さんは、ゆっくりとわたしに顔を向ける。
「歌……ですか?」
「たぶんそうだと思う。ずっと昔、学校かどこかで習ったのかもしれないけど、よく思い出せない」
「そうですか」
「なんとなく、いまの俺たちにふさわしいかなって思ってね」
 それから口の端を少しゆるめる。
「大丈夫だよ、佐祐理さん。きっとなんとかなるって。ほら、ひょっとしたら明日にはけろっとした顔で『……お腹空いた』とか言ってるかもしれないだろ。あいつのことだからさ」
「あ……あははーっ。そうですね。きっと、そうですよねーっ」
 少しだけ言葉に詰まりながら、それでも笑ってみせるわたし。
 嘘つきなわたしたち。
 少しも信じていないことを、お互いにそうなんだってことに気づいていながら、それでも嘘をつき続けるわたしたち。
 昨日と同じ今日。
 今日と同じ明日。
 そう信じることのできた過去と別れを告げ、やがて訪れる見知らぬ明日の存在を心の中で確信しながら、お互いに嘘をつき続けるわたしたち。
 でも、そうすることで笑顔を浮かべることのできる自分が、少しだけ嬉しかった。
 同時に……悲しかった。
「祐一さん、なにが食べたいですか?」
 訊ねながら、その場から立ち上がるわたし。
「ん?」
「買ってきますよ、佐祐理が」
 わたしの言葉に少しの間、考えるようなそぶりを見せた祐一さんは、
「肉まんがほしい」
「分かりました。でも、あんまんはいらないんですか?」
「いらない」
 きっぱりと言い切る祐一さん。
 不思議なくらいはっきりしたその口調に、つい小首を傾げてしまう。
「はぇ……どうしてですか?」
「俺さ、猫舌だからあんまんを食べると、いっつも舌を火傷するんだよ。それに甘いのは苦手だし」
「あははーっ。分かりました。それじゃあ祐一さんは、肉まんだけでいいですねーっ」
「おぅ、頼むわ」
「はいっ」
 大きく一度うなずいてから教室を後にする。
 ドアのところで振り返ると、壁を背に座り込んだままの祐一さんが左手を軽く上げる。
 それに応えるように右手を振りながら「行ってきます」の一言を口にしてから、廊下を裏口に向かって駆けだした。
 校舎を抜けて正門を通り過ぎ、歩道を駆けながらわたしは考える。
 こんな夜更けに現れた、服も肌もあちこち傷だらけの女の子にお店の人は、もしかしたら変な顔をするかもしれない。
 きっとそうに違いない。
 でも、そんなことはどうでもいいことだった。
 お店に着いたら、置いてある肉まんとあんまんの全部を買っていこう。
 肌がふやけてしまうくらいに湯気を立ち上らせているおまんじゅうを、袋いっぱいに詰め込んでもらって。
 そしてふたりで食べるのだ。
 祐一さんは肉まんを。
 わたしはあんまんを。
 ふたり一緒に、一生懸命に頬張るのだ。
 祐一さんには、わたしのあんまんを分けてあげよう。
 きっと「火傷するから」って嫌がるだろうれど、わたしがふーふーして食べさせてあげるから平気。
 そうして待とう。
 祐一さんが言ったように、三人で笑うために。
 ひとりで泣くのでも、ふたりで耐えるのでもなく、三人一緒に心からの笑顔を浮かべることができる日を迎えるために。
 お店から学校までずっと走りっぱなしだったせいで、学校に帰り着いた頃にはすっかり息が上がってしまっていた。
 校舎に入ったところで一旦足を止め、呼吸を整える。
 両腕で抱えたコンビニの袋が、中にあるものの温もりを伝えてくる。
 その温もりを少しでも早く届けてあげようと廊下を足早に通り抜け、教室のドアを開けた。
「祐一さん、おまんじゅう買ってきましたーっ」
 笑顔でそう言い放つわたし。
 でも……返事は戻ってこなかった。
 どこからも。
 誰からも。
「ふぇ……?」
 中を見渡す。
 ここでわたしの帰りを待ってくれているはずの、大切で大好きな人の姿を求めて。
 閑散とした空間。
 人気のない空間。
 瞳に映し出されたのは、でもそれだけだった。
 祐一さんの姿は、どこにもなかった。
「……かくれんぼですか、祐一さん?」
 小声で訊ねるわたし。
 でも、やっぱり返事はない。
「怪我をしてるんですから……無理をしちゃ、ダメです」
 なおも言葉を紡ぐわたし。
 どこからか祐一さんが姿を現して、笑顔と共に「ごめん、佐祐理さん。ちょっと驚かそうと思ってさ」そんな言葉を口にしてくれるのを期待して。
 五秒、十秒……永遠とも思える沈黙が続く。
 限界だった。
「祐一さんっ!」
 叫びながら、教室に駆け込むわたし。
 買い物に出かける前、祐一さんが座り込んでいた場所に近づき、両膝をつく。
 床に点々と穿たれた小さな染みは、流れ出た血の跡に違いなかった。
 そして気がつく。
 姿を消したのが、祐一さんだけじゃないことに。
 戟が――祐一さんの横に立てかけてあったはずのそれも、姿を消してしまっていた。
 手の力が抜け、持っていた袋が床に落ちる。
 開いた袋の口からこぼれ出た肉まんとあんまんが、湯気を立てながらころころと視界の中で床の上を転がってゆく。
 でもわたしの意識は、それを見ていなかった。
 まさか……心の片隅でひとつの可能性が浮かび上がり、その瞬間わたしは眼前に突きつけられた事実に愕然としてしまう。
 まだ終わっていなかったのだ。
 だから祐一さんはいなくなってしまったのだ。
「もう一体、残っていたんですね……」
 自分に言い聞かせるように、かすれる声音でそれだけを口にするわたし。
 立ち上がる。
 そしてその場で身を翻したわたしは、
「祐一さんっ!」
 彼の名を叫びながら、失われた姿を求めて再び廊下に飛び出した。

                  §

 窓から射し込む月明かりを頼りに、廊下を走り続ける。
 どこへ行ってしまったのか。
 どうしてわたしを置いていってしまったのか。
 祐一さんの姿を求めて、校舎の中をわたしはひたすら走った。
 でも祐一さんの姿は、どこにも見あたらなかった。
 校舎のあちこちに存在する光の届かない闇の淵に、その身を潜ませてしまったみたいに。
 探し始めてどれくらい経った頃だろう、走るのを止めたわたしは、今度は廊下に沿って立ち並ぶ教室の中をひとつひとつのぞき込んでゆく。
 闇の中でシルエットだけを浮かび上がらせる机や椅子、黒板や教卓といった様々な事物が昼間とはまったく異なった衣装をまといながら、言葉なく静かにたたずんでいた。
 あるべき姿の失われた世界。
 人のいるべきじゃない世界。
 その中にひとり孤独の身をさらしながら、あてもなく歩き続けるわたし。
 ひとりで……泣いて。
 ふと、祐一さんが口にした言葉が脳裏に蘇る。
 こんな時、わたしは一体どうすればいいのだろう。
 とりとめのない思いに身を任せながら、かろうじて現実に留まっている意識のかけらが、瞳に映し出される深更の教室の情景をとらえていた。
 どこにもいない祐一さん。
 どこかに行ってしまった祐一さん。
 そう……祐一さんはわたしを置いて、ひとりで行ってしまった。
 それがどうしてなのか、わたしには分かっていた。
 祐一さんはこれ以上わたしを危ない目に合わせまいと、そう思ってひとりで行ってしまったのだ。
 傷だらけの身体を引きずりながら、教室を去っていったのだ。
 その姿が目に浮かぶ。
 痛みを必死に堪えながら、手にした戟を支えににじるような速さで廊下に向かって歩いてゆく祐一さん。
 買い物に出かけたわたしが戻ってくる前に姿を消そうと、言うことを聞かない身体に鞭を振るって、姿を消したのだ。
 でもわたしは……祐一さんのそんな思いが分かっていてなお、悲しみと寂しさを伴った思いが胸の奥からわき上がってくるのを止めることができなかった。
「佐祐理は……足手まといでしたか?」
 無意識のうちに紡がれる言葉。
「佐祐理は……役立たずでしたか?」
 床を打つ足音だけが空気を震わせ、そこにいま自分が存在しているという確かな証を奏でている。
「佐祐理は……もう必要ないんですか?」
 分かっていた。
 祐一さんだったら、きっと「そんなことはない」と言ってくれることを。
 でも、だからこそわたしは悲しかった。
 自分を信じることのできない、祐一さんを信じることのできない心の弱さが。
 その時、踏み出した足の先に何かが触れる。
「これ……は……」
 薄暗がりの中、ぼんやりとした影を浮かべるそれは――祐一さんが持って出ていったはずの戟だった。
「祐一さんっ!」
 そしてわたしは、瞳の裡に見出す。
 床に転がる戟の穂先が示す先、昇降口近くの階段の前で倒れ伏す祐一さんの姿を。
 駆け寄り、身体を抱え起こす。
 口元に手を当てる。
 意識は失っていたけれど、口からは一定の間隔を置いて呼吸が繰り返されていた。
 祐一さんの無事を確認して、ほっと安堵の吐息をつくわたし。
「よかった……」
 つぶやきをもらしながら目を開いた、その瞬間だった。
 視界が、紅に染め上げられていた。
 たったいままで夜の帳に覆われていたはずの世界が、まるで黄昏時のような明るさに満たされていた。
 肌に風を感じる。
 さわさわと、何かが揺れ動く音色が耳に流れ込んでくる。
 そこは学校の廊下じゃなかった。
 一面に広がる薄野原が、わたしの前にあった。
 その光景に、既視感に似た何かを覚えてしまう。
 黄昏。
 世界を溶かさんばかりに輝く太陽。
 薄野。
 風が奏でる過ぎゆく夏の音色。
 男の子。
 ゆっくりと差し出される手。
 女の子。
 紡がれる言葉。
 そして……彼女は、そこにいた。
 最初からそこにいたみたいに、揺れ動く薄のただ中に彼女はひとりたたずんでいた。

 ――くすすっ。

 笑い声。
 それが誰の口から発せられたものかは、考えるまでもなかった。
 でも同時に、そのことが信じられなかった。
 わたしの前にたたずむその女の子の身体は、真っ赤だったから。
 肩口から胸元まで無惨に切り裂かれた傷口から、とめどなく血が流れ出していたから。
 とてもじゃないけれど、笑っていられる余裕があるとは思えないほどの傷を負っているように見えた。
 瀕死の重傷、としか思えなかった。
 出血が多すぎるのだろうか、紅に染まる視界を通してさえ彼女の顔からは血の気が失われているように思える。
 でも女の子は怪我を気にした様子もなく、わたしたちを見据えていた。

 ――ゆういち……ゆういち……

 紡がれる言葉。
 彼女は、祐一さんの名を口にしていた。
 どうして?
 内心で疑問がわき起こり、そして答えを求める。

 ――ゆういちっ!

 なおも続く声。
 その時になって初めてわたしは、女の子の声が先刻「魔」に触れるたびに聞こえてきた声と同じものだってことに気がついた。
 だとしたら……
 そこまで思いを巡らせた瞬間、わたしの心を読んだみたいに少女の口調が変わる。

 ――来ちゃったんだね、さゆりも。

「え?」
 どうして彼女は、わたしの名前を知ってるのだろう。

 ――知ってるよ、さゆりのこと。

 そう言ったきり、口を閉ざしてしまう女の子。
「佐祐理のこと、知っているんですね」
 ようやくそれだけを口にする。
 その言葉を予想していたのか、表情に初めて感情の存在を思わせるかけらを浮かべてみせた女の子は、

 ――だって、ずっと一緒だったから。

「ずっと……」
 小さくうなずく彼女を前に、繰り返すようにつぶやくわたし。
 ずっと一緒だった誰か。
 それは誰なのだろう。
 脳裏に思い浮かぶ、幾つかの人影。
 でもその中に、いま目の前にたたずむ女の子はいなかった。
 視線を落とす。
 そこには浅い呼吸を繰り返しながら眠り続ける、祐一さんの寝顔があった。
 少しの間それを見つめ、顔を上げる。
「あなたは……誰なんですか?」
 理屈じゃない部分で、わたしは理解していた。
 そうするしかないことを。
 彼女が誰なのかを知らないまま、これ以上先には進めないことを。
 女の子は下ろしていた両手を後ろで組むように腰に回すと、悪戯っぽい表情を浮かべて小首を傾げながら、

 ――知りたい?
 ――じゃあ教えてあげる。あたしは……

 でもその言葉を、わたしは最後まで聞き続けることができなかった。
 彼女の口から放たれた最後の一言が耳を打つ直前、何の前触れもなく突然に襲ってきた強い睡魔。
 それに誘われるように、わたしの意識は闇の奥底へと落ち込んでいった。
第12章に続く

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